エペソ
エペソ人への手紙
エペソ人への手紙を研究するにあたって、この書簡がいつ、どこで、どのような状況で書かれたか、その背景を探ってみよう。執筆年代は紀元62年~63年頃、パウロがローマで軟禁状態にあったころに書かれたと推測されます。この手紙はエペソの異邦人あてに書かれましたが、どのように救われるかとその後の救われた異邦人として、どのように道徳的に生きるかが扱われています。
ほぼ全編を通して教理的な内容が述べられているので、エペソの当時異邦人から改宗したクリスチャンのみならず、各時代の信徒、また現代の信徒にとっても適用される普遍的な内容です。
その神学的内容は、まず1章において、救いは天地創造前に、永遠の昔から定められていた(エペソ1:4,5参照)。また救いは神の一方的な恵みによるので、『行いによるのではありません。』(エペソ2:9)と強調して書かれています。救いが一方的な神の恵みにより、御恩寵であることを以下に再度書きます。
御子の確かな救いの奇跡、ご自身の命を人類のために投げ出した犠牲、すなわち贖罪の業のゆえに、今私達は、神の前に、現時点ではこんなに罪深く、失敗ばかりして、肉のまだ変えられていない性格を持っているのに、ありのままに、神の前に赦されている。私達の側には何の善い行いもないのに、キリストのなされた贖罪の業のゆえに、ありのまま、そのままで、十字架の影に立つとき、罪なき者として、神の前に立つことが出来る。生涯一度も罪を犯したことのない者として、正しいものとして、キリストの義の衣で覆われて、あるがままで救われ、神の前に義と認められている。神学用語でこの立場を義と認められる、義認と言う。
『御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。......』(ヨハネ第一3:1新共同訳)とヨハネは書いています。愛する御子をこの世につかわし、全人類の救いのために、罪の身代わりとして、死に渡されたのです。
イエスは地上において神の御旨を果たし、愛の生活をし、人類の代表として罪のない模範的な生涯を送られたのです。何の罪もない、何の落ち度もない、無垢で、全く正しく、完全に義であり、愛そのもののお方、イエスの上に、父なる神の刑罰は下りました。人類に注がれるはずの滅びの刑罰を、御子イエスが身代わりになって引き受けて下さったのです。 『わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。......』(ヨハネ第一4:10口語訳)しかし、三位一体の神は存在において同質です。顕現においてはそれぞれのお働きがあり、そこに位格の差はありますが、一つの神、唯一神です。ですから、神その方が、ご自身を犠牲にして私達を最初から愛して下さったと考えても良いのです。
十字架刑は、とっても辛い苦しみを伴う死刑の方法ですが、御子はそれを苦悩の中に甘んじてお受けになりました。神は全人類の過去、現在、未来の罪を御子に負わせて、十字架でそれを処断なさったのです。ですから、それを信じ受け入れるものは、全ての今まで犯してきた生涯の罪が赦されて、義とされ、何も罪のない者として、神の御前に立たせていただけるのです。
それは私達が神の子と呼ばれるほどに神は私達を愛して下さっているからです。事実わたしたちは、キリストを全面的に受け入れ、心底から信じている以上、神の子とされているのです。聖書に書いてある通り、私達は今や神の子なのです。『......それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。......』(ヨハネ第一3:1新共同訳)ハレルヤ!神の子(こんな醜い私が神の子なのですか)は地上にあってはまだ普通の人間ですが、実は御子キリストが間もなく地上に再臨なされ、再び天から出現なさる時、私達は『......御子に似た者となる......』(ヨハネ第一3:2新共同訳)のです。
御子と似たものになるってどんな事でしょうか?それはまだハッキリしませんが、御子の中に永遠の命があるように私達にも永遠の命が与えられ、御子に栄光の身体があるように、私達にも栄光の身体が与えられるはずです。イエスの御身体は、誕生の時も復活した後も、永遠に人性をまとわれたのです。イエスの復活した身体には、肉体があり、十字架上で、槍で刺された刺し傷もあり、手の平には釘が打たれた傷もあるのです。イエスの掌の傷、それは消えることなくずっと記念として残っていると推測されます。
またイエスは復活した後、弟子たちの前で、魚を食べられたと言う記述(ルカ24:42,43参照)もありますから、私達も例え栄光の身体を与えられても、何らかの食べ物を食べることは間違いないようです。
また天国にいて、罪を犯してはならないのはあたり前の話であるので、この地上にあってもイエスが清いようにこの永遠の望みをイエスに見出している人は、御子に結ばれて、清い生活をするようにと言われています。『御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。』(ヨハネ第一3:3新共同訳)
『......罪は不法である。』(ヨハネ第一3:4口語訳)とあり、法とは十戒 にある定めなのです。それは表面的な現行罪を含みますが、むしろ心の動きの方を問題にします。最終的にはキリストによって変えられた人間の、純粋な心から発する、実践的な、かつ積極的な行動愛を聖書は求めています。
聖書によれば、兄弟を憎む者は人を殺したと同じであり(ヨハネ第一3:15参照)、現行罪ではなく、それを含みつつ、心の中にある邪悪さがより深い罪の根源です。
日本の法律は心の中までは取り締まりません。どんなに人を憎もうが、実際に殺さなければ罪には問われないのです。これを法律用語で内心の自由と言います。でもキリスト教は、むしろ心の奥底を罪の根源として問題にするのです。
他人を嫉妬したり、憎まなかった人など、この世に一人もいません。誰でもこういう意味で、私達は皆罪人なのです。生まれついての罪人であり、肉の下に売られているのです。イエスの血によって贖われ、救われなければ、キリスト教信仰はスタートが切れません。スタートどころか、今まで記述してきた、贖いの概念こそ、信仰のそれぞれの段階で常に意識され確認される事であり、最終的なものであるとも言えます。いつも、信仰のどの段階でも、また最終段階、すなわち死ぬ間際でも、その土台によって常に神の前に受け入れられ、赦され、義認され、救われるのです。
キリストと直に『...顔と顔とを合わせて、見...』(コリント第一13:12口語訳)る時がやがて来ます。救いの瞬間を、現実の救いとして体験する時が来ます。そのことが起きる時(世の終わり、再臨の時)、神の前に義認されていること以外の立場はありません。そのことが信仰の基本的な土台なのです。私はそのように確信しております。キリストの前に立つとき、救いの根拠は私達の側にはありません。
例え地上の生活の中で、多少の善い行いをしていたとしても、それはキリストが聖霊を通して私達に働きかけ、させてくださったのであって、自分に誇りはなく、ただキリストの名によって、父なる神に栄光を帰するだけであります。救いの瞬間を迎えても、その時、私達には救いの根拠となるような、善い行いなど何一つありません。総てイエスのとりなしと、功績によって義とされ救われて行くのです。
エペソ2章は上記のように義認と言う、最も私達が大事にしている教理を書いています。それが救いの根本であり土台であるからです。しかしこれは信仰の過程の半分でしかありません。
救いに関しては、救われた人達の生活の清めと言う、もう半分の真理があります。そのことについてはエペソ4章に書かれています。
エペソの教会はパウロの第三次伝道旅行の際には、伝道の拠点として、二年もの間、腰を据えて滞在した場所であり、エペソのティラノの講堂でパウロは毎日論じていたと記録されています(使徒行伝19:1~10参照)。エペソでは最初の伝道期間を含めて約3年間昼も夜もパウロはイエスの福音を証し続けました(使徒行伝20:31参照)。
