ヨハネ第一の手紙

  ヨハネ第一の手紙の要点とパウロ神学との統一性

 ヨハネ第一の手紙は何が言いたいのであろうか?章ごと、節ごとの解説はしないが、その要点について考えて見よう。まず、この手紙がいつ頃、誰によって、どのような目的で、どこで書かれたかを見てみよう。

 伝統的解釈によれば、著者はこの手紙の中には直接書かれてはいないが、12弟子のひとりであるヨハネです。もちろんそうではなく、別の人が書いたという説もあります。例えば、使徒ヨハネと同時代に長老ヨハネなる人物がエペソ近くのヒエラポリスの監督をしていて、その人が使徒ヨハネから口述筆記をしたのだと言うまことしやかな説を唱える学者もいます。

 また現代の高等批評による学者達は、ヨハネによる福音書、ヨハネ第一、第二、第三の手紙、およびヨハネ黙示録はそれぞれ著者が別々で、ヨハネ教団をつくっていたと主張しています。 

 しかし私は単純に、伝統的に、使徒ヨハネが書いたのであると言う説を採ります。 

 さらに、この手紙は、特定の教会に宛てたものではないので、一般的には「公同書簡」と表記されます。公同というのは,教会全体のために書かれたという意味です。『ヤコブの手紙』『ペテロの第一,第二の手紙』『ヨハネの第一,第二,第三の手紙』『ユダの手紙』の7つの手紙を「公同書簡」と言います。

 ヨハネ第一の手紙はいつ頃書かれたのでしょうか?諸説あるが紀元80年代後半説を私は採ります。紀元80年代後半と言えば、紀元70年ローマ軍がエルサレムを攻め滅ぼしてから15年以上たち、ユダヤ民族は国を失い、迫害され、クリスチャン達も例外なく、迫害の時代を迎えていました。

 多くの12弟子たちはパウロも含めて、殉教の憂き目に遭っていました。ユダヤ人達がローマ軍によって捕虜とされ、各地に連れ去られた中で、クリスチャン達も迫害を受けたのです。ヨハネも、エペソに難を逃れていたと考えられます。使徒ヨハネは、弟子達のうちで最も長生きをしました。エペソで、当時の小アジア、すなわち今のトルコにいる信者に向けて、この手紙を書いたのです。

 ヨハネが何歳のときにこの手紙を書いたかは推測の域は出ないが、70~80歳近くになっていたはずです。

 ヨハネは何歳まで生きたか、多くの学者は、100歳近くまで生きたのではないか、と考えています。紀元1世紀の終わりか、2世紀の初め頃まで生存していたと私は推測します。

 しかし学説には諸説あり、弟子ヤコブ(ヨハネの兄)が最初に殉教死したとき、ヨハネも共に殉教死したのであると主張する学者もいます。この点については、あまり高等批評的な聖書解釈の隘路に迷い込まないようにしよう。

 単純にヨハネは、エペソで80年代後半にヨハネ第一の手紙を書き、100歳近くまで生きたと理解しておこう。

 ヨハネの父ゼベダイは、人を雇えるほどの漁師であり、比較的裕福であったと考えられます。長男はヤコブ、次男はヨハネ、2人共にイエスの弟子になります。父は雇人もいたのだから、その後も漁師を続けていたと思われます。2人の男の子がイエスの弟子になったからといっても、父が経済的に困窮したということではないでしょう。2人の男の働き手が突然いなくなるのは親であるゼベダイにとっても大変だったとは思いますが。

 『また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。』(マルコ1:19~20)。
 ヨハネの母はサロメで、このサロメはイエスの母マリアの姉妹と思われる(マタイ27:56、マルコ16:1)。ですからヤコブとヨハネは主イエスの従兄弟にあたります。二人は、ペテロと漁師仲間でもあった(ルカ5:10)。
 12弟子の間では、ペテロ、ヤコブ、ヨハネがイエスの近くにいたようです。そしてイエスは、特にこの三人とは重要な場面で一緒にいることが多い。
 性格については彼らは明らかに強い個性を持ち、野心的で、情熱的な人間であった。イエスは、ヤコブ、ヨハネに『ボアネルゲス』という名を与えた。それは『雷の子ら』という意味です(マルコ3:17)。
  ヨハネとヤコブは、排他的で、非寛容な性格であった。

  『ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。』(マルコ9:38~39)
 二人の性格は激しかった。エルサレムに向かって旅をしていたとき、サマリヤの村を通過したが、彼らを歓迎しようとしなかったため、天からソドムやゴモラのように、火を降らせ、この村を焼き払ってしまおうとイエスに提案したこともあった。『村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。』(ルカ9:53~56)

 

 彼らの母、サロメは、イエスの御国で、我が子2人の地位が高くなることを望み、イエスの右と、左に座れるよう、イエスに願い出た。

 『そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」』 (マタイ20:20~23)

 確かに、イエスの杯、十字架の死の杯を、弟子達は皆飲むことになります。イエスの弟子になり、伝道生活に入ることは、飢え、渇き、貧困、寒さに凍え、迫害と苦難の内に生涯を過ごし、最後は殉教死が待っていることを当時は意味しているのだった。ヨハネの兄ヤコブは実際に弟子達の内で最初の殉教者となった。

 イエスが飲もうとしている苦難、十字架の杯を、ヤコブとヨハネの兄弟は飲むことが出来るのか?また彼らばかりではなく、イエスに従うと公言している、現代の私達クリスチャンも飲むことが出来るのか? 

