ローマ

 ローマ人への手紙

 パウロ書簡の中で、最も輝いているのはローマ人への手紙です。この見解には、少し聖書を勉強したことがある人だったら、だれでも賛成してくれるだろう。この書の研究には、多くの、著名な方々が取り組んでおり、私のような者が解説を書くとは、何と浅はかで、とんでもない愚かなことであることを承知で書いていこう。

 この手紙はいつ、どこで、だれを対象に書かれ、口述筆記者は?

 パウロは第三次伝道旅行でコリントに滞在し、そこで紀元57年頃ローマ人への手紙を書いた。最初のローマ到着は、囚人の姿ではあったが、紀元62年であるから、ローマ到着の5年前に書いたのです。書いた後すぐパウロはコリントを離れ、エルサレムの聖徒達に対する援助献金をもってエルサレムを訪問し、そこで捕えられ、囚人の身分のまま紆余曲折を経て、5年かかってローマの地を踏むことになったのです。

 口述筆記者はテルテオ(ローマ16:22)、彼自身がローマの信徒に挨拶しています。コリント市の経理係エラストの名前があるので(同16:23)コリントで書かれたと思われます。

 パウロがマケドニア人の叫びの幻を見て、アジアから離れて、マケドニアへ渡り、ピリピで宣教を始めたのは紀元49年頃、第二次伝道旅行の時であった。それから8年後、紀元57年頃、パウロはローマ人への手紙を書いた。最初のマケドニア、およびアカイア宣教から、わずか8年、誰が最初にローマ伝道をしたかはわからないが、既にローマにはキリスト教徒がいました。まだ見ぬそれらの方々、すなわちローマ人信徒宛てに、パウロはローマ人の手紙を書いたのだから、その内容から言っても、かなり有力な信徒集団がローマには既にいたはずです。 このように解釈していくと、当時のキリスト教伝播の、速度がいかに凄まじかったかが理解できます。パウロはローマの信徒に会いたいと切望していましたが、なかなか会うことが出来なかったのです(ローマ15:22参照)。

 さて、聖書の素地がない日本人がローマ人の手紙を読むと、何やらチンプンカンプン、ローマ人への手紙を理解する事が困難です。ですから、その前に前提条件になっている聖書の世界観を理解しておくことをお勧めします。

 聖書の世界観

 神が宇宙、地球、人間と動植物を創造した。

 最初に造られた人類の始祖アダムは清い完璧に善い人間であった。アダムとエバ、この2人の人間から、生物学的には、生殖により、細胞分裂を繰り返しながら、現在約80億人の人間が増えてきたと考えます。

 最初の人、アダムとエバは、創造主である主(YHWHあるいはアドナイ)と言う神の命令(律法)を守らず、禁断の木の実(善悪を知ることが出来る実)を食し、2人共に罪人となった。

 エデンの園の中央には命の木善悪を知る木が生えており、命の木から取って食べることは許されていたが、善悪を知る木から実を取って食べることは、死をもたらすので、食べてはならなかった。それは神の命令に、人間が与えられた自由意志の選択によって、自発的に従うように仕向けられた、神の与えられた御摂理による計画であった。

 全人類は、アダムの腰(細胞的に、生物学的に)にあって、アダムと共に罪を犯したと考えられ(ヘブル7:9~10参照)遺伝的にも生まれついての罪人となった。この出来事を自分は関係がないと考えることは出来ない。第一のアダムが禁断の木の実を食べて、罪を犯したとき、アダムの細胞の中にあって、全人類は罪を犯したと考える(奇妙な考え方かも知れないが)ところから、第二のアダムであるイエスが、罪のない生涯を送られたとき、第二のアダムにあって罪のない義の生涯が、私達に被せられ(義認)、義の支配の下に生活していける(聖化)ことになるのです。第二のアダムであるイエスの功績は信仰によってその支配の中に組み込まれるが、第一のアダムの罪と死の支配は全人類に自動的に及んでいることを認識すべき。

 イエスは神の子であったのに、人間の子として、処女マリアから超自然的に生まれ、第二のアダムとして、罪も穢れもない、無罪の人生を送られた。神の怒りと、罪の刑罰である滅びの死は、無垢なる神の御子イエスに下り、イエスはその死の値(人類に対する神の刑罰)を、身代わりとして十字架刑で受けた。

 イエスは3日後に復活し、墓から出てきて、40日間弟子たちと過ごされた後、父なる神のいる天国に帰られた。それから10日後、ペンテコステ(五旬節)の日に聖霊降下があった。そして、聖霊(父なる神、子なる神イエス、と同じ神-三位一体)の神を、父なる神は天から、いつも信じる人々の心に送ってくださり、信者は聖霊なるイエスと共に歩むことが出来ます。

 罪とは不法であり、神の言葉、律法、十戒違反です。

 ユダヤ人は律法の下で罪を犯した。神を知らぬ異邦人は、自然の律法が良心として、心に刻まれているので、良心に反することを行えば罪人となります。つまり、ユダヤ人も、異邦人も、全人類は罪人です。

 全人類は第一のアダムの支配下にある。アダムにあって、全ての人に罪と死の支配が及び、生まれつきの肉の力では、善い行いは何一つできないことになった。

 しかし第二のアダムであるイエスの支配下に招き入れられ、贖いを受け入れ信じるときに、第二のアダムがなした功績はすべて、信じる人のものになります。

 すべての人間は、行いによるのではなく、悔い改めて、イエスの十字架の血潮を、自らの贖いの犠牲として信じるときに、値なく、無代価で、何の行いもなく、ただ信じるのみで、神の前に赦され、義とされます。このことを信仰による義、あるいは義認(ローマ3:22~28参照)と言う。

 第一のアダムの堕罪によって、罪と死が人類全てを支配した。しかし、復活したイエスの霊と、命の力とは、第二のアダムであるイエスを信じるとき、この世においてすら義の支配力となってすべての信者に及ぶのです。その義の支配力によって、信者はイエスの復活の命の力を戴いて、イエスが聖霊によって心の中に住むことを通して、義と愛の生活を送ることが出来ます。第二のアダムのその力の支配は第一のアダムよりはるかに優ります。

 十字架は自分の身代わりの死であるという意味と、古い肉の自己が十字架につけられるという意味があります。十字架につけられて自分はキリストと共に死んだのです。また、キリストが復活したと信じるとき、自分もキリストと共に霊的に復活した気持ちで生きることが出来ます。言葉を変えて言えば、キリストを着ながら、キリストが心の中に住みながら、新しい生活を送ることが出来ます。十字架と復活を個人にあてはめた霊的解釈です。

 ローマ第8章はローマ人への手紙の中心メッセージであり、16章からなる長文の手紙のちょうど真ん中に書かれています。

 私達の生まれついての堕落した肉は、イエスと共に十字架で処断された(同8:3)。自己の古い肉の破壊を信じた者は、霊によって、死ぬはずの肉をも再び生かしていただけます(同8:11)。この考え方はこの世における奇跡的な肉体の癒しも示唆しています。また再臨の際の新しい復活の体をいただくことも意味しています。

 キリストの霊を受けた者はその霊によって、肉の欲望を殺しなさい。あるいは、コントロールしなさい。私達は肉にあるが肉に従って生きてはならない。肉に対して肉の責任を負う者でもない(同8:12~13)。肉体なしに人間は生きることは出来ないが、肉体は言わば霊を入れる器、霊が善いことのために使われる道具です(同6:13)。道具は錆びたり、欠けたりしていない方が良いに決まっています。この意味で肉体は器として健康で、健全であることが求められ、自然食、健康的なものを食し、運動等によって肉体を鍛えることが派生して行きます。医学的にも疫学的にも健康の原則を実行することが、自分の幸せと、神と隣人に奉仕するために必要なのです。

 弱き肉体にありながら、自分の内に宿っている『アバ父よ』と呼ばせる『キリストの霊』(同8:9) と『わたしたちの霊』 とは、両方が共に同調して、証ししてくれます(同8:16)。その証によって善い業や神の業を行うことが出来ます。

 しかし肉体は、世の終わりに、完全に贖われることを待ち望み、霊の初穂をいただいている私達と、被造物全体が、ともにうめき、苦しみながら生きているのが現状です(同8:19~23)。

 上記のような枠組みの中で、ローマ人の手紙を読んでいくと理解しやすいと思います。それでは第1章から、概略になってしまうが、私なりの解説をして行きます。

 

 ローマ1章~2章

 ユダヤ人と異邦人との罪の種類を分けて書いているが、結論は全ての人間が、神の前に罪人であり、イエスの贖いを信じる信仰によってのみ義とされることを説いています。

 律法を持たない異邦人は、心に自然の良心が与えられており、その良心に背いた行いをすれば、神の前に罪人です。律法(道徳律の十戒、礼典律、それらを含む聖書全体)を持っているユダヤ人は、律法を守れば神の前に義とされると思ってきた。事実ユダヤ人達は自分の生まれつきの肉の力で表面的には律法を守ろうと形式的努力はしてきた。しかし守ろうとすればするほど、深い罪に陥ってしまう。『律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。』(ローマ3:20)のパラドックスにはまってしまうのです。

 異邦人の罪の特徴

 聖書、すなわち神の言葉を知らない異邦人は、神の存在まで知らなかったのであろうか?そうではなく、神(YHWHヤーウェ)が造られた自然界を見れば、神の存在は明らかです。誰でもが、私は聖書を知らなかったから、神を知らなかったとは言えない。自然は神が造られ、霊的目で見れば、神の御性質や、存在までがそこから読み取れるのです。

 しかし、異邦人は神の造られた自然の中にある動植物を神として拝み、偶像崇拝の罪を犯し、それによって知性は暗くなり、道徳的に堕落し、同性愛のような罪を犯すようになり、さらにあらゆる不義、無慈悲、大言壮語、無知、不誠実、親に逆らい、神を憎み、ねたみ、殺意、不和等を心に抱くものとなったのです(ローマ1:16~32)。

