ピリピ

 ピリピ人への手紙


 ピリピ人への手紙を研究するにあたって、この書簡がいつ、どこで、どのような状況で書かれたか、その背景を探ってみよう。紀元62年頃、第1回目の投獄時、ローマで書かれたと推測する。テモテもそばに居たようだ(ピリピ1:1参照)。


 使徒行伝によれば、パウロの最初のローマでの投獄は2年間ほどであり、自分で借りた家に住み、兵士一人に監視されてはいたが、宣教は全く自由であり、訪れる者には、何の妨げもなく福音を語ることを許されていたようだ。今で言う自宅軟禁のような取り扱いを受けていたと考えられる。

 『パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、 全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。』 (使徒行伝28:30,31新共同訳)

 ピレモンへの手紙・コロサイ人への手紙・エペソ人への手紙・ピリピ人への手紙の4つは一般的には獄中書簡と呼ばれ、パウロが獄中で書いたとされています。


 ピリピはマケドニアにおける第一区のローマ帝国の植民都市で、アレキサンダー大王の父フィリッポス2世にちなんで名付けられた。新共同訳聖書ではフィリピの信徒への手紙と訳され、口語訳聖書ではピリピ人への手紙と訳されている。ピリピにはローマ人が多く住んでいて、ユダヤ会堂はなかったと推測される。その理由として、ユダヤ教では、ユダヤ人男性が10人以上いる場所にはユダヤ会堂を造る義務があったが、ここには会堂がなかった。ユダヤ人がそれほど多く住んでいなかったのではないかと考えられる。

 シリアのアンテオケ教会から第二次伝道旅行へ出発して、しばらくして、トロアスで有名なマケドニア人の叫びの幻を見て、トロアスから海を渡り、アジアを後にし、 今のヨーロッパへ渡り、マケドニアの地へ入り、最初の伝道地がピリピ(紀元49年頃) であった。これがパウロの最初のピリピ人との出会いであった(使徒行伝16:9~40参照)。

 パウロはいつも安息日にユダヤ会堂で説教をし、十字架と復活の使徒的メッセージを宣教することを常としていたが、ピリピではそれが出来なかった(ユダヤ人が少なくユダヤ会堂がなかったと考えられる)。それゆえ安息日に祈りの場所を探そうと城壁から門を通って、町の外へ出た。川の静かな岸辺で祈りの時を持とうとしたのです。岸辺に何人もの婦人が集まっていたので、宣教したところ、リディアという、紫の布を扱う女性に、主が心を開かれた。彼女とその家族もバプテスマを受けた。リディアが強いて勧めるので、彼女の家に滞在して宣教をする事になった。

 ところが占いの霊に取りつかれた、女に何日か付きまとわれ、宣教の妨げになった。止むを得ず、キリストの名によって占いの霊が女から出て行くように命じたところ、悪霊はその女から退散した。その女によって占い料を稼いでいた人が、ピリピの高官に訴え出て、パウロとシラスは、裁判も受けずに、違法にむち打ちの刑に処せられた。

 傷だらけになり、その後、ローマ法を無視して牢屋に入れられた。このような取り扱いはローマ市民権を持つ、パウロトとシラスに対して、してはならないことであった。牢屋の一番奥に入れられていた、パウロとシラスは神の救出を信じて神を賛美していた。パウロの賛美や話を周りの囚人達も聞いていたようだ。

 夜中に大地震があり、囚人達を縛り付けていた鎖も足枷もみなほどけてしまい、牢屋の扉は開いてしまった。それを見たローマ兵の看守は、囚人たちが皆逃げてしまったと勘違いして、自分の剣を抜いて、自害しようとした。パウロはその様子を見て『...「自害してはいけない。われわれは皆ひとり残らず、ここにいる」。』(使徒行伝16:28口語訳)と大声で言って彼をおしとどまらせた。パウロの投獄中のわずかな時間に、囚人たちはパウロの感化を受け、牢が解放されても逃亡することはなかったのであろう。その後、夜中であるというのに獄吏は回心し、その家族ともども、バプテスマを受け信者になった。パウロとシラスのむち打ちの傷を洗い、手当てし、夜中にもかかわらず、食事も食べさせたと記録されている。

 ピリピの教会には監督も執事もいたと書かれていることから(ピリピ1:1参照)教会はその後発展し大きくなっていったのであろう。最初のピリピ宣教(紀元49年頃)から13年たち、紀元62年頃パウロはローマで囚われの身になっていた。

