ヨハネによる福音書5章
ヨハネによる福音書5章
べトザタの池に、38年間も病のために横たわっていた人がいました。イエスは特にこの人に心を留められ、癒しの奇跡を行ったのです。この人は食物を乞いながら生きて来ました。『この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。』(ヨハネ5:3)
現代のような衛生的な介護施設のない時代、入浴、着替え、排便、飲食物の提供等々、誰が世話をしていたのだろう。少なくともこの人が38年間も病の床にありながら、死ぬことなく生きながらえて来たということは、宗教上の動機から慈善心に富んだ個人が奉仕をしていたか、この人の親族が世話をしていたかはわからないけれども、それなりのケアが受けられていたのであろう。ユダヤ社会はそれなりに、神の愛が浸透して、貧しい者や病人を世話するような仕組みがあったのかも知れない。
この世的な価値判断からすれば、やせ衰えた、今やっと生きているこの人の価値など、まるで木の葉一枚や、虫けらのような価値しかないと思われていたかも知れません。38年間病の中で、かろうじて命をつないできた、無きに等しいような、一人のか弱い人間をイエスは憐れんで、目に留めて下さったのです。神の目には、このように、38年間も病の床にあり 、人様からお世話していただくだけの何の価値もない人間と思われるような人でも、一人の人間としての価値は変わらないのです。生きている以上、救われるべき、一人の尊い魂なのです。
どんな人間も主の前に、価値のない人間などはいない。どんな人であっても、今どんな状態であっても、人ひとりの魂は、その人にしかないのです。かけがえのない、永遠の命に至る可能性のある尊い魂であり、決して主はないがしろにはなさならない。
自分の人生、それがどんなに失敗に満ち、後悔に苛まれるようなものであっても、イエスの十字架を見出す時、それらはすべて赦され、主のみ前に清い、罪を犯したことのない者としてみなされ、神の前に完全に義とされ、聖霊によって再生され、永遠の命の希望に満たされながら生きることが出来るのです。これが私達の希望であり、価値観です。主の霊に満たされ、聖なる生活を求める根源的な希求が、創造の神によって与えられます。
キリストの恵みの内に、強くされながら、人生をやり直して生きて行くことが出来るのです。どんな人の人生も、罪を悔い改めて、キリストの復活の御霊を受けて、本当に新しく生きて行こうとするならば、それがいつであろうと、もう一回人生をリセットして、やり直すことが出来るのです。このことは私が福音によって、イエスからいただいた確信です。
途中で投げ出す人生など、一人もあってはならないし、投げ出す必要などないのです。
自分はべトザタの池に横たわっている中の一人だと思えるような、環境にある人がいるかも知れない。霊的にも、肉体的にも同じように衰え、病の境遇に今歩んでいる方がいたとしても、キリストを見出し、キリストのもとに来るならば、まだ、希望があるのです。
『〔彼らは水の動くのを待っていたのである。それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。〕』(ヨハネ5:3~4口語訳)
べトザタの池とはどんなものだったのであろう。紀元前8世紀に雨水を貯めるために作られ、紀元前2世紀頃に拡張された。紀元前1世紀には癒しの泉「アスクレペイオン」として病の治癒を祈願する人が訪れる治癒所に替えられた。ギリシア神話に登場するアポロンの息子で、医療と健康を司る神、アスクレピオスが祭られていたと考えられている。聖地エルサレムに、ギリシャ神話に登場する異教の医療にかかわる神が祭られている場所があったとは、私達の頭では理解しがたく、それほど偶像教の教えがはびこっていたと言うことなのだろう。
べトザタの池が異教の神を祭る場所であったならば、何やら、病人の助かりたいと言う、切実な思いすら、競争原理にさらされてしまっている、理不尽さがあったことを理解することができます。天使が水を動かした時、自分が先に癒されたいと言う一途な思いで、一番先に水に入った一人だけが、病が癒されたと言う超常現象も、異教の神を祭った池での出来事であるならば納得できます。この現象が事実であるかどうかはわからないけれども、何やら異教の神の、利己的な宗教的匂いが、プンプンと漂っているではありませんか。
私は芥川龍之介の書いた蜘蛛の糸の物語を思い出してしまう。仏教の背景で語られる物語の荒筋は以下の通りです。
カンダッタと言う男が生前行った極悪非道の報いを受け、血の池地獄で、苦しんでいた。釈迦が極楽の蓮池の水を通して、その様子を見て、カンダッタが生前、一匹の蜘蛛を踏み潰さず、助けてやったことを思い出し、蜘蛛の糸を極楽からカンダッタのところに垂らしてやった。彼は、突然上から、垂れ下がって来た蜘蛛の糸をつかみ、極楽目指して糸を上って行った。遥か上まで登り、下を見ると、地獄の亡者たちが、何人も細い糸を上ってくる、「これは俺のものだ」と叫んだ瞬間に手元から、プッツリト蜘蛛の糸は切れてしまい、カンダッタは真っ逆さまに血の池地獄に再び落ちて行った。仏教を題材にした物語ですら、自分だけが救われれば良いと言う、利己的な動機を戒めているのです。
増して、べトザタの池に降りて来る天使が本当にいて、水を動かした時、一番最初に他の人を押しのけて、水に入った者だけが、癒されたのだろうか。この描写の個所は写本の中で、底本に節が欠けている個所の異本による訳文であると注解されている。あるいは原本にはなくて、誰かが後から、付け加えたのかも知れない。しかしそれをあまり強調すると、本文批評の罠に陥り、聖書を単純に神の言葉として信じる信仰に弊害が生じることになるかも知れないので、これ以上追及はしないことにしよう。
友のために自分の時間と命を削り、ある場合には命を捨てよとまで言われている聖書の教えの法則がある。『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』 (同15:13)。『イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。』(ヨハネ第一3:16)。自分の命を救うために、他の人を押しのけて行く、信仰の行為は、果たして真の信仰と言えるのだろうか。聖書に書いてある、愛の神の法則とは反対の法則ではないか。このような神は異教の神が与える恐ろしい、得体の知れない、愛の神とは正反対の宗教法則ではないだろうか。私は、べトザタの池の物語を読むたびに、何か割り切れないものを今まで感じて来た。べトザタの池は異教の神の癒しの場所だったのです。イエスはそのような場所で、真の神、天地創造の神の奇跡を行い、異教の神にはできないことを行ったのです。この38年病の床に伏せっていた人を、一瞬で、それも、神の権威ある言葉による宣告のみで、癒されたのです。
『イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。』(ヨハネ5:8~9)
ところで、真の神、聖書の全知全能の神を、御子イエスの御愛の内に、十字架の赦しと、とりなしのうちに救いの十全性を持って拝み奉る場合でも、神の癒しの発露においては、ある種の疑問が湧いてくるのです。それはイエス御自身の言葉にもそのことを思わせる言葉があります(ルカ4:23~27参照)。
預言者エリヤは、当時イスラエルにたくさんの飢えたやもめがいただろうに、何故、最後の食事を幼い一人息子と食べて死のうとしていたサレプタに住む異邦人のやもめのもとに遣わされたのであろうか。やもめは、最後の食事を、自分たちで食べないで、信仰を持ってエリヤに先に食べさせたため、その後、『主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。』(列王記上 17:16)ので、飢饉が終わるまで、もはや飢えることはなかった。
何故イスラエルには、重い皮膚病の患者が大勢いたのに、アラムの王の軍勢の長ナアマンの重い皮膚病だけが、エリシャによって癒されたのか(列王記下5:14参照)。
信仰と癒しの問題、これはなかなか手ごわい、深く考えさせられる出来ごとなのです。以下長くなるが、この問題に対する、私のどこか気ままに、迷走してしまいがちな思いを書き連ねて行こう。本筋からは離れるので、読者にとっては、迷惑なことかも知れないが。
私がSDAの信仰に入ってから、多くの病が癒された話を聞いてきた。それは決して作り話ではなく、あるときには、実際に癒された牧師本人の証を聞いた。彼は、歯並びが悪く、いつも舌が歯に接触していた。ある時舌に潰瘍が出来て、そのうち治るであろうとほっておいたが、名医に偶然に見てもらうことになり、舌癌だと分かった。手術をする手筈になっていたが、手術前に癒され、癌は無くなってしまった。その医者もこんなことは見たことがないと言って驚いた。牧師本人の口からその証を聞いたのです。既にその方は牧師を定年で引退なさったが、生涯を神に捧げ、地元に帰って、自分の家を建て、そこに集会所を作り、今も伝道に献身しています。
また、キリスト教信者でも何でもなかった人が、イザヤ書40章27~31節の聖句が書いてあるパンフレットを偶然手にすることになり、それを繰り返し読み、こんなすごい神がいるのかと感激し、山小屋にこもってこの聖句のみをひたすら祈りの内に繰り返していた。本人の証を読んだことがあります。何日か繰り返すうちに、突然「あなたの信仰は聞かれた」との神の言葉が心に響き、神との出会いを果たした。その時、彼の患っていた心臓病が癒されたそうだ。 その方 はやがてSDA信者なった。 しかし、病気は100%、信仰に入り熱心に神に祈れば癒されるのであろうか。癒される可能性は私は否定しない、しかしめったには神の癒しの奇跡は起こらない。
ベトザタの池は北と南に2つの池があり、周りに4つの回廊があり、真ん中に5つ目の回廊があった。病人達ははこの真ん中の回廊あたりにいたらしい。その理由は、どちらの池の水が動いても入って行けるようにしていたのではないかと推測されます。詳しいことは分からないが、長さ約120m、幅約60m、深さ約10m、という大きな池だった。
イエスはべトザタの池の5つある回廊の、たぶん真ん中の一つの回廊にいた38年間横たわっていた人を癒された。回廊にいた大勢の他の病人達はどうなったのだろう?他の大勢の病人も、イエスは全員癒してやるべきではなかったか。私は、癒されなかった他の方々の、その人に対する怨嗟に満ちた羨望の眼差しを感じます。「イエスよあの方を憐れんで下さったように、私達も憐れんで下さいませんか。」と、他の病人の、声にならない声が私には聞こえてくるようだ。もちろん、これは私の想像です。
罪の赦し、魂の救いは、真にイエスの十字架を自分の罪の身代わりとして信じるならば、信仰のみによって、すべての人に平等に与えられる。しかし、病の癒しは平等ではない。どんなに祈り、病の癒しを願ったとしても、癒される人と癒されない人がいます。それが事実であり、現実であります。何故そうなるのか、私には分からない。
フランス南部、ルルドの泉のことを聞いたことがあるかも知れない。宗派は違うが、めったに起きない奇跡を求めて、年間500万人もの人々がこの地を訪れています。ルルドに昔、聖母マリアが出現したとのこと、とても信じることはできません(プロテスタント教会はマリア崇拝はしませんし、マリアの昇天も認めません、マリアはただの人です、聖書はマリアに関しては神性を付与していません)。ただし、癒しの奇跡は数は少ないが、たまには起きているようです。1960年から2000年までの40年間では、カトリック教会の奇跡によって癒されたとのこの地での公式認定者はわずか4人。でも、それを完全否定するわけにはいきません。教派は違いますが、神による癒しは、必ず現代でもあると私自身が信じているからです。
では、何故ある人は癒され、またほとんどの人は癒されないのか。聖書の中に、パウロが行ったこんな奇跡の記録がある。『リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした。』(使徒行伝14:8~10) 癒しを施す方であるパウロにも、聖霊の賜物による癒しの力があり、癒される方にも、癒しを受けれるほどの、それにふさわしい信仰がなければならないことが分かる。どう考えても、癒しの奇跡を見るためには、信仰が必要であろう。
このリストラの町に座っていた、生まれてから一度も歩いたことのない足の不自由な男に向かって、パウロは癒しの信仰を持って、大声で『「自分の足でまっすぐに立ちなさい」』と命じた。この男の脚は小さくて、か細くて、形ばかりついているような状態だっただろう。しかし脚の筋肉も、骨も、踝もたちどころに強くなって。その人は『躍り上がって歩きだした。』とある。このことは奇跡であり、そのまま本当に起きたことであり、神の御名をほめたたえよう。