 ユダヤ人の罪の特徴

 神の律法を知っていながら、実は律法を守っていないではないか。律法を守っていない者が、神の命令であるからと言ってユダヤ民族の印たる割礼を施しても、何の役にも立たないのです。霊によって心に施された割礼こそ真の割礼です。

 姦淫するな、盗むな、貪るな等と神の律法を教えながら、自らは姦淫し、盗み、また、貪欲の罪等に陥っています。『貪欲は偶像礼拝にほかならない。』(コロサイ3:5)。戒めを知りながら、それを守らず、自らが戒めを破っているのです。これがユダヤ人の罪です(ローマ2:17~29)。

 ローマ3章

 『「義人はいない、ひとりもいない。』(ローマ3:10口語訳)『律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。』(同3:20口語訳) 神の義は律法に旧約時代から継続して表されてきたが、今や律法とは別に、しかも律法(の書)と預言者(の書)、すなわち聖書そのものから証しされて現れた(同3:21)。『それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。』(同3:22口語訳)   

 イエスの十字架を自らの贖いの犠牲として信じるなら、『神の恵みにより無償で義とされるのです。』(同3:24新共同訳)『なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです』(同3:28)

 父なる神は御子キリストに人類に対する怒りの刑罰を下したことにより、自らの正義を曲げることはなさらなかったのです。しかも、父なる神は御子の贖いの業を、罪深い、弱い自分の身代わりであったと信じる人間を、信仰によって義とされ(正しい者とされ)、御前に赦すこととなりました。神の知恵は深いのです(同3:26)。

 律法は聖なる者であり、神のご性質です。肉に売られた愚かな人間が、イエスから離れて、 生まれつきの肉の力でどんなに努力しても守れません。霊によって内側から造り変えられなくては、律法が求めている崇高な標準には到達することは出来ません。まず、信仰によって義とされ、恵みによって、行いなく救われ、肉の心が変えられ、聖霊を宿す人間に造り変えられるのです。肉の生まれつきの利己的な人間が死んで、真の意味で愛の人間に生まれ変わるとき、律法は内なるキリストによって、全うされていくものです(同3:31)。

 ローマ4章

 アブラハムの信仰、ダビデの信仰の例をあげて、行いによらず、神によて義とされたことの幸いを書いています。

 アブラハムは割礼を受ける前に信仰によって義とされていたのです。信仰によって義とされた証しとして、割礼を受けたのです(同4:11)。その信仰は不妊の妻サラと老人となり肉体が衰え、枯れてしまったアブラハム(創世記17:17)の間に、神の奇跡的な力によって子(イサク)が産まれることを信じたこと。やがて天の星のように数えきれないほど子孫が増え広がるとの約束を、ある晩アブラハムに神がお告げになり、その約束を信じることが、信仰による義であったのです(創世記15:5~6参照)。

 実はこの故事は、高齢のアブラハムの枯れた肉体の中に、神が復活の奇跡を行い、その力を与え、夫婦の交わりによって、約束の子供イサクを授けると言う、きわめて肉的なものでしたが、同時にそれは神の力を体験する信仰の行為でもありました。復活の信仰によって義と認められ、年老いた夫婦の本来何も生じない枯れた身体から、ついにはイエスの復活の力が宿って、約束の子イサクの誕生がもたらされたのです。

 アブラハムだけでなく主イエスを死者の中から、復活させる力のある方である神を信じるならば、私達も義とされるのです。私達も老いて、やがて枯れ木のようになり、最後は死を迎えるでしょう。これは罪の結果死が入り込んだゆえの定めです。しかし、キリストの復活を信じるならば私達も同様に復活させられます。さらに、将来の復活は一番大事な事ですが、現実のこの世の生活においても、衰えていく肉体に、聖霊が宿り、強められ、癒され、復活の先備えとも言える現象すら体験できるのです。ここが肝心なところです。

 自分達もイエスの復活の力によって、やがて復活すると信じるならば、私達も義と認められるのです。『イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。』(ローマ4:25)

 『すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。』 (テサロニケ第一4:16~17)

 

 ローマ5章

 復活されたイエスの義の支配に移って行きます。第一のアダム、その腰の中(ヘブル7:9~10)にあって、細胞レベルの意味でアダムと共に罪を犯してしまった全人類は、罪と死の支配から逃れることは出来なくなりました。罪の性質は遺伝していると考えても良いでしょう。

 しかし第二のアダムであるイエスが復活した時、その復活の義の力の支配は、全人類に及び、さらに偉大な力で、信じる者にとっては、義の命が支配するのです(ただし、この義の支配は、第一のアダムのように自動的でなく、十字架と復活を信じる信仰によって、イエスに結ばれることを通して実現します)。


 ローマ6章

 バプテスマの例を挙げて、十字架と復活を説明しています。バプテスマで水の中に肉の古い自分を葬り去り、水から上がったとき、象徴的に、新しい命に復活したのです(ローマ6:4参照)。

 私達がキリストと一体となる。これが前提です。そしてキリストの復活を霊的に自分ものとして体験しながら、現実の復活にあやかって行くのです。『キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。』(同6:8)

『このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。』(同6:11)

 人類の代表として、第二のアダムとして、キリストは罪を犯さず、義を全うなさり、復活によって、死に勝利なさった。この義の力は、第一のアダムによる罪と死の支配以上の力をもって、私達を覆うのです。キリストに対する信仰、祈り、聖霊の満たし等によってキリストと一体となるとき、この弱い私達に、復活の義の力が、私達の肉体と心の中に宿ります。肉体は、もはや罪に仕えるために使用せず、神の道具として肉体は神に献げるべきです(同6:13参照)。

 私達の霊は、肉体がなければ存在が出来ない。聖書の中に霊と肉体は混然一体となっています。神の息(霊)が土から造られたアダムの肉体に吹き入れられた時、アダムは生きたものとなった。肉体は神の霊を宿す道具であるから、道具は錆びたり、壊れたりしていない方が良い。肉体を上手に、自然の法則に従って(適度な太陽光線、新鮮な空気、清涼な水、適度な運動、節制、休養、睡眠、健康的な飲食物摂取、神に対する信頼、心の平安等)健康を維持していくのも、神に対する私達の務めです。

 しかし肉体から生じる、または、肉体が罪の入り口になっているような、色々な種類の罪の誘惑があることもまた事実です。肉の欲、目の欲、持ち物の誇り等挙げればたくさんあります。それらは十字架につけて無くしてしまうように言われています。本当にキリストに結ばれ、古い肉の自己がキリストと共に十字架につけられて死んだなら、今度はキリストと共に霊の命の力に満たされて、霊的に復活し、キリストの霊に満たされ、復活の力に満たされて、義の力によって、義に生きることが出来ます。

 『律法の下ではなく、恵みの下にいる』(同6:14)『罪から解放され』(同6:18)とはそのような状態を言うのであって、もはや罪の奴隷ではなく、義の実を結ぶ神の奴隷となったのです(同6:22)。パウロが言っている要旨は、イエスが復活し、霊的にクリスチャンは、第二のアダムであるイエスの義の支配下に移されているので、『聖なる生活』を送りなさいと言うことです(同6:19~22)。

 

 ローマ7章

 表面的な生まれつきの自己の肉の力で律法を、文字面で解釈して、キリストの贖いを重視せず、聖霊の満たしも経験せず、自己を十字架につけることもなく、行われる律法遵守ほど、弊害を産むものはない。 ユダヤの律法主義、パリサイ人達はその見本です。それこそキリストを迫害し、死に至らしめた元凶です。彼らは神の前にキリストの義を立てる代わりに、自己の義を立てたのです。私達もそのような形式主義には警戒しよう。

 今や、肉の自分は死んだことにより律法の下にはいない。死んだ者は律法から解放されています。死者は律法を守れないのです。何故なら死んでいるから。

 十字架にイエスと共に、自分の肉は桀刑に処されました。その結果、様々な情と欲と共に肉は死んだことにされているのです。肉によって、己の努力によって、ただ自己の義を神の前に立てようとするような、肉に従う守り方から解放され、霊に従うようになる。キリストの贖いと、復活を信じて、キリストを着て、心にキリストが住み、霊の力に満たされた新しい生き方で仕えるようになるのです(ローマ7:6)。

 律法は神のご性質であり、霊的なものであり、罪ではない。聖なるものであり、善いものです(同7:12)。

 実は、罪は律法によって、機会をとらえ、より悪質なものとなり、その正体を現してきたのです(同7:13)。鏡を見なければ自分の顔が汚れていることに気が付きません。鏡(律法)を見て初めて自分がどんなに汚れているかが分かるのです。

 肉の生まれ変わっていない自分は、善いことをやろうと思っても、自分の意に反して悪いことをやってしまうのです。例えば人を憎まないで愛して行こうと思っても、イエスによって生まれ変わっていない肉の自分は、何か気に入らないことが相手にあると、憎らしく思ってしまい、その人を愛することが出来なくなってしまいます。自分の気に障るようなことがあれば、立腹し、友どころか自分の妻すら愛せなくなるのですから、『敵を愛し』(マタイ5:44)と言われたイエスの言葉を実行することなどほとんど不可能なことなのです。

 肉の私が、もし神の律法の前に立って、自分が望まないことをしているとすれば、『それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。』(ローマ7:20)

 では、第一のアダムから引き継いだ、この弱い、肉の欲望まみれの、自己保身ばかり考え、他人に対する同情心の欠如したこの私に、希望があるのでしょうか。実はとてつもない希望があるのです。理論的にも、体験的にも自己を、究極的に善を求めるという価値観の中で、神は私を追い詰めてきたのです。自己を見詰めて、この醜い姿を悟れば、救いは近いのです。それは8章の霊の解放の経験に進むためだったのです。『わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。』(同7:25)という言葉が、既に7章の終わりに出てくるのです。

 

