2024/11/22(金)日記
4回目沖縄旅行 第5日目 2024/11/22(金)
朝は7時半をかなり過ぎて目が覚めた。もう帰りの日になってしまった。空は相変わらずの曇り空、時々濡れるほどでもないが、小雨が降りすぐ止む。今回の旅行はズッとこんな天気だった。11/18,19,20,21,22の4泊5日の沖縄旅行だが、18と22は行きと帰りでほぼ時間が無くなってしまう。実質は3日だが、昨日は1日、一人でのドライブだった。友と楽しく過ごせた時間は、19,20日の丸2日だけだった。それは私の生涯の中でも貴重な2日間になるはずだ。
今回の旅行の目的はそもそも観光ではなく、私と歯科医のKNさんの共通の友人である「八重岳ゲストハウス」を管理しているNSさんが、最愛の奥様を今年9月に亡くされたので、何とか力づけ、励ましてやろうと計画されたものだった。その意味では今回の旅行の目的は十分に達成されたと言って良い。
今日は10時にこのホテルを出発すれば、那覇空港発12時25分の飛行機に十分間に合う。朝の時間は余裕があった。簡単に聖書を読み、朝の祈りをした。この旅の昨日まで守られた感謝と、今日の守りを願ってから、身支度をした。
午前9時少し前に、22日の朝食券をもって、1階のレストランに行き、朝から昨日食べた「魚のフライ定食」は重いので、「沖縄そば定食」を注文した。「きしもと食堂」の沖縄そばの味とは、比べるべくもないが、それなりに美味しかった。予定通り10時少し前にはホテルを出て、10分ほど歩き、ゆいモノレールの「県庁前」の駅に着いた。2年前の帰りGRGホテルから「県庁前」の駅まで歩き、モノレールで帰った経験があるので、何となく覚えていた。通った道はちょっと違うが、歩きながら2年前も何か雨模様で歩道が濡れていたことを思い出した。同じ時期に沖縄に来たので、まったく同じような天気だった。今回は雨は止んでいたが、歩道にはところどころ水たまりが出来ていた。デジャヴュを見ているような気がした。モノレールは大勢の旅行客で混んでいた。中国系の若い旅行客が多かった。那覇空港に着きお土産を買い、Peachの乗り場から、飛行機に乗った。Peachの利用は今回初めてだが、意外に親切で迷うこともなく、スーツケースを預け(自動ではなかった)、搭乗手続きを済ませることが出来た。ただ飛行機はJALが使用しているものよりも、型が古く、各座席の背もたれの後ろにあるモニターなどもついていなかった。一番の欠点は、値段は安いものの、成田にしか着くことが出来ないこと。JAL、ANA共に那覇から羽田行きの11月22日の便は、たぶん23日(土)が勤労感謝の日で休日のせいか?とても高かったので、止むを得ず成田着のPeachにした。成田に14時55分頃に到着した。
初めての成田空港なので少し戸惑いながらも、人に聞きながら京成スカイライナーに乗ることが出来た。ただここでも、乗車券とは別にスカイライナー券が必要なのを館内放送で知り、慌ててホーム内の自動販売機で購入した。成田空港駅15時59分発、京成上野到着が16時43分だった。そこからJR上野駅まで歩き、山手線に乗車、東京駅まで出て中央線に乗り換え、無事八王子まで帰って来た。上野駅ではエレベーターの場所が遠かったのでスーツケースを持って、階段を上ることになった。しかし、その他の駅の乗り換えでは、すぐエレベーターが見つかり、楽に帰って来ることが出来た。
八王子駅に着いて、M台行きのバスに乗りTバス停で下りて、徒歩5分ほどで家に着いた。ちょうど19時だった。お婆ちゃんはその頃はまだ元気で、私の帰りをそろそろ着くころだと思って待っていた。荷物は玄関のところに置いたまま、帰りの挨拶もそこそこに、あまりに空腹だったので、2階に上がり、君子が用意してくれていた、中辛のカレーを食べた。
途中でKNさんから17時ごろ電話が入っていたことに気が付き、食事しながら無事到着を報告した。その後すぐ風呂に入り、一息ついた。その後、下の階でお婆ちゃんと君子に那覇空港で買ったお土産を渡し、21時頃まで旅行の話を順序を追いながら、できるだけ詳しく話した。その後、長旅で疲れていたので、2階の自分の部屋に戻り、早目に就寝した。
これで今回の沖縄旅行記は終わりとなる。
ここからは今回の旅行で思ったり、常日頃考えている私の福音理解について書いておこう。興味ある人はこの先も読み進めて下さい。
まず福音の真髄とは何か?私はイザヤ45:22にある言葉だと思っている。『地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ。』(イザヤ45:22口語訳)
その前に聖書は神の言葉であると言う大前提を受け入れてもらいたい。総て信仰は何を信じても良いと言うことにはならない。信じるべき信仰の土台となるもの、権威と判断の基準は、神があらゆることを指示、教えている聖書にある。この前提を受け入れてもらわないとこれから書くことは、すべてチンプンカンプン、奇妙奇天烈な迷信じみた、またお伽噺のようなことになってしまう。
神が定めた人類救済の方法、救いの理由、人間の行動規範、神の超越した存在、イエスが神であるのに人間となったこと、等々聖書によらなければ本当のことは分からない。聖書を神の言葉と信じて読むのと、ただの昔話の物語、道徳の参考として読むとのでは大きな違いになる。
私達の人間の側には、救っていただく何の根拠もないと言うのが聖書の立場です。『地の果なるもろもろの人よ(日本人も含む)、わたし(イエス)を仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ。』(イザヤ45:22口語訳)
私達人間の側には、善い行いもなく、汚れと、罪ばかりで、神の愛と憐みによるしか救われることは出来ない。神の恵みによって、何の行いもなく神の前に正しいとされて救われる。信ずるだけで救いは個人ゝに訪れる。
『ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。』(ローマ3:24~25)
イエスはギリシャ語ではイエスース、ヘブル語ではヨシュア、この言葉は、「YHWH(ヤーウェ‐神の名)は救い」と言う意味で、主の名を信じること、イエスの名を信じること、イエスの十字架を自分の罪の身代わりの死だと認めて、『わたし(イエス)を仰ぎのぞ』むなら誰でも救われると信じること。
イエス、すなわちYHWHは救いであることを信じること。このような神が他にあろうか。キリスト教の神は、非常に気前の良い、しかも自己犠牲の神なのです。私達の救いの為に命を捨てて下さる神なのです。『「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。』(ローマ10:13)と固く約束されています。主の名を真剣に呼び求めるならば、救われない人はいません。神はどんな境遇にある方も放って置かれはしません。
私達の信じている神は木や石やカエルや蛇など自然界にある物、絵や彫刻や仏像を始めとする色々な像ではありません。神は形而上の存在、しかも人格を帯びた愛の神なのです。また超越者、絶対者として、万能の神です。人間や動植物、地球そのもの、太陽系、銀河系、2兆あると言われている諸々の銀河、宇宙そのもの創造した神が聖書の神です。万物、宇宙、地球、天地、人間、動植物を創造した神がおられるのをまず知るべきです。神が最初の創造された人類の始祖アダムとエバから人類は増え広がり、今や約82億迄に増え広がったと私達は考えています。進化論が言うように、偶然の組み合わせから生命が誕生する可能性は、最近の科学ではゼロだと言われているのをご存知でしょうか。
宇宙空間に「生命」が偶然生まれる確率は、1040,000分の1
現在、人類は「宇宙」や「生命」に対して、気の遠くなる様なチャレンジを続けています。全体像のハッキリしないジグソーパズル片を見えないピースを想像して全体像を明確にしようとしています。確率"1040,000分の1" 生命が宇宙空間に生まれる確率は、ビック・バンの名付け親であり、世界的に超著名な天文学者だった故フレッド・ホイル博士による推定です。この確率はアミノ酸配列の複雑な計算にその根拠がある様ですが、漫画的に言えば、「ある日廃材置き場の上を竜巻が通過した後で、ボーイング747ジェット機が偶然出来上がっているのと同じような確率である。」というレベルの話と言われています。限りなく「ゼロ」?と言う事になります。
https://axionr.com/report/report_20241113_1.html より(リンク有)
ここからは、宗教的な頭の切り替えをして読んでいただかなければならない。
人類はそのアダムの腰から出た細胞によって、エバが妊娠し、2人から増えたと考える。そうだとすると、82億の人類は、2人の遺伝子を受け継ぎ、細胞分裂の賜物だ。生物学的にもしそのように考えることが正しいとして、もう一方の宗教的な的な意味、神に背く行為、禁断の木の実を食べることで罪を犯したのも、アダムとエバが最初だった(実はエバ女性の方が先だった、後からエバに誘惑されて男アダムは神に背いた)。
聖書によれば私達は、どんな善良な、高徳な方でも、人間である以上、全員アダムの子孫であり、遺伝的に罪の性質があり、アダムにあって、皆罪人です。もっと奇妙な言い方をすれば、アダムが罪を犯したとき、私達もアダムと一緒に、アダムにあって、罪人とされた(ローマ5:12、ヘブル7:9~10参照)。
しかし、これでは救いようがない、皆第一のアダムのせいで、悲惨な罪深い人生を送り、最後は死ななければならない。『罪の支払う報酬は死である。』(ローマ6:23口語訳)このままでは救いがない。
さて、ここから救いの話に移る。天地創造の前、最初から神はこの人類を救うために第二のアダムであるキリストをこの世に送る計画であった。『天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリスト(第二のアダム)においてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。』(エペソ1:4~7)
イエス・キリストは、処女マリヤから、聖霊によって受胎し、生まれ(受肉)一つも罪を犯したこともない、無垢な人生をお送りになり、人類の代表として無罪性を獲得した。信仰によってこのキリストの無罪性を自分の上に衣服を着るようにスッポリと着せていただけるならば、私達は救われる。これは信仰の不思議であり、(仏教的に言えば、弥陀の本願に通じるところ)神の慈愛の約束を信じる以外にない。キリリストが地上でお過ごしになった時の、完璧な義の生涯を、神は私達の義と見なして下さる。これを神学用語で「義認」と言う。この考え方は聖書で最も重要な認識です。
このような基本的、普遍的救いの認識の上に立って、次の段階に話を進める。ここが大事なところだ。
キリストとはどう言う意味か、イエスは、キリストでもあるのだ。「YHWHは救い」がイエスの意味であった。ではキリストとはどういう意味か。ギリシャ語ではキリスト―スと発音する。ヘブル語ではメシアだ。源語をたどると、マーシアッハと言うヘブル語からきている言葉だ。この意味は油を注ぐと言う意味。油とは何か?一般的には聖書で油と言えばオリブ油を指す。そして油は聖霊を表している。『しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油(聖霊)がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。』(ヨハネ第一2:27)
すなわち油を注ぐと言うのは、聖霊を意味し、キリストはヨルダン川でバプテスマを受けた時、父なる神より豊かに聖霊が注がれた。
『イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊(聖霊)が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。』(マタイ3:16~17)
つまりキリストは、罪を赦すばかりでなく、聖霊を注がれた方なのです。その意味でメシア(救い主)です。
さらにキリストは人類の長子となられたと言う考え方がある。
『神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。』(ローマ8:29~30)
私達人間の長子となったと言う概念は、救いの中で大変大きな部分を占める。キリストはもともと神であったのに、人間となった。
『キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。』(ピリピ2:6~8)
そして人類と同族の者になった。私達の血族であり、人類の代表として長子なのだ。そうなら私達は、末弟にあたる。末の末、相当かけ離れた弟分であるが、弟は弟だ。キリストとは人類と言う肉と血のつながりで、繋がっている。であるならば末弟として要求する資格があると言うことになる。このような末弟に過ぎない私達にも聖霊を注いでくださる。それはキリスト(マーシアッハ)は、その言葉の意味通り、父なる神によって、油(聖霊)注がれた方だからだ。
その認識に立つと、信仰の次元がガラッと変わって来る。
現在のこの世での生の営みは、キリストの十字架の血の犠牲によって赦されるばかりではなく、長子となられたキリストを受け入れることによって、私達も末弟として、キリストが父なる神より戴いた恩恵を幾分か、いただくことが可能になったと考える。
私達にも聖霊と聖霊の賜物が送られることになった。それは私達が良い意味で信仰に精進し、この世においても、キリストに似る者となるため。この世においても、自分達がキリストに似るような存在になれるとは、大胆な考えだが聖書はそのように言っている。『御子の姿に似たものにしようと』(ローマ8:29) もちろんそれは内住のキリストの力によるのであって、私達の力によってそのようにはなれないことは明らかだ。『キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。』(コロサイ3:11)
『生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。』(ガラテヤ2:20)
さてここでもう一段、複雑な聖書の話に移る。
聖書、特に新約聖書の中の、パウロ書簡の中に書かれている、律法と福音の関係についてどうしても触れないわけにはいかない。神の律法抜きにはキリスト教は理解できない。律法とは何か、それは神の言葉であり、律法も福音も神から出た言葉をもとにしていて、律法と福音は究極的に言えば一つであると言うのがSDA教会の立場です。
旧約聖書の中の律法とは、モーセの十戒だけでなく、たくさんの律法があります。700から800もあると言われている。その中には廃されている規定も多い。
ユダヤ3大祭り(過ぎ越し、五旬節、仮庵)それに伴う特別安息日、ユダヤ民族のアイデンティティーを守るための割礼の儀式、幕屋、神殿、羊等の生贄を捧げた犠牲制度の儀式を定めた礼典、籟病が出た時の対処方法、ナジル人の誓の不思議な習慣、結婚制度、健康の為の食物規定、等々それらはすべて律法と呼ばれる。モーセの5書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)は律法の書トーラーと呼ばれ、聖書の中でも重要視されてきた。特に有名なのは出エジプト記20章に出てく十戒。これはチャールトン・ヘストンによる映画「十戒」で有名ですので、ご存知の方もおられるでしょう。
さて問題はパウロがこれら種々の礼典律(行いによる救いの象徴として特に割礼)を守り、また十戒(道徳律)を守ることによっては誰も救われないと、強調していることです。『けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。』(ガラテヤ2:16)
各種律法の中には現在は廃されている、羊を殺す生贄制度、民族の印としての割礼、食物規定、ユダヤ三大祭り、それに伴う特別安息日等々がある。それらの律法を守ることによっては誰一人救われないと言うのがパウロの主張であり、ただ心からキリストを信じるならば救われる。
キリストから離れて自分の行いによって救われようとするようなことは聖書が言う救いではない。自分の肉的な努力精進によっては誰一人神の前に義とされない。
何の行いもなく神の前に信仰だけで救われる。
『しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである。」』(ローマ4:5~8)
しかし、罪を悔い改め、罪深い生き方を葬り、清められ、再生のバプテスマを受け、一度生まれ変わりキリストを受け入れた者は、キリストと共に生きるようになることも事実です。
聖霊によってキリストが心の中に住むようになり、表面的な律法遵守ではなく、キリストの愛の律法を実現して行くことになって行くのです。
『互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。』(ガラテヤ6:2)
『「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者(聖書全体)は、この二つの掟に基づいている。」』(マタイ22:36~40)
聖書の律法は、どんなにたくさんあっても二つに要約されるとイエスは言った。神を心から愛すること、人を自分のように愛すること。一見簡単なようですが、これが良く考えて行くと中々難しい掟なのです。神への愛は神の為、信仰の為、命を捨てることも含みます。『自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたし(イエス)のために命を失う者は、それを救うのである。』(ルカ:9:24)
