ヨハネによる福音書3章

      ヨハネによる福音書3章

 突然、ニコデモと言うユダヤ人の最高議会(サンヒドリン-71名の議員で構成)の議員の一人が、イエスにそれも夜、教えを乞いにやって来た。彼はファリサイ派に属し、律法の教師であった。地位も名誉もあり、彼なりのプライドもあった。当時の社会では、身分の高い人であり、知的階級に属し、民を指導する立場にあった。

 彼は真理を求めており、他のファリサイ派の人々に比べれば、謙虚な人間であった。そして、イエスの教え、なされている不思議な業の噂を聞き、教えを乞いにイエスのもとにやってきた。しかし、彼はその地位の故に、周りの人たちの評価を気にしており、公然と、昼にイエスを訪ねたのではなかった。あまり人々に気が付かれないように、夜、密かにイエスに会いに来たのです。イエスは彼に会うと、いきなり、ニコデモが持っている最大の欠点を見抜き、本質的な、宗教にとって根源的な問いを発せられました。

 『「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。』(ヨハネ3:3~7)

 ニコデモは律法の教師であり、厳格なユダヤ教、律法を守るのに熱心なファリサイ派に属し、表面的には立派な行いをしており、落ち度のない人間であった。ある程度歳をとり、分別も、常識も持ち合わせていた人間でした。そんな彼は今まで行ってきた善い行い、また神の律法に対する、真摯な取り組み、実行によって、自分は当然神の国に入れると考えていました。ところがイエスはニコデモの持っていた問題を、ズバッと見抜き、『人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」』(同3:3)とイエスの教えの根本をニコデモに教えようとしました。

 ニコデモや、お前は、神の前に、心を曝け出して悔い改めをしたことがあるか、新しく生まれ変わることを真剣になって求めたことがあるのか。天から神の聖霊を求め、いかに自分が、醜いものであるかを認め、自分自身の善い行いや、自分が肉の力で守ってきた律法の遵守が、神の前では、救いには何の役にも立たないことを認めたことがあるのか。このように、イエスはニコデモに問うていたのではないでしょうか。

 彼の答は、『「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」』(ヨハネ3:4)と言うひどいものでした。聖霊によって、心が新たに創り変えられることなど、彼の思考パターンの中にはありませんでした。彼は神の前に自分の義を立て、それによって十分救われると考えていたのです。自分の義を立てることが、いかに愚かなことであるかは、以下のイエスの喩え話を読めば良く理解できます。

 『「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 』(ルカ18:10~14)

 イエスはニコデモに『「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。』(ヨハネ3:10)と言われました。ニコデモの心の状況は、かなり致命的でした。しかし、この夜のイエスとの出会いによって、彼は神の前に自分が罪人であり真に生まれ変わっていないことを悟り、イエスの十字架の贖いと救いを受け入れ、心底から聖霊によって生まれ変わり、救いを自分のものにすることが出来るようになって行きます。

 イエスが十字架について、息を引き取った後、その死体の引き取り方を願い出たのは、アリマタヤのヨセフでした。彼と共に、イエスの遺体の葬りのため、ニコデモも『没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。』( 同19:39)とありますので、二人は協力して、イエスのご遺体を墓に納めたと思われます。1リトラ326gですから、没薬と沈香を混ぜた物は30㌔ちょっとあったことになります。かなり高価なものであったことが推測されます。ここでニコデモが登場するということは、彼は、イエスの弟子になっていたことを聖書が明らかにしているのです。

 『イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。』(同19:38)

 『アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。』(マルコ15:43)アリマタヤのヨセフと同じ様に、イエスの弟子であることを、それまでニコデモは隠していたとしても、主の葬りの時に、勇気を出して、名乗りを上げたのです。このことによって、イエスの直接のニコデモに対する教えは、無駄になることはなく、彼は、聖霊による生まれ変わりを経験し、イエスの真の弟子になっていたことが分かります。

 イエスの生涯の途中でもニコデモが登場します。祭司長やファリサイ派の人達は下役たちに命じて、イエスを捕えようとしていました。その時ニコデモは、イエスの言い分を聞いてでなければ、そのようなことをしてはいけないと、イエスを弁護したのです。 

