ヨハネによる福音書14章

     ヨハネによる福音書14章

 ヨハネによる福音書14~17章は、文脈から考えると、最後の晩餐の食事を終わってから、その場でイエスが弟子達になさった、次の日の十字架の死を控えた、告別の説教とみなすことが出来ます。ですから14~17章は、イエスが最も大事な教えとして世に残されたものであり、私達も特別な教えとして、肝に銘じておかねばならない聖書の部分です。

 18章になるとイエスは話し終わり、夕食を摂った2階の部屋を後にし、弟子達と共にゲッセマネの園へ向かう。そこで翌日の十字架刑の苦しみが、イエスの心と肉体に前もって臨み始める。イエスは、ゲッセマネの園の中で、弟子達から、石を投げれば届く距離と言うから(ルカ22:41参照)、十数メートル離れ、一人で祈り始めます。ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人はもう少し近くにいたようです。

 ゲッセマネの園で全人類の罪の重荷が、イエスに負わせられてくるのを感じられ、脂汗どころか、血の汗を滴らせながら、人々の救いの為、祈りの内に苦悶するのです(ヨハネ22:44参照)。

 さて、ヨハネ14章の中心テーマは、聖霊です。父なる神、子なる神イエス、聖霊なる神は、三つにして一つの神、三位一体の神です。位格と訳されているペルソナは、古代ギリシャの劇に役者がつけて出て来た仮面に語源をもち、役割を表わしているラテン語です。

 父なる神には全知全能、創造者と言う役割があります。

 子なる神イエスは、人間となり、自らを私達人間と同族になることによって(受肉)、父なる神の愛を分かり易くお教えになる役割を担った。また十字架にかかり、父なる神の刑罰を人間の代わりにお引き受けになった。神は死ぬことが出来ない、人間になって初めて死を経験することが出来るのです。全人類の罪を背負って死ぬことにより、贖罪の働きを成し遂げられた。また、その後、人間の代表(長子ローマ8:29)として死から復活し、やがて信じる者を死から救いだし、御自身と同様に、父なる神のお力によって復活させて下さると言う重大な役割があります。

 聖霊なる神には、イエスが天にお帰りになられてから、父から遣わされた、イエスを経由して来る『助け主』(ヨハネ14:16口語訳)として、目には見えないが、どこにでも偏在する役割があります。しかも聖霊は単なる力ではなくて、個別的、主体的、人格的存在です。

 聖霊がイエスに宿っており、イエスが天の父なる神のもとに帰っても、弟子達は孤児とならず、イエスの愛の戒めを守れば、弟子達のところに目には見えないが、聖霊と言う形で来て下さり、一緒にいつも住んで下さると言う約束がヨハネ14章のテーマです。

 まず、イエスは天国には住まいがたくさんあり、場所の用意が出来たなら、必ず弟子達をそこに住まわせるために、もう一回戻ってくる(再臨)と約束された(使徒行伝1:9~11参照)。復活後イエスは500人余りの人々とお会いになり(コリント第一15:3~8参照)、オリーブ山から、弟子達の見ている前で昇天なさった。まるで夢物語のような話であるが、私達はそのことを事実として信じています。

 それは弟子達がイエスを神格化しようとして、後日、イエスの復活と昇天を創作したのではない。何故なら、私達は12弟子が、そのような虚言を弄して人々を惑わすような方々ではないと、その正直さや誠実さを、神にかけて信じているし、事実彼らは自分達の見たことを、ありのままに書いたのです。  

 宇宙は広い、138億光年の中に2兆個の銀河があると言われています。その一つの銀河が私達の住む2千億の恒星を擁する、10万光年の大きさがある天の川です。宇宙のどこかに、あるいは次元を超えたところに(たぶん異次元の世界に天国はあると私は思うが)、天国が存在し、父なる神と、イエスがそこにいらっしゃると考えてもおかしくはない。超弦理論では、11次元の世界があると言っています。天国が異次元の世界に存在することは、そんなに現実離れしたことではないと私は思う。さらに、マルチバース理論を適用したら、天国はもっと近い存在に感じられるかも知れない。

 

 イエスは天の国にお帰りになられてから既にもう2千年がたつのに、何をしておられるのだろうか?私も時々不思議に思う。2千年間、イエスは何をしておられたのだろうか?SDA教会では、イエスは昇天後、父の御元に帰って、私達の贖罪のために流されたご自分の血をもって、天の至聖所にお入りになり、私達の為に執り成しをしている(ヘブル8:1~2参照)と教えている。さらに1844年からは、執り成しと同時に、審判のお働きを開始されたと解釈している。2千年前、イエスは天にお帰りになって、すぐ天の至聖所にお入りになった。

 天の至聖所において、最初は昇天後のとりなしの段階から、時代が進み1844年からは 、とりなしと同時に裁きの段階に移って来たとSDA教会は独特の解釈をしている。世の終わりの直前の、調査審判の働きをイエスは始められたと解釈している。しつこく言うようだが、仲保の働きと同時進行で、調査審判の働きを開始なさったと教えている。 『神の裁きの時が来た』(ヨハネ黙示録14:7)。これはSDA教会が他の教派と最も教えが違う根本的なところです。このことのゆえに私達は誤解され、救いは十字架で終わっていないなどと教える異端の輩であると非難されてきた。

 しかし救いは十字架のイエスの犠牲で十分に終わっているのです。私達もそのように信じている。私は、個人的解釈であるが、十字架こそ、私の裁きそのものの姿であり、最終的な結論であると信じている。十字架が十分な私の審判の姿であるならば、何故これ以上、神は私を裁かれるであろうか。パウロも言っている、『わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。』 (コリント第一4:3)と。またイエスも言っている、『また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子(イエス)に任せておられる。』(ヨハネ5:22)と。

 調査審判の教理は、私をより深く、十字架の影に、確信をもって、立たせていただくことになること以外の教えではないと考えます。それは、聖所の教えで満ちているヘブル人への手紙の結論でもあります。私達は天の聖所の中で、キリストの肉体なる幕を通って、至聖所に入り、父なる神の臨在の前に出ることが出来ます。イエスの血潮で洗われて、良心の咎めを捨て、確信をもって、はばかることなく、神の御前に近づいて行くことが出来るようになったのです。