人への愛は敵を愛することも含まれます。『敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。』(マタイ5:44)さらには、友のために自分の命を捨てるほどに愛さねばなりません。『イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。』(ヨハネ第一3:16)
自分の力でこのような愛の精神を実行するなど、不可能な事に気が付きませんか?実は、第三位格の神である聖霊が私達の心の中に住んで、キリストによって変えられながら、キリストの愛の律法を行わせてくださるのです。自力本願はダメ、キリスト教は全くの他力本願。キリストに頼り切って、キリストの力によって生きて行くのです。このキリストの愛の律法の実現こそ人生の意義であると私は考えます。『互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。』(ガラテヤ6:2)
さて、律法の精神は愛であり、神と人を心から愛すればそれで良いと考えがちです。確かにそのとおりであり、キリストの言葉はそのように命じています。しかし、自分の力で、神と人のために命を捨てて愛すような、キリストの愛を実行出来るとは考えないでください。そのような崇高な精神を持つことは、立派で大事な事ではありましょう。しかし、そのように生きる力は私達の本来の変わらない生まれつきの自分の内にはありません。ただ他力本願(仏教的に言えば)父なる神と御子キリストと聖霊の神(三位一体)に全的に頼って行く以外にないのです。
ところで、愛せば良いのですが、愛の内容、愛し方、愛の方向性について、キッチリ聖書の言葉に基づいて理解していないと大変なことになります。愛し方も教えてもらわないと、自分がこれが良い愛し方だと思っても逆に、マイナスになることもあります。例えば良い例が、酒好きな方が、良かれと思って、酒を飲まない人、あるいは健康上の理由で禁酒している人に、お酒を勧めたらどうでしょう。それは愛の行いではありません。もちろん、相手も無類の酒好きなら、それは良いことになるのでしょうけれども。ちなみに、私は酒は飲みませんので、郵便局長をしていた現役時代、キッパリとお断りするのに、随分いらぬ苦労をしてきました。
愛の方向性を定めた戒め、神と人を愛する愛し方を教えているのが十戒だと私は考えている。
1から4条は神に対する愛し方、5から10条は人同士の愛し方。①天地創造の神のみ拝む、②偶像を拝まない、③YHWH神の名を大事にする、④1週間の内の第7日目(土曜日)を聖なる日として休み、神を礼拝する。
⑤父母を敬う、⑥殺さない、⑦姦淫しない、⑧盗まない、⑨嘘つかない、⑩貪欲にならない(要旨)。
聖書の神を愛しているのに、木や石や金属で作った神を拝むことは出来ません。神社、仏閣に出向いて拝んだり、願ったりすることも出来ません。天皇を現人神として拝み、礼拝することも出来ません。真のキリスト者は、これらのことに関して大昔から、2000年前のローマ時代から、ローマの偶像を拝むことはせず、多くの人達が殉教して来ました。現代は宗教自由の時代になり、お互いの信仰に寛容な時代になりました。しかし、日本でも80年前まではそうではなく、非国民として迫害されてきたのです。SDAの牧師はこのことのゆえに、全員逮捕され獄中生活を強いられたのです。数名の殉教者も出ました。信仰はヤッパリ命懸けなのです。
兄弟を憎みながら(憎むは殺すと同じだと聖書は言っている)愛すことが出来ますか。配偶者を愛していると言いながら、他の方と不義、密通が出来ますか。兄弟を愛していると言いながら、兄弟の物を盗めますか。
このように道徳律、十戒は廃されることはなく、私達クリスチャンにとって、生き方のスタンダードを今でも示している。あれほど、律法を守る善い行いによっては、神の前に救われない(救いはイエスの贖いによるしかありません、それは真実)と言ってきたパウロですら、最晩年に書いたテモテへ宛てた手紙の中に、律法は使い方さえ間違わなければ良いものであり、罪の赦しを与える福音と矛盾するものではないと言っています。
『しかし、わたしたちは、律法は正しく用いるならば良いものであることを知っています。すなわち、次のことを知って用いれば良いものです。律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、偽りを言う者、偽証する者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えられているのです。今述べたことは、祝福に満ちた神の栄光の福音に一致しており、わたしはその福音をゆだねられています。』(テモテ第一1:8~11)
そして私達クリスチャンの行動基準を定めたスタンダード的な生き方が前述の①~⑩の律法(道徳律)であり、これは今でも廃されていないとSDAは考えているのです。もちろん何度も指摘してきたが、自分の力でこれらの律法を守ろうとするとき、大変な誤謬に陥る危険性があるので十分注意すべきです。
ここからは少々長くなりますが、罪の自覚を起こさせ、キリストの贖いの必要性を感じるようになる律法の養育掛かり用法の解説と、律法に対峙して、根本的な自己認識を深く掘り下げて理解して行こう。
