コロサイ・ピレモン

    コロサイ人への手紙

 コロサイ人への手紙はいつごろ何処で書かれたのであろうか?

 この時は、まだデマスがパウロと共に宣教活動に携わっていた(コロサイ4:14参照)。この手紙が書かれた5年後、紀元67年頃にはデマスこの世を愛し(信仰を捨ててしまったのか?)、再び投獄されたパウロを見捨ててテサロニケに行ってしまう(テモテ第二4:10参照)。

 コロサイ人への手紙は、紀元62年、パウロの最初の軟禁状態の捕らわれの時に、ローマで書かれたと推測します。その内容や書き方は、エペソ人への手紙に共通するところが多々見受けられます。

 イエスの権能、救いの完全性。十字架の血を信じる信仰によって咎のない者として、言い換えれば一度も罪の犯したことのない者として神の御前に立つことが出来ます(コロサイ1:22参照)。すなわち義認教理の確認。

 さらに奥義であるキリストの強調。『あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望』(コロサイ1:27)です。

 既に廃された、異邦人とユダヤ人を区別する様々な規定。食べ物、飲み物、祭り、新月、安息日、天使礼拝、幻を見た誇り。本体はキリストにあり、これらは影です。キリストにしっかりと付いていることが本質なのです。

 さらにその枠を広げて、キリストから離れてやっている、人間の作り出した規則や教えは、一見知恵のある業に見えますが、肉を満足させるだけで、神の前には何の価値もないと、切り捨てています。

 体の苦行、手を付けるな、味わうな、触れるな等の戒律(コロサイ2:21)偽りの謙遜、独りよがりの礼拝(同2:23)これらはすべて十字架につけて、無くしてしまいなさい。あなた方自身がキリストと共に十字架に付けられ、キリストと共に復活させられたものとして、上にあるものを求めて行きなさい(同3:1参照)と、霊的に復活の命に生きるように強く勧めています。

 パウロ獄中書簡の内、コロサイ人への手紙が、最も私の心の琴線に触れる書簡です。大袈裟に言えば、私の信仰の座右の銘になっています。

    この書で強調されていることは、人間の言い伝え、規則、決まりは、神の前には何の価値もなく、それらを行う者が、自己の肉を誇るだけです。それらは、諸霊によって産み出されたものであって、キリストによっていない。一見は知恵ある業らしく見えるが、神の前には何の価値もないのです。

 規則でがんじがらめにして外側を規制することも何も役に立たないが、かといって肉の人間の自己の内側の精神性を強めて行こうとしても、それがキリストとは関係ないところで行われる、心の持ち方であるならば、また外側の規制と同様に何も産み出さない。心の内側を訓練し、精神修養に努めても、憤りや、怒り、憎しみ、誇り、怠惰、貪欲、傲慢、嫉妬心等、それらに類するもので邪魔されてしまう。ではどうすれば良いのか、山寺にこもり、座禅でも組もうか?しかし、それでは新生できないのです。唯一の方法は、イエスと共に自己を十字架に霊的に磔け、霊的にキリストと共に復活する経験をすることにより、キリストが、肉の私達の中に霊的にお住まいになり、いつもキリストを洋服を着るように、すっぽりと着てしまうことです。これこそが受肉の神秘のなす業であり、キリストが卑しい肉の姿をとられることにより、私達の肉をも砕き、さらに再生することになる神秘です。

 その時自分の内にもキリストが宿り、自分以外の同信の兄弟姉妹の中もにキリストが宿っていることを認めるようになります。そしてお互い同士の関係の中で、憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容の徳が生まれ、さらに忍び合い、赦し合い、その上に愛を加え、キリストの平和が心を覆い、キリストの言葉を思い出し、互いに教え、諭し合い、すべてのことを感謝し、語る言葉にも、日常の何をするのもすべてをイエスの名によって行うようになって行きます。聖書の中に色々感銘し、美しい勧めの言葉があるが、このコロサイの言葉は私の心に日毎に響いています。これらの言葉を瞑想する度に、私の心は、神の言葉によって新しく生きて行く力が与えられます。私の乾いた心に御霊の雫が垂れてきて、いつも潤されるのです。順次書き連ねて行こうと思うが、この肝の部分を繰り返しになってしまうが先に引用しておこう。

『キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。 』(コロサイ3:11~17)

『あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。』(同1:21~23)

 『あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。』(同2:6~7)

これらの御言葉を、私は何度も繰り返し読んでいます。読めば読むほど味わい深く、私の霊は元気づけられ、乾いた心は喜びに満たされ、天来の霊の水によって潤されるのです。


 以下にコロサイ人への手紙のテーマと思われる御言葉を、上述した文章と一部重複するが、それは読者にお許しいただいて、書いて行こう。

『神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。............。』(コロサイ1:19~23)

 キリストの内には神からいただいたあらゆるものが満ち溢れるほどに宿っています。聖霊、無罪性、愛、慈しみ、奇跡の力、病を癒す力、永遠の命、救いに至るあらゆる知恵、力、心の平安、権威、信仰、創造力等。

 その中で最も尊いものは、契約の血、聖なる御子自身の契約の血です。十字架の血の和解の効力は動物、植物、全物質に及ぶのです。天地あらゆるものが和解させられました。地球そのものが消滅せずに残っていて、自転し大気が維持され、生命環境が循環しているのは、全部、御子の犠牲によって、神との間に和解が成立したからなのです。 万物は神によって造られましたが、アダムの罪によって、地は呪われ、茨とアザミが生じました。また蛇は罪の誘惑者に利用されたため、最も醜く地を這うものとされました。またカインがアベルの血を流すことによって地は二度呪われました。茨とアザミは呪いの象徴です。なぜイエスは茨の冠をかぶったのでしょうか。それは地の呪いをご自分が引き受けるためです。イエスの頭にかぶせられた茨は、呪いを引き受けることの象徴だったのです。

 万物はイエスの贖いの血潮によって、和解させられているのです。もちろん今でも自然界は、完全に贖われたわけではありません。しばしば自然界は猛威をふるい、人間に牙をむいて襲い掛かってきます。台風、地震、津波、洪水、山火事、異常気象等によって、今でも多くの災害が全世界の各地で起こっています。万物の和解が完全に成立するには再臨の時まで待たねばなりません。しかしイエスが十字架で血を流されたとき、自然界を含めて、万物は、根本的には和解させられたのです。

 次に和解させられたのは、私達です。私達は自分の行いが悪いので、神に敵対し、神を憎んできたのです。「神がいるのなら、何でこんなひどいことが起こるのか?」と言って、自分の行いは棚に上げて、心の中で、自分の運命(私は運命はないと信じていますが)を呪い、神を恨んできたのです。日本人の大部分は無神論者であり、神仏はただのご利益をもたらすものとしか考えず、人生の生き方を変えるような信仰心など、ほとんど持ち合わせていないではありませんか。真の神を畏れず、敬いもせず、自由にふるまい、罪を罪とも思わず、それを楽しみ、好き放題、勝手放題に生きてきました。しかしそんな私達の為、御子は和解の血をすでに二千年前に流して下さっていたのです。

 それどころか御自分の死によって、人間を神の御前に、聖なる者、傷のない者、咎めるところのない者として立たせて下さっているのです。これから聖になるのではありません。原理的に既に聖い者、罪のない者として、イエスの義の衣で覆って下さっているのです。私達は汚れに染まっているのに、真っ白な、無罪な者として神の前に立たせて下さっているのです。もちろん、信仰によってそのことを受け入れなければ、個人的にそのお約束がその人のうちに実現しないことは言うまでもありません。

 またその信仰は、生涯にわたり維持していかなければなりません。一時的なものであってはならないのです。ですから、聖なる者として神の前に立たしてくださっているのだから、信仰から離れる者でないようにとの御言葉が続いているのです。『ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。............。』(コロサイ1:23)信仰は生涯続けるものなのです。

 信仰に立っている限り、次の御言葉も私たちのものです。

     『あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、............。』(コロサイ3:12)

 私達の内には何の功績も、聖なるものもないのに、神に選ばれ、神の御前に聖なる者として立たされ、神に愛されているのです。そんなことがあるでしょうか、あまりの不思議さに、驚き、感謝するしかありません。この恵みの立場こそ、義認と言う信仰のみによって与えられる神秘なのです。ただイエスの功しによって、このような立場が神の前に、信仰という条件がありますが、与えられているのです。