 ローマ8章

 8章こそローマ人への手紙の中心のメッセージです。そこには罪からの解放と、御霊と共に生きることが出来る希望、勝利の生活、復活の力に満たされた生き方が出てきます。もう肉の力によって律法を守ろうとすることはやめましょう。そんなことを繰り返していれば、増々罪に閉じ込められ、かえって自分を形式的な信仰に追いやり、十字架抜きの肉の力による義を神の前に立てる結果を招きます。そういう意味で、もはや律法の下にいることをやめ、恵みの下にいるしかないのです。恵みの下とは、霊なるイエス・キリストの支配の下にいることなのです。律法の下にいるとは、イエス抜きに、自分の生まれつきの肉の力で律法を表面的に守って行く守り方なのです(あるいは、いつも養育掛用法の下にいることから解放されず、罪の意識に常に苛まれながら、力なく生きて行くこと)。

 恵みの下にいることとは、言い換えるならば、神と人の両方のため、自分の命、またそれを形成する時間を捨て、あるいは削って生きて行く、生き方なのです。この生き方こそが、イエスが与えられた新しい戒めに生きる生き方であり、霊によって、文字面ではなく、真の霊的な律法に仕える生き方なのです。文字は人を殺しますが、霊は人を生かすのです。『神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。』(コリント第二3:6)

 イエスの為に命を捨てて行くような信仰も、隣人を愛することも、友の為に命を捨てよと言うことも(ヨハネ15:12,13参照)イエスによって、成就したこの聖句『......罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。』(ローマ8:3新共同訳)によってしか成すことは出来ないのです。

 人間の肉体は神による創造時、本来善なるものであったのに、いつからか肉体は罪への入り口になってしまった。神は天地を創造され、土から人間をも創造された。人間の肉体、その頭の中にある精神、あるいは魂も含む総ては創造時、善なるものであった。人間の知性、感情、意志は総て善いものであった。神がお創りになったのだから、悪いものがあるはずもなく、自然界、動植物、人間を含め、あらゆるものが善いものであった。神の善なる世界、万物の創造、これが聖書の考え方なのです。

 ところが堕罪によって、人間の肉は堕落し、罪の誘惑に一番弱いところとなった。肉の欲望が罪への入り口となってきたのです。肉の欲、目の欲、持ち物の誇りが人間の心を捉えるようになってしまった。 罪の誘惑の宿るところはどこか?欲情、欲望、肉欲、食欲、目の欲、名誉欲、物欲、金銭欲、持物の誇り等です。また人間の精神そのものが神から離れ堕落して行った。生まれ変わらない第一のアダムにある、人間の心は、金銭に執着し、権勢を誇り、地位、名誉を求め、高慢になり、神を否定するようになった。私達は、神から離れてもやって行ける、立派に生きて行けるのではないか。教育や、科学、生まれ持った才能、後天的に肉の訓練をして得た技術等を駆使すれば、人間は自分で何でも出来るなどと思い上がるようになった。

 もちろん動植物も堕罪の影響を受けた。動物は、肉食動物が出現し、弱肉強食になって行った。植物は茨とアザミに象徴される変化をして、地は雑草に覆われ、人間に害悪をもたらす、植物が繁茂することになった。人間の堕罪後、動植物も悪い方向に変質して行ったのです。

 肉体が、様々な肉欲によって誘惑されやすくなり、本来良いものであったのに、堕落の入り口になってしまった(善悪を知る禁断の木の実は、食欲と悪の知識欲を誘惑の根底にした)。肉体に付随する、精神までもが、堕落して汚れてしまったのです。

 人間の魂と呼ばれているところ、その心の中、知性、感情、意志で構成されている場所、精神性を形成する上で大事な所であるが、精神そのものも堕落した。人間の精神は、神から分離して行動するならば、神の御旨にはかなわない、かなり外れた働きをすることは、自分自身のことを反省して見ればわかります。自分の心を(その知性も含めて)コントロールすることが出来るだろうか。心を制御できる人間はいない。余程の修行を積んだ、禅僧なら話は別になろうが、私達一般人が自分の心をコントロール下に置くことはほとんど不可能に近い。

 私はキリスト教信者になって52年間信仰しているが、自分の心などコントロールできるはずもなく、何か心を乱すような事が起きれば、それに囚われ、今だ思いは、消してもゝ湧き上がってくる不安や心配にかき乱されます。

 イエスは十字架で、肉を滅ぼされた。イエスは罪の無い方、無垢な方であったが、私達と変わらない肉体を持っていて、私達の罪の結果をお引き受けになり、罪を滅ぼされた。『......罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。』(同8:3)また、イエスと共に私達の肉も(霊的に)十字架に磔られた(ガラテヤ2:19,20)。イエスの肉が十字架で滅ぼされた時(第二の死と解釈ヨハネ黙示録20:14参照)サタンは宿るところの根拠を失った。言わば悪の霊が宿る依り代を失った。ある意味サタンはここで(イエスの十字架の肉の砕きで)滅ぼされたと考えることもできます。

 イエスはヨハネによる福音書で『...「すべてが終った」...』と宣言なさった(ヨハネ19:30口語訳)。

 モーセの蛇を思い出して下さい。旗竿の先に掲げたのは、モーセが作った青銅製の蛇でした。出エジプトしたイスラエルの人々が、荒野で神に背き、毒蛇に噛まれて、大勢の人が死んだり苦しんでいた時、モーセが竿の上に掲げた蛇を、仰ぎ見た人は救われ、毒も無毒化され癒されたという故事があります(民数記21:5~9)。蛇はサタンの象徴であることは間違いありません。掲げられたのが何で蛇だったのか、私は長い間分からなかった。しかしイエスの肉体が滅ぼされる事によって、罪が罪として処断され、サタンが一番罪の誘惑とする入り口であるところの依り代である肉体が破壊された。その誘惑の根本である肉体、依り代としているものが滅ぼされたと考えるなら、何んとなく合点が行くのです(十字架=釣り針説)。

 イエスが十字架で、その肉により、罪を罪として処断なさった時、実は私達の肉もこの時キリストと共に処断され、十字架でキリストの肉と共に、私達の肉も(霊的に)破壊された。このように考えることが肝要です。それでないと中々新しい生き方が出来ない。人の生き方が変わっていかない。罪赦され、救われても、いつまでも肉の誘惑に負けながら、弱いクリスチャン生活を続けて行くことになってしまう。私の罪の誘惑の依り代となっていた、古い肉は滅びた。古い肉をまとった、この世の情と、欲にまみれた自分がキリストと共に十字架につけられ、葬られ、死んでしまったのです。『あなたがたは死んだのであって、.........』(コロサイ3:3)と書いてあります。

 さらに次の段階で、キリストの復活にあやかり、新しい命、新生された命に、キリストと共に復活(霊的意味での復活)させられたのです(コロサイ3:1、エペソ2:6参照)。古き自分は十字架にかけられ死んでしまい、もはや私が生きるのではなく、私の内に宿っているキリストが生きています。現在の私が肉において生きているのは、信仰によって神に赦されながら生きているのです(ガラテヤ2:19,20参照)。

 既に、死んで破壊されているからこそ、友のために命を捨てられるのではないか。ヨハネは以下のように書いています。『主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。』(ヨハネ第一3:16口語訳) 

 『わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』(ヨハネ15:12,13新共同訳)ヨハネの言葉とイエスの掟は同じ意味です。

 命は時間に等しい。時間の連続が命を形成している。今瞬間にも命があるが、命を継続して送ることができるのは、時間が継続して持てているからだ。完全に命=時間とは言えない気がするが、仮に、命=時間と考えるならば、友のために命を捨てるとは、友のために自分の時間を少しでも削って行くことではないか。それは自分の持っている時間を削る事。場合によっては、自分の命そのものを差し出せと言われる時が来るかも知れない(そのような時が来ないように私は望んでいるが)。自分にとって唯一の大事なものを本当に私は捨てることが出来るのだろうか。それも肉欲中心に生きている、肉の塊のような人々の為に、この世の人々、すなわち新生もしていない人々の為に、自分の一つしかない命を捨てられるのだろうか。あるいは、少しでも良いから、自分の時間を削って行けるだろうか。

 人間的に言えばそれは自分の力では不可能に近い。稀には強固な意志を持っている人がいて、義の為に、大義の為に、あるいは国家の為に、命を捨てられる人がいるかも知れない。実際に今でもウクライナの若者はロシアの侵略に抵抗して、祖国の為に命を投げ出しているし、太平洋戦争の末期、カミカゼとなって国家の為に命を捨てた、日本の若者達もいたのだから(それは余りにも肉的な、この世そのものの例であり、この場にふさわしいとは思えないが)。

 でも、自分に関して言えば、正直そんな勇気は持ち合わせていない。自分の残された人生の大事な時間、また命そのものを捨てる。自分の肉のこの命を、時間も自分の力も、短い残りの人生も、人助けの為に惜しまない、自分の命すら顧みない、本当にそんな生き方が出来るようになるのだろうか?自分の命が一番大事だと思っている、私のような利己的な人間が、そんなことが出来るのだろうか?

