命を与える神の言葉 Ⅰ

   命を与える神の言葉 Ⅰ

 私がいつも記憶の中で、朝のディボーション(神との交わり)等に、瞑想している聖句がある。

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ディヴォーション(devotion、デヴォーション、デボーション、ディボーション)は、英語で忠誠・献身・傾倒などを意味する。「誓願により身を捧げる」を意味するラテン語devotioを語源に持つ。キリスト教会では「神への信仰」あるいは「敬虔」を意味する語として用いられ、これが後に英語 devotion の原義となった[1]。  

 それを書いておけば、機会があれば、同信の方々にも読んでいただくことができるし、霊的な糧としていただけるかも知れない。また自分も書くことによって、頭の中を整理し記憶をいつも新たにすることができる。こんな思いに駆られ、書くことにした。どこまで言いたいことを伝えられるか分からない。聖書の言葉には力があるので、私が言いたい以上に、ある方々は理解して下さるだろう。自分で書いていて、自分が教えられ、かえって力づけられるようなことも今まで度々あったし、自分の解釈がまざっていたとしても、神の言葉はそのものに力があるので、自分自身をも励ましてくれるだろう。

 既に書いてきたホームページの記述と二重になるようなことも多いが、その点はご理解いただきたい。

テトス

 まず、以下のテトス3:5~8の言葉に毎日のようにこだわって、繰り返し読んだり、記憶の中に短く縮められたエッセンスを、祈りつつ心の中で反芻したりしている。

 『神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。この言葉は真実です。あなたがこれらのことを力強く主張するように、わたしは望みます。そうすれば 、神を信じるようになった人々が、良い行いに励もうと心がけるようになります。これらは良いことであり、人々に有益です。』(テトス3:5~8)

 『人間は生まれながら神の怒りを受けるべき者』(エぺソ2:3)であり、人間は本質的に、肉に売られており(霊と逆の表現)、生まれたまま肉の性質を持っている人間は、どんなに修行に励み、努力を重ねたとしても、神の聖なる律法の要求に達することはできず、不完全な自分の姿が自覚されるだけなのです。律法は心を映す鏡のようなものです(そのような鏡があったとして)。鏡に醜い心の姿が映っているが、鏡は私達の心を変える力はない、ただ醜さを指摘するだけなのです。

 パウロは断言する。律法を守る事によっては誰も救われず、律法によっては罪の自覚が生じるのみなのです。『律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。』(ローマ3:20)

 人間の精神も含めて、生まれながらの人間は堕落しており、肉の性質を持っているので、神の崇高な律法に従う事は出来ないのです。自分は神に従いたい、また神の律法にも忠実でありたいと思っても、私たちは肉のもとに売られているのです。従って、もう一度買い取られる以外に救いはない。キリストの功しによって、買い取られるのです。神はキリストの十字架という値で私達を買い取ったのです。そのことを受け入れ、自分の事として信じることによって、救いは自分のものになります(義認)。

 さらに、神の聖霊によって、もう一回生まれ変わる事が出来ます。肉体を持っているので、肉の性質は完全にはなくならないが、人間の内面が神の霊による生まれ変わりを経験して(新生)、やがて少しずつ変えられながら、不完全ではあるけれども、段々と神に従っていくことが出来るようになるのです(聖化)。

 これらの過程を含めて、すべては神の憐れみによるしかないと思っています。基本的に神の憐れみによって神が私たちを救ってくださるのです。全く私たちが行った義の業によるものではありません。たとえ何か正しい行いが私たちの側にあったとしても、それは救いの根拠にはなりません。パウロは『自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。......。』(コリント第一4:4)と言っています。この聖句が教えていることは、どんなに自分が正しい行いが出来たとしても、それが私達が救われる根拠ではないと言うことです。救いの根拠は私達の側にあるのではなく、イエスがなされた贖いの業の中にあるのです。

 たとえ安息日を守ったとしても、その業によって救われるのではありません。

 隣人を助けるような善い行いをしたとしても、そのことが救いの根拠ではありません。

 義とされる根拠は私たちの行った正しい行いではなく、キリストがしてくださった義の行いを、自分のものとして受けるだけです。

 『......自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。』(ピリピ3:9) 義は、神によって上から与えられ着せられるもので、信仰によって受ける必要はありますが、私たちが何か自分で努力して創り上げるものではありません。

更にテトスへの手紙のこの箇所を解説します。

『この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。』(テトス3:5,6)あなたがたは、聖霊によるに新生と十字架と復活を象徴する水による洗い(沈めのバプテスマ)によって救われたのです、と。

 洗いによって新たに造りかえられるということは、十字架で古い自分が死ぬことを基にしています。バプテスマは水による古い自分の葬りなのです。今までの生き方、自分の古い肉の欲っするまま、思い通りに生きて来た生き方を、十字架に一度つけてしまわなければなりません。バプテスマの水の中に葬ってしまうのです。

