ヨハネ第二の手紙
ヨハネ第二の手紙
『長老のわたしから、選ばれた婦人とその子たちへ。わたしは、あなたがたを真に愛しています。わたしばかりでなく、真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています。』( ヨハネ第二1:1)
著者や書かれた年代、その目的等は第一の手紙で述べたことと同じです。執筆年代も同様に紀元80年代年後半から1世紀末にかけてであろう。『選ばれた婦人とその子たち』宛てに直接は書かれたように読み取れるが、『婦人とその子』は当時の教会を指す言葉であると一般的に解釈されています。私は近隣の教会の信徒のうちのご婦人達やその子供達に宛てて書かれたと解釈しても全く問題ないとは思っています。
しかし、教会と言うギリシャ語は女性名詞であり、キリストは自分を花婿、信者たちを花嫁とお喩えになり、花嫁、婦人すなわち教会と考えられなくもない。キリストは教会をご自分の花嫁として迎えに来ると言う比喩は聖書の中で使われています(マタイ25:1~13参照)。また黙示録には女が教会を表す言葉として使われています(黙示録12:14~18参照)。また悪い例であるが黙示録のバビロンに座する大淫婦は、聖書の教えを逸脱し堕落したカトッリク教会を表しています(黙示録17:5、19:2参照)。
以上のような理由で、この『選ばれた婦人とその子たち』に対して書かれたのを、教会つまり一般信徒に対して書かれたと理解しても問題ではないし、むしろそのように解釈するのが普通です。
『それは、いつもわたしたちの内にある真理によることで、真理は永遠にわたしたちと共にあります。』(ヨハネ第二 1:2)
ヨハネはキリストを真理と呼んでいます。
『「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』(ヨハネ14:6)と書かれています。
イエスこそが、イエスだけが、人生の求める道であり、真理であり、命なのです。その他どんな被造物にも、永遠の命を与えられるような資格や権限は付与されていません。イエス以外の、人生の道を説く者は、総て人間の作り出した偽の哲学であります(哲学の中に、真理の一部は垣間見えるかも知れませんが)。イエスこそ真理そのもののお方なのです。真理とは、何でしょうか。真理は存在し、発見し、また作り出すことが出来るようなものでしょうか。ヨハネは、真理があるし、真理の中を毎日歩むこと、つまり私達の内にいるキリストとその愛の中にいつもとどまることが真理であり、イエスは永遠に私達と共にいると言っているのです。
『真理とは何か。』(ヨハネ18:38)この命題に関わるとき、いつも私は、恥ずかしながら、自分の青春時代の青臭い経験を思い起こします。私は未信者の家庭に生まれ、神もその御言葉である聖書も知りませんでした。真理が世の中にあるのだろうかと、もう中学生の頃になると真剣に考え出しました。中学、高校の時、自分はとても自堕落な生活をしていました。それでいて、理屈っぽい生意気なことを言っている、鼻持ちならぬ人間でした。 しかし、どうしても、世の中に真理があるはずだと考えていました。自分はどうして生まれてきたんだろう。生きている自分、これはいったい何だろうか?自我、自意識の目覚めと共に、自分と世のかかわり方に対する探究心が湧いてきました。 高校時代には、西田哲学に凝り「善の研究」を読み、その中に記述されている「純粋経験」とは何か知りたいと思い、自己流に自分の部屋で座禅を組んだこともありました。でも結局何も見つからず、ただ惰性で生きることを毎日繰り返し、勉強もあまりせず、悶々とした暗い青春生活を送っていました。 「真理って本当にあるんだろうか?」頭の隅にはその思いはいつもありながら、高校を卒業し、ある大学に入学したものの、半年で退学し、アルバイトをしながら、人生に挫折しかけていました。
その頃、若い時から熱心なクリスチャンでSDA八王子教会の長老をしていたS叔父のところで、働くことになりました。叔父の影響もあり、SDA八王子教会に通うようになり、イエス・キリストに出会うことになったのです。 キリストによる救いを受け入れ、『私は真理である』と言い切った神の子を信じることになったのです。21歳の時SDA八王子教会で沈めのバプテスマを受け、神学校5年(途中1年休学)、牧師を10年、郵便局長を約29年、定年退職して8年、時のたつのは速いもので、もう73歳になりました。
私の人生にも浮き沈みがあり、良い時も悪い時もありました。健康で生き生き活動していた時期や、健康を害して医者通いしていたこともあります。局長時代のある時は、この世の肉の生活にどっぷりとつかり、祈りはおろそかになり、教会も休みがちになり、この世の人のようになってしまったことも正直に言ってありました。その都度、イエスの愛と赦しにおすがりしながら、悔い改めの祈りを捧げながら、それでも、この信仰だけは一途にやってきたつもりです。
