ヨハネによる福音書2章

     ヨハネによる福音書2章

 『三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。』(ヨハネ2:1~9)

 イエスの最初の奇跡は、カナ村の婚礼の席で行われた。有名な水をぶどう酒に変化させた奇跡です。SDAは、健康のため禁酒禁煙を実行している立場から、これはぶどうジュースであったと信じています。ぶどう酒はいきなりぶどう酒にはならない。最初の造り立ては、みなフレッシュぶどうジュースです。イエスが造りたての、ホヤホヤの奇跡で、水からブドウの実からできたものをお造りになったとすれば、ぶどうジュースであった可能性も否定できない。

 これがぶどう酒であったか、ぶどうジュースであったか、不毛な議論はやめよう。もっと本質的な問題は、イエスが婚礼の席に出られ、それを祝福なさったと言うことです。正当な結婚を祝福なさり、男女の関係を是認なさったということが、むしろここでの、一番の重要なポイントではないでしょうか。付け加えて言えば、この当時の婚礼は、村中総出で行われ、1週間ほど続いたそうです。甕は6個あり1メトレテスは約39ℓであるから、一つの甕に117ℓ入ったことになる。相当な規模の婚宴参加者があったことがこのことからも分かります。そして敢えて言えば、神は物をけちるようなことはなさらず、奇跡を持って豊かに備えて下さると、実物教訓として受け取ることが出来るのです。

 『わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。』(ローマ8:32 )

 さて、結婚は罪であろうか、断じてそうではない。『しかし、あなたが、結婚しても、罪を犯すわけではなく、』(コリント第一7:28)とパウロは言っています。イエスは婚宴の席に出られることによって結婚を承認され、積極的にそれがどんな奇跡であれ奇跡を行って結婚式を祝福されたのです。

 男女関係の始まりは、神の創造の時まで遡る。

 『神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」』(創世記1:27~28)

 この時、神の口から発せられたこの言葉は、今だに、取り消されていないのです。全地にその言葉は行き渡っています。その結果として、アダムとエバから、何と80億人もの人が増え広がっています。『産めよ、増えよ、』の神の言葉は生きていて、全地に行き渡っているのです。その祝福を儀式としてあらわしたのが、結婚式であり、実質が結婚生活です。もし結婚がなかったら自分、この今原稿を書いているこの自分は存在しなかったことになります。今読んでいるあなたも存在しなかったことになります。人類はとっくに絶滅し、いなくなって絶え果てていることになります。イエスは、正当な結婚は神に祝福されたものであり、神の定めた制度であることを、婚宴の席に出られることによって、改めてお示しになったのです。

 結婚、出産、子育て等からたくさんの祝福が生じます。社会制度の基礎となる温かな家庭。夫と妻の関係から生じるお互いの思いやり。夫婦、親子関係、家庭から、人間関係の基本が構成されてきます。しかし結婚も含めて、男女関係と言うことになると、これはとてつもない罪の入り口が待ち構えているのも事実です。最も神によって祝福された制度が、最も人類を痛めつけ不幸にしてしまっているのもまた事実なのです。

 不幸にして結婚に失敗し、暴力夫によるDV、双方、もしくは片方の不倫による契約違反、離婚。それに伴う裁判、ひどい場合には夫が妻を殺し、妻が夫を殺す。子供が親を殺し、親が子供を殺める。母親が自分の幼い子供をマンションの窓から投げ捨てて殺したと、最近のニュースでは報じられていました。児童虐待などの報道は余りに多すぎて記憶に残らないほどです。この日本はいったい、どうなってしまうのかとさえ思います。このように、罪によって大変な害が生じてしまった夫婦・親子・家庭関係ですが、結婚制度そのものは、主に祝福された制度です。正当で、正常な婚姻関係は、誰もが尊重しなければならないのです。しかし、その制度が歪められ、大きな罪悪が生じるきっかけになっていることも、社会の現状を見ると否定できない事実です。

