テモテ第一
テモテ第一の手紙
テモテ第一の手紙を研究するにあたって、その背景を少し考えて見よう。パウロは紀元62年にローマに到着し、その後2年間、軟禁状態で、比較的自由な形で、兵士一人の見張りを付けられ( 使徒行伝28:16参照)自分が借りた家で、訪問してくる客に対しては何者にも妨げられず、自由に福音を語ることができた。
紀元64年に釈放され(諸説あり)、しばらくエーゲ海近辺で宣教活動をして、やがて再び捕えられ、紀元67年、ネロ皇帝の迫害で、獄吏によって首を切られて、殉教死した。
テモテ第一の手紙が書かれたのは、おそらく、一時的に釈放された紀元64~65年頃であり、エペソの教会指導者になっていた、愛弟子テモテに対して、パウロがマケドニアにいたとき書いたと思われる。マケドニアの何処であるかは不明(テモテ第一1:3参照)。もしかすると、テトス3:12にあるように、アカイアのニコポリスに居たのかも知れない。但しこれは証明することはできない。『マケドニア州に出発するときに』(テモテ第一1:3)としか書かれていないので、これ以上の詮索をする事は控えたい。
パウロが自分の子供のように、最も信頼し愛していた弟子テモテは、どうも、少し弱腰で、若いので、軽んじられるようなところもあったのではないかと思われます(同1:18、同4:12)。牧会書簡と言われているこの手紙は、エペソでテモテがどのように教会を指導していくかがテーマとして書かれています。
さて、この手紙の救いに関する、神学的メッセージはどこにあるのでしょうか。
ガラテヤ人への手紙(紀元49年頃執筆)やローマ人への手紙(紀元57年頃執筆)で、救いはただキリストの義を信じるだけで与えられる神の賜物であること、 『決して行いによるのではない。』(エペソ2:9口語訳)とあれほど強調したパウロでした。しかし、最初の手紙を書いた時から、15年の月日が流れ、パウロ晩年の最後に近づいたとき書かれたテモテ第一の手紙で(おそらく刑死の3年前、紀元64~65年頃筆記)何と再び律法を強調しているのは、信仰による義認のみをパウロの強調しているところだと思っている人々にとっては驚きの描写です。
律法は善なるもので、神の愛のご性質の一部であると言われている。『律法は正しく用いるならば良いものであることを知っています。...律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、...父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、...偽証をする者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えれらているのです。今述べたことは、祝福に満ちた神の栄光の福音に一致しており、わたしはその福音をゆだねられています。 』(テモテ第一1:8~11)
何故ここでパウロは再び律法を持ち出したのでしょうか。ガラテヤ人への手紙執筆から15年も経ているのに。また、テモテ第一の手紙を書いた、少し前と考えられる紀元64年頃、テトス宛に書いた手紙には『律法についての論議を避けなさい。』(テトス3:9)と言っているのに。
そこには、自分では知者と思い込み、何も分かっていないのに、律法について論議をして、また民の上に立って、指導者として、律法の教師を自認する人々がいたことがうかがえる。キリスト教の目的は『...大切なのは、新しく創造されることです。』(ガラテヤ6:15)『...清い心と正しい良心と純真な信仰と生じる愛を目指す...』(テモテ第一1:5)と書いてあるとおりです。ですからあえて律法についての論議を本来ならば、ここで繰り返したくはありません。しかしながら、読者にお許しいただいて、あえて私の律法に対する、ここでパウロが主張している、目的に合った正しい律法の用い方をするならば、本来律法は良いものであると言う点の私なりの解釈を以下に記します。律法は(ここでは道徳律を指す)正しく用いるならば、パウロが理解していた福音と矛盾しないのです。『祝福に満ちた神の栄光の福音に一致しており 』と書いてある通りなのです。
