ホームページ等からの重要事項ピックアップⅡ
Ⅱ. これまで書いて来たホームページ等の中から、信仰にとって重要だと思われる部分をピックアップして掲載します。前後の脈絡なく取り上げるので、理解できないところもあるでしょうが、敢えて自分の頭の整理のためにしました。冒頭に整理のため番号をつけ、短い表題を付けておきました。( )の中にホームページの本文の場所を記載しましたので参考にしてください。
①十字架で廃された諸規定、律法、儀式がある。神学的見解が分かれるところなので注意しよう。(ヨハネによる福音書19章自己流解説中段より)
『だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。』(コロサイ2:16~17)
・食べ物や飲み物の規定は廃されています。
パウロの以下の言葉が食物問題に対する解答であると私は思っています。
『何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。』(ローマ14:2~3)
ただし、SDAは食物規定は戒めとしては廃されているが、健康の原則としては残っていると考えています。私も戒めとしては廃されていると言う条件付きで、健康の原則として食物規定に準じた食生活をすることは大賛成です。旧約聖書に書かれている食物規定は、高血圧や心臓病等に対して疫学的に、大きな予防の効果があります。
・祭りや新月や安息日(祭りに伴う特別安息日)は廃されています。
ユダヤ三大祭り(仮庵、過ぎ越し、七週の祭り)を始め、 新月を祝う風習等、各種の祭りは全て廃された。それらの祭りに伴う特別安息日も廃された(週の7日目の安息日ではない)。祭りがキリストの影であったように、それに付随する特別安息日もキリストの影であって、本体であるキリストが来た以上廃され無くなってしまった。
『また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。』(ローマ14:5口語訳)
パウロの『どの日も同じ』であると言う言葉は、この各種祭りに付随して定められた特別安息日を指すと私は考えます。他に異なった意見をお持ちの方がいることは私も理解していますが。少なくとも天地創造の記念日の第7日目安息日については、この各種の廃された礼典律法には入っていないとSDAは考えています。
第7日目安息日は天地創造の記念日であり、モーセがシナイ山で受けた石の板に書いてある十戒の第4条よりも、さらに遡ること2,500年も前に、神自らその御言葉でお定めになったことです。『第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。 』(創世記2:2~3)。
もし、文字通りの7日間による神の天地創造を信じないなら、安息日を守る意味は全くない。ある人達は創造は何千年、何万年、何億年かけて起きたことであり、文字通り、7日間で完成したとは信じてはいない。もしそうであるなら、神が祝福された根拠が覆る訳だから、7日目安息日を守る意味は失われてしまう。
『こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。』 (ヘブル4:9口語訳)この聖句の前後を良く読むと、魂の救い、救いの安息に入った者だけが、真の安息の気持ちをもって、本来の意味での第7日目安息日を守ることができると主張しているように思われます。第7日目安息日は魂の休息であり、キリストの贖いを深く感じる特別な日です。単に仕事を休めば良いと言うようなことではない。救いを深く感じる安息日なのです。魂の救いを真に得て、神の前に安らぎを得た者だけが、憩うことが出来る安息の時なのです。 私はそのように解釈します。
ここからは少々複雑な論理になるが、こんな考え方を持った人々もいると言うことの例として紹介しておこう。ある学者達は、キリストがもたらす救いの安息は、十字架によって、既に十分に成就したのだから、安息日の戒めは廃されていると主張します。この考え方を進化させて行くと、イエスによって総ての日が救いの安息となっているので、特に7日目だけを区切って安息日にする必要はないではないかと言う論理の帰結になります。
私達は毎日ゝがキリストの真の安息によって救われ、魂の平安、真の休息を得ているので、ワザワザ7日目を安息日として区切りをつける必要はなくなったと言う理論です。確かに、これは一理ある考え方で、私も毎日が、それが週日の何曜日であろうと関係なく、真にイエスの安らぎの御霊に満たされて、毎日を救いの安息として過ごしたいものだとは思います。
しかし、果たして肉の人間性はそんなに信頼できるものなのでしょうか。私達はこの世の中にあって、肉とその楽しみ、この世が提供する快楽、娯楽等に取り囲まれ、惰性に流されやすい性質を持っています。 また逆にこの世の仕事に必要以上に没頭し、いつしか、神もイエスも、自分の人生すら忘れて、仕事をすることそのものが最高の生き甲斐となってしまうこともあるのです。神を認めず、神を意識もせず、総てを肉の自分の才能と力によって遂行し、仕事病とも言うべき精神状態になってしまうこともあります。仕事をしているときが無我になれる唯一の時間になり、自己を内的に見つめ直す時間など取りたくない、そんな境地の陥ってしまうのです。世俗の娯楽や快楽に囚われて生きるか、ワーカーホーリックなって、自分すら喪失してしまうか、どちらの誘惑に陥ってしまうかはそれぞれ持った性格によるとは思いますが、どちらにせよ神から離れて生きて行く生き方に差異はありません 。
聖書はトータルで見れば明らかに第7日目安息日を他の週日よりも、聖なる創造の記念日として守り、その日に神を賛美するように言っています。第7日目にすべての仕事から離れて、救い主を認め、魂の救いの安息を経験することは、人間性の弱さから言っても必要なのです。もちろん第7日目に仕事を休むと言っても、医療や介護、交通インフラ、食料供給等人間の肉と霊の命の維持に関わる仕事は休む必要はありません。当然、説教や聖書研究、伝道活動等牧師の仕事も休む必要はありません。
安息日は神の為にあるのではなく、人の為にあることは神の全知全能性から言っても明らかです。そもそも2兆個あると推測される諸々の銀河、宇宙全体を創造し、地球と、その大気、水、環境、その上に住む人類、動植物をも創造し、支配し、今も維持なさっている方が、疲れたから休日にしようと考えることそのものが笑止千万です。神は休む必要もないし、疲れることもないのですから。第7日目安息日は人の為に定められたことを肝に銘ずべきです。
ヘブル書の4章の文脈を私なりに解釈すると以下のようになります。
モーセや神の言葉に逆らって40年の間荒野を彷徨った、イスラエルの人々は、次の指導者ヨシュアに率いられて、カナンの国に入りました。しかし、実際は、出エジプトした人々は代替わりするまで、砂漠でことごとく死んで行ったのです。子供の世代になってカナンの国に入ったのです。彼らは何故、救いの安息に入ることなく、砂漠で死んで行ったのか。それは不従順と不信仰の故であったとヘブル書は書いています。だから神は、約500年後、ダビデを通して、未来のある日を今日として定めて、今日御言葉、恵みの言葉、救いの福音を聞いたなら、心をかたくなにしてはいけないと勧められたのです。
そして救いの福音を私達もまた、自分の生涯のある日の今日、受けることが出来たのです。それは私が個人的にイエスの福音を受け入れ、幸い心を頑なにせず、私の人生の今日と言う日に救われたからです。
ある方々にとっては、その特別な今日は、まだ未来の出来事かも知れませんが。
今日、イエスの言葉によって救いの福音を聞いたなら、それを受け入れ、従順な心を持とう。魂が十字架の贖いを受け入れることによって、救いの安息に入ったのだから、心をかたくなにしないようにしよう。こういう理由で救いの安息日がまだ神の民の為に残されているのだとへブル書は言っているのです。
救いの福音を受け入れた人々は、神が7日目に休まれたように、真の安息の中で憩い、集い、第7日目の安息日を真の意味で魂の救いの安息として遵守して行こう。そうでないと、また不従順の例にならって、私達の中からも道を踏み外すものが出てくるかもしれない。
しかも(救いの)御業は世の始めから出来上がっていた(時間の壁を全部取っ払って考えると、イエスは世の始めから十字架にかかっており、救いは完結されており、神の業は《イエスによる救いを含めて》7日目に完結されていたと考えることは行き過ぎだろうか)。
神は7日目にすべての業を休まれたと書いてあり、私達は真の安息に入ったのであるから、そういう意味で安息日の休みが神の民の為にまだ残されているのです。
神の天地創造に対する私の考え方 (以下参考)
神の天地創造に対する私の考え方。(ホーム | 聖書が教える救いとは何かhttps://ktanaka33014.wixsite.com/websiteのブログ①5,進化論と創造論参照
↑アドレスをクリック 右上端のブログをクリック 七つあるサイトの一番下①を開いていただき、さらにかなり下にスクロール①5,進化論と創造論全文に私の考え方が書かれています)
【その一部を掲載】さて創世記の創造物語を私なりに、勝手に解釈させていただくと、以下のようになる。 『初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。』(創世記1:1~3)