パウロが『祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、』(エペソ1:16)と言っているので、どんなにか、エペソの人々と親しく交わり、ローマの牢獄でも、心にかけていたか、その片鱗がうかがい知れます。ただパウロが心配していたのは、ユダヤ人と違って、改宗前には聖書や神の律法とは無縁に暮らしていた異邦人の典型であったエペソ人クリスチャンが、改宗後、また周りの異邦人と同じような生活に戻ってしまうのではないか?この一事が彼の脳裏から離れない心配事であったと思われます。わざわざ『...もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。...』(エペソ4:17)と強い口調で書いていることから、『正しく清い生活』(エペソ4:24)をさせることがエペソ人への手紙が書かれた目的だとわかります。
後述しますが、具体的には十戒の適用の心の内側の問題(表面上の遵守も含む)、心の持ち方として、どのようにしていかなければならないかを、エペソ4:25~6:9までのかなり長い文節で、事細かに解説しています。元々異邦人であったエペソ人は、十戒とは無縁であって、幼い時から礼典律を含む律法に慣れ親しんでいた、ユダヤ人クリスチャンとは背景が違っていたのでしょう。
私達が陥りがちな神学的誤謬の中に、無律法主義があります。イエスのなされた十字架の犠牲によって、罪赦され、義認され、救われる。私達の行いは何も救いとは関係ない。救われた後はもう何をやっても自由であり、何も守るべきものはないと言う考えです。
確かに救いは無代価で与えられるものです。真摯に神の前に己の非を認め、悔い改めるとき、どんな罪でも、イエスの十字架の血潮のゆえに、赦してもらえます。それはその通りです。
しかし、恵みにあずかった者のその後の生き方は、エペソ人への手紙のこの部分(エペソ4:22~6:9参照)にある通り、かなりのハイレベルな生き方をするように求められています。そのこともまた、聖書が書いている事実なのです。もちろん自分の肉の努力だけで、そのようなハイレベルな生き方が出来ることは到底考えられません。ただ十字架と、復活の力を内的に体験し、聖霊を豊かにいただくことにより、己を空しくして、祈りの内に、キリストの霊を心に内住させながら、キリストと共に生きて行く以外に方法はありません。
救われたクリスチャンに対して(ここではエペソ教会の人々)直接、単刀直入に十戒 を守りなさいと言うと、例え異邦人のクリスチャンであったとしても、ユダヤの律法主義に陥る恐れがありました。
清めを強調するとき常に注意しなければならないのは、律法主義になってしまうことです。
キリストとは無関係に、自分の肉の努力と生まれつきの意思の力で、表面的に律法を守って、そのことによって神の前に自己の義を立てるならば、それは律法主義になります。律法は生まれつきの肉の力で守れるようなものではありません。神によって、砕かれ、謙虚になり、聖霊によって新生されたクリスチャンが、聖霊の満たしと、内住されるキリストと共に歩むことによって、神からの愛を受けて全うさせていただくものです。
パウロは知恵に満ちた方でありましたから、あえて十戒 を整然と並べたりせず、エペソ4:25から十戒 の順序を全くバラバラにして、しかも表面の行いよりは、心の中を描写し、心の中そのものの持ち方が大事であることを強調して書く事にしたのだと思います。
以下4章から6章にかけての、パウロの言わば新十戒解釈が、いかにハイレベルな生き方かを見てみましょう。
無慈悲、憤り、悪意を捨てなさい(エペソ4:31)これは6条ー殺すなのパウロの解釈です。みだらな者、汚れた者(エペソ5:5)これは7条ー姦淫するなにあたります。『盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。』(エペソ4:28)これは8条ー盗むなの解釈。『だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。』(エペソ4:25)これは9条ー偽るなにあたります。『.........また貪欲な者、つまり偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。』(エペソ5:5)これは10条ー貪るなの解釈。6条から10条まで、本来は大事な戒めから優先して並べられるはずです。十戒 は全部大事ですが、殺すなは、偽るな、より重要でしょう。嘘と殺人では、この世の法律でも刑の重みが違います。
十戒 は重い順に書いてあるのです。殺すな、姦淫するな、盗むな、偽るな、貪るな、の順です。そして当時の社会には何の社会福祉制度もないのですから、両親を敬う戒めは、(老後の面倒を見ることを含むと考えられる)十戒 では人間同士の戒めとしては一番最初に来る、重要な戒めとして第5条があるのです。パウロはあえてこの最初の戒めを順番を逆にし、最後の方、すなわち6章へ跳んで、エペソ6:2『「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。』(エペソ6:2)と書いています。この書き方からして、エペソ人への手紙のこの箇所を書いているパウロの頭には、十戒 があったことは間違いありません。
何故パウロはわざわざ十戒 を見事に跡形もなく(順番としては)、バラバラにし、更に、心の中の状態まで色々と付け加え、また様々な、酒に酔うなとか、無分別になるなとか、細かく気を配って歩めとか、様々なメッセージを付け加え、エペソ4章から6章に至る、言わば自分の新十戒 解釈を、それとなく条文としては悟られられないように、エペソの信者に提供したのでしょうか。
その答えはクリスチャンに対して標準的用法-後述、としての十戒 をあまり生のままあからさまに提示すると、せっかく恵によって救われたのに、行いによってやはり救われるのだと、勘違いされるのを恐れたのではないかと思われます。
何れにせよ救われたから十戒 を守る必要はなくなったなどとは、パウロはどこにも聖書の中に書いていないのです。もちろん養育掛用法-後述、の下にはいないとは書いていますが(ローマ6:14参照)。
ここで再度確認しておきたいことは、私達が自分の肉の力で律法を守れることなどありえません。私達生まれながらの人間は、罪のもとに売られて、肉の努力や修行ではどんなに努力しても、神の律法を守れないことは既に書いて来ました。完全になる(十分に成長する)唯一のチャンスは、自分の力や努力ではなくて、イエスの十字架の血による贖罪をそのまま自分のものとして受け入れ、買い戻され、そして内なるキリストに心の中に住んでいただくことなのです。罪の赦しもキリスト、罪の清めもキリスト、品性の完成もキリストなのです。キリストに常に結ばれていく以外に、完全になれる(十分に成長する) 可能性はありません。100%キリストなのです。
パウロが信仰による義を説き、聖霊によって新しく生きることを説き、あらゆる知恵を使って教えてきた事、これらの知恵を尽くしたパウロの説明のすべてが、内なるキリストを目的にし、クリスチャンが自分の心の中に住むキリストを自覚し、キリストに固く結ばれ完全なものになるように、完全を目指して歩むようになるためであったのです。
また、完全と訳されているギリシャ語テレイオスは、十分に成長した、あるいは、成熟していると訳した方が良いと言われています。
十戒 を見れば見るほど、自分の至らなさが示され、律法はキリストに私達を連れて行くための養育掛としての働きをする。『こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育掛となったのです。』(ガラテヤ3:24)