青春時代に『「わたしは道であり、真理であり、命である。」』(ヨハネ14:6)と言う、聖書の言葉を初めて読んだ時、真理はこれから作るものでもなく、思索をめぐらして、行き着くものでもなく、既に神の言葉である聖書の中に明示され、与えられていたことが分かりました。それが信仰という手段で与えられるなんて、私のそれまでの短い人生の中では、想像することすらできないことでした。
キリストその方が真理そのものであり、この方を真理として受け入れ、信仰し、この方の御言葉に従って行くことが真理なのであると知りました。信仰の内容が、最初から分かっていたのではありません。教会に通い、神の言葉である聖書を真剣に学ぶことで、少しずつ真理とは何か、イエスとはどんな方か、人類のため、否、私のために何をして下さったのかを学んで行ったのです。
キリストを受け入れてから、早53年。教会に行き始めたのは19歳の時ですからもう既に55年も教会通いをしているわけです。今更ながら、振り返って見ると、進歩の無い自分に、呆れ返ってしまいます。半世紀以上御言葉を探求し、どれほどの時間を聖書研究と祈りに費やしてきたか、それは膨大なものです。さらに人生の様々な苦労を重ねた結果言えることは、これは単純すぎる結論かも知れませんが、真理はあると言うことです。それも私達の身近にあるのです。
人間、何を幸せに感じるか、その価値観は様々でしょう。美味しい物を食べたり、飲んだり、旅行に行ったり、趣味や、楽しい娯楽に興じたり、それらはそれぞれの楽しみがあり、私は決してそれらの様々なこの世の楽しみを否定するものではありません。私だって、孫を見れば可愛いいと思うし、旅行に行って、美しい景色を見たり、美味しい食べ物を食べたりすることは楽しいことだと思います。また、日常の平和な家庭生活ほど、この世で大事なものはないと思っています。でも人生の喜怒哀楽の現象だけに惑わされてはなりません。真理を発見することなくして、それらのこの世的な、肉的な楽しみだけで人生が終わって良いはずがありません。信じる目を持って探究すれば、神は存在するし、真理はあるのです。
『真理とは何か。』(ヨハネ18:38)と言った、イエスの取り調べをしたローマ総督ピラトの言葉を引用するまでもなく、イエスの存在こそ真理そのものなのです。
私達の心の中にある悪い汚れた思いを、あるいは実際の現行罪を、赦し、贖い、清めて下さるイエス。人間の肉体を取ってこられた永遠に存在する子なる神。しかも、本来全人類が受くべき罪の値である父なる神の下す滅びの死を、御自身が十字架にかかることによって、一手に引き受け、換わりに私達を無罪な者として、釈放し、本当に生きれる者として下さったイエス、この方が真理なのです。
このイエスを信じ、この方と毎日を過ごし、この方の内にとどまり続けることが真理であり、永遠の命なのです。キリストと共に生きることが真理なのです。真理を知るとは、ただ知的に知ることではなくて、このキリストの中に没入し、自己の力や判断力ではなく、この方と一体となって生きて行くことなのです。そういう意味で、真理とは信仰の人生を生きることなのです。
それはこの方が実行し、模範を示された生き方に倣うこと、肉の欲、この世の楽しみを捨て、己を捨てて、神と人のために、自分の命と時間を削って生きて行く生き方なのです。
そのような生き方は、自分の肉の努力で出来る訳はないのです。信仰から来る、天来の聖霊の力を祈り求め、天からの力を受けて行くしか方法はありません。ただ、聖霊によって心に住んで下さるキリストに頼るしかないのです。上からの霊の命を受けることによって、何を為すのも、キリストが私を通して為して下さることなのです。
『父である神と、その父の御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にあります。』(ヨハネ第二1:3)
『恵みと憐れみと平和』は父なる神と、イエス・キリストから本当に私達の上に注がれているのでしょうか。これは何を基準に考えるかによって決まってきます。神によって、『恵みとあわれみと平安(口語訳)』が、人間すべてに注がれていると言ったら、神を信じない日本人の大多数の方々は、大変な違和感を感じられることでしょう。
それでは、何故不幸や、災害や、事故、事件があるのですか?例えば、東日本大震災によって津波で死んだ、2万人もの罪のない人々(私達の概念では皆罪人ですが)には、恵みと憐れみと平安がなかったのですかと言うことになります。また、能登地震で家族を失い、家が倒壊し、生活の基盤を失って悩み苦しんでいる人々の不幸を、神は何故に許されたのでしょうか?