 エパフロディトという人が、ピリピの教会から援助物資や献金を持ってパウロのローマの借りている家に遣わされて、大いに彼を助けた。しかし、どうもエパフロディトは病気になったようだ。それもたぶん命にかかわる大病であったが、神によって癒された。パウロはこの手紙の中で、ピリピの教会の人々に対する、援助に大変な感謝をしている。ピリピの人達も心配していたので、病の癒えたエパフロディトをローマからピリピに送り返すことにした。

 パウロのそばで仕えていたテモテもピリピに派遣しようと考えていた(ピリピ2:23参照)。

 マケドニアの教会はピリピの教会の信徒も含めて、そんなに豊かではなかった(コリント第二8:1~5参照)。にもかかわらず、彼らは何度も贈り物をパウロに送り、ローマ投獄前にも継続的にパウロの伝道を援助していた。『わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。』(ピリピ4:19)と言っているのは、ピリピの人達がこのような援助を常にして来た背景があるのです。


 さてピリピ人への手紙が執筆された時代背景を探ってきたが、パウロのこの書における神学的な展開はどうであろうか。その神学的教えは信仰による義と十字架と復活の信仰です。先にローマ人への手紙で体系的に彼が主張したところの信仰による義の考え方をピリピ人への手紙では踏襲しています。特に、彼が『あの犬ども』と呼んでいる、クリスチャンに改宗したのに、ユダヤ主義を捨てきれない、偽兄弟たちの存在が、純粋な福音を妨げていました(ピリピ3:2参照)。

 ユダヤ主義者の主張は、クリスチャンになっても、割礼が必要であり、さらに加えて、様々なユダヤの昔からの儀式的な祭事を守らなければならないということであった。ユダヤ人クリスチャンはもちろん、異邦人から改宗した人達にすら、既に廃されたとパウロが言っているモーセの様々な、儀礼的律法(コロサイ2:14~17参照)を守らせようとした(道徳律たる十戒を含む)。

 パウロの生き方はそのような生き方ではありません。肉の誇りを頼みとするユダヤ主義の異端者たちに対して、自分が血統的にもベニヤミン族に属するユダヤ人であり、パリサイ派の有力指導者ガマリエルの下で薫陶を受け、サンヒドリン議会の議員であったことなど、思わず肉の誇りをひけらかしています(ピリピ3:4~6参照)。

 しかし、この世の地位、名誉、誇り、血統などは、彼にとってはどうでも良いことでした。肉の誇り等は自分にとってどうでも良い価値のないもので、『...キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。...』(ピリピ3:8新共同訳)と書いています。

 『...わたしには、......キリストへの信仰による義信仰に基づいて神から与えられる義があります。』(同3:9)それが肉の誇り、名誉、ユダヤ人としての血統、サンヒドリン議員としての社会的地位、パリサイ派の指導者ガマリエル師匠の下で学んだ学識、パリサイ人としての誇り、それらすべてを無価値な物と考えるようになった理由です。

 『わたしは、キリストとその復活の力とを知り、......何とかして死者の中からの復活に達したいのです。』(同3:10,11)イエスに従う道は一つ、『......自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』(マタイ16:24)の御言葉を生きていくこと。

 『あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。............。』(コロサイ1:21~23新共同訳)

 私達は信仰に入る前は、真の神を知らず、敬いもせず、自由にふるまい、罪を罪とも思わず、それを楽しみ、好き放題、勝手放題に生きてきました。しかしそんな私達の為、御子は和解の血をすでに二千年前に流して下さっていたのです。それどころか、今や、御自分の死によって、人間を神の御前に、聖なる者、傷のない者、咎めるところのない者として立たせてくださっているのです。これから聖になるのではありません。原理的に既に聖い者、罪のない者として、イエスの義の衣で覆って下さっているのです。私達は汚れに染まっているのに、真っ白な、無罪な者として神の前に立たせて下さっているのです。もちろん、信仰によってそのことを受け入れなければ個人的にそのお約束がその人のうちに実現しないことは言うまでもありません。

 またその信仰は、生涯にわたり継続していかなければなりません。一時的なものであってはならないのです。ですから、聖なる者として神の前に立たしてくださっているのだから、信仰から離れる者でないようにと御言葉が続いているのです。『ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。............。』(コロサイ1:23)信仰は生涯続けるものなのです。

 私達には何も功績となるようなものはなくても、どんなに欠点だらけのものであっても、このような素晴らしい、イエスから着せられる義の衣、恵の立場が与えられているのです。このことを神学用語で義認と言います。