人間の思いの中にある罪を自覚し、キリストの十字架のもとに連れていかれ、悔い改め、神に義とされ、赦されて、神の前にキリストの義をいただいて救われる。パウロは断言する。律法を守る事によっては誰も救われず、律法によっては罪の自覚が生じるのみなのだ。人間は本質的に、肉に売られており(霊と逆の表現)、生まれたまま肉の性質を持っている人間はそのままどんなに修行に励み、努力を重ねたとしても、神の聖なる律法の要求に達することはできず、不完全な自分の姿が自覚されるだけなのです。『律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。』(ローマ3:20)人間の精神も含めて、生まれながらの人間は堕落しており、肉の性質を持っているので、そのままではどんなに努力しても、神の崇高な律法に従う事は出来ないのです。
しかし、神の聖霊によって、もう一回生まれ変わる事が出来る、肉体を持っているので、肉の性質は完全にはなくならないけど、人間の内面が神の霊による生まれ変わりを経験して(新生)、やがて少しずつ変えられながら、不完全ではあるけれども、段々と神に従っていくことが出来るようになる(聖化)。
養育掛用法はいつまでもその用法の下にとどまるべきではない。信仰によって義とされ、聖霊に満たされたクリスチャンが律法の養育掛用法の場所にいつまでもとどまらないと聖書自身が解釈しています。『しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。』(ガラテヤ3:25)
『...律法の下にはいません。』(ガラテヤ5:18)(ローマ6:14参照)の本当の意味は何か?律法には人を救う力はない、また律法は霊的な物であり、肉のもとに売られている人間が、どんなに努力をしても、それを肉の力のみで守ることなどできない。表面的には守っているように見えたとしても、人間にはその精神の髄まで、肉的な物が腐敗的にゴチャゴチャに入っているので、守ることなどできないのです。
律法の下にいないとパウロが言っているのは、私達が生まれつきの、腐敗した肉の力で律法を守るような用法の下にはいない(あるいは養育掛用法の下にはいない)と言っていると、私は個人的に解釈します。もし肉の力だけで、キリスト無しに律法を守る事だけで救われるのなら、キリストの十字架は必要なくなるし、律法主義と言われてもしょうがない。
『わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。』(ガラテヤ2:21)
私達は霊の下、キリストの恵みの下にいるので、律法の下にはいない。しかし、人間は肉を持っているので、人間はその肉を情と欲(金銭欲、名誉欲、自己顕示欲等それらすべての欲)と共に、十字架につけていかなければならないのです。
繰り返すが、律法の下にいないと言うパウロの言葉は、生まれつきの肉の力で、聖霊の臨在も、助けもなく、表面的に律法を、ただ人間的な努力によって守って行くような、守り方の下にはいないと解釈すべきです。キリストの霊の臨在と内住による、霊の満たしなくして、人間の力、肉の努力だけで、律法の文字面だけに拘って律法を守ろうとするとき、私達は、霊の下ではなく、律法の下にいるのです。充分に注意をしなくてはいけない。このことはどれほど強調しても強調しすぎることはない。
主を仰ぎ見るとき、恵の下に、霊の自由な中にいて、キリスト者の自由を味わうことが出来ます。今でも会堂で、律法の書が読まれるたびに、何か自分の肉の努力で、単に表面的に律法を守る事によって救われるのではないかと言う、律法主義の覆いが会衆の心に被せられ、恵の光を遮ってしまう。律法の下にいないとパウロが言っているのは、私達が生まれつきの、腐敗した肉の力で律法を守るような用法の下にはいないと言っている(あるいは罪の自覚に常に苛まれるような養育掛用法のもとにはいない)と解釈できる。もし肉の力だけで、キリスト無しに律法を守る事だけで救われるのなら、キリストの十字架は必要なくなります。これこそ律法主義です。
『...主の霊のおられるところに自由があります。』(コリント第二3:17新共同訳)モーセの顔覆いは、私たちから取り去られて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、聖霊の毎日の満たしの中で、イエスにいつも心の中でお会いして、イエスと同じような形に私達は日々変えられていく。これがクリスチャンの生き方です。
救われた者は、『...キリストの律法の中...』(コリント第一9:21口語訳)にいるし、愛によって働く信仰だけが神の前に尊い。信仰の結果として、神の前に、愛の行いと言う、義の実を結ぶことが出来ます。恵の後に、愛の行いが強調されているのです。『律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。』(ガラテヤ5:14口語訳)
再度の繰り返しになるが、私達はキリストの恵みの下にいるのであって、律法の下にはいない。『......あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。』(ローマ6:14新共同訳) 肉の努力や、人間の力だけで神の律法を守ろうとすることは不可能である。『なぜなら、肉の思いに従う者は、......神の律法に...従いえないのです。』(ローマ8:7新共同訳) 人間は肉のもとに売られており、イエスキリストが肉を十字架で処断なさらなければ、私達の肉が邪魔をして、そもそも神の律法など守れないのです。
さらに、この世の神が、この世の名誉、財産、成功、肉欲、現世的欲望等の満たしをもって、福音を覆うことがあるかも知れない。滅びの道をたどる人には福音は覆われてしまう事があるかも知れない。しかし、私達はイエスに仕える僕(奴隷)だ。偉大な力を土の器の中に持っている。変えられていない、古い肉を十字架につけ、復活のキリストの命を霊的に宿し、霊的に復活の経験をすることが出来るのです。
やがては本当の現実の復活も、この世の終わりには体験させていただき(コリント第二4:14参照)、一緒に神の御前に立たせていただける事を私達は知っている。この霊の力によって、私達は生きる手紙として、御霊の実、愛の実を豊かに結んで行くのです。
さて、律法には養育掛用法と、もう一つ見落としがちであるが、標準的用法があると考えます。クリスチャンとしてのスタンダードを示し、キチッとしたクリスチャンを作り上げるのに役立つ用法です。標準に達しているから救われる、達していないから救われないと言う事ではなく、クリスチャンとして、達すべき標準を示すことは、大事なことではないだろうか。
『律法は正しく用いるならば良いものであることを知っています。...律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、...父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、...偽証をする者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えれらているのです。』(テモテ第一1:8~10)
盗まない、 嘘つかない、殺人をしない、姦淫をしない、同性愛をしない、偶像崇拝をしない、週の第七日目安息日遵守、貪欲に陥らない、人を憎まない、天地創造の聖書の神のみを拝むこと、神の御名をみだりに唱えない、父母を敬う事、等まだまだあると思うが、守らなければならない標準がエペソ人への手紙等の聖書の中に書いてあり、クリスチャンになれば、これらの事を行動の標準として遵守すべきだ。これらを守ったから救われるとか救われないとか言う事ではなくて、このような標準に達することが期待されているのです。
しかし、パウロはエペソ人への手紙においてここまで、妻を自分自身のように愛せとか、夫婦間の在り方、主人に対して奴隷はどのように仕えるべきか等色々なことを、十戒を念頭に置きながら記述しているのに、何故十戒 の第1条から第4条に触れなかったのか?素朴な疑問が生じます。エペソ教会の信者に第4条の安息日遵守を含む神に対する拝み方等についての勧告は必要なかったのだろうか?