 でも私達はこのような素晴らしい、恵の立場が与えられているからこそ、その恵みに感動しつつも、私達もまた、キリストに助けられながら、聖霊によってキリストに心に住んでいただき、自分を変えていただかなければなりません。自分が罪をキリストによって赦されたように、他人の罪を赦し、自分が憐れまれたように、他の人々を憐れみ、慈愛、謙遜、柔和、寛容の限りを尽くしていかなければなりません。これは、一朝一夕で出来るようなことではなく、祈りの内に、努力して、徐々に身に着けて行くしかないでしょう。イエス・キリストは常に私達の傍らにおられ、又、私達の心の中に住み、私たちが変わるように、助けてくださいます。

 さらに御言葉は続きます。『これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。............。』(コロサイ3:14)キリストの平和があなた方の心を包むように、さらにその後、感謝の言葉が三度出てきます。いつも感謝するように。キリストの言葉を心の中に常に宿し感謝し、すべての事を、キリストの名によって行い、イエスによって父なる神に感謝せよと。(コロサイ3:15~17要旨)


 

 『世の初めから、代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。』(コロサイ1:26)救いの計画は世の初めから計画されていました。エペソ人への手紙を見ますと、この世界と人類が創造される前から、神はキリストにあって私達を選び、救いの予定を立て、既に贖罪の計画をお持ちになっていたのです。

 『天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。』(エペソ1:4)

 神の救いの計画は隠されてはいましたが、ユダヤ人の歴史を見ればわかるように、完全に隠されていたわけではありません。羊を自分たちの罪の身代わりとして、燔祭としてささげると言う、ユダヤ人の宗教的儀式である犠牲制度の中に、救いの計画はボンヤリではありますが、ある程度わかるように示されていたのです。祭壇でささげられる羊の血は、イエスの流された血を象徴していました。羊が何匹殺され、祭壇の火で焼かれようと、羊そのものの血が罪を赦すわけではありません。それは本体である、イエス・キリストの十字架の血があったからこそ、ユダヤの古い時代に、羊の血は罪の赦しとして、象徴的に有効だったのです。

 神の御計画はハッキリとは、犠牲制度の中ではわかりませんでした。そういう意味で代々隠されてきたと言えます。どうしてこのように救いの計画は、キリストの出現までハッキリしなかったのでしょうか。それは深い神の摂理の中にあって、神の偉大なる救済の歴史計画の中で進行してきたと言う他ありません。

 何れにせよ、救いの計画は今や(二千年前の今)聖なる者たちに啓示され、明らかにされたのです。

 ただ現代においても、救いの計画は、信仰によって受け入れた個人ゝにおいて、聖霊が心に働くことによって明らかになりますが、信じない人には昔と同じで、神の贖罪計画は依然隠されたままなのです。信じない人には、聖書の中にある、キリストの十字架による贖いも、ただの嘘言としか思えないのです。この世の知恵は、神の贖罪計画を認めることが出来ないのです。このような意味で、今でも救いの奥義は隠されたままなのです。聖霊によって心が啓かれなくては、十字架の真の意味は分からず、相変わらず隠されたままなのです。

 『この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。』(コロサイ1:27,28)

 この贖罪計画の目指すところは一つです。それはどんな過程を経ようと、どんな説明をしようと、あなた方の内にいますイエス・キリストを自覚する事なのです。すべての人がこの内なるキリストに、聖霊によって心の中に住んでいただき、キリストに結ばれることによって、神の御心に完全に(十分に成長した、成熟していると訳すべき。ヘブル語タム...ギリシャ語テレイオス)従うようになるのです。

 私達生まれながらの人間は、罪のもとに売られており、肉の努力や修行ではどんなに努力しても救われることは出来ません。自分の力や努力ではなくて、イエスの十字架の血による贖罪をそのまま自分のものとして受け入れ、買い戻され、そして内なるキリストに心の中に住んでいただくことが救いなのです。罪の赦しもキリスト、罪の聖めもキリスト、品性の完成もキリストなのです。キリストに常に結ばれていく以外に、完全になれる可能性はありません。100%キリストなのです。