パウロの言葉、『律法に対しては律法によって死んだ』(ガラテヤ2:19)とはどういう意味か?肉の力や努力では神の律法を守り、要求通り心底から、神と人の為に、生きて行くことはできない。律法は霊的なものであり(ローマ7:14参照)、私達は遺伝的にも、自分自身の自由意思による選択的行動においても、罪の汚れに染まっており、律法の要求する、心の動機に至るまでの霊的な完璧さなど最初から持ち合わせていない。肉によって律法を実行するなど最初から無理なのに、自分が持っている良心や、理性に適う神の掟は、肉の判断力にあっても魅力的であり、自分の力で守れると幸せがいただけるとつい、勘違いして、肉の力でやって見ようと努力してしまう。ところが心の中は罪に売られたままなので、沸々と、変えられていない情念が湧き上がり、嘘をつき、人を羨み、嫉妬し、憎しみ(殺すことと同じと聖書は言う)、不自然な情欲に身を任せ、却って、神の律法‐本来善いものなのに‐が私達の罪を醜悪なものにしてしまうのです。
肉の生まれ変わっていない性格の中で、律法を実行することなど最初から不可能なことだったのです。神の律法の原則とは何か。それは、神と人の為に自分の命を捨て、自分の命を削って生きなさい、と言うことです。自分の命を捨てると言うことは、時間も空間も自分の所有物も神と人の為に捨てる、削って行くことに他なりません。この世の楽しみも、自分の時間も生活空間も趣味も娯楽も捨てられますか。それは中々困難な事です。律法に対しては律法に死んで行くしかありません。それは自己をキリストと共に十字架に付けることです。いや、正確に言えば、キリストに結びつけられて、既に古い自己は十字架にイエスと共に磔られて、死んだことにされているのを認識することです。そして、既にキリストに結ばれて、霊的に復活の経験の中に入れられていることを同時に認識することです。
繰り返しになりますが、キリストの体に結ばれて既に霊的に復活している自分を認識し、上からの聖霊の降下と心の内側から自分の霊が解放され、内的、外的な奴隷の軛からも解放され、律法を自分の力のみで守ろうとする、表面的な生まれつきの肉的努力からも解放され、真に自由になって、霊によって神に仕えて行くことを自覚することです。そのように生きる時、神の御旨が日常の生活においても示されて行くでしょう。そしてそのような生き方は御言葉である聖書と一致して行くのです。御言葉の内容と矛盾するような生き方は、真の霊の降下ではないでしょう。
もしそのような経験の中で、自分が変えられていないし、自身の肉の趣向が優先され、肉のこの世の生き方に引き寄せられているとしたら、与えられている自由意志の、選択する意志そのものが既に肉的な好みによって左右されているのです。このような薄い膜(ある時には厚い)のような肉の傾向は田中清二を田中清二たらしめている、個性の一部かも知れません。そこを変えるためには、やはり深い修養と霊的覚醒が必要です。リバイバルを起こさせるのはすべて、聖霊の権威によりますが、自分でも、自分の眼が啓けて、自分が如何に肉の傾向の下に置かれているかを、自覚せねばなりません。そして霊の方向に自分がしっかり、意思し選択して、行動に移していかねばなりません。時には身体を打ち叩いて従わせるような、肉に属する故の激しい戦いがあることもあるのです。『むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。』 (コリント第一9:27) 『体の鍛練も多少は役に立ちますが、』 (テモテ第一4:8)
祈りつつ、委ねつつ、神の御心は何かを考えつつ行動して行かねばならないのです。そうでないといつも同じことの繰り返しになり、真の新生が自分に訪れてこないのです。信仰生活の中で、自分の生活を振り返り、加除訂正が必要なのです。 イエスの憐みにより、自分を見つめ直し、変えていただかねばなりません。『心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全な(成熟した)ことであるかをわきまえるようになりなさい。わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。』(ローマ12:2~3)
肉の傾向、その好みや、娯楽の中に憩い、溺れている自分を正直に認めよう。あらゆる種類のこの世の楽しみに誘惑され、一度しかない人生の大切な時間を大量に、虚しく消費しているのです。今現在の自分の生ぬるい信仰の状態では、この世と霊の世界に二股を掛けていると父なる神から見なされてしまうでしょう。神や人の為に奉仕と愛の生活をすべき有用な時間を無駄に過ごし、人生を虚しく終了してしまうことになりかねません。そのような最終的結末を見せるために、神は私達を造ったのではありません。
決して行いや献身によって神の前に義とされるわけではありませんが、人生は有用であり、祝福であるべきです。神と人への有益な奉仕と愛の為に、イエス・キリストの御霊に満たされて生きるべきです。人生の残された時間は意外に短いかも知れないのです。そのことについては、もう少し長く地上において生かしてくださいと常にイエスの御名によって祈るしかありません。もちろん、ただ祈るばかりではなく、健康の法則を実行しなければならないことは言うまでもありませんが。
健康に良いと言われることは取り入れて行きましょう。 健康で長生きする為、日々学びながら実行して行きましょう。健康的な飲食物の摂取、適度な運動、質の良い睡眠、清浄な水、適度な日光浴、新鮮な空気、リクレーション、霊的な生活、神を信頼する信仰、心の健康(平安な気持ち)等、すべて実行することは大事ではあります。毒を飲んだり食べたりしていて、いくら健康長寿でいたいと願っても、それは無理なことでしょう。タバコを吸いながら、肺癌になっても止めず、肝臓を傷めながら、大酒を飲み続け、医者に癒せと言っているようなものです。
それがどんな形での奉仕であろうと、それぞれ神により与えられた、人間の持っている才能、能力、賜物、個性は違うのですから、自分の賜物の分に応じて奉仕することが、最も生甲斐であり、自分にとっても幸せな事なのです。