 キリストにあって、肉が既に滅びているから、肉の命を捨てられる可能性があります。既に十字架で私の肉が、処断され、既になされているから、捨てることが出来ると信じます。キリストの肉が十字架で処断された時、私の肉も共に処断されてしまったと考えることによって、こんな利己的な私も、友の為に命を捨てられるように変えられるかも知れないのです。既になされているから、捨てることが出来ます。友の為、人の為、隣人の為、自分の時間と労力を割くことが出来るように変えられて行くようになります。時間はかかるかも知れないが、やがてそのような生き方が出来るようになって行けると信じています。

 肉は実は本来は善いものであったことを前述した。

 『また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。』(ローマ6:13)

 『従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。』(同6:12)

 肉体がなくては、霊は存在できない。私達の内にある霊は(神からくる聖霊を感じ取るところと言っても良い)天から下る聖霊と、自分の内に本来あるわたしたちの霊と2つから出来ている(同8:16)。肉体は2つの霊の入れ物であるから、道具としての役割がある。道具は錆びたり、欠けたりしていない方が良い。

 母の胎から出て、肉において赤ちゃんから、成人になるまで、生きてきた私達は、霊によって生まれ変わらなければ救われない。生まれ変わっていない肉は(生まれ持った精神や能力、知・情・意も含む)、一度十字架にキリスト共に磔られ、霊的新生を経験することによって、もう一度本来の正しい位置に戻され、霊の器として、奉仕の器として使われます。食欲は制御され、美食を追求すること等から解放され、金銭欲は十字架につけられ、奉仕の業等に使われるようになります。

 神から離れ、自己中心の勝手な行動をするように、肉の防衛本能によって方向付けられていた、自己の内にある利己的な行動力は、神の御旨に従った方向に向けコントロールされるのです。肉体がなければ人間は生きて行けない(テサロニケ第一5:23参照)。

 十字架で自分の古い肉体は霊的にキリストと共に磔にされ、処断されてしまっています。自分の誘惑に陥りやすい肉体は死んで滅びてしまった(念を押すが霊的な意味で)。既に、滅びているから、捨てているから、命を捨てられるのです。こんな形で、キリストの命懸けの愛が自分に実現しているから、キリストの愛を自分の心に宿して、隣人を愛して行けるのです。自分が自分の力で人を愛するのではなくて、自分の内に聖霊を通して宿っているキリストが、隣人を愛して行くのです。

 『生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。.........』(ガラテヤ2:20口語訳)

 死ぬべき弱い肉体を持っている私達ですが、現世においても、私達の内に宿っている霊の力によって、死ぬはずの身体を、強め、霊の力によって力づけ、癒しの奇跡によって癒し、支え、弱いなりに強め、生かしてくださるのです。この弱い肉体が、聖霊によって毎日新たにされるのです。

 病んでいる時、調子が悪い時には、聖霊が癒しの奇跡をもって、支えて下さいます。『死ぬはずの体をも生かしてくださる』(ローマ8:11)と言うこの言葉は、今の弱い肉体をも奇跡により、現実に聖霊の癒しが起こって、完全にではないかも知れないが、ある程度は癒されると理解できます。これは私の信仰です。

 『もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。』(ローマ8:11新共同訳)

 しかし、肉体が完全に堕落以前のアダムの状態に戻るのは、イエスの再臨によって万物が創り変えられる時まで待たなければならない。被造物全体も(動植物含めて)造り変えられるのを待っています。救われて霊の初穂をいただいている私達も、身体が贖われることを心の中でうめきながら待ち望んでいるのです(同8:23)。

 世の終わり、再臨の時、肉体は栄化され、私達の身体は天使の身体のようになります。キリストを信じる私達も、最終的には体が贖われ、死ぬことのない栄化された新しい肉体が与えられることは確かです。世の終わりに、キリスト再臨の時、生きている者は一瞬にして変えられ『......またたく間に、一瞬にして変えられる』(コリント第一15:51口語訳)、死んでいる者は、もう一度土から再生され復活します(テサロニケ第一4:16参照)。この時に完全な救いが実現するのです。これが私達が持っている究極局的な意味での希望なのです。

 『「死は勝利にのまれてしまった。死よ、お前の勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。』(コリント第一15:55口語訳)

 『.........もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。』(黙示録21:4口語訳)

 ふりかえってみると、実際に私自身の人生において、様々な失敗、苦しみを経験してきた。原因は色々考えられるが、結局『わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』(ヨハネ15:12,13新共同訳)とのイエスの言葉を実践できなかったことだと、今更ながら気付き、大いに反省しています。しかし過去の結果は変えようがない。

 それならば、残りの半生を、何とかキリストの言葉に、少しでも近付けて生きて行きたい、そんな思いでいます。いつでも、どんな場合でも、どんな人の人生でも、生きている限り方向転換は、イエスに固く結ばれることによって可能です。

 上よりの力を祈り求め、キリストをこれからも追い求めて行きたい。私の今の存在と、置かれている状況を神はお許しになっていて、こんな取るに足りない、しかも醜い、利己的な自分をありのままに受け入れて下さっています。こんな自分が毎日生きる事を許して下さっています。ここがいつものスタート地点であり、ここがいつも立っている信仰の立場、神の御恩寵によって赦されている立場です。

 今更、自己の力で何でもできるなどと、私は露ほどにも思っていない。総ては神の憐れみによるのです(テトス3:5参照)。 聖霊が天から、キリストを通して降る時、人間が不可能と思うことすらして下さるという事が、私達が神に対して持っている信仰です。この聖霊の導きにより、『知恵と啓示との霊』(エペソ1:17)を上から戴けるよう懇願しながら、聖書を正しく理解出来るように、祈りつつ進んで行こう。

 

 『......罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉(イエスの十字架上の肉体)において罪を罪として処断されたのです。』(ローマ8:3)この聖句の後には、霊の証と言う大事な思想が続いています。

 『この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。』(同8:16)

     罪の依り代である、肉体がキリストの肉体と共に、処断され、破壊された時に、同時に、また次の段階として、私達の心の内に宿るのは、復活の御霊です。そもそも聖霊に教えていただかなければ十字架と復活の意味は、肉のこの世の理解力と知恵では、最初から理解できるものではありません。天から神の霊によって教えていただくように、謙遜になって祈り求めて行くとき、霊の世界の出来事が理解できるようになるのです。

 十字架は大事です、それがなければ罪の赦しはあり得ません。しかし、復活はもっと大事です。何故なら復活によって、キリスト教のすべての教義が事実であることが、確証されることになったからです。天地創造も、人類が神によってアダムとエバから増え広がったことも、堕罪も、贖罪も、神の審判も、キリストの再臨、新天新地の到来も、やがて私達が永遠の命に復活することも、総てはイエスが死からよみがえることによって、事実としての聖書の世界観が肯定され、確証されたのです。

 

 私達はこの今生きておられる、キリストの復活の聖霊を受けて以下のように告白することが出来ます。

 『あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。』(同8:15)

 アッバという語はアラム語(当時の日常会話はヘブル語でなくアラム語)です。日本語での意味は「お父ちゃん」です。当時のユダヤで、父親を小さい子供が親しみを込めて呼ぶ時に、普通に使っていた言葉です。

 復活の霊を戴いた時、私達は、父なる神に対して、子供が厳格な父親を、恐れるような態度を取ることはなくなります。キリストが呼ばれたように、父なる神を呼ぶ時、小さい子供が半ば甘え気味に呼ぶような言葉使いで、信頼の思いを込めて「お父ちゃん」と呼ぶのです。

 「お父ちゃん」と呼ばせるこの聖霊が、私達の霊と共に、私達が神の子供であることを証ししてくださるのです。証するというのは保証することです。私達の霊も私達が神の子供となったことの保証でありますし、神の霊も、聖霊が親しく降ることにより、私達の霊と一緒になって、私達が神の子供となったことを保証してくれます。

 『この霊(アッバ、父よと呼ばせるキリストの霊)こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。』(同8:16)

 神の聖霊は、私達の霊と共に一緒になり、力強く、意識し、感じられるはずです。意識を集中し、自らの雑念を捨て、『「静まって、わたしこそ神であることを知れ。.........」。』(詩篇46:10口語訳)と書かれているように、神の霊の臨在を静かに瞑想してみましょう。内なる心に、御霊が宿ることを、深く瞑想し、次元の異なる天から、キリストの贖罪、復活、執り成しを通して、霊の降下と臨在を求めて行きましょう。

 読者の皆さん、今私と共に、両手を天に差し伸べ、「天の父なる神よ、聖霊を、イエス・キリストの御名を通して、私の心に、お降し下さい。心を聖霊によって満たして下さい。どうか主の霊を私に降し、霊を解放して下さい。自由の霊をもって私を支えて下さい。イエス・キリストの御名によってお願いします、アーメン。」と熱心に、祈ろうではないか。

 すべては、自己の力でもなく、自分の信仰の力でもなく、キリストの仲保によって、かなえられて行くと信じています。肉欲と、物欲と、この世の思い煩いと、汚れた思いに溢れた己が心を、清め、静めていただき、清浄な思いをもって、父なる神の御座から、御子キリストを通して、降る聖霊(復活の御霊・力・癒し)を求め、時間を割き、静かに瞑想しましょう。御霊を曇りなき心をもって純粋に感じよう。

 クリスチャンにとって、聖霊の存在と、その働きはリアルでなければならないと思います。そしてその神の子供となった証拠としての聖霊の顕現が、『一緒になって証ししてくださ』る事であり保証です。このローマ8:16の聖霊の顕現は、ローマ8:11から、既に繋がっています。『もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。』(同8:11)

  復活の霊が私達の内に宿っているなら、その復活の霊のお力により、現在持っている、肉の死すべき体をも、霊によって生かしてくださると言うのです(これは死すべき肉の体が、霊によって生かされ、霊の御用事のために用いられるという意味と、実際に肉の体が病気等によって弱っていても、霊の権限によって癒され、霊の御用事のため、再び生かされ用いられるという意味があると私は思っています)。

 肉の身体は霊を入れる道具であると前述しました(同6:13)。道具はいつも手入れが行き届き、錆びたり、折れたり、曲がったりしてない方が良いに決まっています。いつもピカピカで、欠けた所がないのが良い道具です。肉体も同様で、健全で、健康な状態が、神のために用いられる、一番良い状態です(テサロニケ第一5:23参照)。

 しかし、この肉体は様々な理由で、病み、損傷していることが多いのです。若い時は何もどこも悪くなくて、自分の思うがままに活動することが出来ました。ところが、段々と歳をとってきますと、人間の肉体は、衰え始め、物は見えにくくなり、階段は上がり辛くなり、あっちが痛い、こっちが痛いが始まるのです。霊は燃えても、肉体が付いてこないのです(マルコ14:38参照)。

 現実には、特に高齢者は肉体が毎日悲鳴をあげているのです。しかし、このような状態であったとしても、まだ希望があります。老化し、死へ向かっている、日々衰えている、この肉なる体をも、私達の内に宿っている復活の御霊によって、神の御用の為なら、もう一度この世においてすら、癒し、元気にさせ、心の内側も、体の外側も、主がお現れになり、生かしてくださるのです。高齢者にも望みがあると信じます。

 『...その霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。』(同8:11)

