ヨハネによる福音書4章

          ヨハネによる福音書4章

 イエスの弟子が、ユダヤでバプテスマを授けていたところ、バプテスマのヨハネより多くの人達が弟子となってきた。そこでイエスは、バプテスマのヨハネ達の働きの妨げにならないために、ユダヤの地を離れ、再びガリラヤのカナに向かおうとされた。エルサレムからカナまでは約120㌔ほどある。ガリラヤに行くには、サマリヤを通らなければならなかった。サマリヤのシカルの町にヤコブが掘った井戸があった。

 シカルはヨルダン川西岸にあり、非常に乾燥した地で、夏になると最高気温は35℃を越える。現在の地名はナブルス。

 シカルにあるヤコブの井戸のところでイエスは喉の渇きを覚え、座って、旅の疲れを癒しておられた。弟子達は、村へ食糧を得るために出かけており、イエス一人が、ヤコブの井戸べに、腰かけていた。

 ヤコブの井戸は、エルサレムから約60キロほどの距離であり、当時は総て歩きで、エルサレムからここまで1日半ほどの距離を、イエスと弟子達は歩いて来た。時は、昼12時頃であった。この辺の昼の気温は高い。イエスは喉が渇いておられた。そこにサマリヤ人の女が、それも正午頃の一番暑いとき、ヤコブの井戸に水瓶を持って、水汲みに来た。

 女に、『イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。』(ヨハネ4:7)しかし女は驚いた。何故ならユダヤ人とサマリヤ人は交際していなかったからです。

 時を遡り、北王国と南王国にイスラエルの国が分裂していた時代があった。紀元前722年、北王国イスラエルがアッシリヤの王シャルマナサルに滅ぼされた際(列王紀下17:6参照)、アッスリヤから異教徒が入植され、偶像教徒とイスラエル人とが混血し、サマリヤ人となった。このような経緯から、ユダヤ人とサマリヤ人は交際していなかった。

 少し横道にそれるが、アッスリヤに滅ぼされた北王国イスラエルは、失われた10の支族として、歴史の中に消えてしまい、その行方は不明です。この時生き残ったユダ族、ベニヤミン族から構成された南王国ユダも後年、紀元前586年バビロンの王、ネブカデネザルによって滅ぼされるが、やがて再建され、ユダヤの国となる、ユダヤの名称は、ユダ族から来る。

 サマリヤ人はユダヤ人にとっては汚れた、異邦人であると考えられてきた。宗教的純血を保つため、異邦人とユダヤ人とは、見えない『隔ての中垣』(エペソ2:14口語訳)があり、交際することは、宗教的に汚れることであり、認められなかった。

 喉の渇いたイエスは汲むものを持っておらず、サマリヤ人の女の持っている水瓶の器から、女に水を汲ませて飲ませてもらおうと言うのです。汚れた民族が持っている、汚れた器から、ユダヤ人の男が水を飲むと言い出したのです。女はあり得ないこの状況に戸惑いを覚えたのです。

 しかし、イエスはこの身も心も穢れ、身を持ち崩していた、不浄な女(ユダヤ人の価値観から見れば)に声をかけたのです。シカルの町に住んでいるこの女は、町の中でも、鼻持ちならぬ、汚れた人間として蔑まれていたのです。彼女は、5回結婚して、5回離婚し、言わば×5であった。さらに今6度目の男と結婚もせず、ふしだらな関係を続けているのでした。淪落の淵に沈んでしまった彼女が、町の人々の目を避けて、誰も来ない時間を見計らって、日中の暑い最中を、井戸まで水を汲みに来たのです。

 イエスは、この女の行状と、この女がいつも昼12時頃、町の人達の視線を避けて、誰も来ない昼の暑い最中に、水を汲みに来るのを前もって知っていました。既に予知なさっていたのです。イエスは偶然、このヤコブの井戸に正午ごろ、疲れて座っていたのではない。この汚れたサマリヤの女を救うために、わざわざ、ここに、この時間に来て待っていたのです。罪人を愛するイエスは、何と総てに、救うべき魂の置かれた、個々の人々の事情と環境をご存知なのです。

