2021/2/13(土)SDA八王子教会礼拝説教原稿
墓の入り口を閉ざす岩 田中 清二
『マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。』(マタイ27:61新共同訳)
マタイ27:56にはイエスの十字架を遠くから見守っていた婦人たちが大勢いて、その中にはマグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子ら(ボアネルゲ雷の子と呼ばれたヤコブ、ヨハネ⦅マルコ3:17参照⦆)の母がいました。 小ヤコブ(イエスの兄弟ヤコブのこと)とヨセの母マリア(マルコ15:40、6:3参照)はイエスの母であり、ゼベダイの子らの母とは姉妹(ヨハネ19:25参照)でありました。ですからイエス、ヤコブ、ヨハネは従兄弟という事になります。(しかし、これには色々な説があり、確定は出来ません)
さて、『マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。』(マタイ27:61新共同訳)とありますが、もう一人のマリアはイエスの母マリアであると私は解釈します。
この時の状況をよく考えて見ましょう。イエスは不当な裁きによって十字架にかけられ、『すべてが終った』(ヨハネ19:30口語訳)と言って、贖罪が成し遂げられました。全地が暗くなったり、地震が起きたり、死者の墓が開かれ、記念として死者が復活したり、様々な不思議なことが、その時に起こりました。さらに、イエスは全人類の罪がイエス自身に負わされ、神から見捨てられたと感じ、『そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。』(マルコ15:34口語訳)と叫ばれるほどの苦しみを味わい、お身体の中で、血漿とリンパ液が分離し、心臓が破裂して死んでしまったと言われています。
十字架に手を釘づけされるのは、とっても痛いですが、致命傷ではありません。ある場合には死ぬまで何日もかかる場合もあるそうです。イエスが十字架に磔になったのは午前9時頃であり(マルコ15:25)、亡くなったのは午後3時頃でした(同15:34)。
イエスが、あまりにも早く、死んでしまったので、本当に死んだか確かめるために、ローマ軍の兵士が脇腹を槍で刺して確かめたほどです。血漿から分離したリンパ液が水のようになって流れたと書かれています(ヨハネ19:34口語訳参照)。ローマ総督ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと、不審に思ったと書かれています(マルコ15:44口語訳)。裕福であり、議員もしていた、イエスの隠れた弟子であった、アリマタヤのヨセフが、勇気を出して、イエスの遺体の引き取りをピラトに願い出て、自分が死んだら入ろうと思って岩を掘って作ってあった、まだ未使用の墓に、綺麗な亜麻布にイエスの遺体を包み葬りました。墓の入り口は、大きな石を転がしておいて、塞いでおきました。(マタイ27:45~60新共同訳参照)
『マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。』(マタイ27:61新共同訳)のです。ローマ軍の兵士も、大勢の群衆も、もはや帰ってしまい誰もいません。皆が墓から去って行ってしまった後、辺りは急に静かになった事でしょう。日も傾き、夕方です。あのゴルゴダの丘での十字架の出来事、日中の喧騒はいったい何だったのでしょうか。大勢の群衆はもう解散し、今は嘘のように静まり返っています。イエスの葬られた墓辺りには、イエスの母マリアとマグダラのマリア以外には、誰もいません。日も沈みかけ、そろそろ安息日が始まろうとしています。
イエスの母マリアと、マグダラのマリアは、イエスが納められた墓の入り口の、大きな岩を見つめて、悲しみに暮れ、そちらを見つめながら、座っています。今日午後3時頃、十字架につけられ、イエスは亡くなってしまいました。何よりも、誰よりも救い主と期待していたイエスが死んでしまい、岩を掘って作ってあった墓の中に、遺体になって横たわっているのです。午後からの出来事にあまりにも疲れ、もう立ってることすらできません、ただただ座って、茫然と、墓を塞いでいる大きな岩を見つめている以外、二人のマリアには方法がありませんでした。
マグダラのマリアがどんな気持ちで、この墓を塞いでいる大きな岩を見つめていたか、考えて見ましょう。マグダラのマリアにとってイエスは自分の人生にとって全ての希望でした。イエスと出会う前は罪の女(ルカ7:37)でした。どんな罪があったかは聖書にはハッキリとは書いてありません。でも7つの悪霊に憑りつかれており、イエスはその権威により、悪を犯させる原因となっている悪霊を追い出されました。(ルカ8:2参照)マグダラのマリアの罪は何だったか、多くの聖書解釈者たちによって、古の昔より議論されてきました。7つの悪霊を、7つの大罪と解釈する人もいました。傲慢・憤怒・嫉妬・怠惰・貪欲・大食・色欲です。