 だからこそ、その恵みに感動しつつも、私達もまた、キリストに助けられながら、聖霊によってキリストに私達の心の中に住んでいただき、自分を変えていただかなければなりません。自分が罪をキリストによって赦されたように、他人の罪を赦し、自分が憐れまれたように、他の人々を憐れみ、慈愛、謙遜、柔和、寛容の限りを尽くしていかなければなりません。

 十字架でキリストと共に磔刑され、キリストと共に死んだなら、またキリストと共に生きることが出来ると信じる(ローマ6:8参照)、キリストの死の姿にあやかりながら、復活の姿にもあやかっていくのです(ローマ6:5参照)。

『キリストとその復活の力とを知り、......何とかして死者の中からの復活に達したい』(ピリピ3:10,11)

 キリストと一体となり(ローマ6:5参照)、キリストと共に死に、共に生きるのです。キリストと共に(霊的な意味で)復活させられ 、自分も新しい命にあずかっているんだということを、聖霊の内住と共に理解し、信じ切っていくとき、新しい命、復活の命が私達を支配していくことになるのです。 これは神が行う、内的な奇跡です。そして、その奇跡は心の中だけに留まってはいません。やがて再臨の時、イエス御自身が天から下ってきて、この世を終わらせるとき、奇跡的な方法で、肉体が再生する(栄化された体)真の復活が起こります。イエスを信じて眠りについた者が、よみがえるのです。

 神には『命の書』(ピリピ4:3)という記録台帳があり、過去から現在に至る、永遠の命に復活させられる方々の、何億人もの名前が書かれているのです。

 今ふうに言うば、神の記憶メモリーが発動し、創世の最初にアダムが土から造られたように、私達も、たとえ朽ちて土に帰っていたとしても、もう一度土から新しい、栄化された肉体を造って、与えてくださり、本当の現実の永遠の命が始まるのです。キリストが来られる時、その瞬間が訪れるのです。自分ばかりではなく、復活を待ち望んで眠りについた、何億という信者達もまた新しい命に復活するのです。ハレルヤ‼

 このことが喜びの書と言われるピリピへの手紙の根幹です。

 『わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。......一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。』(ピリピ1:21~24)

 神との交わりは、多くの場合祈りを通して得られるのではありますが、その最終的な目的は、聖霊によってのみ与えられる、魂の救いに満たされた、深い喜びを得る事です。『わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。』(ヨハネ第一1:4)とあるように、心の中に永遠の、尽きる事のない喜びが満ち溢れるようになるためです。この喜びはこの世が与える物質的な喜びではありません。何もなくても楽しくてしょうがない、こんな喜びはこの肉の世は与えてくれません。神が私達と共におられるのです。イエスの霊の臨在が与える喜びこそ、本当の喜びです。ピリピへの手紙のテーマの喜びはこの理解がなくては分かりません(この喜びを被造物と分かち合うために、神は世界を創造し、人間を創造したと言っても過言ではありません。人間は神の喜びの器なのです)。

 パウロは既に殉教死は覚悟していたようです、そのことはピリピへの手紙の中に、そこ、ここと読み取ることが出来ます。彼は福音のため、人生という馳場を、全力で、悔いなく、上からの賞与を求めて(ピリピ3:14参照)(テモテ第二4:6~8参照)走り尽くしたのです。もはや上からの義の栄冠を受けるばかりとなっています。

 パウロが持っている、救いの神学的根拠を、キリストに導かれた信徒達に、各種の手紙によって十分に理解させ、その信仰を養い、福音を分かり易く説明し、ユダヤ主義者達の悪影響から、福音の真理を守って来ました。 神が地上で生きることをお許しになるならば、パウロはこれからも信徒を励まし、その信仰を、助けることが出来ます。しかし人間は地上においてはいつまでも生き続けることは出来ません。パウロの書いた手紙が書物になり、新約聖書として、新たなる神の言葉として、燦然と、人類歴史に輝くことになります。そのことを彼はたぶん、信仰によって将来を見て、分かっていたのではないかと私は思う。そのように実際になってきて、この小さな私にも、パウロの理解した神の言葉、その光の一端を見せて戴けることになったのです。

 さて、特にピリピ2章を詳しく、今までの記事と重複するところがあるかも知れないが、どんなものか考えて見たい。2章で、パウロは最初にピリピの信者に対してキリストに結ばれ、霊の交わりに預かっているなら、私と同じ思いになって欲しいと言っている。日常の行動において、利己心や、虚栄心からするのではなく、真の愛と思いやりを持って行動することを教えている。キリストを信じる者の行いが、見栄と虚栄心に生きているこの世の人と同じような、動機から行動するようなことは、たとえ善なる行いであっても、あってはならないのです。利己心や、虚栄心から愛の行いをすることが、もし私達の隠れた心のどこかにあるとしたら、私達はそういう気持ちは捨て去らなければならない。

