ヨハネによる福音書17章

   ヨハネによる福音書17章

 17章全体がイエスの祈りの言葉です。イエスは様々な場面で祈られているが、有名な祈りには、「主の祈り」「ゲッセマネの祈り」「大祭司の祈り」がある。16世紀以後、ヨハネ17章のイエスの祈りの言葉を「大祭司の祈り」と呼ぶようになった。 

 この章に大祭司と言う言葉は一度も使われていないが、イエスが父なる神と弟子達の間に立って執り成している姿は、旧約聖書に出てくる、犠牲制度で中心的役割を果たした大祭司の姿を彷彿とさせます。ヘブル人への手紙を見ればイエスこそ、天の至聖所で父なる神と私達人間の間に立って、執り成している 真の大祭司であることが分かります。

 『しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。』(ヘブル7:24~27)

 イエスは永遠に生きているので、地上の神殿における大祭司役のように、期間を決めて交替する必要はありません。又、清めるために毎日犠牲の羊を捧げる必要もありません。イエス御自身が犠牲の羊であり、十字架で流された血潮を、自分の罪の身代わりとして信じる者を、常に、完全にお救いになることがおできになるのです。

 この章のイエスの祈りを解説するのは大変困難です。一見この祈りは、同じことばかりを繰り返す、堂々巡りをしているような印象さえ、私達に与えてしまう。そう感じるのは私達の霊の眼が開かれていないために、理解できないからです。

 これは御霊によらなければ分からない祈りです。この祈りはイエスと父なる神の間の、私達には想像することすらできない、信頼関係、一体感の中でなされています。このような祈りの内容を真に理解することは難しいことです。未だ、父と御子の間の親密さ、さらにイエスと12弟子との間の親密さには、私達は信仰の段階として、到達していないからです。そして、この地上において私達がどんなに清められ、自分を聖別し、献身したとしても、この父‐御子‐12弟子の親密さと、一体感に到達する事は出来ないでしょう。

 ここで考えなければならないのは、まず、神の栄光と言う概念です。神の栄光とはどんなものであるか。まずそこからして私達には理解が困難なことです。神は古の時代、贖罪所のケルビムの間に臨在し、そこは神の栄光で覆われていた(ヘブル9:5参照)。そこに、神は栄光の内に臨在し、眩い光りが輝いていた。

 モーセは神を見て、シナイ山から降りて来たとき、彼の額は輝いており(出エジプト34:35参照)、人々はモーセの顔を見て、神の栄光を感じ取っていた。モーセは顔覆いをかけてその栄光を隠すほどであった(コリント第二3:13~14参照)。

 『神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。』 (テモテ第一6:15~16)

 『すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。』(ローマ11:36)

 今イエスは天の父なる神に向かって、栄光を与えて下さるように祈る。地上で神の栄光を現わすべく、子なる神キリストは人間の肉体を宿しながら、その地上での肉の器の限界の中で、様々な困難、試練、また、試みる者-サタンの誘惑に耐えてこられた。その信仰生涯を全うし、贖いの業を成し遂げ、神の栄光を、地上で現してきた。『わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。』(ヨハネ 17:4)

 天地創造の前に、父なる神と御子イエスは一つであり、栄光の内に存在していた。『「わたしはある。』(出エジプト3:14)と言う方であった。父と御子は最初から一つであった。聖霊の神と共に三位は一体であった。しかし御子が地上に、処女マリヤから産まれ、人間として、しかも同時に神の子として誕生したとき、明らかにその栄光には差異が生じた。だから肉体を持ったイエスは、ある意味、子としての栄光しかもっていなかった。子としての神となられた。だから今、天地創造前に、父なる神のところで持っていた、栄光をくださいと父なる神に祈るのであった。『父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。』(ヨハネ 17:5)

 まず父なる神が、この世、滅ぶべきこの肉の世を愛して、何とか救いたいとお考えになった(人間的な言い方であるが)。『神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。』 (ヨハネ3:17)

 世そのものの中には、未信者、キリスト教信者、仏教徒、イスラム教徒、その他の宗教を信じる者、善人、悪人、普通の人(しかし罪人)すべての人々が救いの対象として含まれているはずです。