 コリント人への手紙7章に書かれている、パウロの結婚観について、以下記します。

 社会生活をするうえでどうしても出てくるのが、結婚、離婚、再婚の問題であり、これらの件に関して、すべてのパウロの勧告を解くカギは、信仰を続ける上で、プラスになるか、マイナスになるかの価値判断です。これらの問題については信仰を維持することを最優先で考えなさいと言うことなのです。

 できれば心底から、純粋にイエスを信じ続けるためには、一人でいるのが一番良いとパウロは基本的に考えています。イエスの御霊と共に、献身して生涯を過ごす、それも結婚もせず、結婚に伴うこの世の苦労、世の煩いに深入りせず、ただ純粋に、福音のため生きること。このような生き方がパウロの理想とするところです。結婚すれば、それなりの収入が必要になり、子育てや、それに伴い多額の教育費もかかります。日本においては、今の時代に、最低でも大学、出来るならば、その上の大学院と、子供に教育を受けさせてやることは親の義務ではないでしょうか。社会である程度の良い生活を子供にさせてやるためにも、親としての責任があります。このように考えることは余りにもこの世的であり、肉的に過ぎるでしょうか?

 当然、その結果、社会のシステムに深入りすることになります。信仰以外には 何もいらない、ただ聖書を読み祈りに専心し、イエスを信じ求めて行けば良いなどと言ってばかりはおられません。結婚して、子供が産まれれば、仙人のような生活は出来ないのです。社会で立派にやって行くこともクリスチャンとしての証しだとは思いますが、要するに結婚を契機に、大変な重荷を負って生活していかなければならないのは事実です。パウロは出来たらそのような重荷を避けて生活し、純粋に信仰に生きさせたいとの思いで、独身生活を、勧めているのです。

 しかし、人には器と言うものがあり、結婚したい人は結婚するようにも言っています。結婚することは、罪ではありません。『しかし、あなたが、結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではありません。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。』(コリント第一7:28) 結婚は苦労を伴いますが、正しく運用されるならば、神が定めた、祝福された制度です。その基本的な認識は共有いたしましょう。

 『わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。』(同7:7 ) 信仰第一が貫けるなら、結婚生活をしてはいけないという決まりはありません。離婚もそうです、未信者の夫が(あるいは妻が)信仰を理由に去るならば、去るままにしておきなさい。しかし、信仰上の理由、もしくは死別による再婚は、信仰ある者同士に限る。信仰第一であるという観点からして、この原則は守らなければならないでしょう。

 お互いがキリストを信じているのに離婚し、再婚することはどうも認めていないようです、文脈からそのように読み取れます。『――既に別れてしまったのなら、再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい。――また、夫は妻を離縁してはいけない。』 (コリント第一7:11 )  それでは最初のスタートは、お互い夫も妻も熱心にキリストを信仰していたが、何らかの理由で、片方の配偶者が、棄教して教会から去ってしまった場合、もう一方の変わらず信仰を持ち続けている人は、離婚し、再婚することが(もちろん信者と)許されるでしょうか?このことについては何も書かれていませんので、ハッキリしたことは申し上げられませんが、原理的に考えれば、この場合はOKだと、私は個人的には思っています。

 何れにせよ、パウロは積極的に結婚を勧めてはいません。しかし、結婚を否定してもいません。要するに、人にはそれぞれ、神から与えられた賜物があり、結婚したい人はすれば良いし、結婚した以上、妻を自分のように愛していきなさいと勧告しています。

 『そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。 』(エペソ5:28~33)

 しかし、この聖句を読めば読むほど、自分がそのようになっていないのが、まことに恥ずかしく、まだまだ未熟者であることを自覚し、聖書の求める理想の高さに、驚くばかりです。

 