神によって、恵みと憐れみと平和が注がれているなら、何故、ロシアのウクライナ侵攻や、イスラエルやハマスのガザにおける紛争等、全世界に戦争や地域紛争があるのですか?恵みと憐れみと平和が注がれているなら、 何故、人々が殺し合い、さらに飢餓や災い、エイズやエボラ、新型コロナ等の災いががあるのですかと言うことになります。それは神を知らず、人間中心に、考えればそうなります。
しかし、一端信仰が芽生えると、このような、災害と、災厄に満ちた世界の中にあっても、神の御手は働いているのだと分かってきます。神を信じ、イエスの恵みと愛の中に入れられ、罪を赦され、神の庇護と恵みの内に生きようとしている信仰者の目には、それでもなお、私達の周りの中で、恵みと憐れみと平和が神によって注がれているのが分かって来るのです。国家間の紛争はともかく、個人的な信仰経験の中で、神の御手の守りを感じることが出来るのです。この御言葉を信じるに足る、理由が、クリスチャンの個人ゝの体験の中にあるのです。
それではこういうことかと言われるかも知れません。神は信じる者には、神はあらゆる災いから逃れるための防波堤になって下さるのでしょう。恵みと憐れみと平安を施すのでしょう。しかし、信じない者にとっては、逆に災いと苦しみと不和争い等が臨むのでしょうか、と。
どうもそうも言い切れない場合が多いようです。神を知らぬ、信ぜぬ人々の中にも、生涯健康で災いにも合わず、たくさんの子供や孫に恵まれ、温かな家庭があり、経済的にも何不自由なく、この世の中でその人生を、楽しく、幸せに過ごし、生涯を全うする人々もいるではありませんか。ではどのように、これらのことを考えて行けば良いでしょうか。私は私の個人的な限られた体験の中で言わせてもらえば、クリスチャンと言えども、癌になる人もいますし、ALSになって大変な苦難を、肉体的に負って苦しんでいる方もいます。経済的にも大変な苦労をしている人々も大勢います。しかし信仰は心の支えであり、実際の災い多いこの世の中にあって、奇跡的な守りを経験している信仰の友も多くいるのです。私自身の半生も、平坦な道ではありませんでした。しかし、恵と憐れみと平安は常にあったような気がいたします(人生のある場面では、神の守りが全然感じられないような窮地に陥ったことも、何度もありますが)。
恵と憐れみと平安はヨハネが言っているように、それぞれの神の民に、個々に、神とキリストによって、信仰の目で見れば、常に共にあるのです。たとえ物質的に恵まれなくても、真にイエスを信じているなら、人生最大の問題である罪を、イエスが取り除いて下さっているのです。罪の重荷から解放され、あらゆる精神的、物質的呪縛から解放され、御霊によって自由にされ、キリスト者の自由を味わうことが出来るのです。私達は肉の目にとらわれ、真の霊の目で、自分とその周りの環境を見ていないだけなのです。要するに、最初書きましたように、何を標準にして、恵みと憐れみと平和が、神とキリストによって私達に注がれ、共にあるか、と言うことなのです。
信仰の目をもって、キリストに全的に信頼して行くとき、些細な思い煩いや、経済的なこと、仕事のこと、自分の不幸と思われる閉ざされた環境(それは一人一人違うでしょう)を神に委ねることが出来るのです。恵みと憐れみと平和、罪の赦しと永遠の命の希望、魂の救いと心の平安、それらに真理と愛が増し加わり、些細なことはすべて神にお委ね出来るようになります。今あるのは、その周りの環境を含め、生きていること自体が総て神の御恩寵によると悟ることが出来るのです。
では共産主義者が言うように宗教は、人生の不平や不満を感じさせなくしてしまう、心の麻薬なのだろうか?このような批判に対して、私は十分な答えを持っていません。そう言う面はあるかも知れませんが、だからと言って神は真に信じる者にとって、確かに心の拠り所なのです。たとえ人間の社会の、総ての物質的問題が解決され、様々なこの世の安逸が充足され、肉の要求のあらゆるものが満たされたとしても、それで人間は本当に幸せに生きれるのでしょうか。私はそうは思いません。
神を求め、創造主を発見し、魂の救いを得なければ、心の中に真の幸せと平安はないではありませんか。尽きることのない永遠の命への希求、これを忘れてはいませんか。祈り、それは魂の呼吸です。深く聖霊との交わりを毎日経験し、救いの喜びを味わい、キリストにある自由と讃美、感謝を神に捧げること、これらを忘れてはいませんか。
この世における平和な生活、実際の経済的支え、現実に起こる奇跡等による守りを、御自分を熱心に求める神の民のために、御手を差し伸べて、神が恵みを下さらないはずがないではありませんか。
『神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。』(ローマ8:28)
『わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。』(ローマ8:32)
ヨハネ第二の手紙のもう一つの大事なテーマは、ヨハネ第一の手紙と同じです。内容は繰り返しになってしまいますが、神の掟を守り、信仰の兄弟同士が、お互いに愛し合うことなのです。神を愛するとは、その掟を守ることであり、掟と言うのは、隣人を愛し、特に信仰の兄弟同士が互いに愛し合うことです。
『あなたの子供たちの中に、わたしたちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました。さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。 』(ヨハネ第二1:4~6)
戒めの精神は、神の為にも命を捨て、人のためにも命を捨てて行く、つまり、神と人の両方のために、自分(の命)を捨て自分の十字架(命を捨てる場所)を背負って行く生き方なのです。『弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』(マタイ16:24)