 『この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。』(ヘブル10:10)

 『それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所(至聖所)に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕(聖所と至聖所を分けていた幕)、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。』( へブル10:19~23)

 さらに、考えて見よう、裁きは救いではないのか。不当な取り扱いを受け、獄に繋がれていた者にとって、正しい審判がなされることは、すなわち救われることと同じことです。神は世のすべてをやがて裁かれるであろう。しかし、イエスによって贖われた者にとって、それは同時に救いでもあるはずです。言い換えれば、裁きによって救いが確定されて行くのです。

 では他教派の人々よ、イエスは天の父なる神の御座の隣にお帰りになった後、2,000年間何をしておられるのだろうか。このヨハネにある御言葉にあるように、天国の準備、住まいを、私達が住むため用意しておられるのだろうか。それにしては、2,000年は長すぎると思えないだろうか(これは人間的な言い方ではあるが)。

 イエスが、父なる神の御前で、今何をしておられるのか。それは、天の至聖所でのとりなしと、裁きです。そしてその両方が私達の救いなのです。

 

 イエスが場所の用意をしに天国へ帰られる、また『その道をあなたがたは知っている。」』(ヨハネ14:4)と言うと、疑い深いトマスが、主よその道が分かりません、どの道を通るのですか、その道を私達に教えて下さいと言った。するとイエスは有名な言葉を言われた。

 『 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』(ヨハネ14:6)  

 イエスが道そのものだと言うのです。古今東西、アブラハム、モーセ、釈迦、孔子等、宗教的な偉大な方々、また預言者等が出て来たが、私が道だ、私が真理だ、私が命だと確信をもって断言したのはイエス・キリスト以外にいない。

 人々は、様々な道を求め、真理を求め、人生の探求をして来ました。今も真の道は何か、探し求めている方々は多くいます。実は、真理、真の道は私達に既に啓示されており、真近にあるのです。それはイエス・キリストの存在そのものなのです。 

 私は中学生の頃、どうしてそんな考えを持つように至ったか覚えていないが、真理はある、必ず存在すると考えていた。それが信仰によって得られるなどとは夢にも思はなかったが、ただそれはあるし、考えて行けばそこにたどり着けるような気がしていた。

 高校時代になって、西田哲学に傾倒したが、私が理解できるような代物ではなかった。結局、青春時代は、誰かの歌のように、ただ迷いの中にあって、毎日を、自堕落に、悶々と送っていた。私の青春時代は色で表せば、かなり暗いトーンを帯びた灰色であった。そして、時間がたつにつれ、結局は世の中の喧噪に流され、真理を求めると言うような青臭い考えは、どこか心の隅に、いつの間にか追いやられてしまった。

 ところが、憐れみに富む神はそんな私を、SDA八王子教会へと導かれたのです。

 その経緯を簡単に書くと、私がある私立の大学に進学した頃、全くの無宗教であった私の家族は、大酒飲みの父の乱行により、崩壊の危機に瀕していた。母はずいぶん耐えていたが、ついに家出し、私と妹を連れて別居した。私は大学も中途で退学し、アルバイトをしていた。そんな私をSDA八王子教会の長老をしていた叔父(母の実兄)がとても心配して、私達の救いの為に叔父は祈ってくれていた。叔父は昭和飛行機の旋盤工をしながら、昭島市にある自分の家で私の為に印刷関係の写真植字と言うセカンドビジネスを始めてくれ、私は叔父のところで働くようになった。短い期間の働きであったが、叔父には本当に感謝しています。

 誘われるままに、やがて教会に通うようになり、イエスのこの言葉に出会った。「そうだ、私が求めて来た真理はあるのだ。イエスが人生の道であり真理であり命そのものなのだ」と言うことが分かって来た。そして21歳の時バプテスマを受け、SDAの三育学院に入り、牧師となった。私が三育学院に入る前、御霊が特に強く働いて下さり、父は回心し、教会に来るようになり、酒はぴったりと止め、母と仲直りし、父と母共にバプテスマを受けた。少したってから、妹もバプテスマを受け、家族全員がSDA八王子教会の信者になった。

 そのような祝福されて始まったクリスチャン生活であったが、やがて、多くの試練を経験することになります。完全に生まれ変わっていない自分の利己的な性格によって、多くの苦しい経験をすることになるのです。

 せっかく神学科を卒業し、約10年牧師をしたのに、牧師を辞め、離婚する羽目になった。

 しかし、神は私をお捨てにならず、試練の中にも憐れんで下さり、私の悔い改めの声をお聞きくださった。神の不思議な導き以外に考えられないことが起きた。

 牧師を辞職して、5月に石垣島から帰り、それからわずか1ヶ月後、昭和62年6月23日に郵便局長として任官することが出来た。今から36年前のことです。

 その後、2人の子供を引き取って育て、ある時に再婚した。子供は再婚した今の家内が上手に育ててくれ、2人とも順調に育ち、家庭を持ち、孫も生まれた。上の男の子は、東京工業大学の大学院まで出て、情報関係の一流企業に勤め、子供が2人生まれた。孫自慢になってしまうが、下の男の子が今小学校3年生にもかかわらず、Eスポーツ・フォートナイトであるチームに所属してそれなりに活躍している。【フォートナイト ナイン アイデアル のこのこ君】 でグーグル検索すると出てくる。そのうち、のこのこ君のお爺ちゃんが田中清二であると言う方が分かり易くなるかも知れない。

 下の女の子は、東京造形大学を出て、一度絵の関係で生きて行く夢を見たが、途中であきらめ、郵便局でアルバイトをするうち、やはりIT関係に勤める今の伴侶に出会い、今は元気に専業主婦をやっている。子供も1人生まれた。ひょんなことから、2021年に漫画家デビューをすることになった。その時は36歳だった。遅咲きのマンガ家です。 【宝石商のメイド】でグーグルで検索すると読むことができる。ちなみに作者 「やませ ちか」 は娘のペンネームです。2021年12月22日に角川書店より第1巻が発行され、2023年7月22日には第4巻が出ました。お陰様で熱心なファンに支えられ、売れ行きも好調です。 