 それが善であろうと、悪であろうと、普通の事であろうと、生まれながらの自分の肉の力による生き方をしてきた自分は、十字架でキリストと共に磔刑されなければなりません。私は善悪のことを言っているのではありません。生まれつきの性質を含む古き肉をキリストと共に十字架に磔るべきだと言っているのです。バプテスマは葬りの儀式であり、自分の古き肉を十字架に磔て死なしてしまうことを象徴的に表しているのです。

 さらに、キリスト共に、新しい命に復活し(霊的な意味で)、これから後は、いつもキリストと共に、聖霊によって新しく生きる経験をして行くことが、最も大事なことなのです。

 神は聖霊を惜しむような方ではありません。聖霊は父なる神から出て、キリストがそれを受け、キリストを通して、『豊かに』(テトス3:6)私達に注がれるのです。

『......約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。......』(使徒行伝2:33)

 何故父なる神から聖霊は直接注がれないで、イエスに一度経由して人間に注がれるのでしょうか。それには深い理由があります。

 私達人間はあまりにも、未熟で、罪深く、たとえ救われて信仰をもって、クリスチャンになっても、この世のあらゆる習慣、考え方、肉的なものに囚われているので、聖霊を求めても、ゆがんだ性格と、おかしな器の中に求めてしまうのです。イエス・キリストのとりなしがあってこそ、多少変な、おかしな信じ方をしているクリスチャンにも聖霊が注がれるのです。もっともそれが本人にとって良いことかどうかは分かりませんが。たぶん、おかしな信じ方を正しいと思うことになるので、中途半端に聖霊が注がれることは、本人の信仰の成長にとって、あまり良いことではない結果になるかも知れません。(本人の信仰の確信には多少寄与することもあると思われますので、本人にとっては記憶すべき、覚醒的なことではありましょう。)

 もし直接父なる神から聖霊が注がれるとしたら、清められた、余程性格の良い、円熟した方にしか聖霊は注がれないでしょう。こんな欠点だらけの私にすら聖霊が注がれるとすれば、天でイエスが、私にとりなしの懇願を父なる神に熱心にしてくれたので、やっと注がれるようになったという事でしょう。『このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」』(ルカ11:13)

 私たちが真剣に求めるならば、神の御恩寵によって、イエスを通して、聖霊は豊かに注がれるはずです。聖霊を求める私達も、まず自分たちが誠実に悔い改め、熱心に聖霊を求める熱い祈りをすることが必要です。

 また弱い私達に聖霊が注がれるのは、同じ人間族になられた(インカーネーション受肉)キリストのお陰なのです。御子は私達の長子となられ、末弟の私達の為にも、父に願って聖霊をお送りくださるのです。神は御子がバプテスマを受けた時、天から声を賜り、聖霊を鳩の如く豊かに御子に注がれました。『イエスもバプテスマを受けて祈っておられると、天が開けて、聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声がした、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。』(ルカ3:21~22口語訳)

 私達は御子が人類の長子であるために、末弟の権利として、父なる神に、御子を通して聖霊をお送りくださるように要求して良いのです。『神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。』(ローマ8:29~30)

 

 テトスヘの手紙の言葉をさらに続けます。

 『こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。この言葉は真実です。あなたがこれらのことを力強く主張するようにわたしは望みます。 』(テトス3:7~8)

 義は恵によって与えられるものであり、値なく、功績なく、無代価で与えられるものです。さらに、永遠の命を、既に得ている、私達の内に永遠の命が始まっているのです。永遠の命が信じる者にとって始まっていることは次の聖句からも明らかです。

 『初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。』(ヨハネ第一2:24,25) 御言葉が私達の心に定着し、御子の内に、御父の内にいつもいる事が、既に永遠の命が始まっていることなのです。さらに『......信じる者は、永遠の命を得、また、...死から命へと移っている。』(ヨハネ5:24)のです。

 これらのことから、次の聖句の意味が明らかになってきます。

 『生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。......』(ヨハネ 11:26)

 肉体的、物理的には一瞬の間、この世で言われているところの死を経験しますが、既に生きている間、永遠の命が始まっていますので、死という眠り(それが何十年、何百年であろうと、眠りは無意識ですから一瞬にしか感じません)から目覚めた次の瞬間は、もうイエスの前に立っておるのです。御言葉が明らかにしているのは、私達は既に永遠の命を得ていると言う事です。『これらのことを力強く主張するように、』と勧められています。

 

 次に、祈る時の秘訣を書きます。それはキリストの御名のゆえに、既に祈ったことはかなえられたと信じることです。『そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。』 (マルコ11:24口語訳)   自分の姿を見る時、余りにも肉的であり、この世の中にあらゆる趣向と情動的な行動、利己心にまみれ、どうしょうもない俗人であることが、そのような祈り(マルコ11:24)を妨げます。 自分を見る時に、どうしても、神の前に穢れた者であり、良心の咎めを感じ、自分を必要以上に卑下してしまうものです。その状態は正当な自己評価であるかも知れません。このような自己認識はすべての点で誤りとは言えませんが、祈る時に、良心の咎めが、純粋に、確信をもって、神の前に近づくのを妨げてしまうことがあるのです。祈る時はいつも十字架の影に立ち、汚れた自分をご恩寵の下に赦していただきながら、『得たりと信ぜよ』と約束された御言葉に信頼の眼を置きましょう。