空極的に考えれば上記のような解釈に行き着きますが、レビ記にも、イエスの言葉にも、神の憐れみと、人間の弱さに対する思いやりが読み取れます。『自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。』(レビ記19:18) 『隣人を自分のように愛しなさい。』(マタイ22:39)つまり自分を愛するように、と言う言葉が挿入されていることです。この自分を愛するようにと言う言葉が入ることによって、このように弱い利己的な私などは、ちょっとホットするのです。ここは弁解になってしまいがちなところですが、自分を愛す愛し方はまあ、それは千差万別です。自分を愛す愛し方には、人によってすごい考え方の違いがあるのです。
私は、どちらかと言えば、人にあまり親切にされたくないし、人からも物などもらいたくもない性格です。こと、自分の生活には、あまり他の人を関与させたくないのです。そうなって来ると、他の人もそのようだと考えてしまい、つい他者に対する親切な行いなど、却って迷惑にとられかねないと言う配慮が働いてしまいがちなのです。自分がそうだからです。
人間が自分にして欲しいことを他人にやってあげる場合、よっぽど注意しなくてはいけないのです。各自、自分愛する愛し方は、千差万別なのです。ある人は酒が好きで、他人に酒を勧めることが愛だと思ってしまうかも知れない。酒を嫌いな人もいます。小さな親切が、大きな迷惑になることすらあるのです。酒を嫌いな人にとって、酒を勧められることは、有難迷惑な話です。レアケースかも知れませんが、体を鍛えるために故意に薄着をしている人に、寒そうだからと言って、厚い暖かな着物を着せることは、親切の押し付けになります。免疫力を高めるために3日間くらいの断食は健康に良いと言われていて、実際に医学的にも証明されているそうです(私は実行したことはないですが)。しかし、その断食期間中に、事情を知らずお節介な人が、お腹が空いているのは気の毒と思って、食事をさせたとしたら、それは愛の行いになるのだろうか。健康のために自宅まで歩いている方に、車に乗せて家まで送ってあげることは、まさに親切の押し売りでしょう。人がして欲しいと思っていること、自分がして欲しいと思っていることは、イコールにはなりません。自分を愛するように人を愛することは良く考えて行動する余地があります。
「自分を愛するように、(隣人を愛せよ)」と言う言葉があるので、「友のため命を捨てよ」という空極的な神の原則から、私は個人的には随分救われた気持ちがするのです。もし誰かが、それは他人かそれとも親友であるかはわからないが、私の為に命を投げ出し、命を削るほど苦労をしているとしたら、ああそれはあまりにも重いことだし、そんなことを私の為にして欲しくはないのです。そう考える人間もいるのです。人を愛する愛し方は様々、自分を愛する愛し方も様々なのです。こういう意味で親切の押し売りだけは避けたいと思っています。肉の変えられない利己的な私がこの言葉に出会うとき、またまた余計なことを考えてしまいました。
『このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。気をつけて、わたしたちが努力して得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい。だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。そのような者に挨拶する人は、その悪い行いに加わるのです。』(ヨハネ第二7~11)
「イエス・キリストが肉となって来られたこと」を信じない異端が当時ありました。物資的なもの、肉体は悪である、精神的なもの、霊的なものが善であると教える、グノーシス派の善悪二元論の異端が教会に入り込んできたのです。彼らは、肉体は悪であるので、イエスは人間としての肉体を取ってこられたのではないと主張しました。霊知(グノーシス)だけが善であり、キリストは仮に人間の肉体を取って見えたにすぎない(ドケティズム)と考えました。
【参照】ドケティズム
初期キリスト教会におけるキリスト論に関する異端的傾向の一つ。物質を悪とする立場からイエス・キリストが真正の肉体を有していたことやその真の受難を否定し,これらはすべて見せかけだけのものであるとした。1世紀にすでにこの傾向が存在していたことは新約聖書から知られるが (ヨハネ1,2書,コロサイ書) ,2世紀になってグノーシス派のなかで盛んとなった。ケリントス,セラピオンらがその代表者といわれる。仮現説,キリスト仮現説ともいわれる。表記の由来はギリシア語の dokein (現れる) からきている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
ヨハネは、キリストが肉体を持ってこられなかったと教える者は、偽教師であるので、そのような人には挨拶をしてはいけないし、家の中にも入れてはいけない、その悪にあずかることのなるからと、厳しく断交を命じています。またこの家に入れるなを、教会に入れるなと解釈し、教会の正当な教理を守ることがいかに大事であるかと結論することもできます。私達の信じているもの、それは総て聖書の言葉に照らし合わせて、正しいかどうかを判断するのです。闇雲に何でも信じれば良いのだと言うわけにはいきません。キリスト教の土台は、信仰の思い込みでもなく、教会の伝統的な教えでもありません。また聖書の一部分を無理に解釈して、新しい教えを打ち立てることでもありません。 聖書だけが信仰の基準です。これは宗教改革を始めたルターが唱えた【聖書のみ】【信仰のみ】【万民祭司】のプロテスタントの大原則です。