 さらに、パウロは相手を尊敬し、自分はへりくだって、互いに相手を自分よりも優れたものと考えなさいと諭している(ピリピ2:3参照)。そういう生き方をした手本は誰ですか?そうです、他ならぬイエス・キリストではありませんか。

 キリストは神の御子でありましたが、同時に神の地位にいた方でした。私達の教理によれば、神の御子でありながら、 キリストは神そのものであり、聖霊と、父なる神と、御子キリストは三位で一体の同等の神なのです。しかし神そのものであられたキリストは、天における御自分の地位に固執しようとは思わず、人類の救いのために、人間になって下さいました。父と呼ばれる唯一、真の神から、この地上に派遣されました。父と同等でありながら、ひとり子としての位格を持つ神であるイエスは、謙遜になられ、受肉し、乙女マリアから産まれることになりました。人間と同じ姿になられました。神であるのに、私たちと同じように真っ赤な血が流れ、私達と同じ肉の身体を持ち、人性を取られました。私達と同じように、赤ちゃんとして産まれ、子供時代を経て、大人へと成長し、地上では歳をとり、お腹が空けば食事をし、暑ければ汗を流し、大工として働き、労働の苦しみを経験し、得た賃金によって、母マリアと兄弟姉妹を養ってきました。

 イエスは約30歳の時に公生涯にお入りになり、3年半の艱難辛苦に耐え、ユダヤ、サマリヤさらにティルス、シドン等の海岸地方まで、くまなく宣教をして歩かれたのです。そのイエスをただの偉大な人間ではなく、父が遣わされた救い主である神の子であると、信仰によって弟子たちはとらえることが出来ました。

 イエスは『「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」...。』(マルコ1:15新共同訳)と宣べ伝え、12弟子を導き、弟子として育て、他にも多くの方々を救われました。しかし、御自分は、不当な裁きによって十字架につけられ、人類の身代わりとして、すべての人々の罪を負って、死んで行かれました。神は神の地位にいる時は死ぬことは出来ません。キリストは人間になったからこそ死ぬことがお出来になったのです。キリストはそもそも、私達の罪の身代わりとして、十字架につけられて死ぬために人間になったと言っても過言ではありません。

 贖罪の神秘は突き詰めて言えば、受肉の神秘であり、受肉の中に、キリストの謙遜を見ることが出来るのです。それゆえにキリストは御使いに崇められ、被造物のあらゆる舌がキリストの支配を褒め称えると書かれています。被造物の為に命を投げ出す、人間の肉を身に纏い、自己を虚しくなさる神がどこにいるでしょうか。この自己犠牲の法則が神の本質的な性質であり、宇宙統御の根本原理なのです。 

 『このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。』(ピリピ2:9~11新共同訳)

 だからそれに倣って、キリストを信じる者は、謙虚にならなければなりません。すべての人を、自分より優れた者として、尊敬しなさいと言われているのです。

『わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。』(ピリピ4:9新共同訳)このような教えを実践し、日常の行動において、利己心や、虚栄心からするのではなく、真の愛と思いやり、自己犠牲の精神を持って行動するよう、あらゆることを不満を言わず、理屈を並べたてたりせず、ただ謙虚にすべてのことは神が私達に託されたこととして、すべてを主の御名によって行うようにパウロは勧めているのです。 

 『そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。』(コロサイ3:17新共同訳)

 『あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。』(ピリピ人2:13,14)

 もちろん考える事、思いつく事総てが、神から出て御心にかなうと言う事はあり得ません。私達の行動のほとんどは、人間的な思いで終ってしまうことの方が多いのです。私達は、肉につけるもので、何が神の御心か、単なる人間の思いから出た事なのか、たとえそれが良いことであっても中々わかりません。物事の遂行には時間の壁があり、人間は最初から時間を超えて将来を見通すことは出来ません。ある程度時間が経過し、問題であった様々なことが徐々に解決していく時、過去を振り返ると、「アアこれがやはり神のみ旨だったのかなあ!」と、後からわかる事の方が多いのです。 

 また、私達の内には、隠された、自分でも気が付かない程、心の奥底に、利己心とか嫉妬心とか、功名心、名誉欲、物欲、 射幸心、貪欲等がある場合もあるので、自分が思い計画していることが、本当に純粋に相手のためなのかどうか、神の御心に沿ったことなのかどうか良く注意しなければなりません。