しかし、ここで現実の世界に目を転じて見ましょう。実際には、現代においては癒しの奇跡は中々起きない。これが現実です。癒されないのは私達の信仰が足りないからでしょうか。もしそうだとするとこれまた、宗教上の大変な混乱が起きるように思われます。「あなたの信仰が足りなかったから、病になり、癒されないのだ、もっと強く信心をして、お布施をはずみなさい、そうすれば癒される。」こんな言葉を、何処かの新興宗教で聞いたことはないだろうか。
そもそも、人の神に対する信仰の度合いを、病の癒しで判断するなんてことがあって良いのでしょうか。もしそんな信仰があるとしたら、いったい信仰とは何んだろうかと言う、根本的原因まで追究したくなってしまいます。信仰とは病の癒しも含まれるだろうが、信仰の最も大事な部分は、罪深い私達の利己的な心が、イエスの十字架の血潮によって赦され、心に平安が与えられ、やがては、何一つ自分の善い行いなどではなく、キリストの功しによって神の前に義とされ、罪を犯したこともない者として神の前に立たしていただける、このことをひたすら信じて行くこと、「義認信仰」これがキリスト教信仰の一番大事なところです。肉体が救われるのではなく、魂が救われ永遠の命が与えられるのが第一のことです。もっとも肉体が癒され救われるのも、実際のこの世で生活して行くのに、必要ですから、そのことを神がお許しくださるならば、大変な感謝ですし、有り難いことです。しかしそれは信仰の恵みの一つではあっても、目的ではありません。目的はただ一つ魂の救いです。
『イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。 』(ヨハネ5:6)癒されたいのか、病気が治りたいのか、何故イエスは病人に聞いたのだろう。病気を治したいので、彼はここで38年も横になっているのだ。しかし、この当たり前のことを尋ねることによって、彼に是非治りたいと言う、願望と、その意志を強くしてやったのではないか。彼の心のうちに、病気は治るのだと言う信仰を目覚めさせてやったのではないか。敢えて、その人が癒しを信じ、癒しを神に願い、信仰の力を体験させるため、強く願うことをさせようとしたのではないだろうか。
以上書いて来たようなことを踏まえつつ、真の信仰により、神とイエスに深く結びついて行くとき、何かが起こります。前章、ヨハネによる福音書4章の最後のところで私が述べた、人生の中で ダイナミックな何かが起こるときが来ます。
聖霊に満たされ、父なる神と御子イエスに、親しく祈りのうちに、交わること。イエスの尊い御名により頼み、一生懸命に神のリアルさを求めて行くならば、神はその存在を顕わし、奇跡の業が、実際に、私達の心と体、取り巻く環境に起きてくるのです。そのようなことを実存的体験として、持てるように祈りの内に、励んで行くとき、病の癒しを含む神の奇跡を、昔のように見ることが出来るかも知れないのです。しかし、こうは言うものの、こうすれば癒されると言う確実な方程式のようなものはないとは思っています。
病の癒しを考える時、神からの特別な賜物としての病の癒しの能力を付与されていた人が2,000年前にはいたことを覚えておこう。癒しの力は神の賜物として与えられる側面があります。神が人間に与えられる聖霊の賜物には種々あり、癒しの賜物のように天から賦与されるものと、人間が生まれつき持っている、あるいは後天的に取得した能力と思われるものがあります。
管理、知恵、知識、教育、強大な信仰、力ある業、奇跡、使徒職、預言、異言等々の賜物が聖書に記載されています。それらの一環として癒しの賜物を持つ者がいたのです(コリント第一12:28~30参照)。パウロは癒しの賜物を持っていたことがありました。ある時期、パウロの身に着けていた手ぬぐいを、病人に押し当てただけで、病が癒されました。『神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。 』(使徒行伝19:11~12)
さて、その後、イエスは癒された人に神殿で会い、会話を交わされたことが記されています。
べトザタの池は神殿の近くにあり、エルサレム城壁の12の門のうち、羊の門がそばにあった。羊の門をくぐるとすぐに神殿に通じています。病を癒されたこの人は自分を癒して下さった方が誰であるか名前を聞いていなかった。おそらく、彼は神に感謝を捧げるため、羊の門を通り神殿に向かったのだと思われます。『エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、』(ヨハネ5:2)
神殿の中で、再びイエスにお会いし、感謝のお礼を心からイエスに伝えたことであろう。ところがイエスは、神殿内のこの人との会話の中で、心に引っかかる妙なことをおっしゃった。あなたは元気になったからと言って、昔のような罪を、もう犯してはいけませんよ、もっと悪いことが起きるといけないから、と言うような内容である(ヨハネ5:14参照)。この男の人の病の真の原因は、どうやら彼が若い頃した放縦な生活にあったようだ。彼は若い時好き勝手に生きたため、そのことが原因で病に陥り、その後38年間も病に伏せって、何と人生の大半を費やしてしまった(平均寿命はこの当時は現代よりかなり短かったと考えられる)。
果てまた本筋からは離れてしまうが、健康について考える時、神は自然の法則をお定めになり、健康もこの法則を実行することによって得られます。健康が与えられるように祈ることは大事な事であるが、ただ祈れば健康が与えられると言うものではない。例えば、プロの格闘家、特にレスラーを見ると、鍛錬の結果、ものすごい健康を維持しているようにも見えます。彼らが頑丈な体を持ち、健康なのは鍛錬の結果だろう。要するに健康とは、色々な条件、自然の法則を実践して初めて得られる面もあります。
ここでは詳しくは触れないですが、SDAが推奨する、単純な、最も基本的な健康の原則があります。「全て適度な」という言葉が頭に付くが、日光、水、空気、菜食中心の食事、運動、睡眠、休養(レクレーション)、神に対する信頼等です。