 『しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。』(コロサイ1:22)これが『得たりと信』ずることの真髄です。既に御前に、十字架の犠牲のゆえに、聖なるものと認められています、「しみもなく傷もない者として神の前に立たされています」と力強く主張しましょう。

 『......信じる者は、永遠の命を得、また、...死から命へと移っている。』(ヨハネ5:24)この御言葉の約束のゆえに、もう、イエス・キリストにあって、永遠の命を得ているのだと、自分に言い聞かせましょう。祈りの起点を、自分の側ではなくて、約束された側、イエスの視点に立って、聖霊が降ることを含め、その結果による各種の癒しは既にかなえられたと、主張しましょう。

 私達は弱い肉体を持つものです。日々身体の調子が違っています。特に高齢者はいつも、良いコンディションが維持できるとは限りません。気分が良い時も悪い時もあるのです。低血圧・高血圧、血糖値の上昇・低下、腎機能の低下、また、鬱症状や、認知症等、それらの肉体の病から来る意識障害的な気持ちの変化、そんな肉体の好不調に、既に永遠の命を得ている確信が左右されてはなりません。良い時も悪い時も、常に主は私たちの傍らにおられ、聖霊をもって支えてくださっているのです。

 『いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、......』(申命記4:7)とあります。

 これらのことを力強く主張し、信仰の眼をもって、進んで行きましょう。

 ともすれば、自分の罪深さばかりを見て、落胆しがちな私達でありますが、自分がキリスト・イエスにあって、義とされ、救われ、既に永遠の命が始まっていることを、力強く、神の前に主張しなさいとパウロは言っています。

 繰り返しになりますが、私達もパウロの勧めに従って、もう永遠の命を得ていますと力強く主張しましょう。信仰生活が力強く、希望に満ちて、楽しく、明るく送れるに違いありません。

 

 こうすることによって良いことをする土台ができます。『......そうすれば、神を信じるようになった人々が、良い行いに励もうと心がけるようになります。これらは良いことであり、人々に有益です。』(テトス3:8)私達は救われるために善い行いをするのではなくて、既にイエスによって救われたから、善い行いをしていきたいのです。律法が示す愛の方向性に自己を合わせて、そのように生活していきたいのです。例えば、魂の救いを、御前に主張し、得ているからこそ、七日目安息日を、真の魂の救いの安息日として、魂の救われた者にとっての深く神と安らぐ一日として、他の週日とは区別して過ごしていきたいのです。

 ガラテヤ書にパウロはこう言っています。『たゆまず善を行いましょう。............特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。』 (ガラテヤ6:9,10) 自分達の力は弱く、何もできませんが、キリストが私達を力づけてくださる時、特に同信の兄弟姉妹に対して善い行いが出来るように変えてくださると信じています(もちろん未信者に対してもこのことはしなくてはなりませんが)。

『わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。』(ピりピ4:13口語訳)


コロサイ

 『神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。

 あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。............。』(コロサイ1:19~23)

 キリストの内には神からいただいたあらゆるものが満ち溢れるほどに宿っています。聖霊、無罪性、愛、慈しみ、奇跡の力、病を癒す力、永遠の命、救いに至るあらゆる知恵、力、心の平安、権威、信仰、創造力等、そして何よりも大事な事は、キリストご自身が肉を纏い人類の長子、同族の者となられました。ここに祝福の基があり、私達の望みがあります。

 その中で最も尊いものは、契約の血、聖なる御子自身の契約の血です。十字架の血の和解の効力は動物、植物、全物質に及ぶのです。天地あらゆるものが和解させられました。地球そのものが消滅せずに残っていて、自転し、大気が維持され、生命環境が循環しているのは、全部御子の犠牲によって神との間に和解が成立したからなのです。信仰の眼をもって見れば、イエスの御恩寵によって、すべてが動き、存在しているのです。 

 万物は神によって造られましたが、アダムの罪によって、地は呪われ、茨とアザミが生じました。また蛇は罪の誘惑者に利用されたため、最も醜く地を這うものとされました。またカインがアベルの血を流すことによって地は二度呪われました。茨とアザミは呪いの象徴です。なぜイエスは茨の冠りをかぶったのでしょうか。それは地の呪いをご自分が引き受けるためです。イエスの頭にかぶせられた茨は、呪いを引き受けることの象徴だったのです。

 何れにせよ、万物はイエスの贖いの血潮によって、和解させられているのです。もちろん今でも自然界は、完全に贖われたわけではありません。しばし自然界は猛威をふるい、人間に牙をむいて襲いかかってきます。台風、地震、津波、地球温暖化、気候変動等によって、今でも旱魃、飢餓 等の多くの災害が全世界の各地で起こっています。万物の和解が完全に成立するには再臨の時まで待たねばなりません。しかしイエスが十字架で血を流されたとき、自然界を含めて、万物は、根本的には和解させられたのです。