神の地球、生命創造は無からではなく、何かの材料があたように思われます。それは地が今のような状態に出来る前の、材料になったガス状の物質かもしれない。混沌、カオス的なものがあり、どろどろとしたものか、また、水のような材料があった(太古の海水か?)。しかも神の霊が、水の面を動いていたとあるので、何らかの大変動があたと考えられます。
要するに神は地球上の材料を使って地球の面を整え、生命を造り、人間を造った。(土から作られた‒ヘブライ語で原語アダマは土、アダムは人)
「光あれ。」太陽をその時造ったのではなくて、闇に覆われていた混沌から、大気が分離し、昼と夜が創られた。
『神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。』(創世記1:4,5)
太陽が見えて、光が射し込むようになった。闇が淵の面を覆っていたが、大気が生じることによって、地表に日光が射し込んで来たと考えます。先に述べたように地球上の最も古い岩石は、5から6億年前の物であるから、それらの材料を使って、地球上を生命と、生命が生きれる環境を整備したと考えるならば、生命体の周りから、どんな古い岩石が見つかっても、矛盾はない。
化石の年代は化石そのものから測定することはできない。化石のそばにあった岩石から年代を測定します。化石のそばに、たまたま古い岩石があればその化石の年代になってしまう。化石そのものをC-14を使用して年代測定ができるのは、せいぜい正確には4,000年前位なもので、何億年と言うような単位ではC-14では、測定はできません。
もし神が、地球を材料を使って、表面を整備したと考えるなら、化石のそばからどんな古い岩石が出てきても矛盾はない。化石の見つかった近くの岩石の年代を測る、イコール化石そのものの年代とはならないのです。
神の創造は、そんな、何億年も前ではなく、せいぜい数千年単位の、万とまではいかない比較的若い年代に起きたと、ファンダメンタリストは考えます。
地層の問題も、同様に考えることが出来ます。 たまたまある地層から、何億年前の古い岩石が出たとする。するとこの地層は何億年前の地層となる。しかし岩石そのものがどんなに古くても、神はその材料を使って比較的若い年代に、地上を整備したとしたら、地層から古い岩石が、神がご使用になった材料として、出てきても、何の問題もない。
何でこんなことを言い出しているかと言うと、ファンダメンタリストたちは、地層も大変動があった時代に、一気に造られたと考えるからだ。地層はもっと比較的短時間の間に形作られたのではないだろうか。
フランスのサン・エチネにある地層で、何本もの化石化した木の幹が直立して、何層にも地層を貫いているところがあり、この考え方の証拠と言われる。その写真も公開されているので、ぜひ調べて確認してみてください。
【参 考】 https://yoshida-s-i.life.coocan.jp/custom6.html
↑クリックすると画像が出ます
フランスのサンエチネの近くにある地層で、何本もの化石化した木の幹が直立して何層にも 貫いてところがあります。地層ができるのに何万年とかかるのなら、この直立した木の化石をど う説明したらよいのでしょうか。
②アッバ父よと呼ばわる御子の霊が私達の霊と一緒になって住んでいる(ヨハネによる福音書19章解説下段より)
御子の霊と言われるものはどこから来るのか。『この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。』 (ローマ8:15)。『あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。』(ガラテヤ4:6) アッバ、父よ(お父ちゃん)と叫ばさせる霊、それは、私達の内に宿るキリストの霊です。私達はこのキリストの霊を受けています。その霊が、私達が祈る時、父に向って、お父ちゃんと叫ばさせます。もっと豊かに生ける霊を天から、キリストの名によって与えて下さいと祈るのです。
『「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。」』(ヤコブ4:5~6)。
私達の内に住まわせた霊、イエスの霊が私達の内に宿り、私達の心を住まいとし、溢れるばかりに外に向かって流れ出していくのです。ここに父なる神が私達を憐れんで下さる根拠があります。又、霊に満たされた信仰の兄弟同士が、深く触れ合うことができる理由があります。
『神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。』(ローマ8:14)。神が「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった以上、あなたも私ももう神の子なのです。些細な教理の違いによって、教派同士がいがみ合うことはもうやめよう。イエスの霊の下に集まろう。神の霊によって導かれる者は皆、神の子であり、尊い方々なのです。
さらに、神から逃げるのではなく、その愛に応えて行こうとする、自分達人間の側の姿勢が大事です。信仰の人間の側の神に対する積極的な求めと言うのは、私達に与えられている自分の霊の叫びであると私は思う。
『神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。』(ローマ8:15~16)
天から降り、『「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊』(ガラテヤ4:6)すなわちキリストの霊と、人が持っている『わたしたちの霊』と二つの霊の存在があります。どこまで区別できるかは分からないが、パウロはそう言っています。
『「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊』と『わたしたちの霊』は共に一つになり、協力し合わなければならないだろう。神の子供である『証し』は両方からされるのです。
『わたしたちの霊』がもたらす自発的に自分が神を追い求めて行くこの能動的姿勢は、信仰者にとって大事な姿勢です。それは、非常に自己流の解釈と分かっていて書きますが、私達の神に向かおうとする清められた意志的なものを含むと考えます。
③神の恵を信じることによってのみ救われるが、恵みを拒めば滅びるしかない(ヨハネによる福音書19章解説中段より)
『もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。』(ヨハネ19:40~43口語訳)
恵によって救われる、ただ恵みにより、その恵みを捉える信仰によってのみ救われるのです(ローマ3:24,28参照)。しかし恵みと滅びは真理の表と裏です。恵みを拒めば滅びるしかない。一人は恵み、イエスの恵み、無限の赦しを信仰によって捉え受け入れた。しかしもう一人の罪人は、あくまでも拒み続けた。罪の赦しは左右二人の罪人に平等に提供されていた。しかし、左にいた罪人は、最後までそれを拒み、イエスを罵り続けた。
恵みがあり、そのことを拒むなら滅びがあるのです。恵みと滅びは真理の表と裏です。恵みを受け入れれば救われ、永遠の命と将来の幸せが約束されているのに、何故もう一人の罪人はイエスの愛を拒み続けたのだろうか。
もう時間が無いのだ、後数時間もすればローマの兵士達によって、足を強制的にへし折られ死んで行くのだ。平安な気持ちで、イエス来臨の時には、天国へ招き入れられるその希望があるのに、罪人よ、何故最後まで拒み通すのだ。いつまでも自分の非を認めないのだ。どうして提供されている無代価の福音を「有難うございます」と言って受け取らないのだ。その差を生むのはいったい何だろう。
信仰の心の芽生えについて、真剣に考えなければならない。私達もイエスの十字架の左右に共につけられた二人の罪人のどちらかになるのです。私達は何故に、キリストを信じるのか、救いを信じるのか。神の愛、恵みの大きな御恩寵に対して、どのように考え、心の中で受け止めて行くのか。それが私達の将来を決めて行くのです。
恵みか、滅びか。心の作用によって、それが自分のものになるのか、ならないのかが決まる、とても大切な問題なのです。
④何故に、イエスは渇かれたのか、痛みを負われたのか(ヨハネによる福音書19章解説中段より)
『この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。 』(ヨハネ19:28~30)
十字架につけられたイエスから、その釘打たれた手の平から、血がダラダラと絶え間なく流れ出していた。体内から血が失われて行くとき、大変な渇きを覚えるそうです。主は喉の渇きを覚えられ、十字架上で『「渇く」』(同19:28)とおしゃった。詩篇69:22に『人はわたしに苦いものを食べさせようとし 渇くわたしに酢を飲ませようとします。』と書いてあるとおりです。
そして多分そういうことが十字架刑にはつきものであったのだろう。予め酸いぶどう酒が用意されており、葦の棒(マルコ15:36参照)に植物ヒソプが付けてあり、さらにその先端に海綿がつけられ、酸いぶどう酒がたっぷり染み込ませてあった。酸いぶどう酒、これはたぶん神経をマヒさせる麻酔効果もあったのではないか。海綿にたっぷりと染み込ませたその液体をイエスの口元にローマ兵が差し出すと、『イエスは、このぶどう酒を受けると、』(ヨハネ19:30)とあるが、実際にはゴクゴクと飲んだのではなくて、なめただけではなかったかと私は考えます。
十字架に磔になる直前に、この苦い葡萄酒を飲ませようとしたところ、イエスはなめるだけだったとマタイは書いています。
『そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。』(マタイ27:33~34)
これはイエス自らが麻酔を拒否したことを意味しています。最後の最後まで、イエスは肉体の限界の極みまで、十字架の苦痛を、その喉の渇きも含めて、純粋にありのまま、苦痛をお受けになったのです。イエスの覚悟には妥協と言うものはなかった。イエスは麻酔も水分も、取らず飲み下さず、その極みまで苦痛を味わいなさった。
ここで教訓がある。私達もイエスがこの世でお許しになる、苦痛を敢えて受けようではないか。人から誤解され、あるいは信仰の故に迫害を受ける時、敢えて主がなさったように受けようではないか。
その艱難、苦難は人によって違うだろう。ある場合には、肉体の弱さから来るものであり、病気や、生まれ持った障害かも知れない。どのようなものか個人によって違うと思うが、それらの困難をある程度甘んじて受けるべきではないか。
もちろん人生の様々な苦労、また肉体的なハンデ、病がもたらす苦痛はない方が良いに決まっている。
末期がんの患者には、実際には緩和ケアも必要であろう。私はそれを否定するつもりはない。誰だって痛いのは嫌に決まっている。しかしイエスは病を負い、病気の痛みに耐えられたのだ。
『彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであった。.........彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。』(イザヤ53:4~5)と書かれている。この御言葉を素直に読むならば、イエスは私達の罪や咎の為だけに砕かれただけではなく、実際の私達の肉体の病や、病から来る痛みすら負われたことになります。
もし病気の苦痛と闘っている兄弟姉妹がいるとしたら、私は本当にそれはどんなに辛く苦しいことではないかと同情します。
私の信仰の兄弟にALS(筋萎縮性側索硬化症)を患い、今も入院している方がいます。運動神経が侵され寝たきりになり、最後は呼吸すら困難になり亡くなって行く、国指定の不治の難病です。共に教会生活を一緒にしていた方で、奥さんは今でも健気に看病し、教会にも毎週来ています。コロナ禍の為、今は面会は出来ず、神の奇跡的な癒しがあるようにただ祈るばかりです。現在は残念ながら、瞼しか動かせなくなっているそうです。
この世における病から来る痛み、苦しみをイエスが知らないことではない。
イエスは私達の病を負い、痛みを感じ担って下さった。そのように信じて行こう。
病から来る耐えがたい苦痛を忍んでおられる方々、イエスはその痛みすら、酸い葡萄酒を飲み下すことを拒否することによって、つまり現代的言い方をするならば、緩和ケアを受けることなく、真ともに向かい合い、私達のためにその痛みを負って下さったのです。『彼が負ったのはわたしたちの痛みであった。.........彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。』
そのように感じ、願い、そのように聖書の記事を理解し、強烈に信じて、イエスの御名によって癒しを求め祈って行くとき、必ずや私達の肉体にも聖霊が降って、イエスが賜る奇跡が起こることを私は信じています。
イエスは喉の渇きを覚えられ、十字架上で『「渇く」』(ヨハネ19:28)と言われたが、ただ肉体的に渇かれただけなのだろうか。私はそうは思はない。イエスは、その神に忠実な、純粋な心が渇かれたのだと思う。
『三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 』(マルコ15:34)。
イエスから御顔を隠されるのは主の御旨であった。『しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。』(イザヤ53:10口語訳)とあります。イエスの心は生まれて初めて、父なる神との隔絶を経験なさったのです。
いつもイエスと父なる神は一つであられた。ところがこの十字架の渇きは、心の渇きをイエスにもたらした。父なる神の御姿が見えない、祈っても応えられない、父なる神と隔絶してしまったのです。もはやイエスの霊性は、打ち震え、人間の運命はギリギリのところで、振り子がどちらかに動くことで決まろうとしていた。初めてイエスは孤独、本当の孤独、神からの離別を経験し、神から離れ、神に対する信頼を翻すことになるのでしょうか。
イエスは罪と言うものの本質、究極的な滅びの感覚(第二の死)を、最終的に味わい耐えられた。どんな、肉体的、精神的苦痛、霊的な欠乏も渇きもイエスを神に逆らわせることは出来なかった。
総ては『「成し遂げられた」』(ヨハネ19:30新共同訳)。『「すべてが終った」』(同口語訳)と言って、頭を垂れて息を引き取られた。
イエスはただ一人で酒舟を踏んだ、自らの返り血を浴びながら(イザヤ63:3参照)。贖いの枡目は満たされ、遂に贖いは完成され、すべては終わり、成し遂げられた。アーメン(そのとおり、本当に、はっきり言っておく、まことに)、ハレル(賛美せよ)ヤ(ヤハウエを)。
救いとはイエスの完成された業を、「有難うございます、私はあなたの贖いの業によって義とされています。」と言って、信仰によって受け取るだけです。それに後から付け加えるものは何もない。
それは信仰の出発点であり、また信仰生涯のどの過程においても、常にそこに戻って来る場所であり、信仰の終了時点、すなわち自分が永遠の眠りに就く時点においても、ただ御恩寵によってのみ、御前に立つことができる場所です。
始めから終わりまで、救いはただキリストの恵みによるのみです。救いはイエスが十字架上で全人類の罪を負って亡くなられたこの時点で、十分に、完全に完成されています。『「成し遂げられた」』のであり、『「すべてが終った」』のです。
しかし、ここで勘違いしてはいけないのは、私個人に対する、完成された救いの適用は終わっていないのです。私自身はと言えば、今後もこの御恩寵の中に生きながら、それを信じ受け続け、感謝し、イエス・キリストに固く結ばれ、キリストに根を下ろして生きて行かなければならない。
『あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。』(コロサイ2:6~7)
どちらかと言えば、キリストに結ばれて生きる方が、信仰のエネルギーを要する。常にキリストに結ばれて生きることの大変さは、毎日のことであるので中々厳しい信仰の戦いがあります。その戦いの中で、私は、余生を、自分の趣味や、旅行、レジャーに生きるのではなく(たまには、それらもやりたいと言う肉の欲は常にあるが)、御言葉の研究に時間を割き、御言葉と祈りと、御霊の中で生きようと決心した。
肉的な決心も大事です。しかし、実は自分の生まれつきの決心や努力はあまり役に立ちません。自分の古き肉が既にキリストの十字架と共に滅ぼされ、砕かれ、処断され(ローマ8:3参照)、一切を神に委ね、聖霊の臨在を乞い求めて行くことこそ、永続的なキリストにあり続ける秘訣です。霊を求める気持ちを起こさせて下さるのは聖霊によるのですから、 キリストにあり続けると言うことも、総ては神の御恩寵によるのです。しかし、その場合も私達の側の心の中に、何らかの応答をする部分はあります。こういう意味で、祈りのうちに、積極的に主を求める気持ちを養いたいと思います。
⑤私達の死に対する考え方(ヨハネによる福音書19章解説下段より)
死による肉親との離別は生きて残されている者にとって、寂しく悲しいことは事実ですが、信仰の眼をもって見れば、次の瞬間はイエスにお会いすることになるのですから、この意味でめでたい事なのです。
『けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。』 (ピリピ1:22~23)
あの死の直前に赦された、十字架の右側につけられた、悔い改めた人のように、『「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」』(ルカ23:42)と言って、私達もいつかは一度は必ず来る、最後の眠りに就こうではないか。ある意味人生の最後の瞬間に『わたしを思い出してください』と告白出来ることが、人生のすべてであり、唯一の永遠の命につながる合言葉であり、私達が生まれてきた理由とも言えます。
⑥世で生活して行くことの中にイエスを見させなくなる大岩がある(ヨハネによる福音書20章解説中段より)
マグダラのマリアが、まだ復活したイエスに出会う前は、イエスの葬られている墓の入り口を塞いでいる、大きな岩を見ながら、全てを失ってしまったと思い込んで、失意のどん底にいました。
私達も、そんな時がないでしょうか。長い信仰生活の中で、いつも活きゝとした信仰を持ち続けられれば一番良い事なのですが、バプテスマを受け信者になったのに、イエスの御姿が、何か遠いものとして感じられてしまう時もあるのです。イエスの復活されたお姿が、墓の入り口を閉ざしていたような、人生の大きな岩にふさがれて、先が見えなくなってしまうこともあるのです。長い一生の間には、信仰が低迷してしまう時期もあるのです。
私達にとって、復活されたイエスを見えなくしているもの、墓の蓋である大きな岩は、比喩的に考えて行くとき、何でしょうか。
キリストが復活し永遠の命への希望をもたらしました。『死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、』(コリント第一15:42)とある、この希望を、見えなくしているもの、遮ってしまうものは、私たちにとって何でしょう?