 聖霊によって心が満たされて来ると、沈んでいた、力のない状態から元気が湧いてきます。祈りの中で、沈んでいた心が生きゝとしてくるのです。これこそ、今自分の内側で起きている紛れもないイエスの復活の奇跡の一部なのです。聖霊による癒しなのです。そして心と身体は繋がっているので、病んでいた身体すら、癒され元気になる可能性があるのです。もちろんそれは、個人ゝによって程度の差があるでしょう。でもこのお言葉の約束に従って、『...死ぬはずの体をも生かしてくださ』いと祈る時、必ず奇跡が起きて来ると信じます。何度も言いますが、程度の差はあるでしょうが。それはやがて来る真の復活の、先備なのです。

 イエスキリストの十字架と復活を信じた時に、あなたがたの肉は、十字架につけられ、世のもろもろの霊力に対して、死んでしまった。様々な人の規則や、偽りの謙遜、宗教儀式に伴う、体の苦行を捨て去り、悪意そしり、憎しみ、恨み、嫉妬心、口から出る恥ずべき言葉、憤り等を捨ててしまいなさい。あなたがたはキリストと共に復活させられた(霊的に)と、コロサイ人への手紙には言われています(コロサイ2:20~3:11参照)。

 『もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、.........あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。』(ローマ8:11)の解釈は、聖霊の癒しの奇跡によって、様々な病を癒し、ただ弱い肉体を、立ち上がらせて下さるだけではないでしょう。この聖句はもっと全般的な人間のあらゆる活動を、含むような気がします。

 私達の知性は、もっと神中心にクリアになって磨かれるし、また私達の感情も、ただ人生の平凡な、日常の事柄を喜んだり、悲しんだりするのではなくて(それも大切な人生の生きがいを感じる瞬間だとは思いますが)、もっと深い救いの霊の喜びを感じることが出来るように清められて行くでしょう。私達の行動力も、ただの生まれつきの肉の欲望に従って行動するのではなくて、神の御旨に沿った行動をするように習慣付けられます。御霊の働くより先に、自分の身体が自分の意志で勝手に行動して行くのではなくて、御霊と共に、御霊の望まれる事を思い行動するようになって行くでしょう(ヨハネ7:6参照)。

 『霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。』 というこの聖句は、新生したものがあらゆる面でリフレッシュされて、生かされていくことを広範囲に意味しているのではないでしょうか。

 『この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。』(ローマ8:16)の『わたしたちの霊』とは、復活なさったキリストの霊が私達の外なる肉体と内なる精神にお宿りになって、清めて下さった私達の意志と思想、あるいは意識であると私は考えます。『わたしたちの霊』は『この霊(キリストの霊)』と一緒になって働かなければならないことは言うまでもありません。

 ローマ8:23の『"霊"の初穂』とは何でしょうか。アバ父よと呼ばせてくださる、聖霊、このキリストの霊と呼ばれている方が、私達自身の霊と共に、一緒になって、神の子供であることを証ししてくださいます。その証とは、また活動をも意味し、霊の活動が死すべき、私達の肉体を通して顕れるのです。

 その初穂、人類の救贖の初穂として、12弟子及び全く変えられた初代教会の信徒達が、まず収穫されたのです。この、御霊による初めての収穫は12弟子のみならず当時キリストを受け入れた、新生され、聖められた多くの信徒達も含まれています。

 弟子達は、実を結んだ霊的活動の中で、お互いを愛し、コイノニアと呼ばれる深い交わりを持ち、永遠の命を確信し、さらに良い実を結び、品性が造り変えられ、この地上においても、お互いの心の中にキリストが内住し、感謝と喜びをもって生きるようになりました。そんな団体が生まれた事、およびその活動全般が『"霊"の初穂』なのです。そして、こんな弱い私達も、今から『"霊"の初穂』に加えられるのです。

 『"霊"の初穂』となったクリスチャンの中身はどんなものでしょう。初穂は麦が何粒もそこに付いているので集団でありますが、また、一粒の麦の集まりでもあります。主が一粒の麦の喩えを、御自分を指して言われました。『......一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。』(ヨハネ12:24)

 私達『"霊"の初穂』は、それぞれが個人として一粒の麦になる事です。『"霊"の初穂』である私達の生き方は、友のために命を捨てること、それより大きな愛はないと言われた、イエスの生き方に倣うことです。一粒の麦は、死ななければ、成長し、たわわな穂になることができません。『イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。』(ヨハネ第一3:16新共同訳) 一粒の麦になることの意味は、表現を変えれば『......兄弟のために命を捨てるべきです。』と同じことです。


 私達は弱い者です。己が力で命を捨てられる者など、誰もいません。人間皆、自分の命が一番大事で、利己的に生きているのです。そのことは認めて、利己心を神の前に告白し、悔い改めながら生きて行く以外に一粒の麦になれる方法はありません。繰り返しになりますが、命=時間と考えるならば、友のために自分の時間を少しでも削って行く。自分の時間を割いて、自分の貴重な命の時間を削って、祈りつつ、友も含め隣人の為に(家族も含む)、何かやってあげよう。これがイエスが私達にせよ、とおっしゃった生き方ではないでしょうか。


 ただ、人の為にやってあげようと言う時、二つ注意することがあります。霊の渇きを感じ、神を求めている人、求道している人に霊的恵みを、喜んで分かち与えることは、私はクリスチャンとして躊躇しません。自分が今まで体験した恵みを、喜んで分かち与えましょう。イエス・キリストがどんなに素晴らしい方か、聴く耳を持っている方には、徹夜してでも語り明かしましょう。それは我が内にある霊が燃えるときなのです(ルカ24:32参照)。

 しかし、注意すべき点の一つ目は、隣人の為に与える助けが、逆説的ではありますが、非常にこの世的であり、単に肉のその場の必要を満たしてあげることの方が多いのです。多分99%はそうでしょう。具体的に『......行いと真実とをもって愛し合おう...』(ヨハネ第一3:18)と聖書に書かれていますし、寒がっている者に衣服を与え、腹減っている者には食べさせ、困っている者を助けることも聖書の大事なメッセージです。ほとんどの場合、助けを必要としている人は、具体的な、実際的な必要を求めているのです。その中には、チャンスを逃せば、助けてあげられない、緊急なこともあるのです。腹減っている人には、魂の救いを説く前に、まず食物を食べさせ、お腹をいっぱいにしてあげなければなりません。

 注意すべき点の二つ目は、隣人に霊的助けをするにせよ、肉的助けをするにせよ、与える側の、言い換えるならば自分自身の、内側からの悔い改め、新生等の霊的充足なくして、どんな奉仕も善いものにはならないと私は考えています。

 『......わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。』(ローマ8:12口語訳)

 肉に対して、肉によって果たすような責任を、クリスチャンは、この世に対して負っていません。信仰とは全く関係がなく、単なる人間的な価値観に基づく社会奉仕であるならば、それはそれなりに人助けの意味はあるでしょうが、私が言っている本来の聖書的意味から少しズレてしまうような気がいたします。社会奉仕をして、人の為に生きている人を、どんな宗教であれ、宗教は信じてない人であれ、立派な行いですし、それによってこの世の肉の命が救われている人がたくさんいるわけですから、大変尊敬はしています。神の目からもそれは尊い働きとみなされ、評価されていると思います。世の終わりの時には、それらの善い行いは、万人に対して公平であられる神が必ず正当に評価されると思います。

 しかし無宗教でなされる、社会奉仕に対して、今の自分が、キリスト教的価値観からそのことに全身全霊を傾けられるかと言うと、何か違和感があります。『......すべて信仰によらないことは、罪である。』(同14:23口語訳)と言われているように、クリスチャンのすべての行動は、善い行いを含めて、信仰の裏打ちがなければならないと考える立場からするとチョット方向が違って来るかなと思います。

 勝利は確かに、世の終わり、万物が更新されるまで、待たなければならないでしょう。『"霊"の初穂』を幾分かはいただいている、私達もまた肉体はいつか衰え、死ななければなりません。肉の身体が完全に癒され、贖われることを心の中でうめきながら、イエスの来臨を待ち望んでいるのです(同8:23)。この弱い肉体を持っている私達を含めて、被造物全体が、産みの苦しみの中で、うめき苦しんでいるのです。

 再創造され、万物が更新され、神の国が来て、私達に死ぬことのない栄光の体が与えられ、永遠の命の中で、神を賛美しながら生きて行くことこそ最終目的なのです。こんなことはあり得ない話ですが、新生もしていない、聖霊との交わりも経験したこともなく、肉の楽しみしか知らない人間が、もし神の国に入ったらどうでしょう?そこは退屈で何もやることがなく、霊の喜びを体験してないのですから、自らこんなところには来るはずじゃなかったと、後悔することになるでしょう。

 イエスの来臨の時、すなわち今のこの世が終わる時、主を信じて眠りについた人々が墓から呼び出され、生きている私達と共に(かの日を生きて迎えられるとしての話ですが)、新たな復活の栄光の身体が与えられ、完全な救いが実現するのです(同8:23)。

 被造物全体が、実際には罪と死と滅びが支配する中で、再生への希望を待ちながら、うめき、苦しんでいる現実はありますが、永遠の再生される世界への希望によって救われているのです(同8:24)。

 祈りもそうです、私達はどう祈って良いかわからないが、聖霊がうめきをもって私達のために執り成してくださっています(同8:26)。 

 神を信じる者にっとって、万事は相働きて、益となります(同8:28)。

 神の予定の中に、御子と似るようになって救われる者を定めており、予定された者を、召命し、義とし、さらに栄光を与えられます(同8:30)。

 神が味方なので誰も私達に敵し得ないのです。御子を惜しまずに私達に与えられた神は、万物を私達に与え賜います(同8:30~33)。

 キリストはよみがえって、私達のために天で、父なる神に向かってとりなしをしておいでになるので、だれも私達を罪に定めることは出来ません(同8:1,34)。

 死やあらゆる艱難苦難、被造物も天使も現在のものも、未来のものも、イエスによって示された神の愛から私達を引き離すことは出来ません(同8:35~39)。

 『しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。 』(同8:37) 復活の御霊に満たされ、聖霊によって造り変えられ、総てがプラスの霊によって支配され、統御されている人生は、イエスの恵みによって(決して自分の力ではなく)死をも含めたあらゆる困難、艱難、辛苦を克服し、輝かしい勝利を収めることが出来ます。