 パウロが信仰による義を説き、聖霊によって新しく生きることを説き、あらゆる知恵を使って教えてきた、これらの知恵を尽くした説明のすべてが内なるキリストを目的にし、クリスチャンが自分の心の中に住むキリストを自覚し、キリストに固く結ばれ完全なものになるように、完全を目指して歩むようになるためであったのです。

 『このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。』(コロサイ1:29)


 パウロの思想の中には、霊と肉体の身体が時々分離して存在しているように考えている節があります。パウロの霊が、祈りの内に身体を離れ、ここではコロサイにいる兄弟たちのところに行って、共にいてその信仰を喜んでいると言った表現です。

 コリント第一の5章には、大変大きな罪を犯した一人の信者を、コリントの教会員が除籍すべきではなかったかと警告し、その続きの言葉の中に、霊と身体の分離の思想が出てきます。『......わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、』(コリント第一5:4)その人を裁いて、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したというのです。それはその人が悔い改めて、彼の霊が救われるように、そのようにしたと言っています。この辺の解釈は大変難しく、十分には解説できませんが、何れにせよ、パウロは祈りの内に、パウロの霊が、コロサイの信者と共にいて、その信仰を見て、喜んでいると言っています。『わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます。』(コロサイ2:5)

 また、コロサイ2:1のパウロの苦闘はまだ会っていない人々も含まれているのですから、祈りの内の霊の苦闘だったのでしょう。『わたしが、あなたがたと......また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。』(コロサイ2:1)ここは、霊ではあなたがたと共にいるんだよ、と言う5節に続いて行く文脈と読み取れます。ここに、本来の『あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。』というテーマから離れてしまったかと思われる、『......体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて......』と『......顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、......』の二つの聖句は、テーマである「あなたがたの内におられるキリスト」の霊が働きかけた証拠です。内住のキリストの霊が働いた結果、パウロは祈りの苦闘の内に、霊が分離し、コロサイ信者とパウロの霊が、共にいて、彼らの健全な、固い信仰とを霊の内に幻視して、喜んだのではないでしょうか。

 またもう一つの解釈は、パウロの霊すら、体では離れていても(コロサイ2:5参照)コロサイの信者と共にいることが出来るのに、増してや、キリストの霊は、『あなたがたの内におられるキリスト、』(コロサイ1:27)として、確かにあなたがたの中(コロサイ信者の中)におられるのだ、と言いたくて、この二つの聖句を挿入したのではないでしょうか。

 次に、コロサイの人たちが心を励まされ理解力を豊かに与えられ神の秘められた計画であるキリスト、すなわち前述したあなた方の内におられるキリストを悟るように再度書いています、ここでの中心のメッセージです(コロサイ2:2要旨)。

 『知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。』(コロサイ2:3) どんなに大学に入って勉強しようがキリストから離れては意味がありません。確かに勉強すれば、この世の知識、科学、技術を学べ、資格も取れ、良い会社にも入れるでしょう、高給取りになれるかもしれません。でもそれはこの世において生活するための手段であって、目的ではありません。知恵と知識を得る目的は、キリストを受け入れ信じることによる心の平安、罪の赦し、永遠の命、隣人を愛する愛の生活等を得る為です。そこがブレてはいけません。

 この世の知恵は神の前では愚かなものです。学者はどこにいるのか、この世の論客はどこにいるのか、神はこの世の知恵を愚かなものにされたではないか、この世は自分の知恵では神を見出す事はできなかったのです。神は知者を辱めるため、この世の無学な者、無力な者、世の無に等しい者をあえてお選びになったのです(コリント第一2:20~28要旨)。キリストこそ真の知恵、真の知識です。

 

 私達がキリストの義をいただいて、神の御前に罪無き者として立たしていただくことは大変重要なことですが、もう一つどうしても必要なこととして、絶え間なくキリストに結びついていることが大事です。その結びつき方について、

,聖霊によって心の内に住んで下さるキリストを悟る事と、

,古き自分をキリスト共に十字架に毎日磔刑する事(霊的意味で)と、

,キリストと共に毎日新しい命に復活する事(霊的意味で)の三つが挙げられます。

 そして、これらの3つの信仰の側面は、どこからどこまでがと、はっきり分けられるようなことではなく、信者の心の中で混然一体となっているようにも感じられます。まずパウロはコロサイ人への手紙のこの箇所で、キリストに結びつくことの大切さを強調しています。

