ヨハネによる福音書1章

     ヨハネによる福音書1

 『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 』(ヨハネ1:1~5)

 初めにλόγος logosロゴス言葉があったとヨハネによる福音書は始まっています。ロゴスはギリシャ語であり、哲学者ヘラクレイトスは世界原理を表わす意味に使った。また、ストア派の哲学者は、神が定めた世界の神的な論理をロゴスと呼んだ。ヨハネがキリストをロゴスと表現した時、ギリシャ人にとっては、神を表わす表現としてすんなりと理解できたはずです。

 聖書的に考えれば、初めに神は言葉でこの世界を創造したのです。

 『初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。』(創世記1:1~3)

 イエスは人間ですが、同時に神であり、創造主でもあります(三位一体)。

 『御子(イエス)は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。』(コロサイ1:15~17)

 イエスは神の言葉そのものであり、旧約聖書(神の言葉)はイエスを証ししているのです。『あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたし(イエス)について証しをするものだ。』 (ヨハネ5:39)

 言葉は肉体となられた。

 『言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。』 (ヨハネ1:14)

 イエスは人間となられた神であった。

 『御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。』(コロサイ1:15~17)の解釈について、イエスは父なる神から生まれたのであろうか。つまり父なる神の被造物であろうか?この答えは否です。イエスは本質的に神であって、父なる神と、同質の神であり、永遠の昔から神と子と聖霊は同時に存在し、神のペルソナ、位格(第一位格-父なる神、第二位格-御子なる神キリスト、第三位格-聖霊なる神)として、三位一体なのです。これがキリスト教の正統的教義です。

 古代ギリシャで演じられた劇の中で、人物が仮面をかぶって登場することがあり、その仮面をペルソナと言い、ラテン語です。意味は役柄のことです。

 全知全能 である父なる愛の神、人間となられ、十字架で身代わりに贖罪を達成なさった子なる神イエス、また、どこにでも場所を選ぶことなく、臨在なさる人格を帯びた聖霊なる神、それぞれ人類の救いに関して顕れる役割の違いがあるのです。この三方は、それぞれ人類の救いにおいて役割を持っておられ、しかも唯一の神なのです。キリスト教は一神教です。

【参考】ペルソナは人格、位格を表すラテン語で、正確な発音はペルソーナ。元来、俳優が頭部にすっぽりかぶる仮面の意。転じて俳優が演ずる役割、役柄、登場人物をさし、さらに人物、個人、性格、人格を意味するに至る。

https://kotobank.jp/word/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%8A-22465 リンク有

 

 『御子はすべてのものよりも先におられ』(コロサイ1:15~17)とあるので、天地創造の前から、イエスは存在していた。宇宙の始まる前から父なる神、御子なるキリスト、聖霊なる神は存在していた。

 ビッグバン理論が、正しいと仮定しての話ですが、138億年前、宇宙がまだビッグバンによって出来る前に、この三方は存在していたことを私は信じています 。『初めに、神は天地を創造された。』(創1:1)この初めは、指し示しているのは地球創造であり、科学的理論を正しいとすれば、今から46億年前のことです。

 その前に宇宙は138億年前に造られており、さらにビッグバンの前に、神は存在していたのです。神とはいったい何者か?絶対者であり、創造主であり、愛の方であり、アルファであり、オメガであり、『わたしはある』(出エジプト3:14)と言う方。

 『神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」』(同3:14)

 神は存在するとしか定義できない方。永遠の昔から、永遠の未来まで存在する方。命を造り支配しておられる方。人類のうち誰もその御姿を見たこともない方。まばゆい光の中に住んでおられる方。

 『神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。』 (テモテ第一:6:15~16)

 ビッグバン理論すら、本当かどうかわからないのに、ビッグバン以前の宇宙はどうなっていたか、果たして存在する何かがあったのか、科学は何も分かっていない。ビッグバン以前の宇宙についての考え方には3つあります。