しかし、聖書をどのように解釈するか、『あなたはどう読むか』(ルカ10:26)これは中々難しい問題であります。常に謙虚な態度で祈りと聖霊の導きの下に、聖書の 解釈をして行かなければなりません。そこには、神学的思考も必要になってきます。異端に対しては、その教えを持ってくる者に断絶を迫るようなな厳しい態度をとる必要があります。それは純粋な福音を守る上でどうしても取らなければならない私達の態度です。表面上は神の道を求めているように見えながら、イエスのなされた、十字架の贖罪に対して、基本的概念を覆えすような教えは異端です。
異端の目指すところは、すべて一つです。イエス・キリストから目をそらせることです。中心にイエスのなされた十字架の贖罪を置かないようにするのが、異端の目的なのです。
一般教会からはSDA は異端と言われています 。その主な理由は、現代の預言者としてホワイト夫人の言葉を聖書の言葉以上の権威として重んじている。十字架の贖罪は十分ではなかったと教え、天の聖所におけるイエスの贖罪的働きを二重贖罪の教理としている。再臨前調査審判と言う特殊な教理がある。 復活の記念日である週の第一日目日曜日を主日礼拝とせず、天地創造の記念日である週の第七日目(土曜日を)を安息日として礼拝日にしているのは律法主義の表れであり、十戒を守る努力によって救いを得ようとしている。肉食を禁じている。等々様々な批判をされています。
私はこれらの批判は誤解に基づいており、SDA 教会こそ、現代における失われた聖書の教えを回復する使命が与えられた神の真の教会であると、心から信じております。しかし、例えばSDAの教えが、神の律法を強調するあまり、十字架を中心に置かないような信仰のとらえ方を、印象として信徒に与えるならば、その意味で異端となり得ます。私達は自分自身のこととして気をつけなければなりません。安価な福音は排除されなければなりませんが、信者の清めと、標準的なクリスチャンのあり方(律法の標準用法)を強調するあまり、律法、律法と言って、凝り固まって行くような生き方に、私は危惧を感じる者です。かつて私自身が、若かった頃、信仰持ちたてで、福音の十分な理解がなかったとき、律法主義的な心境で信仰生活を送っていた時期もあるので、そのことの危険性は充分理解しているつもりです。
イエスの文字通りの肉体における受難、十字架のイエスの贖罪を中心に置かないような神学は排除されるべきです。結局、異端と言うのは昔から同じことを目的としています。それは十字架のイエスを罪の身代わりとして受け入れ信じるだけで、自分たちのどんな罪も赦され、神の前に一度も罪を犯したことのない者として立たせていただけると言う、この単純で純粋な福音から目を離させることが異端の目的なのです。
『しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。』(コロサイ1:22 )
もちろん、罪赦された者は、その後も、キリストをいつも心に宿しながら、つまり聖霊の内住をいただきながら、キリストの教えに従っていかねばなりません。神を愛し、隣人を愛する生き方に進んで行かねばなりません。
さて、ここでヨハネ第二の手紙の解説から少し脱線するかも知れませんが、自由について考えて見ましょう。
『「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる 』(ヨハネ8:31~36) イエスは明言しました、罪を犯す者は罪の奴隷であると。奴隷はいつかは父の家から出て行く時が来るのです。罪の僕になっているなら、父の僕にはなれません。罪の奴隷、それは自分の肉の要求が、自分の内の善なる意志でコントロールしようとしても出来ない状態を指すのです。奴隷には自由がありません。真の自由は、キリストが聖霊によって与えて下さる、霊が解放された状態、罪のない自由なのです。罪を犯すことが自由ではないのです。
しかし良く考えて見ると私達は皆、何らかのものに奴隷のように縛られており、束縛されていませんか。私は体が弱いので無理は出来ません、言わばこの弱い体に奴隷として生涯繋がれているのです(田中清二の例)。
また、酒が好きで止められない人は酒の奴隷になっていて、自由はないのです。人は皆、仕えるものの奴隷になっています。極端なことを言えば麻薬や、覚醒剤、大麻等の薬物中毒者は薬物の奴隷です。一度手を出すと止めることが難しくなります。正にこれは奴隷と言う言葉がピッタリです。止めようと本人がどんなに思って努力しても、止められないのですから。その他、たばこ、パチンコ、スロット、麻雀、競輪、競馬、競艇、ゲーム等様々なものに奴隷にされているのです。今や半分冗談を交えて言いますが、日本人のほとんどは私も含めて、スマホ中毒、スマホと言う小さな物体の奴隷になっているのではありませんか。
はてまた、持ち物の誇り、何かの収集癖、富や、金銭の奴隷になっている者もいます。仕事はこの世で生きるためにしなければなりませんが、ワーカーホリックと言って、のめり込み過ぎて、仕事の奴隷になっている人もいます。
キリストは言われました、罪を犯すものは罪の奴隷であり、真理はその人を自由にすると。
パウロは、死んだ者は律法からも、罪からも解放されていると言っています。
『死んだ者は、罪から解放されています。』(ローマ6:7)
『罪から解放され、』(ローマ6:18)
『罪から解放されて神の奴隷となり、』(ローマ6:22)
『律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。』(ローマ7:6)
キリストはわたしたちを解放して下さったのだから、二度と奴隷の軛に繋がれてはならないのです。
『要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。 』 (ガラテヤ4:31、5:1)
これらはいったい何をどのように解釈して行けば良いのでしょうか。奴隷の軛は単に律法だけではないと私は考えます。私達の心の中にある何らかの自己規制の信条等が、何らかの大きな軛を自分に押し付けていることもあるでしょう。潜在意識の中で自分が気が付きもしないうちに、何かに縛られているとしたらどうでしょう?