復活されたイエスキリストを見るのを妨げているものは何か、この大岩は何か。
ある人にとっては、この世の生活上の思い煩いかも知れません。仕事や、収入や、子供の教育費等の事で、私達は度々思い煩うのです。この世で生活して行く上での、様々な心配事、この世の思い煩い、経済的な事、仕事の苦しみ、健康の問題、親子関係の軋轢、病気、趣味、宴楽、泥酔、スマホやゲーム中毒等、様々なことがわたしたちを、キリストを見させないように働いています。キリストから私達の心を離すものは何でも、この大きな墓の岩なのです。
それがどんなものであれ、『まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。』(マタイ6:33口語訳)との約束の言葉に従わせて参りましょう。
世の快楽、様々な楽しみが、イエスと私達の間を隔てる大きな岩になっているのです。『この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。』(コリント第二4:4)もう、私達を取り巻いている、世の中の煩いを、すべて、心から取り除いて、純粋にイエスを瞑想し、聖霊の臨在を求め、イエスに霊的に満たしていただく、聖霊の満たしの中に憩う、そんな時間を自分なりに持とうじゃありませんか。
⑦根本的に肉につける私達の内に、神から離れさせる得体の知れないものがある(ヨハネによる福音書20章解説中段より)
もっと根本的なことが私達の霊的な目を曇らせているのではないでしょうか。それは私達が持っている肉の生まれつきの性質なのです。何かうまく行けば驕り高ぶり、少しでも贅沢したい、楽をしたいと考え、自分のためにはどんな労苦も厭わずやるが、人の為にはあまり積極的に行動できない、すぐ面倒臭くなってしまう。こんな私達の性質が、イエスを見えなくしているのかも知れません。
腹が減れば美味しいものを食べたいと思い、また、たまには旅行でも行って、パットお金を使ってみたい、こんな肉の欲は誰でも持っています。しかし『......肉と血とは神の国を継ぐことができない......』(コリント第一15:50)とあります。うまく表現できませんが、イエスを見えなくしている何かとは、どうもこの辺にありそうです。私達の生まれつきの肉の性質そのものが、イエスを純粋に見て生きる事を妨げているのです。
ではどうしたらいつも十字架にかけられたイエスを、また復活なさったイエスを、希望をもって見続けられるでしょうか。それは十字架と復活の経験を個人的に、霊の体験として行くことにより、私達の生まれつきの性質を、聖霊によって徐々に変えていただく以外にはありません。
何度も申し上げてきましたが、自分の古い肉が既に、イエスのお身体と共に、十字架で砕かれ、処断されてしまったことを認め、信じることです。ここにいつもイエスにあることができる秘訣があります。
『つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。』 (ローマ8:3~4)。
古い肉が死んで、霊に従って歩むこと、それが『新しく創造』されて生きると言うことなのです。『大切なのは、新しく創造されることです。』(ガラテヤ書6:15)と書いてあるとおりなのです。
⑧聖霊のバプテスマを期待して求めて行こう(ヨハネによる福音書20章解説下段より)
イエスは復活後弟子達に会った時、不思議なことをなさいました。彼らにご自分の息を吹きかけて、聖霊を受けるようにお命じになりました。聖霊の特別な降下は、実際には過ぎ越しの祭りより50日目のペンテコステ(五旬節)の日まで待たなければなりませんでしたが、イエスは弟子達にやがて聖霊のバプテスマを授けることを、ご自分の息を吹きかけることで予表なさったのです。
私達の先祖アダムも、神によって塵で造られていた身体に、神が息を吹きかけられて、命が宿り生きたものとなりました。
私達は、父母から産まれた時、肉の命が始まり、オギャアと泣いたとたん息をし始めます。それは肉の命の始まりですが、霊の命はいつ始まったのでしょう? バプテスマを受けた時か、イエスを個人的に知った時か、真剣に自分の罪を悔い改め、聖霊による新生を祈りの内に請い求めた時か、いつ霊の命が始まったのでしょうか。私には分かりません。
しかし、ここでイエスは新たに改めて、聖霊を受けるように私達にも言われているのです。ただここにいた、弟子達を対象にしていただけではなく、私達をも聖霊を受けるように招待されていると私は考えます。
聖霊のバプテスマを受ける時、何が起こって来るのか。たぶん、力が与えられ、宣教が躍進し、聖霊の賜物も非常に活発的な働きをし始めるのではないかと推測します。私はもしそのようなことが起きるならば、自分が生きているうちに、そのような光景を是非見てみたいものだと思い、種々の霊の賜物を求め、イエスの御名によって期待を込めて日々祈っています。
聖霊が降るとき、多くの人々が世が終わる前にイエスを信じ受け入れるように、私達に伝道の力が与えられ、イエスを大胆に証しすることができるようになるはずです。
『あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。』 (使徒行伝4:29~31)
⑨万民祭司について(ヨハネによる福音書20章解説下段より)
『だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 』(ヨハネ20:23)
「人間に罪を赦す権威が与えられるでしょうか?」と言う問題がここにあります。如何に、弟子達の上に聖霊が降って来たとしても、果たしてここで言われているように『だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。』そんなことがあって良いのでしょうか。
カトリック教会が主張するように、ペテロが初代ローマ法王で、罪を赦す権威をイエスから委任され、各時代のローマ法王に継承され、ひいては神父達にもその権威が委任されているのでしょうか。
ここで、まずルターが唱えた、信仰のみ、聖書のみ、万民祭司と言うプロテスタントの三大原則を確認してみよう。
1.私達の救いは信仰のみによるのであって、決して善行によるのではない。
2.私達の信仰の規範は聖書のみによるのであって、様々な言い伝えや、教会がこしらえた教義、伝承は信仰の基準とはならない。
3.私達の心が直接個人ゝとして、神に向かい合い、救いの確信を得るのであって、イエス以外の人間の祭司によるとりなしは必要ない。
特に三点目の万民祭司の教えは、
『神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。』 (テモテ第一2:5)
とあるように、イエスの仲保以外に人間と神の間に立って執り成す権限は人には(たとえそれが神父や牧師であっても)与えられていないことを明確に示しています。
『この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。』(使徒行伝4:12口語訳)とあるとおりです。
であるからして、たとえパウロやペテロがどんなに偉大な使徒であろうが、パウロの名によって救われるのでもなければ(コリント第一1:13参照)ペテロが戴いた天国のカギによって開けていただくのでもない(マタイ16:18~19参照)。
イエスが本質的に神と私達の間に立って執り成す仲保者であって、私達は、私達の上に立つ、汚れた人間の祭司はいらないのです。
『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。』(ペテロ第一2:9口語訳)私達一人ゝ、すべての人が【万民祭司】であって、キリストによって直接神に行き、救いを求め、救われることができます。告解室に入って、人間である神父に罪の告白などする必要はありません。イエスが直に聞いていて下さるのです。
では何故『だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 』(ヨハネ20:23)とイエスはこの時、11弟子に向かって言われたのか。
私の個人的な解釈であるが、私達も、御霊を受け第三者の為、知人、友人、妻、子供、肉親、求道者等の救いの為に祈ることがあります。その執り成しの祈りはイエスによって清められ、天の父なる神のもとに届くのではないか。ある意味その祈りは、個人の救いにおいて、神と協力して、救済の補助になっているのではないか。
救いは神の前に個人が一人ゝの存在として、責任を持ち、自己に与えられた自由意思によって選び取るのです。罪人を赦し、神との間の和解を執り成す者はイエス以外にいない。
そのことを十分踏まえつつ、私達は先に召された者として、人々の救いの為に、御霊を下さるよう、それらの方々の心が変えられ、悔い改め、イエスを受け入れ、新生するように祈ることができます。この場合、ある意味祭司としての役割のようなことをしていると言えないだろうか。これが私のこのヨハネ20:23の御言葉の解釈です。もちろん、どんなに祈ろうが、最後まで主を拒み、信じない者もいるでしょう。救いは私達の祈りの励ましによるのではなく、最終的にはその人が自分に与えられた自由意思で、神の方を選ぶか選ばないかで決まって来るのです。
⑩『「見ないのに信じる人は、幸いである。」』とあるが、実際は心の眼で様々な形でイエスを見ている(ヨハネによる福音書20章解説下段より)
疑い深いトマスにイエスが言われた言葉『「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」』(ヨハネ20:29)について少し考えて見よう。
私達はこの目でイエス・キリストを見たことはない。2,000年前に戻れる者は誰もいないのだから、現代ではイエス見たものは一人もいない。では何故イエスの歴史的存在と、その方をを神の子として信じているのか。それはイエスを見た弟子達が書いた記録である聖書を通してです。そこに書かれているイエスが教えた種々の言葉、行われた様々な事象から、そのことは事実であると信じて、信仰しているのです。
また、聖霊による感化が私達の心眼を開かせ、神の御言葉から、真理が啓示されて来るのです。御霊の啓示によらなければ、如何に聖書の文字面を読んでも、イエスを救い主と受け入れる結果にはなりません。
さらに祈りの中で、不思議な、神の実在を感じたり、イエスの贖いが個人的な経験の中で示されたような、信仰体験と言うべきものを持つことが出来ます。個人的な体験は個人の信仰を神存在への確信へ導く大切なものですが、それらの霊的体験は、信仰の基準になるような絶対的なものではありません。あくまでも信仰の基準は聖書です。しかし、各自の霊的体験はイエスを信じる大きな動機付けになっていることも事実です。
このように実際の肉眼ではイエスを見たことはないものの、御言葉を通し、霊的体験を通して、聖霊の臨在に触れることができます。この教えが、真の神の教えであることに心が導かれ、キリストを今実際に見ているように、行動し信仰し、宗教的実践をしているのです。
『見ないのに信じる人は、幸いである。』と言われているが、実際は様々なことを通して、心の中でイエスを見せていただいています。
『ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。』 (ピリピ3:16口語訳)
『各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。』 (ローマ14:5口語訳)
今日も祈りの中で、あるいは生活の中で、イエスを見て生きていると言う、このような個人的な証しを誰も否定することが出来ない。また、信仰の世界ではそれを否定してはいけない。少しずつ信じ方は違っているところもあるだろう。各自の個性もあり、信仰体験も様々だろう。しかし、それぞれの人がその信仰の達しているところに従って、確信にとどまっているべきです(もちろん、独善的になってはいけないが)。
『だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。』(ヘブル10:35口語訳)
信仰とは、もともと主観的な世界なのです。信仰とは個人の心の中で起こっている、不思議な現象であり、信仰心のない人には全く分からないものなのです。私にとって、イエスは存在し、聖霊を通して、今イエスが私の心の中に住んでいると言う主観的な見方(自分の持っている確信)を、誰も否定することは出来ない。それこそが、永遠の命へと続いて行く、しっかりとした、揺らぎのない根拠なのです。
『あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。』(ガラテヤ4:6)神をアッバ父よと呼ぶことが出来るイエスの霊が、今宿っているのは事実なのです。そのことは第三者が何と言おうと、私達にとって信仰による事実なのです。
⑪何故ガリラヤの地へ行かれるように(マタイ28:10参照)、復活後すぐ、イエスはマリアを通して、弟子達に言われたのか(ヨハネによる福音書20章解説上段より)
最後の弟子たちとのお別れは、エルサレム近くのオリーブ山でした。又エルサレムに来て、再び40日の間多くの人々にお会いになりオリーブ山のべタニヤ辺り(ルカ24:50参照)からイエスは弟子たちの見ている前で、昇天なさいました。ペンテコステの日に聖霊の降下があったのもエルサレムでした。復活後のイエスのお現われになった中心はエルサレムでした。では何故、歩いて3日もかかるガリラヤの地に弟子たちを一度お戻しになったのでしょうか?