 私自身は、現在、もう郵便局長を定年退職してから7年と5ケ月たった。時のたつのは速いものです。既に今年(令和5年、2023年)満73歳になり、誰が見ても高齢者です。

 聖書をこれからも深く勉強したいと思い立ち、自分の中だけにとどめておくのはもったいないし、伝道と言う意味もあって、この様な著述に毎日いそしんでいます。ただそれだけでは体が弱ってしまうので、出来るだけ外へ出て歩くようにしています。さらに自己流の他の運動も取心り入れ、SDA伝統の食事からは少し、ブレてはいるが、出来るだけ野菜を食べるように心掛け、たまには玄米を食べ、教会に通い、教会の末席を汚し続けています。禁酒禁煙だけは守り通しているが、決して模範的なSDA信者とは言えない。

 特にまだ信仰を受け入れていない2人の子供、又生まれて来た3人の孫のために、神の導きと守りをを日々祈っています。父は平成25年に亡くなり、母は1月(2023年)に満で97歳になった。最近母の脚が衰えてきたのが気になる。母は二世帯住宅の1階に住み、自分で食事を作り、風呂、洗濯、掃除と何でも一人でこなし、健在です。私、家内、母共にSDA信者です。土曜日には教会の礼拝に出席することを毎週楽しみにしています。こんな平凡な人生を、神から与えられた贈り物であると思い感謝しています。私のモットーは、出来るだけ単純に生きて行くことです。

 いつかは皆、人生の終わりが来て、永遠の眠りに就かなければならない。人間である以上それを避けることはできない。私達の信仰によれば、イエスの再臨の時には、栄光に輝く、朽ちることのない新しい栄光の身体を戴き、眠りから覚める時が来るのであり、そのことを心から信じています。

 この地上の仮とも言えるほどの短い人生(永遠の命と比べれば)、後どれだけ生きるのを神が許されるか分からないが、何とか、聖書、神の言葉を少しでも深く学び、残された短い地上の生活の中でも、生きたキリストを体験し、少しでも宣教の一助を担いたい、そんな気持ちでこの稿を書いています。

 私が中学生の時、母に、「何のために人間は生きているのか」と問い詰め、母を困らせたことがあった。その時の母の困った顔を、まだ覚えている。もちろん明確な答えは母からは返って来なかった。生意気なようなことを言うが、皆さんは、誰かに、「人は何のために生きているのか?何故生きなければならないか?」と質問されて、答えられるだろうか。様々な答えはあろうが、私ならこう答える。「人は真理を発見するために生きているのだ」と。そして真理とは、私にとってはイエス・キリストを聖書を通して、より深く知ることです。

 『「わたしはであり、真理であり、である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』 (ヨハネ14:6)この御言葉こそベストアンサーだと思う。真理はイエス・キリストであり、イエス・キリストを信じることによって、罪が贖われ、救いが得られることこそ真理です。やがて限りある人生の向こうに永遠の命が与えられ、新しい、溢れるばかりの神の愛と、聖霊の交わりの喜びが満ちた、清浄な世界に行くことが出来ます。しかし、もっと正確に言うと、私達は今、信仰によって、死から命に移っている。私達の心の内に、既に永遠の命が始まっているのです。

 『はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。』(ヨハネ5:24) 今は限りある肉の命で、信者であろうと、未信者であろうと総ての人がこの地上を生きています。しかし、信じる者にとっては肉にありながらも、既に永遠の命が、キリストの霊を受けることによって始まっているのです。

 さらに、心底からキリストを受け入れ、祈りの内に聖霊に満たされたなら、自分が『死から命へと移っている』ことを、ある程度自覚できるはずです。それでなくては何のための信仰であろうか。私達の心の中に、魂の救いが与えられ、心に平安があり、御言葉の約束に対する信仰があるならば、『死から命へと移っている』のです。目には見えないが、永遠の命が既に始まっているのです。これが『聖霊の証印』であり、救いの『保証』と呼んでも良いものです。繰り返しになるが、聖霊が自分に臨んでいる自覚はあります。その時は霊の解放感が伴い、自由と、喜び、何とも言えない平安が心にもたらされます。一種の感覚的なものであるが、普通の五感に訴える感覚ではなくて、それを含みながら、もっと奥深いところに感じられる、ハッキリしたものです。

 『あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。』(エペソ1:13)

 『あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。』(同4:30)

 

    さらに御言葉の約束は続く。『神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。』(ヨハネ第一5:13) ヨハネは何故私達に書簡を書いたのですか。それは既に私達の内に永遠の命が始まっていることを悟らせたかったからです。

 『初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。』(ヨハネ第一 2:24~25) 私達が最初から聞いた、罪の赦しの福音の言葉に、いつもとどまり、御父と御子イエスの内にいつも結ばれ続けるならば、それがすなわち永遠の命であるとヨハネは結論付けています。

 イエスが裁くと言われても何も恐れる必要はありません、十字架こそイエスが私達の身代わりになって、私達が受けるべき神の裁きを全面的に受けて下さったことなのです。それは唯一の救いの保証なのです。御子は私達を裁くためにこの地上にやって来たのではありません、救うためにやってこられたのです。しかし、残念ながら、御子の救いの言葉を受け入れない者には、裁くものがあります。御言葉を受け入れない、それがその結果としての裁きであり、滅びであります。救いを受け入れない者にとって、十字架は自分の滅ぶべき姿そのものなのです。やがて神の刑罰を、身代わりの仲保者なくして、自分で受けることになると言うことなのです。

 『わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。』(ヨハネ12:47~48)

 『わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても』の解釈はちょっと難しいように思われます。これはイエスの言葉を全然無視して守らなくて良いと言っているのではないと私は思う。例えば、右の頬を打たれたら、左の頬を出せるだろうか。敵を愛し、迫害する者のために祈れるだろうか。下着を取る者に、上着をも取らせるだろうか。(下着-普通の私達が着ているいわゆる上着、上着-獣皮性の保温できるような今で言えばコート)

 これらのイエスの御言葉を実際私達は守っているのだろうか?たぶん守っていないに違いない。でもイエスは何とおしゃっているのだろうか。『わたしはその者を裁かない』。私はそのようにこの言葉を解釈しています。