 『あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。』(コロサイ2:6,7)キリストに結ばれて生きるとは言っても、24時間、毎日ゝの事ですから容易なことではありません。 その結びつき方について、私なりにまとめますとコロサイ人への手紙は前述のA,B,C3つのやり方でキリストに結びつくように提案していると思われます。

A,聖霊によって心の内に住んで下さる『......キリストを悟る...』事(コロサイ2:2)。

 静かにキリストが私達の心の中に住んでくださるよう、毎日少しの時間で良いですから、日常の煩わしさから離れ、雑念を追い払い、静かに瞑想してみましょう。キリストが私達のために何をして下さったのか、また今、天の父なる神の前に出て、何をしているのか、考えてみましょう。この世のやらねばならない用事を横において、(やらなければならないことは生きている限り、常に数限りなくあるのですから)しばし、キリストに心を向けて、自分の心の中を探ってみましょう。

 『「静まって、わたしこそ神であることを知れ。......... 。」』(詩篇46:10) あまりにもつまらない、物質的な、肉的な楽しみ、仕事、自分の趣味等に拘ってはいませんか?(それらをやる事を神は許されてはいますが)。それらの中にのめりこみ、神が見えなくなる程夢中になってはいませんか?塵、灰、埃のような小さな自分が見えてきませんか?自分はこの世で、貴重な時間をどれほど無駄に過ごしてきたか?あと何年生きれるのか考えてみましょう。心の中に示されたことに対し、反省し、静かに神の前に告白し、悔い改めの祈りをする。またキリストの聖霊による臨在を瞑想しましょう。すべての日常の思い煩いから離れて、一日に何回か、短くても良いですから、このような時間を取ることは、思った以上に、自分に落ち着きを与えてくれるし、楽しい、静かな、自分にとってかけがえのない時間になって行くと思います。

B,古き自分をキリスト共に十字架に毎日磔刑する事(霊的意味で)。

 以下コロサイ2:8からの要旨です。私達は様々な規則、決まり、苦痛を伴ったり、一見知恵あるように見えるけれども、神の眼から見たら、価値のないものに囲まれて暮らしている。礼典律の祭りに付随した特別な安息日を守ったり(週の7日目安息日以外のユダヤの各種祭りに伴う特例安息日)、食物の禁忌規定を魂の救いのために守ったりしている(健康のためには食べ物に、現代では、昔以上に十分注意する必要があります。しかし、食物は救いの手段ではない。肉体を健全に維持するためのもの)。 パウロはそれらをこの世から出た諸々の霊から発したものや、言い伝えにすぎない人間の哲学等として、排除しています。

 偽りの謙遜、身勝手な礼拝、様々な苦行、天使礼拝、幻を見たことの自慢、手をつけるな、味わうな、触れるな、肉の割礼を含めて、そんなものはもう古い証書として十字架で廃されてしまったものだ。武装解除されてしまったものなんだ。そんな難行苦行を伴う様々な儀式形式、人間の考えだした一見知恵のあることに見えるような規則、それらは全て十字架で廃されてしまったものだと言っているのです。

 あなたがたが受けたバプテスマはなんだったのですか。あの水の中に沈んだ時、もうあなたは死んだことにされ、水の中に葬られ、水から上がって来た時、新しい命に(霊的に)復活したのです。バプテスマは十字架と復活を儀式として表現していました。古き自分をキリスト共に十字架に毎日磔刑する事(霊的意味で)今肉の自分をキリストと共に磔なさい。古き自分、ねたんだり、憎んだり、肉欲的な事に囚われ、物の欲、目の欲に縛られている自分を十字架にキリストと共に葬りなさい。嘘、怒り、憤り、悪意、そしり、恥ずべき言葉、貪欲(偶像礼拝)みだらな行い、悪い欲望、不潔な行い、情欲、それらをすべて十字架に磔にしてしまいなさい。 あなたがたはすでにキリストにあって(古い自分は)死んでいるのです。『あなたがたは(霊的に)死んだのであって、.........』(コロサイ3:3)