 『彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」』 (ヨハネ7:50~51)。ですから、イエスに敵対する祭司長やファリサイ派、また議員の中で、ニコデモは公には、イエスに対する信仰を告白はしていなかったけれども、何かある度に、イエスの側に立ち、彼を擁護しようとしていたのです。

 

 さて、ニコデモが最初、自分が、神の前に自分の義を立てて、生まれ変わることが理解できなかったとしても、私達も同じではないでしょうか。

 私達も自分は、まあ世間一般的に見て、良心的で、人様の物を盗んだこともないし、時には他愛もない嘘をつくこともあるけど、そんなことは誰でもやっていることであるし、自分はそんなに悪い人間ではないはずだと、甘い自己評価をしていないでしょうか。

 私もズバット言います。自分が神の前に罪人であることを認めなければ、キリスト教的な意味で救いにあずかることは出来ません。自分の心の中にある罪を認めることが、イエスによって救われる第一歩なのです。

 ニコデモと同じで、どんなに社会的地位があり、常識を身に着けた、分別のある人であっても、神の国に入るためには、生まれ変わる必要があるのです。

 謙虚に自分の人生を振り返り、天から聖霊を、キリストの執り成しを通して、父なる神が心にお降しになる聖霊を求めて下さい。醜い自分を自覚し、新しく生まれ変わることを乞い求めて行きましょう。あなたが何歳になっていようと、聖霊の風が心の中に吹き込むことによって、今から新しいことが始まって来るのです。

 聖霊は風に例えられます。『肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」』 (ヨハネ3:6~8)

 風は見えません、聖霊も見えません。しかし風が吹けば木の枝が揺れ、木の葉が舞います。そのことによって、風が吹いていることが分かります。聖霊も同様です。聖霊が人の心に吹いてくるとき、その人の心が変化し始めます。そしてその変化は、やがてその人の身体に染み透ってきて、良い光を放ち、行いが変化し始めます。その人の品性が、徐々にキリストに似たものとして、造り変えられて行くのです。

 例えば、今まで人の悪口を言うのが楽しみで平気だった人間が、急に、そのようなことをすることが罪深いことだと分かり、人の悪口を言わなくなるのです。嘘をつくのに、何の良心の咎めを感じなかった人間が、それを神の前に悪いことだと悟り、正直な人間に生まれ変わるのです。

 風が吹いた結果は、木の葉や枝が揺れることによって分かるように、神の聖霊が人々の心を支配して行くとき、人間の心と行いが変わって、その働きが結果として見えてくるのです。

 『イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。』(同3:5)

 新しく、生まれなければ、神の国に入ることは出来ないのです。水はバプテスマを意味し、悔い改めを儀式的に表現します。ニコデモは水による悔い改めのバプテスマですらこの時点では受けていなかったに違いありません。

 ヨハネのバプテスマは天からのものか、人からのものか答よとイエスが律法学者や祭司長に質問したとき、天からのものと言えば、何故信じなかったか、と言われ、人からの物だと言えば、ヨハネを預言者と信じている民衆に石で撃ち殺される、と彼らは考えました。果てさて、困ったものだ。イエスにはわからないと答えよう、との件があります(ルカ20:1~8参照)。この文脈から読み取れるのは、ヨハネのバプテスマを律法学者たちは拒み、受けていなかったと言うことです。この範疇の人々の中に、この時点ではニコデモも含まれていたはずです。

 イエスは、真理を証しするために世に来たが、その証を人々は受け入れない。神の救いの業を、地上の、風の喩えを使って、ニコデモに分かり易くイエスは教えられました。人間の心に働く聖霊による生まれ変わり、新生の経験について教えたのです。

 しかし、地上の事物をによって、喩えを使い、分かり易く話したのに、あなたがたが信じないとすれば、救いに関する天上のことを、直に話したら、尚更あなた方は信じることが出来るだろうか。

 ニコデモよ、ここからは救いに関して、最も大事な天上のことを話す。果たしてあなたはこのことを理解し、受け入れることを出来るだろうか。今読んでいる読者も含めて、このことを受け入れることが出来るだろうか。