私達は様々な情報や、趣向、性癖、仕事、娯楽、レジャー、TV、PC、スマホ、ゲーム、飲食物の好み(甘い物、辛い物)等々の奴隷になっていませんか?それ自体は何も悪をもたらすものではなく、普通の物であっても、それに囚われ、心が占領され、神が心の中の第一の場所にいなくなるなら、それは奴隷状態なのです。これらが如何にすぐ捨てることが出来ないかは奴隷状態だからです。
真理、自由、律法、律法からの解放、罪、罪からの解放、聖霊、霊の解放、贖い、十字架、罪の赦しの関係について私は常に頭を悩ませてきました。その関係性についていかに理解すべきか?繰り返しが多く、また長くなりますが以下に私の考えを書きます。
律法、神の命令、広く解釈すれば律法の書全体、聖書そのもの、とも解釈できるが、クリスチャンは、肉の自分が死んだので、もはや御霊に満たされて、自由になった、律法からも解放されている、とパウロは言っているのです。
それでは律法はなくなったのであろうか。聖霊によって、悔い改めに導かれ、新生されたクリスチャンの生き方は、真の意味で霊によって神に仕えて行くのであって、その仕え方は、文字をある意味超越しているところがあることは認めよう。肉の解釈や努力によって表面上の文字に拘り、上面(うわつら)だけを守るような、神の言葉の守り方をしていないだろうか?
人生のある場面では、クリスチャンとして歩んでいくとき、律法の文字面を超越する局面に、出くわすこともあるかも知れない。しかし、文字を全く無視するというような、無律法主義にはならないと私は考えます。『霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。』 (ローマ8:4)とあります。霊によって歩むことによって、律法の要求はむしろ、本来の意味(形式主義、律法主義ではなく、真の愛の実現として)で満たされて行くと考えます。
『それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。』(ローマ3:31)私達が、復活の霊を受けながら、キリストに近づけば近づくほど、 むしろ律法は、成就されて行くものでしょう。
『キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。』(ローマ10:4新共同訳)
『キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。』(ローマ10:4口語訳)
キリストは律法の終わりになられたと口語訳で訳されているこの言葉はギリシャ語τέλος telos であり、終わり・最後・目標・行き着くところ・結末・極限まで等の意味があります。
私は私訳でありますがキリストは律法の「行き着くところ」もしくは「極限をあらわした」と受け取りたいのです。
キリストは実は律法の体現であり、真の形なのです。愛の実現であり、愛そのもののお方なのです。突き詰めて言えば、福音と律法はキリストにあって一つであるのです。
この個所は、律法の成就になられたと訳す方がふさわしいかも知れません。律法の目的はただ一つです。神のためと、人のために自分の命を捨てて愛しなさいと言うことです。キリストは神のために、自分の命を、父の御怒りを受けるために差し出されました。同時にまた、人のために、身代わりとして、命を捨てられました。また私達も聖書を突き詰めて行くと、キリストに倣って神と人のために、自分の命も、それを構成する時間もを削って生きるように導かれて行くのです。
また、イエス御自身の律法に対する重い御言葉があります。『律法の文字から一点一画も消え去ることはない。』(マタイ5:18新共同訳)『あなたがたの義が......パリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。』(マタイ5:20口語訳)
もちろんこうは言っても、その続きを読んでいくと、情欲をもって女を見てはならないし、右目が罪を犯させるなら、えぐり出して捨ててしまいなさいとも書かれているので、全体を通して、イエス独特の誇張表現であると理解しなくてはならないとは思います。目をえぐり出して捨ててしまった男性など一人もいないではありませんか。神の御言葉は『一点一画も消え去ることはない 』そのくらいの気持ちで徹底しなさいと言うイエスの誇張表現です。
エペソ4:25~6:3のパウロの言葉を読みますと、パウロが十戒の順序を全くバラバラにして、しかも表面の行いよりは、心の中を描写し、心の中そのものの持ち方が大事であることを強調して書いています。この部分は、私に言わせれば、パウロの新十戒解釈と見て良いでしょう。特にエペソ6:2には『父と母を敬いなさい。』と直に、十戒の第5条が引用されているので、エペソ4:25~6:3を書く時にパウロの頭の中に、十戒があったことは間違いありません。
信仰の結果として、神の前に、愛の行い、つまり聖霊によって、義の実を結ぶことが出来ます。恵の後に、愛の行いが強調されているのです。
『律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。』(ガラテヤ5:14口語訳)
繰り返しになるが、私達はキリストの恵みの下にいるのであって、律法の下にはいない。『......あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。』(ローマ6:14新共同訳) 肉の努力や、人間の力だけで神の律法を守ろうとすることは不可能です。『なぜなら、肉の思いに従う者は、......神の律法に...従いえないのです。』(ローマ8:7新共同訳)
律法の下にいるとは、どういう状態を示しているのでしょう?