 

 長くなったのでローマ8章を以下に要約しておきます。

 十字架で実現された肉の処断が根本にあります。霊が解放されたので、律法の下にあるのではなく、恵みの下にいます。言い換えればイエスの御霊の支配下にいて、霊によって歩んで行くことが出来ます。

 律法の要求は生まれ変わらない肉によって満たされることはありません。それは不可能です。何故なら神の律法は霊的なものだからです。『わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。 』 (ローマ7:14)

 信仰によって私達の古い肉はキリストの肉と共に処断され、死んでいます。故に死者は律法を肉で満たすことからから解放されていることになります。そして新生された私達は、生まれつきの肉の能力や、自己の肉の努力によらず、霊によって生きて行くのです。霊によって神に仕えるようになって行くとき、パラドックスに思えてしまいますが、本来の真の律法の要求が却って私達の内に満たされて行くのです。『それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。 』 (ローマ8:4)

 さらに死ぬはずの肉体をも霊の器として生かし(癒しの奇跡を含む)、自分の霊とキリストの霊が証しし、第二のアダム(イエス)にあり続けながら、義の支配の中で力強く生きることが出来ます。

 しかし、被造物全体も、自分達も再臨を待ち望みながら、産みの苦しみの中で、うめき苦しんでいるのが現状です。それでも、永遠の世界が再生される希望によって救われています。御霊も切なるうめきをもって執り成しています。万事が相働きて益となります。神はキリストによって万物を私達に賜います。

 前もって予知されていた人々を、永遠の命を与え御子に似たものにしようと、召し出し、召した者を信仰によって義とし、罪なき者として信仰によって救い、さらに義とした者に栄光をお与えになったのです。それは復活したイエス、すなわち第二のアダムの義の支配による栄光です。このようなわけでだれも私達をイエスの愛から引き離すことは出来ません。この復活の命の御霊の支配下にある私達は、信仰に伴うあらゆる困難苦難を克服し、イエスによってあらゆることに輝かしい勝利を得ています。さらに死さえも超越します。以上が簡単に言うとローマ8章の要約です。


 ローマ9章

 肉の子供、霊の子供という考えが出て来ます。霊的イスラエルが真のイスラエルであり、肉の血族的なイスラエルが真のイスラエルではないのです。信仰による救いの対象は、イエスによって民族の枠を超えたのです。霊的に生まれ変わり、新しいキリストの霊の命に生きる者こそ真のイスラエルです。『大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。 』(ガラテヤ6:15~16)

 神は憐みの器として、異邦人もイスラエル人も、救いを受け入れる存在として、神の永遠の計画の中で、予め定め、選び、キリストを受け入れる全ての人を 信仰によって義とし、栄光を与え、永遠の命を賜い、御国を継がせて下さるのです。

 『従って、これは(救いは)、人の意思や努力ではなく、神の憐れみによるものです。』(ローマ9:16)

 神が誰を救い、誰を救わないかは神の自由です。陶器師は己の権限により、器を自由に作陶することが出来ます。被造物(人間)が造物主(父なる神)に向かって、何で私はこのように造られたのか?と文句を言うことはできません。

『ヤコブを愛しエサウを憎』(同9:13口語訳)もうが、エジプトの王パロの心を『かたくなにしよう』(同9:18口語訳)が神の自由です。

 神に不公平はありません。滅びることになっている器をも、神は寛大な心で忍耐なさっていたのです。これが9章の主題です。滅ぶべく造られた人をも、神は寛大に忍ばれたのであるから(イエスは裏切り者のユダすら3年半も忍ばれた)、救いに今対象になっている、異邦人もユダヤ人も憐みの器として、なおさら神は愛して下さいます。

 キリスト・イエスの贖い、功しのゆえに、大いなる寛容をもって忍ばれ、赦し、救って下さるのです。ただその神の寛容さを、罪を犯し、神から離れる自由とせず、恵の時を生かし、善を選び、神を選び取る方向に、自分の自由意志を働かせて行きましょう。

 異邦人に対しての言葉

『わたしの民でないものに向かって、「あなたはわたしの民である」と言い、彼は「あなたはわたしの神である」と言う』(ホセア2:23口語訳)

 ユダヤ人に対しての言葉

『あなたの民イスラエルは海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが帰って来る。』(イザヤ10:22口語訳)

 異邦人は信仰によって、イエスの十字架を自分たちの贖いの犠牲と信じたので、救われた。イスラエル民族は、表面的な行いによって、自分の肉の力で、律法を守ろうとし、キリストの十字架の贖いを拒み、ただ自己の肉の義を神の前に立てようとしたので救われませんでした。救いが信仰によってではなく、行いによって得られると、勘違いして考えたからです。彼らは躓きの石である、キリストに躓いたのです(ローマ9:30~33参照)。


 ローマ10章

 信仰による義は、何と言っていますか。

 キリストを死から復活させる力のある立場にあるのは神だけです。誰が救われるか、救われないか?そのことを各自の信仰の持ち方で判断するのは、神だけです。自分の信仰を基準において、あの人は救われるとか、あの人は救われないとか言ってはなりません。それはキリストを死者から復活させることに等しい、あるいは天から引きずり降ろすに等しい行為です。何故なら、そんなことを言う人は、自分を神の立場に置いているからです。

 魂の救いと言う意味でのみ信仰を考えるとき、イエスを神が死者から復活させて下さったと心で信じ(もちろん真摯に信じること)公に告白すれば救われます。神の救いの約束を信じるならば、そのような信仰告白は神の前に受け入れられます。信じるだけで、何の善い行いもないのに救いはあなたのもとに来ます。ハレルヤ!

 もちろん信仰によって義とされるのであるが、その信仰を起こす神の福音の言葉が、宣教されなくては、だれが信じることが出来るでしょうか。『信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。』(ローマ10:17) ここに宣教の重要性が出てきます。

 『御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。』(テモテ第二4:2新共同訳)

 

 ローマ11章

 パウロはユダヤ人も異邦人も神の前に差別はなく、最終的には全人類が分け隔てなく、救いの対象であると認識しています。異邦人(特にここではローマ人)が救われたのは、律法のないところで、罪を犯し、自分が罪人であることを、聖霊によって、自然の律法である良心の声を意識し、神のもとに来て、御言葉とそこに書かれている規範を受け入れ、イエスの贖罪なくて、神の前に歩むことが出来ないことを自覚したからです。

 同じように神に背いてきたユダヤ人は、今は実際には律法の文字面だけを、表面的に守り、自己の肉の力で、神に従っていると勘違いして、救い主を拒否しています。しかし、必ず真理を知らしめる聖霊が、ユダヤ人に降り、いつかイエスを信じるようになる時が来ます。

 『わたしのを律法を彼らの心に与え、彼らの思いのうちに書きつけよう」』(ヘブル10:16)。このような時が来て、彼らの頑なな心は柔げられ、救い主である、イエスの十字架を罪の贖いとして受け入れる時が来るに違いない。

 『律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。』(ローマ3:20)この言葉はユダヤ人にも、異邦人ににも適用される言葉であって、『神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。』(同11:32) やがて神はイスラエルから不信仰を追い出し、イエスを救い主と受け入れるようにさせ、やがて全イスラエルが救われる時が来るでしょう(同11:26~27)。

 ですから、ローマ人をはじめ、全異邦人よ、決して救いに与かったと言え、奢ってはなりません。選びにおいてはユダヤ人は、先祖アブラハムから神の救いの特別な恩寵を受けてきました。今はあなた方異邦人が救われ、ユダヤ人は救いから遠く離れています。それはユダヤ人の不信仰、すなわちイエスを救い主として認めず、イエスを拒んだがゆえです。しかし、それは言わば接ぎ木に例えられるような一時的な措置です。根っこは親木(イエス)で、今はユダヤ人が切り取られ、野生のオリブの枝であるあなた方異邦人が接ぎ木されています。神は元の切り取られたオリブの枝をもう一度接ぐことがおできになります。元々あった枝なので、異邦人たる野生のオリブの枝を接ぐよりたやすく、切り取られた枝を元の根っこに接ぎ木することが出来るでしょう(同11:17~24参照)。この言葉はメシアニックジューの出現で現代実現しつつあると考えても良いでしょう。https://seishonyumon.com/movie/1786/ 参照 リンク有

 神はすべての人(ユダヤ人も異邦人も)を不従順に閉じ込めたが、すべての人を憐れむためだったのです。神の富と知恵と知識の何と深いことか(同11:32~33)。

 

 ローマ12章

 救いに与かった者にとっては総て恵みの下にあり、福音によって神の選びの下にあります。このことを常に覚えたいと思います。イエス・キリストの復活の義の力は、今や第二のアダムであるイエスによって、あなた方をも義の力に満たすことがお出来になります。

 何の良心のとがめもなく、神の前に聖なる者、義なる者として立たせて下さいます。であるならば、あなた方の肉も、霊も、魂もすべて神に献げてしまいなさい。肉体も精神も生活も、思考も意志も、時間も、趣味も、仕事も、肉の肢体も全部神に献げて生きるべきです。

 ローマ人への手紙を書くよりに先に、コリント人への手紙(コリント第一12章参照)で詳しくパウロが説明したように、各自思上がることなく、各自に与えられている神の様々な賜物を生かし、全体の奉仕のためにそれらの賜物を生かして奉仕しなさい。預言すべき者は預言をし、癒しの賜物を持つ者は病を癒し、管理の賜物、力ある業、奇跡を行う賜物、教師、知恵と知識、奉仕の業、施しの賜物、それぞれ総て各自、分に応じて、賜物を生かして働くのです。賜物は己を高める為でなく、全体の益となる為に与えられます。キリストの体なる教会を作り上げるために用いるべきです。それぞれ謙遜になり、他者を自分より優れた者であると考え、尊敬し合うべきです(ローマ12:3~8)。