 昔モーセの時代、神に背いたため、毒蛇に噛まれてイスラエルの多くの人々が死んだ。しかし、その毒から癒されるように、モーセは青銅で蛇を作り、竿の上に掲げた、それを仰ぎ見た者は、身体から毒が去り、救われたと故事をイエスはお話になった。

 『モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。』(民数記21:9)

 そのことを思い出してみるが良い。ニコデモよ、あなたが聖書を学び律法の教師であるならばこのくらいのことは理解できるであろう。

 同じように私(イエス)も、この肉の身体を十字架上に上げられなければならない。私自身がイスラエルを始め、全人類のために、青銅の蛇の本体として、罪の身代わりとして、十字架に上げられようとしている。私の十字架を、犠牲の供え物として、受け入れ信じる者は、モーセの時と同様に救われるのです。このようにイエスは言われたのです。

 『そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。』(ヨハネ3:14~17)

 ニコデモがこのイエスの言葉を、その時どの程度理解したかはわからない。イエスはモーセの青銅の蛇の故事を話しながら、いきなりキリスト教の本質へと話を切り込んで行く。イエスは先にニコデモが理解していたような、ただの偉大な教師ではなかった。ニコデモはイエスを訪問したとき、イエスを救い主、メシアとは思っていなかった。『「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」』(同3:2)ラビとは、ユダヤ教に於いての宗教的指導者であり、学者でもあるような存在。ニコデモはイエスをラビと呼び、敬ってはいるが、教師以上の存在とは認識していなかったのです。

 しかし、イエスは神の子であり、本質的に神であった。神の独り子であると同時に、子なる神であった。父なる神の愛は大きく、その独り子を罪の代償として、人類に賜うほどに、この世を愛して下さったのです。それは御子を信じる者が一人も滅びることなく、神の国に入れてもらい、永遠の命を得るためです。『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。』(ヨハネ3:16)この有名な御言葉は、クリスチャンならば誰でも暗唱できるほど愛されている聖句の一つです。イエスの十字架の供え物を、自分の身代わりの死であった、贖いの完璧な値であったと信じる者は、一人も滅びず、皆、誰でも天国に入ることが出来るのです。このお約束こそ、私達の希望の根拠であり、福音そのものです。

 ニコデモほどの学識豊かな人は、自分に語られたこの尊い神の言葉をその後十分に理解したに違いない。どれほどイエスはニコデモを愛されていたであろうか。真理を、救いの真理そのものをニコデモの救いのために、個人にハッキリとお語りになったのです。

 『御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。』(ヨハネ3:18~19)

 「天網恢恢疎にして漏らさず」悪を行っていれば、どんなことにも、いつかは天罰が下ると言う諺があります。善悪が世の中にはあります。神と言う存在があって、善には良い報いがあり、悪には悪い報いがあります。どんな宗教にも、善い行いをした人には死後良い報いがあり、悪い行いをした人には死後悪い報いがあると教えます。キリスト教とは違うが、仏教では、嘘をつけば、閻魔大王に、舌を引っこ抜かれるぞと、子供の時教えられて、脅かされたものです。

 さて、ここに根本問題がある、死後人間は、神によって、生前の行いが、裁かれるのであろうか。そもそも死後の世界はあるのだろうか?これは一筋縄ではいかない、大きな問題です。SDAはこう考える。死は眠りであり、何の意識もなく、死ねば人間は土にかえってしまう。霊はこれを授けた神の息に戻ってしまい、私達は死後は何もわからず、ただ深く眠り続けているだけなのです。しかしやがて目が覚める時が来ます。世の終わりになって、イエスが再びこの世に来られる時、イエスを信じて眠りに就いたものが、もう一度、土から身体が造られ、栄光の身体、不死の身体が与えられて、復活し永遠の命を得る時が来ます。

 しかし、神を信ぜず、イエスの贖いを受け入れず、好き放題、勝手放題に生きた人間は、再臨の時から、また1,000年たち、その後、今度は裁きを受けるために、復活させられ、最終的には火で焼かれて、跡形もなく滅びてしまう。これらの教えの根拠になる御言葉を、聖書から引用すると長くなるのでここでは省略します。