律法には養育掛用法と、もう一つ見落としがちであるが、標準的用法があると考えます。クリスチャンとしてのスタンダードを示し、キチッとしたクリスチャンを作り上げるのに役立つ用法です。福音主義の教会がイエスの慈愛と恵のうちに、穏やかな愛に満ちたクリスチャンを育んでいることは承知しているし、尊敬もしています。しかし、何かこの世とのかかわりについて、今一つボヤケている印象を持つのは私だけでしょうか。彼らが考える聖日である日曜日に、結構この世の娯楽に興じたり、また偶像崇拝のこの世の習慣に流され、神社仏閣に平気で行ったり、平気で飲酒、喫煙をしたり、何かキチッとしたクリスチャンとしての姿が感じられないようなところがあります。
クリスチャンとしてあるべき標準に達している(標準をどんなレベルにするかはまた議論の余地が大いにありますが)から救われる、達していないから救われないという事ではなく、クリスチャンとして、達すべき標準を示すことは、大事なことではないだろうか。
盗まない、 嘘つかない、殺人をしない、姦淫をしない、同性愛をしない、偶像崇拝をしない、週の第七日目安息日遵守、貪欲に陥らない、人を憎まない、天地創造の聖書の神のみを拝むこと、神の御名をみだりに唱えない、父母を敬う事等、守らなければならない標準が聖書の中に書いてあり、クリスチャンになればこれらの事を行動の標準として遵守すべきです。これらを守ったから救われるとか救われないとか言う事ではなくて、このような標準に達することが期待されているのです。
また律法の養育掛用法についても良く考えるべきです。律法は鏡です。律法の鏡に自分の姿を映して見て自分が汚れていることを悟るのです。人は自分の罪深さを悟り、キリストの贖罪の必要性を感じ、キリストのもとに来ます。鏡は汚れを指摘しますが清める力はありません。この意味で、律法には人を救う力はないことは明らかです。
また、律法は霊的な物であり、肉のもとに売られている人間が、どんなに努力をしても、それを肉の力のみで守ることなどできません。表面的には守っているように見えたとしても、人間にはその精神の髄まで、肉的な物が腐敗的にゴチャゴチャに入っているので、生まれつきの肉の人間は守ることなどできないのです。
律法の下にいないとパウロが言っているのは、私達が生まれつきの、腐敗した肉の力で律法を守るような用法の下にはいないと言っていると、私は個人的に解釈する。もし肉の力だけで、キリスト無しに律法を守る事だけで救われるのなら、キリストの十字架は必要なくなるし、律法主義と言われてもしょうがない。 私達は霊の下、キリストの恵みの下にいるので、律法の下にはいない。しかし、人間は肉を持っているので、人間はその肉を情と欲(金銭欲、名誉欲、貪欲、自己顕示欲等それらすべての欲)と共に、十字架につけていかなければならない。
一方、律法の標準的用法の適用はどんなクリスチャンにも与えられているものであって、御言葉に祈りつつ、聖霊にお力によってよって、肉の自分が変えられつつ従う事は良い事だと考えます。
テモテ第一の手紙1:8~11に書かれている律法の標準的用法は聖書が私達クリスチャンの信仰と行動のすべての規範であることを常に頭において読んでいかなければならない聖句です。
パウロが今まで、ガラテヤ人への手紙やローマ人への手紙であれほど明確に説いてきた福音に矛盾しないのです。それどころか彼自身が、『今述べたことは、祝福に満ちた神の栄光の福音に一致しており、わたしはその福音をゆだねられています。』(テモテ第一1:11)と、この聖句で、パウロ自身が福音を神に委ねられ、任せられた権威者として、この律法解釈は決して自分が宣教してきた栄光の福音に矛盾するものではないと保証しています。
ここで再度確認しておきたいことは、私達が自分の肉の力で律法を守れることなどありえません。私達生まれながらの人間は、罪のもとに売られて、肉の努力や修行ではどんなに努力しても、神の律法を守れないことは何度も書いて来ました。完全になる(タム‐へブル語、テレイオス‐ギリシャ語 十分に成長するの意味)唯一のチャンスは、自分の力や努力ではなくて、イエスの十字架の血による贖罪をそのまま自分のものとして受け入れ、買い戻され、そして内なるキリストに心の中に住んでいただくことなのです。罪の赦しもキリスト、罪の聖めもキリスト、品性の完成もキリストなのです。キリストに常に結ばれていく以外に、完全になれる(十分に成長する)可能性はありません。100%キリストなのです。