 第1のアダムが、創造主である神から離れ、堕罪し、その罪と死の支配を遺伝的に受けた全人類もまた、それぞれ個々人において、与えられた自由意志を誤用し、さらに罪を重ね続け、極悪非道、醜悪なものになり果ててしまった。

 創造時の栄光に包まれた、美しい、『極めて良かった。』(創世記1:31)総ての被造物(自然界、動植物)はアダムの罪の影響を受けて、悪い方に変質して行った。人間は他の動物たちとは違い、『神のかたちに創造』(同1:26~27口語訳参照)されたが、ほぼ跡形もなく、神のかたち(人格的なもの)も、神の栄光を反映していた姿も、人間からは失われつつあった。その生活の環境を取り巻いている、気候も環境も、総ての物が歪められ、本来の姿ではなくなって行った。人間の寿命は創造当初から比べると、罪の結果極端に短くなった。

 父なる神は、そんな地上に、子なる神イエスを、人間と変わらぬお姿で、派遣された(受肉)。それはイエスを堕罪の型(第1のアダム)に対極する、贖罪の型(第2のアダム)として、罪なき、無垢の生涯を地上において送らせるためであった。そのことによって、もう一度人間に救いの光明を与え、もう一度、罪と死の支配から解き放ち、永遠の命を与え回復させるためだった。これは天地創造前に、すなわち堕罪前に、神の大御心の内に、御子との相談の上で計画されていたことなのです(サタンはこの相談にあずからせていただけなかったために、嫉妬心を抱いたのが罪の起源であると言う説もあります)。

 さて、堕落し、死に支配され、総てを失ってしまった人類を、あのエデンの堕落前の創造時の姿に回復するため、父の御心は、父ご自身の愛の発露として、御子を犠牲にすることを決断し、父ご自身も苦しむことになったのです。自己犠牲の愛-これは天の法則であり、父の御性格であり、神の本質です。また、聖書‐神の言葉の大原則です。また私達も御霊の導きにより、自分たちの性格もそのような大原則に躾けられて行かねばなりません。

 贖罪は罪の赦しだけではない。エデンの園の回復、地上の自然界、動植物の再生、罪に汚れてしまった人間の再創造、永遠の命の賦与、これら総てが贖罪の目的です。『神のかたち』がもう一度人類に回復されるのです。神の栄光とはこの贖罪のすべての過程が成し遂げられることを言うのではないでしょうか。

 『永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。』(ヨハネ17:3 ) 御子は父よりすべての権能をいただいた。であるから御子は、自らの内に持っている、永遠の命を、自由にもう一度人に賦与できる権能があります。『あなたは、子に賜わったすべての者に、永遠の命を授けさせるため、万民を支配する権威を子にお与えになったのですから。』( ヨハネ17:2)

 そもそも永遠の命とは何であろうか。ただ私達が今生きている、罪深い、失望と、落胆に満ちた、力なく、惨めで、暗い生涯を永遠に生き続けることであろうか?それは違う、命の質が違うのです。神の御国では、生き甲斐と、明るさ、常に生命力に満ち、喜びと感謝、神の栄光をいただき、創造主に対する賛美の中で永遠に生きることが出来ます。これ以上の充足感と幸せがあるだろうか。

 天の父なる神と、御子イエスと聖霊との深き交わりの中で、永遠に一つとなることができます。これが永遠の命の意味です。『永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。』これがイエスが言われた永遠の命の定義です。そして地上における生活の中で、私達はその一端を、前もって味わうことが出来るのです。

 父なる神と御子イエスを知るとは何か。それは知的に知ることではなく、本当に知る、深く知る、体験することです。つまり、聖霊を介して神を体験的に知るのです。『"霊"は一切のことを、神の深みさえも究めます。 』(コリント第一2:10)。聖霊との深い交わりの内に、絶対者の存在を意識し、この塵灰に等しい私達と言う存在が、イエスの霊と共にいることを悟り、父とイエスと聖霊と自分達の霊が一つとなって行くことです。

 理解することは、信じることなくしては出来ない。究極的に言えば三位一体の神と一つになるほどに知ることです(この17章の文脈から言えばそのように結論される)。父なる神とイエスとの位置関係は、またイエスとイエスの弟子達(私達も含む)との関係にも似ている。

 『あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました。また彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします。わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。』(ヨハネ17:18~21口語訳)