私はそうは思はない。では何故書かなかったのか。それは推測するに、宗教儀礼に行き過ぎくらいに凝り固まっている当時において、第一条‐天地創造の神のみを神として礼拝すること、第二条‐偶像を拝まないこと、第三条‐畏れ多い、神のみ名をみだりに唱えないこと、第四条‐週の第七日目安息日を守ること等はあたり前のことであって、いちいちエペソ人への手紙の中で勧告する必要もないことだったのであろう。当然守り実行すべきものだという了解が、パウロにも、エペソの信者にもあったから、敢えて書かなかったのではないだろうか。もしエペソの信者が、第七日目安息日を守らず、神を第一とせず、偶像を拝んでいたとしたら、仮にそんな状況だったら、パウロの強烈な警告メッセージが発せられたはずです。それがないという事は、そのような問題がなかったという事ではないだろうか。
エペソ5章の中で最大の私の心を捉えて離さない聖句は、『何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。』(エペソ5:10)『だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。』(エペソ5:17)です。2つの聖句の意味はどちらも同じ。自分のやっていることが十戒 にかなう事はもちろん、本当に主に喜ばれることなんだろうか、事の是非はともかく、たとえ善悪ではなくて、日常の普通のことであっても、やってる事は本当に主に喜ばれているんだろうか、常に反省し吟味する必要があります。このことに関しては、あるパンフレットで読んだ、常にキリストの動機とキリストの希望をもって、心の中で祈りながら生きて行くこと。どんな時もこれは大変役に立つ、私たちの行動指針となり得ます。
聖霊に満たされて歩むということは、単に律法が規定する善悪の問題を判別することを超えて、もっと高いレベルの自分と神との間の関係を、すべての思いと行為に求めてくるのです。
聖霊から離れて、自己の肉の力でやることは、すべて神の御心に反することとなって、鋭敏に知覚されるのです。こうなると私達は自分のやりたいことが自由には出来なくなります。すべて御霊によって満たされながら、それがどんなに日常的な些細なことであっても、主から離れては何もできないし、したくないと思うようになって行くのです。またそうならなくてはいけません。それが主と共に生きると言うことなのです。
『時をよく用いなさい。』(エペソ5:16新共同訳)単に肉的にバタバタと行動するのではなく、真に聖霊に満たされて、聖霊の支配する時を聖霊と共に生きて行こう。このような生き方が、最高の生き方です。
肉的な楽しみ(それが善悪がつけられるようなものではなく、ただ普通の出来事であっても)、自分の趣味、この世的な楽しみも含めて、一度本当に神の御心に適うことかどうか、自分の心を反省し考えてみよう。
主の御心は何なのでしょうか。私達はあまりにも無分別で、大言壮語したり、自分の趣味や仕事に没頭しすぎたり、競輪、競馬、競艇等の賭け事や、パチンコ、スロット、はてまた飲酒、喫煙、様々な悪い習慣の奴隷になったりしてないでしょうか。
各種ポイント の獲得にのめり込み、ゲームに熱中し、TVのくだらない、意味のないドラマ等に夢中になって、神から与えられた貴重な人生の時間を無駄に過ごしてはいないでしょうか。
どちらが勝とうがスポーツ観戦に熱狂することがそんなに価値のあることなんでしょうか?貴重な時間と情熱をそこでロスしていることに気が付きましょう。神はどんな目で何かに夢中になっている私達を観られているか考えて見ましょう。
霊を求め霊に仕える時間が余りにも少な過ぎるではありませんか。ただダラダラと日常を過ごす時間がほとんどです。一日を反省して見れば、くだらない娯楽に費やす時間、生活上どうしてもやらなければならない雑用、それらが私達の時間のほとんどを占領しているのです。そして一日の積み重ねが一生であることを考えて見れば、ほとんど無駄に生きた人生であったと言うことになりかねません。どこかで思い切って、人生の方向転換をして、聖霊を求め、神と人の為に生きる方向へ人生の舵を切り、聖霊の力を呼び求めて行かなければならないのです。
さらに、神がお許しになっている日常の事であっても、自分で判断し、行動し、ある程度の教育の力と、ある程度の善良さで、一日一日を過ごして、自己満足していないでしょうか。
すべての事を主の御名によって行っているでしょうか(コロサイ3:17参照)。一日の内のたとえわずかな時間であったとしても、自分の力、知恵、能力により頼み、キリスト無しに生活してはいないでしょうか。神から離れ、独立して、自分の能力だけで生きていけると思い、そのように実行すること、そこにすべての罪の根源があると私は考えます。やはり根本的に肉の存在である私、肉の生き方をしている私が造り変えられなければ、主の御心に従う事は出来ないのです。『...肉の思いに従う者は、...神の律法に従っていないからです。従いえないのです。』(ローマ8:7)
これまで、主にエペソ人への手紙の中の神学的側面について見てきましたが、その他にも注目すべき点はまだたくさんあります。重複するかもしれないが、順不同ながら、その点も見て行こうと思います。
パウロは口述筆記で、筆を進めて行きます。
エペソ1章の書き始めのところでは、救いは永遠の昔から、天地創造の前に計画され、私達はキリストにおいて選ばれていたと言っています。何やら予定説的考えが入り込む余地がこの辺りにはありそうです。
2章のところで、何の行いもなく、信仰によって義とされ、キリストの十字架と復活を、霊的に解釈し、自分自身がキリストと共に磔刑され、霊的にキリストと共に新しい命に復活し、さらに霊的に天の王座にまで昇っているとまで言っています(エペソ2:6参照)。
その後の記述は様々な礼典戒律、規則はキリストの血で廃止され、異邦人とユダヤ人の隔ての中垣も取り去られました。さらに、神の隠された救いの計画について言及しています。その計画をどのようにパウロが理解しているかは、読めばわかると言っています(エペソ3:4参照)。
ユダヤ人も異邦人も、福音によって救われることになり、救いに関しては民族の壁は取り去られました。最も小さな使徒パウロが(実は最も偉大な使徒)異邦人伝道の器として神に選ばれました。この世々に伏せられ、秘密にされてきた贖いの計画は今や明らかになり、これらのことは天上の御使いたちも、伺い知りたいと思っているほどなのです。
その計画の結論は、内住のキリストがその目的であったということで3章を締め括っています。
4章には、コリント人への手紙で詳しく触れられる、霊の賜物について、教会全体の益ために与えられることを説いています。
さらにその後半において(エペソ4:22~6:9)、前述の通り十戒の精神的理解を展開しています。イエスを信じる信仰によって、イエスの血によって、無代価で救われたものは、そのまま後は自由で、何をしても良いのか、それともしてはいけないことと、して良いことがあるのか、イエスを救い主として受け入れた後、何をどうすれば良いのか、どのように行動し考えて行けば良いのか、と言う問いに答えています。
最後に6:10から有名な悪との戦いの為の神の武具を身に着けるように、非常に霊的で、印象的な教訓を与えています。
さて1章の4~11節に戻って考えてみましょう。
永遠の昔から、神の救いの計画が立てられ、天地創造の前から、私達を愛され、汚れなきものとして、イエスによって前もってお定めになりました(エペソ1:4,5,11参照)、と言う記述はどのように解釈して行ったら良いでしょうか。
予定と予知
田中清二のホームページhttps://ktanaka33014.wixsite.com/website リンク有 アドレスクリック、右上端ブログをクリック ②A 信仰の軌跡「救いに関する予定と予知」を読んで見てください。
神は救われる人をあらかじめ、予定しているのだろうか?