C,キリストと共に毎日新しい命に復活する事(霊的意味で)。

 あなたがたはキリストと共にすでに霊的意味で復活させられているのだから、地上的な肉的な物ではなくて、上にあるもの、霊的なものを求めて行きなさい。『...あなたがたは、キリストと共に(霊的に)復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。.........』(コロサイ3:1)

 キリストにある愛、平和、喜び、満ちあふれるばかりの感謝、隣人愛の実行、キリストを心の内に住まわせ、キリストの愛の広さ、長さ、高さ深さがどれほどであるかを瞑想し、『神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされる』(エペソ3:19)ことを求めていきましょう。イエスの復活の命がすでにあなた方の心の中にあって、始まっているのです。

『互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人(文化人)、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。』(コロサイ3:9~11)

 そして、更に、『...憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。』(コロサイ3:12)とパウロは続けて勧めているのです。

 イエスと共に葬られ、イエスと共に復活され新しい命に御霊によって生かされていると言っても、注意しなければならないのは、再臨を迎えるまでは、私達は弱い、罪の誘惑に陥りやすい肉体を持ったまま生きているという現実です。常にキリストを見ていないと古い罪の性質が甦り、また大変な罪を犯しかねません。聖書全体に、警告と教訓、あらゆる道徳的な諭しが書かれているのはその為です。

 キリストにあって死に、新しい命に霊的に復活したと言っても、まだ捨てるべきものがあります。自分は地上にある限りは、肉の性質を持ち続けており、肉の誘惑に誘われやすく、おまけに自分の周りの環境は肉とその楽しみに満ちているからです。信仰の生涯をこれからも生きて行かなければなりません。実はまだまだ捨てるべきものがあります。信仰が進めば進む程、捨てるものが見えてくるのです。

 第一に捨てるものは、人の規則、教えです。当時は、モーセの五書以外にも、タルムードと言う、モーセが口伝で伝えたと信じられていた、様々な規則、戒律、その解釈等があり、それらを全部守るなど至難の業でした(コロサイ2:22,23参照)。身体の苦行を伴い、知恵のある業のように見えるが、使えば無くなってしまうもの、人間が言い伝えによって、意味もなく守っていたものがたくさんありました。

  また、トーラーと言われたユダヤ民族の信仰にとって最も大事とされていたモーセの五書、すなわち律法の書の中にも、クリスチャンとして守らないで良くなったものがあります。割礼、様々な規則が書いてある証書、ユダヤ神殿に捧げる犠牲の動物の種類や、身を清めることや、捧げる際の細かい規定、儀式、食べ物、飲み物の禁忌規定、祭、新月、礼典に伴う特別な安息日等です。これらはキリストにあって新しく創られた者には、用がないもので、捨てなければならない戒律であり、縛られてはならないものでした。この外面的な規則が第一番目に捨てるべきものです(コロサイ2:13~18参照)。

 新しくキリストと共に死に、キリストと共によみがえらされた者は、まだ捨てなければならないものがあります。自己は死んだとされていても、実は古い肉の自分はすぐチャンスをとらえては生き返って来るのです。

 第二番目に内面の死にきれていない心の部分を、更に捨てるという精神的行為によって、葬り去る必要があります。地上的なもの、怒り、憤り、悪意、そしり、嘘等、加えて、悪い欲望、金銭の欲、貪欲(偶像礼拝に他ならない)みだらな行い、不潔な行い、情欲等を捨てるように勧められています。要するに地上的なもの総てを捨てる事となります(コロサイ3:5~9参照)。 あなたがたはイエスにあって死んで、よみがえらせられているのだから、これらを捨てるように、また様々な人間が作り出した規則には縛られないように勧告されているのです。

 捨てるものの第一は外面、すなわち言い伝えやがんじがらめの規則。第二は内面、様々な悪口、怒り、憤り、欲望等。パウロは捨てるべきこの二つを順記し、整理して書いているのです。


 コロサイ人への手紙の中心テーマについて書いてきましたが、その他の記述を簡単に、以下列記しておこう( 上述の内容と重複しているかも知れませんが、その点はご容赦ください)。

