コリント第二

 コリント人への第二の手紙

 コリント人への第二の手紙はいつ頃どんな状況で、誰が書いたのであろうか。パウロが、紀元56年頃第三次伝道旅行の途中で、マケドニアのピリピで書いたと言われています。ピリピで書いたというのは推定です。

 第三次伝道旅行でパウロは最初アジアのエペソに拠点を置き、ツラノの講堂で、毎日論じ、2年間も続けていたので、アジア州に住んでいた者は、ユダヤ人も、ギリシャ人も皆神の言葉を聞きました(使徒行伝19:9~10)。

 しかしその結果起きたことは、エペソにある女神アルテミスを信仰する、偶像教徒による、暴動一歩手前の大混乱でした。パウロはその事件をきっかけに、エペソを離れ、マケドニアに向かい、マケドニアのピリピで、コリント人への第二の手紙を書き、テトスに託して、三度目となるコリントの教会訪問前に、この手紙を前もってコリント教会に届けたのです。

 アカイア州にある州都として、ケンクレアの港の近くにあり、貿易で栄えたコリントの町は人口も多く、ローマ人、ギリシャ人、ユダヤ人が混在して住んでいました。偶像崇拝が盛んな町、特に女神アフロディーテ(ビーナス)が有名であり、紀元前の古代コリントの時代、神殿では巫女が1,000人もおり、神殿女娼をしていたと伝えられています。

 コリント教会は異邦人もユダヤ人も多勢いて、有力な教会でありました(使徒行伝18:10)。しかし、多くの信者が増えて行く中で、かなりの問題が起きていました。コリント教会の混乱の原因の一つは、雄弁だが、まだ福音には十分な理解がなかったアポロが、大きな影響を与えたことにあると思います。 

 使徒行伝を読むと、アポロは、イエスの道について熱心な伝道者でしたが、十分な福音理解に達していなかったため、エペソでアクラとプリスキラがイエスの教えを彼に詳しく教えたことが書かれています(使徒行伝18:24~28参照)。 

 アポロは雄弁家であり、その後、紹介状をもって、エペソからアカイア州の教会に派遣されました(コリントでも宣教しました)。アポロは優秀な人材ですが、どうも今一つ十分な福音理解には至っていなかったようです。エペソでアクラとプリスキラがイエスの教えを詳しく彼に授けた時、最初は彼は『ヨハネの洗礼しか知らなかった。』(使徒行伝18:25)と書かれています。

 コリントに行って、どのような教えを信者たちに流布したかは詳しくは書かれていないので、わからないですが、その宣教の結果は、私はアポロにつく、私はパウロに、私はケパ、私はキリストになどと、どうも派閥争いが起きてしまったようです(コリント第一1:12)。

 さらにコリント教会には、上に立つ信徒の中に、淫らな関係を女性と持っていた輩がいたらしい。自分の父の妻と関係を結ぶなど、異邦人にもないような罪を犯していたらしい(コリント第一5:1参照)。パウロは教会としてそのような信者を譴責し、除籍するように勧告しています(コリント第一5:2)。

 律法の標準的用法(テモテ第一1:8~10)と言うのがあって、教会行政においては規律を保つため、姦淫や詐欺、窃盗等の現行罪に対しては、教会の道徳的標準を維持するために、信徒に対して厳しく適用されるべきです。信徒が、悔い改めて過去のどんな罪をも神の前に赦していただくことと、現実の今、実際の生活の中で、盗みをし、姦淫をし、詐欺を働くなど、現行罪である犯罪的行為を重ねて行くこととは別問題です。クリスチャンがそのようなことをし続けているとすれば、それは教会の処罰の対象になります。組織を世の中の堕落から守り、維持していくうえで止むを得ないことなのです。

 コリントの教会では、さらに、信仰に伴う霊現象、聖霊の賜物の乱用があたことがうかがえます(コリント第一14:23)。異言の賜物の乱用があったことはハッキリしています。