 ただイエスは、『驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。』(ヨハネ5:28~29)とハッキリ言っています。どうやら死後裁きがありそうなのです。しかし例外がある、キリストを信じる者のにとっての驚くべき、有難い例外があります。『御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。』(同3:18~19)

 何故、キリストを信じる者は裁かれないのであろうか?イエスの言葉を聞いて、父なる神を信じる者について、『信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。』 (同5:24)と書いてある。

 何故キリストを信じる者は裁かれないのであろうか?それは、十字架が、(自分の)裁きの姿であるからなのです。御子の、あのむごたらしい十字架のお姿は、実は神が人類に下した罰であり、人間に対する裁きそのものの姿なのです。言い換えれば、御子の十字架のお姿は、私達一人ゝの裁きの姿なのです。私達は御子にあって既に裁かれているので、御子を信じる者は、裁かれることなく、既に死から命へと移っています。 

 『神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。』(ヨハネ第一5:13)

 私達は普通の人間で、腹が減ればご飯を食べ、のどが渇けば水を飲み、眠くなれば寝てしまいます。他の人と同じように、歳をとって行き、やがては死んでいくのでしょう。しかし大きな違いがあります。既に『永遠の命を得ていることを悟』らなければなりません。イエスと結ばれている人は、裁かれることなく、既に死から命へと移っており、永遠の命が始まっているのです。これがヨハネによる福音書の主張なのです。

 この世の中には、神の裁かれるべき善悪はあります。世の悪は必ず裁かれる、これがキリスト教の世界観です。悪とは何か、神の定め、戒めを守らないことです。罪は不法であると書かれています。『罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです。』(ヨハネ第一3:4)

 神の法(戒め)は愛であり、愛さないことは悪なのです。自分の力でこの問題を解決することは難しい。いや、無理です。愛によって自分が造り変えられること。神と人のため、自分の命を削って生きること。それはキリストの贖いを受け入れ、悔い改め、聖霊によって満たされ、神の愛の力を上より受けて行くことによってのみ可能なのです。キリストに心の中に住んでいただくことによってのみ出来ることだと私は考えています。

 何故人は光よりも闇の方を好むのか、永遠の命よりも、滅びる方を好むのか。それは、一見、肉とその享楽の方が楽しいと思えるからです。義に生きるよりも、この世の肉の楽しみの方が楽しそうに思えるからです。様々な肉の楽しみには、快楽が伴い、それに身を任せることは、簡単で、心地よく、安逸で、楽しいからです。実はその価値観そのものを変えなければならない。『「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」 』(マタイ7:13~14)

 『光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。』(ヨハネ3:19)とも書かれています。闇は一時的、即物的、肉の享楽を提供します。しかしそれは刹那的であり、長続きしません。闇の中に長い間居ると、闇そのものが、その人の心を占領し、甘いと思っていた罠が、苦く、悶えるような痛みに変わって行きます。ドンドン暗い淵の中に落ち込んで行きます。実はそのことがその人の受ける、将来の裁きを先取りしているのです。闇は永続的な心の救い、喜び、平安を提供してくれません。やがては自死にまで至る、空虚な、深い苦悩の中を、この世においても歩んで行くことになります。裁きは将来もあるのでしょうが、実は闇の中を歩んでいることそのものの中に既に裁きがあるのです。

 12弟子のひとり、イスカリオテのユダが、イエスの偉大な光の中にいたのに、銀貨30枚(30万円くらいか)と言うわずかな金銭のために、イエスを裏切り、結果としては、良心に苛まれ自殺して、滅びを選んでしまった。どちらを選ぶかはその人の考え次第です。神は肉の欲を選び、この世の楽しみの中で、享楽と泥酔に溺れ、賭け事と娯楽と、宴楽と安逸の中に滅びて行く自由を、人間にお与えになっています。利己主義のゴリゴリに生きて行くことも許されます。闇バイトに手を出して実際の犯罪者となり、他人を殺め、強盗を働き、悪から悪へと、生きて行く自由も与えられます。しかし、その行き先は滅びです。

 『彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。』(ピリピ3:19)