 さて、上述の通りヨハネは若いうちは、野心家であり、非寛容な性格であったが、イエスとの、生涯にわたる霊的交わりを通して、愛の使徒へと成長し、変えられて行ったのです。

 『初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。 初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。』(ヨハネ第一2:24~25) 

 御言葉にとどまり、いつもキリストと御父の内にいること、すなわちそれが永遠の命です。個人の救いにとってそのことが最も大事なことなのです。そのことを続けることによって、ヨハネは愛の使徒として変わって行ったのです。

 

 さて、既にこの時代にイエスが人間としての肉体をとっては来られなかったと言うような、グノーシス派の異端が入り込んできたことが見て取れます。この異端に対して反論しているのが、この手紙が書かれた、大きな目的の一つです。 

 グノーシス派の異端について少し触れておきたい。

 彼らは精神的なもの、霊的なものが善であり、物質、肉体的なものは悪であると考えた。従ってキリストが肉体を取ってこの世に来られ、その肉体を十字架に磔にしたことを否定します。受難のその姿は仮にそのように見えたにすぎないと、キリスト仮現説と言う奇妙な教えに行き着き、正統的な聖書解釈から逸脱してしまう。仮現説(Docetism)という名前は,「......のように見える」という意味のギリシャ語「dokeō」から来ています。

 彼らによれば、霊知グノーシスが、バプテスマを受けた人間イエスに鳩のように降り、十字架にイエスがついたときは、グノーシスがイエスから離れ去って行き、ただの人間イエスが十字架についたと考えました。彼らは物質や、肉体は悪と考えたので、神の子が人間になると言う、正統派の受肉の教えは受け入れられなかったのです。

 確かにパウロの書簡等を見ると、霊と肉の表現が随所に見られます。しかし聖書は肉体も、物質も精神も本来、神が創造なさったものであり、善なるものであったと言っているのです。

 アダムの堕罪にあって、肉的なものが堕落し、肉体は弱くなり、肉体そのものが誘惑の入り口になり、さらに人間の精神も穢れ、弱くなり、嫉妬心や、傲慢な心、憎しみ、恨み等が生じて行った。神に依存しなくても、自分達の力だけでやって行ける、神から離れて独立自存に生きて行けると思うようになった。

 人間は精神、肉体、霊肉問わず堕落の環境の中に縛られていることを認めよう。しかし、キリスト教には、それでも肉体、物質そのものが、則、悪であるという考え方は根本的にはない。

 キリストに頼り、贖罪され、悔い改め、生き方が変えられ、新生と聖霊の内住によって、総ては新たにされます。キリストにとどまる限り、肉体は神の器として使われることになるのです。肉体は神の霊を宿す器であるという考え方です。そういう意味で、肉体もまた、神に献げなければならない大切なものなのです。肉体を鍛え、強くし、ベストの状態に保ちましょう。

 肉体が病んでいては、神に対しても、人に対しても良い奉仕はできないのです。病気になれば、その病を治すのに多くの力と時間がとられ、人を助けることまで手が回りません。神に対する献身も、人を愛することも、自分の健康あってのことではありませんか。 ここに健康的な食物を食べ、栄養のバランスに気を付け、刺激物の摂取を避け、適度な運動や、休養、新鮮な空気、水、日光、神に対する信頼(平安な気持ち)等々、健康改革の現代の人々に対するSDAのメッセージの重要性が出てきます。アルコールやたばこの害、薬物の過剰摂取等で多くの人々が健康を害し寿命を縮めています。

 『また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。』(ローマ6:13)。

 ヨハネ第一の手紙の中でヨハネは明らかにグノーシス派の異端の考え方に対して、反論しています。キリストは神の言葉として、世界の創造前から存在し、マリアから産まれることによって人間の肉体を取ることになりました。受肉こそ贖罪計画の中で最高の業なのです。もし御子が人間にならなければ、人類の身代わりに死ぬなど不可能です。何故なら神は死ぬことはできないからです。さらに、受肉によってイエスの復活が可能になり、肉の堕落した死すべき肉体を持った私達も新しい新鮮な御子の復活の命に与かれるのです。この死すべき罪に支配された肉の命が、やがて霊の命に満たされ、栄光の身体へと造り変えられるのです。これらは受肉から起きたことなのです。ですから受肉は奇跡中の奇跡、救いの中の最大の救いなのです。イエスは私達人類と同族の者になられ、私達の長子となられました。私達を兄弟と呼んでくださるのです。これらすべては受肉によっているのです。

  ヨハネは受肉なさった神の子イエスと一緒に生活し、その声を聞き、直接話し、触り、共に時間を過ごし、その十字架の死に至るまで見届けた目撃者であることを強調しています。

 さらに、復活したイエスにティべリヤ(ガリラヤ)湖畔で会い、その他の弟子達と共に、朝食を焚火を囲んで食べ、親しく会話したのです。そして、この方が神の言葉の現れであり、永遠の命をご自分の内に持っておられる方、すなわち命の言であることを確信したのです。『初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。』 (ヨハネ第一1:1) キリストは血筋から言えば、彼の従兄弟だったので、ヨハネの生活実感は、人間イエスとの親しい交わりの中で、なおさら生きゝとしたものであったでしょう。