『天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストおいてお選びになりました。』(エペソ1:4)
『キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。』(エペソ1:11)
ここでは予定と予知の神学論争に陥るつもりはない。
自分の経験から言えば、やはり予知であり、神はあらかじめ私の人生が、途中挫折してしまうように予定なさったとは思えない。自分の利己心と言う罪のゆえに、一度家庭が崩壊し、離職、新しい仕事への再就職 、離婚、ひとり親家庭になった時の子育ての苦労、悔い改めた後の再婚、引き取った子供の大学や大学院までの経済的苦労、そのような遠回りの道を、最初から予定されていたとは考えにくい。
人間には自由意志があり、私はある時点で、良い方を選びそこなった為に、神は別の道を用意して下さったのだと思います。もちろん、全知全能の神であるから、私が自分の自由意志で選び取ったとしても、その選びも含めて、結果も予知なっさてはいたのです。それはあくまでも予知であって、予定ではない。
私達セブンスデー・アドベンチスト キリスト教会は、人間の自由意志を強調する立場を取り、神は全てを予知されているが(選びの結果を含めて)、しかしあらかじめすべてを予定されているのではないという立場を取ります。すべてを予定されていたとなると、人間の自由意志はどうなるのか、という大きな問題が残ります。
しかし、エペソ人への手紙を良く読むと、天地創造前に、救われる人と救われない人は決まっていて、あらかじめ定められている(滅びと救いの二重予定)ように受け取れます。正直にそういう解釈も出来る余地も認めておかなければならないと思います。
さて、私が若かった頃、学生伝道していたとき、ある長期に教会に来られなかったHさんの救いのために、大変な努力をして祈った事を思い出します。何度か集会にお見えになったが、なかなか祈った通りにはならず、完全に信徒として復帰されるまでには至らなかった。神は、人間の自由意志を否定なさらない。救われる自由もあれば、そうでない自由もあるのです。ある意味、神の方で救いに予定されていた方は皆、信じるようになるのではないか。何かそう考えると気が楽になります(ヒメナイ、アレクサンドロの例を参考-テモテ第一1:19,20参照)。
一方あまり予定的考えをを強調しすぎると、今度は伝道する意味がなくなる。何故なら神の方で救いを予定しているとすれば、予定された方々は必ず信じるようになるはずですし、積極的な伝道の意味がなくなってしまう。人間は予め、神によって救いと滅びとに決められているという二重予定説は、ジャン・カルヴァンが主張。それらを信じる人たちをカルヴィニストという。彼らは自分が救いに予定されているから、そのまま安心したのではないか?実はそうではなかった。予定されているかどうか自分でも確信を得ようと、かえって日常生活の中で、勤勉に一生懸命は働くことによって、救いの予定を確認しようとした。逆説的ではあるが、予定を強調することにより、勤勉な、労働意欲が生まれ、それが初期資本主義の成立につながって行ったという。「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」マックス・ウェーバー著参照。
自由意志と救いの関係も考えると中々難しい問題があります。環境、自己の遺伝的要素、罪の傾向を持った弱さ等を考慮すると、どこまで自分が完全な自由意志を持てるのか、甚だ疑問に思えてきます。しかし、すべてを神の意志、神の御支配、計画、神の定められた予定にすることもまた、救いにおける自己責任を放棄してしまっているような気がします。ある意味これは、人間に与えられた、知恵と理性の限界、言葉で表現することの限界とも言えるでしょう。予定と予知については、これ以上余り深入りはしない方が良いのではないかと思います。 予定と予知はこのくらいにして、次に進みます。
エペソ1章の構成について、4,5,11節に神に選ばれた、定められたという同じような表現が3回繰り返されており、その都度6,12,14節と神の栄光をほめたたえる為ですと、3回繰り返されています。すべて贖いの計画は、救いの奥義、神秘、隠された神の計画の中で進行し、最終的には神の栄光をほめたたえるためであったと言っているのです。
神の恵み、その栄光を賛美すると言うことはいったいどんなことでしょうか。詩篇の最後(詩篇150篇参照)は、神を賛美し神をたたえることで終わっています。私達が神を賛美し、たたえることが、人間の創造の目的ではないでしょうか。神によって造られた人間が、造物主に対して、感謝し、賛美することが、結局自分にとっても、最高の喜びであり、幸せなことなのです。人間は喜びの器として、神に造られたのです。赤ちゃんが、喜び、笑っている姿を見てください。何と癒されることではありませんか。私達もまた喜び、幸せに主を賛美しているとき、主もまた喜ばれていると私は信じております。
次に、エペソ1:17から『知恵と啓示との霊』を与えてくださるように述べ、神の絶大な力について言及し、イエスをその力によって復活させ、御自分の右に座せしめ、現世と来世のあらゆる名の上に置かれた。そのキリストは教会の頭であり、体は教会であり、教会の中には父なる神、子なる神、聖霊の神(三位一体)が満ちているところです(エペソ1:17~23参照)。繰り返しになりますが霊が満ち満ちているところ、そこが教会であるとパウロは言っています。だからこそ、教会はキリストの体なのです。
人間の存在を考えるとき、単に肉体であり、物質の塊でしかないのでしょうか。そうではなくて、生きている人間の中には、その肉体の中に、霊があり魂があるのです。魂は知・情・意からできていて、精神とも呼ぶべきもの。霊は聖霊が宿るところ(人間の脳細胞 )にあると私は思っています。
『......あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、......』(テサロニケ第一5:23)と人間全体を描写しています。普通の人は肉体と魂(知・情・意)だけで生きている。肉体と精神と言い換えてもよい。しかし、人間の心の最も深いところに神の霊が宿るところがあります。 自分の中にある霊の存在を認めよう。そして私達が持っている私達の霊と天から降るキリストの霊(聖霊)が共に証しをして行くのです。
『この霊こそは、......わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。』(ローマ8:16)
『主(聖霊)があなたの霊と共にいてくださるように。...』(テモテ第二4:22)
神の霊の影響は大事にして行きたい。自分の霊と、神の霊の存在を認め自覚し大事にして行こう。神の霊は聖霊として天上から降ってくるが、人間の霊は神の霊に応答する、あるいは呼応するところとして、生まれつき与えられている。だから人間には良心があり、神を知らぬ人間でも、悪いことをすれば後ろめたくなり、善いことをすれば清々しくなる。生まれてから自分の精神、すなわち魂(知・情・意)だけで生きてきたので、自分の内にある、自分の霊を自覚することと、聖霊を求め、神の霊と共に生きることが中々できない。従来の肉の思考パターンを、神の霊の自覚の方に変化させるのは結構大変です。のほほんと、毎日の時間を、肉の煩わしい生活の用事をこなすだけで(それも必要な事ですが)終わってしまっては、なかなか天からの御霊をいただくことはできません。神の霊を上より戴くためには、ある程度の熱心な祈祷、修業的な宗教的努力も必要です。
