ヨハネによる福音書6章

      ヨハネによる福音書6章

 ヨハネによる福音書6章の中心は、永遠の命論争です。イエスの言葉は特にこの場面においては霊的に解釈しなければならない。私達は既に永遠の命を得ている、御子を信じる者は永遠の命を得ているのです。

 『初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。』(ヨハネ第一2:24~25)

 イエスの言葉を聞き、その言葉に従い、いつも御言葉のうちにとどまること。それが御子イエスと御父の内にいつもいることになり、そのことが永遠の命なのです。『はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。』 (ヨハネ5:24)

 イスラエルの先祖は、荒野で40年間さまよった時に、天から降って来たパン、マナで養われた(出エジプト16:14~15参照)。しかしこのときの天からのパンを食べたものは、やがて死んでしまった。『あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。』 (ヨハネ6:49口語訳) しかしイエスは真の天からのパンであり、イエスを食し、血を飲む者には、永遠の命が与えられると比喩でお話しなさった。天から降って来たイエス、この命のパンを信じる者には永遠の命が得られ、終わりの日によみがえらさせていただけます。これはキリスト教の根幹をなす教えです。 『わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。』 (ヨハネ6:54)

 『イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」』 (同11:25~26)とおしゃった御言葉こそ私達の信仰の最大の希望であり、文字通り期待し待ち望んでいることです。 

 イエスを救い主として受け入れ、イエスの贖罪を信じ、またイエス自身の復活と、イエスの力による自分達の復活を確信して、霊的に生きることがキリスト教の核心と言っても良い。そのことを土台として、その他にも、宣教、祈り、隣人愛の実行、勤勉な労働、健康的な生活、円満な家庭生活、教会生活(礼拝、奉仕、献金、伝道活動等)、慈善活動 、さらに地域社会への奉仕等多く働きがあります。

 『わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。』( 同6:55~56) イエスは私の血を飲み、私の身体である生きるパンを食せと言われた。このことを聞くと、今までイエスに着き従っていた多くの弟子達は、この言葉を文字通り受け取り、ひどい言葉だと言って、イエスのもとを離れ去った。『ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」』 (ヨハネ6:60) 

 またこれらは、聖餐式に繋がって行く言葉です。『主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。』 (コリント第一11:23~25)聖餐式は儀式として、クリスチャンにとってイエスこそ、真の霊的パンであり、霊的飲み物であることを教えています。その儀式は、十字架の血潮を信じることによって罪が赦される、すなわち律法の行いによってではなく、信仰によって救われると言う新しい契約をいつもクリスチャンが思い起こすことを目的としています。また、常にイエスを信じ、イエスを心に宿し、いつもイエスと共にいることが永遠の命です。信者はこの儀式を通して、イエスと一体化する事を学んで行きます。

 ユダヤ人達は、イエスが『わたしは、天から降って来た生きたパンである。』(ヨハネ6:51)と言われたことを理解できなかった。これらのことは聖霊によってしか理解できないのです。イエスはヨセフから生まれたし、イエスの兄弟も自分たちのところにいたからです。この男が何で天から降ってきたと言うのか。それに、自分を食べれば永遠の命が得られるなどと、どうして人間を食べることが出来ようか。何とひどい教えだ。ユダヤ人達はイエスの言葉を文字通りに受け取り躓いたのです。多くの弟子たちはこのことがきっかけでイエスから離れ去って行った。イエスの言葉はこの場面では、比喩的に受け取らねばならない。イエスの肉を食すと言うのは、イエスを心から信じ、聖霊を心に宿しながら、イエスと共に生きるとの比喩でした。彼らはそのことに気が付かなかった。

 ヨハネ6章には有名なパンの奇跡が書かれています。 1回目(ヨハネ6:5~15)は男子5千人に、5つパンと2匹の魚を、2回目(マタイ15:32~39)は男子4千人に7つのパンと小さい少しの魚を神の祝福と奇跡で増やし、すべての人がパンと魚を食べ満腹した。残ったパンを集めると1回目は12の籠、2回目は7つの籠がいっぱいになった。

 このことを疑うのはたやすいことですが、もし事実でないとすれば、嘘をつくのももっと、上手につくべきではないか。弟子達と周りの数十人位が腹いっぱい食べることが出来たとかの方が、信憑性があったかも知れない。1回目は男だけで5千人、又2回目は4千人とは桁外れである。女子供を加えたらもっと大勢であった可能性がある。『フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。』(ヨハネ6:7) 二百デナリオン(当時の貨幣価値、1日の日当が1デナリオン)は、1デナリオン1万円換算で、二百万円になる。二百万円分のパンを買ってきてもまだ足りないでしょうと、フィリポが概算したのも頷けます。

 パンと魚を増やしたことに、どんな科学的な根拠があろうか、どんな説明が出来ようか。これは信じるしかない。私達はその場にいたわけではないから。イエスはこの世、地球、物質を造られた。『万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。』(コロサイ1:16~17)。だから、パンを造ることは容易なことだ。そうは納得してみても、どうやって?目の前で、一つ取る度に、パンと魚がピョコピョコと増えて行ったのであろうか。

 このパンの奇跡はあまりにも有名な話です。このことをもって、だから宗教はまやかしであり迷信であり、信じることは出来ないと、もし考える読者がいるとすれば、私は科学的な頭ではその通りであると言うしかない。そのような方々に対して、これらの奇跡は本当にあったことだと説得する術を持たない。しかし、私は聖書のすべての記述は、その病の癒しや奇跡も含めて、本当にあったことだと信じています。そのように自分の信仰として、証しするしかない。聖書の都合の良い部分だけを受け入れ、理性では受け入れられないものは否定すると言うわけにはいかないのです。

 神の子としてイエスは、自分の言葉を聞くために集まってきた人々の状況をご覧になって深く憐れまれた。飼う者のない羊が、お腹を減らして、右往左往しているような、何千人もの人々の当時の現実を見られた。『イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。』 (マルコ6:34)。このままでは、イエスの言葉を聞きに集まった大勢の群衆がまいってしまうだろう。そこで肉体の必要、空腹である状態を癒すために奇跡をなさった。

 『「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」 』(マタイ15:32)

 イエスは私達の肉体を養わなければならない必要性に対して、同情してくださっています。ただ霊的必要が満たされればこの世で生きて行けるわけではない。実際に腹が減れば、何かを食べなければ生きていけないし、元気が出ないのです。イエスは私達の肉の必要にも関心があり、必ず祈りに答えて、満たして下さるのだと言うことをこの物語の教訓として覚えておこう(もちろん、霊的必要を満たすのが第一であるが)。

 三年半にわたって大干ばつが、イスラエルにあった時、エリヤにカラスがパンと肉を運んできたこともあります(列王記上17:4~6参照)。

 話は奇跡物語の追加になるが、イエスの水上歩行の話が次に続いて行く。これは共観福音書の方が詳しく説明しています(マルコ6:47~52、マタイ14:22~33参照、ルカは水上歩行は書いていない)。

 しかし敢えてヨハネは水上歩行 の記事(ヨハネ6:16~21参照)についてはあまり強調していません。さらりと触れているだけです。ヨハネにとって、イエスが湖の上を歩いたり、嵐を静めたりするのは、神の子の権威をもってすればあたり前の話であったのです。これらの一連の奇跡は、イエスがただの人間ではなく、神の子であり、本質的に神と同等の方であったことの証明のためだったのです。

 ヨハネによる福音書の焦点はあくまでも永遠の命、復活の力を持ったイエスです。

 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。(ヨハネ6:47)信じる者には永遠の命が既に始まっている。御子を持つ者には永遠の命が始まっているのです。

 『わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」』(同6:39~40)

 イエスは、私達の肉眼には見えないが、聖霊と言う形でお住まいになっているのです。そのことによって、今既に、私達の心の中に永遠の命が始まっており、やがて終わりの日によみがえらせていただける。これがヨハネの強調点でありヨハネが書いた手紙にすべて見られる特徴です。少数の信仰の篤い人だけが救われるのではありません。その中には信仰の薄い私や、あなたや、弱い人たち全員が含まれているのです。『「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。』(ローマ10:13)と書いてあるではありませんか。

  『地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ。わたしは自分をさして誓った、わたしの口から出た正しい言葉は帰ることがない、 』(イザヤ45:22~23口語訳) 

 「YHWHは我が救いである」の意味であるイエスの名を信じれば、総ての人が救われるのです。イエスの救いに与かるためにどうすれば良いのでしょうか?『わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。』これが答えです。『わたしは神であって、ほかに神はないからだ。』人間の為にご自分の命を捨てる神など、他のどこにもいないのです。

 神の言葉の保証の誓いがあるのです。神が発せられた言葉は神の誓いです。『わたしは自分をさして誓った、わたしの口から出た正しい言葉は帰ることがない、』 これは神のお約束なのです。イエスも『わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである』これが神の御心であると、保証なさっているのです。

 

 さらに、信仰の成長によって、さらに高みを目指すように私達を導きます。恵によって永遠の命の確かさに引き入れられた者は、神と兄弟のために、時には、自分の命を捨てるほどの愛の行いをするようにヨハネは勧めているのです。

 私はヨハネが書いた福音書及び彼の第一~第三の手紙を含め、ヨハネがかなり晩年になってから書いたものであり、口述筆記させたものであるとの学説に賛同します。仮に、そうだとしてヨハネによる福音書を読むと、色々な場面が理解でます。人間晩年になればなるほど、過去起きた自分の人生の様々な出来事の中で、重要でないものは忘れてしまう。何か著しく記憶に残っているのは、自分が興味を持ち重点的に考え、思索を深めたテーマに関することです。またショックを受けた瞬間のことも覚えています。このような記憶のメカニズムがヨハネにも働いたのではないか。

 ヨハネによる福音書は、まず弟子達とイエスの出会いを描き、その後ニコデモの新生、スカルの淪落の女性の悔い改め、ベテスダの池の重病人の癒し、盲人の開眼、ラザロの病死と奇跡による復活と続き、受難週へと入って行きます。心の癒し、罪の悔い改め、病人の癒し、視覚障害者の癒し、そして死人の復活と、ヨハネの意図的な編集方針を感じます。

 さらに、ヨハネによる福音書の半分を受難週が占めています。これこそヨハネによる福音書がヨハネ晩年になって書かれたと言う証拠ではないか。共観福音書では受難週はそれぞれの福音書のかなり後ろの方に出て来ます。しかし、21章からなるヨハネによる福音書では、12章から既に受難週が始まっています。奇跡よりも何よりも、ヨハネの伝えたかったことは、イエスの十字架、その後の復活、復活後イエスと親しく会話をした、ティベリア湖(ガリラヤ湖)での再会の出来事等なのです。

 聖書の記事の中に、私達がオヤッと思えるような、些細な描写の違いが、各福音書記者の個性により出て来ます。どうもなんだか読んでいて、スッキリしないこともあります。しかし、ヨハネによる福音書の最後の章におけるリアルな復活のイエスとの三度目の再会の出来事。炭火を囲みながら、焼いた魚とパンをイエスと食べた朝食の思い出、そこでの会話は、真実で心に迫るものがあります。到底作り話とは思えないのです(不信仰な言い方ですが)。

 

 ユダヤ人達はパンの奇跡をもって、イエスを預言者であると評価し、イエスを王として祭り上げようとした。この世のパンを食べることによって満腹したからです。『イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。』 (ヨハネ6:26~27)。

 しかし、イエスを追いかけてきた彼らが、天から降って来た神の霊的パンである救い主イエスを信じるように言われた時、ほとんどの人がイエスから離れ去って行った。ローマの圧政から解放してくれる指導者、革命家、この世の王を求めていたのに、イエスは霊的な神の国を説き、そこに入るには、悔い改めて、心が新たにされなければならないことを教えられたからです。彼らは自分たちの今までの生き方、この肉の世の風習、価値観、考え方、物質が満足されればそれで良い、取り敢えずこの世のパンでお腹がいっぱいになり、病気が治り、また平常の罪深い毎日が楽しく過ごせればそれで良いと考えていたのです。自分達の生き方や、価値観を変えようとは思いませんでした。だから彼らは、一連のどんな奇跡を見ようが、最終的にはイエスを拒み、十字架に付けて行く側に回って行ったのです。

 私達も同じではないだろうか?私達の周りの神を信じていない人々、世俗の人々のことを考えて見よう。確かに、神を信じていなくても、良心的で、良い方々はいっぱいいる。しかしそれらの人々は、世の中の楽しみを楽しみとして、肉の必要を満たすために、働き、世のレジャーや、美味しものを食べたり、旅行に行ったり、立派な家を建てたり、嫁いだり、娶ったりしながら、世俗の価値観の中でのみ生きている。物質の繁栄を第一にする価値観、利己的で、俗物的で、この世を喜び、娯楽と、宴楽を楽しみ、酒を飲み、タバコを吸い、あるものは賭け事に興じ、自分が生活の主人公であり、神の前に遜ることもなく、自分の人生は自分で決められると思い、神抜きに、人間中心に物事を考えて生きているのです。肉の世を刹那的に楽しみ、自分の生きている時間を安泰に過ごすことが出来ればそれで良いのです。人生は短く終わってしまい、その後のことは考えもしないのです。寿命尽きればすべて終わり、後は何もないのです。

 正月には神社にお参りに行くが、宗教は己の肉の欲望を満足させる方便としか考えていない。神なしに、自分の肉の力で、あるいは教育や、毎日の自己の努力だけで生きて行けると思い込んでいるとしたら、どんなに不思議な奇跡を見ようと、結局は、自己信頼して行く以外に生きようがないのです。

 私達ももし、そのような価値観で、信仰をしているとしたら、イエスから遠い生き方をしてしまうのではないだろうか。私達はイエスを信ずる信仰の中に、何を見ているのだろうか。自分の生き方を変えずに、ただこの世的に祝福され、この世的な繫栄の内に幸せに生きて行くことなのだろうか、実はそこが問題なのです。

 私達は『キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。』(コロサイ3:11)となるように生き方を変えるべきです。イエスからは一日も一刻も離れない生活をしたいものです。自分の物の考え方、価値観を、全て聖書に約束された御霊の感化のもとに変えていく必要があります。何故私は、世間の人から見たら、愚か者みたいな、時間の使い方をしているのだろう。退職後の時間を、毎日聖書を読み耽ることに使い、朝目覚めれば、ディボーションに相当な時間を割き、毎日ゝ、聖霊が昔の如く、自分に注がれるように懇願し、自分の為にも祈るが、祈りはほぼ、自分の親族、子供、孫、友人、知人、教会の信徒、また病の方々に対する癒しの懇願であり、他の魂の救いのためです。いったい私は何なんだろうか。私は気が狂ってしまったのだろうか?否、そうではない。

 キリストを信じて、己を十字架に付けて、生きて行こうとしているだけなのです。永遠の命のために、自分の肉の命をキリストが破壊された肉と共に、処断してしまおうと思っているだけなのです。この価値観に賛成していただける人は果たしてこの世に多くいるのであろうか?

 キリストは今日この瞬間、私達に対して、『「あなたがたも離れて行きたいか」』(ヨハネ6:67) とおしゃっているのではないだろうか。私達も自分の生き方、価値観を根本的に変えようと思わなければ、キリストについて行くことはできない。

 それにしても、人間の心の何と移ろいやすいものか。しるしや奇跡を見て信仰の根拠とする信仰は危うい。その事象的な感動はすぐ薄れてしまう。しかし心の中に、イエスの言葉を聞きその命の御言葉を味わい、十字架の贖いの中で魂の安らぎと罪の赦し、さらに聖霊によって、新しく質の異なる霊の命をいただいた者は、イエスに固く結ばれて揺るがなくなるだろう。復活の命の御霊を心の内に宿し、イエスとの深い交わりの内に継続的に、イエスと共に生きることが最大、最高の勝利の秘訣です。キリストに密接に結びつくことが、私達の最大の喜びであり、生きる力の源なのです。

 パンを食べて驚いた人々の信仰は外面的な奇跡を見てイエスを神の子として信じただけであって、心の内面は何も変わっていなかった。だから内面が信仰によって変わるようにイエスが不思議な比喩で教えられた時、彼らは全く理解できなかった。彼らの心は、すぐに暗くなり、悟ることなく、イエスから離れて行ったのです。

 ヨハネは、6章に有名なペテロの信仰の言い表しについて書いてているが、それは5つのパンの奇跡が行われ、水上歩行をした後に起きたこととして書いている(ルカには水上歩行の記事はない)(ヨハネ6:68)。マタイとマルコは、イエスは5つのパンの奇跡の後、水上歩行があり、その後、ゲネサレトでの病人の癒し、ティルス、シドンの海岸あたりを巡り、フェニキアの女の娘を癒し、さらにいくつかの事件を経て、デカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へ帰って来て(マルコ7:34)再び七つパンを4千人に給食し、その後ペテロの信仰の言い表しが出てきます。時系列的には、マルコやマタイの記述通りだと思うが、ヨハネはこの間に起きた事柄を大胆に省略し、5つのパンの奇跡の後、イエスの水上歩行があり、それからすぐ、ペテロの信仰の言い表しの場面の順で描いています。

 これらのことから推測されるのは、ヨハネの福音書の焦点は、永遠の命を与えるパン、イエス・キリストであり、それ以外の事象は、かなり簡単に書いていることです。マタイによる福音書に書かれているような、水上歩行の時に起きた事件の詳細、すなわちペテロがイエスのところまで水の上を歩いて行き、疑いの心が起きて、途中で溺れそうになったことなど敢えて割愛しています。水上歩行の詳細は書かれていないし、ペテロの信仰の言い表しも短く触れているだけで、イエスからペテロになされた賞賛の言葉もありません。

 このパンの奇跡を為された後、命のパン論争があり、その結果多くの弟子たちは離れ去り、12弟子も離れて行くのかとイエスは弟子に問うた。『そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」』(ヨハネ6:67~69)

 この前後の記事は共観福音書に比べてかなりの省略がヨハネによる福音書にはあります(マタイ16:16、マルコ8:29、ルカ9:20参照)。あなたがたも離れて行きたいのかと言うイエスの言葉に対して、ペテロは答えたが、そのことに対するイエスのペテロに対するお褒めの言葉も、ペテロに天国のカギを授けたことも、ヨハネは記していない。しかしペテロの立派な信仰告白は、イエスをメシア、世の救い主として、表明したものであり、この時点では最高の信仰告白であった。

 ペテロは、イエスをメシアであると告白をしたものの、彼の最初の理解ではイエスがこの世の王となり、ローマの圧政から解放して下さるリーダーとしての救い主であった。その証拠に、その後間もなく、イエスが十字架で死ぬことを予告し始めると、そのようなことがあってはならないと、この世の考えに、自分の救い主イメージを合わせ、イエスを自分の脇に引き寄せ、諫め始めたではないか。

 『このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。』 (マタイ16:21~25)

 直前まで『わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。』(マタイ16:18) とまでペテロを褒めていたのに、イエスの言葉は辛らつだった、『「サタン、引き下がれ。』 愛する弟子、粗削りな、頑丈な身体を持ったペテロ、信仰に対しては熱心であり、指導者としての資格、素質を十分持っていたが、出しゃばりで、でもどことなく憎めないところがあるこの弟子に、イエスはサタンとおっしゃった。この時のペテロの胸中はいかばかりだっただろう。しかしペテロはイエスから離れるようなことはなかった。まだ十字架の意味がよくわかっていなかったペテロであったが、後日、主を否定すると言うような大変な失敗をしながら、自分の浅はかさを悟り、生まれ変わって行くのであった。

 この辛辣なペテロに対するイエスの叱責の後、すぐにイエスはイエスに従う者の真の生き方についてはっきり話される。十字架にかかることを弟子たちに教え始めます。総ての人間のために、全ての罪を負って、神の小羊として、贖罪の羊として、神の刑罰を人類の代表としてお受けになることはイエスの最大のこの世に来られた目的だった。そしてキリストを信じて、ついてきた弟子達に、それは今聖書を読んでいる私達も含めて、イエスに従う者の真の生き方についてはっきり話される。 『「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。』(マタイ16:24~25)『自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。』(ルカ9:24)

 さらに、この世においてイエスとその御言葉を恥じる者については、イエスも再臨の時にその者を恥じると(マルコ8:38参照)。つまり神とイエスを信じる公の告白のためには、命をも捨てなさいと言うことです。

 結局突き詰めていくと、神と人のために、自分のこの世の命と時間を削り、ある場合には(そのような場面が来ないようにとは願うが)、実際に信仰のために命をも捨てなければならない時が来るかも知れないと言うことを、キリスト教は教えています。

 イエスは神と人間のために命を捨てた。イエスを信じる者もそのように求められて行く。しかし捨てると言ってもそれは永遠の命を再び戴くためであると言うことを忘れてはならない。むしろ既に私達は、目には見えないけれど、私達の内に霊のキリストがおられ、永遠の命が始まっているので、この世の命を捨てられるのです。

 これらの言葉を決して、生まれ変わらない肉の理解力で理解してはならない。人間が肉の努力で自分の命を神と人のために捨てられるようなことはない。これはキリストに、固く結びつくことにより、イエスの内的な生命の迸りから出る変化なのです。肉の私達にはそのような力はない。私達はただただ、主の前にひざまずき、自分の利己心の中にある、自分でも気が付いていないほどの自然に身についてしまった自己防衛本能を、キリストの十字架の上で、処断していただく以外に、そのような変革は起きないと考えます。

 ペテロのイエスに対するメシア表明の後、ヨハネ6章では、他の福音書とは違い、イエスを裏切ろうとしていたユダのことに言及しています。ヨハネは最もイエスの近くにいてイエスの愛された弟子であったことから、ユダの裏切り、心の動きを弟子達の中で一番洞察していたのでしょう。6章の最後に、イエスが12弟子を選んだのに、そのうちの一人ユダが、イエスを裏切ることをキリストは既に予知なさっていたことが書かれています。『すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。』(ヨハネ6:70~71)

 ここから、予定と予知について少し考えて見よう。ユダは、一度イエスの弟子になり、裏切ることは神の予定だったのだろうか?ユダが裏切らなければ、イエスは十字架につくことはできなかったのだろうか?そんなことはない。ユダが裏切ろうと、裏切らないで弟子にとどまっていようと、イエスは人類の救いのために十字架についたであろう。それは神が創造以前の昔から計画されていた、贖いの業でした。十字架はどんな経過をたどったとしても実現して行く神の奥義であったのです。ユダの裏切りがあってもなくても、それは実現することになっていたのです。ユダは最初から滅びに定められていたのだろうか?それともユダの自由意志の選択によって、銀貨30枚(マタイ26:15参照)のために、敵方にイエスを売り渡したのであろうか。

 キリストを信じる者は、父が世の初めからお選びになっています。生まれる前から、救いにあずからせようと私たちをキリストにあって選び別たれているのです。

 『天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。』 (エペソ1:4~5)

 クリスチャンになった私達は、キリストを自分の自由意思で選んで、信じて来たと思っています。しかし先に神の方で引き寄せて下さっていたのです。『わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。』(ヨハネ6:44) 父が聖霊を先に遣わし、父が引き寄せて下さらなければイエスのもとに来て弟子になることは出来ない。『そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」』(同6:65)

 予定説をとれば神に救いを予定されていた人はすべて神のもとに来るはずです。しかし、このことをあまり強調すると、人間の自由意思も、選択の幅もなくなります。人間は自由意志を持っており、信じる信じないは、その人の選びの自由であり、敢えてユダのように、滅びの方を選び取る自由もあります。

 しかし、人間は自由に選んだような気がしているが、その選びの結果も既に神は前もってご存じです(予知)。神は全知全能であるから、当然、前もって人間が選び取った結果をご存じないはずがない。しかし予めそのような結果になることを定めたのではない。予定したのではない。予知しているだけだと言うのがSDA の立場です。しかし、神は予め救われる者を救いに定め、滅びる者を滅びに定めたと言うジャン・カルヴァンの二重予定は、聖書的な根拠はないものだろうか?

 ここで予定と予知の無益な論争はやめよう。予定と予知に関する議論は、あまりそこに深入りしようとしない方が賢明であろう。 人間の思考と言葉の限界が垣間見えてくるのです。私達は自由に神の道を選び取っているが、しかし、神は先に聖霊をお遣わしになって、私達を神の方に引き寄せてくださっていることを素直に、単純に信じて行こう。

 私個人の意見としては、生涯、どんな問題がこ起ころうとも、いつもイエスが示される、霊的な方向を選び取って行く覚悟です。どの道にいようと、人生の道程の何処にいようと、不思議な業をなさり、心に響く小さな声でもって教え導いて下さる神がおられます。聖霊がすべてを教えるのです。『また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで「これは道だ、これに歩め」と言う言葉を耳に聞く。』 (イザヤ30:21口語訳)

 ヨハネもまた、『しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。』(ヨハネ第一2:27)と言っています。

 私達に神の声が聞こえないのは、世の煩いのために、私達の心が鈍くなっているためです。私達が、肉の縛りから、世の富を追求する思い煩いから解放され、自分の知識や、自己信頼からも解放され、罪からも、律法の下にいることからも解放され、イエスの恵みの中に常にとどまるようになり、思うこと、行うことが、自然に則を越えないようになったら、神の小さな声が、日常においても、聞き分けることが出来るようになるかも知れません。そのとき、私達のうちには神からいただいた油、つまり聖霊がすべてのことを教え、真にイエスの内にとどまることが出来るのです。

 しかし、こうは言っても、聖書の御言葉に照らし合わせて、常に自分の思いを軌道修正して行かないと、誤謬に陥る危険性があるので注意しましょう。すべて聖書の御言葉が基準であり、それによってキリスト教信仰は成り立っているのですから。

 ヨハネによる福音書の後半の受難週のところで、実際にユダの裏切りの場面が出てきます。最後の晩餐の席から、裏切りのため退出したユダに対して、ヨハネは『(イエスから)ユダは一きれの食物を受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。 』(ヨハネ13:30口語訳)と印象的な言葉で書いています。ユダは最後の晩餐の席を、一きれの食物(種入れぬ過ぎ越しのパン)を受けた後、途中で離席し、真っ暗な闇夜の中に、その姿を消して行った。周りの弟子たちはユダが何か過ぎ越しの祭りに必要なものを買いに行ったか、貧しいものに何かを施すように、イエスに言われて出かけたのかと思っていたようだ(同13:27~29参照)。闇夜に出て行ったこの瞬間が、ユダの運命を自分で滅びに選び取った決定的な瞬間であった。次にユダが弟子達やイエスの前に現れるのは、イエス捕縛のため兵士や下役どもを連れて、イエスその人を特定するため決めておいた、合図の接吻を持って裏切る場面です。『イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。』(ルカ22:47~48)

 ところで、ユダが晩餐を中座して出て行った時の、その闇、漆黒の夜はいかに暗かったことであろう。それは彼の真っ暗な心を象徴していたのです。人間には恐ろしいことに、滅びを選び取る自由、人生の闇を選び取る自由があります。何もかも失うことが分かっていながら、闇の夜の主権者の声を聞き、滅びてしまう人間の自暴自棄の愚かさがあります。ユダは、裏切りの報酬である銀貨30枚を神殿に投げ入れて、最後に首を吊って自殺してしまいます(マタイ27:5参照)。人間の中には、せっかく神によって与えられた一度限りの人生なのに、何もかも諦めて、様々な理由はあるでしょうが(仕事の行き詰まり、不正、犯罪、裏切り、良心の呵責、自己嫌悪、自暴自棄、人間不信、家族関係の破綻、不治の病、厭世等)自殺してしまう人が多くいます。

 また、ユダが闇夜に出て行ったその決定的な瞬間に、イエスが十字架につくことが決まったと言えよう。これからまだゲッセマネの園の苦闘の祈り、ピラトの法廷での不法な裁判、ヴィア・ドロローサの道行き、そしてゴルゴダの丘の十字架刑と続いて行くのだが。イエスはユダが出て行ったとき、十字架につくことが決定したことを時間の壁を越えて悟ったのです。『さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる』(ヨハネ13:31~32) 人類の救いのため、贖いの犠牲として十字架につくことが確定し、神の御旨を果たし、神の栄光がイエスに与えられた。神もイエスによって栄光を受けられた。完了形である。すべてが確定した、瞬間であった。

 さて、良い意味でも、悪い意味でも、その後の人生が確定してしまう瞬間が、誰にでも訪れるものだ。私の人生のターニングポイントは、何度か書いてきたが、37年前の昭和62年2月夜10時頃、石垣島の、市民球場の入り口で祈った、あの晩の出来事です。

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 あの、神に触れた経験の中に、私のその後の人生が決定してしまったと言っても過言ではない。もちろん、それからも様々な選択肢がありました。その都度祈りながら小さな選択はしてきたのですが、大筋での流れは、その瞬間に決まったと言って良い。皆さんの人生のターニングポイントが来たとき、良い選択はできるのだろうか。真の愛の神を知り、その神が私達に不幸ではなく幸せをもたらそうとしていることを悟ろう。『わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。 』(エレミヤ29:11) 私達を造られた、愛の神がいて、その方に祈り求めることによって、人生のすべての道が開けてくることを知って欲しい。

 『わたしの名(イエス・キリスト)によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」 』(ヨハネ14:13~14)

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