そこには深い神の御心があったのです。ガリラヤ湖畔は最初にイエスがペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネと出会った場所でした。世俗の漁師と言う仕事から、聖なる伝道者と言う仕事に、最初に召し出したところだったのです。
イエスが十字架刑につく前後、エルサレムでは色々なことがありました。ペテロだけではなく、結局、弟子たちは、皆イエスを見捨てて逃げ去ったのです(マタイ26:56参照)ですからペテロだけがイエスを知らないと言って、激しく誓ったり、呪ったりして、(マタイ26:69~75参照)イエスを顕著な形で裏切りましたが、他の弟子たちも逃げ出したという点については、五十歩百歩のところがあったのです。ガリラヤへ帰って、最初の召命の所へ戻って、もう一度やり直す必要があったのです。伝道を開始した、原点へ戻って再召命する必要があったのです。弟子達がもう一度伝道者として再出発するために、敢えてイエスは最初の召命地であるガリラヤを選ばれたのです。
そしてこのことは、私達にもまた言えることではないでしょうか。信仰の道を踏み外し、この世の中に帰ってしまうようなことが、心ならずも起きてしまった時、もう一度自分が召された最初の信仰の原点に立ち帰り、純粋な気持ちで、天からの再生の御霊を求め、もう一度本当に生きれるものとしていただきましょう。
『あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。』(イザヤ51:1口語訳)
⑫ペテロがした失敗は、誰にでもあること、そこから学ぼう(ヨハネによる福音書21章解説中段より)
ペテロだけではありません、誰しも、信仰の過程で、主を裏切るようなことをした経験はあるものです。ペテロは心ならずもそのことをしてしまった時、大祭司の庭から外へ出て、激しく泣いて(ルカ22:62参照)心から悔い改めました。イエスはこの事が起こる事を予知して、事件が起きる前に『しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈っ......』(ルカ22:32)ておられました。
私達も、バプテスマを受け、一度はこの世を捨てて、クリスチャンになって、天国への道を、まっしぐらに歩もうと決心しました。ところが、やがて時がたつにつれて、信仰が薄らいできて、この世に帰ってしまう危険性があります。多くの同信の兄弟姉妹が、いつの間にか教会を去り、姿が見えなくなっている、悲しい現実があります。
私達も、この世の楽しみ、又肉の生活の忙しさに負けて、祈りはおろそかになり、聖書を読む機会も減り、全てこの世の思考と、自分の肉の力のみによる努力によって、段々神に頼らなくてもやって行けると思い込むようになり、神から離れて行くことがあるのではないでしょうか。
自分の知恵と力で、神抜きで人生をやって行ける、神に頼らなくても生きて行ける、私はこれが人間の、また私たち自身の最大の罪だと思います。そのような生き方のもう一つの側面は、自己を正当化し、自分は正しいと主張し、イエスの救いも、罪の贖いも必要ないと考えることです。
『もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。......』(コリント第二3:5)
いつも御霊を求め、生活の中にいつもイエスを意識し、聖霊の臨在を感じながら生きて行くこと、全く自分の力を当てにせず、全てを神に頼り、委ね任せて生きて行くこと、そんな生き方が私の理想です。さらに、自己を義とせず、常に贖いの必要を感じ、神の義を謙遜に求めて生きて行くことです。『......よみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。』(テモテ第二2:8口語訳)
人生に神を入れる余地のない生き方ほど、神から離れた生き方はありません。実際恐ろしいことに、人間は神無しでもやって行く事が出来るのです。本当に幸せかどうかは分かりませんが、多くの日本人が、無宗教で、それなりに生きて行っているのを私達はそこ、ここに見ることが出来ます。
自分の知恵や、才能、今までに受けた教育、財産等、ただの人間的な努力だけで生きて行けるのです。神無しの生き方をも神はお許しになるのです。信仰は自由です。神はどんな生き方もお許しになるし、どんな人にも信仰を強制はなさいません。
ただ寂しいですね、そんな生き方には聖霊の満たしの内的な喜びも、イエスの十字架の贖いによって救われ、罪赦された賛美も、感謝も、永遠の命の希望もないのです。あるのは、自分は、自分の力で立派に生きてきたと言う自負心と自己満足だけです。生涯が終わるとき、自分の人生を振り返って、私のある知人は「ああ、楽しかった」と言って息を引き取りました。果たして、それだけで、それだけで良いのでしょうか。終わってしまえば、楽しくもあり、苦しくもあった人生に、その後のことはないのでしょうか。そうではなく、私達はこの世の命に続く、永遠の命の存在を信じているのです。
⑬誰でも失敗はする、そんな時どうすれば良いのか(ヨハネによる福音書20章解説下段より)
誰でも失敗はするものです、そんな時どのようにして主に帰れば良いのでしょうか。失敗してしまった時、救いはどこにあるのか!キリストを離れて救いはないのです。失敗ばかりしてしまう自分を見て自己嫌悪に陥ることもあるでしょう。しかし自分の側を、どんなにクヨクヨして失敗の反省をし、自己分析したって救いはないのです。ただイエスの十字架を見上げるだけなのです。
『地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ。』(イザヤ45:22)この言葉に隠れている意味を考えて見よう。
地の果てなる諸国民とは、私たち日本人も含み、全世界の人間を指していると考えます。何故主なる神を仰ぎ望むだけで救われるのか。イエスの十字架の犠牲がこの聖句の背後にあるからです。その方の身代わりの犠牲を仰ぎ見、信じるだけで救われることこそ、福音の極致です。
ご自分の御子さえ、人間の救いの為に犠牲になさる神が、どこにあろうか。御子を犠牲になさったと言うことは、神ご自身が犠牲になったと言うことに他ならない(三位一体)。 罪を犯し、自分から離れて行った被造物の救いの為に、ご自身を犠牲にする神がどこにおられようか。その一事の故に『わたしは神であって、ほかに神はないからだ。』と主張される至高者がそこにおられる。
この救いの神、愛の神こそ、私達の真の神であり、私達が拝み、仕えるべき神なのです。ただ『わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。』と、ご自分の名前と名誉にかけて大胆に約束して下さっている神なのです。神ご自身が命を捨てるほど愛して下さったその愛を疑ってはならないのです。聖霊を拒む罪を除き、赦されない罪などひとつもありません。
私達は何か教理によって救われるとか、教会組織によって救われるのではありません(もっとも正しい教えをしている教会に属することは、救いの確実性を増すと言う意味で大事なことではありますが)。誰でもキリストとの個人的な関係の中で救われて行くのです。いつもイエスのところに帰れる秘訣がそこにあるのです。心ならずも罪を犯してしまうときが誰にでもあります。そのようなとき、再び十字架の上でキリストは、私達のために釘打たれ、傷ついているのです。
ペテロが裏切った時、主は振り返りペテロを、慈愛に満ちた、優しい赦しの眼差しで見つめられました。その赦しと、慈愛に満ちたイエスの眼差しに触れた時、ペテロは激しく泣いて、自分のしたことを悔い改めたのでした(ルカ22:61,62参照)。
主は私の為に再び、傷つき、泣いて下さっている。再び私の為に十字架にかかり血を流されている。そこが私達が霊的に、もう一度生き返るために帰る唯一の場所なのです。罪を犯して、イエスから離れて行ったら何にもなりません。そのときこそ、イエスに帰るしかないのです。私達が常に戻るところはイエスの十字架しかないのです。
⑭ヨハネとペテロの生涯から学ぶ私達の生き方とは何か(ヨハネによる福音書21章解説下段より)
『はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。』(ヨハネ20:18~19)
キリストに従って行くとき、究極的には何が起きるだろうか。物質的にも恵まれ、財産が増し加わり、健康も祝福され、幸せで長生きが出来るのだろうか。そうありたい、私は心からそのようになって生きたいと希望する。
実際にこの世的にも祝福され、幸せな家庭生活を送り、平安な生涯を送ることが出来ているクリスチャンの方々も多くおられるし、愛の神はそのことも、お許しになっておられる。この世での幸せを頭から否定するようなことは出来ないし、それは神の御心ではないだろう。『神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。 』(エペソ3:19参照)とある。