 ヨハネ第一の手紙のテーマ

 キリストの十字架の死が、神の贖いの供え物であり、それを信じる者は罪が赦されているのです。既に永遠の命がその人の中に始まっているのです。聖霊の油が正しい教えを直接私達の心に働きかけて教えてくれます。誰からも、このような、グノーシス派の異端によって騙されることはないように気を付けなさい。嘘の教えを広める偽預言者を警戒しなさい。初めから聞いていた御言葉にとどまり、聖霊によって、キリストに固く結ばれ、キリストの内にとどまっているのなら、それがすなわち永遠の命なのです。

 キリストが私達の罪のために、御自身の命を神の供え物として献げられたように、私達自身が、神がお創りになった被造物、すなわち兄弟同胞を、命を捨てるほどに愛して行かなければなりません。

 『イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。』(ヨハネ第一3:16)

 愛である父なる神から、御子キリストを通して注がれる聖霊によって、クリスチャンは、同胞の兄弟をも自分のように愛すべきです。行いと真実をもって、貧しい者、食に事欠くもの、衣類が無くて凍えているものを、実際の愛の行いをもって、見捨てることなく助けなさい(同3:17~18参照)。 

 心の中の罪にも言及しています。兄弟を憎むものは既に心の中で殺人者であり、心の中の持ちようが、現行罪と共に、重要であることが強調されています(同3:15参照)。真にキリストに結ばれたクリスチャンは、古くて(十戒)新しい戒め(愛の戒め)に中にいるのです(同2:7~8参照)。『その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。』(ヨハネ第一3:23)

 

 さて、以上ヨハネ第一の手紙のテーマについて簡単に触れてきましたが、これはキリストが言われた、言葉にも一致しています。『「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」』(マタイ22:36~40)

 ヨハネが言っている『その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ』(ヨハネ第一3:23)るとは、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛』(マタイ22:37)することです。 それはキリストのその名の為 、あらゆる迫害と困難を耐え忍ぶことなのです。ある場合には、キリストの名のため、公の信仰の言い表しにより、殉教死さえ覚悟しなければならない、重い言葉なのです。

 さらにその後に続く、人間に対する戒めは『この方(イエス)がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。』(ヨハネ第一3:23)です。これは、イエスが言われた『第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』(マタイ22:39)と同じ内容です。そして究極的には、その愛は、友のため自分の命を捨てることをも意味しているのです。『わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。』(ヨハネ第一3:16)命を隣人のために捨てることも辞さないほどの愛を求めているのです。

 つまり戒めの精神は、神の為にも命を捨て、人のためにも命を捨てて行く、つまり、神と人の両方のために、自分(の命)を捨て自分の十字架(命を捨てる場所)を背負って行く生き方なのです。 『「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。』(マタイ16:24~25) それはただ命を捨てることが目的ではなく、却って、命、真の命を得るためにそのようにすべきなのです。『自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。』(ルカ9:24)

 この世においても、霊的な質の高い、よみがえりの命を前もって受けるためであり、また来たるべき世においては、永遠の命に実際に復活させられるためなのです。復活の命が本当にあるかどうかは、イエスが本当に復活したのかどうか?そのことを信じるかどうかにかかっています。私はイエスが聖書の文字通り復活したことを信じます。そうでなければ聖書の約束が偽りになるからです。もしそうなら、私達の人生は空しくなり、永遠の命の希望もなくなります。私達は罪とこの世の汚泥の中に取り残されることになります。

 しかし、歴史的事実としてイエスは復活なさったのです。そして私自身も、十字架の贖罪のゆえに、自分自身の多くの罪が赦されて、復活の栄誉によくすることが出来ると信じています。そしてその復活の力は、かの日に与えられるのを待ち望むだけではなくて、今のこの世の生活においても、先付けである程度は与えられる力であることを信じています。

 私達のこの世の命は、毎日少しずつではありますが、衰えて行きます。何故、老いて行くのでしょうか。罪の結果、老化して行き、やがては心臓がいつかは止まり、死んでいくのでしょう。でも老化の過程はいったい何なのでしょう。何で、私達は若いときのような力がなくなり、肉体が衰えて行くのでしょう。その霊的な意味を考えたことがあるでしょうか? それはイエスの復活の力を、日々衰えて行く体に感じる為であるとしたらどうでしょうか。高齢になって、一日一日と、老いて行くことを嘆くのではなくて、復活のイエスに結び付くことによって、この死すべき体の中にも、復活の力が御霊によって宿り、もう、若い時のように自分の肉の力を誇ったり、自分の肉の能力によって生きることを止め、ただただ、イエスの復活の命の力に、全面的に頼って生きる為であったとしたら、歳とっても尚、生きゝとして生きて行けるとしたら、老いの人生も楽しくなるではありませんか。(オプティマルヘルスやアンチエイジングの為の運動や体操等を否定している訳ではありません、念の為)

 私達は日々死にながら、実は御霊によって真に生かされつつ、日々を生かされているのです。変な言い回しになりますが、一方では死にながら、一方では真に生かされているのです。『わたしは日々死んでいます。』 (コリント第一15:31)

 一日を始める時、「今日、こんなに弱った、老いた我が身でございますけど、聖霊によって、イエスの復活の命の力に満たしてください。」とイエスの御名によって祈るならば、その祈りを退けるような、父なる神ではありません。