 何故、パウロは三度目の訪問の前に、コリント人への第二の手紙を書いたのか?それは訪問前に、色々な問題があった教会が、信徒が自分達の罪を悔い改め、信仰を正常に戻していて欲しかったからです。パウロが行った時、神から与えられた使徒の権威を用いて、厳しい態度で、物事の処理をしないで済むためでありました(コリント第二13:10参照)。

 パウロが第二次伝道旅行で、アテネでは大した成果はあげられませんでしたが、紀元50年頃、次に訪れたコリントでは大いに福音が進展し、腰を据え福音宣教に1年半の間専念しました。主の言葉が夜の幻の内に臨み、コリントには主の民が大勢いることが、直接示されました(使徒行伝18:9~11)。

 このように祝福されて始まったコリント宣教でしたが、それから約5年後、第三次伝道旅行で、紀元55年頃にパウロがエペソでコリント第一の手紙を書いたときは、コリント教会は様々な問題を抱えていました。

 派閥主義、不道徳、主の聖餐における混乱、霊現象を伴う賜物の乱用、ユダヤから来た人々による律法主義、ユダヤ主義、それに伴う肉食と菜食の問題、復活を信じない人々までいました。パウロにとってこれらの問題をほっておくことは、コリントでせっかく蒔いて育てた福音の種を台無しにしてしまうことであって、容認できないことでした。それらの問題を解決するために、エペソで騒動が起きる前の紀元55年頃コリント第一の手紙を譴責のために書いたのです。エペソの騒動後、マケドニアに向かって旅立ち、マケドニアのピリピで、コリント到着前に、念のため再度、紀元56年頃、コリント第二の手紙を書いたと推測します。

 神の御言葉をコリントの人々は真に生まれ変わっていない肉的な心で解釈していたようです。御言葉の解釈は私達の理性を否定しません。私達の肉の頭脳と理解力によって神の存在を受け入れ、霊的な事物を 永遠の真理として信じ受け入れます。しかし、そこに至る過程は個々の理解力に差があり、いきなり霊的な深い真理に到達することは、ほとんどありません。ある場合には御言葉を肉的に解釈し、まだ変えられていないこの世の考え方の支配の下、霊的事物すら肉の解釈に従わせてしまうことが起き得るのです。優秀な頭脳、雄弁家としての才能を持っていたがゆえに、肉の能力と人を支配する肉の性癖が残っていたと考えられるアポロが、コリント教会における熱心な宣教の過程で、混乱に拍車をかけたのかも知れません。

 パウロ派アポロ派などあってはならないことです。アポロは、イエスにあって一致すべきである教会に、派閥的考えを持ち込んだ可能性があります。『アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。』 (コリント第一4:5~7)

 さらに、この世の人すらしないほどの不道徳が、教会員の中にあったようです。『現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。』 (コリント第一の手紙5:1~2)

 それどころか、イエスの復活や、自分達の復活を信じない信者までいたようです。『キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。』(コリント第一の手紙15:12~13)彼はかなり厳しい譴責の手紙を、コリント人への第一の手紙として、コリント教会に送ったのです。

 しかし今や、コリントに遣わしたテトスに、エペソからマケドニア経由で、アカイアのコリントに向かう途中であったパウロは、ピリピで会うことが出来て安堵します。さらに、テトスからコリントの人々が、第一の手紙を読んで悔い改め、パウロを慕っていることを聞き、杞憂が取り去られ、大いに喜んだのです。

 そして慰めの手紙として、紀元56年頃コリント第二の手紙をマケドニアのピリピで書いて、折り返しテトスに持たせ、三度目のコリント教会訪問前に届けたのです。パウロがコリントに着いたのは紀元56年か57年かでしょう。

 では1章から順番に解説していこう。ほぼ概略になってしまうかも知れないですが。

 コリント第二の手紙1章

 パウロが1章を書き始めるにあたって、自分が厳しい譴責のメッセージを先に第一の手紙で送ったことに対して、彼らが悔い改めたことをテトスを通して知り、少なからず慰められ、この手紙には慰めの言葉を最初に記そうと考えたに違いないです。今のコリントの教会における事象を踏まえながら、さらに神のなさる、すべての事象を通して、神が慰めをもって私達に接して、慰め、憐れんでくださると書いています。