 

 イエスの用意された場所、天の父なる神の御元に行くのに、どうやって行くか分かりません。その道を教えて下さい、私達には分かりません。さすが疑い深いトマスです。イエスに今まで、色々教わって来たのに、まだ天国へ行く道が分からないと思っていた。でもイエスは、そのトマスの質問を、無視なさらなかった。優しく、私が道だとおっしゃったのです。

 その質問を聞いていた、悟りの遅いフィリポが、次の質問をイエスに投げかけた。父なる神を見せて欲しい。そうすれば自分は満足します。いったい父なる神はどんな方で、どこに行って、私達は父なる神をどのように知ったら良いのでしょうか。

 この質問には、半ばあきれ顔にフィリポに言われた。『イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。 』(ヨハネ14:9~10)。

 イエスを見た者は、イエスを通して父なる神を見たのと同じです。イエスは自分から話したり、大いなる業をしているのではない。父なる神が聖霊を送り、父なる神がキリストの内にいて、すべてのことをなさっているのです(実は主を信じる私達も同じパターンによる行動、すなわち、イエスが聖霊によって私達の心の中に住んで行動することが期待されています)。そのことをまだ信じることが出来ないのか。それならイエスが行っている業を見て、父がイエスにいることを信じなさい。イエスがどんな業を父より戴いた力でなしてきたかを見なさい。病んでいる人や、重い皮膚病の人を癒し、視覚障害者の目を開け、死者すら生き返らせて来た。『はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。』(ヨハネ14:12) (このことはペンテコステの聖霊降下以後に実現した)。 イエスが父のもとに行って、あなたがたに助け主(聖霊)をくださるよう、執り成す。聖霊が来るとき、あなたがたにこの約束の言葉が成就します。ことが起きる前にそのことをあなたがたに言っておいた。だから、あなたがたは、イエスが父のもとに帰ることを喜ぶべきだ(ヨハネ14:28~29参照)。

 つまり、キリストを信じる者には、キリストのとりなしにより、助け主がやって来て、キリストがやっていた行いと同じような、大いなる業、病の癒し、奇跡の業が出来るようになるのです。

 聖霊の激しい降下によって、イエスご自身が私達土の器の中に現臨し、権威と力を賜い、不思議なことが起きて来るのです。それは世の人々に神の存在、イエスの贖いを信じさせるために他なりません。

 盲人の目を開け、肢体障害者の萎えた肉体を癒し、あらゆる病を癒し、死人すら生き返らせることが出来る。それは自分の力によってやるのではなく、目に見えない形で来てくださっている、私達の内に住まわれる霊なるキリストがなさるのです。再臨前のこの地上においても、神の権威の支配と、栄光を人々に知らせるためです。物理的法則を越えた様々な奇跡を見れば、科学とこの世の知識、進化論に惑わされているこの世の人々も、神の創造の力を知り、イエスを認め、神を信じて行く、キッカケにはなるでしょう。

 この現象は使徒時代において、ペテロやパウロを通して顕著に現れましたが、現代においてはめったに起きるものではありません。そのことを私は神学的にも知的にも、また自己の霊的経験としても認識しています。自分が狂信的になる危険性を十分わきまえているつもりです。どちらかと言えば私自身の性格は何があっても冷静な方だと自負しています。しかしながら、私は現代においても、この著しい奇跡が、キリストの名によって起きて来るものと信じ、期待しております。

 今や使徒たちに降った聖霊の雨が(前の雨・春の雨)、世の終わりの、秋の収穫の時期に降る後の雨となって降る時期(後の雨・秋の雨)だからです。『シオンの子らよ、あなたがたの神、主によって喜び楽しめ。主はあなたがたを義とするために秋の雨を賜い、またあなたがたのために豊かに雨を降らせ、前のように、秋の雨と春の雨とを降らせられる。』(ヨエル2:23)

 

 『わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」』(ヨハネ14:13~14)と弟子達にお約束なさった。天の父なる神に、祈り求める時、イエスの名によって願うならば、何でもかなえてあげようとはどういう意味であろうか。何でもと言ってもそこには必ず制限があります。ここの文脈を良く読めば、それは父がキリストによって栄光を受けるためだと言うかなり、厳しい制限が設けられていると理解すべきです。それは父が栄光を受ける範囲における何でもであって、神の栄光を汚すような、また神の栄光の為にならないことまでは、何でもの中には入っていないと考えるべきです。

 私達の肉の欲望から出た願い事は、父の御旨にはかなわないことが多い。自分の名誉を求め、自分のみの徳を高めることを求めて行くこと。人を貶めたり、呪ったり、相手の不幸を願ったり、また嫉妬心から出たことを願ったりすること。それらは決して神の御言葉に合致しないことなのです。そのような祈りは、どんなにイエスの名によって祈ろうが、かなえてはいただけない。しかし、逆に考えれば、このお約束は、神のご栄光になるのであるならば、人間的に不可能だと思えるような願いであっても、祈りの内にかなえて下さることを意味しています。それが自己の欲望の為ではなく、本当に相手の幸せのために必要なことであるならば、キリストは私達に代わって、私達の祈りを執り成し、父なる神の前に嘆願をして下さるのです。この祈りには様々な奇跡が伴うと考えますが、特に病の癒しを祈り求めることは大事な事です。この世での健康の祝福を求めることは御心にかなったことです。健康でなくては、まず自分自身が快適に生きて行けないです。また十分な活動も、人助けも、教会に対して様々な奉仕活動も出来ないではありませんか。『愛する者よ。あなたのたましいがいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと、わたしは祈っている。』(ヨハネ第三1:2)

 私達の願いは単独では、父なる神に届かないかもしれないが、天の至聖所で、キリストがご自身の十字架で流された犠牲の血をもって、私達の祈りを清めて下さり、嘆願の助成をして下さいます。私達の穢れた願いが、御前に清められ、神の前に良き香りとして、昇って行く。イエスの名によって、父なる神のもとに届くのです。私達の祈りが聞かれたと言うことは、イエスがもう一度私達の為に血を流して、神の前に『仲介者』(テモテ第一2:5)、『弁護者』(ヨハネ第一2:1)として、執り成して下さった結果なのです。私は祈りの実現をそのように解釈しています。あるいはもっと踏み込んで、祈りの成就は、既にキリストが打ち建てられた(十字架と復活を通して)勝利の支配の回復の証とも言えよう。