 アウグスチヌスの性に対する考え方

 古くは、若い頃、自己の情欲に溺れ、情婦に子供まで産ませてしまったアウグスティヌスの心に、聖書を「取って読め」と神は語りかけられ、ローマ13:11~14の御言葉が彼の心を砕き、回心させた。彼はペルシャを中心に信じられていた、マニと言う教祖が流布した善悪二元論のマニ教に傾倒していたが、キリスト教に改宗し、後に偉大な神学者になっていった。

 彼は若い頃、情欲に溺れた生活をしてしまった。その経験が、彼の神学に大きな影響を及ぼした。アウグスティヌスはアダムにあって、総ての人間が罪人になったと考えた。人間は罪を犯したから罪人になるのではなくて、最初に罪を犯した人類の父祖アダムにおいて、アダムにあって共に罪を犯しているから罪人と考えたのである。このことを生物学的に考えると、私達の全細胞は、たとえ人類が80億人いようと、アダムの腰から生まれて細胞分裂して、継続的に生命が受け継がれ、生きていると考えることが出来ます。

 『わたしは咎のうちに産み落とされ 母がわたしを身ごもったときも わたしは罪のうちにあったのです。』(詩篇51:7)

 人は生まれながらに怒りの子であり、神の御怒りを受けるべき者として生まれてきたのです。

 『わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。』(エペソ2:3新共同訳)

 『また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。』(エペソ2:3口語訳)

 アウグスティヌスは生物的に、性行為によって、罪の性質が文字通り遺伝すると考えたのです。これは西方教会の見方です。アウグスチヌスの考えは、西方教会のキリスト教神学に大きな影響を与えた。人間は根本的に堕落しており、神の聖霊によって、神の側から働きかけをしてもらわなくては、救いは人間の意志や力ではどうにもならない。『従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。』(ローマ9:16参照) 神の降す聖霊の新生の力がなくては何事も起こすことが出来ないと言う、全的堕落の考え方です。然しこの考え方は、だから人間は堕落した生活のまま、好き放題して良いのだと言う、結論に人間を導くものではない。

 むしろ、全的堕落を認めつつ、だからこそ、自己の力に少しも頼らず、全面的にイエスの力、十字架と復活による贖いと勝利、その影響下に自分を置いて生きることを求める。神のなさる主権と力が最大的に自分とのかかわりの中で大きくなり、したがって救いの中で自己の果たす力は、自由意志も含めてかなり小さな場所に追いやられる。  

 しかしながら、神を信じる、信仰に入ると言うことは、自分の心の中にある何らかの自分の側に、努力的な精神作用があることは否めない。自己の選択の意思があることは間違いないことです。

 選択の自由意思を含めて、トータル的な救いの中にあって、義認のみならず、聖化を含めて考えるときに、人間の側の何らかの、自己意志等の心の中にある役割があります。このことは認めなければならない。全的堕落の教理を受け入れ信じたとしても、たとえ自分の心の中にある精神作用が自由意思を含めてどんなに小さい役割しかないとしても、御霊の神に対する応答として、何かは人間の側にあることを認めなければならないだろう。

 聖霊により新たにされ、霊的に復活した体験は、キリストの命を身に受けて、新たなる献身した生涯を人が送ることを熱望させます。むしろ全的堕落の教理は、全的清め、全的献身への発展を促していると見るべきです。全的堕落しているのだから、人間は清い生活などできない、罪の中で堕落したまま生活して行けばいいのだと言うように受けとめられがちですが、それは大変な誤解です。全的に堕落しているからこそ、意志も、感情も、肉体もすべて十字架につけ、極みまで御霊によって造り変えられ、キリストに全的に頼って行かなければならないと言う希求を生み出し、信仰の道を熱心に進んで行くのです。

 罪の性質は残るかも知れないが、キリストの復活の勝利の力とそれに伴う御霊の支配は、このような罪深い性質、弱い肉体を持った私達に、キリストにある清めと成長と、勝利を与えてくれます。つまり、トータル的に堕落している人間が、イエスの功と愛とによって、第二のアダム(イエス)の勝利を自分のものとして、聖霊にによって励まされながら、より成熟を目指して、キリストにありながら生きることが出来るのです。むしろこの方向に力点を置くべきです。