イエスが公生涯を始められた最初の頃、パリサイ人シモンの家をイエスが訪問した時、この町で罪の女と言われていた人が、イエスに泣きながら、後ろから近づいてきて、涙のしずくでイエスの足を濡らし、自分の長い髪の毛でそれをぬぐい、香油を持ってイエスの足を塗りました。(ルカ7:37,38口語訳参照)もしこの女がマグダラのマリアだとすると、イエスの宣教の最初に、香油を持ってイエスの足を塗った事になります。
パリサイ人シモンは、旅で汚れたイエスの足を洗う水を用意してくれませんでした。しかし、マグダラのマリアは涙でイエスの足を拭き、香油を足に塗って、自分の犯した多くの罪を後悔しながらイエスお迎えしたのです。『......この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。......』(ルカ7:47口語訳)一説にはマグダラのマリアは娼婦ではなかったかと言われています。パリサイ人が先に天国に入るのではなく取税人や遊女(娼婦)が先に天国に入る(マタイ21:31口語訳参照)との御言葉は本当の事でした。弟子のうち、レビ・マタイは取税人でした。(ルカ5:27参照)
また、イエスの親しい友の中にラザロ、マルタとマリアの3兄妹がいました。その中の妹マリアがマグダラのマリアであったという説もあります。(ヨハネ11:1~3参照)
もし同じ人物であったとすると、ヨハネ12章に出て来る、有名なナルドの香油を、過ぎ越しの祭り六日前に、イエスの葬りの準備として、イエスに降りかけたマリアは、マグダラのマリアとなります。マグダラのマリアは、イエスの宣教の最初にもパリサイ人シモンの家で香油を足に塗り、イエスがを十字架にかかる週、過ぎ越しの祭りの六日前に、ナルドの香油を頭に注ぎかけ(マタイ26:7新共同訳参照)、葬りの準備をしたことになります。
ナルドの香油はおみなえし科の宿根草から作り、 ナルドの乾燥品は、 漢方の甘松香として、輸入されています。少しかび臭い匂いのするもので、ユダヤでは死者への手向けとして塗られたそうです。マグダラのマリアは、イエスの葬りの準備のためにそれを取って置いたと書かれています。(ヨハネ12:7参照)
そういえばイエスが亡くなった後も、香料 を買いに、マグダラのマリアともう一人のマリアは、安息日が終わってから、土曜日の夜に、買いに行っています。(マルコ16:1,2参照)それを持って、週の初めの日の朝早く、まだ暗いうちに、イエスの身体に香油を塗ろうと墓へ向かって出かけたのです。
物語の時間をもう一度逆戻しにして、『マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。』(マタイ27:61新共同訳)のところに帰って見ましょう。この時点でイエスは息を引き取ってから数時間しかたっていません。未だイエスは復活なさっていません。生前復活するとの預言は、イエス自身がされていましたが、それを聞いた弟子たちは、マリアも含めてまだ目が開かれていませんでしたので、そのことを悟ることはできませんでした。この時点においては、マグダラのマリアは、全ては失われたと思い込んでいました。大きな墓の入り口を塞いでいる岩を見て、マグダラのマリアは、多分途方に暮れ、涙を流し、茫然自失の状態であった事でしょう。イエスの母マリアと共に、遺体が安置されている方向に向かって、しばらく座っていたのではないかと思います。
その時、イエスが、自分にしてくれたたことを、マリアは走馬灯のように思い起こしていたかも知れません。自分が最初にイエスと出会った時、自分のしてきた事の後悔の涙で、イエスの足もとを濡らし、自分の髪の毛でイエスの濡れた足をぬぐった事。『そして、イエスは女に、あなたの罪は赦された」と言われた。......イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。』(ルカ7:48,50新共同訳)思いもかけず優しい、愛の言葉をかけて戴いたこと、そんなことを思い起こしていたのではないでしょうか。
それ以来マグダラのマリアはイエスと、12人の弟子たちが行くところにお供して旅しました。また、多くのイエスにつき従っていた婦人たちがいました。彼女たちは自分たちの持物を持ち寄って、イエスや弟子たちの身の回りの世話をしていたのです。(ルカ8:1~3新共同訳参照)