 今申し述べたことを踏まえつつ、個人の信仰の成長のためにも、愛の神に信頼して、お約束に従って、キリストの名によって祈ることを実際にして見よう。祈りは聖霊によって助けられながら、実践することが大事です。祈りなくて、キリスト教は成り立たないと言っても良いほどです。100の理屈を並べるよりは、むしろ、心からキリストの名によって祈ってみよう。『あなたの口を広くあけよ、わたしはそれを満たそう。 』(詩篇81:10口語訳)とあります。ただあんまり大きく口を開けすぎて、物的祝福を持って、神の恵みだと勘違いしないことを私は自分の経験から、充分注意しておきます。神は偉大な方です、私達が自分でも努力を惜しまず、物質的祝福を求めて勤勉に働くならば、あらゆる不思議なチャンネルを通して人生にチャンスを与え、必要なものを備えて下さるはずです。それは恵の内に神が与えて下さる、この世における祝福です。私は物質的祝福を否定しない。私達は、霊的な生活、御言葉を戴くだけでは生きていけない。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(マタイ4:4)と教えられているが、生きていくためには、肉のパンも、霊のパンも両方食べなければならないと読み解くことが出来ます。

 しかし聖書が教える、私達の信仰が目指す方向性は、物質の祝福よりもっと大事な根本的な生き方です。それはたとえ物質的に恵まれなくても、イエスに似た生き方をしなさいと言うことです。キリスト教はキリストに近づき、キリストが歩んだように歩み、自分がキリストに似て行くこと、その愛の行いの実践において、成長していくことを目的としています。ただ恵みによってありのままに、神の前に義と認められ救われれば良いと言うことではないのです。もっともそのことは信仰のどの段階であろうと適用されるべきであり、最も大事なことですが。

 私達が最後の息を引き取る時ですら、まったくふつつかな僕であり、御前にただ恵みによって義とされるしかない。しかし信仰の歩みを前に進めなければならない私達にとって、義認は常にされつつも、さらにこの世で、イエスに似た生き方をすると言う目的をもって進んで行かねばならないのは、聖書が教えているもう一つの明確なメッセージです。

 『さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。 』(ヨハネ第一2:28)

 『死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。 』(テモテ第二2:8口語訳)

 キリストにとどまり続けること、復活したイエス・キリストを心の中でいつも意識し思い続けること。さらに、キリストに似たものになること、これがキリスト教の目的です。『御子に似た者となる』(ヨハネ第一3:2)。『この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。』(同4:17) そのことが、また、祈りの究極的な目標でもあります。祈りは魂の呼吸であり、御霊に満たされ、キリストと一つとなって霊的に生きて行くことこそが一番大事なことであるように私には思われます。

 とは言え、まずは、私達の口を大きく開けて、何でもキリストの名よってまず祈ろうではないか。その時、神の存在、キリストの贖い、聖霊の存在が、個人ゝの心に啓き示されてきます。天から来る力、影響力、人格的な何か(聖霊)によって霊の眼が開けてきて、私達の心が神の霊によって満たされ、信仰がハッキリしてくるのです。誠にこのありふれた日常生活の中に、神が触れて下さると言う確固した、現実的、具体的な体験へと進んで行くのです。まず、今日の一日を、そのあらゆる瞬間において、神に触れていただこうではありませんか。その積み重ねが一生であり、生きた真の人生になるのですから。

 『わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。』(ヨハネ14:16口語訳)と聖霊の存在についてイエスが言及しています。 ギリシャ語παράκλητος パラクレートスには、弁護者、助け主、癒し主、慰め主、仲介者等、たくさんの訳文があります。

 『しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。 』(同14:26口語訳)

 

παράκλητος パラクレートスについて
 https://seisho.fr-amemiya.com/graecia/p/parakleetos.htm から以下引用する。(リンク有)   
 この語はパラカレオー〈呼び寄せる・慰める〉からの派生語であり、元々は受動的な意味で使われ「誰かの救助に呼び出された者」。そこで、ラテン語訳聖書は、この語が使われている箇所では、だいたいはadvocatus (「呼び出された者」)と訳す。だが、この語が「法律家」「弁護士」といった専門家を指すことはほとんどない。
 キリスト教以前の、あるいはキリスト教以外の文献では、この言葉はわずかしか見出だされず、ほとんどの場合、ずっと一般的な意味で、すなわち、「他の人の味方をする者」「仲介者」「仲裁者」「助力者」という意味を持つ。パラケクレースサイ(「呼び出されている」)という受動的概念は背後に退き、パラカレイン(「呼ぶ・慰める」)という能動的概念に取って代わっている。ユダヤ人はこのギリシャ語を借用し、そのままヘブライ語として用いた。ヨブ一六2のヘブライ語メナハミーム〈慰める人〉をアキラ本とテオドシオンはパラクレートイと訳し、七十人訳はパラクレートレスと訳している。フィロンはこの言葉を「仲裁者」の意味で使うこともあれば、「忠告者」「助力者」の意味で使うこともある。ヨハネ福音書のギリシアの解釈者たちは、この言葉を能動態の意味で理解している。シリアのエフライムもそうしている。(1)新約聖書では、「助力者」「仲裁者」といった能動の意味ががどの箇所でもよく合う。1ヨハ二1では、キリストが「パラクレートス〈仲介者〉」と呼ばれている。ヨハ一四16に「別のパラクレートス」とあるが、このことによってキリストもパラクレートスであることがほのめかされている。だが、第四福音書では「パラクレートス=助け手」と明確に名指しされるのは聖霊だけである。
▼1ヨハ二1 わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに【弁護者】、正しい方、イエス・キリストがおられます。
▼ヨハ一四16 わたしは父にお願いしよう。父は別の【弁護者】を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
▼ヨハ一四26 しかし、【弁護者】、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
▼ヨハ一五26 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている【弁護者】、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。