 

 さて、バプテスマのヨハネがバプテスマを授けていたのと、イエスの弟子達が人々を集めてバプテスマを授けていたのと、どうやら二か所で別々に並行してバプテスマが行われていたようです。当然、どちらが良いのか、混乱がありました。

 その問題が起きた時、バプテスマのヨハネは、イエスの神性を認め、人は上から御霊を授けられ、権威をいただかなければ何もできないことを自分の弟子達に教えた。自分は土から出たもので、やがては衰え死んで行く、こういう意味でただの人間でしかないことを認識していた。しかし、イエスは神の子であり、人間のお姿をしていても、本質的に神なのだ。イエスは必ず、栄えて行く存在であり、救霊の働きを終えて、天に帰り、永遠に栄えて行く存在であることを弟子たちに示した。

 バプテスマのヨハネ自身は荒れ野で呼ばわる声(イザヤ40:3参照)であって、イエスを人々に迎えさせる準備をする為にこの世に生まれたのであり、その使命が果たされれば、やがて消えゆく存在であることを自覚していた。人間として、最も困難な自己否定の原則を実行した。この意味でバプテスマのヨハネは最も偉大な人間として、イエスによって評価されています。『はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。』(マタイ11:11) イエスが活動を始めれば、やがてはバプテスマのヨハネの働きは消えてゆく運命にあったのです(ヨハネ3:22~36参照)。

 バプテスマのヨハネの殉教は、ヘロディアの娘サロメの踊りの褒美として、ヘロデ・アンティパス王の命令で、斬首され、首は盆に載せて、運ばれてくると言う衝撃的なものであった(マタイ14:10~11参照)。何故イエスは、血縁的には、従兄にあたる、それも荒野の声として、自分の宣教のために、道備えをしてくれたバプテスマのヨハネを助けなかったのであろう。イエスの力をもってすれば、彼の命を助けるのはたやすいことであったろうに。

 イエスを信じることは神のためと人のため、自分の命と時間を削ることだと何度も書いてきた。そうなのです。キリスト者の道はある意味殉教への道なのです。信仰のゆえに12弟子のうちの殆んどは殉教した。キリスト教の創始者(人間的言い方であるが)、イエスその方が、救いのために、その命を父なる神と、全人類に捧げられたのであるから、キリストに従う者は尚更です。バプテスマのヨハネも、神のために喜んで命を捧げたのでしょう。

 2,000前の昔の、出発時点から、当時のローマ皇帝より迫害され、キリスト教徒はたくさんの血を流してきた。日本においても同様に、フランシスコ・ザビエルによって初めてキリスト教が、1549年に伝えられてから後、長崎で豊臣秀吉によって処刑された26聖人を始め、その後の徳川幕府による迫害によって多くのキリスト教徒が残酷な方法で処刑されてきた。

 ヘブル人への手紙には、この世にあって信仰者は生きて生活しているが、彼らが望んでいたのは、もっと良い住まい、天国を待ち望んでいたのだと書いてあります。豪華な家ではなく、地上では仮住まいをして、粗末な幕屋に住むことによって、そのことを言い表したのです。それゆえ神は彼らの神と呼ばれることを恥となさらなかったのです。本当に天国と永遠の命を信じているなら、この世は仮の住まいであり、豪華な家に住むことは、この世そのものを目的とすることになり、信仰に矛盾することなのです。(所属している国全体が豊かになり 、その中で、場合によっては、豪華な家に住むことを許されている敬虔なクリスチャンもいるとは思いますが)

 『信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。』(ヘブル11:9 ~10) 信仰者にとって、この世は仮の世であり、本当に住むべき場所は、神の備えられた永遠に続く天の都であります。

 『この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地(カルデヤのウル)のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。』(ヘブル11:13~16)

 『御子を信じる人は永遠の命を得ている 』(ヨハネ3:36)私達のうちには、信仰によってイエス・キリストが聖霊と言う形で、心の中に住んでくださっており、そのことによって既に永遠の命が始まっているのです。私達は地上では一時の旅人、仮住まいの者であるのです。信仰の先達に倣って、私達も更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望して行きたいものです。

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