ラザロ、マルタ、マリアの三兄妹のうちマリアがマグダラのマリアと同一人物であると言う説をとるならば、マグダラのマリアは、ある時はイエスの話に、夢中になって、イエスの膝元で、何もしないで、聞き入ってしまたこともありました。お姉さんマルタに、何故、妹は接待のお手伝いもしないのかと、これ見よがしに、自分とイエスの前で、嫌味を言われたこともあります。(ルカ10:39,40新共同訳参照)そんな時ですら、イエスは優しくマリアを擁護し、『......「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」』(ルカ10:41,42新共同訳)マリアの純粋な、救いを求める心を優しく弁護して下さったのです。そんな様々な出来事が、あるいは墓を見つめるマグダラのマリアの脳裏に、思い出としてよみがえって来ていたかもしれません。
もしイエスの死で、キリスト教が終わってしまったら、今のように全世界にイエスの教えが宣教されることはなかったでしょう。主イエスが十字架にかかった3日後、週の初めの日の朝、天使が、地震と共に、この入り口を塞ぐ岩をごろりと転がし、墓の入り口が開き、復活したイエスが墓から出て来る事になるのです。
この金曜日の夕方、墓の方に向かって、座っていた、マグダラのマリアが何を考えていたか、実際の所は分かりません。しかし、イエスの死ですべてが終わってしまつたと思い、悲しみながら、イエスとの思い出を回想し、いったい今までの私の生きがい、イエスと過ごした時間、いったい何だったんだろう、私はこれからまた一人で生きて行かなければならないのだろうか。そんな風に、思っていたかも知れません。
失意と悲しみの内に、ただイエスが葬られた墓を眺めていただけのマリアに、3日後、イエス・キリストは復活し、一番最初に現れることになります。復活後、最初にお会いになった人間は、イエスの母マリアでもなく、12弟子でもなく、マグダラのマリアだったのです。ヨハネによる福音書には、その時の光景が、鮮やかに描写されています。(ヨハネ20:11~18新共同訳参照)
彼女は、最初、復活したイエスを園丁かと思って気が付きませんでした。しかし、聞き覚えのある声で、イエスが『「マリア」』と呼びかけると、イエスであることが即座に分かり、『「ラボニ(先生)」』(ヨハネ20:16新共同訳)と返事をしました。その時のマリアの気持ちを考えてください。人生最大の失望から、あの自分が愛したイエスが復活し、又生きて今お会いしている。私のすべての希望であった方が、今私の前にお立ちになっている。マリアは思わずひざまづき、イエスのお身体に触れ、足元に縋り付こうとしました。けれども未だイエスは天にお帰りになっていなかったので、『...「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。......。」』(ヨハネ20:17新共同訳)そして、復活したことを、他の弟子たちに伝えるようにお命じになりました。
マリアはイエスの復活なさったお姿にお目にかかり、自分の罪が赦されているばかりでなく、自分もやがて復活出来るし、天国でもう一度イエスに、お会いできる希望を持ったに違いないのです。
言い伝えでは、事実であるかどうかはわかりませんが、マグダラのマリアと、ラザロ、とマルタの3兄妹は、使徒行伝の時代を経て、やがてフランスのマルセイユの近くのサント・マリー・ド・ラ・メール にたどり着き、マグダラのマリアはそこで宣教をなし、多くの人々をキリストに導き、最後の生涯を、サント・ボームの洞窟を住みかとし、一生を忠実なイエスの僕としての生活を送ったと言われています。その遺体はフランスの北東部にある町メッスのサン・マキシマン教会にに保存されており、最近になってその頭蓋骨から、最新のコンピューター技術で、どんな顔であったかが再現されています。しかし、マグダラのマリアの身体と言われるものが、一部の部分も含めて、全世界5か所ほどにあるそうですから、あくまでも伝説だととらえるべきでしょう。
さて、マグダラのマリアが、まだ復活したイエスに出会う前は、イエスの葬られている墓の入り口を塞いでいる、大きな岩を見ながら、全てを失ってしまったと思い込んで、失意のどん底にいました。
私達も、そんな時がないでしょうか。長い信仰生活の中で、いつも活きゝとした信仰を持ち続けられれば一番良い事なのですが、バプテスマを受け信者になったのに、イエスの御姿が、何か遠いものとして、感じられてしまう時もあるのです。イエスの復活されたお姿が、墓の入り口を閉ざしていたような、人生の大きな岩にふさがれて、先が見えなくなってしまうこともあるのです。長い一生の間には、信仰が低迷してしまう時期もあるのです。
私達にとって、復活されたイエスを見えなくしているもの、墓の蓋である大きな岩は何でしょうか。キリストが復活し永遠の命への希望をもたらしました。『死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、』(コリント第一15:42新共同訳)この希望を、見えなくしているもの、遮ってしまうものは、私たちにとって何でしょう?
復活されたイエスキリストを見るのを妨げているものは何か、この大岩は何か。ある人にとっては、この世の生活上の思い煩いかも知れません。仕事や、収入や、子供の教育費等の事で、私達は度々思い煩うのです。この世で生活して行く上での、様々な心配事、この世の思い煩い、経済的な事、仕事の苦しみ、健康の問題、親子の関係の軋轢、病気、趣味、宴楽、泥酔、様々なことがわたしたちを、キリストを見させないように働いています。キリストから私達の心を離すものは何でも、この大きな墓の岩なのです。それがどんなものであれ、『まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。』(マタイ6:33口語訳)の約束の言葉に心をとめましょう。
世の快楽、様々な楽しみが、イエスと私達の間を隔てる大きな岩になっているのです。『この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。』(コリント第二4:4新共同訳)もう、私達を取り巻いている、世の中の煩いを、すべて、心から取り除いて、純粋にイエスを瞑想し、聖霊の臨在を求め、イエスに霊的に満たしていただく、聖霊の満たしの中に憩う、そんな時間を自分なりに持とうじゃありませんか。
今心を静め、もう一度純粋な気持ちになってキリストを求めて行きましょう。イエスこそ私達の、全てなのです。『......このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。』(コリント第一2:30新共同訳)
キリストに再びお会いしたい。もしキリストにお会いできなければ、この短い人生に何の意味があるでしょうか。いつかは人間は死ぬし、皆、誰でも最後の時は平等に訪れるのです。こればっかりは富める者、貧しい者の差はありません。
また、今キリストを受け入れ信じていないで、いつキリストをお迎えできると言うのでしょうか。肉とこの世、世の楽しみを、すべてを否定するわけではありません。『......高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように、』(テモテ第一6:17口語訳)
肉にありながらも(霊と肉は同時に私達の中に存在しているわけですから)(コリント第一15:49新共同訳参照)、キリストの中にキリストの霊を求めて、聖霊の内住と臨在を感じながら、今を生きてまいりましょう。
まずこの世で与えられた、生まれついたこの世の肉の命が、永遠の世界の入り口であることをしっかり認識しましょう。『つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。』(コリント第一15:44新共同訳)肉に蒔かれて、霊の命が誕生するのです。肉の誕生がなくては、霊の誕生もないのです。別の言葉で言い換えれば、肉の命を受けたという事は、永遠の霊の命を受ける可能性としての機会が与えられたという事です。
キリストの十字架の贖いによって、又墓から復活した、復活のキリストに、今心の中で出会う事によって、イエスと私達を隔てている墓の岩の蓋が取り去られます。
この世的には、全てを失ってしまい絶望のどん底にいる人が、今、いるかもしれません。
岩の外で眺めていた2人のマリアがそうでした。その時は、彼女らは悲嘆にくれ、総ての希望を失いかけていました。しかし、やがて、イエスと彼女達を隔てている墓の入り口を塞いでいる大岩は取り除かれるのです。人生味わったこともないほどの失望が、復活されたイエスにお会いした時、一瞬のうちに、大いなる希望に変わっていくのです。
復活されたキリストを、やがて天からおいでになるキリストを、想像し、その方を真剣に、信仰の目をもって見続けましょう。
しかし、もっと根本的なことが私達の霊的な目を曇らせているのではないでしょうか。それは私達が持っている肉の生まれつきの性質なのです。何かうまく行けば驕り高ぶり、少しでも贅沢したい、楽をしたいと考え、自分のためにはどんな労苦もいとわずやるが、人の為にはあまり積極的に行動できない、すぐ面倒臭くなってしまう。こんな私達の性質が、イエスを見えなくしているのかも知れません。
腹が減れば美味しいものを食べたいと思い、また、たまには旅行でも行って、パットお金を使ってみたい、こんな欲は誰でも持っています。『......肉と血とは神の国を継ぐことができない......』(コリント第一15:50新共同訳)良く表現できませんが、イエスを見えなくしている何かは、どうもこの辺にありそうです。私達の生まれつきの肉の性質そのものが、イエスを純粋に見て生きる事を妨げているのではないでしょうか。ではどうしたらいつも十字架にかけられたイエスを、また復活なさったイエスを、希望をもって見続けられるでしょうか。それは十字架と復活の経験を個人的に、霊の体験としていくことにより、わたしたちの生まれつきの性質を、聖霊によって変えていただく以外にはありません。
以下どのようにしたら自分の古い肉の性質が変えられていくか、その秘訣を書きます。