 一つ目はビッグバウンス(大きなはずみ)と言って、宇宙は収縮と膨張を何度か繰り返して来たという考え方。

 二つ目はビッグバン前の宇宙は冬眠していて、準安定していて、何かのキッカケけで、ビッグバンに向かって行ったという考え方。  

 三つ目は現在最も有力な説で、多元(マルチ)宇宙論です。一つの大きな親宇宙があり、そこから子宇宙 、次々と生まれて来たのではないか。インフレーション理論とも呼ばれ、ビッグバンの前に巨大な膨張する空間があり、そこから次々に宇宙が生まれて来たのではないか、と言う理論。

 泡がたくさんあるように、一つの宇宙が一つの泡であり、たくさんの宇宙が存在する。しかし、泡同士は、隔てられており、独自の物理法則を持ち、認識されたり、行き来することは出来ない(マルチバース理論)。

 どの説をとるのも自由です。どれ一つとして、ビッグバン前の宇宙が、どうであったかを証明することは出来ないのです。要するに物理学者でも、分からないことは分からないのです。

 ただビッグバン理論が正しいと仮定しての話だが、私はビッグバン以前は、神の存在のみがあったと信じています。ただ『わたしはある』と言う者が存在し、『わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。』(黙示録22:13)と言われる方が、存在し続けており、その方が、何かの目的があって、ビックバンを始められ、この宇宙とその中の2兆個の銀河を、また私達の太陽系、地球を含む天の川銀河を創造なさったのではないかと考えます。

 今知られている宇宙の直径は930億光年。138億年の彼方に最果ての銀河があり、端に行けば行くほど、加速して広がりつつあり、最果ての銀河のその向こうは、膨張するスピードが光速以上になると考えられているので、観測できないそうです。138億光年の向こうの宇宙はどうなっているかは物理学者でも分からない。これらは、今の科学的理論が正しいと言う前提に立った話であり、宇宙のことは突き詰めていくと、本当のことは誰も分からないと言うのが実情です。そのうち新しい発見、学説が出てきて、総てがひっくり返ってしまう可能性もあります。

 ビッグバン理論が正しいとして、ビッグバン前から存在した『わたしはある』という神が、この無限と呼んでよい宇宙、諸々の銀河を創り出したと考えることは、非科学的な、荒唐無稽なことではないと私は思う。結局科学でも、分からないことは分からないのだから。

 ヨハネによる福音書の『初めに言があった。』(ヨハネ1:1)の初めが、ビッグバン以前の、宇宙が始まる前の初めだとしたら、そこに神の存在以外に何かあったのだろうか。

 時間、果たして時間という概念がそこにあったのだろうか。そもそも時間が何かと言うことはいまだ分からないらしい。質量もないし、1秒前でも過去の時間には戻れない。ただ淡々と現在の瞬間は、すぐに過去になって行き、現在から未来に向かって、時間は粛々と音もなく過ぎ去って行く、何かなのです。ビッグバン理論によると、時間自体は約138億年前に宇宙全体の一部として始まったことになっている。ビッグバン前は時間は存在していなかったそうです。時間が存在しない世界?そんな世界があるのだろうか。

 

 ここからは、私の空想的な、愚かな戯言です。もしビッグバン前に神の存在しかなくて、時間がなかったとしたら、時間のない世界というのはどんな世界だろう。神のみが存在し、神には、何かのお考えがあって、宇宙を造り、諸々の銀河を造り、時間を造り、やがて地球と人類を創造なさったのだろうか。

 時間が刻々と過ぎて行くことは、今、現在私の実存的な体験としてわかるが、時間そのものをとらえることは出来ない。時間とは何か?質量もなく、エネルギーでもなく、匂いも、形もなく、ただ淡々と、現在から未来に向かって過ぎ去っていく。1秒前の出来事に帰ることは出来ない。総ての瞬間が、ただただ過去になって行く。神は時間をお創りになることが出来るのだろうか。それとも、この時間と言う得体の知れない何かは、神存在の一部なんだろうか?私には分からない。 