 娯楽や、趣味など、聖書はこの世の肉の楽しみをすべて否定しているわけではないと思っています。ある程度は私達はこの世の与えられた物的世界、俗なるものを楽しむことがあっても良いと思います。しかし根本を忘れてはなりません。

 聖人になって、聖なることだけを考えて生きて行きたいのです。確かにそれが一番安全な事であり、そのように生きれる環境にある方、神から特別な清い御霊の賜物を受けている方は是非そのように生きるべきです。しかし私のような俗人は、中々俗なるものをすべて捨て切ることが出来ないのです。娯楽や、趣味などに没頭してしまった後、それが如何につまらなく、無駄な時間であったか、常に悔恨に苛まれるのです。理想と自己の現実の狭間で落胆してしまうのもしばしばです。

 そして、それらの安逸な時間の過ごし方が、如何に虚しいことであることを知りながら、一時的な休息を求めて、世俗のバラエティー番組や、お笑いを見ることにに大量の時間を費やしてしまうのです。こういうこと、これに類することをしてしまっていることが、俗人の俗人たる所以でしょう。神が与えられた命、この時間を、神と人を愛しその奉仕のために使わず、自己消費してしまって良いはずがありません。ただ私はそのような現実を認識しつつも、聖霊の覚醒による時が必ず自己に臨むことを、心から期待し望み、キリストの名によって願っています。

 もし文字通り、キリストに従うことが、己の十字架、(十字架は死ぬところ)己を死なすことであるならば、何のためにこの世に生を受け、今生きることを神は許されているのか、深く考えながら生きなければなりません。

 人によって様々な考えがあるでしょうが、私は、キリストについて行くと言うのは、この世におけるあらゆる楽しみを過度には楽しまず、肉の人生における自分の限界を見極めつつ、大事な自分の肉の命と、時間を、神と人のために、削っていくことが、基本的原則として、生活の信条の中に、自然になければならないと思っているのです。

 『世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。』(ヨハネ第一 2:15~17)

 私達はこの世において、どんなにお金を儲け、どんなに贅沢をしたって、そのことを永遠に続けられる訳ではないのです。お金は生活する上で確かに必要です。しかしそれらは、生活する手段であって目的ではありません。お金を追及する人は、自分の寿命を知るべきです。いつまでもお金儲けが出来る訳ではありません。人間は誰でも最後の時が訪れるのです。その時を、永遠の命の希望を持って終わりたいものです。

 しかしキリストと隣人のために、自分の命と時間を削った者には、『イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」』(ルカ18:29~30) との約束が与えられています。

 この世でも、幾倍も祝福され、来たるべきかの世でも、永遠の命を受けるのです。そればかりか、その犠牲の道そのものがイエスの御霊の感化によって、真の喜びであり、人を幸せにし、自分も幸せになる過程となって行くのです。結果の天国をいただけるばかりでなく、その苦難と思われる自己犠牲の道すら喜びになって行くのです。何故なら、それはキリストと共に十字架を背負う道なのです。その道行は自分で十字架を背負うのではなくて、キリストご自身がその人のうちにお降りになって、共にこの世の苦難と言う十字架を背負って下さるのです。

 私はまだ信仰の修業が足らず、そのような境地には達していないですが。

 神を愛する、全身全霊を持って神を愛するならば、十戒の第1条から第4条の神への義務を守るべきだと思います。

①天地創造の神のみを拝め。

②偶像を拝むな。

③神の御名をみだりに唱えない。

④天地創造の記念日、週の第七日目安息日を聖としなさい。

 これらは、神への礼拝の方法を表していて、神を愛するならば、神の定められたやり方で神を礼拝すべきです。これらは、神を愛する愛の方向性を示しています。むやみやたらに愛すると言うのは、危険を伴います。偶像を熱心に愛し、毎日手入れをし、磨いて、捧げものを供え、礼拝し仕えたとしても、それは真の天地創造の神がお喜びになるやり方ではありません。先祖を崇拝しその霊を慰めようと毎日礼拝しても、それは真の神を喜ばせる方法ではありません。聖書は死者は眠っており、何も知らないで土に帰っているだけのことだと教えています。人間は死後は意識はなく、死者に霊があるように見せかける現象はこの世の君(サタン)による欺瞞であり、祖先は礼拝の対象ではありません。

 真の天地創造の神を礼拝し、愛する愛し方にはそれなりの作法が求められるのです。また、週の第一日目、日曜日を礼拝日にすることは神のお喜びになる方法ではありません(例え御子キリストが日曜日に復活していたとしても)。むしろ神がお定めになった天地創造の記念日である週の第7日目、すなわち土曜日を礼拝日にする方を神はお喜びになるはずです。もちろん安息日だけ神を礼拝すれば良いと言うのではなく、毎日を真剣に神を礼拝し、聖霊の満たしと献身のうちに生きなければなりません。イエスと繋がり、神の安息を求めるのは、毎日のことです。しかし、その毎日の霊の満たしの中にも、アクセントがなければなりません。私が言っているのは、一週間の節目としての天地創造の記念日である、人々が集まって礼拝する日のことです。これもまた神の御定めになった神を礼拝する方法、仕方であると私は思っております。

 また、人に対しては、ただむやみに愛せよと言うのではなく、愛す方法もあるはずです。十戒の第5条から第10条は、人を愛す愛し方、やはり愛の方向性を指し示していると言えます。