 肉につける私達の肉の思いは、神の思いからは遠く離れているので、神の御心に添うためには、祈って物事をあらゆる面から深く考え、必要があれば調査し、また、自分がしたいと企てていることを信仰と行動の唯一の基準である聖書の言葉に照らし合わせて考えて行かなければなりません。自分の生き方を神の御心に合わせて行くことは、一朝一夕で出来るものではありません。祈りと鍛錬と、経験と聖霊の助けによって、自分の人生における神の御心がどこにあるか、判断できるようになっていく事だと思います。また、高齢になると、若い時には考えられなかったほど疲労感に打ちのめされたりすることもあります。疲れ、投げやりになり、行動力が減衰し、ミスも多くなり、自信がなくなって来ます。そういうことも含めて、肉につける私達の肉の思いは、神の思いからは遠く離れている ことに注意しましょう。これからは、老人の心のケアも大事になって来るのではないでしょうか。

 

 『そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。......』(ピリピ2:15,16)と言われています。キリストを信じるものは、神の御言葉によって救われ、善い行いをなし、天からのイエスキリストの来臨を待ち望み、『わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる』(ピリピ3:21)と言う約束を待ち望んでいるのです。

 私達は誰でも歳を取って行きます。やがて肉体は衰えて行きます。体は若い時のように自由にならず、腰は曲がり、あっちが痛い、こっちが痛いが、歳を取って行けば、誰でも始まります。いつかは、自分のことが自分で出来なくなり、人様のお世話になりながら、やっと生きて行くような時が誰にでも訪れるのです。老人ホームに入って、介護サービスを受けながら、やっと生きている人達がいます。誰でも行き着くところではありますが、寂しい人間の姿です。誰しも好んで自分からそのような姿になろうとは思っていません。老化と言う避けられない人間の運命なのです。それはやがて来る、将来の自分の姿なのかも知れません。

 肉体はそのように衰えても、心は違います。聖霊がお住い下さる内なる心は、永遠の希望を待ち望んでいます。どんなに肉体が衰えようと、永遠の命の希望は失われることはないのです。『だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。』(コリント第二4:16新共同訳)『わたしたちは、このような希望によって救われているのです。...』(ローマ8:24)

 そのような、将来のビジョンを持っている人達の、現在の生き方の特徴はどんなものでしょうか。その中の生き方の一つは、喜びであります。この世の喜びではなく霊の喜びなのです。神の御臨在と救いの平安、目には見えませんが聖霊によってイエス・キリストが私達の近くに共にいて下さるのを信じ、ある時は実際に感じる事が出来る幸せ。『主はすぐ近くにおられます。』(ピリピ4:5新共同訳)イエスの中にとどまり、イエスの中に憩う喜びこそ、真の喜びであり、地上のお金も財産も、地位も名誉も何にも替え難い、素晴らしい喜びなのです。そこに何ものにも替えられない、平安があり、祝福があり、生きがいがあるのです。『主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。』(ピリピ4:4新共同訳)

 またもう一つの生き方は、福音の為には、地上の、肉の命を捨てるのも、厭わないという大胆な生き方です。パウロのように信仰に命をかけるような生き方が本当に私達にもできるのでしょうか。使徒パウロは、自分は福音宣教の為には、死ぬことも厭わないと言う意味の事をピリピ2章の中で言っています。『更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。』 (ピリピ2:17新共同訳)。あなたがたが礼拝する祭壇に自分の命をささげることも厭わないとは、ピリピの信者の信仰のために、またその宣教のために自分が、迫害で死んでもかまわないと言う意味です。礼拝する時にその祭壇に、羊の血を注ぐ代わりに、たとえ自分の血が注がれてもかまわないと、古代から行われていた、神殿での犠牲制度に霊的になぞらえて言っているのです。

 事実パウロの最後はこのとおりになりました。使徒行伝に書いてあるように、苦労の末、紀元62年頃、囚人の身分のままローマに着くことが出来ました。2年後に一度釈放されましたが、しかしそれから3年後、紀元67年頃、暴君ネロによって再び捕えられ、最後は、牢屋に入れられ、首を切られて、殉教死したと伝えられています。

『わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。』(ピリピ1:21新共同訳)

『主はすぐ近くにおられます。』(ピリピ4:5新共同訳)