 アインシュタインの特殊相対性理論においては、高速で移動するも物の中では時間はゆっくり進むそうだ。また、光には質量がないそうだ。そのことも私の頭では理解できない。光は光子という粒子からできているそうだが、質量がない。そして、光速には、一定のスピードがある。太陽の光が、地球に届くまで、約8分かかるそうだ。光以上に速いものはいまだ発見されていない。時空を歪めて、SF の世界にあるように、次元を超えてワープすればもっと速いものがあるのかも知れないが、まだ証明されていない。もし超高速の乗り物が発明されたとして、その乗り物が光のスピードに近づくに連れて、その中での時間は、遅くなり、ゼロに近づいていく。光速に達した時、時間は止まる。しかし質量のある物体が光速を出すのは不可能だそうだ。

 また、138億年先の銀河は、光速のスピードで広がっているので、光はそれ以上届かないそうだ。と言うことはその先は時間が無いのだろうか。もし光の光子の先端に乗れたとして、そこでは時間はないのだろうか?ビッグバン前の宇宙には時間はなかったと、定義される時、それでは時間を造った方は、どなたですかと言う、素朴な疑問が湧き上がってくるのです。 

 ビッグバン前の『わたしはある』と言う神が、存在していた時、時間はあったのだろうか?それとも時間そのものがなかったのであろうか。初めにの初めは時間がない世界であり、空間もなく、神の存在だけがあったのだろうか?止まれ、私の妄想的な思索癖はこの辺で終わりにしよう。

 

 さて、だいぶ脱線してしまったのでヨハネが何故イエスをロゴスと表現したかを要約して見よう。永遠の昔から、YHWH(神の名前ヤーウェ)なる主なる神と共におられた子なる神イエスが、乙女マリアから生まれ、人間の肉体をとられ、神の言葉(ロゴス)としてこの地上に来られた。今から約2,000年前ロゴスは人間となられた。ロゴスはギリシャ語で言葉であり、しかも神の言葉であります。

 そしてギリシャ哲学では、何か、物事の普遍的な原理、原則をロゴスと呼んだ。このギリシャ語で書かれたヨハネによる福音書を読んだギリシャ的価値観の中で生きて来た人々は、イエスをヨハネがロゴスと呼んだ時、ロゴスを世界原理や世界の神的な論理を表わす言葉として受け入れる素地があった。彼らは、イエスが神的ロゴスであることをすんなりと受け入れられたことであろう。

 『言(ロゴス)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。』(ヨハネ1:4~5)

 『その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。』(同1:9~14)

 ロゴスはただのロゴスではなくその中に命、本質的に私達とは違う命の根源、永遠の命を持っておられた。実は永遠の昔から命の本質であられたイエスが、万物を造り、地球を造り、人間を始め、動植物をも造られたのです。イエスは命そのものをお授けになり、命が始まったのです。その頃の世界に死はなかった。死は、アダムとエバの堕罪によって、後から入り込んだものです。

 

 『言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。』(同1:4) 人生には、どうしてもその道を照らす光がなくてはならない。光によって導かれないと道に迷う。例えば、私は良く高尾山に登るが、登山していて、夜になるとヘッドライトが頼りです。足元の岩や、窪みを避けて安全に歩けるのは、光のおかげです。もし真っ暗闇の人生を歩んでいる人が、自分の人生の道を照らしてくれる光を発見したら、どんなに助かるだろう。この人生を照らす真の光を見出すことができずに、生活に行き詰まり、途方に暮れ、一度限りの大切な一生を、つまらない事で諦め終了してしまう人が多くいます。つい先日も20代の若い女性がSNSで知り合った、50代の男性に自殺幇助を依頼し、男性の部屋で首を絞められ、遺体で発見されたと言う事件が北海道でありました。

 迷える羊のような群衆を見て、イエスは憐れんで下さった 。『大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、 』(マルコ6:34)とあります。どんな人の人生であっても、神が暗闇のままにほっておかれることはないと私は信じています。求めるならば必ず光の下に導かれるはずです。ただ求め方は重要です。闇雲に探しても、真理の知識は中々得られない。数々の小説や本を読むよりも(知識を得るためにはそれも大事ですが)まず聖書、神の言葉である聖書の中に人生の導きの光を求めるのが早道です。人生は遠回りするにはあまりにも短か過ぎるのです。