⑤父と母を敬え。

⑥殺すな。

⑦姦淫するな。

⑧ 盗むな。

⑨偽るな。

⑩むさぼるな(他人の物を欲しがるな)。

 これらは人と人の間の、愛し方の黄金原則です。戒めは人を愛す愛し方を明確に示しているのです。例えば愛していると言いながら、その人の物を盗んだりすることが出来るでしょうか。そんなことは出来ません。盗んでいるなら、その人を愛していないのです。戒めの精神は何か、それは隣人愛です。 『「隣人を自分のように愛しなさい。」』(ローマ13:9)すべての人に対する戒めはこの一言に要約されます。

 『律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」』 (マタイ22:40)との言葉は、神ご自身でもあられたイエスの最終的な聖書解釈です。律法(の書)と預言者(の書)すなわち聖書全体がこの2つの掟に要約されると言うのです。ただし、神と人に対する戒め、この2つの戒めの中に示されている愛は、神に対する愛であっても、人に対する愛であっても中途半端を許さないのです。

 戒めの根本は愛なんだから。神を愛し、人を愛すれば良いのだと安易に言う人がいます。しかしこの愛は中途半端な安易な愛ではないのです、人に対しても、神に対しても。

 神に対しては、命すら投げ出して、信仰しなさいという厳しさを要求しています。

 『キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。』(テモテ第二2:12)主を信じているという公の告白のためには、命すら惜しまず投げ出すことが求められます。ポンティオ・ピラトの面前で立派な証しをなさったイエス・キリストが模範です(テモテ第一6:13参照)。主の証しをすることや、主の業のため囚人であることを、恥ずかしいと思ってはならない(テモテ第二1:8参照)、信仰告白は命懸けなのです。『自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。 』(ルカ9:24)

 人に対しては、友のため命を捨てるほどに愛せ、そのために、命を構成する己が時間を削れとの厳しさを求めています。

 『イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。』(ヨハネ第一3:16)

 神に対する愛、人に対する愛、どちらも、すべて自分の命も、それを構成する時間も捨てて、取りかからなければならないほど重いことなのです。神を愛し、人を愛することは、実はもともと自分の力では到底なすことが出来ないことで、御霊によって造り変えられたクリスチャンに、イエスの霊が心の中に住んで、そのようにして下さるのです。

 繰り返しになりますが、十字架に自分をイエスの肉と共に磔にして行くとき、実は天から聖霊がその人に遣わされて、復活なさったキリストと共に霊的な意味で、新しい命に復活する経験をすることが出来ます。この経験なくして自己の力で、神のため自分の命を捨てたり、人を心の底から愛して自己犠牲の愛を実行することは出来ないのです。

 イエスの贖罪を深く瞑想していくとき、自分がいかに罪深い者かが段々わかって来ます。歳を重ねるごとに、自己の醜さが、肉と精神に絡みつく程に、根深いことが分かって来ます。それは、この世で肉の性質を持ったまま、肉の仕事や、用事をこなしていかなければならない、止むを得ない、愚かな自己防衛の努力から派生する、生存のための利己主義と言う醜さなのです。もちろん、だからと言って、自己の生存権を否定することは出来ません。利己的であろうと、それは基本的人権の一部であり、神もお認めになり、ある程度お許しになっていることだと思います。どの程度利己的に生きることを許されているかは、神とその人の関係の中で決まることで、第三者が判断することは出来ません。人間はどんなことがあろうと、世捨て人にならない限り、最低限生きて行かなければならないからです。

 私達は御言葉を食べ、イエスの命の霊、すなわち『生ける水』(ヨハネ4:10)を飲むだけでは、生きていけません。この世で生活し、お金を稼ぎ、食べて行かなければならないのです。

 この世の生活のある場面では、生存するために利己的にならざるを得ない、肉の防御反応が自分でも気が付かないうちに働いてしまうのです。生まれたままの人間は、神の示す生き方とは、正反対の生き方をしてしまうような弱さを持った悲しい存在なのです。また、私達が生きている現代社会の仕組み、資本主義の競争社会が、弱肉強食の競争原理を助長している面が大いにあります。勝ち組・負け組と言う言葉に象徴されるような価値観に無意識に染められて生きてしまっているのです。

 この果てしも知れぬ、利己的になって生きて行かざるを得ない肉の世の誘惑を考える時、多くの信仰の兄弟姉妹が教会と、イエスから離れて行ってしまっている厳しい現実を見ることができます。特に男性においては、そのほとんどは、仕事をして、収入を得るため、止むに止まれぬ事情で、この世とこの世の人々との付き合いに深入りし、酒を飲んだりするようになってしまいます。この世の人にとって社交とは酒を酌み交わすことを意味することがほとんどです。

 信仰に入ったばかりの若い者が社会人となり、会社勤めを始めた時、仕事関係で行われる打ち合わせ等の酒食を伴う会合は、 大きなこの世に汚染される誘惑の機会です。イエスから離れる第一歩になってしまいます。

 さらに進んで、様々な肉的な娯楽や、世の歓楽に耽る人々との交誼に深くはまり込み、大麻や違法な薬物に手を出したりしながら、悪の道に真っ逆さまに堕ちて行ってしまう人すら出て来ます。そこまで堕落していかなくても、たくさんの有望な、最初は純粋な志と信仰を持った青年たちが、信仰とは関係ない世界に誘われ、この世の人と同じ様になってしまった悲しい現実を、私は何度も目撃してきました。 