極端な話をすれば、ヘビースモーカーが肺癌になって、タバコを喫いながら、医者にかかっていたら、医者は何と言うだろう。まずタバコを止めるように言うのは間違いない。健康になりたかったら、まず健康を害した、根本原因である、生活習慣を改めなければならない。『殺してはならない。』の戒めは、自分の身体にも、あてはめて行かなければならないのです。健康の原則に逸脱していながら、病の癒しのみを神に求めるのは、ルール違反です。まず、健康に悪いと言われるものを捨て、神に癒しを求めるべきです。
病は、人類の始祖アダムが罪を犯さなければ、全体として人間の世界に入ってこなかったはずです。人類全般と言う意味で、罪を犯したから病が入って来たとは言えます。死もそうです。誰でも人類は全員罪人で、『罪が支払う報酬は死』(ローマ6:23)です。罪の結果人間はいつかは死ぬことになっています。
特定の病の原因を、特定の個人の罪の結果として、あてはめて、考えてはいけない。あの人があのようなひどい病気になったのは、よっぽど悪い罪を犯したからだろうと言うことになってしまう。逆に健康で長寿な人は何ら罪を犯さなかったのであろうか?とんでもない、悪人だって健康で長生きする人はいるではないか。無期懲役で服役している囚人でも、健康な人はいるではないか。
このことについての最終的な答えは生まれつきの盲人に対してのイエスと弟子達の会話の中にあります。『弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』(ヨハネ9:2~3)神の業が現れる為だったと言い、イエスはこの盲人の目を癒され、彼は見えるようになり、盲人だった人はイエスの弟子になり、魂も救われた。
何故病になったり、先天的、後天的身体障害者がいるのか?本人、両親、先祖が罪を犯したためか?そうではない。神の救いの業が現れて、神との出会いを果たすためなのだと私は解釈します。実際には神の業としての肉体を癒す奇跡は、現代ではなかなか起きないので、神の業を、魂の救いの方に、重点を移して考えたい。神の業、救いの業、魂の救いが、その人に現れる為であったと考えて行く以外に福音的とらえ方はないのです。
私の知っている、若い頃からクリスチャンであったYさんは、60代になって、国指定の難病ALS(筋萎縮性側索硬化症 )になり、今でも病院で闘病中です。何故彼がそのような不治の病にかかってしまったか、その原因は誰にも分らない。ただ神が奇跡的に癒しを与えて下さるように祈るばかりです。霊肉共にYさんの上に、神の業が現れることを祈り続けて行こう。
聖書の世界では、病は悪霊によって、引き起こされると考えられていた。だからその癒しのためには、悪霊を追い出すような祈りが捧げられた。聾啞者も悪霊を追い出すことによって癒された。『......ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたし(イエス)の命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。......イエスが手を取って起こされると、(その子は)立ち上がった。』(マルコ9:25~27)
当時は加持祈祷はあたり前の世界であった。2,000年前に聖書が書かれたことを思い出して欲しい。日本だって、昔は、病にかかると、神仏にお百度参りをしたり、水垢離をしたりしていたのです。
現代は病の原因は、細菌、ウィルス等の病原体によるものだと分かり、新しい治療方法も研究され、病は医学により、科学的な治療を受けることで治癒されます。しかし医学は万能ではない。不治の病は今でも多数あります。人間が科学によって何でも出来ると思っていたら大間違い。人間は必ず死んで行くのです。どんなに科学が発達しても、不老不死の薬は発明されそうにない。神がそのようにお定めになったからです。『罪の支払う報酬は死です。』(ローマ6:23)。『...お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」』(創世記3:19)
永遠の命は宗教の世界の話です。『イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 』(ヨハネ11:25~26)と約束された。永遠の命はイエスの専権事項なのです。
私は何でこの世に生まれてきて、聖書を読みイエスと出会い、魂の救いとイエスの内に永遠の命と、新しい生き方を発見し、自分の時間と命を削り、ある時には自分の命を捨てる覚悟までして、神の為と人の為に、神の愛と言う重い言葉の中に生きて行かなければならないのか、自問自答することがあります。
私は2024年5月で74歳になります。あとどの位、このような、宗教生活、神に祈り、神を賛美し、神存在のリアルさを体験しつつ、生きることを神はお許しになるのだろうかと考えます。
何年か前に、私が郵便局長在職中に大変お世話になった、会長までなさった先輩の前八王子M町郵便局長が亡くなられた。享年79歳であった。もっと長生きして欲しかったと思う。でも、自分も含めて、いつまでも生きれるわけではない。この間、「長生きしてくださいね」と長男の嫁に言われ、ドキッとした。私もいつの間にか、そんな風に言われる歳になっていたのです。もし、キリストを信じることによって、永遠の命が得られることが、聖書が言っているように、本当のことだとしたら(私は本当だと信じているが)、人生は、年齢に関係なく、いつまでも有意義なものになって行くだろう。今、私の出来ることは、聖書の言葉は真実であり、神が約束なさったことは、必ず実現すると信じて、永遠の希望をもって、毎日を、祈りと、聖書の学びとを怠らずに、歩んで行くだけです。
さて、ヨハネによる福音書5章で避けて通れないのは、安息日問題です。
安息日問題について、ここではあまり深く掘り下げて触れることは省略するが、詳しくは、私のホームページhttps://ktanaka33014.wixsite.com/website を開け(リンク有)、右端上のブログをクリック、その中の⑤Q,安息日についてを参照されたい。安息日は天地創造の記念日であり、神が天地、動植物、人間を創造された後、休まれた日であり、その日は今の土曜日、正確には金曜日日没から土曜日日没までを、何の業をもしてはならないと言う十戒の第4条の規定に従って守らなければならない日です。
ユダヤ人の安息日遵守は、文字面に拘泥し、凝り固まった解釈によるものであった。人を癒すのも、床を取り上げて担いで歩くのも仕事であるからしてはらないことだった。