 また、イエスの山上の垂訓の標準から言えば、結婚を重ねていたとは言え、この女は姦淫罪を犯していたと言えるのです。そのような経験をお持ちになる方は私も含めてお多いと思いますが、そのような者たちですら、イエスは良く事情をご存知で、憐みと赦しの対象にしてくださるのです。『「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」 』(マタイ5:31~32)

 イエスは罪のど真ん中、その最中にいる人々を、最も良い時期に、来て救って下さるのです。キリストとの出会いは、人によって千差万別であり、それぞれです。この女のように、淪落と、堕落の極みの中で、絶望していても、ギリギリのところでキリストを見出し、人生の泥沼の中から救い出されれ人もいるのです。

 命の水について、イエスはこの世の肉体の命を維持し喉の渇きを癒す普通の水と、イエスだけが与えられる命の水と二つあることをこの女との会話の中で示唆されました。生きて行くためには両方の水が必要であるのは言うまでもありません。水を全然飲まなければ一週間で死んでしまうでしょう。また霊の水を飲まなければ同様に魂が死んで行くのです。

 イエスが神から遣わされたメシアであるから、この世の水ではなくて、命の水をこの女に与えることが出来るのです。そのことを暗に示唆された女は、思わず、『「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」』(ヨハネ4:15) とイエスに願い出ました。しかしイエスは女に命の水、すなわち聖霊を、新し生き方を、永遠の命に至る泉を、何の条件も無しに与えることは出来なかったのです。聖霊(命の水) を女が得るためには、女の過去現在の行状を認めさせ、罪の告白をイエスにしなければならなかった。だから、命の水を与える前に、女に、『「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」 』(同4:16)と言われたです。

 さあ女は困った。今同棲している男は、まだ正式に結婚したわけでもない。『「わたしには夫はいません」』 (同4:17)と答えた。

 そして半ば嘘のような女の言葉をフォローするような形で、イエス自身が女の行状を代わりに告白するような形を、ここではとっています。イエスは女の言葉を受けて、『言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」』(同4:17~18)すなわち、過去の結婚の失敗と現在の男との同棲関係も含めてズバリ言い当てました。

 女は驚いた。そして思った、この人は預言者か、それともメシアかも知れない。何と私が一番言われたくない秘密、今までして来た男性遍歴、恥ずかしい過去、いや現在の堕落した生活状況も含めて総てをご存じの方なのだ。

 この話題についてはもう触れてほしくない。女は、急に話題を変えたくて、そうだこの方が預言者かメシアであるならば、神についての礼拝の仕方について聞いてみようと、知恵をめぐらした。やっぱり自分の行状を、このように男性から、あからさまに指摘されるのは、恥ずかしかったのであろう。 

 サマリヤ人達はエルサレムに上って、エルサレムの神殿で神を礼拝することは出来なかった。それで彼らは彼らの神殿をゲリジム山の上に造営し、そこで独自に神を拝んでいた。

 ユダヤ人は、サマリヤ人の勝手に造った、偽の神の宮で礼拝するような、よこしまな神の拝み方について、非常に嫌悪していた。さらにサマリヤ人は、自分たちがゲリジム山に造営した神の宮こそ、本家本元であると主張していた。

 しかし、イエスはどちらも肯定しなかった。真の神はどこで拝むかそれは場所ではない。神は霊であるから、礼拝する者も霊によって、真理を尽くして、心底から神を拝めば、場所はどこでも良いのです。『この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。』(ヨハネ4:21) 『神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」』(同4:24』 礼拝は場所ではないことを女に教えられました。

 もし、このイエスの言葉が無かったら、私達クリスチャンも、エルサレムの神の宮に出向いて、神を拝みに行かねばならない理屈です。宗教は違うが、イスラム教のメッカ巡礼のように。エルサレムにあった神の真の神殿で神を礼拝したくても、神殿は既に2,000年前、ローマ軍によってすべて破壊され、現在はエルサレムの城壁の一部、嘆きの壁しか残っていない。