 次に和解させられたのは、私達です。私達は自分の行いが悪いので、神に敵対し、神を憎んできたのです。「神がいるのなら、何でこんなひどいことが起こるのか?」と言って、自分の行いは棚に上げて、心の中で、自分の運命(私は運命はないと信じていますが)を呪い、神を恨んできたのです。

 日本人の大部分は無神論者であり、神仏はただのご利益をもたらすものとしか考えず、人生の生き方を変えるような信仰心など、ほとんどの人は持ち合わせていないではありませんか(他宗教であっても、道を熱心に求めている方がいることは認めますし、尊敬もしておりますが)。

 多くの人間は真の神を畏れず、敬いもせず、自由にふるまい、罪を罪とも思わず、それを楽しみ、好き放題、勝手放題に生きて来ました。しかしそんな私達の為、御子は和解の血をすでに二千年前に流して下さっていたのです。この和解の行為は神から一方的に出たことなのです。私達がそれを信仰によって受け取る必要はありますが、最初から神の方から和解の手を差し伸べて下さっているのです。

 『敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。』(ローマ5:10)

 私達が敵であった時ですら、神は私達を愛し、贖いの供え物(イエス)を用意してくださっていました。

    それどころか、神の御子の死によって、人間を神の御前に、聖なる者、傷のない者、咎めるところのない者として立たせてくださっているのです。『しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。』 (コロサイ1:22)とあるとおりです。これから聖になるのではありません。原理的に既に聖い者、罪のない者として、イエスの義の衣で覆って下さっているのです。私達は汚れに染まっているのに、真っ白な、無罪な者として神の前に立たせて下さっているのです。もちろん、信仰によってそのことを受け入れなければ個人的にそのお約束がその人のうちに実現しないことは言うまでもありません。

 またその信仰は、生涯にわたり維持していかなければなりません。一時的なものであってはならないのです。ですから、聖なる者として神の前に立たしてくださっているのだから、信仰から離れる者でないようにとの御言葉が続いているのです。『ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。............。』(コロサイ1:23)信仰は生涯続けるものなのです。『あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。 』(同2:6~7)

 もうキリストの十字架を自分の贖いとして受け入れ、信じ、赦されているのです。この立場が神から与えられているからこそ、もうキリストから離れてはなりません。キリストの存在を聖霊により全身全霊に感じ、決してキリストから、日々離れることなく、心が毎日新たにされて、固く、より一層固くキリストに結び付いて行くべきです。キリストにしっかり根を下ろして生活すべきです。

 人間の哲学や、表面上の廃された、祭り、新月、祭りに伴う特別安息日、食物や、清めに関する洗い事等、様々な肉を規制して役に立ちそうだと思われている廃れた規則に縛られながら、平安も自由もなく生きて行きたいのですか。キリストから離れて、規則や戒めを肉の努力で守り、実行したとしても、無意味で、虚しいものです。

 そのような表面的なものは知恵あるもののように見えますが実は、規則を守った時の肉の満足、実行できたことの誇りを人間に与えるばかりで、神の福音の力から見れば価値のないことなのです。世人は人間の考え出した禁欲的な規則を守ったり、様々な宗教的動機による修行に耐えた生き方を尊敬し、称賛するかも知れません。しかし、肉的な規則を己に課し、規則的な生活を貫徹した人の肉の修業的な満足と誇りは、神の眼から見れば、価値あるものとは見なされません。神の価値原則は、無償の恵みであり、人間の表面的な価値原則とは違うのです。

 福音には聖霊によって、内側から人を強める働きがあります。自分の力によって生きるのではなく、常にキリストに内側から強めていただくことによって、何事でも力強く行うことができるようになり、栄光は全て自分を強くしてくださった、神に帰するのです。これが神の側の価値観です。これこそが神の側の行動原則なのです。

『神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。』(コリント第一15:10)私が働くのではなく、私の内にいるキリストが働くのです。

 この世の価値観は、自ら作り出した規則等によって、表面を規制します。自己の肉の鍛錬により、総てを規制し訓練し、まとめあげようとします。そしてそれが成功すれば、自己に栄誉を帰し、一見知恵のあることのように見えますが、肉の欲望を満足させ、自分を誇らせるだけなのです。このような生き方は、世人には称賛されますが、神の側から見たら、実は何の価値もないのです。

 『これらは、......知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。 』(コロサイ2:23)

 繰り返しになりますが 、表面的な規則やこの世の知恵による肉の鍛錬等により頼む時、それを実行できれば、自己がこのような修行に耐えられたと言う自己満足と誇りに終始することになるので、神の前には価値のないことなのです。修験者は修験道を極める為山に入り、様々な荒行をします。そのことによって一歩でも神に近づき、偶像教の神体験をしたいのです。しかし、そんな行いによる修行によって、真の神を見出すことが出来るのでしょうか?聖書の答えは、否です。『知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく』これが聖書の答えなのです。