善い行いをすると言っても、誰も自己を誇ったり、肉の規則や、一見知恵あるもののように見える肉の精神修養等をやり遂げたと言って満足する必要はありません。私達が為すことは、私達の自己の力ではなく、キリストが心の中に住んで力を与え、キリストがして下さるのですから、そこには自己の誇りは一切ありません。ただ誉と、栄光を主に帰するのみです。『わたしを強くして下さるかた(キリスト)によって、何事でもすることができる。』(ピリピ4:13口語訳) この言葉を心の中で繰り返して見ましょう。天から超自然的な力を得、私達は強められます。だから総ての善い行いは、それが実行できたとしても、イエスの御名によって感謝と栄光を神に帰するのみです。『神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。』(エペソ2:10)自分が出来たと思った良い業すら、神が前もって用意してくださっていたのです。
そもそも律法とは何か?それは神の言葉であり、私達の行いを規制するものであり、義の標準であり、永遠の聖なる神の御性質でもあります。律法は善いものであり、霊的なものであり、聖なる永遠のものです。しかし、律法によらねば本来の罪の性質を知ることは出来ません。律法は神の為と人の為、自分の邪な生まれつきの肉の性質を切り刻み、キリストと共に十字架に付けて行くことを求めて来ます(養育掛かり用法)。律法がなければ罪の自覚もないので、罪は表面化せず死んでいます。ところが、律法が来ると、罪は目覚め始め、より醜悪なものになって来ます。肉の肉なる性質がハッキリして来るのです。例えば、⑩の『「むさぼるな」』と言われる前は貪りなるものがあったとしても、そんなに表面化はしていません。しかし、神の言葉に接し、貪りを止めようと思えば思う程、貪りたくなるのが、罪の罪たる所以です。『「むさぼるな」』、『「むさぼるな」』と言われれば言われるほど、貪りたくなるのです。利己的になり、どうにもしようがなくなります。『たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。』(ローマ7:7~8)
『罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。』(同7:11)。
それでは律法は罪なのでしょうか。実はそうではなくて『律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。』(同7:12) 《パウロが律法(十戒、道徳律)が廃されていないと考えていることが確かなのは、こう言う言い方からも推測されます。》
鏡を見れば汚れた姿が分かるように、律法は私達の真の姿を映してくれる鏡なのです。肉が肉の性質を現すために、律法はその役割を果たすのです。律法は罪を指摘しますが、私達に助けは与えてくれません。力がないのです。むしろ『罪の力は律法で』(コリント第一15:56)あり、罪は律法によってその正体が暴かれ、増々、質の悪い腐臭を放ってきます。
『実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。』(ローマ7:13)
神の律法は善いものであるから、自分の力によって安易に実行できると勘違いしてしまうのです。キリスト抜きでなされる律法遵守の努力は、必ず破綻して行きます。あるいは律法主義に陥り、他人を裁き始めます。人間が肉の下に売られ、遺伝的な弱さの中で、根本的に罪の誘惑の中に抵抗できない弱さを抱えているからです。
キリストによる救いが現れるために、神はすべての人を罪の中に閉じ込められたのです。それはすべての人をキリストによって恵の下に導き出し救うためでした。『神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。』(ローマ11:32)
キリストにあって赦され、キリストにあって造り変えられ、キリストその方が、その人の中から、解放された霊として出てこられるのです。キリストと共に生きるとは、常にキリストの霊が私達の中に入り、住み、外に溢れ出て行くことなのです。繰り返しになりますが、キリストにあって、私達は既に霊的意味で、共に復活させていただいているのです。
キリストと一体になる経験、それは十字架と復活を実存的に体験して行くことです。この世は十字架に磔られ、私もこの世に対して十字架上でキリストと共に既に死んでしまったのです。肉の生まれ変わっていない古い私が、その欲情や欲望もろともに、キリストと共に既に十字架で死んでしまったことを認め、そのように信じ、自らに言い聞かせ、そのことが事実となって行くのです。キリストと共に死ねば、キリストと共に既に復活の命に生きていることを信じます。古い命がキリストと共に十字架につけられたと同時に、新しい命は、霊が解放され、キリストと共に霊的に復活させられ、既に始まっているのです。
さて、以上のような律法の持つ様々な用法、誤った理解による危険性を承知した上で、神に対する義務、規範として残っている④の第7日目安息日規定はまだ有効であると私は思っている。もちろんそれは、ただ仕事をするなと言うような意味合いではない。霊的にイエスの救いと、救いの与える真の平安、安息、安らぎ、賛美、創造の記念としての礼拝、感謝、御言葉に対する従順等、様々な意味が第7日目安息日遵守にはあると考えています。
『こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。』(ヘブル4:9口語訳) 神の安息、すなわち救いの安息、魂の安息に入った者は神が御業を休まれたように、自分も業を休んだ、すなわち仕事を休んだ(へブル4:10口語訳参照)。この安息に入るよう努力しようではないか。この安息日の御言葉に従順でないと、不従順の悪例に倣う事になり、救いから漏れることになるかも知れない(へブル4:11口語訳参照)。
安息日遵守は、霊の問題です。イエス・キリストの十字架の血によって、魂の救い、魂の安息を得た者だけが、真の7日目安息日を、魂の安息として過ごすことが出来ます。この世の肉の仕事も休まなければならないでしょう(医療提供、水、ガス、電気の供給等、生命に直結するような仕事は除く)が、ただ仕事をしなければ良いと言うようなそんなレベルの話ではないのです。