キリストの贖いや、復活のキリストの御霊に満たされることなく、自分の変えられていない、生まれつきの肉の能力や、後天的に勉学等で取得した能力、また修行等の肉の鍛錬によって、神の律法の要求を守ろうとするとき、その人は律法の下にいるのです。
表面的に律法遵守を取り繕い、自分はあたかも神に従っているかの如く、自惚れている状況、すなわちキリストの義の代わりに自分の義を神の前に立てている、浅はかな状況を律法の下にいると言うのです。自分は、自分の行いにより、少しでも神に近づいたかな、などと思う思いがあったなら、律法の下にいるのです。人間の汚れた行いによって、神の前に受け入れられることは決してありません。すべてはキリストの恵み、神の御恩寵によるのであって、キリストの下、すなわち恵みの下にいるしか生きて行く道はないのです。こう言う意味で律法の下にはいないようにいたしましょう。人間は肉のもとに売られており、イエス・キリストが肉を十字架で処断なさらなければ、私達の肉が邪魔をして、そもそも神の律法など守れないのです。
また自分の不完全さと罪深さに常に苛まれ、救いの義を褒め称えるのを忘れ、弱さの自覚の中に常にウジウジしている、養育掛かり用法の下にいるならば、それも律法の下にいることになります。それがどんなに良心的な罪の自覚であろうと、イエスのなされた救いを賛美していない、霊が解放されて生きていないのなら、律法の下にいるのです。『なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。 』(ローマ6:14)
それらの生き方は、個々の罪をどうのこうのと言うのではなくて(もちろん個々の罪 は悔い改めて、捨てなければなりませんが)トータルとして、恵の支配の中、恵の法則の中にいるのです。法則の中にいるので、罪に定められることも支配されることもないのです。『従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。』(ローマ8:1~2)
さて、愛する者は神を知っており、現に今、目に見える兄弟を愛さない者は、見えない神を愛することは出来ないと書いてあります。神の本質は愛、神は愛です。神の方が先に私達を愛して下さり、その愛の証拠として、贖いの供え物として、御子に人間の形をお与えになり、人間として乙女マリアから降誕させ、ただ犠牲の生贄とするため地上にお遣わしになったのです。これが神の愛の本質であり、ここに愛があるのです。『愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。』(ヨハネ第一4:7~10)
『わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。』 (ガラテヤ2:19~20)
私達のうちにはキリストの霊が宿っているのです。それは復活なさったキリストの義の支配を、この世にあっても体験すると言うことです。『律法に対しては律法によって死んだ』の意味は、肉の努力によっては律法(神の言葉全部)を守ったり、実行することが出来ないので、古い変えられていない自己を先ず、十字架にかけて死なしてしまおうと言うことです。古い自己、つまり肉の欲と、世の快楽にまみれた自分は、そのことを認識していようと、していまいと、既に人類の始祖第一のアダムが罪を犯したとき、共に罪を犯したこととされ、人間はその時以来、死に定められ、死と、その原因である罪にトータル的に支配されているのです。罪の支配力は、私達の肉の弱さとして遺伝をしているのです。しかしイエスの十字架を自分の古い肉の破壊のモニュメントとして受け入れる時、第一のアダムの罪の支配から脱し、第二のアダム(イエス)の義と命の支配へと、移行することが出来ます。だから恵の下、イエスの下にいる者は、法則として罪の支配の下にいることはないのです。
『一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。』(ローマ5:17 )
『こうして、 罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。』(ローマ5:21)
と言うことは、私達の毎日の生活が大事になります。毎日失敗し、心の中の罪を自覚し、挫折と、後悔に苛まれ、「ああ、今日も人を愛することが出来なかった」と、嘆きの祈りをし、良心の咎めを感じながら、弱い信仰生活を送らなければならないのでしょうか。私はもし今の現状がたとえそうであったとしても、このままで良いとは考えません。『恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。』とあります。
