テトス
次にテトスへの手紙に移ろう。
テトスはパウロと共に宣教活動をしていたことが、新約聖書のそこ、ここに見いだされます。
『信仰を共にするまことの子テトスへ。』(テトス1:4)とテトスへの手紙の書き出しにあります。テトスはギリシャ人であり(ガラテヤ2:3参照)、パウロによって導かれました。テトスの父母もギリシャ人ではなかったかと推測されます。改宗後、テトスは,パウロと共に働きました。
テトスはエルサレムの聖徒に対する援助献金の働きをコリントの教会でしています。(コリント第二8:4~6、9:12参照)
パウロ回心後、おおよそ17年たち、テトスは第一次エルサレム会議に、パウロとバルナバと共に出席。(ガラテヤ2:1参照)
パウロは、コリント第一の手紙を届けることをテトスに託しました。(コリント第二7:6~9参照)
パウロは,クレタの教会の責任者としてテトスを任命し、テトスへの手紙を書きました。(テトス1:5参照)
ギリシャ正教会の伝承によれば、テトスはイエスによって2人一組で宣教に遣わされた72人の弟子たちの一人です(ルカ10:1参照)。
またクレタ島の監督になり、94歳で天寿を全うしたと伝えられています。
テトスはテモテと同様に、パウロの信認篤い弟子の一人でありました。
テトスへの手紙を研究するにあたって、まずどうしても考えておかなければならないことは、パウロがいつどこでこの手紙を書いたか、またいつクレタ島で宣教活動をテトスと共にしたかと言う点です。これには諸説あり、私のような浅学の身には、正直言って、どれが正しいということを確定できない。
ただパウロが2度にわたってローマの牢獄に繋がれたのだという説を採用すれば、最初の投獄より釈放されされた後、クレタ島宣教を、テトスと共にして、テトスを島のやり残した仕事のために残し(テトス1:5)、アカイア地方のニコポリス(同3:12)に行き、そこでテトス宛の手紙を紀元64年頃書いたのではないかと推測します。
テトスへの手紙の救いに関するパウロの神学的論点はどこにあるでしょうか?それはローマ人への手紙にも、ガラテヤ人への手紙にも、エペソ人への手紙にも共通しています。私達の義ではなく、信仰によって、キリストの義を自分のものとして得られる、無代価の救いです。テトス3:5に神は私達が行った義の業によるのではなく、神が持っている御自身の憐れみによって、私達を救って下さったとあります。
『神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。この言葉は真実です。あなたがこれらのことを力強く主張するように、わたしは望みます。そうすれば 、神を信じるようになった人々が、良い行いに励もうと心がけるようになります。これらは良いことであり、人々に有益です。』(テトス3:5~8新共同訳)
人間は『生まれながら神の怒りを受けるべき者』(エぺソ2:3新共同訳)であり、人間は本質的に、肉に売られており(霊と逆の表現)、生まれたまま肉の性質を持っている人間は、どんなに修行に励み、努力を重ねたとしても、神の聖なる律法の要求に達することはできず、不完全な自分の姿が自覚されるだけなのです。
パウロは断言する。律法を守る事によっては誰も救われず、律法によっては罪の自覚が生じるのみなのだ。『律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。』(ローマ3:20)
人間の精神も含めて、生まれながらの人間は堕落しており、肉の性質を持っているので、神の崇高な律法に従う事は出来ないのです。自分は神に従いたい、また律法にも忠実でありたいと思っても、私たちは肉のもとに売られているのです。従って、もう一度買い取られる以外に救いはない。キリストの功しによって、買い取られるしかないのです。神はキリストの十字架という値で私達を買い取ったのです。そのことを受け入れ、自分の事として信じることによって、救いは自分のものになります。
『わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。』(ピリピ3:9)
私達は神からの義をまず受ける以外に、救いはありません。それが信仰によって得られる最大の恵みなのです。
さらに、神の聖霊によって、もう一回生まれ変わる事が出来る、肉体を持っているので、肉の性質は完全にはなくならないが、人間の内面が神の霊による生まれ変わりを経験して(新生)、やがて少しずつ変えられながら、不完全ではあるけれども、段々と神に従っていくことが出来るようになります(聖化)。義認も聖化も、これらの過程を含めて、すべては神の憐れみによるしかないのです。基本的に神の憐れみによって神が私達を救ってくださるのです。全く私たちが行った義の業によるものではありません。
たとえ何か正しい行いが私たちの側にあったとしても、それは救いの根拠にはなりません。パウロは『自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。......。』(コリント第一4:4)
と言っています。この聖句は聖書の中で最も大事な聖句の一つです、決して忘れないようにしましょう。
たとえ安息日を守ったとしても、その業によって救われるのではありません。