パウロが信仰による義を説き、聖霊によって新しく生きることを説き、あらゆる知恵を使って教えてきた事、これらの知恵を尽くしたパウロの説明のすべてが、内なるキリストを目的にし、クリスチャンが自分の心の中に住むキリストを自覚し、キリストに固く結ばれ完全なものになるように、完全を目指して歩むようになるためであったのです。また、完全と訳されているギリシャ語テレイオスは、十分に成長した、あるいは、成熟していると訳した方が良いと言われています。
十戒を見れば見るほど、自分の至らなさが示され、律法はキリストに私達を連れて行くための養育掛としての働きをします。『こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育掛となったのです。』(ガラテヤ3:24) 人間の思いの中にある罪を自覚し、キリストの十字架のもとに連れていかれ、悔い改め、神に義とされ、赦されて、神の前にキリストの義をいただいて救われます。パウロは断言する。律法を守る事によっては誰も救われず、律法によっては罪の自覚が生じるのみなのだ。人間は本質的に、肉に売られており(霊と逆の表現)、生まれたまま肉の性質を持っている人間はそのままどんなに修行に励み、努力を重ねたとしても、神の聖なる律法の要求に達することはできず、不完全な自分の姿が自覚されるだけだ。『律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。』(ローマ3:20)
人間の精神も含めて、生まれながらの人間は堕落しており、肉の性質を持っているので、そのままではどんなに努力しても、神の崇高な律法に従う事は出来ないのです。
しかし、神の聖霊によって、もう一回生まれ変わる事が出来る、肉体を持っているので、肉の性質は完全にはなくならないけど、人間の内面が神の霊による生まれ変わりを経験して(新生)、やがて少しずつ変えられながら、不完全ではあるけれども、段々と神に従っていくことが出来るようになるのです。(聖化)。
養育掛用法はいつまでもその用法の下にとどまるべきではない。信仰によって義とされ、聖霊に満たされたクリスチャンが律法の養育掛用法の場所にいつまでもとどまらないと聖書自身が解釈しています。『しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。』(ガラテヤ3:25) 恵の下、赦しの確証の下にいるのですから、もう自分が罪深い(事実ではありましょうが)と言い続けて、いつまでも自分の肉の傾向にある心を分析し、自己中心を嘆きながら、ウジウジしているのは止めましょう。自分ではなくキリストを見続ける以外に変えられて行くことはできないのです。
しかし、律法には養育掛用法と、もう一つ見落としがちであるが、標準的用法があると考えます。そのことについては前述した通りです。
養育掛用法からの解放はへブル書の御言葉を読めば明らかです。『それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所(至聖所)に入れると確信しています。 イエスは、垂れ幕(聖所と至聖所を分けていた幕)、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。 』(へブル10:19~22新共同訳)
テモテ第一の手紙はパウロ晩年の手紙です。この手紙での、パウロの福音の表現は、自分がいかに罪深い行いをしていたかに言及することから始まる。執事ステパノを殺害することに賛同し、多くの聖徒をエルサレムにおいて捕らえて投獄し、さらにダマスコまで迫害の手を伸ばそうとして旅をしていたら、その途中、イエスの超自然的顕現によって、企てが挫折し、自らがクリスチャンに改宗して行く。自分が知らずにした事とは言え、ユダヤ教に熱心なあまり、多くのキリスト者を迫害したのだから、彼は心から自分が最も大きな罪を犯した、罪人の頭であると考えていた。『「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。』(テモテ第一2:15新共同訳)