さらに、霊の世界にはもう一つ、マイナスの要素を持った霊、この世の霊、悪霊、目に見えないが実在する、この世の権威を持つ悪の勢力をつかさどる霊があります。この働きには十分注意しなければなりません。祈りがおろそかになり、自分の肉の欲求が勝っていくとき、知らず知らずのうちに、しかも、この世を支配する不従順の霊に、容易に私達の心と肉体は支配されてしまう。この悪霊に従い私達は過ちと罪を繰り返してきたのです(エペソ2:1~3参照)。
特に、エペソ2:3は解釈が分かれる問題聖句です。
『生まれながら神の怒りを受けるべき者』(新共同訳)
『生れながらの怒りの子』(口語訳)
人間は罪を犯したから罪人になるのだろうか?罪人に生まれたから罪を犯すのだろうか?卵が先か、鶏が先か?みたいな話です。聖書的には私は罪人として生まれたから罪を犯すのだと考えます。 『見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。』(詩篇51:5口語訳)
私達は第一のアダムにあって、祖先アダムが罪を犯したとき、生物学的、細胞レベルで、アダムの腰の中にあって罪を共に犯していたのだと言えるのです。(田中清二のホームページ⑤ Q,安息日参照https://ktanaka33014.wixsite.com/website)リンク有 右上ブログをクリックし、⑤のQまで下にスクロール(一番下の引用になります)。
そしてこの見方は、全人類に対して及ぶことになった第一のアダムの罪と死の支配よりも、第二のアダムである、復活したイエスの勝利の力が、さらに優先的に信仰によって及ぶことを意味することがより重要な解釈です。つまり失敗を強調するのではなく、キリストにある勝利を強調する意味でより重要なのです。
罪びとに生まれたのだから罪を犯すのは当然だ、私たちは善い行いなどはできない。罪深い生活のまま人生を送るしかないのだ、こんな風に考えがちになります。しかし、それは受け取り方の間違いであって、罪の支配における弱い、罪の性質を帯びた自分達の姿に目を向けるよりも、むしろ復活したイエスに信仰により強く結びつき、義と力の生涯歩めるようになったと言う方向に、注意と全勢力を向けるべきでしょう。復活したイエスの今現臨する、さらに優った力による支配と、統御こそ目指すべき生き方です。
何故なら、第二のアダムの勝利の力は、第一のアダムの失敗の力より強く、支配力は格段に優っているからです(ローマ5章参照)。既に弱い自分は、キリストの勝利の中に取り込まれ、キリストの復活した霊の力に支配され、義に支配されつつ、勝利の生活を、永遠の命を目指して、送って行くことが出来るのです。
しかし、一方では、それでは罪に対する自己責任がないではないか、という議論が出て来ます。罰せられるのは、人間に与えられた、自由意志を、何らかの理由で、罪を犯す方に選択するからであって、自己責任で罪を犯したとき、罪人となると言う考え方です。
カトリックを始め、 西方教会の影響を受けた神学は、罪人に生まれたのだから、罪を犯す説を取ります。
一方ギリシャ正教を始め、東方教会の影響を受けた神学は、キリストの復活した力の影響を強調します。人間は罪深い性質は遺伝的にはもっているが、もはや人性において、キリストは復活し、悪魔に勝利しているのだから、復活の完全勝利の力は私達まで及び、キリストの霊の力の影響により、私達の思想や意思は清められ、自己意志で、罪を犯さないという選択をすることが出来ます。罪を犯したので、罪人になるのであって、生まれながらの罪人ではない。東方教会の影響を受けた神学はこのように考えます。
ただこの議論の背景には、人間の罪深さをどのようにとらえるかが根本にあると思います。現行罪を主に罪としてとらえるか、心の内側の醜さ、特に神から離反し、各種の肉の欲望を含め、生まれつきの自己の肉の能力のみで生きれること自体をも罪深いととらえるか?その辺の問題がここにはあります。要は人間理解の問題なのかも知れないと私は思います。
人間の存在を、毎日の生活を送ることを含め考えると、本質的なことで、すべてが成り立っているわけではない事は私も承知しています。先人が考え出した人生訓、善行、日本社会の守るべき道徳的標準、生活の資を稼ぐためのこの世の仕事及びそれに伴う用事、掃除、洗濯、料理等家庭の雑用、健康を保つための運動等、日常の中に、やらなければならない肉の用事がたくさんあります(そして様々な肉の用事を効率的にこなすために、主婦としての使命を帯びた『助け手』であるエバが与えられると私は思っていますが、これはジェンダー差別でしょうか)。
しかし、物事の本質を見極める、眼を持つことは重要です。キリスト教においてもしかり。啓示、神の言葉、三位一体、神の愛、癒しの奇跡、再臨、世の終わり、死者の復活等述べたいこと山ほどありますが、私達の根本的な罪の性質について、どう考えて行くかは、信仰生活の方向性を考える上で大事なことです。
私はどちらかと言えば、アダムにあって、アダムと共に人間は既に罪を犯し、その罪の性質は遺伝しており、ただキリストの哀れみと、十字架の犠牲のゆえに赦され、義と認められて行くと言う立場を取りたい。
現行罪を強調し、人間の意思と選択の自由を強調する考え方もありますが、現行罪だけが罪ではないことは明白です。嫉妬心(宗教的も含む)とか、殺人は犯さなくても、その前に心に生じる憎しみとか、湧き上がってくるこれらの思いを人間はどうすることもできないではありませんか。それらも心の中の罪と聖書は言っています。弱さは、人それぞれによって違いますが、物欲、美食欲、貪欲、金銭欲、名誉欲、出世欲、情欲、世的傾向のある知識欲等、様々な欲望を人間はコントロールできないほど持っているのです。これらを心の中の罪と考えるならば、罪の根源は深いということが理解できます。
『「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい。」律法の全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。』(マタイ22:37~40新共同訳)とイエスは言われました。イエスは律法の全体と預言者(律法の書と預言の書、つまり聖書全部)は二つの掟に集約されると教えられたのです。
『あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。』(ヨハネ13:34)
『わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』(ヨハネ15:12~13)イエスの愛し方で愛せよ、イエスが命を私達のために捨てられたように、友のため命を捨てる覚悟で愛しなさいということです。
小さな愛なら実行できようが、友のために自分の命を捨てるほどの大きな愛、そのようなことが、神に変えられていない人間に実行できようか?しかし、これがイエスの標準であります。生まれつきの人間の力では誰もこのような愛は持てない。だから私達は究極的な意味で皆罪人なのです。これこそが人間の存在そのものを問う考え方です。
誰が自分の力で、他人のため大事な一つしかない自分の命を捨てられるだろうか。もし命と時間が等しいならばならば、時間を他人のために費やせようか?肉の生まれながらの人間は自分のことしか考えていません。人間はそのままでは自己を中心に生きるしかないのです。それは厳しい生存競争を生き抜く為の、本能的な自己防衛なのです。勝ち組になって自分だけは生き残って行きたいのです。一人自己のために生き抜き、やがてたくさんの子孫を残して、寿命を終えて死んで行く、生物としてのどうしょうももない、人間の哀れな姿なのです。