 『神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。』(コリント第二1:4 新共同訳)

 この苦難は、主にエペソでの、アルテミス神殿をめぐる大騒動を指していると思われますが、それ以外にもパウロは死ぬような目に、何度も今まで遭いながら、宣教を続け、死をも超えた希望、復活の主を信じ、復活に希望を託す信仰を身に着けて行きました。パウロは『あなたがたも祈りで援助してください。』 (同 1:11)と、苦難の中に宣教を続行している自分達に対して、祈りによる援助を願っています。とりわけ苦しみの中にいる者にとって、第三者のとりなしの祈りが、どんなに心を励ましてくれることでしょうか!他者の為に祈る時、その方の上に霊の注ぎの天の窓が開かれます。また自分にも他の人が自分の為に祈ってくれる時、同様なことが起きるのです。

 祈りは単なる気休めではありません。熱心に、困難にある方々のために、とりなしの祈りをしていると、実際に不思議なことが、その方々の身の周りに起きてくるのです。そして、私の親しい方が、真剣に私のために祈っていただいていることを、私の霊は、時々感じることが出来ます。試練の中にある者にとって、祈っていただくことは、大きな慰めです。

 『わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。』(同 1:12)

 さらにパウロは続けて言います。マケドニアからあなたがたのところに行く計画を立てたのは、人間的な思いから出たことであり、軽率だったのでしょうか。いえ、決してそのようなものではなく、キリストによってすべてが、「然り」となっていくのです。「然り」が同時に「否」と言うようなことには、決してならないのです(同1:16~19参照)。

 パウロはコリントの教会の信者の個性を認め『わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。』 (同1:24)と言っています。

 

 2章

 コリント第一の譴責の手紙は、パウロが、涙ながらに書いた手紙でした。特に不道徳の罪を犯していた人は、多くの教会員から罰せられ、気落ちし、苦しみ悶えていました。しかし今や彼は悔い改め、不道徳を清算し、神の前に、十字架の血によって赦しを得ました。コリントの教会員も、もう彼を敵とは思わず、兄弟として取り扱い、赦してあげなさい。私も彼を心から赦しますとパウロは言っているのです。『その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。』( コリント第二2:6~8)

 悪魔のやり口は口は心得ているつもりです。悪魔は人を責め、譴責し、罪と滅びに陥れるばかりで、再生と赦しがありません。教会員はどんな大罪を犯した兄弟姉妹であろうと、その方々が、真に悔い改めて教会に復帰するならば、心から赦さねばなりません。

 さて、パウロはエペソでの大騒動の後、アジアからマケドニアへ渡る拠点となっているトロアスの港へ行きました。そこで、先に、コリントへ派遣していたテトスと落ち合うことになっていたのです。しかしすぐテトスに会えなかったので、彼は不安に感じました。どこかで会えるだろうと思い、トロアスから海を渡りマケドニアに向けて出発しました(コリント第二2:12~13参照)。コリントに向かう途中であったパウロは、実際にはピリピでテトスに会うことが出来て安堵します。

 文脈上ここから、コリント第二7:5に飛びます。

 『マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。テトスが来てくれたことによってだけではなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、そうしてくださったのです。つまり、あなたがたがわたしを慕い、わたしのために嘆き悲しみ、わたしに対して熱心であることを彼が伝えてくれたので、わたしはいっそう喜んだのです。』(同7:5~7)

 パウロはいつも平安で気落ちすることなく、伝道に励んでいたのでしょうか。基本的にはそうでしょうけれども、内憂外患、安らぎなく、苦しみもだえることもあったのです。イエスを宣教することは、異邦人の魂が救われ、感謝とよろこびに満たされることも多かったでしょうが、苦労し、疲れ果て、身も心も消耗して行くようなことも多かったのです。