イエスは、天地創造前の、永遠の昔から、父なる神と共に存在し、イエスによって、万物は造られた(コロサイ1:15~17、ヘブル1:2~3参照)。だからイエスは安息日の制定者でもあります。そのイエスが病人を癒し、床を取り上げて担いで歩けと言われたのだから、イエスの理解の方が正しいのに、ユダヤ人達はそれが分からなかった。彼らは間違った安息日理解をしていた。間違った守り方をしていたのです。『このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。』(ヨハネ 5:18)イエスは安息日を破られたと書いてあるが、安息日に、正当なことをしただけであって、安息日そのものを否定し、破られたわけではない。安息日に善いことをすることは善いことであり、安息日は安息日のためにあるのではなく、人のためにあり、人を幸せにするためにあり、イエスは安息日の主である。
『そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」 』(マルコ2:27~28 )
もし文字に拘り、安息日に『なんのわざをもしてはならない。』(出エジプト20:10口語訳)のであるならば、食事もできないし、歩くことも、朝起きることすら出来ないではないか。太陽もその日だけは光り輝くことを止め、地球もその日だけは自転を止めなければならない。ユダヤ人達はを病人を癒したイエスを安息日だからと言って、咎めだてして、表面を見て裁いていた。しかし彼らは、安息日に、羊や牛に水や餌をやり、さらに羊が穴に落ちれば、助け出していた。人間と羊とどちらが大事なのだろうか。安息日に、病人を癒したり、人の為に良いことをしても、それは罪にはならないのです。
天地創造時6日で神は地上のすべてのものをお造りになり、7日目に休まれたとあります(創世記2:1~3参照)。神はお疲れになったから一休みしたのであろうか?笑止千万です。神は疲れることなどない、お休みになる必要はない。神は常に、不眠不休で働いておられる(人間的な言い方であるが)。安息日はもともと人間のために定められた戒めです。それは人間が疲れるので、休息を与えるためだったのか。現代はそういう意味もあるだろうが、そもそも安息日の戒めは、アダムの堕罪前に制定された。つまり、罪の結果人間が疲れるなどなかった時期に定められたのです。
では安息日は本来何のために定められたのか。それは自分達の創造された事を神に、感謝し、賛美を捧げる日として制定された。すなわち礼拝のために定められたのです。『祝福し、聖別された。』(創世記2:3)。つまり神を賛美し、礼拝するための聖なる日として、他の日とは区別して、祝福し、聖別されたのです。ただ仕事を休み、肉体を休養させる日ではない。もちろん、堕罪後は、肉体が弱くなって行ったので、仕事をすれば疲れるようになり、休養を取る意味も出て来ました。
新約聖書に入って、イエスの贖罪が成し遂げられ、イエスの十字架によって罪赦され、魂の救いを味わった者が、真に神の前に魂の安息、救いの安息と平和を味わう日との意味が加わったと私は考えます。天地創造の記念日として創造の神を賛美すると同時に、安息日を真の意味で魂の救済の安息とすることが出来ます。魂が救われたものだけが神と和解し、真の救いの安息に入ることが出来るのです。創造と、贖罪と二重の意味を安息日の中に見出すことが出来ます。
『それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。なぜなら、神の安息(魂の救いの安息)にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。』(ヘブル4:9~10)
ユダヤ人達は、イエスが神を、自分の父と呼び、父の御旨を行うために地上に来たと主張していたことに対しても憤慨していた。彼らにとって、神は聖なる至高の存在です。イエスは神を父と呼んで、自分を神と等しい存在としていたから、殺そうとしたのです。ユダヤ人にとって、神は超絶者であり、絶対者、全知全能であります。彼らの理解では、神は決して人間の形をとることなどあり得なかったのです。
十戒は、人類が守らなければならない、普遍の道徳律であり、これは変更することが出来ないと言うのが、SDAの立場です。もちろんこの本筋は認めつつも、私には大いに異論があります。余りにも、生まれつきの自己意志や、その後の教育や、自分の肉の能力、人間が獲得した自己鍛錬で、十戒の文字面に拘り、安息日遵守やその他の戒めのために、人間的な、肉の努力を重ねているSDA信徒が多いからです。実は私自身が若い頃そうだったので、そのことは痛いほど分かっています。
まず、私のホームページ、パウロ書簡の研究、ローマ書8章で記述したように、パウロは律法を否定しているのではない。むしろ律法を人間の生まれつきの肉の力で実行しようとする愚かさを指摘しているのです。このことをパウロは律法の下にいると言う表現で表わしている。肉の努力のみで、律法を守ることに汲々としている、救いの喜びのない人間の状態を、律法の下にいると言っているのです。
もしSDAの教えが、肉の努力によって表面的な十戒遵守のみにこだわっていくような人間を作り出すとすれば、これは大変なことで、もう一度福音の原点に戻って、自分の信仰のとらえ方を、真剣に反省しなければならない。肉の努力で神を喜ばせようとしているのでしょうか、それとも恵みの内に、キリストの霊のもとにとどまって、霊によって生きようとしているのでしょうか。
パウロは律法を守るとか守らないとか言う前に、まず自分の生まれ変わっていない肉の総てを十字架で、キリストの肉と共に、処断してしまいなさいと言っているのです。
『従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。』 (ローマ8:1~4)
どうして私の肉の性質そのものが、キリストの裂かれた、聖なる肉体と共に、十字架上で共に破壊され、処断されてしまうことになるのかは分からない。どうして、そのようなことになるのかは、信仰の神秘と言って説明するしかないのです。神の御言葉がそのようになったことを宣告し、私達はそのことを信仰によってつかみ取り、法則の中に自分を委ねることしかない。これは法則でですからそのように信じて行くとき、そのようになって行くと言うことしかない。