私達は肉につけるものですから、大なり小なり、現行罪的にも全員罪を犯している者です。自分に正直になろうではありませんか。誰が生まれてから一度も神の標準に合わせて、罪を犯したことがないなどと言えましょうか。父母を敬わない、殺人、姦淫、盗み、偽り、貪欲、この人に対する6大罪のどれかにあてはまるはずです。現行罪として表面化した罪もあるでしょうが、心の中だけで思っている罪もあるでしょう。心の中だけの罪も、罪は罪です。
私達の肉はそもそも、第一のアダムにあって法則的に堕落しているのですから、第二のアダム(イエス)に結び付けられて、法則的に新生しない限り、本当の意味で新しい生活を送ることはできないのです。
パウロの罪は、知らずに犯したとは言え、聖徒を迫害し、牢屋に入れ、ステパノに至っては、石打ちの刑に賛同し、自らは手を下さないまでも、共犯者になったわけですから、殺人の罪を犯したわけです。でも、キリストの十字架はどんな罪をも赦し、清めてくださるのです。福音は無代価で、神によって提供され、ただ信じ、心から悔い改める人を、神の前に一度も罪を犯したことのない者として、言わば、キリストの生涯という義の衣を着せて、御前に一度も罪を犯したことのない者として、立たせて下さるのです。このことを信仰義認と言いパウロの最も根幹をなす神学です。その福音の対象は信じる人のみならず、すべての人です。
『実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。 』(テトス2:11)
『すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神...... 』 (テモテ第一4:10)
『神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。』(テモテ第一2:4)
『この方(イエス)はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。......』(テモテ第一2:6)
しかし、テモテへの勧告と彼への教育目的で書かれたこの第一の手紙は、福音の神学的重要性を強調しつつも、実はそれだけで終わってはいない。信仰の側面には色々な要素があり、具体的で実用的な教訓とテモテ自身へのしっかりと信仰に励むことが強調され、様々な教会の運用、行政面についても書かれています。真に困っているやもめの面倒を教会が見なければならないとか、老人に対して優しく接しなさいとか、さらに、長老・監督・執事の資格や任命について指示しています。金銭に対してどのような見解を持たなければならないかなど、具体的な例を挙げて勧告が続いて行きます。
信仰というのは、キリストの救いの義をそのまま受け入れ信じることだけで救われるのは根本であり、信仰のどの段階でも義認されることが基本であり土台であります。
しかし、実際のこの世における信仰生活は、世人との関わり、上に立つ政治家との関わり、信者同士の生活の仕方、やもめたちの処遇、富んでいる人々への富に対する対処の仕方、教会役員の任命、礼拝の在り方等、様々なことに、知恵と神経を使っていかなければならないのです。教会指針ともとれるような表現で、パウロはこれらに関して、様々な基準を定めています。そのことが、この手紙を牧会書簡と呼ぶ理由なのです。
現代の教会にもそのことは言えます。牧師は現実の教会運営に、大変な努力と、エネルギーを使っているのです。それは純粋な宣教に対する熱意すら、削いでしまうほどの重荷です。現実の、この世における教会運営とは、大変な骨折り仕事であることを、私は実体験として知っています。
以下様々なパウロの勧告を列記します。
テモテに対して、信仰の戦いを雄々しく戦い(テモテ第一1:18)人々の前で立派な信仰の表明をする。(同6:12)
パウロが言った様々な掟を守る。(同6:14)
自分を鍛える(同4:5)
人々の模範となる(同4:12)