 いかし、結局、コリント教会から帰って来たテトスに、ピリピでバッタリ会うことが出来ました。コリント教会の人々は、パウロの第一の手紙による譴責で、すっかり悔い改め 、不道徳を改め、肉的な派閥を解消しました。パウロの心配は杞憂に終わりました。

 貿易で栄えた商業都市コリントの町の人々(その中の信者)はその富の一部を、エルサレムにいる貧しい聖徒達を援助する献金として差し出すことに、喜んで賛同したのです。パウロは、テトスともう二人の使者を帯同させ、この第二の手紙を持たせて折り返し先にコリントへ行かせるつもりでした(同8:16~24参照)。お金の問題も絡んでいたので、3人派遣することにより、安全と公明正大さを期したと考えられます。コリントの人々がパウロを慕い、正常な信仰に熱心になり、彼の警告を受け入れ悔い改めたというテトスの報告は、彼の心を大いに喜ばせたのです。テトスは今来た道をお供二人を連れてもう一度コリントへ引き返すことになりましたが、喜んでその務めを果たしたと想像します。

 『こういうわけでわたしたちは慰められたのです。この慰めに加えて、テトスの喜ぶさまを見て、わたしたちはいっそう喜びました。彼の心があなたがた一同のお陰で元気づけられたからです。わたしはあなたがたのことをテトスに少し誇りましたが、そのことで恥をかかずに済みました。それどころか、わたしたちはあなたがたにすべて真実を語ったように、テトスの前で誇ったことも真実となったのです。テトスは、あなたがた一同が従順で、どんなに恐れおののいて歓迎してくれたかを思い起こして、ますますあなたがたに心を寄せています。わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます。』(同7:13~ 16)

 しかし、このようにパウロは喜びを表現しながらも、もしこの第二の手紙を先に、折り返しテトスに持たせて、コリントの人々に送ったとして、いざコリントに自分が三度目に到着したら、あの前回二度目の訪問の時に警告していたような状況に、またなってはいないだろうか。疑心暗鬼にかられることもあったのです。人間の心が悔い改めたとは言うものの、なかなか一筋縄ではいかないことを、パウロは良く知っていたからです。

 『わたしは心配しています。そちらに行ってみると、あなたがたがわたしの期待していたような人たちではなく、わたしの方もあなたがたの期待どおりの者ではない、ということにならないだろうか。争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないだろうか。再びそちらに行くとき、わたしの神があなたがたの前でわたしに面目を失わせるようなことはなさらないだろうか。以前に罪を犯した多くの人々が、自分たちの行った不潔な行い、みだらな行い、ふしだらな行い(姦淫の罪)を悔い改めずにいるのを、わたしは嘆き悲しむことになるのではないだろうか。わたしがあなたがたのところに行くのは、これで三度目です。すべてのことは、二人ないし三人の証人の口によって確定されるべきです。以前罪を犯した人と、他のすべての人々に、そちらでの二度目の滞在中に前もって言っておいたように、離れている今もあらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったら、容赦しません。なぜなら、あなたがたはキリストがわたしによって語っておられる証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方です。』(同12:20 ~13:3)

 「仏の顔も三度まで」と言う日本の諺がありますが、教会行政において、いつまでも、「いいよ、いいよ。」は通りません。毅然とした態度で、処置しなければならない問題もあるのです。もちろん、個人同士の罪の問題では『七の七十倍までも赦しなさい。』(マタイ18:22)と言われた、イエスのお言葉が優先します。また、教会内の信徒が犯すどんな罪であっても、その方が悔い改め、更生したら、過去の罪をいつまでも問題にせず、個人としても、団体としても赦しを与えて行かなければなりません。しかし、教会の評判を落とすような、聖書的にも一般の倫理基準に照らしても、道から外れている行為を、悔い改めず、修正しないような人は、教会の譴責の対象になります。

 さてここで文脈上省略しておいたコリント第二2:14~7:4までを解説しましょう。

・私達はキリストを知る知識の香りを漂わせています(同2:14~16)。

・コリントの人達はキリストの手紙です(同3:3)。

★ 石に刻まれた文字に仕える死の務めがあります(同3:7)。

★ 霊に仕える務めがあります(同3:8)。

・イエスの命が土の器(人間)の中に現れます(同4:7~11)。

・地上にある幕屋で苦しみ悶えている私達(同5:1~4 )。

・天から与えられる住みかを上に着るのです(同5:4)。

 『わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。』(同5:14~17)