これは私達の権利でもあるのです。義の支配が、第二のアダム(イエス)が復活したとき、既に全人類とは言い過ぎかも知れません、少なくとも、キリストを受け入れた人々に対しては、勝利の宣告がなされたのです。イエスは復活し、天の父のもとへ勝利の凱旋帰国をなさいました。聖句によっては十分指し示すことは出来ませんが、父なる神と、千々万々の天使達の前に、どのような形であるにせよ、想像の域は出ませんが、キリスト復活の勝利のセレモニーが、天において開催された事でしょう。キリストが 御自身の復活の奇跡によって、死んで滅びゆく人類に、 再び永遠の命に生きれることができる可能性を提供したことは、何らかの重大宣言が、天においてなされたと推察します。 関連聖句としては不十分ではありますが、次の聖句を参照して下さい。エペソ4:8、詩篇68:18、マタイ27:51~53、ペテロ第一3:18~20、マルコ16:19、ルカ24:26、ヨハネ20:17、ヘブル8:1~2、ローマ8:34。
私達は、たとえ肉体は衰えて行っても、復活なさったキリストの下に日々とどまるとき、キリストは日々私達を、義と命の支配の中に入れて下さるのです。キリストが復活したとき、時代は新たなる勝利の時代に入ったと言えます。そしてこのキリストの義の力はイエスを受け入れた総ての人々に及ぶのです。
とは言うものの、人間には器、あるいは神から与えられた賜物と言うものがあります。この復活の勝利と義と命の力が、クリスチャン全員にある程度は及ぶでしょうが、その顕われは様々です。強弱もあるでしょうし、理解の程度もあると思われます。人はそれぞれ達し得たところにおいて進むべきです。
肉体的には健康な人も、生まれつき病弱な人もいるでしょう。皆がパウロのように信仰の勇者になれるとは限りません。むしろ私やあなたのように、小さな弱い、平々凡々の、人間がほとんどなのです。しかしその塵のような小さな、あまり神のためにお役に立てていない人間を、イエスの仲保によって、神はありのままに、私達を受け入れてくださっているのです。私達一人ゝは全宇宙から見たら塵の一かけら、灰の粒子の一粒に過ぎませんが、永遠の命の可能性を秘めた、塵の一かけら、灰の一粒なのです。神はその人に合ったやり方で、復活の義と、命の力を顕わしてくださいます。大きい、小さいはあるかも知れませんが、イエスの復活の霊の力は、信じる者に、必ず幾ばくかの、霊的、肉的影響を及ぼしているはずです。
私達はこの永遠の命に至る真理の道、イエスを信ずる信仰の道に入った以上、イエスの復活の御霊の降下に少しでもあずかれるように、ただキリストの憐れみに頼って行きましょう。それは理屈や理論ではありません。今、自我を捨て、とは言え、自分の力で、自我を捨てることは中々難しいことですが、そのことは認めた上で、自分の自己中心の精神も、弱い肉体(ある人はむしろ強い肉体)もすべて一度十字架につけてしまいましょう。ただ、キリストの霊を上からいただけるよう、キリストの御名によって、祈り求めて行きましょう。
神を愛するとはどうすることでしょうか。それは、守ると言う言葉を使ってしかうまく表現できませんが、神の愛の掟を守ることです。神を愛するとはその掟を守ることであり、その掟は難しいものではないと、ヨハネは言っています。
『イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。』 (ヨハネ第一5:1~4)
神に仕えて行くことは、この世的な見方をすれば、最も損な生き方で、自己犠牲をするばかりと、他の人の目には映るでしょう。ただ自己を捨て、キリストのために、自分の命と時間を削り、同じキリストに造られた人間として、お互いにキリストの霊を宿す人間として、人間同士尊敬し合って、愛し合って行けば良いのです。でも、自分の肉の命と時間、この世的な楽しみを捨てるという困難さは常にあります。何れにせよ、どう考えても、突き詰めて行くと、考えの行く先は、ただこの一点に行き着きます。この世の肉の命を十字架につけて、キリストの肉の様と共に、自分の肉を処断してしまうこと。
『従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。』(ローマ8:1~4)
この霊の解放の法則に歩むものに、必ずや、『アッバ、父よ』 と呼ばせるキリストの御霊が臨在して下さり、私達が本来、自分の中に持っている『わたしたちの霊』と共に、証をして下さるでしょう。
『あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。』(ローマ8:15~16)
単純に以下の聖句の中に生活しましょう。かなり回りくどい説明をしてきましたが、真理は常に単純なのです。それでなくては老いも若きも、知恵ある者も、無い者も、総ての人を救う福音とはならないではありませんか。
『わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。』 (ヨハネ15:4)
『父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。』(ヨハネ15:9)