 イエスによって造られた、この世に彼が来たとき、世は彼を受け入れなかった。『光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。』(ヨハネ1:5) 世は世の知恵ではどうしても神の贖罪の知恵を理解することが出来ない。従って神がせっかく備えて下さった身代わりの犠牲の備えもの、生贄であるイエスの十字架の尊い犠牲を信じることが出来ない 。

 しかし、少数の者であったが、イエスを受け入れた人々もいた。その人達には、永遠の命が与えられた。イエスを受け入れた人々は、聖霊によって新生され、新しく神の子供とされたのであり、もはや肉の、人間の欲望によって生まれたのではない。この世の肉は持っているが、もう既にこの世のものではなくなっているのです。神の霊によって新しく生まれた存在になったのです。肉にありながらも、永遠の命は、聖霊によって造り変えられた彼らの心の中に、イエスがお住まいになることによって、既に始まっているのです。血統でもなく、身分の貴賤でもなく、肉の欲によってでもなく、ただ御霊によって、それらの人々は生まれたのです。

 この希望はこの世的には蔑まれ、非嫡出子として苦労してきた人々にとっては大きな慰めです。そもそも、誰がどんな関係で生まれた子であっても、子は子であり子自身には何の責任もないことなのです。ましてバプテスマを受け霊の子となったのであれば、出生について大きなハンデを負っている人々は、特に以下の約束をそのまま受け取って良いのです。

  『しかし、言(イエス)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。』(ヨハネ1:12~13)

 ヨハネは現実に、この命の言葉である、肉体となったロゴスであるイエスを見た。その恵みと、愛と、真理に触れた。それは神の独り子としての栄光であって、外から見れば普通の人間としての姿ではあったが、その中に溢れるばかりに神の聖霊が宿っていた方を見た。イエスは人性に包まれてはいたが、神そのもののお方であったのです。『いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。』(ヨハネ1:18) 『言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。』(同1:14)

 ヨハネは父の独り子としてのイエスの栄光を見たが、果たして私達は見たのであろうか? ヨハネが見た、イエスの贖いと、復活、一緒に過ごした3年半の公生涯、共に汗し、苦労し、歩き、福音を宣教した思い出、あの最後の晩餐にキリストの贖いの記念として飲んだ杯、目の当たりにした十字架の犠牲、その後の復活、昇天の御姿をヨハネは一生見続けたのです。その鮮明な記憶の場面ゝを、ヨハネは生涯見続けたのです(ヨハネによる福音書はヨハネがかなり晩年になって、口述筆記したものだと言う学説もあります)。 イエスの贖いと、復活を目撃したとき、ヨハネはイエスをただの人間としてではなく、『言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。』(同1:14)と、まぎれもない救いの事実として、キリストと一緒に生活した時間があったことを体験談として、証し続けたのです。

 ここで強調しておきたいことは、私達もまた、イエスを神の独り子としての栄光を表わす方として、個人的に『見た』のでしょうか。どんなに学問的にイエスの生涯を研究しようと、聖書を知的に理解しようと、それでは不十分なのです。私達は自分の人生の中で、イエスを、個人的な救い主として出会い、受け入れ、愛しているでしょうか。神の独り子しての栄光を、私個人として見たのでしょうか。また、今現在、見ているのでしょうか。今イエスに触り、愛し、愛され、私達と共にいるイエスを実感しているでしょうか。実はそれが問題なのです。

 現代の、この科学が発達した時代においても、聖書の記述を単なる神話として理解するのではなく、歴史上起きた事実として受け取ることが出来るでしょうか。イエスとの関係の中で、リアリティーに富んだ、実存的な信仰生活を送ることが出来るのでしょうか。『わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。』(ヨハネ1:16) とあります。キリストの御恩寵の中で、毎日罪が赦され、贖いの麗しさに感動し、今そばに居て下さるキリスト、『「...わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」』(マタイ28:20)と言われたキリストを感じながら、キリストに手を取っていただきながら生きているでしょうか。

 