 一方東方教会(ギリシャ正教会等SDA含む)においては、西方教会(カトリック等)のような原罪説は指示されない。私達人間は罪深い性質を遺伝として持ってはいるが、罪人だから罪を犯すのではない。自由意志を持っている人間は、自分の持っている自由意志を働かすことによって、神の方向を選び、聖霊の助けによって、罪を犯さないという選択をすることが出来る。自由意思を誤用し、罪の方を選択して、罪を犯したからその結果、各自の責任において罪人になるのであって、生まれながらの罪人ではないと考えます(東方教会やSDAは原罪の教理はこれを認めない)。 

 性についてのアウグスティヌスが説いたような、罪の遺伝の考え方はありません。むしろ本来、神が男女を創造なさった時、性は神が与えられた聖なるものであり、正常な結婚制度の中で、正当な男女関係において、性そのものが罪深いという考えは取りません。故に聖職者も妻帯をします。夫と妻の関係はキリストと教会をあらわし聖なるものです。

 人間に、肉体を含めあらゆる意味で罪深い性質が遺伝していることは肉の弱さとして認めるが、むしろ復活したイエスが、総てにおいて勝利なさったように、この世においても、御霊を通して復活のイエスの力が、この世のすべての事象に、また人間にあらわされています。神の助けと聖霊の力により、また、与えられた自由意思を善の方向に選択していくことによって、神の御心に沿った、勝利の生き方が出来ます。イエスの恵みと、赦しの中にありながら、人間の側の力を肯定的に、大きく考えるのです。

 罪とは、肉の誘惑に自己の意志がそちらに向かって、同意して選択し、実行するときに罪になるのであって、意志をしっかりもって、悪い方を選択しなければ罪とはならない。肉の弱さ、悲しみ、情的なもの、肉欲的なものを感じるだけでは、それは罪にはならないと考えます。各自に与えられている自由意思を働かせて邪悪の方を選び取る時のみ罪となるのです。アウグスティヌスの物の見方とはだいぶ違います。ただ人間性理解は果たしてどちらが深いのか、私としては考えることがあります。

 心の中の罪を考える時、東方教会的な自己意志を強調する神学よりも、全的な堕落を認めながら、しかも御霊によって、造り変えられる、イエスの力によってのみ、全的な信頼、上からの力によってのみ生きることが出来るという西方教会的な神学の方に私は、惹かれます。  

どちらの考え方をとるにせよ、それぞれが与えられた個人ゝの性格や人間理解によって、しっくりする方を選ぶのが良いであろう。

 私自身と言えば若い頃は東方教会の考え方に近かったが、歳をとるにつれて、人間の罪深さがいかに、心の奥底まで利己的で、また遺伝的な肉の弱さに関係していることが多いのを悟り、少しづつ、西方教会の考え方に偏りつつあります。でもこうは言うものの、結局真理は、二つの考え方の中間程度のところにあるのではないかと、今は思っています。

 【参考】

EUCALISTIA -キリスト教神学へのいざない-

Eucalistiaプロフィール|ピグの部屋ペタ より転載

「教理的な問題」......<「原罪」という言葉をめぐって>

 さて、楽園追放以降の堕罪した人間について西方教会では生まれながら「原罪」を持っている、と教えている。そもそも、「原罪」とは何なのだろうか?

 西方教会における教理上の「基礎」になっているアウグスティヌスの解釈によると、人間は生まれた時点で、すでに「原罪」という罪を持っていてそれは、生殖行為を通じて、子孫へと生物学的に「遺伝」するということらしい。だから、生まれたばかりの乳幼児にも「罪」があるというふうに西方教会では考えられている。

 カトリック教会の「幼児洗礼の習慣」は、こうした考え方に基づいて行われている。<「原罪」の根拠となった「アウグスティヌスの聖書解釈」>それでは、アウグスティヌスは聖書のどの部分から「生殖行為による生物学的遺伝」という「原罪論」を導き出したのだろうか?