 

 さて、ヨハネ第一の手紙で取り上げられている、赦される罪と、赦されない罪とは一体何でしょうか。以下少し長くなりますが、私の理解を以下に書いておきます。

 罪は不法(十戒違反)であり、その刑罰は死です。しかしキリストはその刑罰をご自分で受け、私達を罪とその結果の刑罰である死から解放して下さいました。であるから赦されない罪はないはずです。

 『愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。』(ヨハネ第一4:8~10)

  わたしたちの罪を償う生贄としての御子の犠牲、そのような供え物によって、神の愛が示されました。私達はこの犠牲の影に立って、どんな罪をも帳消しにされ、無罪なものとして、全く聖いものとして、一度も罪を犯したことのない者として、神の前に立つことが出来るのです(コロサイ1:22参照)。

 しかし、ヨハネ第一の手紙に、赦されざる罪、死に至る罪があるとあります。

 『死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。』(ヨハネ第一5 :16~17)

 どんな罪をも赦されると主イエスご自身の口から言われました。

 『だから、言っておく。人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、"霊"に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」 』(マタイ12:31~32)

 赦されることがない、聖霊に言い逆らう罪、聖霊を冒瀆する罪とはいったい何なのでしょうか。

 「これは悔い改めなければならないな」と自分の心に示された時、素直に神の前にへりくだって、罪を告白し、赦してもらって、行いを改めて行く。聖霊は、私達の心に働きかけ、そのような悔い改めに導く働きをする。良心の小さな自分の心に湧き上がってくる声、それは聖霊の気付きの働きであり、そのような心に湧き出た良心の小さい声を無視することが、聖霊に言い逆らうことだと、一般的には理解されています。そのように私も理解してきましたし、そのような理解でも良いと思っています。

 しかし、マタイによる福音書の12:22~32を、前後関係に注意しながら、良く読んでみると『"霊"に対する冒瀆は赦されない。』とのイエスの御言葉の、もう一つの解釈に行き着きます。

 まずここで主イエスが、赦されないほど大きな罪、聖霊に言い逆らう罪と指摘した事件の背景に何があったのでしょうか、良く考えて見ましょう。

 イエスが悪霊を追い出し、目も見えず、口も聞けない人を癒したことがありました。盲人でしかも聾唖者が、目が見え、口が利けるようになったのです。それを見たパリサイ人達が、イエスは悪霊の頭、ベルゼブルの力によって、悪霊を追い出し、癒しているのだと批判しました。それに対してイエスは自分は神の霊によって悪霊を追い出しているのだ。神の霊によって、この奇跡を行っているならば、既に神の国はここに来ているのだと言いました。

 神の霊が存在し支配するところが神の国と言っても過言ではないのです。結果的に実際の神の国が、神の霊を受け入れた人間の心の中にまず始まり、やがて、聖霊に継続的に満たされつつ、信じた者は、実際の神の国が到来する時その中に入れていただけるのです。

 何れにせよ、神の業が、神の霊、聖霊によって行われているのに、その神の業に対して、それは悪霊の力によってなされているのだと批判し、評価していく時、赦されざる罪を犯していることになるのです。つまり聖霊によってなされた神の業を、悪魔の業と言うとき、それが聖霊に言い逆らう大罪なのです。せっかくこの世に奇跡や善い業を顕わしてくれた聖霊を、悪霊の仕業と言って冒瀆するのです。これは赦されざる罪であり、死に至る罪なのです。文脈から言えばこちらの解釈の方が、聖霊に言い逆らう罪の本筋ではないかと思います。

 私達の肉から出る罪には様々なものがあるでしょう。姦淫、偽り、人を憎むこと、実際の殺人、盗み、貪り等です。しかし、悔い改めれば赦されない罪ではありません。『人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦される』(マタイ12:31)のです。このイエスの約束の言葉に、信頼しましょう。

 ヨハネ第一の手紙の中にも、『わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。』(ヨハネ第一2:1~2)とあります。 私達が召されたのは罪を犯さないためであるが、もし罪を犯してしまっても、天にはとりなしをして下さっている、神の御子イエス・キリストが弁護者として、御父の隣に座しており、赦して下さると書いてあるではありませんか。『だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。』(ローマ8:33~34)

 

 さて、ここで、表題のヨハネ第一の手紙とパウロ神学との統一性について考えて見ましょう。

 ヨハネは真理を見抜く目を持っていたに違いない。彼は必ずしも福音を理論的には捉えていなかったかも知れないが、その教えは実践的であり、聖霊によって雷の子から愛の使徒に変えられた経験がありました。

 ヨハネ第一の手紙を貫く言葉それは愛です。神の愛、御子の贖罪の愛、そしてキリストと神の御言葉と聖霊に結び付くことによって、人間の内に育まれる、兄弟愛です。そしてそれこそが神の掟であり、掟を守ることが神を愛することであるとヨハネは言っています。

 しかし掟を守ることが、たとえそれが兄弟愛の実行であったとしても、生まれつきの、堕落した肉の人間の努力や、あるいは後天的に取得した教育や、訓練、技術等の、肉の努力で出来るのでしょうか?