 付け加えて言えば、心の内側で人間が神抜きで思う思いは、肉から湧き出てくる怒りや、欲情に左右されてしまうので、精神修養しようとも、本性の人間の欲情を抑える 役には立ちません。宗教家の世界にすら、宗教的嫉妬心があり、それを抑えるのは困難です。

 『すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。 』(コロサイ3:8)とあります。

 結局、外側の規則もダメ、精神修養で養ったと思われる内側の心もダメなのですから、結論を言えば、十字架と復活の力に頼って行くしかないのです。これが神の方法です。 

 あなたがたはバプテスマを受けた時、キリストと共に葬られ、新しい命に復活したことにされたのです。『洗礼によって、キリストと共に(霊的に)葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に(霊的に)復活させられたのです。』(コロサイ2:12)。

 この原則に従って歩むべきです。あなたがたは、古い自分が死んで、もう新しい人、キリストを上から着たのです。異邦人もユダヤ人も、奴隷も自由人も、未開人も文明人も、男も女も差別はなく、キリストがすべてであり、すべての人の内にいるのです。

 『古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人(文明人)、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。』 (コロサイ3:9~11)

 誰も自己を誇ったり、肉の規則や、一見知恵あるもののように見える肉の精神修養等をやり遂げたと言って満足する必要はありません。私達が為すことは、私達の自己の力ではなく、キリストが心の中に住んで力を与え、キリストがして下さるのですから、そこには自己の誇りは一切ありません。ただ誉と、栄光を主に帰するのみです。

 全員の中にキリストがいるのですから、私の中にいるキリストが、他の人の中にいるキリストを愛して行くのです。だからこそ他人に対して、忍び合い寛容で、愛し合い、赦し合って行くことができるのです。『互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。』 (コロサイ3:13~15)

 

 さて、信仰に立っている限り、次の御言葉も私たちのものです。

 『あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、............。』(コロサイ3:12)

 私達の内には何の功績も、聖なるものもないのに、神に選ばれ、神の御前に聖なる者として立たされ、神に愛されているのです。そんなことがあるでしょうか。あまりの不思議さに、驚き、感謝するしかありません。ただイエスの功しによって、このような立場が神の前に、信仰という条件がありますが、与えられているのです。

 でも私達はこのような素晴らしい、恵の立場が与えられているからこそ、その恵みに感動しつつも、私達もまた、キリストに助けられながら、聖霊によってキリストに心に住んでいただき、自分を変えていただかなければなりません。自分が罪をキリストによって赦されたように、他人の罪を赦し、自分が憐れまれたように、他の人々を憐れみ、慈愛、謙遜、柔和、寛容の限りを尽くしていかなければなりません。

 『あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、 憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。』(コロサイ3:12~13)

 これは、一朝一夕で出来るようなことではなく、祈りの内に、努力して、徐々にゝ身に着けて行くしかないでしょう。イエス・キリストは常に私達の傍らにおられ、又、私達の心の中に住み、私たちが変わるように、助けてくださいます。

『これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。............。』(同3:14)キリストの平和があなた方の心を包むようにと続き、さらにその後、感謝の言葉が三度出てきます。いつも感謝するように。キリストの言葉を心の中に常に宿し感謝し、すべての事を、キリストの名によって行い、イエスによって父なる神に感謝せよ(同3:15~17参照)。

 


 さてここから順序が逆になりますが、少しコロサイ人への手紙の1章の方から、贖罪計画の目指すところについて、また考えて見ましょう。

 『世の初めから、代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。』(コロサイ1:26) 福音、すなわち救いの計画は世の初めから計画されていましたが、隠されていました。 

 エペソ書を見ますと、この世界と人類が創造される前から、神はキリストにあって私達を選び、救いの予定を立て、既に贖罪の計画をお持ちになっていたと書かれています。 『天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。』(エペソ1:4)

 神の救いの計画は隠されてはいましたが、ユダヤ人の歴史を見ればわかるように、完全に隠されていたわけではありません。羊を自分たちの罪の身代わりとして、燔祭としてささげるという、ユダヤ人の宗教的儀式である犠牲制度の中に、救いの計画はボンヤリではありますが、ある程度わかるように示されていたのです。祭壇でささげられる羊の血は、イエスの流された血を象徴していました。羊が何匹殺され、生贄にされ、祭壇の火で焼かれようと、羊そのものの血が罪を赦すわけではありません。それは本体である、イエス・キリストの十字架の血があったからこそ、ユダヤの古い時代に、羊の血は罪の赦しとして、象徴的に有効だったのです。考えて見ればわかります。動物の血が人間の不義の行いを帳消しにしたり、拭い去ったり、清めたりすることなど出来るはずはないではありませんか。もし、罪からの清めが動物で出来るとしたら、今でも羊を殺し、贖いの供え物として捧げなければなりません。

 神の御計画はハッキリとは、犠牲制度の中ではわかりませんでした。そういう意味で代々隠されてきたと言えます。どうしてこのように救いの計画は、キリストの出現までハッキリしなかったのでしょうか。それは深い神の摂理の中にあって、神の偉大なる救済の歴史計画の中で進行してきたと言う他ありません。何れにせよ、救いの計画は今や(二千年前の今)聖なる者たちに啓示され、明らかにされたのです。