▼ヨハ一六7 しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、【弁護者】はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。

 

 さて、学問的なことはこのくらいにするが、どんな訳文を採用しようと良いのではないかと私は考えます。私は個人的に、パラクレートスを『主がわたしの右にいますゆえ、』(詩篇16:8口語訳)の言葉と 合わせて 【私のかたわらに呼び出された者】として、祈りの中で呼びかけると、私の魂にパラクレートスの本来の意味が染み透ってくるのです。あるいは、原語に戻る意味も込めて、誰かの救助に呼び出された者、すなわち個人的に、【田中清二の救助に呼び出された者】として受け取ることは、解釈の自由の範囲内であろう。

 真理の御霊は、イエスが父なる神のところに戻ってから本格的に弟子達に注がれます。実はイエス御自身がパラクレートスです。『御父のもとに弁護者(パラクレートス)、正しい方、イエス・キリストがおられます。』 (ヨハネ第一2:1)。

 真理の御霊はイエスが形を変えて存在していることであり、イエスが世を離れ、父の御元にいても、『別に助け主』(ヨハネ14:16口語訳)として、聖霊を通していつでもあなたがたのそばに居て下さることなのです。

 

『かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。 (ヨハネ14:20)

 かの日にはイエスが父におり、あなたがたの中にもイエスがいることがわかります。かの日はいつか?その日は直接的にはペンテコステの日です。聖霊が、炎のような、また、舌のような形になって、弟子達に降った日です。しかし、そればかりではないと私は考えます。聖霊が私達個人の内に臨み、教え、満たして下さる日。誰でも私の『かの日』を持つことができます。そんな経験をする日が私にとっての『かの日』なのです。そしてそのことに気づき、地上にある肉の興味や遊興を捨て、上なるイエスの霊の満たしを、御名によって呼び求める日、その日、今こそが私の『かの日』なのです。

 私が父のもとに行けば父に願って、あなたがたのところに聖霊の助け主を送る。『もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。』(ヨハネ14:28) 『わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。』(同14:18口語訳)孤児とはせずに帰って来ると言われたイエスのお約束には二重の意味があります。かの日すなわち私のかの日に、今と言う私の時間の中で御霊によってイエスが臨在しお帰りになる意味と、世終わり再臨のときに、イエスが具体的、具象的な形で本当にこの世に帰って来る2つの意味があるのです。

 『しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。』(ヨハネ16:7口語訳) 助け主を遣わすことは、イエス何度も繰り返された、重ねてのお約束です。私達には御名のゆえに聖霊が注がれることを、このお約束に基づいて、確信をもって求めるべきなのです。

 キリストと父なる神が聖霊と言う形で私達のところに住んでくれる条件があり、それはイエスの掟を守ることです。『「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。』(ヨハネ14:15~16)

    その掟はヨハネ15:12,13に書いてある通りです。『わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友 のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 』これが条件です。 

 イエスの愛した、愛し方で互いに愛すること。これが、キリストと父なる神が聖霊と言う形で私達のところに住んでくれる条件です。 それは友のために自分の命を捨てる程の究極的愛を求めています。それはイエスがそうなさったからです。私(イエス)があなたがたを愛したように、あなたがた(私達)もそのような仕方で愛し合うべきなのです。 イエスはご自分を裏切るために、接吻しようとして近づいて来たユダにすら、心底から憐れに思い『友よ』(マタイ26:50) と呼びかけられたことを思い出して下さい。

 友のために命を捨てることは最高、最大の愛の表現です。『イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。』 (ヨハネ第一の手紙3:16) ここに書かれている以上に大きな愛はない。

 こう書いてくるとある方は思うかも知れない。そのような生き方を選択することは、余りにも重いことで、自分はそのように生きることは出来そうもない。何を隠そう、私も同じです。神の言葉のこの絶対的な価値観に立たされるとき、果たしてそんなことが出来るのだろうかと思って、足がすくんでしまう。

 しかしこんなに大きな愛を、今すぐ実現しなさいと言うことではないと私は考えます。愛には段階がある。大きい愛もあれば、小さい愛もあるのです。一日に一善、小さな親切を周りの人にしてあげることから始めよう。私達は俗人であって、聖人ではない。あまり無理すると信仰のつまづきが起きかねない。どだい肉の生まれ変わっていない部分をたくさん持っている人間が、そうやすやすと、聖霊が助けてくれるとは言え、友のために自分の命、命を構成している時間、自分の生活空間、趣味、この世の肉の生き甲斐、価値観等、それらを捨てることが出来ようか。

 基本的に人間は、あるいは私はと言った方が良いかもしれないが、自分の生きたいように生きたい欲求を自己の心の中に持っているのです。人生において自分の計画を推し進めたいのです。そんなに大袈裟なことではなく、毎日のこと、一日の計画だって、自分がしたいようにしたいのです。一日を自分が計画通り出来た時にどんなにスッキリすることか(善悪のことではありません)。そういう習性を私達は持っているのです。そんな私達が、自分の生活空間、自己実現の欲求、趣味、この世の肉の生き甲斐、価値観等を捨て、自分の命とそれを構成する時間を削ってまでして、神と人のために捧げることができるかと言うと、それは簡単なことではありません。

 もしそれらが出来るとすれば、その力は自分にはないのです。ただキリストが私の中に、聖霊の内住によって、パラクレートスとなってくださることによるしかない。『かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人はわたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」』(ヨハネ14:20~21) 私達がイエスの愛の掟を守るならば、父とイエスは、私達のところにやって来て、聖霊によって住んで下さいます。 

 

 たとえ、この世の君、サタンがやって来ても、イエスの使命を妨害することはできない。サタンはイエスを十字架につけて亡き者とするであろう。しかし、かえって、そのことが、身代わりの供え物となって人類を救う大きな贖いの業となるのだ。この世的に考えるならば、イエスは殺されて、一見サタンに負けてしまったのかと思うかもしれない。しかし、悪の勢力がイエスを迫害し、この地上から抹消しようとすればするほど、それは人類の罪を贖うイエスの犠牲を確定して行くことになってしまう。結局サタンは自分で自分の墓穴を掘ってしまったのだ。これは贖いの神秘であって、私達はその神の奥義を中々見極めることは出来ない。さらにイエスの十字架は、神がその罪の裁きをイエスに向けられ、神ご自身が下された、人類に対する刑罰であった側面が大きい。イエスを苦しめることは神のみ旨であった。『しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。』(イザヤ53:10口語訳) 