神に生きるため、自分の肉は、律法(十戒)に対しては、律法によって死んでしまった。『わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。』(ガラテヤ2:19)
もし、生まれ変わっていない肉の努力のみで、律法を守って救われるのだったら、キリストの十字架は、必要ない。『わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。』 (ガラテヤ2:21)
霊によって、生きる決心をしよう。律法に無意識的に縛られ、自分の肉の努力でその要求を満たそうとしている自分に気付き、『しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、"霊"に従う新しい生き方で仕え』(ローマ7:6)て行きましょう。
キリスト者の自由を持って、御霊によって歩もう。『キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。』(ガラテヤ5:24~25) 肉の努力的なものを全部一度十字架に付けてしまおう。律法の要求は、あまりにも完全で、それは神の御品性を私達に求めているものです。私達の肉を死なせてしまうしか方法はないのです。私達は律法から解放されています、もう私達を縛り付けている、この鉄のような鎖から、縄目が解き放たれて解放されているのです。
それは何故ですか、私達の肉が律法の前で死んでしまったからです。むしろ私が死なせたのではなく、キリストがご自分の肉を破壊することによって、私達の肉も共に十字架につけられて処断されてしまったからです。『この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。』(ガラテヤ5:1)
何度も書いてきたが、聖書の教えの目的は、神と人に対する愛の実行です。究極的に突き詰めれば、神と人のために自分の時間を削り、時には命までも捨てる覚悟で生きて行きなさい、と言うことです。誤解してはいけないのはこのようなことを肉の生まれ変わらない努力でしなさいと言うのではありません。人間は皆自分のことしか考えていない利己的な存在なのです。神が働きかけて善い思いを与え、力を下されなければ、自分の内に、肉の中には善なる力はありません。
自分の生まれつきの肉とは何か、それはキリストによって変えられていない自分自身です。最も根源的な罪とは何か?それは神を自分の人生から排除し、自分の力だけで生きて行けると考えることです。神を認めず、寄り頼もうとせず、自己中心に、自分だけが自分の主人、王様になって生きて行くことです。自分だけが正義の塊であり、自己を防衛し、自分だけは生き残りたいと言う本能のようなものが生まれながらに、身についてしまっているのです。ですから、ただ御霊によって、天からキリストの霊を祈りのうちにいただき、キリストと一体となり、常に心の中に霊のキリストをお宿ししながら、生きて行きなさいと言うことなのです。キリストと一体となるしか、そのような生き方は出来ません。
律法の文字面を誤解したり、曲解したりして解釈し、人を裁かないないようにしよう。霊によって生きるとは、律法の下ではなく恵みの下にいることです。すなわちキリストの内に生きること、復活なさり、聖霊によって私達の心の中にリアルに生きておられるキリストの下に、生き続けることです。
田中清二は神に対して真摯に生きて行きたいのです。52年前にバプテスマを受け、私の霊は常に、神に対して生きたいと思ってきました。しかし私の肉がそれを妨げてきたのです。神に対して生きるため律法に対しては律法に死ぬしかないのです。律法を自分の生まれつきの、肉の力で守ろうとすることなどできないのです、そのことをまず認めましょう。
『律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。』(ガラテヤ5:4)
アダムが罪を犯して以来、罪の性質は、生まれながらに、全人類に遺伝しており、私達は『生まれながらの怒りの子』(エペソ2:3口語訳)であり、律法によって、自分の肉を死なしてしまうしかありません。命をもたらすべき神の律法が、残念ながら私達の肉があまりにも弱いために死をもたらすことになるのです。『そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。』 (ローマ7:10)
ではパウロは律法は消滅したから、守る必要はないと言っているのでしょうか。実はそうではないのです。ここに、パウロのパラドックスがあるのです。聖書は良く読まなければ、誤解してしまいます。
霊的に新生され、御霊に満たされたクリスチャンは、むしろキリストの律法の中にいるのです。『律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。』 (コリント第一9:21口語訳)
エペソ書にパウロの律法解釈が改めて記載されています。エペソ4:25~6:9を是非一度読んで下さい。これがパウロの霊的な意味での十戒の5条~10条までの解釈であることが分かります。敢えてそのことが悟られないようにでしょうか、順序は見事にバラバラにされていますが。
その一連の記述の中で『「父と母を敬いなさい」』(エペソ6:2)と言う十戒の一節が明確に引用されています。この言葉が引用されていると言うことは、エペソの4:25~6:9まで解説をしている時に、パウロの頭の中に十戒があったことは明らかです。人に対する第5条の戒めがあると言うことは、当然第6条から第10条も生きていることになります。
さらにヘブル書の中に救いの安息、キリストの十字架の贖いによって罪を赦されたものは、魂の安息に入っており、真の安息、救いの平安を得ることが出来る。そのような安息を持って真の意味で安息日を守ろうと勧められている。『こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息(救いの安息)にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。』 (ヘブル4:9~10口語訳)。新約聖書のここに、十戒の第4条が記されていると言うことは、神に対する義務を定めた第1条~第3条も含めて、生きていることになります。
ところで十戒は重要な方から書かれていることをご存じであろうか。