第1回目の投獄において書かれたこの手紙は、テモテが口述筆記した(コロサイ1:1)。

愛は天来のもので、信仰に基づく(同1:5)。

実を結び成長している(同1:6)。

霊的な知恵と理解力が増し加わり、増々神を深く知り、善い行いに励む(同1:9~10)。

パウロは福音のため、その宣教のために苦しんでいるが、実はそれは喜びです(同1:24~25)。

妻たちの義務(同3:18)夫に仕える。

夫たちの義務(同3:19)妻を愛し、辛く当たるな。

子供たちの義務(同3:20)両親に従え。

父親たちの義務(同3:21)子供をいらだたせない、いじけさせない。

奴隷たちの義務(同3:22~25)肉の主人に従え、真心を込めて仕えよ。イエスに仕えていると思え。天国を受け継げる報いがある。不義を働いてその報いを受けるな。

主人たちの義務(同4:1)奴隷を正しく、公平に扱え。天の主(神)があなたがたにもおられて、その行いを見ている。

ひたすら祈れ(同4:2)。

私達のためにも祈ること(同4:3)。

時をよく用い、未信者に対して賢くふるまう(同4:5)。

いつも塩で味付けられた快い言葉を使うと、冷静になれるので、相手に何をどう答えるべきかが分かる(同4:6)。

ティキコとオネシモをコロサイ教会に派遣する。こちらの様子を知り、あなた方が励まされるために(同4:7~9)。

アリスタルコ、マルコ、ユスト(この三人はユダヤ人改宗者)がよろしくと言っている。
コロサイ人エパフラス⦅彼がコロサイの宣教をした(同1:7)⦆、医者ルカとデマス(テモテ第二4:10ではパウロを見捨て、この世を愛し、テサロニケへ行った)がよろしくと言っている。

テモテが口述筆記(同1:1)をして、パウロが自分の手で挨拶を記入(同4:18)、どう数えても少なくとも9人がパウロの近くにいたようです。パウロは囚われの身であったが、一人のローマ兵が警備についているものの、軟禁状態であり、比較的自由に2年間宣教活動に従事できた。

エパフラスは真面目な祈りの人、コロサイ、ラオディキア、ヒエラポリスの人々のために非常に熱心に祈っている。

これらの同信の兄弟たちがコロサイの教会員によろしくと言っています(同4:12~14)。

パウロからもラオディキアの同信の兄弟たち、ニンファと彼女の家の教会の人々によろしく。小さな家の教会で集会が持たれていた場所もあったことが覗えます(同4:15)。

コロサイ人への手紙をラオディキア教会にも回覧し、ラオディキア教会から回ってくる手紙もコロサイの教会で読むように命令されている(同4:16)。パウロの失われた手紙はラオディキア人への手紙であったか?

コロサイ、ラオディキア、ヒエラポリスの教会は10キロから15キロ程度の近隣に存在しており距離的に近かった。場所的にはエペソから東へ150キロ程のところに、ラオディキアは位置し、大きな、栄えた都市であった。今は発掘調査が行われ、円形闘技場が2つもあったことが分かっています。

コロサイの教会にいるアルキポに何か問題があったようである、わざわざ、主にある務めを良く果たすように、伝言しています(同4:17)。


 オネシモなる人物について以下に少し触れておきます。ピレモンへの手紙を読むと、オネシモは逃亡奴隷です。 ローマ時代の奴隷制度では逃亡奴隷は捕らえられれば、額に烙印を押されたり、首輪をつけられます。たとえ将来、主人の許しを得て解放されても、逃亡奴隷であったものにはローマ市民権は与えられませんでした。

 逃亡奴隷には賞金がかけられ、逃亡奴隷を専門に捕まえる人達もいたそうです。当時のローマの人口の三分の一は奴隷であったというから驚きです。

 オネシモはどういう経緯でパウロに出会うことになったか、詳しいことは分からない。パウロが捕らわれの身であったときに、キリストを受け入れ信者になった(ピレモン10)。非常に献身的にパウロに仕えていたようです。

 最後にコロサイ人への手紙はピレモンへの手紙と一緒に、ティキコがコロサイ教会に届けたと考えるのが順当でしょう (同4:7~8)。逃亡奴隷から愛する兄弟となったオネシモも共にコロサイ教会に行きました(同4:9)。


ピレモンへの手紙

 書き出しからしてコロサイ人への手紙と状況が酷似していることからピレモンへの手紙は、コロサイ人への手紙と同じ時に書かれたと推測します。パウロが口述し、テモテが口述筆記したものです。この手紙は、家の教会であり、まだ小さな集まりの教会であったコロサイ教会の責任者ピレモンへ宛てた、パウロの個人的な書簡です。