 さて、バプテスマのヨハネなる人物がヨハネによる福音書1章には登場して来ます。ヨハネによる福音書を書いたヨハネとは別の人物です。

 ルカによる福音書を見ると、聖母マリアが、親戚のエリザベトを訪問したとき、マリアのお腹にはイエスがおり、エリザベトのお腹にはバプテスマのヨハネがいて、エリザベトは不思議な胎動を経験したと記録されています。バプテスマのヨハネはイエスをお迎えする準備の働きをした人物であり、イザヤ書に預言されていた、ユダヤの人々がメシアを迎える準備をさせる荒野で叫ぶ声でありました。

 『呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備えわたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る。』(イザヤ40:3~5)

 バプテスマのヨハネは、イスラエルの人々に悔い改めを迫り、ヨルダン川で水によってバプテスマを授けました。イエスもバプテスマのヨハネからバプテスマを受け、その時に聖霊が鳩のようにイエスの上に降りました。『イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。』 (ルカ3:21~22)

 ヨハネは水でバプテスマを授けていたが、イエスは聖霊と火によってバプテスマを授ける方であった。ヨハネはイエスの履物をお脱がせする値打ちもないほど小さな存在であった。

 『わたし(バプテスマのヨハネ)は、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。』 (マタイ3:11)

 バプテスマのヨハネの弟子だったヨハネとアンデレは『見よ神の小羊』と師がイエスを紹介したので、イエスの後について行った。そして、イエスにどこに泊まっているかを聞くと、ついて来なさいと言われたので、ついて行くと、夕方4時頃宿に到着し、その晩はイエスと一緒に泊まり、その教えを直に聞くことが出来た。

『(バプテスマのヨハネは)歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。』(ヨハネ1:36~39)  

 『ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。』(同1:29) 思わず、バプテスマのヨハネが、イエスに最初に会った時、『世の罪を取り除く神の小羊』と言った意味は何であろうか。2,000年前ユダヤには、神殿があった。神殿の中には聖所があり、日毎にたくさんの動物が供え物として神に捧げられていた。その中で特徴的なものは、朝晩捧げられる、常供の燔祭と呼ばれる、羊であった。

 『祭壇にささげるべき物は次のとおりである。毎日絶やすことなく一歳の雄羊二匹を、朝に一匹、夕暮れに他の一匹をささげる。』(出エジプト29:38~39)

 毎朝夕、羊を殺し神殿の中で燔祭として神に捧げていた。全焼の燔祭とも言われた羊は、祭壇で焼き尽くされた。これはイエス・キリストが神の小羊として御自分の民の身代わりに罪を負って死ぬこと、すなわち十字架の贖いを儀式的に表していたのです。つまりユダヤの犠牲制度は総てイエスが本体として、神の刑罰を人類の身代わりとして受けることによって、人類すべての罪と咎を負うことを予表していたのです。

 『彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。 彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。』(イザヤ53:5)

 羊そのものに罪を赦す効力があったわけではなかった。イエスの血によって、罪は赦されるのです。『わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。』(エペソ1:7)

 イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。この言葉はイエスが泊まることになっている宿の場所が分かるの意味です。しかしそればかりではなく、霊的な意味もあります。イエスの中に救いを見出したい人は、イエスに「来なさい。そうすれば分かる」と言われているのです。教会に来て、最初は牧師の説教の意味も分からず、途方に暮れてしまうのが、初心者の常です。分からなくても良いのです。何かがあなたを引き付けているのです。忍耐して、イエスに来続けることです。そうするならばやがて、『神の小羊』が自分にとって、世界にとってどんな意味であるかが分かって来るのです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。』(ヨハネ1:29)

 その翌日アンデレは自分の兄弟ペテロに会い、イエスのもとに連れて来た。イエスはペテロの資質を一目で見抜いて、将来の教会の指導者になるように、ぺテロに岩(ケファ)と言う名前を与えられた。 

 次にフィリポが弟子となり、フィリポがナタナエルをイエスのもとに連れて来た。フィリポの出身地はガリラヤ湖畔のベトサイダであった。アンデレとペテロ、ヤコブとヨハネの出身地でもある。イエスはヨルダン川近くの宿に逗留しておられたが、ガリラヤに行く予定であった。