隣人を助けるような善い行いをしたとしても、そのことが救いの根拠ではありません。
義とされる根拠は私たちの行った正しい行いではなく、キリストがしてくださった義の行いを、自分のものとして受けるだけです。
繰り返しになりますが、『わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。』(ピリピ3:9)この聖句も決して忘れないようにしましょう。
更にテトスへの手紙を解説します。
『この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。』(テトス3:5,6) 私達は、聖霊によるに新生と十字架と復活を象徴する水による洗い(バプテスマ)によって救われたのです。洗いによって新たに造り変えられるということは、十字架で古い自分が死ぬことを基にしています。バプテスマは儀式としての葬式、古い自分の葬りなのであり、水から上げられる時は、新しい命への復活を表しています。
今までの肉の生き方、自分の思い通りに生きて来た生き方は十字架に一度つけてしまわなければなりません。それが善であろうと、悪であろうと、普通の事であろうと、生まれながらの肉の力による生き方をしてきた自分は、十字架でキリストと共に磔刑されなければなりません(正確には既にキリストと共に磔刑されていたのです、そのことに気が付いて行きましょう)。
また、霊的な意味でバプテスマの水から上がって来たときには復活したのです。これから後は、いつもキリストと共にいるようにしなさい、聖霊によって新しく生きる経験をしなさいと言われているのです。
神は聖霊を惜しむような方ではありません。聖霊は父なる神から出て、キリストがそれを受け、キリストを通して、豊かに私達に注がれるのです。『......約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。......』(使徒行伝2:33) 『神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。』(テトス3:6)
何故父なる神から聖霊は直接注がれないで、イエスに一度経由して人間に注がれるのでしょうか。それには深い理由があります。私達人間はあまりにも、未熟で、罪深く、たとえ救われて信仰をもって、クリスチャンになっても、この世のあらゆる習慣、考え方、肉的な物に囚われているので、聖霊を求めても、ゆがんだ性格と、おかしな器の中に求めてしまうのです。イエス・キリストのとりなしがあってこそ、多少変なおかしな信じ方をしているクリスチャンにも聖霊が注がれるのです。もっともそれが本人にとって良いことかどうかは分かりませんが(おかしな信じ方を、それで良いのだと勘違いし、聖霊を受けることによって、あるいは聖霊を受けたと思い込むことによって、 我流の信仰に凝り固まる危険性があります)。
もし直接父なる神から聖霊が注がれるとしたら、清められた、余程性格の良い、円熟した方にしか聖霊は注がれないでしょう。こんな欠点だらけの私達にすら聖霊が注がれるとすれば、天でイエスが、私にとりなしの懇願を父なる神に熱心にしてくれたので、父からイエスが一度受けた聖霊を、私達にやっと注いで下さったったと言う事でしょう。
私達が真剣に求めるならば、神の恩寵によって、イエスを通して、聖霊は豊に注がれるはずです。聖霊を求める私達も、まず自分たちが悔い改め、熱心に聖霊を求める熱い祈りが必要です。
『......キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされた...』(テトス聖霊を受けて3:7)
義は恵によって与えられるものであり、値なく、功績なく、無代価で与えられるものです。さらに、永遠の命を、既に得ている、私達の内に永遠の命が始まっているのです。永遠の命が信じる者にとって始まっていることは次の聖句からも明らかです。
『初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。』(ヨハネ第一2:24,25)
御子の内に、御父の内にいつもいる事が、既に永遠の命が始まっていることなのです。さらに『......信じる者は、永遠の命を得、また、...死から命へと移っている。』(ヨハネ5:24)のです。
これらのことから、次の聖句の意味が明らかになってきます。『生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬ(滅びる)ことはない。......』(ヨハネ11:26)
肉体的、物理的には一瞬の間、この世で言われているところの死を経験するかも知れませんが、既に生きている間、永遠の命が始まっていますので、死という眠り(それが何十年、何百年であろうと、眠りは無意識ですから、死んでいる個人にとっては一瞬にしか感じません)から目覚めた次の瞬間は、もうイエスの前に立っているのです。御言葉が明らかにしているのは、私達は既に永遠の命を得ていると言う事です。これらのことを力強く主張するように、勧められています。『あなたがこれらのことを力強く主張するように、わたしは望みます。』(テトス3:8)