 ただ現代においても、救いの計画は、信仰によって受け入れた個人ゝにおいて、聖霊が心に働くことによって明らかになりますが、信じない人には昔と同じで、神の贖罪計画は依然隠されたままなのです。信じない人には、聖書の中にある、キリストの十字架による贖いも、ただの虚言としか思えないのです。この世の知恵は、神の贖罪計画を認めることが出来ないのです。このような意味で今でも救いの奥義は隠されたままなのです。聖霊によって心が啓かれなくては、十字架の真の意味は分からず、相変わらず隠されたままなのです。

 『この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。』(コロサイ1:27,28)

 この贖罪計画の目指すところは一つです。それはどんな過程を経ようと、どんな説明をしようと、あなた方の内にいますイエス・キリストを自覚する事なのです。すべての人がこの内なるキリストに、聖霊によって心の中に住んでいただき、キリストに結ばれることによって、完全な者十分に成長した、成熟していると訳すべき。ヘブル語タム・ギリシャ語テレイオス)となるように、パウロは自分に与えられた知恵の賜物を用いて、教え、諭しているのです。

 私達生まれながらの人間は、罪のもとに売られており、肉の努力や修行ではどんなに努力しても、神の律法を守れないのです。完全(成熟した者)になる唯一のチャンスは、自分の力や努力ではなくて、イエスの十字架の血による贖罪をそのまま自分のものとして受け入れ、買い戻され、そして、信仰によって内なるキリストに心の中に住んでいただくことなのです。罪の赦しもキリスト、罪の聖めもキリスト、品性の完成もキリストなのです。キリストに常に結ばれていく以外に、人格的に成熟できる可能性はありません。100%キリストなのです。

 パウロが信仰による義を説き、聖霊によって新しく生きることを説き、あらゆる知恵を使って教えてきた、これらの知恵を尽くした説明のすべてが内なるキリストを目的にし、クリスチャンが自分の心の中に住むキリストを自覚し、キリストに固く結ばれ成熟した者になり、常にキリストの全く罪のない愛のお姿を目指して歩むようになるためであったのです。

 『このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。』(コロサイ1:29)

 『わたしたちも新しい命に生きるためなのです。』(ローマ6:4)新しい命が御霊によって始まったのです。キリストを信じる者はキリストと一体となって、この新しい命の中に、霊が解放されて生きるべきなのです。

 

 コリント第一の5章には、大変大きな罪を犯した一人の信者を、コリントの教会員が除籍すべきではなかったかと警告し、その続きの言葉の中に、霊と身体の分離の思想が出てきます。『......わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、』(コリント第一5:4)その人を裁いて、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したというのです。それはその人が悔い改めて、彼の霊が救われるように、そのようにしたと言っています。この辺の解釈は大変難しく、十分には解説できません。

 コロサイ人への手紙の中にも同じ様な思想が見出されます。パウロは祈りの内に、パウロの霊が、コロサイの信者と共にいて、その信仰を見て、喜んでいるとも言っています。『わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます。』(コロサイ2:5)

 次に、コロサイの人たちが心を励まされ理解力を豊かに与えられ神の秘められた計画であるキリスト、すなわち前述したあなた方の内におられるキリストを悟るように再度書いています(コロサイ2:2参照)。このことがパウロが最も強調したかったことです。

 『知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。』(コロサイ2:3)

 どんなに大学に入って勉強しようがキリストから離れては意味がありません。確かに勉強すれば、この世の知識、科学、技術を学べ、資格も取れ、良い会社にも入れるでしょう。肉的、この世的には成功者となり、高給取りになれるかも知れません。でもそれはこの世において生活するための手段であって、目的ではありません。知恵と知識を得る目的は、キリストを受け入れ信じることによる心の平安、罪の赦し、永遠の命、隣人を愛する愛の生活等を得る為です。そこがブレてはいけません。 

 この世の知恵は神の前では愚かなものです。学者はどこにいるのか、この世の論客はどこにいるのか、神はこの世の知恵を愚かなものにされたではないか、この世は自分の知恵では神を見出す事はできなかったのです。神は知者を辱めるため、この世の無学な者、無力な者、世の無に等しい者をあえてお選びになったのです。(コリント第一2:20~28要旨)キリストこそ真の知恵、真の知識です。


ピリピ

 いくらコロサイ書で霊の生き方を強調しても、実は私達は言うまでもなく、仕事をしたり、お腹が空けば食事をしたり、夜になれば睡眠をとったり、寒ければ暖かい衣服を着たり、肉の生活をしている現実があります。霊の生活だけでこの世でやっていけるなら、こんなに良いことはないのですが、現実にはそんな訳にはいきません。働いてお金を稼ぎ、食べ、飲み、運動し、健康を管理し、日常の細々したことをこなしていかなければ生きて行けません。