 イエスの御姿は私達の肉眼では見えませんが、祈ったり、聖書の御言葉を読んだりしているうちに、段々私達の霊の眼が開けてきて、聖霊によって、間違いなく、イエスは今もこの世界に来てくださっていて、信じる者の心の中に、住んでくださることが分かってきます。信じる者には、イエスの実在と臨在が作りごとではなく、本当に現実の事として分かって来るのです。

 パウロは、自分は命が終わって、天国に入れて、キリストとお会いするのが一番だ。この世を去って主と共にいること、むしろその方が望ましいとも言っています。こうは言っても、もちろん、この地上で生き続ければ、多くの人々に、キリストの教えを宣べ伝え、信仰の奥義を教えることが出来るので、地上で、肉の体を持ちながら生きて行くことにも価値があるとも言っています。

 パウロに付き従っていた、弟子、テモテとエパフロディトもまたパウロと同じ思いをもって、信仰生活を送っていました。宣教を共にしていた、最も信頼できるパウロの愛する弟子テモテを、ピリピの教会に派遣し、ピリピの教会の信徒を励まし、又様子を知ろうと思っていました。ピリピ出身のエパフロディトは、福音のために自分の命を懸け、無理して病気になり、死の寸前まで行ったようです。幸い神は癒して下さいました。ローマの牢獄にいるパウロがもしエパフロディトを失うようなことになれば、投獄の悲しみに悲しみを重ねる結果になったかも知れないのです。彼の癒しのためにパウロはどんなに真剣に祈った事でしょうか、想像することが出来ます。

 エパフロディトが瀕死の病にかかったことは、彼に援助物資を持たせて、ローマにいるパウロのところまで派遣した、ピリピ教会にも聞こえてまいりました。ピリピの信徒たちも、彼の癒しのために、熱心に祈っていたことでしょう。そして、パウロはピリピの人々を安心させるためにも、病が癒されたエパフロディトを、大急ぎでりピリピに送り返す事にしたのです。

 ローマからピリピまではたぶん船旅だったことでしょう。それにしてもピリピはローマから行くと、イタリア半島の右隣りイオニア海を経て、ギリシャの向こう側、エーゲ海側にあるので、結構な距離です。病み上がりの者にはその旅は、きつかったに違いありません。

 パウロもテモテもエパフロディトも皆キリスト教の宣教のために命懸けで働きました。普通の人間は自分の事ばかり考え、キリストの事を、求めてはいません。『他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。』(ピリピ2:21)彼らの神はその腹であり、食べたり、飲んだり、着飾ったり、商売したり、お金儲け等、彼らはこの世の事しか考えていないのです。その人生の中にイエスを入れる余地がありません。彼らの行き着く先は、滅びであると書かれています。『何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。』(ピリピ3:18,19)

 

 福音の宣教の業に携わりながら、あまり仲良くできなかった2人の姉妹のことについて触れておきたいと思います。『エポディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。』(ピリピ4:2)このことから、たくさんの教訓を学ぶことが出来ます。この二人の女性は主のための働きにおいて、競争意識を持っていたようです。私達の内には、常に隠された、ある時は自分でも気が付かない程、心の奥底に、利己心とか嫉妬心とか、競争心、功名心、名誉欲等があるのです。例え主の働きのためであっても、それが本当に純粋に福音のためかどうか、神の御心に沿ったことなのかどうか良く注意しなければなりません。福音の宣教の働きの中にも、肉の嫉妬心や、競争心が働くことがあるのです。イエスは何とお悲しみになっていることでしょう。福音に携わるすべての同僚達を、自分より優れたものとして、尊敬して行かなければならないのです。『何ごとも、利己心や、虚栄心からせず』(ピリピ2:3)のパウロの勧告は、直接にはこの2人の姉妹に言われた事かも知れません。『主において同じ思いを抱きなさい』(ピリピ4:2) 

    しかし、同時にそれは福音宣教に携わる私達、総ての信徒の為にも言っているのです。信徒同士、お互いに尊敬し、自分より優れた者と認識すべきです。どんな小さな信者であっても、他の人には持っていない優れた点はあるものです。それを探し見つけ出し、お互いに尊敬して行くべきです。イエスのお働きは、一人でやるものではないし、出来るものでもありません。皆キリストにあって一つであり、尊いイエスが宿っている器なのです。確かに大きい器、小さい器はあるし、それを認めなければなりませんが、人は器の大小によって救われるのではありません。人が人であって、今生きていることを神が許されている以上、皆神の憐みの対象なのです。『神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。』(ローマ8:14) 『「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。』(ローマ10:13)