私達は弱い肉体を持つものです。日々身体の調子が違っています。特に高齢者はいつも、良いコンディションが維持できるとは限りません。気分が良い時も悪い時もあるのです。そんな肉体の好不調に、既に永遠の命を得ている確信が左右されてはなりません。良い時も悪い時も、常に主は私たちの傍らにおられ、聖霊をもって支えてくださるのです。
『いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、......』(申命記4:7新共同訳)とあります。これらのことを力強く主張し、信仰の目をもって、進んで行きましょう。
ともすれば、自分の罪深さばかりを見て、落胆しがちな私達でありますが、自分がキリスト・イエスにあって、義とされ、救われ、既に永遠の命が始まっていることを、力強く、神の前に主張しなさいとパウロはテトスへの手紙で言っています。私達もパウロの勧めに従って、もう永遠の命を得ていますと力強く主張しましょう。信仰生活が力強く、希望に満ちて、楽しく、明るく送れるに違いありません。
こうすることによって良いことをする土台ができます。『......そうすれば、神を信じるようになった人々が、良い行いに励もうと心がけるようになります。これらは良いことであり、人々に有益です。』(テトス3:8)私達は救われるために善い行いをするのではなくて、既にイエスによって救われたから、善い行いをしていきたいのです。ガラテヤ人への手紙にパウロはこう言っています。『たゆまず善を行いましょう。』(ガラテヤ6:9)自分達の力は弱く、何もできませんが、キリストが私達を力づけてくださる時、必ず善い行いが出来るように変えてくださると信じています。『わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。』(ピりピ4:13口語訳)
『実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れ(再臨)を待ち望むように教えています。 キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。』(テトス2:11~14)
神学的要素としてキリストは、偉大なる神 (テトス2:13参照)と描写されています。テトス2:11~14は福音の要約と言っても良いでしょう。すべての人々に救いをもたらす神の恵み・不信心を捨て・現世的欲望を捨てる。信心深く生きる。 偉大なる神イエス・キリストの再臨を待つ。十字架の救いの目的は、あらゆる悪、罪、不法から贖い出し、善行に熱心な民をイエスのものとして、私達を清める為に他ならない。
順番を無視して、テトスの手紙で扱っている、最も大事な神学的理解を優先して記述した。さてその他にも、様々な指示や、信徒に対する牧会的配慮が語られているので以下列記しておこう。
信心に一致する真理の認識 『神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから――わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くためです。』(テトス1:1)
真理はある。『「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。 』(ヨハネ14:6)と言われたイエスその方を知ること。私達の認識が、永遠の命をいただけるかどうか、左右するほど大事なことなのです。何をどう考えるか、信仰の内容についてどう考えるか、真理の認識こそ、パウロが大上段に構えた、 テトス1:1の最初の言葉です。
長老を町ごとに立てる。(テトス1:5)
監督を任命する。
長老と監督の違いは何か?今一つはっきりしない。後代になって、監督制、長老制、会衆制の教会制度上の分類として使われるようになるが、このパウロが使用している長老と監督の役割の明確な区別はないと思われる。
その資格は正しく、清く、健全な教えにかなう人。(同1:6~9)
老人(男)に対して:節制し、品位を保ち、分別があり、信仰と愛と忍耐の点で健全である。(同2:2)
老人(女)に対して:中傷しない、大酒を飲まない。(同2:3)
若い女の模範になり、彼女たちを良く指導し、彼女たちが分別があり、貞淑を守り、夫を愛し、子供を愛し、家事にいそしみ、いつも善良で、夫に従うように教育する。(同2:4~5)
若い男に対して:思慮深くふるまう、テトス自身が善い行いの模範となる。(同2:7)
奴隷に対して:常に忠実で善良な生き方をするように。(同2:10)
政治体制、権威者に服する。 (同3:1)
誰をもそしらず、争わず、すべての人に優しく接する。(同3:2)
律法の議論、系図についての詮索、愚かな議論、争いを避ける。それらは無益だ。結局空しいものだ。(同3:9)
分裂をたくらむ人、注意し、交際しない。ゆがんだ考え、知っていながら、罪を犯している。(同3:11)
ニコポリス(勝利の町の意)へ来てくれ。(同3:12)テトスはクレタにずっといたわけではなく移動している。テモテ第二の手紙ではテトスはダルマティアにいる。(テモテ第二4:10参照)
エペソに遣わしたティキコ(テモテ第二4:12)がクレタに来た可能性がある。(テトス3:12)
困っている同信の者達に、実際の援助(物質的・経済的)をするのは実を結ぶ善い業である。(同3:14)