その日は、罪から救われた真の安らぎの日、魂の救いの記念日であり、同時にまた天地創造の記念日であります。さらにイエスの贖いにおける再創造(新生と聖化)の記念日とも言えます。天使たちと共に創造と贖いと再創造の三重の意味で神を賛美し礼拝する日です。この日こそ、最も身近にキリストを感じ、意識し、霊に満たされ、魂の救い(安息)を感じる、本当の心の安らぎの日でなくてはなりません。結論としては、最終的には第7日目安息日遵守は、御言葉への単純な従順へ導くという事ではないかと私は考えます。
「イエスの贖罪行為によって、総ての人々は救われ、魂の安息に入れられているのだから、毎日が霊的に安息状態にあり、特に第7日目だけを安息日として区別する必要はなくなった。」とある学者達は主張します。確かに贖罪的観点から見れば、毎日が安息日であり、キリストの救いと、霊の平安の中に毎日、献身と聖なる生活の中で過ごす。こんな立派な聖人のような生き方は素晴らしいことです。
でも、そのような考え方は人間性を過大評価していませんか?この世の、肉の様々な誘惑の多い中で、区切りなくして、信仰生活を健全に保てるのでしょうか。キリストとの深い霊的な交わりが、いつか疎かになり、この世に流されてしまう危険性があります。聖書の御言葉は、第7日目を天地の創造の記念日として、俗とは区別して、さらに魂の救いの真の安息として礼拝するように勧めているのですから、祈りの内に御言葉に従順でありたいものです。
『ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。』(ローマ14:5~8)
心の底から、イエスの十字架を自分の罪の身代わりの死として受け入れるなら、信仰によって義とされています。救われ、罪なき者として、神の前に立っています。後は、善行を聖霊によって行い、兄弟愛を実行すればそれで良いのです。
何か食べたから救われる、食べないから救われないと言うことではないのです。食物の選択はある場合には健康には大きな影響を及ぼしますが、こと、魂の救いに関しては一切関係ありません。何を食べようと、食べ物によって救われたり、救われなかったりすることはありません。
また特定の日を重んじる人は主のために重んじます(ローマ14:6参照)。自分の確信に基づき信仰して行きなさい。このパウロがここで言っている特定の日については、第七日目安息日のことではなく、ユダヤの各種の祭りに伴う、礼典的特別安息日のことであると、私は考えます。何故ならローマ14章はユダヤの礼典規定の中の食物規定について主に触れているのであって、尊ぶべき日についても、礼典規定の中の「特定の日」だと解釈します。
さて、律法の養育掛かり用法の下にいることは、もう止めにしませんか(これは自分に対して言っています)。
『しかし、信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。』(ガラテヤ3:23~25口語訳)
私は養育掛かり用法の下に留まり続け、多くの時間を浪費してしまいました。もう律法の養育掛かり用法の下にいることは、ここらで止めにします。パウロの勧告をやっと受け入れることにしたのです。
私は若い頃から①~⑩までの規定に肉的に縛られ、霊が解放されず、クヨクヨと自己分析ばかりやって来ました。罪を悔い改めることは大事な事ですが、どんなに反省をし、自分のしてきたことを悔いても、自分は変わらなかったのです。自分を見ても自分は変わらないのです。ただイエスを仰ぎ見ること、『わたしを仰ぎのぞめ、』(イザヤ45:22口語訳)それだけが人を変えることが出来ます。イエスの愛に触れ、感動しなくては、人は変わらないのです。
私達を縛り付けているのは道徳律、十戒です。これは廃されることはありません、パウロの言葉を綿密に研究すればハッキリしています。ただ、キリストから離れて、自分の肉の努力でそれを守れると浅はかに勘違いし、生まれつきの肉の力で守る努力をして行きますと、とんでもない重い奴隷の軛となって私達を閉じ込めます。
また善良な、良心的な方は、罪の自覚を生じさせる律法の養育掛り用法の下にとどまり続け、霊が解放されず、いつまでも罪の意識に苛まれ、ジメジメ、イジイジした精神状態に閉じ込められている状態になる危険もあります。過去の大きな罪をトラウマとして持ち続け、心の負担に耐え切れず、精神に異常をきたすことすらあるのです。どこかで解放されなければ私達は真の意味で自由にはなれません。戦争の後遺症等はその良い例です。確かに戦地へ行って、人を殺したり殺されたりすることは重大な精神的苦痛となって、心を破壊する原因になります。PTSDによるフラッシュバックからの救いは、個人にとって大問題です。根本的にはイエスの贖いを信じ、新しい命をいただき、霊が解放されて行く以外に解決策はないと私は思っています。
道徳律と結婚するのではなく、一度ならず何度でも、既にキリストに結ばれて自分の肉が死んでしまったと自覚する時、同時に律法から解放されて、既に復活のキリストと結婚していることを悟って行きます。既に十字架につけられてキリストと共に死んだことにされているのは、あくまでも自分であって律法ではありません。
さらに、同時に自分はキリストにあって、キリストと共に既に復活させられているのです(霊的意味で)。霊によって新生した私達が、キリストに総てを委ね任せることによって、律法は真の意味で全うされて行きます。すなわち神の信仰の土台、大原則、神と人の為に、自分の命を削り生きて行くことが、キリストに結ばれることによって、霊の支配の中で、無理なく出来るようになると私は思います。
以下にキリストと共に、キリストの内にいることが救いの最も大事な事ですので、理解されてもされなくても、以下の御言葉の解釈を是非読んでください。これらの御言葉はキリストにあることの平安と喜びについてどれも言っているのです。
『こうして、......恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。』 (ローマ5:21) 恵みによって、御霊の支配下の中で、力強い生き方が出来るのです。まったく違った、生き方が出来る可能性があります。私はこのような生涯をこれから歩みたいし、歩まなければならない。キリストが復活した時、このような恵みの支配が復活の霊によって始まったのです。この地上において新しい時代が到来したのです。霊の支配の管理下に私達も組み入れられ、勝利の活き活きとしたクリスチャン生活が歩めるようになったのです。キリストの復活の御霊が私達を支配するように、常に意識して、祈り求めて行こうではありませんか。
こうは言っても私達は肉にあっては弱いものです。しかし、神はキリストの義を私達の義とみなして下さっている(義認)ので、失敗してもいつでも再び立ち上がってやり直せます。常に神からの救いの義を身に纏って、落胆せずに、義と命の法則の中に、霊が解放されて進んで行くことが出来るのです。『キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、"霊"は義によって命となっています。』(ローマ8:10)この弱い肉の体は、どんなに鍛錬し、霊的な意味で修養をし、磨きをかけても、どうしても失敗したり、落胆したり、霊の欠乏を感じて疲れたり、睡眠不足になったり、疲労感に打ちのめされたり、つまらないことで怒ったり、注意散漫になったりするものです。しかし、体は肉の弱さのゆえに死んでいたとしても、霊は義(義認)のゆえに生きているのです。そう信じて愚かな自分を見ず、キリストを仰ぎ見ながら、前を向いて進んで行く以外に道はありません。『地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ。』(イザヤ45:22口語訳)
それどころか、もっと大きな素晴らしい約束が11節に続いています。キリストの霊が私達の内に宿り、私達がキリストの中にいつも信仰によってとどまるならば、キリストの霊は解放され、この衰えた、痛みがある、どんな人も何らか、ある程度損傷している、欠けの多い肉体(個人によって弱さの箇所は違いますが)も、キリストの霊が癒して下さるお約束があるのです。『もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。』(ローマ8:11)これは、神癒によって私達の欠けの多い肉体までが、癒される可能性を示唆している聖句です。『霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生か』す、これは癒しを意味していると私は解釈します。もちろん、フィジカルな肉体の癒しは、医学的な措置によっても可能だし、毎日の運動、ニュースタート健康法のような健康の原則の実行、規則正しい生活、健康的な食生活によっても持たらされましょう。しかし霊による癒しはそれらを含みながら、それ以上の健康の効果をもたらすと私は信じております。何故ならそれらは私達の常識的な理解を超越した、奇跡の力を含んでいるからです。もちろん、癒しの奇跡は、現代においてめったに起きるものではないことは、私も経験上良く知っています。それでもこの御言葉により頼んで日常的に祈って行きたいのです。
『わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、(私達が)至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。 イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、………大祭司となられたのです。 』(ヘブル6:19~20) 魁となって入って下さったイエスに倣い、私達もまた、(霊的に)天の聖所の中で、キリストの肉体なる幕を通って、天の至聖所に入り、大祭司のとりなしの故に、父なる神の臨在の前に出ることが出来ます。バプテスマの水を象徴するような聖所に備えられた洗盤の水で洗い清められ、さらにイエスの血潮で洗われて、良心の咎めを捨て去り、確信をもって、はばかることなく、神の御前に近づいて行くことが出来るようになったのです。この贖いの天の至聖所で行われているキリストの事実(大祭司職の働き)こそ、私達の信仰を安定的に保つ為の、魂の錨のようなものです。
『この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。』(ヘブル10:10)こんなに穢れた、嘘、憎しみ、貪欲、利己心、怠惰、不誠実等、様々な肉の欲に囚われている私達が御前に、イエスの贖罪の行為によって『聖なる者とされた』のです。この信仰の事実を、御言葉は言っているのですから、そのままありのままに、受け入れ信じて行きましょう。
『それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所(至聖所)に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕(聖所と至聖所を分けていた幕)、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司(イエス)がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。』(へブル10:19~23)
至聖所は父なる神の臨在なさっているところです。天にある至聖所の中に、瞑想の内に入って行きましょう。臆する霊は捨て去り、良心の咎めを捨てて、キリストの肉体なる幕を通って、父なる神の前に、 今日救いの確信を持って出ることが出来るのです。