聖書の朗読、勧め、教えに専念する。(同4:13)
自分自身と教えに気を付ける。教えたことは自分もしっかり守る、そうすれば自分と、自分の教えを聞いた人たちを救う。(同4:16)
ヒメナイとアレクサンドロは信仰が挫折した。(同1:20)
政治家や高官、為政者たちのために祈る、平穏な生活を送るため。また、すべての人々のためにとりなしの祈りをする。(同2:1,2)
男に対して:怒らず、争わず、手を上げて何処ででも祈る。(同2:8)
婦人に対して:金、真珠、高価な着物で身を飾らず、質素、貞淑、善い行いで身を飾るべし。静かにしていること。貞淑に、男の上に立たず、教えたりせず、従順に学べ。信仰、愛、清さを保て。子を産むことによって救われる。(同2:9~15)
監督の資格:家庭をよく治め、子供が従順、妻は一人。品行方正、未信者にもよく思われている。酒におぼれない、寛容、争いをしない、金銭に執着しない。信仰歴が長い。(同3:1~7)
執事の資格:謹厳、二枚舌を使わず、大酒を飲まず、利をむさぼらず、清い良心、信仰の奥義を保つ、妻一人、子供と家をよく治める。
女性も同様に、人をそしらず、自制できる、総てのことに忠実。(同3:8~13)
やがて背教が起こり、聖書の教えとは違うことを言い出す人が出て来る。惑わす霊、悪霊の教えです。その特徴、結婚の禁止、ある種の食物を禁じる。食物は神の言葉と祈りによって清められる。神の造られたものは総て良いもの。(同4:1~5)
俗悪で愚にもつかない作り話はしないように。信心のために自分を訓練し鍛える(同4:7,8)
テモテに長老たちが手を置いて祈った時(按手)、預言によって賜物が与えられたはず。恵の賜物(聖霊の賜物)を軽んじてはならない。(同4:14)
以上のことを努力しなさい、努力すれば進歩する。(同4:15)
老人(男):父親と思え、叱ってはいけない(がっかりして、気落ちしてしまう)(同5:1)
老人(女):母親と思え
若い女性:姉妹と思え、清らかな思いをもって、諭すこと。(同5:2)
教会の福祉制度:老人ホームもなく、介護施設もない2,000年前の高齢者対策の基本は、まず家族がやもめ等を面倒みること(父母も含む)。
若いやもめは、基本的に再婚し、子供を産み、人生を再スタートすること(教会に迷惑をかけない)。
歳とった、身寄りのないやもめのみ教会でお世話をすること。教会の財政負担を考えると、これが最低限の当時の福祉政策だっただろう。その原則は今の教会にもある程度あてはまるかも知れない。やもめ自身も、放縦な生活をせず、神に常に希望を置き、昼も夜も神と共に生き、神に対する願いと祈りの内に過ごすことが求められています。60歳以上で、評判も良く、善い行いに富み、子供を立派に育て上げたとか、聖なるものの足を洗ったとか(弟子やイエスの洗足か?)苦しんでいるもの、困っている人を助けたことがある人等が、教会が面倒を見るやもめとしての資格。(同5:3~16)
自分の親族、家族の世話をしないものは、未信者以下の人々とみなされ、信仰を捨てたと同じとみなされる。それくらい、家族の面倒を見ることは重いこと(同5:8)。
長老に対して:真面目に神の言葉の教えに仕えている長老は、2倍の報酬を受けるにふさわしい。長老に対する訴訟は慎重に、2~3人の証人がいなくては受理してはいけない 。罪を犯している者に対する注意は教会で皆の前ですべき。そうすれば皆が恐れを抱くようになります。正しく注意しなさい。公平平等にやりなさい。ダブルスタンダードがあってはならない。依怙贔屓はだめ。軽々しく手を置いてはならない(罰してはならないの意味)。他人の罪に加わわらず、自分自身は汚れに染まらず、清廉潔白でいなさい。罪も善い行いもすぐには明らかにならないが段々と分かってくるものです(同5:17~25)。
奴隷について:当時の奴隷制度を改革するのはパウロの生きている社会においてはまだ早く、アメリカの南北戦争時まで待たなければならなかった歴史的事実があります。パウロが目指していたのは第一義的に社会制度の改革ではなかった。政治的な革命を起こすことでもなく、当時の歪んだ政治体制の中で、福音を宣教することが主眼であった。しかし、奴隷も人間であり、神の前における魂の価値に何らの差別もなかった。福音によって救われた尊い人間であり、奴隷の主人と奴隷自身は主に結ばれた兄弟です。このような価値観が、やがて人間は皆法の下に平等なのだという、現代の基本的人権思想に繋がって行ったと思われます。