 ローマ書5章には以下のような1節がある。(新共同訳)一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。 (ローマの信徒への手紙 5-12)上の新共同訳聖書に対して、アウグスティヌスが実際に読んでいたとされる「ラテン語聖書」の翻訳箇所は一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。彼(アダム)において、すべての人が罪を犯したからです。となっていたらしく、ギリシャ語訳 から ラテン語へと翻訳される際に「彼において」(in quo omnes peccaverunt)という「明らかな誤訳」が混入していたことが分かっている。

 そして、この誤訳のラテン語聖書を読んだアンブロジアスター(至高のアンブロジウス)という人物が「ローマ信徒への手紙注解」という注解書を書いていて、それを読んだアウグスティヌスが、この議論をベースにして「彼において」から「彼の腰において」という、さらなる誤解を重ねて「生殖・性」=「悪」という、彼特有の自説を補強するように解釈した。この結果、この誤訳による「ロマ書5-12」の曲解をもとにして、「アダムによる性行為を通じて、全人類に罪がもたらされた」という「生殖-遺伝説」が定着することとなってしまった。全ては、ラテン語聖書への翻訳における誤りとそれに基づいた誤った聖書注解から事は始まったのだが、この事実が後になって判明したのは、エラスムスによるギリシャ語訳聖書とラテン語訳聖書の詳細な内容比較(検証)によってだった。

 5世紀のアウグスティヌスから、16世紀のエラスムスまで1000年間も「誤訳に基づく解釈」によって「主要な教理」が縛られていたということになる。

東方教会

 エデンの園において、アダムとエバは、彼らの「自由意志」に従って、善悪を知る木の実を食べる、神から離反する、という選択を行った。この行為には、それをしないでおくという他の選択肢の可能性もあった。人類最初の「罪」が、個人の自由意志による選択(濫用)によって起こされたように堕罪以後の人間たちの「罪」もまた、個人の自由意志によって起こされるというのが、正教における「罪」の考え方の基本線となっている。

 また、生殖行為や誕生する生命自体を「罪深い」と考える視点は持っていない。なので、東方教会の「幼児洗礼」はカトリックの「幼児洗礼」とは全く異なった視点(狙い)から行われている。

 ただ、正教が否定しているのはあくまでも「罪の遺伝説・必然説」であって、「原罪」に相当するような考え方が全くない、というわけではない。アダム以後の人間は、罪を犯しやすい状況に置かれていて罪の影響力が人から人へと社会の中で伝染しやすいことは否定できない。一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。 (ローマの信徒への手紙 5-12 新共同訳)

 アダムの堕罪をきっかけとして、創造当初とは著しく違った状況に人間が置かれていて、罪に染まりやすい状況であることは認められている。

  • すべての人間は、何らかの仕方で、アダムの堕罪に参与している
  • 堕罪によって、人間の本性(神の像)が何らかのダメージを受けている
  • 強力な感染病のように、罪の力が、人の間に広がることはありえる

「すべての人が罪を犯した」というロマ書5-12は上記のような解釈(byカッパドキア三教父)がなされている。

 また、正教では、この「ロマ書5-12」の箇所は、常に「第1コリント15-22」とセットにして読まれる。アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。

 つまり、「ロマ5-12」と「第1コリント15-22」は同時的に共存している。

 堕罪後の人間は、アダムの罪によって影響を受けており、また、それと並行して、主イエスの受肉・復活による感化をも受けている。

 『このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。 』(ローマ5:12)

 『つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。』 (1コリ15:22)

それゆえ、正教(東方教会)においては「人間の本性」が現状において、いかなる「善」も自由意志によっては選択できず、神への応答もできないという、アウグスティヌスに由来する「全的堕落」の教理は退けられる。「アウグスティヌスの呪縛」による教理への影響を、正教会は受けていない。