 様々な思い煩いがあり、たくさんの気を配らなければならないことがあり、実際にはお金がかかることだって、生活していけば、多々あるのです。自分の肉体の健康を維持するために、適度な運動をしたり、健康的な食物、栄養バランスに気を使ったり、たくさんの時間が取られます。日本人にとって親戚づきあいをするのだって、結構大変なことなのです。

 そんな私達にとってピリピのこの個所は、大変役にたちます。

 わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。(ピリピ4:13口語訳)

 困った時この聖句を心の中で、何度も何度も繰り返すのです。何と天から、すごい力が与えられ、自分の内側からも力が湧いて来るではありませんか。これは神の言葉の力です。是非体験して見ることです。

 『...神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、............』(へブル4:12口語訳)神の言葉は私達の心の中に働き、私達の古い精神を鋭く切り刻むことさえもできるのです。 

 『聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。』(テモテ第二3:16)私達の行動に影響を与え、義に導く為に聖書はさらに有効です。

 

 『わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。』(ピリピ4:19) 私達に必要なもの、それは霊的なものも満たされるし、肉的なこの世の必要、飲むもの、食べるもの、着るもの、お金、肉体の健康、とにかく必要なものをすべて満たしてくださるお約束です。もちろん祈り求めないで、それらが可能だとは思いません。熱心な祈りが必要でしょう。『求めよ、そうすれば、与えられるであろう。.........』(マタイ7:7口語訳) 『どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。』(ピリピ4:6)

 思い煩って、クヨクヨするのはやめましょう。何でもいい、どんなことでも神に聞いていただけないようなことはありません。何でも祈ることが出来るのです。どんな心の思いでも打ち明けることが出来るのです。ただし、聖書の言葉に反することは祈っても聞かれません。人を呪ったり、自分の快楽 だけのために、この世の富を不必要に求め祈ったりすることも、最初から御旨にはかなっていません。

 『わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。.........』(ピリピ4:12口語訳) 飽くことにも、飢えることにも、乏しいことにも、富むことにも、あらゆる境遇にキリストに助けられて、処していけるとパウロは言っています。繰り返しますが、『神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。』(ピリピ4:19)必要なものは必ず総て備えて、満たしてくださるとのお約束です。

 また祈った後、まだ現実にはまだ祈ったものをいただいていなくても、必ずお約束したものはいただけると信じ切って、心に平安が与えられるのです。現実に何かが起こるより先に、心に平安が与えられるお約束です、ここが大事なところです。祈った結果をまだ見ていないのに、先に聖霊によって、心に平安が与えられるのです。まだ結果を見ていないのに、祈った後すぐに『そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。』(ピリピ4:7口語訳)のお約束が実現し、心は平安に包まれるのです。

 『ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物を賜わらないことがあろうか。』(ローマ8:32口語訳)

 飲むもの、食べるもの、着るもの、それらは異邦人が切に求めているものです。空の鳥が生きて行くのに必要な食べものを、神が支配している自然界の中に、充分に備えています。同様に神は私達クリスチャンが、食べるもの、飲むもの、着るもの等、肉の必要があることをご存知です。だから、あなたがたは『まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。』(マタイ6:33口語訳)とあります。肉の差し迫った必要を満たすために、私達はついアタフタとしてしまいますが、そんな時、まず心を落ち着かせて、まず神の国と神の義を求めるべきです。最初に神を求め、神に信頼し、日常の生活の必要を満たすために働いて行きなさいと言うことだと思います。こんなにたくさんのお約束があるのですから、これらの聖句を心の中で繰り返し想起することにより、信仰に結び付けられて、毎日を神の導きと、そのお力に囲まれて生きて行きましょう。 

 イエスは、あなたはこれらの約束の言葉を信じるか、と今も言っておられ、私達の答えは『.........信じます。不信仰なわたしを、お助けください。』と癲癇、聾啞、聴覚障害の、子供の癒しを求めた父親のように、自分の不信仰を反省しながら、ただひたすらイエスにより頼んで行くだけです。『できますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。 その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。』(マルコ9:22~24口語訳)


エペソ

 エペソ書の中で最大の私の心を捉えて離さない聖句は、『何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。』(エペソ5:10)『だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。』(同5:17)です。この2つの聖句の意味はどちらも同じです。自分のやっていることが表面的には、愛の方向性を示すと言われている十戒 にかなう事はもちろん、心の中まで造り変えられているんだろうか。自己を愛する心を捨て、隣人を心から愛し、本当に主に喜ばれるような生き方をしているのだろうか考えて見る必要があります。事の是非はともかく、たとえ善悪ではなくて、日常の普通のことであっても、やってる事は本当に主に喜ばれているんだろうか、常に反省し吟味する必要があります。 

 主の御心は何なのでしょうか、私達はあまりにも無分別で、大言壮語したり、自分の趣味に没頭しすぎたり、はてまた飲酒や賭け事の奴隷になったりしてないでしょうか。善悪のことを言っているのではありません。日常の事であっても、自分で判断し、行動し、ある程度の教育の力と、ある程度の善良さで、一日一日を過ごして、自己満足していないでしょうか。