 悔い改め、造り変えられたキリスト教的世界観は、どうも静的な、悟りの世界観ではなく(一部はそういう面もあろうが)、御霊によって奉仕し合う、動的な世界観です。


 キリストによって罪から解放され、律法の下(肉の力のみで律法の表面、文字面だけに拘泥して生きる生き方)にいるのではなく、恵みの下にいる者に対して、それにふさわしい新しい生き方がパウロによって、以下のように示されています。

・怠らず信仰生活に励む(同12:12)。

・落ち込まず、常に霊に燃え、活動的に過ごす(同12:12)。

・いつも主に仕え、神のことを念頭に置く(同12:12)。

・失望せず、この世の生活にも希望をもって歩み、天国に入れる希望 を常に心にもち、どんなとき  にも喜び、苦難を耐え、常に祈る。

・偽りのない愛を抱き兄弟愛を実行し、悪を憎み、善を実行する(同12:9~10)。

・貧しい聖なる人達を助け、旅人をもてなす(同12:13)。

・迫害する者のために祈る(同12:14)。『敵を愛し』(マタイ5:44)と同じことです。

・真の共感、同情心を持つこと。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣け(同12:15)。

・自分を賢いものなどと自己評価し、自惚れません。身分の低い者と交際する(同12:16)。

・悪をもって悪に報いず、善をもって報います。

・この肉の争いの好きな世の中にあって、イエスを信じ聖霊に満たされ、せめてあなた方だけでも他人と諍いを起こさず、平和に暮らしなさい(同12:18)。

・何か他人から悪いことをされても、自分で復讐してはなりません。やられればやり返す、やり返された人がまたやり返す。どんどんエスカレートして行き、血で血を洗うような修羅場になるのです。復讐は、主にお任せしなさい。『「わたし(主)が報復する」』というお約束です。『敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。』そうすれば燃える炭火を敵の頭に積んでいるのだ。善をもって、悪に勝てます(同12:19~21)。

 以上の勧めはハウツーものではなくて、『肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。』(ガラテヤ5:24)とあるように、 肉の欲情や欲望、利己心と、自己愛に浸りきっている自分を霊的に、十字架につけて殺してしまい、復活のイエスの真の命、復活の命の力に、聖霊によって満たされていかなければ、到達できる信仰の域ではないのです。クリスチャンとしての標準がこのような生き方であるならば、とてもハイレベルな生き方で、単に生まれ変わらない肉の人間の努力で達成できるようなものではありません。

 

 ローマ13章

 今の政治体制を認め、この世の為政者の権威を認め、その権威に従うべきです。為政者に税金を納めるように。悪者を罰する為、権威者は神に仕える者として剣を帯びているのです(ローマ13:4)。

 キリスト教は、その時代の政治体制を認めています。しかし、そのことは王権神授説を肯定しません。現在のような、自由、平等、基本的人権、議会制民主々義、普通選挙による国の代表者の選出など、ローマ時代には 考えられないことでした。皇帝や王による民衆支配が、2,000年前には当然のことでありました。しかし、絶対王政が神の御旨だというような聖書解釈があるとすれば、それは大変な曲解です。時代的な真理を、普遍的な真理と誤って受け取ってはなりません。

 

 さて、『「隣人を自分のように愛しなさい。」』(ローマ13:9)すべての人に対する戒めはこの一言に要約されます。殺すな、姦淫するな、盗むな、偽るな、むさぼるな、神の律法と言えばパウロの頭の中にも、私達の頭の中にも先ず浮かんでくるのが、十戒です。戒めの精神は何でしょうか、それは隣人愛なのです。

 次に、神に対する戒めは、『「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』(マタイ22:37~38)です。この2つの戒めに、律法と預言者すなわち聖書全体が基づいています(マタイ22:40)。

 ただこの愛は、神に対する愛であっても、人に対する愛であっても中途半端を許さないのです。戒めの根本は愛なんだから、神を愛し、人を愛すれば良いのだと安易に言う人がいます。しかしこの愛は中途半端な安易な愛ではない、人に対しても、神に対しても。

 人に対しては、友のため命を捨てるほどに愛せ、との厳しさを求めています。

『イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。』(ヨハネ第一3:16新共同訳)

 また神に対しても、命すら投げ出して、信仰しなさいという厳しさを要求しています。

『キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。』(テモテ第二2:12)主を信じているという公の告白のためには、命すら惜しまず投げ出すことが求められる。ポンティオ・ピラトの面前で立派な証しをなさったイエス・キリストが模範です(テモテ第一6:13参照)。主の証しをすることや、パウロが主の業のため囚人であることを、恥ずかしいと思ってはならない(テモテ第二1:8)。『自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。 』(ルカ9:24)

 信仰告白は命懸けなのです。神に対する愛、人に対する愛、どちらも、すべて自分の命も、それを構成する時間も捨てて、取り掛からなければならないほど重いことなのです。神を愛し、人を愛することは、実はもともと自分の力では到底成すことが出来ないことで、御霊によって造り変えられたクリスチャンに、イエスの霊が心の中に住んで、出来るようにして下さるのです。

 イエスの贖罪を深く瞑想していくとき、自分がいかに罪深いものかが段々わかって来ます。歳を重ねるごとに、自己の醜さが、肉と精神に絡みつく程に、根深いことかがわかって来ます。それは、この世で肉の性質を持ったまま、肉の仕事や、用事をこなしていかなければならない、やむを得ない、生存するための、愚かな自己防衛の努力から派生する習慣づけられた醜さなのかも知れません。私達は御言葉を食べ、イエスの命の霊、すなわち生ける水を飲むだけでは生きていけない。この世で生活し、お金を稼ぎ、肉体を維持するために食べて行かなければならないのです。弱肉強食の世界の中で、競争に勝ち抜き生きて行くために、利己的にならざるを得ない環境に置かれているのです。

 以下は私の小さな経験です。止むを得ない事情で、私は聖職を辞した時、この厳しい世の中で、いったい、これからどのように収入を確保し、生活して行かなければならないか、途方に暮れた時期がありました。幸い、熱心に祈っていると、愛の神は、憐れみをもって私に臨んでくださり、奇跡的な導きにより、道が開け、郵便局長として奉職できました。その後、約28年9ヶ月の長きにわたり局長として働きました。65歳で定年退職して早7年たちました。その間再婚し、子供たちも育て終え、今は自分の好きな聖書の研究に没頭している毎日です。世人には理解できないでしょうが、私にとっては、何よりの至福な時間なのです。

 自己の生命を維持するために、あるいは自分の家族を養うために、私達は色々な生活の場面ゝで、利己的になって生きざるを得ない、連帯的に第一のアダムの肉にある悲しい存在なのです。世はアダムの罪のために呪われているので、世の中で立派に生きて行くのは大変な努力を要することなのです。私もこの世の肉の生活を維持するために、神の前に赦しを請いながら、自分の肉の力と能力を懸命に使ってきました。この世の腐敗の中で泥まみれになりながら、生きてきた時期もありました(もちろん悔い改めと、祈りの中で、常に反省しながら生きてきたのですが、どちらかと言えば懺悔することが多い、日々でした)。

 少し自己愛の生活を離れて、客観的に自分を考えて見よう。あと何年この世の生活を続け、生きて行かれるでしょう。今から30年後、40年後、私もあなたも、多分この地上にはもういないでしょう。塵から造られたので、塵に戻っています(復活の希望はありますが)。

 誰でも後何年生きられるかわからないですが、残された人生、神の為と人の為に献げて生きて行こうではありませんか。もちろん、こんな小さな、か弱い私ですから、大きなことが出来る訳ではありません。ほんの少し、他人を助けてあげられたら、それが2~3人であっても、それで良いじゃないですか。この文章を書いていることも、そんな私の小さな働きの一つだと考えています。


 この世で生きて行く、本当の意味で生きて行くとは、イエスのお力に頼り切って、何を為すにも、ただキリストの憐れみによらなければ出来ないことを体験的に知り続けて行くことです。人を愛し、神を愛し、善を為すことは自分の力では出来ないのです。

 誰にでも言えることですが、世の終わり、すなわち再臨のキリストを迎える時期は、初め信じた時より、確実に近づいています。2,000年前のパウロが、救いの時が近いと考えていたのだから、現代の21世紀に暮らす私達にとって救いはもっとゝ近くになっているはずです。明日キリストが来ても良いように準備しよう。実はこの緊迫感こそが、キリスト教信仰の正常な、時間感覚です。2,000年前もキリストの再臨は切迫していたと考えられてきたし、現代の今も、キリストの再臨はより近づいています。

 だからこそ肉の欲や 、目の欲、持ち物の誇り等は捨て、肉の欲情や欲望 にまみれて生きるようなことはもうやめましょう。争いとねたみ、宴楽と泥酔を捨て、恥ずべき闇の業を捨てて、昼歩くように、品位をもって、つつましく信心深く、天国に入ることだけを考えて生きようではありませんか。

 衣服を着るように、頭から、足の先まで、スッポリと、キリストを身にまとおうではありませんか。自己の変えられていない、肉の欲望を満足させるために肉に心を用いてはなりません。肉の方に時間と精神を集中するようなことはやめよう。一日を始めるとき、今日どのような娯楽と、肉の歓楽に耽ってやろうかと、思いめぐらし、実行するようなことがあってはならないのです(同13:11~14)。

 

 ローマ14章

 一言で言うならば、『食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。』(ローマ14:20)これが14章でパウロが言いたいことです。

 肉食も菜食も、確信をもって食べるならそれで良いのです。神が造られた食物の中に、それ自体汚れているものなど何もない(同14:14)。汚れていると思う人にだけ汚れています。食べ物のことで兄弟を滅ぼすようなことはやめよう。

 信仰によって義とされ、救われ、罪なき者として、神の前に立っています。善行を聖霊によって行い、兄弟愛を実行すればそれで良いのです。

 何か食べたから救われる、食べないから救われないと言うことではないのです。また特定の日を重んじる人は主のために重んじます(同14:6参照)。自分の確信に基づき信仰して行きなさい(特定の日については、第七日目安息日のことではなく、ユダヤの各種の祭りに伴う、礼典的特別安息日のこと。しかしこのことについては様々な解釈があります)。