 「神のかたち(像)」は確かにアダム以後、何らかの欠損やダメージを被ってはいるが、主イエスの「受肉」と「復活」を通じて、全ての人類において、最低限の自由意志の働き、良心、理性などの「神の像」のある部分はすでに「機能回復」を受けている。だから、回心・洗礼を通して、人間が信仰へと向かうプロセスは「神の恩恵」によって、一方的に受動的に救いに導かれる、というのではなく(=これが、宗教改革者たちの「単働説」による救済論であるが)すでに与えられている、神からの「招き」「恵み」に対して回復されている「自由意志」を働かせて、人間が主体的に応答することによる。神の「恩恵」と人間の「自由意志」のいずれかに偏るような解釈は正教の教理では採用されなかった。

 

 さて、だいぶ脱線したがヨハネによる福音書の第2章の次のテーマに移ります。

 『ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」』(ヨハネ2:13~16)

 当時ユダヤの神殿では、レビ記に記されているような、犠牲制度の下、たくさんの動物が神に捧げられていた。羊だけではなく、貧しい者は鳩でもよかった。さらに貧しい者は小麦粉10分の1エファ-2.3ℓ捧げるだけでも罪が赦された。

 『責めを負うときには、彼はその罪を犯したことを告白し、犯した罪の代償として、群れのうちから雌羊または雌山羊を取り、贖罪の献げ物として主にささげる。祭司は彼のためにその犯した罪を贖う儀式を行う。 貧しくて羊や山羊に手が届かない場合、犯した罪の代償として二羽の山鳩または二羽の家鳩、すなわち一羽を贖罪の献げ物として、もう一羽を焼き尽くす献げ物として、主にささげる。彼がそれを祭司のもとに携えて行くと、祭司は初めに贖罪の献げ物の鳩を祭壇にささげる。まずその首をひねり、胴から離さずにおく。次に、贖罪の献げ物の血を祭壇の側面に振りまき、残りの血を祭壇の基に絞り出す。これが贖罪の献げ物である。次いで、もう一羽の鳩を焼き尽くす献げ物として規定に従ってささげる。祭司が、こうしてその人のために犯した罪を贖う儀式を行うと、彼の罪は赦される。

 貧しくて二羽の山鳩にも二羽の家鳩にも手が届かない場合は、犯した罪のために献げ物として小麦粉十分の一エファを携えて行き、贖罪の献げ物とする。それにオリーブ油を注いだり、乳香を載せたりしてはならない。それは贖罪の献げ物だからである。』(レビ記5:5~11) 

 私達は神殿は静かで、罪の悔い改めの場所であると普通は思っています。例えば一人の人が罪を犯したとします。その場合彼は、羊や山羊、場合によっては鳩を罪の身代わりとして捧げなければなりません。祭司が捧げられた動物を殺し、祭壇に、罪の身代わりとして捧げ、血を祭壇の側面に振りまき、残りの血を祭壇の基にに注ぎます。また、肉は祭壇で燃やし尽くした。これらのことは祈りの内に、厳粛に本来は行われるべきものでした。

 しかし、実際はどうだったのだろうか ?想像してみてください。一人の人が、罪を悔い改めに、神殿の礼拝に来ていたのではなかった。エルサレム神殿の前の広場には、全イスラエルから大勢の人々が集まり、大量の動物が殺され捧げられていました。神殿は動物の血の匂いと、火で焼かれた肉の匂い、そして殺される動物たちの鳴き声で騒然としたものであったと考えられます。

 多くの動物はまるで屠殺場のように、神殿の前の庭に運び込まれ殺され、処理されていた。その周りでは商売人が動物を縄で引き、あるいは逃げないように柵をしたり、鳩は鳥籠に入れていたかも知れない。それらは、ただで提供されたわけではなく、純粋に神を礼拝に来た者たちに、高値で売り付けられ、暴利を貪る者もいたのです。『それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」』(マタイ21:12~13)