 私達、真の神を信じる者にとっての神の宮、すなわち、拝むべき場所はどこであろうか。それは単純に教会であると答えたいところです。教会は祈りの場所であり、毎週、安息日礼拝を捧げる、唯一の聖なる場所だと言っても良い。教会はキリストの身体であり、キリストは教会の頭である(エペソ1:22~23参照)。そのことをしっかりと踏まえ、教会が公の礼拝の場所としての機能があることを認めよう。しかしながら、本質的に考えると礼拝は場所ではありません。神と個人との間の心のありようの問題です。霊とまことをもって祈り、神を拝むなら、自宅、歩きながら、路上、車の中、野山、仕事中等、礼拝場所は時と場所を選ばない。『この山(ゲリジム山)でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する』のです。『神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。』(ヨハネ4:24口語訳)

 

 『「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」 』(同4:25) と女は言った。『イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」』 (同4:26)これはサラッと書かれているが、キリストのメシア宣言です。

 メシアとはヘブル語で油注がれた者の意味。昔、王は神の啓示を受けた預言者から、オリブ油を頭に注がれて、王となった。サウル(サムエル記上10:1)、ダビデ(同16:13)、ソロモン(列王記上1:45)が王とされたのは、オリブ油を頭に注がれることによってであった。

 油注ぎは、神の選びであり、聖霊が注がれることを意味していた。 

 日本語でキリストはギリシャ語の Χριστόςクリストースから来ています。ヘブル語のמשיח マーシアッハを慣用的にカナ表記した呼び方がメシア。両方とも、油注がれた者の意味です。

 キリストはご自身を神より特別に選び分かたれた、油注がれた者、聖霊が選び別った者、メシア、世の救い主であることを宣言なさった。『「それは(メシアは)、あなたと話をしているこのわたしである。」』 (ヨハネ4:26) 

『聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。』(ルカ3:22)

 当時、ユダヤ人たちはメシアとして、この世の王を待ち望んでいた。ローマ帝国の圧政から自分達を解放し、またユダヤの国を約千年前のソロモンの王国のような偉大な国に再興して下さるメシアの到来を待ち望んでいた。  

 しかし、メシアであるイエスが実際に打ち建てたのは、心の中に創られる神の国であった。『ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」 』(ルカ17:20~21)

 現代においてイスラエルの人々、現実のイスラエル国家の中に、ハレディーム、と呼ばれる超保守派のグループがいる。彼らは髭を伸ばし、黒いマントのようなものを着て、頭は独特の被り物を被り、律法を守るのに熱心で、できるだけ昔のような生活様式で暮らしています。未だメシアを待ち望んでいると思われます。男子の第一にしなければならないことは聖書研究ですが、もちろんこの場合旧約聖書のことです。彼らはイエスを救い主と認めないし、イエスはただの人間に過ぎない。新約聖書は受け入れていないので彼らにとっては神の言葉ではない。

 

 女と話をしていた時、弟子たちは食べ物を持って帰って来た。女が町へ人々を呼びに行ってしまったので、弟子たちはイエスに食べ物を勧めると、イエスは私にはあなた方の知らない食べ物があり、それは神の御心を行い、御業を成し遂げることだとおっしゃった。

 今から、刈入れの秋までまだ4か月もあるが、実は魂の収穫はもう始まっている。魂の畑は色づいている。他人が種をまいたものを、あなたがたが刈入れるために、あなたがたを遣わすのだとイエスは弟子たちに教えられた。

 女は、水を汲むのも忘れ、水瓶はそこに置いたまま、自分の恥ずかしい人生を言い当てられたことの証しをしに町へ戻り、イエスこそメシアではないかと町の人々に伝えた。その結果多くの人々がイエスを信じるようになった。さらに2日間イエスはシカルの町に滞在し、町の人々に直接教えられた。その結果さらに多くの人々が信者になった。町の人達は、もう女の言うことだけではなく、実際に自分たちでイエスを見、その教えを聞いて、イエスこそ本当の救い主であることが分かったのです。  