 御子は地上において弟子たちによって栄光を受けた。『わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。』 (同17 :10)。弟子達は天地創造前から予知され神のものであったが、神はそれを御子イエスに与えたのです。『彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。』 (同17 :6)そして御子イエスと父なる神の関係が一つであるように、弟子達とイエスも一つになるようにして下さいとイエスは祈る。最終的には私達を含め、信者全員が一つになるようにと祈る。この一つは、言うまでもなく、存在における一つではない。私達の存在、そのバラエティーに富んだ個性を尊重しつつ、霊的に一つになると言うことです。当座は欠けの多い、弟子達であったが、やがて聖霊降下によって清められ、伝道の器として用いられ、神とキリストの為に働き、この世にあって栄光を現し、キリストもそのことによって栄光を受けるのです。

 何故弟子達は12人いたか、1人でも、3~4人でも良かったではないか。それは救われる人々の個性が多様性に富んでいることを表現している例示であると私には思われる。イスラエル民族が12部族から構成されていたところから、部族の頭として12人が象徴的に任命されたことは間違いないことだろう。しかしイエスの時代すでに10部族は失われてしまい、ユダ族とベニヤミン族からなる、南王朝の末裔である、ユダ(ヤ)の国しか残っていなかった。であるから、12弟子が12部族を束ねて行くと言うのは、天国に行ってからのことであろう。

 要するに様々な人々が天国に招かれており、それぞれが独立した人格と、自意識をハッキリ持ち、個性は尊重され、神の前に、多様な存在として生きることを許され、そのような中でも、キリストの霊による一致が持たさらされ、霊的に一つになると言うことであろう。

 もし、仮に、存在における一つだとすると、これは何か霊の世界があって、その中で救われた人々の霊が、集合体のように、神とイエスの霊の中で収束し、一つになるような見方も出てきそうだ。その集合体の霊には、個性もなく、ただフワフワと、神の一部として、存在しているようなイメージになってしまう。もちろんこのような考え方は、仮にではあっても、聖書的ではない。

 聖書の言う人間存在とは、あくまでも個性の尊重であり、私達一人ゝの存在はどこまでも確立されており、個々の存在の、寄せ集めとして、霊的、精神的に一致して行くことだと私は思う。私と言う個人は、田中清二と言う自意識を持ち、死なない栄光の体が与えられ、個の独立した存在として、神の国で永遠に生きて行けると私は考える。

 もし、仮に、ある大きな普遍的な霊にすべての人の魂が統一されてしまうとしたら(聖書は決してそんなことは言っていないと思うが)、私と言う存在が無くなってしまう。そうなったら、永遠の命をいただけたことがどのようにしてわかるだろうか?

 聖書は霊だけの存在は考えていない。霊と肉は結合して人間を構成している。天上での肉は、この地上での肉ではなく、神の栄光に包まれた肉です。神の国に行っても、私達自身は、個人として存在し続ける。私達は永遠の命が与えられ、死ぬことのない栄光の身体が与えられ、歳も取らない。家を持ち、仕事をし、食べ物も食べる。もちろん、地上と違うところはあります。この世で経験してきた、結婚とか夫婦関係とか言うものはなくなります。御使いと同じ様な体をいただくのです。『「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。』 (マタイ22:29~30)

 神の都には12の門があり(黙示録21:12参照)人々はそこから出入りをする。一つの門は巨大な一つの真珠からできているそうだ(同21:21参照)。これはヨハネが黙示によって、幻の内に啓示されたもので、現実のものとして、実際に細かくまでその通りととらえるか、あるいは幾分か比喩的にとらえるかは、読者に任せられているように思われる。12の門を比喩的にとらえるならば、それはそれぞれ個性の持った人間が四方八方から招かれて、天の都の住人になっているとの意味であろう。また、神の都には夜がない。『もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。』(黙示録22:5)。神の栄光がいつも輝いているので神の都には夜の訪れがない。また、罪がなく、肉体も疲れないから、眠る必要もない。これは文字通りと受け止めるべきか。