 ユダヤのエルサレムにあった神殿、それは天地創造の神の宮であり、本来は、祈りの家であるべきです。それをユダヤ人達は強盗の巣にしてしまったのです。イエスは縄で鞭を造り、境内から山羊や羊を追い出されました。メーメー、それは大変な騒ぎになっただろう。そして暴利を貪り、不正な利益を得ていた、商売人や両替人の台を、ひっくり返し、金をまき散らし、それらの者たちを追い出したのです。彼らは神殿内における、商売の権利を、祭司たちへ、権利金を払って、場所借りをしていたに違いありません。何の権限があってこのような暴挙をイエスはするのだろうと、彼らは思っただろう。

 『ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。』(ヨハネ2:18~22 )

 彼らにとっては違法な、宮から追い出すようなことをするイエスに、あなたがこのような乱暴をするからには何の権威があってそのようなことをするのかと、詰め寄った。『どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか』 と詰問した。この人はたぶん預言者なのだから、神に呼び求め、天から奇跡を行い、その権威の証拠を示せるはずだと、彼らは憤慨しイエスに迫ったのです。

 するとイエスは不思議なことを言い出しました。その当時から約1,000年前、ソロモンの時代に建設され、各時代にわたって、修理したり再建されたりしてきたユダヤ人の誇りであった壮大な神殿を壊して見なさいと言うのである。イエスの宮清めに抗議した人々に、神殿を破壊して見なさい、イエスは3日で建て直して見せると言い切ったのです。奇跡を行いこの巨大な神殿を、3日で再建すると豪語したのです。46年もの歳月を費やし、多くの人足と多額の費用を掛けて建立したこの神殿を、この男が一人で、しかも3日で建て直すと。日本的に表現すれば、バカも休みゝ言いなさい、そんな風に人々は思ったに違いない。そのような、ホラを吹いたものは今まで一人もいなかった。この男は気が狂っているのだろうか、彼らはイエスの言葉にに呆れ果て、嘲笑したことであろう。

 しかし、実はこのユダヤ神殿はイエスのお身体を表わしていたのです。神殿は、イエスの父YHWHヤーウェの家であった。

 『すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」』 (ルカ2:49)とイエスは子供の時、両親に言ったことがあった。

 神殿は父の家でありイエスが子であるから、子が住むのは当然であり、また贖いの羊の本体であるイエスの身体を表わしていた。やがて本来の神殿を表わしていた方は、十字架につけられて、人類の身代わりに死んでいくのでした。また、死後3日目に復活することになっていたのです。このことを、イエスは自分の身体を指して言ったのです。神殿を3日で建て直すとイエスが言われたことは、後になってイエスが捕えられ、大祭司カヤパの前に引き出された時、イエスを訴える口実として使われました。

 『最後に二人の者が来て、「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」 』(マタイ26:60~62)

 十字架に至る、カヤパのところでのこの場面は、この宮清めの事件から数年たち、公生涯が終わる頃のことです。

 当時に人々にも、さらに弟子達にも、『「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」』と言われたイエスの言葉を理解できるはずもなかった。イエスが十字架につき、復活してから、その後になって、そうだ、あの時の出来事、イエスがおっしゃったことは十字架で死なれた後、3日後に復活することを表わし、意味していたのだと分かったのです。

 宗教経験には 、そのようなことが多いのです。何故イエスを信じているのにこんなに辛い目に合うのだろうと、度々誰でもそのような経験をします。祈っても祈っても神からの応答がいただけない時期もあります。自分の信仰状態を疑問に思い、ある時は不信仰にすら陥ることもあります。天が開けず、祈りは空しく響き、まるで自分の部屋の天井に向かって、ただつぶやいているだけで、空しく声が反響して返って来るだけだ、などと感じます。辛いゝ信仰のスランプ。トンネルをなかなか抜け出すことが出来ない、先が見えて来ない。そんな経験が何度か私の信仰生涯でもありました。もちろん、そんな辛い経験ばかりではなく、ある時期は、御霊に満たされ、快活で、主がそばに居ることを感じることが出来る、そんな快い平安なひと時を過ごせることもありました。でも、試練の時はいつかはやって来ます、誰にでも。