 イエス自身にとって、十字架にかけられた時の肉体の苦痛も大変苦しいものであったでしょう。しかし、肉体的苦痛よりもイエスにとって辛かったことは、父なる神との断絶だったのです。

 『三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。』(マタイ27:46)その言葉の中に、イエスの最大の苦悶が表現されています。私達人間はこの苦しみがどんなものであったか、なかなか理解できない。「エー、神に見捨てられるって、それはどんな苦しみだろう。」と私は考えます。父なる神の御顔がイエスから隠される時が来たのです。滅びの断絶。この世の死ではなく、復活のない、第二の死。ゼロの世界への恐怖であろうか。私達はそのような、絶望を味わいたくはない。いつもキリストにとどまり、キリストにあって、神に受け入れられている心境を持ち続けていたいものです。父なる神は罪の刑罰を人間達に下さず、イエスに負わせられた。神に見捨てられたほどの絶望を、イエスは感じられた。しかし、イエスが苦しむことは、繰り返しになるが、父の御旨であった。実は人類の救済のために、神ご自身が全存在をかけて苦しまれたと言うことに他ならないのです。

 屠られし神の小羊(ヨハネ1:29,36 黙示録5:6,9参照)はキリストを指しています。イエスは罪の贖いの犠牲として十字架に付けられた。歴史上の一点、今から2,000年前にそれは成し遂げられた。しかし、実は、天地創造時どころか、世の始まる前から、贖罪は計画されていた。私達の時間概念からは超越して、世の始めから、救いは成し遂げられており、イエスは屠られていたのだと私は考えます。(エペソ1:4,5,9 ヘブル4:3参照)

 神のお持ちになっている時間概念を、このような肉の有限な、塵灰に等しい私などが、察することなど、まことに不敬千万、おこがましいこととは思う。しかし、私の福音理解によれば、神の大御心の中に、天地が創造され、アダムが造られた時、既に堕罪は予知され、和解は計画され、神の眼から見れば、既に、世の始めから、贖罪は定められていたのだ。神はすべての人を贖う為すべての人を不従順のもとに閉じ込めたのであり、誰が神の相談にあずかったのだろうかとあります(ローマ11:32~36参照)。

 救いの顕現と言う点から聖書の歴史を考えれば、私達の救いの為に、神は最初から御子イエスを犠牲にして、人類に救いを与えようとしていたことが分かります。

 そもそもアダムを神が造られた時、どういうわけか自由意思をアダムに与えられた。結局アダムの罪とは何だったのだろうか。それは突き詰めれば、神の言うことを信じなかった、そして神に従わなかったと言うことに尽きる。食べてはだめだよ、善悪を知る木の実を取って食べると、悪の知恵がもたらされ、人間は死ぬようになるのだと言う神の言葉を信じることが出来なかったことが罪の原因です。つまり神の配慮を疑い、新しい知識、悪の知識を得ることをアダムは選び取ったのです。なんともったいないことに、死とやがて来る滅びとを引き換えに、 神を選ぶ自由から、神に背く自由を、悪の知識を得る自由を手に入れたのでした。神の創造された地球と、地球上の動植物、最良の自然界、それらのすべてがアダムに与えられていたのに、何と浅はかなことをしたことか。愛と思いやり、溢れるばかりの生命力、エデンの園の心地よい住環境、さらに女神のように美しいエバが伴侶として与えられていたのにです。

 もし堕罪を経験するようなことにならなければ、きっと永遠の命が与えられ、多くの子孫が生まれ、祝福のなかに、人類は増え広がるのが神の本来の目的だったはずです。すべては神が用意し与えて下さっていたのに、その神の配慮をアダムは疑い、神を信じ信頼することが出来なかった。つまり信仰がなかった。アダムには信仰がなくて、神に信頼することが出来なかったのです。そこで神は、イエスを第二のアダムとして、この地上にお送りくださり、第二のアダムは、完全な義と愛と信仰の従順な生涯を送ることによって(ピリピ2:6~8参照)、第一のアダムの失敗を取り戻し、完全な信仰と信頼を回復なさった。信じることが、神の統治の決定的、キーワードです。

 神は全宇宙的視野に立てば、自らの統治において、自由の選択を与えた中で、ご自身の愛を信頼するかどうかを問うておられるのです(天使たちも含めて)。この愛の神に信頼しなかったことが罪の原因です。サタンや悪天使たちも神の愛と思いやりを疑った結果神に背くことになりました。私達の先祖や、私たち自身も神に信頼するかどうかを根本的に問われているのです。故に『信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。 』(へブル11:6口語訳)のです。

 ヘビ(サタンの象徴)とその部下の堕落した悪天使達によって誘惑され、神から背いてしまった、被造物人間を、どうしても救おうと神は考えていた。もう一度自分のもとに引き寄せ、救い、一度は失ってしまった永遠の命を、全人類を対象に回復させたいと考えていた。人間的な言い方になるが、そのためにはどうしたら良いか、神は考えておられた。神自らが犠牲となって、その罰である死と滅びをご自分で引き受ける以外に救いの方法はないのです。神は神の統治の原則を変える訳にはいかない。神が自ら犠牲となると言っても、神は死ぬことは出来ない、そこでイエスを受肉させ、人間の代わりに死なせることにした。イエスも本質的に神であり、三位は一体である神秘がここにはあり、言葉で説明するのは非常に難しい。

 神を信じることもしないし、その存在を認めもしない人間がほとんどであるほど、人間性は神から遠く離れてしまった。自分しかいない、神なしに、自分の力だけで生きれると思い込んでいるほどに人間は堕落してしまったのです。自分が失われているのを気が付かないで生きているほどに、現代人は神から離れてしまったのです。こんなに神から離れ、罪と汚れの中にいるのに、この世の人々は自己を正当化し、自分だけは正しい、自分の力で生きれる、神など存在しないし、神を信じ頼って生きることなど迷信だと考えているのです。