・神と和解させてもらい、神の義を受けなさい (同5:18~21)。

・神の恵みを無駄にしないように(同6:1)。

・今は恵の時、今こそ救いの日(同6:2)。

・宣教が非難されないように身を慎んで行動してきました(同6:3~10)。

・不道徳から離れなさい(同6:10~7:1)。


★石に刻まれた文字に仕える死の務め(同3:7)。

★霊に仕える務め(同3:8)。

について、特に、以下の如く、繰り返しになるが、改めて解説しておきます。

 どうしても、コリント第二の手紙、3章4章に触れておく必要があります。この部分を一言一句解説することは止めますが、要はローマ人への手紙やガラテヤ人への手紙のパウロの主張の表現を変えた、同じ律法に対するメッセージであると解釈することが出来ます。コリント第二の手紙、3章4章でパウロが言っていることを、私なりに分かり易く解釈すると以下のようになります。

 手紙は文字によって内容を伝えます。コリントの信者は、パウロに言わせれば、パウロが書いた、パウロの生きた手紙です(イエスによって変えられた霊に満たされたコリントの信者自身が手紙です)。文字は人を殺し、霊は人を生かす。石に刻まれたモーセの十戒の文字は死を宣告する務めです。これは『......律法によっては、罪の自覚が生じるのみ...』(ローマ3:20口語訳)と同じことを書いた別表現です。要するに、罪を指摘し、罪に定める働きが文字の働きなのです。文字は判決文と考えて見ると分かり易い。私達を有罪宣告し、死に定めます。また、律法は鏡のようなものです。鏡を見るとき、自分の汚れた姿が見えます。しかし鏡自体には汚れを落とす力はないのです。汚れを落とすのはイエスの十字架で流された、血潮によるしかありません。

 しかし、心からイエスによる罪の贖いを信じた者は、いつまでも鏡が指摘する罪の汚れをクヨクヨと気にして、信仰生活を送らなければならないかと言う問題です。

 もはや、イエスを信じ、恵の下にある信者は、そのような律法の下、罪の自覚を生じさせる養育掛的用法の下にはいない。罪にいつも定められ、クヨクヨし、罪責感に苛まれて生きて行くような用法の下にはいないのです。もうイエスの下に来たら、霊の自由が与えられて、晴れゝとして、自由闊達に生きて行くことが出来るのです。私は同信の兄弟姉妹達に声を大にして伝えたい、良心的に生きることはクリスチャンとして大事なことですが、もうキリストによって、霊は解放され、良心の咎めからも解き放たれ、確信をもって、キリストの霊に満たされながら罪なき者として生きることが出来るのです。

 主を仰ぎ見るとき、恵の下に、霊の自由な中にあって、キリスト者の自由を味わうことが出来ます。今でも会堂で、律法の書が読まれるたびに、何か自分の肉の努力で、単に表面的に律法を守る事によって救われるのではないかと言う、律法主義の覆いが会衆の心に被せられ、恵の光を遮ってしまいます。

 律法の下にいないとパウロが言っているのは、養育掛用法の下にはいない と言うことです。そしてさらに考えれば、私達が生まれつきの、腐敗した肉の力で律法を守るような用法の下にはいないと言っていると解釈できます。もし肉の力だけで、キリスト無しに律法を守る事だけで救われるのなら、キリストの十字架は必要なくなります。これこそ律法主義です。

 『...主の霊のおられるところに自由があります。』(コリント第二3:17新共同訳)モーセの顔覆いは、私たちから取り去られて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、聖霊の毎日の満たしの中で、イエスにいつも心の中でお会いして、イエスと同じような形に私達は日々変えられていくのです。これがクリスチャンの生き方です。

 