 後になって、人生を振り返るとき、あの時の辛い経験は、このことを、あのことを教える為であったのかと言うことが分かって来ます。理由なくして、愛の神が私達に、苦しみの経験をすることを許されることは、まずないのです。

 私は若い時37歳前後に、大変辛い経験をしたが、今になって振り返ると、神が最も大切な、キリスト教の、原理原則、それは愛と自己犠牲の生き方を教える為であったことが分かってきました。最も苦い経験は、後から考えると、私に一番必要なことを教えようとしていた神の指だったのです。最大の辛い経験が、実は最大の祝福であったのです。その時は長く忍耐するばかりで、何故神を信じているのにこんなことが起こるのだと、誰でも思うのですが、過ぎ去った後振り返れば、それらも恵の時間だったと分かってくるのです。『あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。』(コリント第一10:13)

 『肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。 』(へブル12:10~13)

 何度も書いてきたが、どう考えてもこの原則に行き着くのです。『「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。』 (ルカ14:26~27)

 真理の道は神と人の両方のために自分の時間、自分の命を削って生きて行きなさいと言うことに尽きます。もう繰り返し書かないが、どうもその聖書の大原則を教えるために、私の辛かった、ある意味生涯の大半を、方向付けてしまった、人生経験があったのかと思います。もっと早く悟れば良かったが、心が鈍く、何事も、悟ることが遅い自分でした。私の聖書の自己流解釈を読んで下さる皆さんは、もっと早く近道をして、神が与えられる道を歩んで欲しいと思います。人生は、遠回りするには余りにも短く、アッという間に過ぎ去ってしまうからです。『あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、』 (伝道の書12:1口語訳)

 

 『イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。』(ヨハネ2:23~25)

 イエスがエルサレムに上り、最初になさった宮清めは、一般的な目から見れば不法行為であったろう。イエスが神殿の前の広場で行った目に余るような乱暴によって、よく逮捕も監禁もされなかったものです。不思議に思えます。それはまだ神の時が来ていなかったからです。

 イエスによって宮から追い出された商売人たちは、イエスが神の子である栄光の輝きを、その人性の中に輝いている、誰も反論できないような神の子としての威厳を、見て恐れ慄いたのです。世の終わりの時、裁き主としてしてお出でになる時の、威光がイエスの身体から、輝き出ていたに違いない。諸王の王として来たるべき栄光を、彼らは見ていたのです。

 『イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。』とあるが、本当に悔い改めて、イエスを個人的な救い主と信じたわけではなかった。贖い主として、イエスを敬っていたわけではなく、ただ不思議な業を為す、イエスを見て、驚いて、しるしを見て表面的に見て信じただけであった。今イエスを信じたと言っている群衆が、やがては、イエスを『「十字架につけろ。」』と叫びだすのをイエスはご存知であった。

 『そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。 』(マルコ15:12~14)。

 自分たちの利益追求やこの世の生き方を変えることを彼らは望んでいませんでした。イエスが単にユダヤの王となることを期待し信じただけでした。自分たちの利益になることを望んでいたのです。イエスに従う道は自己否定の道でした。彼らの心の中にはこの世の繁栄や、栄達のことしかなかったのです。 

 自分達の生き方を変え、罪深い生活を改め、悔い改めて行かなければならないとイエスが教えた時、その教えに反対し、イエスを殺す側に回って行きました。『イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知って』いて、人間の評価や評判など気にすることなく、神の御旨に従って、その福音宣教の公生涯を歩んで行くのでした。

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