 私はある程度は人間の社会制度、社会福祉や奉仕やヒュマニスチックな考え方によって、それは出来るとは思います。しかし、根本的に考えれば、キリスト教的世界観においては、それは出来ない。自己中心であり、利己的な人間が『兄弟のために命を捨てる』(ヨハネ第一3:16)ような生き方は、もしキリストを抜きにしたら、私も含めて出来ないと考えます。

 パウロが言っているローマ人の手紙8章の生き方は、人間の古く変えられていない肉の様は、一度十字架にかけられてキリストの肉と共に破壊され滅ぼされなければ、再生など出来ないと言うことです。これはキリスト教の根幹に関わる問題であって、人間の努力や修行によって新生されることはあり得ないのです。何故イエスは十字架についたのか?それはパウロに言わせれば、私達の肉がイエスと共に十字架で『処断』(ローマ8:3)されるためです。ここでローマ人への手紙の解説を再び始めることは、長くなるのでしないが、詳しくは私のホームページhttps://paurosyokann.webnode.jpローマ人への手紙の解説8章を参照されたい。(リンク有)右上端 ≡印 メニューから入って、ローマをクリックしてください。

 ヨハネ第一の手紙の中で、ヨハネが主張する、愛の生活は、キリストに結ばれ、御言葉にとどまり、聖霊との交わり、父なる神の愛の深さを理解すること、そして、『御子の内にいつもいる』(ヨハネ第一3:6)ことによってのみ可能であることが分かります。

 ヨハネ第一の手紙と、ローマ人への手紙で展開するパウロの主張は矛盾しないのです。それは、表現方法の違いであり、パウロはそのことを、表面的な、文字面に拘泥する、肉の力による律法遵守から解放され、信仰によって義とされ、霊が解放されて生きることが出来ると主張しています。

 パウロによれば、私達の自己は原理的に十字架についたのです。キリストにあるものは、既に古き自分は死んでいることを認めるべきで、死んだ者は、罪からも解放され(死者は罪を犯すことが出来ません)、律法から解放され(律法は死者を縛ることは出来ません)、良心の咎めも取り去られ、キリスト者の自由を味わい、自分で自分を裁くことすらしないで生きて行くことが出来るのです。

『わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。』(第一コリント4:3~4)

 キリストの恵みの中で、聖霊の溢れるばかりの満たしを受けて、霊によって新しい生き方で、神に仕えて行くのです。

『しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、"霊"に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。』(ローマ7:6)

 霊は解放され、良心の咎めからも解放され、律法の養育掛用法からも解放され、キリスト者の自由を味わい、律法の下にいることを止め、恵みの下に生きる決心をするのです。キリストの愛と赦しを継続的に身に受けて、復活したイエスの霊の支配の下に生きて行くのです。今日をキリストの勝利した復活の霊の支配の下におらせてくださいと祈りつつ歩むのです。霊の支配下のもとに私達を縛っている、古い宗教的概念を突き破ってしまうのです。霊が解放されるのです。祈りのうちに、キリストにあって自由な存在となり、何をやっても、「則を越えず」と言う生き方が出来るのです。

 第一のアダムにあって死に定められ、死とその結果もたらす、肉の堕落の支配下の中にある私達を解放するため、キリストは第二のアダムとして、人類の代表として復活なさった。もはやこの弱い私達も復活の力を受けて、キリストの義の支配力の中で強く生きて行くことが出来るのです。律法の表面的な文字面の下に、自己満足的な肉の守り方の中に安住するのではなく、聖霊によって、『「隣人を自分のように愛しなさい」』(ローマ13:9)を実行できる力が与えられ、新しい生き方で、生きて行くのです。

 パウロは神に対する律法遵守の義務を指摘しなかったわけではありません。例えば、コリント第一の手紙8~10章で偶像を拝むことに対して、その当時の偶像に捧げた食肉の習慣を踏まえながら、そのような様々な場面設定の中で、市場で売られているものは一々気にせずに何でも食べなさいと言いながら、悪霊に仕える仲間になってはいけないと強く警告しています。これは偶像礼拝のただ一事を禁じているのではなく、神の十戒の1条~4条までを含んでいると考えるべきです。そしてヨハネ第一の手紙の最後の言葉もそうだと思います。ヨハネは兄弟愛だけを信仰の結果として強調していたわけではなく、心を尽くし、精神を尽くして、思いを尽くして神を愛するとき、偶像礼拝の禁止を含む十戒の1条~4条を、当然、守らなければならないのは、彼の心の中では、自明の理であったのです。

 ですからヨハネはヨハネ第一の手紙の最後の言葉で、突然、突拍子もなく、『子たちよ、偶像を避けなさい。』(ヨハネ第一5:21)との一文を挿入しているのです。 

 さて、このように私が記述して来ると、何か肉の、生まれつきの能力、意志や努力で、神の律法を守らなければならないと、私が主張しているように誤解されるかも知れませんが、決してそうではありません。

 もし人間が持っている精神力で神の律法が守れたり、意志の力だけで、神に従って行けるとしたら、精神力の強い人や、意志の強い人だけしか救われないのではないでしょうか。何度も書いてきましたが、人間は、良く考えて見れば、本来利己的だし、弱い、力のない存在であって、神に頼って生きていくことによってしか、本当の生き方が出来ない存在なのです。

 最後にもう一度、繰り返しますが、神の愛、贖罪、律法について私の立場を述べたい。

 律法を守るという言葉が良いかどうか分かりませんが、真に律法、道徳律を守る(守ると言う言葉では実は表現しきれません、相応しい言葉が見つかりませんので、この言葉を使います)ことは、イエスの御言葉の実行に他なりません。それは、ただ御霊によって造り変えられた者がキリストと一体となることによってのみ実現できることなのです。