 人類を救うためにどうしたら良いのか。神自らその不信仰の結果である罪をお引き受けになるしか救う方法がない。神自らが懲らしめを受け、人間となり(受肉)、自己を犠牲にして、すべての失われた魂をを回復しようと考えて、イエスの十字架は打ち立てられた。

 であるならば、私達、イエスの救いにあずかった者も、この自己犠牲による救いと言う、神の宇宙の救いの法則の中に組み込まれるべきではないのか?神の贖いの歴史の中の1ページとして、自分の人生の1ページを刻んで行くべきではないのか。神が失ったものを取り戻すため、神自らが犠牲になり、自分で自分の下すべき罰を受け、人類を贖い、買い取り、再び永遠の命に生きれるようにしてくださった。そのような神の贖いの歴史が人類の歴史だと考えることが出来ます。神ご自身の自己犠牲の証明の為、歴史はあるし動いているのです(贖罪的史観と名付けます)。

 イエスの生涯、贖いは最大の神の愛の現れであると理解しているが、宇宙的な視野でみると、聖書の物語はもしかすると、神の自己犠牲劇場のほんの一部を垣間見ているだけなのかも知れない。私達が近い将来、永遠の神の愛の世界に入れられて、この贖いの不思議、人類を創造され、さらに救われた神の真の意図に接する時、もっと大きな神の知恵の深淵を学ばせていただけると思うのです。堕落しなかった天使達も垣間見たいと思っている贖いの神秘は、私達にとってさらに意義深いものとなって、神の永遠の愛を、御国において、極めて行くものになるはずです。

 

 さて、本筋に戻ろう。愛の実践と言うイエスの条件を満たさないと、聖霊は私達のところに来て私達と一緒に住んでくれないとも言えます。しかし、聖霊に住んでいただなければ、私達は主イエスの掟であるところの、神と人のために命を捨てるような生き方は出来ない。またここに宗教上の、ジレンマがあります。聖霊をいただくのが先か、愛の実践が先か?私は個人的には、自分の内には あまり人を愛する力がないので、聖霊をいただく方が先だと思うのですが、愛の実践の方が先かも知れない。これはどちらが先かと言うことが出来ない問題なのかも知れない。 

 

 イスカリオテでない方のユダは『アルファイの子ヤコブとタダイ、』(マタイ10:3)のタダイである言われてれています。また、アルファイの子ヤコブの子ユダとも言われています(使徒行伝1:13参照)。そのユダが変な質問をした。『イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。』(ヨハネ14:22) 真理の御霊が下ってきて、イエスが父におり父がイエスの内におり、私達のところに来て一緒に住み、私達を決して孤児などにしないのなら、何故私達にそのことを啓示するばかりで、世にイエス自身をハッキリをお現わしにならないのですかと、質問したのです。

 しかし、そもそも聖霊の啓発を受けなければ、イエスの言葉すら理解することは出来ないのです。『自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。』(コリント第一 2:14)肉の人は霊のことを理解できない。霊のことは霊によって解釈すべし。『"霊"は一切のことを、神の深みさえも究めます。』(同2:10 )

 イエスの十字架が全人類を救うための父なる神に対する贖いの供えものであり、それを受け入れ信じる者は罪が赦され、永遠の命が与えられることを、世が世の知恵で理解できるだろうか。聖霊の啓発と感化がなかったら、それは世迷い事か、ただの迷信に過ぎないと、世は捉えるであろう。

 確かに、世はイエスの神性を知るべきだ。『わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。』(ヨハネ14:31)イスカリオテでない方のユダ(タダイ)が言った答えとして、世はイエスの存在を知るべきだと答えられたのです。しかし、世は知ることが出来ない。何故か?罪からの贖いは理論や、知識ではない。信仰の眼でしか見れない、世人には絵空事としか思えないほどの、信仰の超現実だからです。しかし、信じる人にとっては事実です。霊的な啓示によって、個人的な罪が赦され、神の前に罪なき者として贖われていることが分かります。根本的に堕落したアダムの肉から生まれたことが原因として起こる、トータル的な罪から、イエスの十字架と言う大きな犠牲の代価が払われることによって、自分が買い戻されたことを見出します。すなわち自分が、闇の世から、イエスの血潮によって買い取られたことを発見します。心から救いを受け入れ、信じ切り、信仰の事実となります。これらのことが、個人の信仰の事実になるには、聖霊が教え、導いて下さらなければならない。

 何故タダイはこのような質問をしたのか、それはタダイ自身が、聖霊によって目が開かれていなかったことを、如実に表しています。タダイはこの時点では、贖いについて分かっていなかったのです。しかしイエスはタダイの質問に対して、真摯に答えようとなさった。

 イエスの愛の掟を守るなら、聖霊が来てあなたがたにすべてのことを教える。今分からないかも知れないが、その時を待て。聖霊があなた方の所に降って来る時、イエスが語った言葉を思い出させる。イエスの言葉を守るなら、父と子はその人のところに来てくれて、その人と一緒に住む。イエスの言葉がどんな意味かも正しく教えてくれる。肉の世が与えるような、物質的快楽を約束しない、むしろ魂の平安、救いの平安を、聖霊はあなたがたに与えてくれる。『これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」』(ヨハネ16:33)

 要するに、タダイが言ったことを受けて、イエスが世に自分を現わそうとしても、世は世の知恵ではイエスを真には理解できないことを教えられたのです。救いも贖いも、イエスが神の子であることも、世は受け入れない。世はイエスが神から遣わされたことを知るべきであるが、肉によっては霊のことは理解できないのです。

 『「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。』(ルカ8:8)イエスの言葉を神の生ける言葉として、耳のあるものは聞けば良いし、受け入れられる人は受け入れれば良い。信仰の世界は、全く自由な、個人の選択に任された、そういう世界なのです。

 『義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。』(マタイ5:6)とあります。神の義を求め、救いを受け入れられる人達は幸いなのです。

 それらの人々は、世の造られる前から贖いの計画の中に定められていたのです(エペソ1:4,5,11参照)。

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