しかし、このパウロの生きた時代においては、奴隷制度は現前として存在し、例え信仰に入ったとしても、その制度から逃れることは出来なかった。当時においてはクリスチャンになっても奴隷は奴隷であった。今の価値観からすれば、奴隷制度は受け入れられない。現代から見れば腐敗した社会制度ではあるが、ローマ時代においては、矛盾を抱えた制度を破ることは出来なかった。奴隷達に対して、主人に心から仕え、信仰上の兄弟であるからと言って、軽んじてはならないと諭しています(同6:1~2)。逃亡奴隷の取り扱いについては、後述になるが、ピレモンへの手紙の中のオネシモに対するパウロの姿勢を参考にされたい。
金銭に対して:金銭を追い求める者は、信仰から迷い出る危険性もあります。金銭欲はすべて悪の根です。衣食あればそれで十分だと考えるべきです。この世の財産を持ち、富裕な者は頼りにならないこの世の富に望みを置かず、むしろ、永遠の命を与える、神に心のよりどころを置き、貧しい人々に、惜しむことなく、施しをするように勧めています。だからと言って、この世の物を否定しているわけではありません。『...すべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神...』(テモテ第一6:17)と書いてあります。物質も、自然も、飲食物も、家も、着る物も、すべての物的祝福を節制をもって楽しんで良い。現世を肯定して良いのです。しかし神を第一にすることを忘れてはいけないのです(同6:9,10、6:17~19)。
キリストの義をいただき信じるだけ、受けるだけで、人は神の前に一度も罪を犯したことのない者として、立たせていただき、救われるのです。基本的、根本的にはその通りです。そこが心のよりどころであり、平安が与えられる場所です。福音が福音たる所以であります。主の名を呼び求めるすべての人が救われるのです。『地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ。 』 (イザヤ45:22口語訳)
しかし、信仰を続けて行くには、それなりの戦いがあります。その戦いは自己の力でするのではありません。ただ御霊の降下と内住によって進めて行くものです。それでも戦いがあるのは事実です。
聖書は信仰には戦いがあることを明示しています。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を目標に、信仰の戦いを立派に戦い抜けと勧告しています。ポンティオ・ピラト総督の前で立派な証しをなさった、イエス・キリストに倣い、多くの証人の前で、立派に信仰の表明、証しをするように求められています。パウロが書いてきたテモテ第一の手紙の様々な掟を、守り通すように、主の前で、厳かに命じています。(同6:11~16)
キリスト教を信じ切ると言うのは中途半端な覚悟では出来ません。 永遠の命を得るためには、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛さなければならない。たとえ牢獄が待っていようと、殉教が待っていようと、全身全霊をもって主を愛し、神を証ししていかなければならない。そのような力は私達の人間的な努力の中には生じない。それは、ただ天から、聖霊を私達に遣わしていただいて、私達の心に住まわれる、インヌマエルのキリストがそのようにさせてくださるのです。聖霊の存在なくして、このような命がけの戦いを、戦い抜くことは困難です、いや不可能です。私たち弱い者を勇者に変え、共にいてくださる 約束の聖霊を求めて行くしかないのです。
再臨のキリストが、父なる神の御定めになった時に、来られる希望。(同6;15)
最後に、反対論、無駄話、異なる教え、議論や口論等を避けるように。不当にも知識と呼ばれている反対論があり、知識を自慢し、鼻にかけ、滅びてしまった人もいると警告しています。(同6:3~5,20,21)