 律法にはもう一つの面があります。それは神に対しても人に対しても愛の実践を求めていることです。

 『わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが』(コリント第一9:21口語訳)と、『あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。』(ガラテヤ6:2口語訳)と書かれているので、救われた者は、依然神(キリストは神と同質の神‐位格《役割》の違い)の律法の中にいるのです(ちなみに、キリストの律法と言う言葉はパウロの書簡の中に、この2箇所しか出てこない)。

 『愛の実践を伴う信仰こそ大切です。』 (ガラテヤ5:6)とも表現されている。律法の精神は愛だからです。

 この世の法廷をイメージしてみよう。裁判官から、無罪宣告されたとしよう。被告にとってこれは大変な喜びであり、もはや、牢獄から解き放たれ、自由な身になれます。だからと言って、社会に戻って、法律など無視して、全く自由に生きて良いのだろうか。そんなことはあり得ない。法律遵守はその後も求められて行きます(律法の標準的用法)。

 クリスチャンは律法に対して、肉の守り方には死んでいるのです。つまり、肉の自己を、キリストの肉の砕きと共に十字架に付け、律法からは解放され(ローマ7:6)、キリスト者の自由を味わっているのです。

 死んだ者は律法から解放されているからです。死んだ者がどうして律法を守ることが出来るでしょうか。彼はもう死んでいるのです。そう私達の生まれつきの肉が死ぬことが、肝心な事なのです。肉によって仕える仕え方からは解放されているのです。別の言い方でをするならば、肉の努力で、聖霊抜きで、律法を守ることから解放されています。何故なら、私達の肉は死んだことにされているからです。しかし霊によって仕えることからは解放されていません。霊による新しい仕え方で仕えて行くのです。『しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、"霊"に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。』(ローマ7:6)


 キリスト者は律法から解放され、自由を得ています。でも、その自由の機会を『罪を犯させる機会とせず』(ガラテヤ5:13)愛によって生活しなければなりません。決して無律法主義をパウロは唱えているのではありません。

 ここでの注意は判決文としての、裁判官から語られる、ギルティーの用法の下(養育掛用法)にはいないが、律法が文字であらわしている内容、愛の方向性を具体的に示している中にはいると言うことです。

 栄光の霊を映すように変えられたクリスチャンの生き方は、真の意味で霊によって神に仕えて行くのであって、その仕え方は、文字をある意味超越しているところがあるかも知れないが、文字を全く無視するというような、無律法主義にはならないと私は考えています。

『霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。』 (ローマ8:4)とあります。 霊によって歩みことによって、律法の要求はむしろ、本来の意味(形式主義、律法主義ではなく、真の愛の実践として)で満たされていくのです。

 『それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。』(ローマ3:31)私達が、復活の霊を受けながら、キリストに近づけば近づくほど、 むしろ律法は、成就されて行くものです。

 『キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。』(ローマ10:4新共同訳)

 『キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。』(ローマ10:4口語訳)

 キリストは律法の終わりになられたと口語訳で訳されているこの言葉はギリシャ語τέλος telos です。終わり・最後・目標・行き着くところ・結末・極限まで等の意味があります。私は私訳でありますがキリストは律法の「行き着くところ」もしくは「極限をあらわした」と受け取りたいのです。キリストは実は律法の体現であり、真の形なのです。愛の実現であり、愛そのもののお方なのです。突き詰めて言えば、福音と律法はキリストにあって一つであるのです 。伝統的SDA教会の解釈と私の解釈が一致するところです。しかし、この解釈は一般の福音派の教会にとっては受け入れられないところであると私は十分承知しております。 さらにこの個所は、キリストは律法の成就になられたと訳す方がふさわしいかも知れません。

 また、イエス御自身の律法に対する重い御言葉があります。『律法の文字から一点一画も消え去ることはない。』(マタイ5:18新共同訳)『あなたがたの義が......パリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。』(マタイ5:20口語訳)