 『わたしは、あなたが世から選んでわたしに賜わった人々に、み名をあらわしました。彼らはあなたのものでありましたが、わたしに下さいました。そして、彼らはあなたの言葉を守りました。いま彼らは、わたしに賜わったものはすべて、あなたから出たものであることを知りました。なぜなら、わたしはあなたからいただいた言葉を彼らに与え、そして彼らはそれを受け、わたしがあなたから出たものであることをほんとうに知り、また、あなたがわたしをつかわされたことを信じるに至ったからです。』(ヨハネ17:6~8) 弟子達は天地創造前から父なる神のものであった。すべては神のものであり、すべては父なる神のもとから発出ている。天地創造も、十字架の贖罪も、新天新地の回復も総ては神から出ていることなのです。『すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。』(ローマ11:36)

 この地上にいる間は弟子達を、この世の艱難苦難から父なる神の御名によって保護してきた。しかし今御子は神のもとに帰る。父なる神が弟子達を守ってくださるように嘆願する。信者を世から取り去って何か別の場所に移すのではなく、世にありながら、そこで守ってくださいと言っている。滅びの子、イスカリオテのユダだけが滅びた、聖書の言葉が実現するために。

 これらを語るのは喜びが、イエスのもっているのと同じ喜びが、地上にあっても弟子達の心に溢れるためです。単なる肉の喜びではない。イエスと父なる神が聖霊によって臨在しておられると言う喜びです。それは真理によって聖別された喜びです。次のように書かれている通りです。『真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。』(ヨハネ17:17)真理による聖別、御言葉が真理であるから、つまり御言葉による聖別です。弟子達は御言葉を守り、御言葉によって聖別された。さらにイエスは栄光を、弟子達に与えた『あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。』(ヨハネ17:22)

 

 ここで、また本筋から離れてしまうかもしれないが、『聖別』について考えて見よう。『また彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします。』(ヨハネ17:19口語訳)  御子は何故わざわざ、ご自身を聖別するとおっしゃったのか?私には不思議に思えてならない。御子には一点の曇りもなく、罪もないのです。最初から全く聖なる方なのです。そもそも御子は人間の欲の交わりによって生まれた方ではない。処女マリアが、御霊によって懐妊し、奇跡によって生まれたのです。大変不謹慎な言い方であるが、イエスには、人間的な情欲と言うものはなかったはずです(聖書はハッキリと説明していないので、これは私の憶測)。存在そのものがもともと聖であるのに、何故ここでわざわざ、イエスは自分を『聖別』するのか。

 私の答は、これは御子がバプテスマのヨハネから、ご自分は罪もないのに、バプテスマをヨルダン川で受けられたことと同じ教訓です(マタイ3:15参照)。人間が従うべき模範として、これらのことをなさったのです。つまり御子の聖別は、私達が自らを世から離れて聖別するようにと、模範として、 そのようになさったのです。『召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。』(ペテロ第一1:15~16)

 『また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。』(ヘブル12:14)聖なるものにならなければ、神を見ることは出来ない。

 『心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。』(マタイ5:8)

 『セラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。』(イザヤ書6:2~4)このイザヤの圧倒的な神体験を私達も追体験したいものです。セラフィムが空中を舞い、『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、』(黙示録4:8口語訳)の三重唱(父、御子、御霊?)を、私達もそばにいて聞きたいものです。 イザヤは神を見た時、自分は唇の穢れた者、死ぬしかないと思った(イザヤ書6:5参照)。『するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたのであなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」』(同6:6~7)

 炭火によって唇は清められ聖なるものとなった。炭火は香を焚く為の火鉢から取ってこられた。これはイザヤ自身が香となり燃やされ、使命の為に犠牲となって、自らを捧げることを意味していた。もちろん、キリストの贖罪なくして、罪が清められることはないから、この炭火はキリストの贖罪をも意味していたのであろう。

 大祭司ヨシュアが汚れた衣を着て、主の前に立っていた時、主はヨシュアを責めずに、ヨシュアを訴えていたサタンを責められた。

 『主の御使いはサタンに言った。「サタンよ、主はお前を責められる。エルサレムを選ばれた主はお前を責められる。ここにあるのは火の中から取り出された燃えさしではないか。」ヨシュアは汚れた衣を着て、御使いの前に立っていた。御使いは自分に仕えている者たちに向かって言った。「彼の汚れた衣を脱がせてやりなさい。」また、御使いはヨシュアに言った。「わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着を着せてもらいなさい。」』(ゼカリヤ3:2~4)