コリント第二3:3~18までをまずよく読んで見てください。
手紙は文字によって内容を伝える手段です。コリントの信者は、パウロに言わせれば、パウロが書いた、パウロの生きる手紙である。(イエスによって変えられた霊に満たされたコリントの信者自身が手紙である)文字は人を殺し、霊は人を生かす。石に刻まれたモーセの十戎の文字は死を宣告する務めだ。これは『......律法によっては、罪の自覚が生じるのみ...』(ローマ3:20口語訳)と同じことを書いた別表現である。要するに、罪を指摘し、罪に定める働きが文字の働きである。もはや、イエスを信じ、恵の下にある信者は、そのような律法の下、養育掛的用法の下にはいない。主を仰ぎ見るとき、恵の下に、霊の自由な中にいて、キリスト者の自由を味わうことが出来る。今でも会堂で、律法の書が読まれるたびに、何か自分の肉の努力で、単に表面的に律法を守る事によって救われるのではないかと言う、律法主義の覆いが会衆の心に被せられ、恵の光を遮ってしまう。律法の下にいないとパウロが言っているのは、私達が生まれつきの、腐敗した肉の力で律法を守るような用法の下にはいないと言っているとも解釈できる。もし肉の力だけで、キリスト無しに律法を守る事だけで救われるのなら、キリストの十字架は必要なくなる。これこそ律法主義である。『...もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。』(ガラテヤ2:21口語訳)
『...主の霊のおられるところに自由があります。』(コリント第二3:17新共同訳)モーセの顔覆いは、私たちから取り去られて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、聖霊の毎日の満たしの中で、イエスにいつも心の中でお会いして、イエスと同じような形に私達は日々変えられていく。これがクリスチャンの生き方だとパウロは言っているのです。
『主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。』(ヨハネ第一3:16口語訳)とイエスに特別に愛されていた弟子ヨハネは言いました。
さらに、イエスは『わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』(ヨハネ15:12,13新共同訳)と言われました。イエスは人類のために命を捨てられました。私達もそれに倣って命を友のために捨てるべきであると言われているのです。
ただ、自分の命を守りたい、全ての時間を自分のために使いたいと言うのは、生きて行くための私たちの内にある自然な防衛本能です。根本的な解決は、自分自身を、この肉の保存本能を含めて、キリストの肉と共に十字架に付け処断してしまわなければ変わることは出来ません。
モーセの蛇を思い出して下さい。旗竿の先に掲げたのは、モーセが作った青銅製の蛇でした。イスラエルの人々が毒蛇に噛まれて苦しんでいた時、モーセがの竿の上に掲げた蛇を、仰ぎ見た人は救われ、毒も無毒化され癒されたという故事があります。(民数記21:5~9)蛇はサタンの象徴であることは間違いありません。掲げられたのが何で蛇だったのか、私は長い間分からなかった。しかしイエスの肉体が滅ぼされる事によって、罪が罪として処断され、サタンが一番罪の誘惑とする入り口であるところの依り代である肉体が破壊された。その誘惑の根本である肉体、依り代としているものが滅ぼされたと考えるなら、何んとなく合点が行くのである。(十字架=釣り針説)
イエスが十字架で、その肉により、罪を罪として処断なさった時、実は私達の肉もこの時キリストと共に処断され、十字架でキリストの肉と共に、私達の肉も破壊された。このように霊的に解釈しましょう。それでないと中々新しい生き方が出来ない。人の生き方が変わっていかない。罪赦され、救われても、いつまでも肉の誘惑に負けながら、弱いクリスチャン生活を続けて行くことになってしまう。私の罪の誘惑の依り代となっていた、古い肉は滅びた。古い肉をまとった、この世の情と、欲と、自我にまみれた自分がキリストと共に十字架につけられ、葬られ、死んでしまったのである。『あなたがたは死んだのであって、.........』(コロサイ3:3)
さらに次の段階で、キリストの復活にあやかり、新しい命、新生された命に、キリストと共に復活(霊的意味での復活)させられたのである。(コロサイ3:1、エペソ2:6参照)古き自分は十字架にかけられ死んでしまい、もはや私が生きるのではなく、私の内に宿っているキリストが生きているのである。現在の私は信仰によって生きているのである。(ガラテヤ2:19,20参照)
既に、古い、我欲に迷っている肉の自分が死んで破壊されているからこそ、友のために命を捨てられるのではないか。
『主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。』(ヨハネ第一3:16口語訳)
『わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』(ヨハネ15:12,13新共同訳)
命は時間に等しい。時間の連続が命を形成している。今瞬間にも命があるが、命を継続して送ることができるのは、時間が継続して持てているからだ。完全に命=時間とは言えない気がするが、仮に、命=時間と考えるならば、友のために命を捨てるとは、友のために自分の時間を少しでも削って行くことではないか。
それは自分の持っている時間を削る事かも知れない。場合によっては、自分の命そのものを差し出せと言われる時が来るのかも知れない。自分にとって唯一の大事なものを本当に私は捨てることが出来るのだろうか。それも肉欲中心に生きている、肉の塊のような人の為に、この世の人、すなわち新生もしていない人の為に、自分の一つしかない命を捨てられるのだろうか。
人間的に言えばそれは自分の力では不可能に近い。稀には強固な意志を持っている人がいて、義の為に、大義の為に、あるいは国家の為に、命を捨てられる人がいるかも知れない。
太平洋戦争の末期、カミカゼとなって国家の為に命を捨てた、日本の若者たちもいたのだから。
でも事自分に関して言えば、正直そんな勇気は持ち合わせていない。自分の残された人生の大事な時間、また命そのものを捨てる事が出来ようか。自分の肉のこの命を、時間も自分の力も、短い残りの人生も、人助けの為に惜しまない、自分の命すら顧みない、本当にそんな生き方が出来るようになるんだろうか?自分の命が一番大事だと思っている、私のような利己的な人間が、そんなことが出来るのだろうか?
キリストにあって、肉が既に滅びているから、肉の命を捨てられる可能性がある。既に十字架で私の肉が、処断され、既になされているから、捨てることが出来ると信じる。キリストの肉が十字架で処断された時、私の肉も共に処断されてしまったと考えることによって、こんな利己的な私も、友の為に命を捨てられるように変えられるかも知れない。既になされているから、捨てることが出来る。友の為、人の為、隣人の為、自分の時間と労力を割くことが出来るように変えられて行くようになる。時間はかかるかも知れないが、やがてそのような生き方が出来るようになって行けると信じる。
『わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』(ヨハネ15:12,13新共同訳)
キリストの掟を守れ、その掟は、キリストが愛した愛し方であなたがたも愛し合うことだ。それは半端な愛し方ではない、キリストは人の為に命を捨てて愛し尽くされた。あなたがたも友のために命を捨てる覚悟で愛せよ。繰り返しになるが実に重いイエスの言葉だ。
こう書いてくるとある方々は思うかも知れない。そのような生き方を選択することは、余りにも重いことで、自分はそのように生きることは出来そうもない。何を隠そう、私も同じである。神の言葉のこの絶対的な価値観に立たされるとき、果たしてそんなことが出来るのだろうかと思って、足がすくんでしまう。
しかしこんなに大きな愛を、今すぐ実現しなさいと言うことではないと私は考える。愛には段階がある。大きい愛もあれば、小さい愛もあるのである。一日に一善、小さな親切を周りの人にしてあげることから始めよう。
私達は俗人であって、聖人ではない。あまり無理すると信仰のつまづきが起きかねない。どだい肉の生まれ変わっていない部分をたくさん持っている人間が、そうやすやすと、聖霊が助けてくれるとは言え、友のために自分の命、命を構成している時間、自分の生活空間、趣味、この世の肉の生き甲斐、価値観等、それらを捨てることが出来ようか。
もしそれらが出来るとすれば、その力は自分にはない。ただキリストが私の中に、聖霊の内住によって、力づけてくださることによるしかない。『わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。』(ヨハネ15:5)と書いてある通りである。
しかし、肉の努力を重ねることによって、私達は、イエスの力に頼らなくても何かが出来るのも事実である。信仰の世界から見ればアンチテーゼを掲げるようであるが、キリストを離れ、肉の教育と訓練の力で、結構大きいことを成し遂げることが出来る。キリストを離れても何かは成し遂げることは出来るのである。キリストを知らなくても、日本人は立派な文化、社会、政治体制を造り上げて来たではないか。この世、肉の力を私達は侮ってはいけない。
しかし、霊に属することは、肉の努力によっては如何ともしがたく、根本的に『わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。』と言われたイエスの言われた通りなのである。
『わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、肉に従って戦っているのではない。』(コリント第二10:3口語訳)
『...もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。』(ローマ8:13口語訳)