『父と母を敬いなさい。』は、人間社会の根本を指している。社会福祉の発達していない当時において、老いた両親の扶養義務、奴隷が主人を敬うこと、主人は奴隷を大事にすること等をも含んでいたと考えられる。人に対する戒めとして第一番目に来るべきものであった。
次には、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽るな、貪るなと続く。殺すことは、姦淫するなよりも重い。盗みは嘘つくことよりも重大犯罪である。偽るなは9番目だからかなり後方に位置している(これは軽い罪であるから、嘘をついても良いと私が言っているのではない)。最後に貪るな、人の物をやたら欲しがってはいけない。貪欲を戒めた掟です。
さらに神に対する人間の義務に対する規定を見てみる。一番重要なのは第1条です。天地創造の神、聖書の神のみを唯一の神としなさい。他の神があってはならない。第2条は拝み方の問題です。偶像崇拝の禁止、形あるもの、刻んだ像を造ることも禁じられています。第3条は神の名をみだりに唱えない。神の名の尊厳について言っています。神に対する最後の戒めの第4条は、天地創造の記念日として、第7日目安息日遵守を規定しています。
私は何のためにこんなことを書き始めたのだろうか。つまり神に対する拝み方等を定めた第1条~第4条も、人間同士の愛の方向性を定めた第5条~第10条も、総て重要なものから順番に定められていると言うことです。下位に位置するものだからと言って無視して良いと言うわけではない。しかし第7日目安息日遵守が神に対する義務のうち一番最後に来ているのは、私にとっては、新しい驚きなのです。
『「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」』(マタイ5:17~20 )
これはキリストご自身が語られた正に神の言葉であるので、非常に重いものだと思っている。もちろんキリスト独特の誇張表現があると見なければならない。例えば、この文脈でマタイによる福音書5章を読み進でいくと、『姦淫するな』(同5:27)のイエスの解説に、情欲をもって女を見る者は目をえぐりだして捨ててしまいなさいとあるが、実際そんなことをした人はいないので、誇張表現と考えられる。そのくらいの気持ちで姦淫してはならないの戒めを守りなさいの意味であろう。
同時に私達の義が、律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、決して天の国に入ることができないと言う表現も、また律法の文字から一点一画も消え去ることはないと言う表現も、誇張表現であると解釈できる。
しかし、良く考えれば天国に入れる資格は、ただ一つです。それは100%のキリストの義を信仰によって受けることによってのみです。
神はキリストの完全な義の生涯、まったく罪のないお姿を、信仰によてそれを受けた私達に対して、適用して下さるのです。ファリサイ派の人々の偽善な義の行いなどに優っていなければ、天国には入れない。至極もっともなキリストの言葉です。
ただこの文脈で私が読者に問いたいのは、この小さな戒めは何を指すのかと言うことだ。『これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。』(マタイ5:19)
この小さな戒めを一つでも破り、またそのように教える者は実は天国に入れないと書いていない。天国で最も小さい者と呼ばれると書いてある。
小さな戒めなど守る必要がないなどと困った教えをする人の救いは、どうなるのか。良く読むと実はその人も天国には入っているのだ。
私が何を言いたいかはこの私が書いてきた文脈から読み取って欲しい。SDA信徒としてこれ以上の記述は避けたいと思っている。ただ聖書は良く読めば、たくさんの金の鉱脈を発見することが出来ることを改めて言っておきたい。
蒸し返すようだが、イエスが決して廃されないと言われたこの小さな戒めが、何を指すのかはいくつかの可能性がある。割礼であったと解釈すると少し無理がある。『すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。』
と書かれていることから、これは恒久的な掟である。
割礼の掟は『見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。』( ガラテヤ5:2)とハッキリ廃されたことが書かれており、天地が消え去るまで続くようなものではない。
また、犠牲制度の儀式や礼典、過ぎ越しの祭、仮庵の祭、新月等の諸々の祭り、食物の禁忌規定、ユダヤ人らしく送るための生活様式等を定めた礼典律は既に現代においては廃されてしまっている。(コロサイ2:14参照)
『天地が消えうせるまで、』の表現は世の終わり、再臨、新天新地が実現することを、暗に指していると受け取れる。
『天地が消えうせるまで』続く、こんな表現が適用される掟は、十戒以外に考えられない。また、誤解のないように、念を押しておくが、ここで、小さな戒めなど守る必要がないなどとイエスが言っているのではなく、むしろその逆である、厳重に守りなさいの意味です。
ただ、この小さな戒めを一つでも破り、またそのように教える者は天国に入れないと書いていない。天国で最も小さい者と呼ばれると書いてあり、天国に入れるのです。そのことが私の新発見であり、驚きです。
さて、誤解した解釈から既にこのような状況が出来つつあった。『このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。』 (ヨハネ5:18)
ユダヤ人達はイエスを表面的な律法解釈で裁くのではなく、その38年間も病の床にあった人を、『「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」 』(同5:8)と、権威ある言葉でお命じになるだけで癒された、その驚くべき奇跡の業に感謝すべきではなかったか。
何故彼らは、奇跡を賛美するのではなく、イエスは安息日に病を癒し、床を担いで歩けと言うことによって、安息日の掟を破ったのだと考えたのか。イエスを殺してしまおうなどと考えるに至ったか。それは、その間違った宗教理解の頑迷さにあります。安息日に人を癒すと言う善いことをしたイエスを、安息日を破った(彼らがそう考えただけでイエスは安息日を破ってはいない)と裁きながら、『殺してはならない。』の別の戒めを、平気で犯すようになってしまったことに、彼らは気が付いてもいない。その頑迷さには驚くばかりです。