 もちろんこうは言っても、その続きを読んでいくと、情欲をもって女を見てはならないし、右目が罪を犯させるなら、えぐり出して捨ててしまいなさいとも書かれているので、全体を通して、イエス独特の誇張表現であると理解しなくてはならないと思います。もしこれがキリストの誇張表現でなく、文字通り実行しなければならないことだったら、クリスチャンの男性は皆右目を失明して、左目だけ、片目だけで生きて行かなければなりません。


 さらに、エペソ4:25~6:3のパウロの言葉を読みますと、パウロが十戒の順序を全くバラバラにして、しかも表面の行いよりは、心の中を描写し、心の中そのものの持ち方が大事であることを強調して書いています。この部分は、私に言わせれば、パウロの新十戒解釈と見ていいでしょう。特にエペソ6:2には『父と母を敬いなさい。』と直に、十戒の第5条が引用されているので、エペソ4:25~6:3を書く時にパウロの頭の中に、十戒があったことは間違いありません。


 信仰の結果として、神の前に、愛の行い、つまり聖霊によって、義の実を結ぶことが出来るのです。パウロの手紙を読みますと、恵の後に、愛の行いが必ず強調されています。

 『律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。』(ガラテヤ5:14口語訳)


 繰り返しになるが、私達はキリストの恵みの下にいるのであって、律法の下にはいないのです。『......あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。』(ローマ6:14新共同訳)肉の努力や、人間の力だけで神の律法を守ろうとすることは不可能です。『なぜなら、肉の思いに従う者は、......神の律法に...従いえないのです。』(ローマ8:7新共同訳)律法の下にいるとは、どういう状態を示しているのでしょう?キリストの贖いや、復活のキリストの御霊に満たされることなく、自分の変えられていない、生まれつきの肉の能力や、後天的に勉学等で取得した能力によって、神の律法の要求を守ろうとするとき、その人は律法の下にいるのです。あるいは、養育掛かり用法の下にいつもとどまり、ウジウジと罪の自覚から解放されずに、沈んだ暗い信仰生活を送っているとすれば、律法の下にいるのです。

 また、表面的に律法遵守を取り繕い、自分はあたかも神に従っているかの如く、自惚れている状況、すなわちキリストの義の代わりに自分の義を神の前に立てている、浅はかな状況を律法の下にいると言うのです。

 さらに言えば、自分は、自分の行いにより、少しでも神に近づいたかな、などと思う思いがあったなら、律法の下にいるのです。人間の汚れた行いによって、神の前に受け入れられることは決してありません。すべてはキリストの恵み、神の御恩寵によるのであって、キリストの下、すなわち恵みの下にいるしか生きて行く道はないのです。こう言う意味で律法の下にはいないようにいたしましょう。

 人間は肉のもとに売られており、イエス・キリストが肉を十字架で処断なさらなければ、私達の肉が邪魔をして、そもそも神の律法など守れないのです。

 さらに、この世の神が、この世の名誉、財産、成功、肉欲、現世的欲望等の満たしをもって、福音を覆うことがあるかも知れない。滅びの道をたどる人には福音は覆われてしまう事があるかも知れない。しかし、私達はイエスに仕える僕(奴隷)だ。偉大な力を土の器の中に持っている。変えられていない、古い肉を十字架につけ、復活のキリストの命を霊的に宿し、霊的に復活の経験をすることが出来ます。やがては本当の現実の復活も、この世の終わりには体験させていただき(コリント第二4:14参照)、神の御前に立たせていただける事を私達は知っています。この霊の力によって、私達は生きる手紙として、御霊の実、愛の実を豊かに結んで行くのです。

 

 8章 

 エルサレムの貧しい人々に対する援助献金の要請が書かれています。マケドニア州の人々は経済的に貧しかったにもかかわらず、エルサレムの貧しい人々に対する援助献金に、自発的に参加してきました。特にピリピ教会は自分たちは豊かではないのに、何度もパウロを援助し支えてきました。

 アカイア州のコリントの教会の人々は、この世的には豊かに恵まれているのだから、より一層、この援助献金に、参加してほしい。その恵みの業を完結させるために、パウロはテトスを再び、折り返しコリントの人々のところに遣わします。現在のあなた方のゆとりをもって、エルサレムの聖徒らの不足を補えば、あなた方が欠乏するときには、彼らのゆとりがあなた方の不足を補うことになります。『「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」と書いてあるとおりです。』 (コリント第二8:15)