 そういう問題を含みながら、パウロはピリピ1:1に、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖徒たちにと言っています。4:21にも同じ表現でキリスト・イエスに結ばれているすべての聖徒たちに、よろしくと挨拶しています。肉のまだ捨てきれていない、自我や、利己心はそのままであって良いはずはありませんが、お互いキリストに結ばれて行くとき、必ず一致できるようになるのです。そういう困難な問題を抱えながらも、キリストは完全な義の衣をエポディアとシンティケの2人に着せて下さり、問題を抱えながらも2人は聖徒であるのです。ここにパウロの大きな愛を見ることが出来ます。

『...口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。...』(ピリピ1:18)

 神はどんな人をも受け入れ愛してくださいます。イエスの十字架の犠牲によるとりなしがどんな人の欠点をも赦し、生き、活動することを、肯定して下さっているのです。もちろん、いつまでも、欠点のままであってはいけませんが。

『......死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。』(ローマ8:34)

 ここで聖徒(ピリピ1:1参照)とパウロが言っているのは、誰でもキリストに結ばれているなら、多少の自我が残り、欠点はあっても聖徒だと言う認識です。

 ローマ人への手紙8:9,10に、キリストが霊によってあなた方の内に宿っているなら、あなた方は基本的には肉の支配下にあるのではなく、霊の支配下にあるのだという内容が書かれています。また別の個所では、『わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、肉に従って戦っているのではない。』(コリント第二10:3口語訳)ともあります。

 さらに、ローマ8:10には『キリストがあなた方の内におられるならば、体は罪によって死んでいても、"霊"は義によって命となっています。』とあります。キリストの義によって、私達はすでにありのままで、このままで義とされているのです。肉にありながら、復活されたイエスの義の命を身に注がれ、命となっているのです。

 繰り返しになりますが、こんなに欠点だらけの、未成熟な私達を、キリストに結ばれていると言うこのことにより、パウロは聖徒と呼んでいます。福音の業に献身している兄弟姉妹の間にさえ、競争意識や、虚栄心、自己主張等があります。それがそのままで良いとは決して言いませんが、欠点がありながらも、イエスの贖いによって、神の前に、生きることを許され、聖、濁共になって福音の業に貢献して行くのです。自分の利益を求めて、キリストを宣教する者もいれば、純粋な愛の動機から宣教に携わる者もいる。口実であれ真実であれ、要は、キリストが告げ知らされているのだから、それを喜んでいる、とまでパウロは言っています(ピリピ1:16~19参照)。


 『この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。』(コロサイ1:27,28)

 この贖罪計画の目指すところは一つです。それはどんな過程を経ようと、どんな説明をしようと、あなた方の内にいますイエス・キリストを自覚する事なのです。すべての人がこの内なるキリストに、聖霊によって心の中に住んでいただき、キリストに結ばれることによって、神の御心に完全に(十分に成長した、成熟していると訳すべき。ギリシャ語テレイオス・ヘブル語タムの訳)従うようになるのです。

 『...わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。......だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。』(コリント第二5:16,17口語訳)

 キリストにあるならば、キリストに結ばれているならば、たとえ多少の欠点や、自我、自己主張があろうと、それはすでに十字架の血によって、赦され、清められているものと考えましょう。それは自分に対してもそうですが、特に信仰の同胞に対してそう考えましょう。キリストから見たら、だれでも不完全なところ、多少の欠点はあるものです。皆肉につける友柄なのです。肉の性格が他の人を圧迫し、邪魔したりしていたとしても、それでも『キリストにあるならば、その人は新しく造られた者』なのです。そのように信じ、そのようにお互いを見なし、赦し合い、受け入れ合って行きましょう。『愛は寛容であり、愛は情深い。』(コリント第一13:4口語訳)のですから。

 

 さて、ピリピへの手紙の4章の中にある有名な祈りの約束の言葉に触れないわけにはいかない。

 『わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。』(ピリピ4:13口語訳)キリスト・イエスにあって何でも祈り求める事です。

 『何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。』(ピリピ4:6,7口語訳)

 『......なんでも祈リ求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。』(マルコ11:24口語訳)

 聖書を広げ、以上の御言葉を引用して、ここにこのように書いてあるではありませんか、ですからその通りにしてくださいと、神に要求しましょう。祈りのask,believe,claimである。祈りのA・B・Cである。まず求める、もちろんキリストの名によって。次に疑わず信じ切る、感謝も先にしてしまおう。最後に総ては御名のゆえに約束されているのだから、要求しよう。このように書いてありますと、約束の聖句を心の中で繰り返し、要求しよう。