また、イエスは安息日を破ったのではなく、安息日に人のために善いことをすることは、神の御旨であった。キリストは、38年間病に伏せっていた人を奇跡によって癒したのに、ユダヤ人達の表面的な律法解釈によって裁かれたのです。
安息日に仕事を休むことは、魂の安息に入るために必要なことです。理論上は仕事をしながら、心の中では神との霊の交わりを喜び、魂の救われていることを賛美し、神の与えられる安息を楽しむことは可能ですが、実際にはこの世の仕事に忙殺されて無理です。
まず、仕事を切り離し、忙しい外側の肉体を休めて、内側の心に平安と魂の安息が訪れるようになるのです。主の救いに触れて、聖霊の喜びに満たされ、内側から主を賛美するのです。
さらに言えば、肉体の外側が病で激痛があるのに、内側の心だけ安息の救いに入るのは困難です。何故なら心と肉体はつながっていて、精神的平安と、病気からくる肉体の痛みを分離することはできないからです。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言って山梨の恵林寺の禅僧 快川紹喜 (かいせん じょうき)は織田信長の軍勢によって逃れてきた人々100名と共に山門の楼閣上に閉じ込められ、火を点けられて焼け死んで行きました。しかし、普通の人間には精神の平安と、肉体の苦痛を完全に分離することなど不可能です。痛いものは痛いし、辛いものは辛いのです。
安息日にまず痛む肉体を癒す(病気の痛みもあろうが、疲れたり、思い煩ったりするような仕事の痛みも含む)、すなわち外側の体に救いの安息を先に与え、同時にまた魂を救って、救いの 安息を心に与えるのが神の法則です。
ですから、肉体を癒し、平安を与える医者の仕事は安息日に働いても罪にはならないのです。人間の外側を癒すのも尊い神の働きの一部です。同様に、魂の救いを与える目的とした牧師の仕事も、神の仕事ですので、安息日に働いても罪にはならないのです。安息日は安息日の為にあるのではなく、人の為に定められました。『人の子(イエス) は安息日の主なのである。」(マタイ12:8)と書いてある通りです。
ヨハネの福音書5章の後半の文脈では、裁きについて言及することになります。裁き主、総ての人間を裁く方はどなたであろうか。人の姿をまとって現れた、子なる神であるイエスが全人類を裁くのです。父なる神は誰一人として人間を裁かない。裁きのことは一切神からキリストにまかせられています。『父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。』(ヨハネ5:22)
死後に、善人も悪人も必ず一度よみがえらされて裁きを受ける日が来ます。しかし、キリストを信じる者は、裁かれることなく、死から永遠の命に移っているのです。『はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。』(ヨハネ5:24)とあります。総ての罪が赦され、よみがえさせられたのち、永遠の命を受けます。
一方信じない者は、御子によって裁かれ、滅びの宣告がなされ、最後は焼き尽くされてしまう。キリストを信ぜず、自分勝手に生き、悪行を働き続けた者には裁きが下り、永遠の火によって焼かれ、やがてその火は消えてしまう。
キリストは何をするにも父なる神に聞いてするのであって、父なる神の御旨のみを行う。自分からは何事もすることが出来ない。ここはイエスの神性と人性に関るところで解説は非常に難しい。イエスは地上にあっては神の御子であるのに、自分を完全に肉体を持った人間の立場でお過ごしになった。人間として、私達と同じ様に天父のお力に頼ることによって、生活された。ご自分の内にある神性を、御自分の為に使うことはなさらなかった。常に父なる神を意識しその方に祈りを捧げ、その方の声を心で聞き、父の命じるとおりに生活し、福音伝道の公生涯を送られた。イエスは自分の神性を用いて自分の為に奇跡をなさならかった。
バプテスマのヨハネは、燃えて輝くともしびとして、ユダヤ人に神の証をした。彼らはしばらくの間、その光を楽しもうとした。しかしイエスの証は、バプテスマのヨハネの証に優っています。イエスの内に父なる神がおられた。人々の救いのために、父がキリストの内におられて証をして下さっているのです。『わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。』(ヨハネ14:10~11)
キリストがなさった偉大な業が、父がキリストの内におられる証拠です。『父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。』 (ヨハネ5:36)
キリストは天地創造前から御父と共におられ、本質的に神でおられたのだから(三位一体)出だしの最初から、普通の私達人間とは違うのです。神学的に言えば、キリストは、世の始まる前、宇宙が造られる前から存在し、この地球に処女マリアを通して、人間の情欲によらず受肉され、この地上に、人間の肉体をとって、神でありながら人間として存在するようになりました。この地上の肉の生活の時でさえ、常に御父のお姿をを見ることが出来、そのお言葉を聞くことが出来ました。何故、ユダヤ人達はこのことを信じないのか。それは人の誉れを受け入れ、神からの誉れを受け入れないからです。つまり地上の栄誉のことばかり考え、真の神から来る栄誉を受けようとしないからです。
『あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。』(ヨハネ5:39)モーセの五書は、モーセが書いたと信じられ、トーラー(律法の書)とも言い、聖書の中で最も神聖な権威あるものとして、昔から考えられてきた。モーセはこの書の中でイエスのことを書いたのです。
イエスがユダヤ人達を、御父の前に訴えるなどと考えてはならない。『あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。』 (同5:45)。モーセの書いたものを信じないユダヤ人達が、聖書が預言された通りにこの世界に来たメシアであるイエスの言うことを聞くはずはないではないか。どうしてイエスの語ることを信じることが出来るだろうか(同5:31~47参照)。