 『その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。』 (ヨハネ1:43)

 他の福音書では、ペテロやヨハネその兄弟ヤコブらの場合、彼らがガリラヤ湖で夜漁をしていて、帰ってきた朝に、網の繕いをしている時、イエスと出会い、漁具と家族を置いて、人間をとる漁師として、召されたことになっている。しかしヨハネによる福音書では少なくとも、ヨハネとペテロその兄弟アンデレ、そしてフィリポ、その友達のナタナエルはヨルダン川の近辺で、イエスと既に出会っていることが分かる。その後、イエスと共にガリラヤの故郷に帰り、『「今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」』(ルカ5:10)とのイエスの言葉をいただき、世俗の仕事を捨てて、今風に言えば宣教師として召されたのであろう。

 ルカによる福音書にこの時のイエスとペテロの出会いが、もっと詳しく描写されています。

 『イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟(ヤコブとヨハネの舟)にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。』(ルカ5:1~11)

 

 『するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。』(ヨハネ1:46)    最初フィリポが誘った時、ナタナエルは、ナザレ村出身のイエスについて懐疑的であったが、『「来て、見なさい」』と言うフィリポの言葉に従いイエスに会いに来た。イエスはナタナエルに会ったとき、即座に『「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」』(同1:47)と言って、その人柄を見抜き、賞賛された。『ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。』(同1:48)ナタナエルは心に偽りのない、真面目な方であった。いつでも、いちじくの木の下で神に祈ることを日課としていた。いちじくの木の下、そこは彼の祈りの場であった。 自分の祈りとその場所を言い当てられたナタナエルは、イエスを救い主メシア、神の子として認め信じた。しかしそのとき、イエスはナタナエルに言われた。

 『イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」』(同1:50~51)

 これはイスラエル民族の先祖ヤコブが石の枕で寝たときに見た夢に由来しています。ヤコブは、兄エサウと仲たがいして、老いた父イサクのもとを離れ、父イサクの命令に従い、叔父ラバンのところを目指して家を出ました。やがて欲深い叔父、ラバンところに寄留し、そこで働くことになります。そこへ行く途中、荒野で野宿し、野にあった石を枕に、眠っていたら夢を見たのです。天使がヤコブの上に梯子をかけて、昇ったり、降ったりしている夢でした。

 『とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。』 (創世記28:11~12)

 イエスはこの故事を念頭に、ご自分の上に天使が昇ったり、降ったりしながら、御奉仕する様子を、表現した。バプテスマのヨハネからイエスがバプテスマを受けた時、聖霊が鳩のように下ってきたことを思い出して欲しい。 また、あの40日40夜断食修行をなさったとき、イエスは天使の奉仕を受けられた。『そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。』 (マタイ4:11)

 イエスは神の子であり神そのものであったから、聖霊が充満していたはずです。しかし、イエスは同時に完璧に人間でもあられたのです。だから、喜んで人間として天使の奉仕をお受けになったのです。イエスは私達と変わらない肉体を持ち、労働し、額に汗して働き(大工)、長男として、早逝した父ヨセフに代わって、家族、兄弟を養ってきたのです。私達と同じように、疲れ、眠り、食べ、この世の生活を送ってきたのです。しかし『その口には偽りがなかった』(イザヤ53:9口語訳)とあります。イエスと私達の違うところ、それは彼には罪がなかったのです。『あなたがたのうち、だれがわたし(イエス)に罪があると責めうるのか。』 (ヨハネ8:46口語訳)

 ヨハネによる福音書1章に、単純かつ印象的に、弟子達が初めてイエスにお会いしたときの情景が、描かれているのを読むことが出来ます。 ガリラヤ湖周辺の田舎で育ち、粗野で、学も無く、単純な漁師であった人々が、イエスに出会うことによって変えられ、聖なる仕事へと呼び出され、霊的にも人間的にも成長し、文字通りの12使徒となって行くのです。 私達もまたヨハネのこの手紙を始め、聖書を読んで行くときに、同じように、イエスと出会い、本当の神を発見し、救いを経験するように招かれています。

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