 パウロは肉も食べず、葡萄酒も飲まないことは良いことであると推奨しているが、それらをクリスチャンの守るべき絶対的標準として、強調はしてはいない(同14:21~22)。

 各自神の前に確信をもって、どうしよう、こうしようと決めるべきで、確信をもって行わないことは総て罪なのです(同14:23参照)。 永遠の命を得るために必要なものは、ただ十字架の犠牲を、己が罪の身代わりであることを真摯に受け入れ、信じるだけです。飲食物は関係ない。

 しかし、肉体を健康的に養い、維持するためには、できる限り健康的なものを食さなければならないことは、自然の法則の一部です。 毒を飲めば人間は死ぬのです。健康に良くない飲食物は、薄められた毒物と同じで、すぐには死なないけれど、やがて緩慢な死に至るのです。特に甘いものの摂りすぎには注意しましょう。肥満、糖尿病、その他の成人病の原因になる恐れがあります。

 信仰に入った者は、できる限り長生きして、神のご奉仕のために、健康を維持して、時間を神の御用のために、献げる必要があります。健康が無くては神に対しても人に対しても良い奉仕は出来ません。健康を維持するための手段として、飲食物はその一部です。

 その他にも、新鮮な空気、清浄な水、適度な運動、リクエーションを含む休養、節制、適度な日光浴、神に対する信頼、心の健康(鬱病等の、精神疾患のケア)、様々な健康のための原則の実行が考えられます。酒は飲み放題、肉は食べ放題、肉食はどんどん進めて行こう、と考えるのはパウロの言っている本来の趣旨から外れるのです。この意見に賛同してはもらえないかも知れないですが、私は健康維持のため、マクロビオテックに近い考えを持っています。それらを説明すると、長くなるので、それぞれが自分で問題意識をもって、健康的な生活を送ることについて研究し、人のためではなく、自分の健康のために、取り組んでいただくことをお勧めします。

 

 ローマ15章

 パウロは自分は基本的に、異邦人を信仰の従順に導くための使徒であったと、再三強調しています。それもまだ福音が伝えられていないところに行って、イエスの十字架と復活を基調とする、聖書の奥義を宣教することです。エルサレムからイルリコン州(マケドニアの上、ダルマティア地方)にわたって宣教の旅を続けてきて、もはや働く余地のある所はなくなり、イスパニア(スペイン)伝道を計画していました。イスパニアに行く前に、ローマの地を訪問しようというのが彼の計画でした。

 しかし、結果は、彼の思うようにならず、第三次伝道旅行の最後に、エルサレムにいる、貧しいクリスチャン達への援助献金(アカイア、マケドニアの諸教会で募金したもの)を持って、エルサレムに行き、ユダヤ教を信じ、キリストを受け入れないユダヤ人たちの迫害に会い、ローマ官憲の捕われの身になってしまいました。その後、王やローマ総督などの不当な取り調べを受け、彼らに対する対抗上、ローマ皇帝に対して上訴するなど、紆余曲折があり、この手紙を書いた紀元57年から、5年後、紀元62年になってやっと囚人の身分でローマに着くことになります。

 諸説ありますが、パウロはスペインには、行けなかったと私は考えています。

 パウロはコリントを発ち、エルサレムに行くとき、何か良からぬことが起きると予感していたようです。私がユダヤにいる不信の徒から守られるように祈ってほしいと言っています(ローマ15:31参照)。エルサレムへ行く途中、カイサリアに着き、ピリポのところに宿泊していたとき、預言者アガポがエルサレムから下ってきて、パウロがエルサレムで捕縛される預言をしました(使徒行伝21:11)。この預言を受け入れ、今回のエルサレム行きは中止すべきではなかったのか?しかしパウロはすでに、捕らわれの身になることどころか、死をも覚悟して、エルサレムへ上って行ったのです(使徒行伝21:13)。

 紀元57年頃、コリントでローマ人へのこの手紙を書いている時点で、神ならぬ生身の人間であるパウロにとって、まさかエルサレムで囚人となり、5年もかかってローマに行くことになろうとは、露ほどにも思っていなかったでしょう。この時点ではパウロは楽観的であったことが見て取れます。神の御心によってローマへ行き、そこで憩いのひと時を過ごし(ローマ15:32)それから、イスパニアへ向けて、送り出してもらうつもりだったのです(同15:24)。

 

 ローマ16章

 最後の章は、ローマ教会にいる信徒たちに対する挨拶が主に書かれています。

 ・ケンクレア(コリント近くの港)教会の女執事フィベが、このローマ人への手紙をパウロから託され、コリントからローマまで旅をして、ローマ教会に届けた説があります。

 ・プリスキラとアクラはパウロのこの世の仕事、テント造りの同業者であり、大変親しく共に働いたこともありました(使徒行伝調18:1~3)。紀元49年にローマ皇帝クラウディウスが出したユダヤ人退去命令により、プリスキラとアクラは住んでいたローマからコリントに移り、天幕造りをしていた。彼らは第二次伝道旅行でコリントに来たパウロ(紀元50年頃)を迎え入れ、パウロを助け、共にテント造りを行った。その後パウロがエペソに移ったときも、共にエペソに移った。パウロがローマ人への手紙を書いた紀元57年頃はローマに戻っていたらしい。

 ・ルポスはパウロの兄弟?ルポスの母はパウロの母(同16:13)。

 ・学んだ教えに背いて分裂を起こす人々から遠ざかりなさい(同16:17)。

 ・従順であり、善にさとく、悪には疎いことを望みます(同16:19)。

 ・コリント市の経理係エラストからよろしく(同16:23)。古代都市コリントの発掘で、エラストという名の市の経理担当職の人物がこれを寄進したという銘のある、一世紀半ばの街路舗装タイルが発見されています。このエラストなる歴史上の人物が、ローマ16章に出てくるエラストと同一の人物であるなら、ローマ人への手紙はコリントで書かれた説の重要証拠です。

 ・ローマ教会に連なる多くの信徒の名をあげ、よろしくと挨拶をしていることは、まだローマの地を踏む前に、それらの信徒と、どんな手段、方法であったか分からないが、パウロとかなりの親交があったことがうかがえます。

 ・福音は、イエスについての宣教によってあなたがたを強める。福音は世々にわたって隠されてきた神の計画を、啓示によって明らかにするものです(同16:25)。

 ・神の計画(奥義)は今や、キリストによってあらわされました。神の命令、預言者達の書物、聖書を通して、信仰による従順に異邦人たちを導き入れます(同16:26)。

 ・知恵ある唯一の神に、イエス・キリストによって栄光が世々限りなくありますように、アーメン(同16:27)。賛美の言葉でローマ人への手紙は終わっています。

 

 ローマ人への手紙は人間が神の前にどのように生きなければならないか、神の前にすべての人が罪人であり、信仰によって義とされ、救いの中に入れられることが主要テーマですが、それだけではありません。

 この地上生活にあってすら、肉の罪の支配、霊的、精神的奴隷状態から脱却できることを強調しています。第二のアダムによる、復活の義の力の支配を信じ、十字架で己が肉の弱さが、キリストと共に処断され、聖霊を受け、キリストと共に霊的に復活させられた、命の御霊の中に喜び、キリストの再臨を現実的切迫感の中で、世の終わりを待望しつつ、聖書の倫理観を実行しながら地上生活をして行くことを、この手紙は強く勧めています。 ローマ人への手紙は、時代を超える霊的活動力の根源であると私は思います。

 ただ教会に毎週出席し、形式的な信仰の中で、敬虔に過ごしていく ことが、無駄であるとは私は思わないし、ある意味単調で、心安らかな、繰り返しの多い毎日のクリスチャン生活も、それなりに意義のあることです。ほとんどの信者は、私を含めて平凡なクリスチャン生活を送っているとは思います。

 しかし、ローマ人への手紙が伝える、新生と、キリストの義の支配下で、献身的に生きるクリスチャンの姿は、もっと躍動感にあふれ、伝道精神に満ち、感謝と喜びに満ちた生き方であろう。主の霊があるところに自由があると言う、霊に解放された生き方は、単に律法を文字面に拘り、自己の肉の力で律法を表面的に守っていると勘違いしている、律法主義的に硬直した生き方を、真に改革して行くだろう。第二のアダムにあって救われ造り変えられた肉に及ぼす、聖霊の活動力は、偽りの敬虔さと言う気が付きもしていない、表面的な倫理主義からの解放をもたらすであろう。

 ルターは、 『正しい者は、信仰によって生きる』(ローマ1:17)の聖句よって感動し、聖書よりも伝承と、教会の権威を重んじているカトリック教会にプロテストし、「聖書のみ」「信仰のみ」「万民祭司」の大原則を打ち立て、宗教改革を成し遂げて行った。そして、ここから新教、プロテスタントが始まった。 ローマ人への手紙は、真剣に読み、祈りの内に学ぶ者の人生を、変革していく力があります。

 古くは、若い頃、自己の情欲に溺れ、情婦に子供まで産ませてしまったアウグスティヌスの心に、聖書を「取って読め」と神は語りかけられたと伝えられています。

 『なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。 あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。』(ローマ13:11~14口語訳)との御言葉が彼の心を砕き、回心させました。彼はペルシャを中心に信じられていた、マニと言う教祖が流布した善悪二元論のマニ教に傾倒していたが、キリスト教に改宗し、後に偉大な神学者になっていったのです。

 メソジスト派を創設したウェスレーは、ルターのローマ書注解を読んで、信仰に目覚めていったと伝えられています。

 この手紙でどのくらいの人々が信仰に目覚め、人生が改革され、歴史そのものが動いてきたか。アウグスチヌス、ルター、カルヴァン、ウェスレー等々、枚挙する必要もないほどです。

© 2019 トムの旅日記、 東京都墨田区押上1丁目1−2 東京スカイツリー
Powered by Webnode
無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう