命を与える神の言葉 Ⅱ

   命を与える神の言葉 Ⅱ

 十字架の上で、キリストがその肉体を裂かれた時、私達の肉体も共に一緒になって処断されたことこそが最も大事な肉の処遇です。  

 『肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。』(ローマ8:3~4)

 キリストは罪を処断するために、肉の姿をおとりになり、ご自分の肉(無罪性の)を十字架におつけになり、その肉において罪を滅ぼされました。と同時にそのことは、私たち自身の肉(有罪性の)もキリストと共に既に十字架についたことを意味するのです。

 『わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだ(古き私が既に死んだことにされている、肉の力で律法を守ろうとしていた私が既に死んだことにされている)のです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。(既に)』(ガラテヤ2:19) 律法は神の御性質なので死ぬことは出来ません。結局律法に相対して行くとき、古き肉の自分が死ぬしか方法はないのです。勘違いしてはいけないのは、自分の力や、激しい修行の努力で死ぬのではありません。キリストの死を共に身に負って、既に死んでいることを認識するのです。

 『キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。(既に)』 (同5:24)

 私達の肉的なもの全て、生まれつきの能力や、才能、感性、後天的に習得したスキル、体力等も含めて、実は一度イエスの身体と共に、十字架につけて行かなければならないのです。善悪のことを言っているのではありません。肉が善であろうと悪であろうと、そのようなことを言っているのではありません。霊から離れた肉は、役に立たないのです。役に立たないどころか、もし肉で、神の働きをするなら、弊害となってしまいます。『わたし(の生まれ変わっていない肉の性質)は、キリストと共に十字架につけられ』なければなりません。 

 アダムにあってすべての人は、罪人と生まれつきされていることを認めよう。このことについて、神学的には下記の①と②の考え方があります。

 ①人間は生まれつきの罪はない。まったく与えられた自由意思で、個人の責任で罪を犯すから罪人となる。その意味で罪の原因は、環境でもなく、遺伝でもない。一人の本来正しい、自由人として生まれた人間が、自らの意思で、自己責任で罪を選び取り、実行するから罪人となる。

 ②しかし、本当に人間は環境や、生まれもった個人の遺伝的弱さに影響されないのであろうか。貧しい者がその貧しさのゆえに、盗みを働く可能性はある。性の欲望に遺伝的に激しく憑りつかれた人間が特異的にいて、性犯罪を犯す可能性がある。

 こうは言うものの、犯罪をすべて遺伝的弱さのせいにすべきではない。弱さを持っていても、個人の責任で、自由意思の選択をし、イエスの恵みによって正しい方を選び取ることは出来る。しかし、いつも正しい選択ができるだろうか。そこには分かっていても出来ない人間の弱さがある。第一のアダムにあって様々な罪の性質を生まれつき受け継いでいるから、自由意思を誤用して行き、結果的に罪を犯し、罪人となって行くのではないか。

この二つの考え方は、いまだに議論が絶えないところがあります。神学的立場を大きく左右する問題です。私もあるときは①の考えを取ったり、また別の時には②の考えに魅かれたり、中々迷うこともあります。

 今の私は私は後者②の立場をとる。私達全員が、第一のアダム以来罪を犯し続けたゆえの遺伝的な罪の傾向を性格として受け継ぎ、人間は大なり小なり『生れながらの怒りの子』(エペソ2:3口語訳)であり、罪の支配下の中に生活しているのです。総ての人間は、第一のアダムと共に数えられ、生まれながらに罪人です。

 このことの聖書が展開する論法を紹介しておこう。進化論者には奇妙な論理と思われるかも知れないが。

 イエスがユダ族の出身であるのに、レビ族しかなれなかった大祭司(ヘブル8:1)に何故なれることが出来たかと言う大きな疑問が当時のヘブル人(ユダヤ人)の間にあった。創世記にはアブラハム、イサク、ヤコブと信仰の祖が続き、ヤコブから12人の男の子が産まれ、それぞれがイスラエルの12部族となって行く。そのうちレビ族が、祭司職を専門に受け継ぎ、他の11部族は産物のすべての十分の一をレビ族に捧げてその生活を支えた。

 サレムの王、神に仕える大祭司でメルキゼデクと言う、父もなく、母もなく、系図もない、イエスの化身のような存在が突然アブラハムの前に現れる。メルキゼデクはイエスの形を変えた顕現ではなく、実際に存在したサレムの王と言う説もある。その説を採るとしても、イエスの予型であり、イエスを表していたと考えられる。 アブラハムは自分の持ち物の十分の一をメルキゼデクに捧げた。

 さてレビはアブラハムのひ孫であるが、この時レビはアブラハムの腰にあってメルキゼデクに十分の一を捧げた(ヘブル7:9,10参照)と聖書は解説している。ひ孫であり当然産まれていなかったレビは、アブラハムの腰の中にあってメルキゼデクに十分の一 を捧げていると聖書は主張している。メルキゼデクはイエスの予型 と考えられるので、 イエスはレビによて仕えらていることになり、レビ族の出身でなくても大祭司になれる。(ヘブル7:1~21参照)

 さらにこの論法で行けば、実は神学的には大きな問題がここから定義される。全人類はアダムの腰の中にいたことになる。変な言い方であるが、81億人の人間はアダムの細胞分裂によって、生物学的には存在すると考えることができる。すべての人はアダムとエバから生まれて、その子孫であるから、アダムが罪を犯した時、全人類はアダムの腰の中にあって罪を犯したことになる。レビが産まれてもいないのに、アブラハムの腰の中にあって、メルキゼデク(イエスの予型 )に十分の一を捧げたように。だから、総ての人間は、第一のアダムと共に数えられ、生まれながらに罪人です。 

 しかし、第二のアダムであるキリストには罪がなかった。『その口には偽りがなかった』(イザヤ53:9口語訳)とある。無垢であるキリストが罪のない生涯をお送りになって、第二のアダムとなってくださった。第一のアダムは罪と死の支配に服した型であり、キリストは人類のもう一方の義と永遠の命の型である。キリストは第二のアダムとして、第一のアダムがやってしまった総ての失敗を克服し、また復活することによって罪とその結果である死に勝利した。

 そして、イエスを信じ受け入れ、イエスの支配下に入る人々は、イエスの行ったすべての生涯、良い業の特典がその上に被せられる。第二のアダムであるイエスの支配下に入った者は、イエスの新しい力、復活されたイエスの聖霊の影響力の中に組み込まれ復活の力の支配を受け、その性質すら変えられ、義に支配されるようになる。

 『しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪(アダム)によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。』(ローマ5:15)

     肉と霊の戦いは、単に人間の現行罪にとどまらず(現行罪も含まれますが)本質的には肉の支配下にあるか、霊(キリスト)の支配下にあるかの問題です。ただし、第一のアダムによる罪と死の支配は、生物学的、遺伝的であり、自動的でこの支配から逃れられる人間は一人もいない。しかし、第二のアダム(イエス)による義と恵の支配は、信仰によって受けなければならない。キリストによる、義と愛と恵の回復は、聖霊による感化と十字架による贖罪、キリストが心の中に生き、存在し、そのことを信じる信仰によってしか成されない。

 どちらの姿が優先して行くのか、言うまでもない。アダムにあって罪の支配の中にあった者を、キリストは義の支配の下に呼び起こし、義の支配に入れてしまうがある。第一のアダムの罪と死の支配より、第二のアダムの義と恵み、愛、そして復活の命の支配の方がなおさら』優先して私達に働くのです。

 『こうして、......恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。』 (ローマ5:21)恵みによって、御霊の支配下の中で、このような生き方が出来る。まったく違った、生き方が出来る可能性があるのです。私はこのような生涯をこれから歩みたいし、歩まなければならない。

 さらに、イエスが第二のアダムとして、全人類の長子として、その代表として復活したとき、復活の力の支配の時代へと、画期的に変化したと言えよう。いまだ肉の力や堕罪の影響力は確かにあるし、大きい。巷では殺人、姦淫、強盗等が横行し、泥酔、宴楽、刹那的な娯楽等に耽り、罪が何か、偉大なこと、誇るべきことのように取り上げられています。しかし、そのような中にあっても、イエスの復活を信じる者にとっては、時代は、画期的な復活の力の支配の中に入っているのです。イエスが復活した時、恵みによって義が支配する段階に入ったのです。『こうして、......恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。』 (ローマ5:21)この聖句の意味するところを深く体験して行こう。これからの私の余生は、その為にあるのだと言っても過言ではない。


 さて、祈りの中に最初に心の中に思い浮かぶ神の言葉があります。それは『「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実』と言うガラテヤ4:6の言葉です。私はこの御言葉に触発され、「天のお父様(アッバ)」と叫ぶ霊、キリストの霊を求めます。私と共に読者の皆さんも『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を受けるよう祈ろう。

 『この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。』 (ローマ8:15)

 『あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。』 (ガラテヤ4:6)

 その霊はすでに来ています。と言うのはこの心の中の奇跡を事実だと言っているからです。それは信じて求める者にとって、信仰の事実なのです。決してあやふやな、捉えどころのないような不確定なものではなくて、キリストの霊が共にいることは、信じる者にとって既に信仰の事実となっているのです。

 私は最近この短い御言葉アッバ、父よ』(尊敬と親しみを込めて、天のお父様と呼ぶ)の中に、福音のすべてが凝縮して入っているような気がしてならない。言葉でうまく説明できないが、こう呼べることが、信仰のすべての土台であり、始まりなのです。この霊をいただかなければ信仰は始まらないし、この霊によって、初めて私達は真に生きる者とされます。

 肉の命、生まれつきの命も大事です、その果たす分があります。しかしそれだけでは真に生きているとは言えない。どんなに道徳的に高潔に生きている方でも、それは肉を磨き、精進しているに過ぎない。もちろん、そのような高潔な生き方は人々から称賛され、あるいは神も公平に評価され、その方の良心が律法の生き方を実践したとして、天国への救いの道が開かれるかも知れない。しかしそのような神を知らない異邦人が救いに至る精進を重ねたとしても、彼は決して自分の行いを誇るまい。むしろ自分の至らなさ罪深さを反省して、謙遜な人格を形成して行くだろう。これはどこかクリスチャンが最も大事な事として実践している悔い改めに似ていないだろうか。異邦人も、謙遜に自己の行いを反省し、神を知らないかも知れないが、悔い改めによって救われると私は思う。クリスチャンも異邦人も救いの方法は同じでなければおかしいだろう。

すべての人類は異邦人もクリスチャンも第一のアダムにある支配、罪と死の支配を免れることは出来ない。しかし、『アッバ、父よ』と叫ぶ、御子の霊をいただく時、私達は本当に生きる者となります。

 キリストの霊を持たなければキリストのものではない。『神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。 』(ローマ8:9)。ここが始まりです。主を信じる総ての人は、キリストの十字架と復活を、個人的に自分のものとして体験する事により、キリストのものとなり、キリストが心の中に住んでいます。

 『キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。』(コロサイ3:11)と書いてある通りです。

 『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、さらに上より求めて行こう。これが信仰の土台であり、始まりです。

 『「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。 』(ヤコブ4:5~8)と書いてあるのです。

 私達にはキリストの霊が宿っており、自分の霊とキリストの霊が共に協力して、世人に、神の証をするように召されています。(ローマ8:15~16参照)

 

 イエスの名はヘブル語でヨシュアיְהוֹשֻׁעַ‎ (イェホーシュア)・イェシュアיֵשׁוּעַ‎ (イェーシュア)、原語での意味は、ヤーウェは救いの意味。ギリシャ語のイエスースからきている。(Ίησοῦς) 

 キリストの名はヘブル語でメシアמָשִׁיחַ、原語での意味は油(聖霊)注がれた者 、メシア-救世主を表す。ギリシャ語ではクリストース(Χριστός)。 


聖書におけるメシア(Messiah)とは、ヘブライ語で「聖油を注がれた者」を意味し、救世主を指します。ギリシャ語では「クリストス(キリスト)」に訳され、新約聖書ではイエス・キリストを指します。‐AI による概要


改めて次に、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を引用。メシアは、ヘブライ語のマシアハ(מָשִׁיחַ māšîaḥ)に由来し、「(油[注釈 1]を)注がれた者」の意。

出エジプト記には祭司が[1]、サムエル記下には王が[2]、その就任の際に油を塗られたことが書かれている。後にそれは理想的な統治をする為政者を意味するようになり、さらに神的な救済者を指すようになった。

ヘブライ語マシアハがギリシャ語にはいってメシアス(μεσσίας)となった。日本語のメシアはメシアスに由来する。メサイアは同じ語に由来する英語。


イエスつまりヤーウェは救いであると、キリストつまり油(聖霊)注がれた者の姓名の中に、総ての救いの要素が、ここにもまた含まれているように、私には思われます。

 『わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。』(使徒行伝4:12口語訳)。天下のだれにも与えられていないこの名前によって祈るとき、霊的な祝福の豊かさを、この世においても味わうことができます。必要なら天が開けて、物質的なものも備えて下さるはずです。『どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。』 (ローマ8:32口語訳)とあります。 

 ①イエスース...ヤーウェは救いである。この神の救いの奥義によって私達は皆救われ、罪赦されて行くのです。

 ②クリストース...油注がれた者。罪赦された者は変えられていく、何によってか。油(聖霊)注がれた方によって、私達にも聖霊が注がれて行くことによってです。

 ①②の中に救いの要素がすべて集約されているように、私には感じられます。

 

 次に、イエス・キリストの御名によって、聖霊とその霊の与えて下さる賜物を呼び求めよう。聖霊に満たされ、水によるバプテスマだけではなく、聖霊のバプテスマを乞い祈り求めて行こう。聖霊が降る時、聖霊から与えられる種々の賜物が与えられる約束が聖書の中にあります。信じるか信じないかは各自の自由ですが、私はその約束を信じる。賜物には、個人の生まれつきの能力や、才能、また預言や異言、病気を癒す賜物等、奇跡的に天から付与されるものもあります。

 賜物の種類について以下参考にされたいwww.gotquestions.org/Japanese/Japanese-talent-gift.htmlから引用 リンク有

 《その人が神とキリストとを信じているかどうかに関わらず、人には生まれつきの能力が与えられています。それは、遺伝(ある人たちは生まれつき音楽、芸術、数学などの能力があります)と、環境(音楽の得意な家族の中で育った人は音楽の能力が育ちます)と、または神が特定の人物に特定の能力を授けられる(例えば、出エジプト記31:1-6のべツァルエルのように)こととの組み合わせの結果です。霊的な賜物は、人が自分の罪の赦しのためにキリストを信じたときに、聖霊によってすべての信者に与えられるものです(ローマ12:3,6)。その瞬間に、聖霊は新しい信者に、ご自身の望まれる霊的賜物を与えられるのです(Iコリント12:11)。ローマ12:3-8には、次のような霊的賜物があげられています。預言、奉仕(一般的な意味での)、教えること、勧めをすること、分け与えること、指導すること、慈善を行うこと。I コリント12:8-11には、知恵のことば(霊的な知恵を伝える能力)、知識のことば(実際的な真理を伝える能力)、信仰(神への並外れた信頼)、奇蹟を行う力、預言、霊を見分ける力、異言(自分の学んだことのない言語で話す能力)そして異言を解き明かす力があげられています。.みっつめのリストは、エペソ4:10-12にあり、そこでは神がご自身の教会に使徒、預言者、伝道者、牧師また教師を与えられたことが書かれています。リストがみんな違うので、いったい霊的な賜物はいくつあるのかという質問も出てきます。聖書の中にあるリストがすべてではなく、聖書が述べている以外にも霊的賜物がある可能性もあります。》


 私は特に『知恵と啓示との霊』(エペソ1:17)を求めます。それは、自分を含めて、救いにかかわる重要なことだから。もし異なった霊によって、間違った聖書解釈をするなら、自分の救いばかりか、私の文書を読んだ他の人々の救いまでも危うくする恐れがあります。ここは是非とも真理の御霊、聖霊の油によって、導いていただきたい。誰から教えられることではなく、聖霊の油が真理を直接教える約束があるのです。 

 『しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油(聖霊)がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。 』(ヨハネ第一2:27)

 ここで注意をしなければならないのは、自分で考えていることがすべて神の御旨にはかなうと言うわけではなく、必ず聖書の基準に沿って評価し、修正して行かなければならない点です。私は自分の思念を高く評価はしない。時には、その時の体調の悪さや、気分、感情に流されて、この世的な考えに憑りつかれてしまうことだってあります。人間は常に内面に弱さを抱えていることを自覚せねばなりません。この世的な興味に魅かれている環境では、自分の好き嫌い、趣味や趣向に影響されて、考えまでこの世的になり、霊の目が曇りがちになるものです。好きで得意なものは祈りながら、御霊を求めながらドンドンやってしまうけれど、自分の嫌いなもの、心が向かないものは、それが神の御旨だと分かってはいても、中々前へ進んで行かないものです。それが人間の肉の弱さです。

 また、賜物の中で私が特に神に求めるのは癒しの賜物(コリント第一12:9参照)です。この賜物が与えられれば、自分の健康だけでなく、他の人々の健康のために役に立つことが出来ます。しかしそれは神が自由にお与えになる賜物(コリント第一12:11参照)であって、皆が持っているわけではありません。

 『皆が奇跡を行う者であろうか。皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。』(コリント第一12:29~30)。

 

 さらに言えば、義の支配が回復されると言うことは、ただ私達が正しい行いが出来る、何か四角四面の生き方をするようになると言うことではない。キリストにある命の支配が回復されるということなのです。この世にあって、私達の内にキリストの命の支配が始まり、この世にありながらキリストの命が、私達の腹から生ける水となって、流れ出すのです。

 『わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。 』(ヨハネ7:38~39口語訳) イエスの命が、私達自身から溢れ出す経験をすることが出来る。私達から、キリストの命の御霊が、泉となり、命の水となって、他の人々に向かって流れ出す。『わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」』(同4:14) の御言葉が実現して行く。こんな祝福が他にあろうか。

 

 最後に私が常に求めるのは単純なことで、生きて行く力です。イザヤ書40章~41章に書かれているとおり自分の身に起こることを願っています。

 『弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。』(イザヤ40:29口語訳)。

 『恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。』(同41:10口語訳)。 この言葉の約束の、日常生活における実現です。 私は弱いときにこそ強い(コリント第二12:10参照)、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇ろう(同12:9参照)、とパウロは言った。パウロの手紙は力強いが、会ってみると、その話はつまらなく、肉体的にも威風堂々とはしていなかったようです(同10:10参照)。

 私も体力的には非力な、何もできない人間ですが(謙遜ではなくて事実として)、こんな弱い私を生かして下さった神の恵みを感謝したい。今求めるのは日常生活における神の力です。上からの力を受けて、力強く生きて行きたい。話は単純なのです。肉体的にも精神的にも、力強く生きて行きたいのです。そして神は、恵みによって必ずそのようにして下さると確信しています。

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