 イエスはガリラヤのカナに再び行かれた。ガリラヤの人達の中には、イエスが宮清めをしたり、不思議な業をするのをエルサレムで目撃していた人達もいて、イエスを歓迎した。

 ガリラヤ湖畔、北端の町カファルナウムは、イエスが今滞在しているカナからは東へ約30㌔下ったところにある。カファルナウムから、息子の重い病気を治してもらいたいと、役人がやって来た。彼は王に仕えていた、かなり身分の高い役人であったようです。『イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。 』(ヨハネ4:48) 彼はイエスにカナから、自宅のあるカファルナウムまで下ってきてもらい、死にそうになっている息子の病を癒してもらいたかった。しかしイエスはこの役人の思い通りには動いて下さらなかった。ただ彼に『「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」 』(同4:50)と言葉だけを与えて帰された。それは午後1時くらいのことであった。役人は自分の信仰を反省し、しるしや奇跡を見たからイエスをメシアと信じるのではなく、ただ『あなたの息子は生きる。」 』と言われたイエスの言葉だけを信じて帰途についた。現象が起きる前に、イエスの約束の言葉だけを信じて帰って行った。

 カナからカファルナウムに下って行く途中、役人の僕たちが、彼の息子の病気が癒されたのを知らせに来た。それは既にイエスと別れてから翌日のことであった。役人は息子の熱が引いて、病が治ったのはいつ頃のことか聞くと、『僕たちは、「きのうの午後1時に熱が下がりました」と言った。』(ヨハネ4:52) それは昨日イエスが役人に、『あなたの息子は生きる。」 』と言われた時間であった。

 役人はカファルナウムの自宅に帰ったのち、熱が下がり元気になった息子と喜んでいる家族と再会し、家族全員が、また、たぶんその僕たちを含めてイエスの信者になった。彼は王に仕える役人であったからその財産は相当なものがあり、カファルナウムで、有力者でもあったと考えられます。彼の家族と僕がどのくらいの人数だったかはハッキリ書いてないからわからないが、相当な人数だったはずです。イエスの信者となった彼らのカファルナウムにおける改宗の影響力は、とても大きなものだったろう。

 さてここで、奇跡とそれをもたらす宗教概念について触れておきたい。聖書の中に、病の癒しを含めて、色々な形の奇跡、神の大いなる業が書かれています。そもそも神の存在と奇跡を信じないならば、聖書の信仰は成立しない。現代の人間が科学的な頭で聖書を読むと、病が癒されたり、視覚障害者の目が見えるようになったり、死者が生き返ったり、何と迷信に満ちた、非科学的なバカげた世界だろうと思ってしまうでしょう。実は私も信仰に入る前、若い頃は、進化論を信じる、そのような考え方をしていた人間でした。

 しかし、聖書を勉強するようになって、神の存在を知るようになり、今までの科学的な世界観はだいぶ変わってきました。聖書が書かれている内容は、奇跡を含めて、全部本当に起きたことなのだと信じれるようになりました。正直に言うと、すぐ信じれるようになったわけではないです。私の進化論的な、科学を第一と考えるような理性は、信仰の世界に対して、相当抵抗を試みて来ました。例えば、アダムとエバ二人から全人類が派生したとは考えられなかったのです。

 しかし、自分が聖書を読み、それを神の言葉と信じ、祈り、神の存在に触れて来ると、自分の思考パターンが変わってきました。実際に、自分の周りで、不思議なことが祈りの応答として次々に起こってきたのです。霊の眼が徐々に啓け、実際に、神の御手の業を体験し、新たな人生を踏み出すことになり、イエスを宣教し、証しする側になって行ったのです。

 神の奇跡、大いなる業、それが心の内側に起こる内的なものであろうと、実際に起こって来る、病の癒しを含めた、様々な事象であろうと、それらをもたらすメカニズムは一体どんなものであろうか?

 私はせっかくの人生、それも一回限りの、終わってしまえば短いと言えるこの生の中で、何とか神に触れ、信仰のリアルさを体験したいと思っています。奇跡を経験することも素晴らしいことですが、単なる外面的なしるしだけでなく、新生経験を含めた継続的な内的な再生、キリストの復活の力の体験を、神がお許しになるなら、現世において体験したいものだと考えています。

 そのような体験をする為には、信仰に伴う、何らかの精神作用を含むエネルギーがあることを認める必要があります。そうでないと、その種のことは起こってこないと思われます。

 このことに対するヒントになるイエスの言葉があります。イエスはその独特のユーモアと誇張表現によってある喩えを語られました。

 『使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。』(ルカ17:5~6)

 『イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」』(マタイ17:20)