 祈りの内容については、十分注意しよう。祈りの内容が御旨にかなっているかどうか、これは大変大事なことであり、祈りが自我によってなされることは極力避けよう、自分の利益だけを求めて行くようなことに陥ってはならないのです。

 『わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。』(ヨハネ第一5:14口語訳)

 祈りは約束であるから、答えられてから感謝するのではなく、すべての求めを神の前に注ぎだし、答えられる前に信じ切って祈る事が大事です。既に答えをいただく前に、この祈りはかなえられるに違いないという確信が生じ、心に平安が宿り、先に感謝までもしてしまう。この点に十分注意をしよう(もちろん、かなえられた時点での感謝もしなければならないが)。

 ある時までは、祈りながらも、半分疑っていたりもしていたが、祈りの答えを見て、その結果、良かった良かったと、神に喜び感謝することもあるでしょう。ある事象が実現し、驚き、神の業を見て、後から平安な心が与えられ、奇跡を見た後に信仰も増し加わってくる、そんな状況もあるでしょう。

 しかし本来ピリピ4:7(口語訳)の祈った時に与えられる『神の平安』は、実際に祈りの応答がある前に、祈ったことがすでに実現すると確信し、未来を心の中でつかんで、予め平安が与えられるのです。つまり実現する前に、実現すると信じ切って、心に平安が与えられるのです。

 祈り求めているある事象が、自分の心の中で実現すると信じ切ったならば、当然実現する前ではあるが、神に感謝を先にしてしまうことになります。賛美の声を先に神に献げてしまうのです。

 『わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。』(ピリピ4:19新共同訳)このような信仰を、私達も御言葉に基づいて持ちたいものです。

 さて、ピリピの手紙を自分なりに解説してみたが、非常に不十分であり、学べば学ぶほど、浅学な自分が自覚され、誠に恥ずかしい限りです。自分の力不足を感じ、かえってパウロが説いた、単純な福音をゆがめ、分かりにくくしているのではないかと思うことすらあります。 しかし、ここまで書いてきたのだから、もう少しピリピの手紙で主張していることを、以下に列挙してみよう。

人生に本当に重要なことは何かを見極める目が必要だ。再臨に備え、知る力、見抜く力を身に着け、清い者、とがめられることのない者となるために(ピリピ1:10)。

イエスキリストから与えられる義を身にまとい、聖霊の実を結実させていく。愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制等の品性の実をつける(ガラテヤ5:22口語訳参照)。

ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送る(ピリピ1:27)。

一つの霊によって、教えも行動も一致する(ピリピ1:27)。

キリストのために苦しむことも恵みによって賜っている(同1:29)。

恐れおののきつつ自分の救いを達成するよう努力せよ(同2:12)。

キリストの日に、非のうちどころのない神の子となるように(同2:15)。

主において喜べ(何度も強調している、ピリピの手紙が喜びの手紙と言われる所以)。

パウロは間もなくピリピ教会を訪問することが出来ると思っていた。

主によって確信していた(同2:24)。このことから紀元64年頃、一時的に軟禁状態が解かれ、ピリピを再訪問したのではないかと推測します。パウロの処刑は紀元67年頃。エルサレムの滅亡は紀元70年。

パウロはすでにキリストを捕らえ、自分が完全になっているとは思っていない(同3:13)。

賞を得ようと、目標を目指して、ひたすら走っている(同3:14)。

人は達しえたところで、進むべきで、別の考えがあるなら、そのことをパウロは認めよう。神がそのことも明らかにしてくれるでしょう(同3:15)。

パウロの生き方を模範として歩んでいる人たちを模範にして、そのように従い歩むこと(同3:17)。

主によってしっかり立つ(同4:1)。

広い心を持つ(同4:5)。

主はすぐ近くにおられる(同4:5)。

その他に徳や賞賛、すべて名誉なこと等、ここに書かれていないことであっても、すべて善なることに目を止め、取り入れ実行していきなさい(同4:8)。

パウロから学んだことは実行しなさい。そうすれば神が共にいてくださるのです(インマヌエル)(同4:9)。

『わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。』(同4:13口語訳)

貧しくても、富んでいても、自分の置かれているすべての境遇に、適応することが出来る。キリストが共にいることがその秘訣(同4:12)。

私達の父なる神に栄光が限りなくあるように(同4:20)。

キリスト・イエスに結ばれているすべての聖徒達によろしく(同4:21)。

特に皇帝の家の人達からよろしく(同4:22)。

主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように(ピリピ4:23新共同訳)。

このような、美しい挨拶でピリピ人への手紙は終っています。

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