 紀元62年ごろ、パウロのローマ到着後、軟禁されていた借家で書かれたと考えます。パウロの周りを取り巻いている人達もコロサイ人への手紙に書かれていた面々と同じです。

 この手紙の主要テーマは、逃亡奴隷であったオネシモの処遇についてです。オネシモは既に老年になったパウロが、捕らわれの身の中で信仰に導き、非常に役に立つ人間となり、同信の愛する兄弟となりました。彼は熱心にパウロに仕えていて、できれば彼をパウロは手元に置いておきたかったのです(ピレモン13参照)。

 当時の社会制度の中で、パウロはローマの統治の制度を守りつつ生きていました。社会制度改革はパウロの目的とするところではありませんでした。しかし、特にその当時の社会制度の中でも、人間の尊厳を著しく傷つけていたのが奴隷制度です。

 現代から考えれば、奴隷制度は大変な罪悪であり、人間を動物か何かのように、売り買いし、所有するなど、人権無視も甚だしく、制度としても決して容認されるべきものではないことは言うまでもありません。しかし、今から約2,000年前のローマ社会において、奴隷制度は完全に社会の秩序の中に組み込まれており、その正当性を疑う者は誰もいませんでした。パウロもまた逃亡奴隷であったオネシモの持ち主であるピレモンに対して、その所有の権利を踏みにじるようなことはしたくなかったのです(ピレモン15~16参照)。

 奴隷の値段は一般的な家庭の食費の2年分くらいだったという説もあります。こう考えると、今の貨幣価値にすると、何十万円から、あるいは、優秀で価値のある奴隷は何百万円もしたに違いない。

 逃亡奴隷は、懸賞金をかけて捕まえたりしていたのであり、それらを専門に行う人々もいたそうです。捕えられた逃亡奴隷は、焼きごてで額に烙印を押されたり、鉄の首輪をかけられたりしたそうです。

 例えば一家の主人が、強盗に入られて殺されたりすると、その家の奴隷は、なぜ主人を守れなかったかを厳しく問われ、連帯責任で残酷にも全員死刑になったそうです。また、美人の若い女の奴隷は、主人の性的欲望の対象にされることもよくある話でした。そうした結果、産まれた子供も奴隷になるのでした。ローマの人口の三分の一は奴隷だったと言われているので、ローマ社会は奴隷の労働抜きでは成り立たなかった、歪んだ社会であったと言えます。

 人権無視が甚だしいこの時代、キリスト教は第一義的には社会改革をするような目的は持っていませんでした。しかし、ピレモン16節を見ると、人間として、愛する兄弟として、ピレモンがオネシモを遇するようにと、パウロは命令しています。奴隷と言えども、同じ人間なのです。神の前に救われるべき貴重な尊い魂なのです。この考え方は後に、奴隷制度廃止へと結果的になって行く流れです。歴史をみると、人権思想が啓発され、それによって社会が改革され、すべての人間に対して、法の下の平等が実現されるまで、相当な時間がかかりました。またアメリカにおいては南北戦争という大きな戦争を経なければ、奴隷解放には至らなかったのです。

 さらにパウロはオネシモを『わたしのしの心』と呼び(同12)パウロ自身と思って迎え入れ、オネシモによって損害を被っているなら、その負債をパウロが支払うとまで言っています。そしてこの項は確かな約束として、口述ではなく、自筆で書いて、保証しています(同17~19参照)。

 また、パウロは最初の投獄から2年後解放され、コロサイの指導者ピレモンのところに会いに行った可能性があります(同22)。ピレモンはそもそもパウロによって導かれ、信仰に入ったかも知れません(同19)。

 オネシモの持ち主はコロサイ教会の責任者ピレモンであったので、パウロは主人の元にオネシモを送り返しました。想像の域を出ないのですが、ピレモンはパウロによって送り返されてきたオネシモを同信の兄弟として扱い、奴隷の身分から、自由人へと解放してやったのではないでしょうか。パウロが書いた獄中書簡ピレモンへの手紙を深読みして、そのように私は個人的に解釈し、また、そうでなくてはならないと思っています。

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