しかし、ペテロの場合はどうだったのだろう。ヨハネの場合はどうだったのだろう。
イエスが予知(予定?)されていた人生があります。しかし、人間の側では神の御計画された人生を最初から読み取ることはできません。人は少し先の将来も見ることが出来ない有限な存在だからです。結局私達は自由意思によって、自分の人生の進む道を選択し、職業を選択し、収入を得てこの世で食べ、飲み、楽しみ、笑い、悲しみ、与えられた、過ぎ去ればあまりにも短く、しかも慌ただしく、僅かな人生と言う時間を過ごして行くしかないのです。これは神のお定めになったことで、生きて行くことそのものは良いことではあります 。
『若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行』って良いのです。ペテロもそうだったし、私達もそのようにして来ました。自分の望みをかなえようとして、自分で人生設計をし、学業に励み、この世で生きるスキルを身に着け、結婚し、生活の糧を稼ぎ、たまにはレジャー等を楽しんで来たのです。
私自身の半生を振り返って見ると、祈りつつ歩んできたつもりではあっても、御旨にはかなわないことはたくさんありました。
必ずしも自分の人生は学生時代等に企てた通りには進まなかった事は残念です。途中から自分が計画したとは全く違った方向へ進んでしまったことは、自分の肉の罪の結果がもたらしたものとは言え、その場その場で神の導きを求めながら、やってきた結果であったのです。
自分の能力の限界と、与えられた社会環境の中で、止むを得ない選択と、試行錯誤の中で、迷いながら、生きて来ました。しかし、どんな困難にぶつかっても、この世で収入を得て、幼い子供たちを育て、食べて生きて行かなければならないと言う差し迫った、肉の要求に応える為、必死に生きて来たのです。
人生が当初の予定通り進まなかったとしても、曲がってしまった人生、それらも含めて真摯に悔い改めの祈りをしたとき、御赦しと憐みの下にすべてがあったと信じています。
肉的ではあっても、仕事、レクレーション、趣味や、旅行を楽しんできたこと等、生きることそのもの自体は、別に悪いことではありません。自分の短い人生の一部であったのです。どんな局面に陥ろうと、神はそれらのことも許しておられました。
振り返ってみれば、自分も含めて若い時は、良い意味でも悪い意味でも肉の力があります。自分が定めた目標、理想に向かって、エネルギッシュに行動する。後先のことも考えずに目標に向かって突き進む。
でも歳をとって来るとそうは行かないのです。肉体のあちらこちらが、悲鳴をあげ出します。自分で自分の身体を自由に動かすことができなくなるのです。やがて、人生の最後には人に介助を依頼するようになり、衣・食・住の総てを誰かに頼って行かねばならなくなる時が誰でもやって来ます。
若いうちは自分が好きなように、自由に生きれることは、当然なことだと思っていて、健康で生きていることそのものが神の恵みの内にあることを気が付きもしていない。肉の自由であっても、良く考えて見れば、自分勝手に自分が思うままに生きれるなんてことは、幸せなことだったのです。
しかし、今になって、歳をとって来て考えると、人生それだけで良いはずはないのです。ただ私の肉の力で『自分で帯を締めて、行きたいところへ行』くだけが人生ではない。神が私達の為に、永遠の世界を計画し、そこに入らせるために、身をかがめ、へりくだって、人生の躙り口から入ることが必要なのです。【躙り口‐草庵茶室に設けた客の出入り口。高さ2尺2寸(約67cm)、幅2尺1寸(約64cm)が標準。開口部が小さく、客はにじって(正座のまま少しずつ膝をつかって進むこと)入る。https://kotobank.jp/word/%E8%BA%99%E3%82%8A%E5%8F%A3-591870】
イエスに従って行くならば、いつか必ず、自分の肉の欲望、生き方を、この世と共に十字架につけることを求められるのです。『この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。』(ガラテヤ6:14)『キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。』(同5:24) 茶室に入るにはただ肉体をかがめれば良いが、天国の入り口の、狭き門は、十字架と言う空極の遜りを要求されるのです。心底から悔い改め、心を神の前に砕かれなければ、天国の狭い躙り口から入ることが出来ない。
ところで、人の人生の結果を神は最初からご存知です。私達が自由意思によって選んだ人生、職業や配偶者の選択、そして多くの禍根を残すことに結局はなってしまう家庭生活や様々な出来事、その結果もまた最初から神はご存知なのです。私の過去の結婚の大失敗を思い出す度に、神は何故そのような事をお許しになったのかと度々思います。しかし、過去の時間も、出来事も取り戻すことは出来ない。後悔するよりも、今と言う時を生きることを与えられていることに感謝し、神と人を愛する愛の生き方に自分をチェンジして行くことが、一番大切な事なのです。
ペテロは『年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれ』最後は、他の人によって、十字架上で両手を伸ばされ、イエスと同じ様に、磔にされ殉教死したのです。言い伝えでは、イエスと同じ姿の死では余りにももったいないことなので、自ら申し出て、逆さに十字架にかけられて亡くなって行ったと言われています。
一方、ヨハネはどうだったのだろうか。イエスの母マリアを連れ、エペソに移り住んだヨハネは、後にパトモス島に幽閉され、そこで黙示録を書いた。釈放されてエペソに戻り、天寿を全うした。その墓はエペソにあります。ヨハネの福音書を書いたのはパトモス島から釈放された後、老年に達してからで、弟子プロクロスが口述したと伝えられています。
ペテロは自分の生涯が殉教で終わるとイエスによって預言された時、ヨハネがどうなるかが気になった。その時イエスは、信仰は個人ゝの問題だと言われたように思われます。冷たいようだがそうなのです。人がどうなるかは関係のないことです。
たとえヨハネが、死ぬことなく、永遠に生き続けたとしても、ペテロよお前の生涯は私が決めてある、あなたは私に従って来なさい。そして預言通り殉教して行くのだ。ヨハネ20:18~19のイエスの言葉はそんなニュアンスに受け取れます。それを聞いていた弟子達の間では、ヨハネは死なないのではないかと言う噂話が飛び交うことになったが、ヨハネはそのことについてはっきりそうではないと書いています。『しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。』(ヨハネ21:23)
私は思う、最終的なキリスト教の生き方は何処にあるのだろうか、と。キリストとつながり、常に心の中にキリストを感じ、霊の満たしの中で生きること、それしかないのです。
その目的は、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 (マタイ22:37~39)と、はっきりイエスが定義している。
そしてその隣人愛は、結局、友のために命を捨てるほど愛して行くことが求められるのです。
『わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』(ヨハネ15:12~13)
さらに、神の為にも、命を捨てるほど愛して行かなければならない。 『自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。』(ルカ9:24,マタイ16:25参照)と定義されています。人それぞれにどんな環境にあっても、結局はこのような生き方をするように導かれて行くのではないか、そんな気がするのです。
その形として現れるのが、ペテロのように殉教であるか、ヨハネのように生涯をイエスを見上げながら、愛の本質を極めて行く生き方なのかなのです。どちらも神がお許しになっておられるし、どちらの生き方も主の御心のままにと言うことです。
⑮瞑想の時間を持とう(コロサイ人への手紙の自己流解説中段より)
静かにキリストが私達の心の中に住んでくださるよう、毎日少しの時間で良いですから、日常の煩わしさから離れ、雑念を追い払い、静かに瞑想してみましょう。キリストが私達のために何をして下さったのか、また今、天の至聖所で、父なる神の前に出て、何をしているのか、考えてみましょう。この世のやらねばならない用事を暫し横において、(やらなければならないことは生きている限り、常に数限りなくあるのですから)、キリストに心を向けて、自分の心の中を探ってみましょう。
『「静まって、わたしこそ神であることを知れ。......... 。」』(詩篇46:10) あまりにもつまらない、物質的な、肉的な楽しみ、仕事、自分の趣味等に拘ってはいませんか?(それらをやる事を神は許されてはいますが)。それらの中にのめりこみ、神が見えなくなる程夢中になってはいませんか?