 すべての事を主の御名によって行っているでしょうか。一日の内のたとえわずかな時間であったとしても、自分の力、知恵、能力により頼み、キリスト無しに生活してはいないでしょうか。

 神から離れ、独立して、自分の能力だけで生きていけると思い込むこと、そこにすべての罪の根源があると私は考えています。それはある意味、善悪の問題ではありません、律法にかなっているかどうかと言う問題ですらないと思います。自分がすべての人生の歩みにおいて、生まれ変わらない肉の能力で、利己的に生きているかどうか、神から離れて、自己の力のみで生きているかどうかの問題なのです。自己を正しいとし、自己の弁護を習性とする私。根本的に肉の存在である私、肉の生き方をしている私が造り変えられなければ、主の御心に従う事は出来ないのです。何度も繰り返して言いますが、それは善悪の問題ではなく、キリストと共に生き、祈りと聖霊の導きのもとに、イエスに密着して生きているかどうかの問題です。

 『だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。』 (エペソ4:22~24)

 

 エペソ書1章2章のところで、何の行いもなく、信仰によって義とされ、キリストの十字架と復活を、霊的に自分に適用し、自身がキリストと共に磔刑され、霊的にキリストと共に新しい命に復活し、さらに霊的に天の王座にまで着いているとまでパウロは言っています。  

 『その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。』 (エペソ2:4~6)このような霊的体験が私達にもできる可能性があるのです。この地上にいながら、霊的にはもうキリストと共に新しい命に復活し、天国に行って(あくまでも霊的意味で)天の王座にまで着いて、神を賛美していると言うのですから、こんな経験が出来たら素晴らしいことじゃないでしょうか。

 また、様々な礼典戒律、規則はキリストの血で廃止され、異邦人とユダヤ人の隔ての中垣も取り去られました。エペソ書3章からは神の隠された救いの計画についての言及があり、神の秘められた計画は異邦人もユダヤ人と同様に救われることであったのです。そのため 特に異邦人伝道にパウロ が神によって召されたのです。また、神の秘められた計画の結論として、内住のキリストがその目的であると書かれています。

 『こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。 』(エペソ3:14~19)

 このパウロがひざまずき、当時のエペソのクリスチャン達の為に真剣に祈ていた言葉は、私達の為の祈りでもあります。心の中にキリストに住んでいただく経験がどんなに素晴らしいことか、それは本当の意味での喜びであり、平安な幸せに満ちた時間なのです。お金では買えがたい充足感、物質では満たされない喜びがあるのです。それは何ものにも替え難い祝福と希望に満ちた気持ちです。そこから出て来るものは愛なのです。人間的な限界のある愛ではなく、聖霊の力に裏付けられた、神の無限の愛なのです。キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを体験し、その愛をもって総ての人を愛して行きなさいと言われているのです。イエス・キリストは私達が、第三位の神、聖霊に満たされるように願っています。私達の内にいるキリストが、他の人々の中にいるキリストの霊と呼応し、霊による一致においてお互いを尊敬し、愛して行けるようになるのです。その名を与えられています。」見逃しがちな聖句です。ある宗派ではバプテスマの時に賦与される第2のクリスチャンネーム(洗礼名baptismal name )なのでしょうか?そうではなく、私は救いの確証の言葉だと考えます。天の父が私達の名前を覚えていてくださり、天国において私達の名前を呼ばれるのです。これこそ救いの確証でなくて何でしょうか。

 『神の満ちあふれる豊かさのすべて』とは、どんなものでしょう。それは健康(テサロニケ第一5:23参照)、長寿、必要な限りの物質的豊かさ、真の友情を保った友達関係、信頼に満ちた夫婦間係、断絶のない親子関係、教会での信徒同士の偽りのない兄弟愛。必要な限りの過不足のないお金、住むところ、着るもの、健康的な飲むもの、食べるものの祝福。その他、この地上で私達が必要なもの、かつ、幸せを感じる総てが考えられます。

 『わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。』 (エペソ3:20~21)

 私達が求めたり、思ったりすること総てを、はるかに超えてかなえることのおできになる方(神)に、教会と、キリストによって、栄光が世々限りなくあるように、とパウロは祈りの言葉を終わっています。はるかに超えてかなえる」ことの実現は、地上において霊的、物的に恵まれることに加えて、来世に永遠の命をいただき、栄光の体と天国にある様々な光り輝く環境の中にいることに見出されるでしょう。

 そして神の都に住まわれている、父なる神と、人性を永遠に纏われた御子イエスの栄光の御尊顔を私達が直接見て、拝謁することが、想像を絶する最大限のはるかに超えてかなえられたことなのです。人として生まれた以上、このような名誉に、信仰によって、イエスの御名を通して、誰でも与かることが出来るのです。

 このような価値観の中で、キリストの愛の奥深さを知り、キリストと共に生き、キリストの霊に満たされて、喜び、安らぎ、感謝して生活し、永遠の命をやがて享受して行くことが、パウロの願いであり、私達の願いでもあります。

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