しかしイエスの言葉は正反対です。友のために自分の命も捨て、時間も削って、行きなさいということなのです。
肉の生まれつきの人間を十字架につけ、破棄し(キリストの十字架に自己を重ねながらの意味)霊的に新しい命を受け(新生)、霊的に復活して、霊の命を常に宿しながら、キリストと共に生きて行くべきです。インマヌエルの信仰を持っていく以外に、このような生き方は出来ません。十字架で自分の古い肉体は霊的にキリストと共に磔にされ、処断されてしまいました。自分の誘惑に陥りやすい肉体は死んで滅びてしまったと、考えて行くのです。
肉体は霊の入れ物であるから、道具としての役割があります。道具は錆びたり、欠けたりしていない方が良いのです。
母の胎から出て、肉において赤ちゃんから、成人になるまで、生きてきた私達は、霊によって生まれ変わらなければ救われない。生まれ変わっていない肉は(生まれ持った精神や能力、知・情・意も含む)、一度十字架にキリスト共に磔られ、霊的新生を経験することによって、個人の持っている能力のすべては、もう一 度本来の正しい位置に戻され、霊の器として、奉仕の器として使われます。
食欲は制御され、美食を追求すること等から解放され、金銭欲は十字架につけられ、奉仕の業等に使われるようになって行きます。神から離れ、自己中心の、勝手な行動をするように肉の防衛本能によって、仕向けられていた、自己の内にある行動力は、神の御旨に従った方向に向けコントロールされるようになります。肉体がなければ人間は生きて行けない(テサロニケ第一5:23参照)。十字架で自分の古い肉体は霊的にキリストと共に磔にされ、処断されてしまっています。自分の誘惑に陥りやすい肉体は死んで滅びてしまったのです(念を押すが霊的な意味で)。
既に、滅びているから、捨てているから、命を捨てられるのです。こんな形で、キリストの命懸けの愛が自分に実現しているから、キリストの愛を自分の心に宿して、隣人を愛して行けるようになります。新生された、新しい意味での肉体を、殻として、器として、もう一度霊肉共に健康になって、本来の人間の姿に神に戻していただきながら、自分が自分の力で人を愛するのではなくて、自分の内に聖霊を通して宿っているキリストが、隣人を愛して行くのです。
『生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。.........』(ガラテヤ2:20口語訳)
『「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」』(マタイ22:37)も上記と同じ法則です。自分の肉の力で、神を第一としていけるハズがありません。自分の肉の内には、神を第一とする心も力もないことを認めて、神の愛を、天上から降る聖霊をたっぷり受けて、その応答として、何よりも神を愛せるようになって行くのです。生まれつきの肉の人間は、神を人生の自分の時間に関与させることを喜ばず、自分中心に、自分の計画通り生きて行きたいのです。しかし、神のために自己を放棄すること。神のために信仰の表明をする事が求められます。ある時はこの世の命すら、投げ出す事が求められているのです。
『......キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。』 (テモテ第二2:12)
『自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。』(ルカ9:24)
これは、キリストと自分との関係であって、人との関係ではありません。道徳的問題ではないのです。ただ神と自分との関係を問うているのです。あなたは神を第一として、神の存在を信じ、そのために自分の肉の命も(そんな時が来ないように願うばかりですが)、その信仰の表明のために捨てられますかと言うことなのです。
神を愛する、神を第一とする、いつも神と共に生きることが出来るようになれば、必然的に古い肉の自己は死ぬことになります。両方とも手に入れることは出来ません。そうなれば当然十戒の第1条から第4条までの戒めは実践されて行くことになります。天地創造の神のみを神とし、他の神を拝まない。偶像の神など地上に造ったり、拝んだりしない。神(ヤーウェ)と言う名に敬意を表す。イエスがなされた十字架の贖罪を土台に、救われた者は、真の安息日である第七日目安息日を肉体的にも、精神的にも休み、真の安息、本当の魂の救いの安息を持続的に得るのです(ヘブル4:9~11参照)。それはまた、深読みして行けば、贖いの記念日、再創造の記念日となるのです。
エペソ2章の霊的な体験について補足します。
何の行いもなく、信仰によって義とされ、キリストの十字架と復活を、霊的に自分自身が体験する。キリストと共に磔刑され、霊的にキリストと共に新しい命に復活する。さらに霊的に天の王座にまで着いているとまで言っています(エペソ2:6参照)。
霊的クリスチャン経験はキリストの様態を疑似体験します。十字架の死➝自分も十字架に磔られる。キリストの復活➝自分も霊的にキリストと共に新しい命に復活する。キリストの昇天➝自分もキリストと共に天に霊的に昇天の体験をする。今キリストは神の前に出ている➝自分も霊的に神の前に出ています(エペソ2:6参照、コリント第二12:2~4参照)。
パウロはある時祈りの中で不思議な経験をした。彼は祈りの内に、第三の天(第一の天→大気圏、第二の天→宇宙、第三の天→次元の異なる天) にまで引き上げられ、御使いの声を聞いたのです。肉体を離れてか、肉体があるままに、脳中の幻の中で昇って行ったのか判別できないが、パウロの霊は天国にまで昇って、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を聞いたのです(コリント第二12:1~6参照)。 こんな経験を私達もしたいものだ。
私は、昔、SDA日本三育学院のキリスト教学科で学んでいたが、ある時、誰もいないセミナー教室で、一人で聖書を勉強していた。しばし、本から目を離し、天にいる復活のイエス・キリストを瞑想し、天に思いを馳せていると、不思議な経験をした。突然、心の思いが、しばし地上から離れ、キリストと共に、自分も霊的によみがえっているような感覚にとらわれた。意識を、天に向け、キリスト共に自分も霊的に復活しているのだという感覚を持った。思わず心の中で「アー......。」と言ってしまった程の経験であった。正直に言って、それは、数秒の出来事で長くは続かなかったのですが。
弟子たちから執事として任命されたステパノは、その殉教の時、天が開けて『......「ああ、...人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。』(使徒行伝7:56口語訳)
私達が今、地上にいながら、霊の眼をもって、第三の天を想像することは可能だと考えます。現代においては、パウロのように、幻の内に第三の天に昇るような、現象は起こらない。否、絶対起こらないとは言えない、それは神のなさることだから。しかし、私の霊が既にキリスト共に次元の異なる天に、霊的に引き上げられていると想像するだけで楽しく、幻は見なかったとしても、それは個人にとっては、キリストの霊に触れさせていただく、貴重な時間ではあります。瞑想してみましょう、既に私達が復活して、天の神の前に集い、大勢の聖徒達と御使い達とイエスと共にいる場面を、何と歓喜に包まれることか!
『なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。』(エペソ2:10 ) 義とされ、赦された目的は、神があらかじめ備えられた、善行の業を行って歩むためです。自分で何か善なる行為を作り出すのではなく、善行ですらあらかじめ神が用意してくださっているのです。その神の用意された善い業を行うために召し出され、義とされ、値なく、無代価で、私達は救われたのです。
旧約聖書の中に出てくる様々な、割礼を含む礼典戒律、規則はキリストの血で廃止され、異邦人とユダヤ人の隔ての中垣も取り去られました(エペソ2:11~16参照)。 ユダヤ人と異邦人を区別していた、たくさんの礼典律法が廃されました。異邦人のエペソ人も霊的な意味で、神の民とされ、キリストという土台の上に建てられ、神の民となったと主張しています。これはコロサイ2:14の『証書を破棄』したことに対応しています。もはや救いにおいて、民族の壁は取り去られ、キリストの贖いによって、総て救われた人々は平等な扱いであり、霊的な意味でイスラエル民族になっているのです。
エペソ3章からは、パウロが神の恵みにより福音の使者として任命されたことと共に、また神の奥義、隠された神の計画について言及しています。それは結論として、『あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。』(コロサイ1:27)とあるように、私達の内に住んでいるキリストを体験するためであったのです。その書き方はコロサイ人への手紙と同様です。
『信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわさせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、』(エペソ3:17,18)
心の中にキリストが住む経験がどんなに素晴らしいことか、それは本当の意味での喜びであり、平安な幸せに満ちた時間なのです。お金では買えがたい充足感、物質では満たされない喜びがあるのです。それは何ものにも替え難い祝福と希望に満ちた気持ちです。そこから出て来るものは愛なのです。人間的な限界のある愛ではなく、聖霊の力に裏付けられた、神の無限の愛なのです。キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを体験し、その愛をもって総ての人を愛して行きなさいと言われているのです。
『人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、 そしてついには、 神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。』(エペソ3:19)とパウロはひざまづいて祈っています。
誰が満たされるのでしょうか?教会の建物ではありません。聖霊が満たされるのはそれを構成する私達です。神の豊かさの総てとは、どんなものでしょう。それは健康(テサロニケ第一5:23参照)、長寿、必要な限りの物質的豊かさ、真の友情を持った友達関係、信頼に満ちた夫婦間係、断絶のない親子関係、教会での信徒同士の偽りのない兄弟愛。必要な限りの過不足のないお金、住むところ、着るもの、健康的な飲む物、食べる物の祝福。その他、この地上で私達が必要なもの、かつ、幸せを感じる総てが考えられます。私達が求めたり、思ったりすること総てを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会と、キリストによって、栄光が世々限りなくあるように、とパウロは祈りの言葉を終わっています(エペソ3:18~21要旨)。
3章で、内住のキリストを強調した後、4章からは、平和のきずなで結ばれて、柔和で、寛容の心を信徒同士が持つように勧めています(エペソ4:1~6参照)。
これらは、『キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられる』(コロサイ3:11)とキリストの内住を強調した後、謙虚さ、寛容、憐みの心、赦し、愛、キリストの平和等を身に着けるように書かれているコロサイ3:11~17に対応しています。
4章の7節からは、復活したキリストに言及しながら、教会に霊の賜物が与えられたことに触れています。霊の賜物が個々に与えられるのは、自分を高める為はなく、全体の益になるため、信徒全体に奉仕するためです。預言、異言、癒し、教師、管理、使徒、知恵、知識、信仰、奇跡を行う力、力ある業等、様々な賜物が与えられ、信徒同士が弱いところを補い合いながら、キリストの体なる教会を造り上げていくのです。コリント第一12章には詳しく霊の賜物の働きが書かれているので参照して下さい。
4章の後半からは(エペソ4:22~6:9)、前述の通り十戒の精神的理解を展開します。
さて、あっちこっちと飛んで、分かりずらいエペソへの手紙解説になってしまったが、有名な、神の武具を身に着けなさいのところまでやって来た。
『だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、"霊"に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。』 (エペソ6:13~19新共同訳)
私たちの戦いは、霊的な戦いであるので、肉の力や知恵では悪の勢力に抵抗できない。
まず、真理の帯を腰に締める。『...「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』(ヨハネ14:6新共同訳)イエスその方が真理、その方を帯として身に着ける。今で言えばベルトに該当する。ベルトをキッチリ締めなければ、だらしなくて、武装することは出来ない。
次に、胸当てを着ける。五臓六腑を敵の弓矢や、槍から、剣から守る。肝心の、肺や心臓、内臓を攻撃されてはその傷は致命傷になる。正義の胸当てを着けていれば、あらゆる誤謬から、不正から守られる。
足の方の武装は、平和の福音を告げる準備を履物とする。当時は歩いて行くことが宣教の基本、履物を履き、歩いて伝道旅行に行ったのです。基本は歩くこと、時には、船に乗ったりしたかも知れないが。
悪人が放つ矢が突然飛んでくる。射貫かれたら大変だ、致命傷になりかねない。永遠の命を失ったらどうしよう。不信仰に陥ってはならない。そうだ左手に信仰の盾を取ろう。それによって火の矢を防ぐことが出来る。長い間の信仰生活には、時として、人生の試練、病気、経済的困難、人からの誤解、将来が見えなくなるほどの行き詰まり等を象徴する、火の矢が飛んでくることもあります。先が燃えている、怖い、どうしよう‼でも信仰の盾を取れば、必ず防ぐことが出来る、悪の火も消すことが出来ます。
キリストの流された十字架の血潮を常に考え、いつでも、どんな時でも罪は御前に赦され、義とされ、真っ白にされ、罪なき者として、神の前に立たされていることを考えよう。これが救いの兜をかぶることだ。戦闘中は常に鉄兜を着用せよ、それでないと安心はできないぞ。どんな時も、それが伝道していても、普通のこの世の仕事をしていても、自分の救いの確信なくて、人を救えようか。いつも救いの兜をかぶっていよう。
戦いで、中心の武器と言えば、何と言っても剣です。刀がなければ戦いは不可能です。神の言葉は霊の剣です。『...神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。』(ヘブル4:12)神の言葉は信仰の基準であり、聖書のみ、信仰のみこそ私達プロテスタントの一大原則です。
祈らずに霊の戦いに勝利することは出来ない、戦端はすでに開かれたのです。祈りによって神の兵站をいただこう。神のロジスティック(兵站)なしに戦うことは出来ない。祈りは常にせよ。熱心にせよ。祈りをしないと霊のエネルギーが切れて戦えなくなるぞ。『どのような時にも、"霊"に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。』(エペソ6:18)あの偉大なパウロすら、たとえ牢獄で鎖に繋がれていようと福音の奥義を大胆に語れるように祈ってくださいとエペソの人々にお願いしています。ましてや、私達も福音のために多少の伝道のお手伝いが出来るように祈り合おうではないか(エペソ6:19,20参照)。
パウロ達のローマでの様子をエペソの人々に直接話す為に、ティキコをそちらに送ることにした。平和、信仰に伴う愛が兄弟たちに、神とイエスからあるように。恵み、不変の愛がイエスを愛する全ての人に、共にあるように(エペソ6:23,24参照)との挨拶でエペソ人への手紙は終わっています。