- 塵、灰、埃のような小さな自分が見えてきませんか?
- 自分は人生の貴重な時間をどれほど無駄に過ごしてきたか?
- あと何年生きれるのか考えてみましょう。
- 心の中に示されたことに対し、反省し、静かに神の前に告白し、悔い改めの祈りをする。
- またキリストの聖霊による臨在を瞑想しましょう。
すべての日常の思い煩いから離れて、一日に何回か、短くても良いですから、このような時間を取ることは、思った以上に、自分に落ち着きを与えてくれるし、楽しい、静かな、自分にとってかけがえのない時間になって行くと思います。
⑯私達は霊的な意味でイエスと共に新しい命に復活させられている(コロサイ人への手紙の自己流解説中段より)
あなたがたはキリストと共にすでに霊的意味で復活させられているのだから、地上的な肉的な物ではなくて、上にあるもの、霊的なものを求めて行きなさい。『...あなたがたは、キリストと共に(霊的に)復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。.........』(コロサイ3:1)
キリストにある愛、平和、喜び、満ちあふれるばかりの感謝、隣人愛の実行、キリストを心の内に住まわせ、キリストの愛の広さ、長さ、高さ深さがどれほどであるかを瞑想し、『神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされる』(エペソ3:19)ことを求めていきましょう。イエスの復活の命がすでに私達の心の中にあって、始まっているのです。
『互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人(文明人)、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。』(コロサイ3:9~11)
⑰ローマ人への手紙は、時代を超える霊的活動力の根源(ローマ人への手紙の自己流解説最下段より)
ローマ人への手紙は人間が神の前にどのように生きなければならないか、神の前にすべての人が罪人であり、信仰によって義とされ、救いの中に入れられることが主要テーマであるが、それだけではない。この地上生活にあってすら、第一のアダムにある遺伝的な肉の罪の支配、奴隷状態から脱却できることを強調している。第二のアダム(キリスト)による、復活の義の力の支配を信じ、十字架で己が肉の弱さが、キリストと共に処断され、聖霊を受け、キリストと共に霊的に復活させられた、命の御霊の中に喜び、キリストの再臨を現実的切迫感の中で待望しつつ、聖書の倫理観を実行しながら地上生活をして行くことを、この手紙は強く勧めている。ローマ人への手紙は、時代を超える霊的活動力の根源であると私は思う。
ただ教会に毎週出席し、形式的な信仰の中で、敬虔に過ごしていく ことが、無駄であるとは決して私は思わないし、ある意味単調で、平安な、繰り返しの毎日のクリスチャン生活も、それなりに意義のあることだ。ほとんどの信者は、私を含めて平凡なクリスチャン生活を送っているとは思う。
しかし、ローマ人への手紙が伝える、新生と、キリストの義の支配下で、献身的に生きるクリスチャンの姿は、もっと躍動感にあふれ、伝道精神に満ち、感謝と喜びに満ちた生き方であろう。主の霊があるところに自由があると言う、霊によって解放された生き方は、単に律法の文字面に拘り、自己の肉の力で律法を表面的に守っていると勘違いしている、律法主義的に硬直した生き方を、真に改革して行くだろう。
第二のアダムにあって救われ造り変えられた肉に及ぼす、聖霊の活動力は、偽りの敬虔さと言う気が付きもしていない、表面的な倫理主義からの解放をもたらすであろう。
ルターは、その 『正しい者は、信仰によって生きる』(ローマ1:17)の聖句よって感動し、聖書よりも伝承と、教会の権威を重んじているカトリック教会にプロテストし、「聖書のみ」「信仰のみ」「万民祭司」の大原則を打ち立て、宗教改革を成し遂げて行った。そして、ここから新教、プロテスタントが始まった。ローマ人への手紙は、真剣に読み、祈りの内に学ぶ者の人生を、変革していく力がある。
古くは、若い頃、自己の情欲に溺れ、情婦に子供まで産ませてしまったアウグスティヌスの心に、聖書を「取って読め」と神は語りかけられたと伝えられている。
『なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。 あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。』(ローマ13:11~14口語訳)の御言葉が彼の心を砕き、回心させた。彼はペルシャを中心に信じられていた、マニと言う教祖が流布した善悪二元論のマニ教に傾倒していたが、キリスト教に改宗し、後に偉大な神学者になっていった。
メソジスト派を創設したウェスレーは、ルターのローマ書注解を読んで、信仰に目覚めて行ったと伝えられている。
この手紙でどのくらいの人々が信仰に目覚め、人生が改革され、歴史そのものが動いてきたか。アウグスチヌス、ルター、カルヴァン、ウェスレー等々、枚挙する必要もないほどです。
⑱石に刻まれた文字に仕える死の務めとは何か。(コリント第二の手紙の自己流解説中段より)
特にコリント第二の手紙3章~4章に渡って書かれている流れについて解説します。
★石に刻まれた文字に仕える死の務め。(コリント第二3:7)
★霊に仕える務め。(同3:8)
を中心に、改めて私の考えを展開するが、別の考えをお持ちの方があるかも知れない。それはそれで、その人の確信に留まれば良い。繰り返しの多い、整理されていない文書で、誠にお恥ずかしいが、以下に書くので、 要点を理解していただけたらと思っています。
コリント第二の手紙3章~4章は、ローマ人への手紙やガラテヤ人への手紙のパウロの主張の表現を変えた、同じ律法に対するメッセージであると解釈することが出来ます。
手紙は文字によって内容を伝えます。コリントの信者は、パウロに言わせれば、パウロが書いた、パウロの生きた手紙です(イエスによって変えられた霊に満たされたコリントの信者自身が手紙なのです)。文字は人を殺し、霊は人を生かす。石に刻まれたモーセの十戒の文字は死を宣告する。これは『......律法によっては、罪の自覚が生じるのみ...』(ローマ3:20口語訳)と同じことを書いた別表現です。要するに、罪を指摘し、罪に定める働きが文字の働き。文字は判決文と考えて見ると分かり易い。有罪宣告し、死に定めるのです。
しかしもはや、イエスを信じ、恵の下にある信者は、そのような律法の下、養育掛的用法の下にはいない。
主を仰ぎ見るとき、恵の下に、霊の自由な中にいて、キリスト者の自由を味わうことが出来る。今でも会堂で、律法の書が読まれるたびに、何か自分の肉の努力で、単に表面的に律法を守る事によって救われるのではないかと言う、律法主義の覆いが会衆の心に被せられ、恵の光を遮ってしまう。律法の下にいないとパウロが言っているのは、私達が生まれつきの、腐敗した肉の力で律法を守るような用法の下にはいないと言っていると解釈できる(あるいは養育掛用法の下にはいない)。もし肉の力だけで、キリスト無しに律法を守る事だけで救われるのなら、キリストの十字架は必要なくなる。これこそ律法主義です。
少し本筋から離れるが、ここで私が言う肉の力とは、私達が生まれつきもっている能力プラス、後天的に教育によって取得した、この世を生き抜く為のスキルと考えても良い。この肉の能力の中には意志も含まれると私は考える。肉に備わった知・情・意の3つの要素は、それぞれ生活する上で大事な働きがあることは確かだ。それを否定することは人間を否定することだとは思う。
科学も、芸術も、美も、音楽等も、たとえ肉から出たとしても、美しいものは美しいし、良いものは良いものです。しかしそれらを産み出した人間に備わっている肉の能力は、一度十字架につけられ、本来のあるべき正当な位置に置かれなければならない。聖霊によって生まれ変わることによって、知・情・意の3つの能力は神の器として用いられるようになります。
肉の総ては一度十字架につけられなければならない。これは私の肉理解(人間理解)です。この考え方の線上に浮かぶのは、意志の問題です。
意志だけは堕落しなかったのであろうか。人間には意志の力、また選択の自由意思があります。この自由を選ぶ意思も、そのままでは肉の能力であることには変わりはない。自由を選択する意思だけが、堕落を免れ、十字架の贖いなくて、清められていて、聖なる方向、神の側を選択する事に使用できるのであろうか。そこは良く考えて見なければならない。
滅びの方を選択することも含めて、私達が自分の中に持っていると言うこの選択の可能性をもたらすと思われる自由意思は、本当に100%、環境にも、遺伝にも左右されないのであろうか。私が何を言いたいかと言うと、実は意思そのものも、肉の傾向があり、キリストによって清められなければ、神の御心に沿った選択はできないと言うことなのです。
さて、コリント第二の手紙に戻ろう。
『...主の霊のおられるところに自由があります。』(コリント第二3:17新共同訳)
モーセの顔覆いは、私たちから取り去られて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、聖霊の毎日の満たしの中で、イエスにいつも心の中でお会いして、イエスと同じような形に私達は日々変えられて行く。これがクリスチャンの生き方です。
『わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだ』(コリント第一9:21口語訳)と、『あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。』(ガラテヤ6:2口語訳)との記述によって、救われた者は、依然神(聖霊・キリスト・神は三位一体)の律法の中にいることは明らかだ(キリストの律法と言う言葉はパウロの書簡の中に、この2箇所しか出てこない)。
同じことが『愛の実践を伴う信仰こそ大切です。』 (ガラテヤ5:6)とも表現されている。律法の精神は愛だからです。
この世の法廷をイメージしてみよう。裁判官から、無罪宣告されたとしよう。被告にとってこれは大変な喜びであり、もはや、牢獄から解き放たれ、自由な身になれる。だからと言って、社会に戻って、法律など無視して、全く自由に生きて良いのだろうか。そんなことはあり得ない。社会人である限り、無罪宣告され、牢獄から解放されても、法律遵守はその後も求められて行くのです。『しかし、わたしたちは、律法は正しく用いるならば良いものであることを知っています。 すなわち、次のことを知って用いれば良いものです。律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、 みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、偽りを言う者、偽証する者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えられているのです。 今述べたことは、祝福に満ちた神の栄光の福音に一致しており、わたしはその福音をゆだねられています。』(テモテ第一1:8~11)(律法の標準的用法)
一方、クリスチャンは律法に対して、肉の守り方には死んでいるのです。つまり、肉の自己を、キリストの肉の砕きと共に十字架に付け、律法からは解放され(ローマ7:6)、キリスト者の自由を味わっているのです。
律法は 神の御性質ですから死ぬことも、なくなることも出来ません、律法が死ぬのではなくて、私達、肉の自己中心的な私達が死ぬしかないのです。肉を十字架に付けて、本当に肉において死んだ者は律法から解放されているからです。肉によって仕える仕え方からは解放されているのです。別の言い方でをするならば、肉の努力で、聖霊抜きで、律法を守ることから解放されています。何故なら、イエスにあって私達の肉は死んだことにされているからです。しかし霊によって新しい生き方で仕えることからは解放されません。
『しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、"霊"に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。』(ローマ7:6)
キリスト者は律法から解放され、自由を得ています。でも、その自由の機会を『罪を犯させる機会とせず』(ガラテヤ5:13)愛によって生活しなければなりません。決して無律法主義をパウロは唱えているのではありません。
ここでの注意は判決文としての、裁判官から語られる、ギルティーの用法の下(養育掛用法)にはいないが、律法が文字であらわしている内容、愛の方向性を具体的に示している中にはいると言うことです。
栄光の霊を映すように変えられたクリスチャンの生き方は、真の意味で霊によって神に仕えて行くのであって、その仕え方は、文字をある意味超越しているところがあるかも知れないが、文字を全く無視するというような、無律法主義にはならないと私は考えます。
『霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。』 (ローマ8:4)とあります。 霊によって歩みことによって、律法の要求はむしろ、本来の意味(形式主義、律法主義ではなく、真の愛の実現として)で満たされていくのです。
『それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。』(ローマ3:31)私達が、復活の霊を受けながら、キリストに近づけば近づくほど、 むしろ律法は、成就されて行くものであろう。
『キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。』(ローマ10:4新共同訳)
『キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。』(ローマ10:4口語訳)
キリストは律法の終わりになられたと口語訳で訳されているこの言葉はギリシャ語τέλος telos であり、終わり・最後・目標・行き着くところ・結末・極限まで等の意味があります。私は私訳でありますがキリストは律法の「行き着くところ」もしくは「極限をあらわした」と受け取りたいのです。キリストは実は律法の体現であり、真の形なのです。愛の実現であり、愛そのもののお方なのです。突き詰めて言えば、福音と律法はキリストにあって一つであるのです。 さらにこの個所は、律法の成就になられたと訳す方がふさわしいかも知れません。
また、イエス御自身の律法に対する重い御言葉があります。『律法の文字から一点一画も消え去ることはない。』(マタイ5:18新共同訳)『あなたがたの義が......パリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。』(マタイ5:20口語訳)
もちろんこうは言っても、その続きを読んでいくと、情欲をもって女を見てはならないし、右目が罪を犯させるなら、えぐり出して捨ててしまいなさいとも書かれているので、全体を通して、イエス独特の誇張表現であると理解しなくてはならないとは思います(もしこれが誇張表現でないとすると、クリスチャンの男性は皆片目しかないことになります)。
さらに、エペソ4:25~6:3のパウロの言葉を読みますと、パウロが十戒の順序を全くバラバラにして、しかも表面の行いよりは、心の中を描写し、心の中そのものの持ち方が大事であることを強調して書いています。この部分は、私に言わせれば、パウロの新十戒解釈と見て良いでしょう。特にエペソ6:2には『父と母を敬いなさい。』と直に、十戒の第5条が引用されているので、エペソ4:25~6:3を書く時にパウロの頭の中に、十戒があったことは間違いありません。
信仰の結果として、神の前に、愛の行い、つまり聖霊によって、義の実を結ぶことが出来ます。恵の後に、愛の行いが必ず強調されています。『律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。』(ガラテヤ5:14口語訳)
繰り返しになるが、私達はキリストの恵みの下にいるのであって、律法の下にはいない。『......あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。』(ローマ6:14新共同訳)肉の努力や、人間の力だけで神の律法を守ろうとすることは不可能です。『なぜなら、肉の思いに従う者は、......神の律法に...従いえないのです。』(ローマ8:7新共同訳)律法の下にいるとは、どういう状態を示しているのでしょう?キリストの贖いや、復活のキリストの御霊に満たされることなく、自分の変えられていない、生まれつきの肉の能力や、後天的に勉学等で取得した能力によって、神の律法の要求を守ろうとするとき、その人は律法の下にいるのです。
表面的に律法遵守を取り繕い、自分はあたかも神に従っているかの如く、自惚れしている状況、すなわちキリストの義の代わりに自分の義を神の前に立てている、浅はかな状況を律法の下にいると言うのです。
自分は、自分の行いにより、少しでも神に近づいたかな、などと思う思いがあったなら、律法の下にいるのです。人間の汚れた行いによって、神の前に受け入れられることは決してありません。すべてはキリストの恵み、神の御恩寵によるのであって、キリストの下、すなわち恵みの下にいるしか生きて行く道はないのです。こう言う意味で律法の下にはいないようにいたしましょう。
人間は肉のもとに売られており、イエス・キリストが肉を十字架で処断なさらなければ、私達の肉が邪魔をして、そもそも神の律法など守れないのです。本質的に律法の要求は、神の為に命も捨てて従い、人の為に命を捨てて愛して行きなさいと言うことなのです。肉の命を自分の力で神と人の為に捨てたり、削って行くことなど、生まれつきの利己心と自己愛に満ちた人間には出来るはずはないのです。
さらに、この世の神が、この世の名誉、財産、成功、肉欲、現世的欲望、貪欲等の満たしをもって、福音を覆うことがあるかも知れない。滅びの道をたどる人には福音は覆われてしまう事があるかも知れない。
しかし、私達はイエスに仕える僕(奴隷)です。偉大な力を土の器の中に持っています。変えられていない、古い肉を十字架につけ、復活のキリストの命を霊的に宿し、霊的に復活の経験をすることが出来ます。
やがては本当の現実の復活も、この世の終わりには体験させていただき(コリント第二4:14参照)、神の御前に立たせていただける事を私達は知っています。この霊の力によって、私達は生きる手紙として、御霊の実、愛の実を豊かに結んで行くのです。