 肉の生まれつきの力に頼るのではなく、自分の肉をキリストの処断された肉と共に、十字架上で、磔にしてしまうのです。彼と共に、自分自身の肉も破壊され、心底から聖霊によって新たにされ、自分の肉の五体は、霊を入れる器として、再び生かされていく生き方なのです。

 アバ父よと呼ばせるキリストの霊と、自分の霊が、共に協力し、共に証ししてくださること。ここに勝利の秘訣があります。『わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。』 (ガラテヤ6:18)自分達の霊が、イエスによって恵まれる、アバ父よと呼ばせていただくキリストの霊と共にいることが出来るのです。それだけで最高の祝福であり、幸せな生き方なのです。

 私の霊と、キリストの霊が共に協力し、共に証しして下さるとき、愛の行いとしてのキリストの律法が成就されていくのです。

 それは友のために命を捨てるほどに愛しなさいというキリストが言われた、究極的な意味での愛の律法であります(ヨハネ15:13)。

 また、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』(マタイ22:37)と言う神に対する真実な愛の実行です。

 父なる神と、御子イエスを信じていると言う公の告白の為には、この世の命も捨てるほどの神への全身全霊をかけた信仰の言い表しです。

 要するに、見えない神の為にも、見える人間の為にも、究極的には自分の肉の命を捨てるところまで、真理の深淵の面が、クリスチャン生涯において、必然的に表わされていくのです。キリスト教信仰は中途半端を許さないのです。

 しかし、勘違いしてはならないのは、そのような、自分の命を捨てられるような信仰の力は、私達の生まれつきの肉の自分にはないのです。もしそのような信仰が持てるとしたら、それは、キリストが私達に与えて下さった聖霊の励ましによります。

 私達の心の内に御霊を通して宿ってくださるキリストが、私達を励まし、神の御心を行えるように、変えてくださるのです。ですから、私達のうちには何の力もありませんが、ヨハネが第一の手紙で繰り返し言っているように、キリストを心の中に宿し、いつもキリストに固く結ばれて、キリストにとどまることが、総てと言っても良いのです。キリストにとどまり続けることが、すべて信仰の勝利の秘訣なのです。  

 『さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。』(ヨハネ第一2:28)


《参考》

「グノーシス主義」は、宗教というよりは、一種の思想運動です。紀元1世紀から2世紀にかけて盛んになり、3世紀には衰微していきました。その内容は多様ですが、おおよそ以下のような点が確認されています。

(1)グノーシスとは、「知識」、「認識」などを意味するギリシヤ語です。グノーシス主義は、人間はある「霊知」(グノーシス)を持つことによって救済されると教えました。そしてその「霊知」をもたらすのがキリストだというのです。

(2)グノーシス主義は、徹底した霊肉二元論の立場を採りました。そして、霊は純粋で神秘なもの、肉(物質)は罪悪性を持ち堕落したものであるとしました。このような立場に立つグノーシス主義は、聖書の創造論とは真っ向からぶつかるものでした。グノーシス主義によれば、世界を創造したのは絶対者としての神ではなく、より下級の造物者であり、そのため物質界は罪悪性を持っているとされました。また、人間が罪ある者である理由は、肉体を持っているからであるとも教えられました。

(3)当然の帰結として、グノーシス主義は、聖書の重要な教理をいくつも否定することになりました。絶対者である唯一の神が万物の創造者であるという教理の否定、イエス・キリストは受肉した神の御子であるという教理の否定、人間は恵みと信仰によって救われるという教理の否定。

(4)グノーシス主義は、肉体のみを罪悪視したため、内面にある罪の問題を考えることができませんでした。その教えは、禁欲的、戒律的なものとなると同時に、霊の神秘性を強調したために密儀宗教の性質を持つようにもなりました。これは、福音とは全く異質の教えです。

出典:クレイ聖書解説コレクション「ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙」


グノーシス派

 前キリスト教的東方的起源をもつ古典ギリシア後期の宗教運動の一派。

 グノーシスとはこの場合神の秘儀についての直観的認識 (霊知) であり,これを根本思想としたキリスト教の分派は1世紀に起り2~3世紀に多様な発展をとげたが,正統教会より異端とされた。彼らは宗教的に徹底した霊肉二元論をとり,人間も本来は自己のうちに神の火花を有し,また地上界からの解放の欲求をいだいており,この人間の自我 (精神) に救いとしてのグノーシスをもたらすものが天上界より下ったイエス・キリストで,このグノーシスによって人間は初めて救済されるにいたると説く。 

 またグノーシスをもたらすキリストはもとより罪の物質とかかわるはずはなく,したがって霊的キリストと歴史上のキリストとは本質的に結びつかず,受肉や受難はすべて仮現的であると主張する (→キリスト仮現説 ) 。

 このグノーシス派のおもな代表者としては,2世紀のウァレンチヌス,バシレイデスがいる。同じく2世紀なかばのマルキオンの思想にもグノーシス派と共通するところがある。グノーシス文献は大部分が散逸したが,エイレナイオス,テルトゥリアヌス,ヒッポリツスなど教会著述家の証言とナグ・ハマディ文書が重要な資料である。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

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