 これはイエスの誇張表現であって実際こんな現象が起きたことは、見た人もいないし聞いたこともない。からし種は当時、植物のうち最も小さい種だと考えられていました。そのような小さな信仰でも、本当に信じれば、大きな山も動き出して別の場所に移り、桑の木が抜け出して海に根を下ろしてしまうほどのことが起きるとの比喩であろう。

 さてここからどんな原則が読み取れるだろうか。

 私達の経験や、常識を度外視した、信仰のもつ、何か得体の知れない、神との結びつきにおける何らかの作用があります。このことを限られた、人間の言葉で説明するのは大変困難です。しかし足りない言葉ですが、以下に、この事象を私なりの言葉で説明してみよう。奇跡を信じない人にとっては意味不明の言葉となってしまうかも知れないが。

 この信じる者の心と外側の環境に起きてくる不思議な事象が、メシアとしての油(聖霊)注がれた方であるイエスの仲保、父なる神に対する執り成しにより起きて来ます。イエス・キリストの贖い、執り成しが、アバ父よと呼ばれる神に繋がり、聖霊が求める人の心の中に働き始めます。

 人間の頭の中で始まった、祈りの強い思念が、外に迸り出て、何らかの対象を具象化して行くのです。と同時に賜物としての聖霊の力が、イエスを通して、信仰のリアルさを求める人のうちに天から降り、その人の心の内にあって活性化されます。信仰のもたらすエネルギーが、毎日を生きる中で、いつの間にか実態となって、この世界に影響を与えて行きます。媒介としての人間は明らかに神の手段として働きます。この原理は、からし種の喩えの信仰の原理と、同じであろう。神の御言葉の種で始まった最初は小さな精神的な変革が、あらゆるものに結果として大きく作用し始めるのです。

 からし種一粒の信仰が、山をも動かして行く。このことは信仰の一般原則と言って良い。心の中で、信じ切ることによって、神の無限のエネルギーに、無力な土の器である人間が結び付くようになります。そのことは、ある種の精神的解放をもたらします。律法に対して肉の自分が死にます。罪にも死に、律法の肉的努力による表面的遵守の抑圧からも解放され、自己にも死に、あらゆる呪縛、複雑な人間世界の価値観からも解放され、何か新しいことが、始まって来ます。新しいエネルギー、イエスの復活の命の力が、自分の衰えた、弱い心と身体の中に、湧き出て来ます。

 『わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている"霊"について言われた』 (ヨハネ7:38~39)と書かれている何かが起こって来ます。

 イエスの贖い、十字架の死、私達の罪を拭い去ってくれる血潮を信じ受け入れること。自分の罪の身代わり、贖罪の値としてイエスの十字架を受け入れ信じること自体が心の中で起こる聖霊による奇跡なのです。イエスを信じることそのものが神の業です。『イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。』 (ヨハネ6:29)このことが、まず信仰の自己の立ち位置です。つまり神の方で信仰を私達の内側に起こす何かの働きかけをなさり、私達のうちに信仰の心が目覚めて来るのです。信仰が先か、神の働きかけが先かという問題については、微妙なところがありますが、私は神の何らかの私達に対する働きかけが先のように感じます。

 さて信仰するようになったとは言っても、現実には、様々な実際的な日常の活動において、落ち込んだり、失敗したりします。ある時はこの世を生きて行く上で、突然に困難と障害が発生し、深刻な様々な状況に遭遇したり、信仰者と言えども人生の先が見えずに、途方に暮れることもあります。

 しかし、そのすべての行動の中で、神は聖霊を通して、私達に臨在しておられるのです。そして、神を求め続けて行くと、いつもではないが、 ある瞬間に、神の存在にハッキリと触れることが出来ます。それが、からし種一粒の信仰だと思います。不可能を可能にする信仰が起動するダイナミックな原理は同じなのです。

 聖霊に満たされ、父なる神と御子イエスに、親しく祈りのうちに、交わること。イエスの尊い御名により頼み、一生懸命に神のリアルさを求めて行くならば、神はその存在を顕わし、奇跡の業が、実際に、私達の心と体、取り巻く環境に起きて来ます。そのようなことを実存的体験として、これからも持てるように祈りの内に、励んで行きたいと思っています。

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