 そして大祭司ヨシュアに対して『火の中から取り出された燃えさしではないか。』と言い、汚れた衣服を脱がせ、聖なる晴れ着(祭司の服?)を着せ、清いものとして下さった。これこそ私達の信仰によって義とされることを的確に表している描写です。人間、誰一人として、清い、正しい行いなどしている人はいない。全員が汚れた衣を着ているのです。しかし、イザヤの唇が炭火によって清められたように、また、ヨシュアが、火の中から取り出された燃えさしとして、清い衣を着せられたように、私達も一度火で焼き清められるような悔い改めの経験をする中で、キリストの義の生涯を、新たなる衣として、スッポリと着せられ、完全に義なるものとして、神の前に立たせていただけるのです。

 でも、私達が自分をこの世から『聖別』すると言っても、根拠が自分の内にはないのです。聖なるものがないのです。男女の『肉の欲』(ヨハネ1:13)によって産まれ出て来た私達に、聖なるものはどこにも存在しない。聖なるもの、それは神から、上の方から受けるしか根拠がないのです。ただ目を天に向け、聖なる霊を求め、私達をこの世から区別し、神の遣わされた聖なる方イエスに似せて、聖なるものにしてくださるようにと願うばかりです。

 ただ、ひたすら、日毎にこの清めの御霊が私達に注がれ、神にお会いする日が近づいているのだから、『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、』の三重唱を、私達も御使いたちと共に唱え、滅ぶべき世から、この世の俗的なものから聖別していただけるように祈り求めて行こう。

 『あなたがたはおのれを聖別し、聖なる者とならなければならない。わたしは聖なる者である。』(レビ記11:44口語訳 )

 『わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。』(ヨハネ17:22~24)  

 新しい世界が回復され、総てが一つとなる。罪と言う暗黒から別離し、光輝く世界の回復。神の栄光、善なるものが満ち、もう闇のものは一切ない。第1のアダムの堕罪以来失われたものは、第2のアダム(イエス)の贖罪と献身(ヨハネ17:19参照)により総てが回復され、一つとなった。

 ああ私はそれらをまだ見ていない、この地上にあってやがてその時が来るのを固く信じてはいるが、まだ見ていない。天国での弟子達、御子イエス、父なる神との栄光をまだ見ていない。栄光の内に再会するその時が来る。その時のまばゆい神の栄光、御子の栄光の姿はどんなものであろうか?そしてふと、自分の姿を顧みて見る、何とその時自分も神の栄光を反映し光り輝いているではないか。遂に来た、遂に成就した。永年の希望が実現した。きっと心は歓喜に包まれ、栄光を御子と、父なる神の御名に帰し、尽きない賛美の歌を捧げていることだろう。こんな想像をこれらヨハネ17章の御言葉、イエス・大祭司の祈りからしてしまうのです。

 『「そしてわたしは彼らに御名を知らせました。またこれからも知らせましょう。それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります」。』 (同17:26)

 これからも御名を知らせるようにする。父のもとに帰られてからもイエスは御霊によってこのことを実行し続ける。

 私達は、この世では、幸福なこともあるにはあるが、どちらかと言えば不幸のことの方が多い。はかなく、短い、辛い人生を救うために、父なる神が、御子イエスを遣わされたことを受け入れ信じ続けよう。

 御子に対する父なる神の愛、父なる神はどんなに独り子イエスを愛してこられたか。その愛が人間の内にも回復される。そしてイエスはこれからも変わらず人間の姿かたちを、取り続けられる。父なる神のもとに帰ってからでも、新天新地が成った後においても、永久にわたって人間との特別な関係をイエスは保たれる。いつも人間達の内に住まわれる。イエスは私達の長子となられ、同族であり、人となられた神なのです。『神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。 』 (ローマ8:29~30)

 これらの御言葉によって、勇気と希望を強く抱こう。イエスに注がれた神の愛が、弟子達にも注がれ、私達にも注がれるのです。イエスは、今後も神の御名を私達に知らせる努力を続けられます。神の愛の完結の為に、イエスはたとえこの地上を離れ父のもとに帰られたとしても、御名を知らせる働きを天の至聖所で休むことなく続けておられるのです。 

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