ヨハネによる福音書10章
ヨハネによる福音書10章
『わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。』(ヨハネ10:14~15)
イエスは羊飼い、私達は羊です。良い羊飼いは羊のために命を捨てて、狼たちと戦う。悪い羊飼いは、敵が来ると、羊を捨てて逃げて行く。雇人であって、羊の命よりも自分の命の方が大事だからです。イエスが人間のために命を投げ出すのは、神から与えられた最初からの定めであった。ただ無駄に命を投げ出すのではない。命を捨てる(十字架)のは再び命を得る為です(復活)。
私達もイエスに従う者として、神と人の為に自分の時間を削り、また時には肉の命そのものを捨てることが期待されています。しかし、それはこの世の命より、もっと大事な、キリストにあることによって得られる永遠の命を得るためです。決して無駄死にではないのです。肉の命を神と人のために削って行くのは、真の霊の命を得るためです。
しかし、私達もまた、自分本来の生まれつきの力では、人や神のために自分の命を捨てることが出来ない。やはりその場になれば自分の肉の命が惜しくなり、羊を守ることをせずに、狼が来れば逃げ出してしまうのです。
どうしたら、良い羊飼いであるイエスの模範、十字架と復活を通して、真の永遠の命を得られるように、イエスの後に従って行けるのだろうか?『わたし(イエス)が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。』(同10:10)とあります。 命を豊かに受けるためには、ただ自己の肉の力を捨て、イエスの命を自らの心に宿し、イエスと一つになって行くしかない。キリストによって新生され、霊的に覚醒され、聖霊に満たされ、キリストの命を自分の命として生きて行く以外に方法はないのです。
『わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたし(キリスト)は命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」』(同10:17~18)キリストには命を捨てる力もあり、命を受ける力もあります。これは神がキリストに与えられた掟です。私達もキリストと一体になるならば、キリストを通してこの力に与かれるのです。
またイエスはこの囲いの中にいない異邦人にも救いを宣べ伝える計画を持っておられた。この囲いはユダヤ人達であり、囲いの中にいない人達は異邦人を指している。やがてイエスの教えが弟子達に引き継がれ、ユダヤ人も異邦人も皆、神の民となり一つの群れになって救いにあずかることになる。『わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。 』(ヨハネ10:16)
『そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。』(ヨハネ10:22)。
宮清めの祭りとか、ハヌカ(ヘブル語で奉献、奉納の意味)の祭り、光の祭りとも言われる。旧約聖書の中にはこの祭りの記事はない。旧約聖書の最後に書かれたマラキ書は、紀元前440~400年頃成立した。旧約聖書が書き終わった後、約250年後に起きた出来事を記念する祭りなので、旧約聖書の起源による祭りではない。
紀元前2世紀シリアの王アンティオコス4世エピファネスが、ユダヤの国を占領し、その城壁をこわして家々に火を放ち、ユダヤ人約8万人を虐殺し、4万人を捕囚として連れ去り、さらに4万人の女や子供が奴隷として売った。
アンティオコス4世エピファネスはユダヤ神殿を汚し、ギリシャの神ゼウスを神殿に祀り、偶像崇拝を強要し、神の器を持ち出し、自分の享楽のために用い、安息日を守る者、割礼を行う者は死刑にした。
この圧政に対して、紀元前167年ユダ・マカバイが反乱を起こし、ユダヤは勝利し、神殿は回復され、やがてハスモン王朝が成立していく。マカバイ戦争(BC167~ BC142)とも呼ばれる。
余談になるが1747年ヘンデルによってロンドンで初演された「見よ、勇者は帰りぬ」はユダ・マカバイを題材にした曲であり、日本基督教団の讃美歌130番はこの曲を基にしている。
ユダ・マカバイは、紀元前164年のキスレウの月(12月)の25日に聖所を清めた。今も行われるユダヤ人の祭りハヌカはこの聖所を清めた出来事を記念している。 荒らされた神殿を再興したところ、奇跡にも、汚されていない、神殿の中で使う、聖なる油が発見された。しかし、それはたった1日分の量しかなかった。燭台に灯したところ、神の奇跡が起こり、8日間灯は消えることなく燃え続けた。これを記念してハヌカの祭りは8日間祝う。メノラーは聖所の中にあった7枝の燭台であるが、 この祭りではハヌキヤーと言う9枝の燭台を使用して、火を灯して祝う。最初の日は、真ん中とその隣の枝に火を灯し、8日間、次々に火を点けて行く。
ちょうどこの時期は、偶然にもクリスマスの時期と重なることから、ユダヤでは、親が子供に贈り物をし、ドレイドルと言う四角錐の 駒を回して遊ぶ。駒には「ネス・ガドール・ハヤ・ポー(偉大な奇跡がここに起きた)」の頭文字となるヘブル文字、ヌン、ギメル、ヘー、ペーという字が刻まれている。
さらにハヌカの祭りではレヴィヴァと言う、じゃがいもをすりつぶして油を引いたフライパンで焼いたパンケーキのようなものと、スフガニアと言う、揚げたパンの中にジャムをいれて表面に粉砂糖をまぶした物を食べてお祝いする。日本のアンドーナツに似た食べ物です。
実はハヌカの祭りが出てくる最古の文献は、このヨハネ10章22節です。『そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。』
横道にそれるが、『荒らす憎むべき者』が誰か?(マタイ24:15、ダニエル9:27参照)、シリアの王アンティオコス4世エピファネスであると言う解釈も一部のキリスト教会にはあるが、SDA教会とはちょっと聖書解釈が異なるところです。
『ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒瀆したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」』(ヨハネ10:33)
キリストは人間であったが、実は最初から父なる神と共にいた方であり、宇宙の始めから存在しており、『わたしはある。』(同8:58)と言う方であった。
『御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。』( コロサイ1:15~17)
万物は、位も主権も地位も名誉も、形あるものも、無いものも、宇宙も地球も人間も動植物も総て、御子によって、御子の為に造られ、さらに御子によって支えられているのです。
『神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられます』(ヘブル1:2~3)
キリストは最初から神と共におられ、神そのものなのです。父なる神、御子なる神、聖霊は三位一体の神なのです。ただ、その現れ方、果たす役割、ペルソナ(古代ギリシア劇の役者が被る仮面がもとになったラテン語)が違う。
絶対で唯一、全知全能、と言う役割の父なる神YHWH、人性をとられ人間となられた子なる神イエス、どこにでも偏在することが出来る霊としての聖霊Holy Ghostの神、それは働きとか、果たす役割の違いなのです。存在自体は三つにして一つの神なのです。
キリストは『わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。』(ヨハネ10:9)とも言われた。この門を通って行かなければ救いはない。この門は釈迦でも、孔子でも、マホメットでもないのです。キリストだけが、救いに至る唯一の門です。
『イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』(同14:6)。
また、キリストの門を出入りする羊は、必ず良い牧草にありつけるはずです。私達羊を、この世においても良い牧草にありつけるようにして下さると私は信じています。
『イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」 』(ルカ18:29~30)
キリストが私が門であると言われた時、そこにいたイスラエルの人々は、エルサレムの城壁、北東に位置する羊の門を思い起こしたはずです。
羊の門は、神殿において日々の燔祭を捧げるために必要な羊を通すための門であった。エルサレム旧市街には、他にも様々な門があった。魚の門、エシャナ門(古い門)、エフライムの門、谷の門、糞の門、泉の門、水の門、馬の門、東の門、裁きの門等が挙げられる。これらの門の由来を考えて行くとき、それぞれ、スピリチャルな教訓を得ることが出来る。ただし、ここでは深入りをすることは、避けよう。
一つだけ挙げると、東の門はメシアが通る門で、イエスはここを通り、ホサナ、ホサナ(アラム語救いたまえの意味)と賛美の歌声の中に、棕櫚の枝を下に踏みしめながら、子ろばに乗ってエルサレムに最後の入場をした。旧約聖書ゼカリヤ書の預言の実現であった。
『娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。』(ゼカリヤ9:9)
『二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」』(マルコ11:7~10)
ソロモンの回廊(神殿の東側の長い回廊)を歩いていたキリストに対して、
『すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」』(ヨハネ10:24)。
あなたはメシアかどうか、ハッキリ表明して欲しいとユダヤ人達はイエスに迫った。キリストは自分が『わたしはある。』(出エジプト3:14)と言う者であるし、『わたしと父とは一つである。」』(ヨハネ10:30)と今までも、繰り返し主張してきたのに、彼らはそれを受け入れなかった。何故なら、彼らはキリストの羊ではなかったから、どんなに説明されても、それを信じることは出来なかったのです。却って、メシアであることを話せば話すほど、キリストに向かって石を投げて、殺そうとした。
どんな良い業に対して、ユダヤ人達はわたしを殺そうとしているのかと、キリストが質問すると、『あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」 』(ヨハネ10:33)。神を冒涜しているからだと彼らは答えた。しかし聖書の言葉でキリストは彼らに切り返された。聖書の中では『神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。 』(同10:35)。であるなら神の御心を行い、数々の奇跡を行っている私が『神の子』と言っても当然のことではないか。もし私をメシアとして信じることができないのなら、わたしが行っている、神の業を見て、信じるようになりなさいと、イエスは勧めた。
その業とは何か?
死者はよみがえり、生まれつきの視覚障害者の目は開けられ、肢体障害者は歩けるようになり、重い皮膚病の患者は癒された。イエスは湖の上を歩き、風や波を静め、5つのパンと2匹の魚で、5,000人を食べさせた。神の業は明らかに、キリストの上に現れていた。この明確なメシアとしての業を見るならば、業そのものによってキリストをメシアと信じることが出来るはずだ。論より証拠、キリストがメシアであるか議論するより、まず証拠としての神の業を見なさいと言うのです。
『わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」』(ヨハネ10:38 )
その後イエスはエルサレムを離れ、再びバプテスマのヨハネが、洗礼を授けていたこともあったヨルダン川の下流、アイノンに行って教えられた(同3:23参照)。人々はヨハネは何の奇跡の業も行わなかったが、ヨハネがこの人について、証ししたことは総て本当であったと言い、多くの人がイエスを信じるようになった。
追記
キリストのエルサレム入場は、東門(黄金門)からであった。この門は、ユダヤ人の救世主がエルサレムの町に入る地点であると言われており、これを防ぐためにオスマン帝国のスルタン・スレイマン1世によって、最終的に紀元1541年に封鎖され、現在では中に入ることはできない。 それはエゼキエル44章1~2節にある預言の実現として理解されています。
『それから、彼はわたしを東に面した聖所の外の門の方へ連れ戻した。門は閉じられていた。主はわたしに言われた。「この門は閉じられたままにしておく。開いてはならない。だれもここを通ってはならない。イスラエルの神、主がここから入られたからである。それゆえ、閉じられたままにしておく。』
神の言葉はその口から発せられれば決して空しく帰ることはない。必ずその力を発揮し、神が命じられることを成し遂げて行くのだと言うことを、この一事からも見てとれます。
『そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。』(イザヤ55:11)
以下はつたない私の信仰の証となります。上記の趣旨を考えるとき、今も個人的には神の御言葉をいただけるかどうかが、究極的には個人の選択や、自由意思の迷いの中で、一番の光明ではないかと考えます。もちろんこうは言っても、私が理性による状況判断をないがしろにしろと言っている訳ではありません。ある場合には人間の判断力で行動を決める時もあるでしょう。それがほとんどであると思います。
私が、約8年前、郵便局長を定年で辞めた時、以前牧師をしていた八重山教会に行って、自給伝道に励もうかとも思っていました。そこで、今後の方針について迷いながら祈っていると、ある時、不思議な経験をしました。「あなたの分を生きなさい」と言う短い神の御声が、別の次元から発せられたように、意識の外側から心の中にハッキリと入りこんできたのです。これは私にとっての、正に神の声であったのです。もちろんん「あなたの分」が具体的には何か、示されたわけではありません。何が私の生きる分であるかは未だ探し求めているところです。探し求めているうちに、私の寿命の方が終わってしまうかも知れません。
何かとりとめのない証ですが、私の言いたいことは人生の選択に迷うとき、神の御声を求めなさいと言うことです。御言葉が個人的に与えられれば、その御言葉がすべてを創造して行くのです。今も、聖書の言葉を熟読することを含めて、御言葉をいただくことが一番大事な事なのです。しかし、不信仰な私にとって、御声を聞く経験は人生に五本の指に数えられるほどしかない。もっと霊的に自分が向上して行きたいものだと常に思っているのです。そうすれば、きっと『また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで「これは道だ、これに歩め」と言う言葉を耳に聞く。 』(イザヤ30:21口語訳)との神の御声をもっとたくさん聞くことが出来るでしょう。