 テトスともう二人の兄弟が、安全と、公正を期すため、同行することになった(同8:18、22参照)。

 

 9章 

 引き続き援助献金の勧告が書かれています。

 『アカイア州(コリントの人々)では去年から準備ができている(計画的献金)と言って、マケドニア州の人々にあなたがたのことを誇りました。あなたがたの熱意は多くの人々を奮い立たせたのです。わたしが兄弟たちを派遣するのは、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りが、この点で無意味なものにならないためです。また、わたしが言ったとおり用意していてもらいたいためです。そうでないと、マケドニア州の人々がわたしと共に行って、まだ用意のできていないのを見たら、あなたがたはもちろん、わたしたちも、このように確信しているだけに、恥をかくことになりかねないからです。そこで、この兄弟たちに頼んで一足先にそちらに行って、以前あなたがたが約束した贈り物の用意をしてもらうことが必要だと思いました。渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意してもらうためです。つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。』( コリント第二9:2~7)

 このパウロの論調から見て、エルサレムの貧しい人々に対する援助献金について、パウロは大変な力を入れていたのがわかります。またコリントの教会員に対しては、その財の豊かさゆえに、大きな額の期待を寄せていたのだと推測します。コリントの町はアカイア州の州都でもあり、近くのケンクレア港から、各地方の名産品等が陸揚げされ、商業都市として、当時非常に栄えていました。

 『あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。』( 同9:11~14)

 

 10章~12章 

 キリストの使徒としてパウロの権威の問題 を扱っています。パウロが神から戴いた、使徒としての権威について疑う者たちがコリント教会にはいたようです。パウロは肉にあって歩んでいるが、肉に従って歩いてはいない。人間として、生身の体で歩んでいるが、神からの権限を受け、霊によって歩んでいるのであって、肉の権威や、この世の権限によって歩いているのではありません。

 パウロは手紙では強硬な態度に出てきて、重々しいが、実際に会ってみると、弱々しく、話は下手で、面白くもないと思われています。しかしどちらのパウロも、神の使徒である権限を帯びたパウロです。『「誇る者は主を誇れ。」自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。』(コリント第二10:17~18)

 話し方は下手ですが、あの大使徒ペテロに比較したって、決して劣ってはいません。知識において、パウロは優っています。ペテロは漁師だったので学ぶ機会はなかったですが、パウロは師ガマリエルから薫陶を受け(使徒行伝22:3参照)、当時の学問を学び博識でした。

 パウロのイエスによって与えられた権威を認めない者が、コリントの教会の中で、自分の肉の誇りと権威を振りかざし、ユダヤ人であることや、キリストの宣教で苦労したことを誇っていました。パウロは自分のことを誇れば、愚かな人間になってしまうことを恐れつつ(同12:11参照)、誇っても無駄なことは分かっていますが、 彼らの手前いくつかのことで、自分のしてきたこと等を誇って見せました。

・血統の誇り‐ヘブライ人、イスラエル人、アブラハムの子孫です。

    ・ 艱難を乗り越えた誇り‐キリストに仕えてきた、投獄、むち打ち、投石の刑、難船、盗賊の難、同胞の難、異邦人の難、偽兄弟の難、海の難、川の難、不眠、裸で寒さに凍え、飢え、渇き、教会に対する心配事、ダマスコで城壁づたいに籠で降ろされたこともあった。

    ・ 霊現象の経験者としての誇り‐『キリストに結ばれていた一人の人』(同12:2)が第三の天に昇ったと言うのですが、この人はパウロのことです。この手紙、すなわちコリント第二の手紙を書いているのは紀元56年頃ですから、14年前に見た幻と言えば紀元42年頃、第一次伝道旅行の頃でしょう。

     何故パウロ自分が第三の天に昇って、霊現象の中で、御使いの言葉を聞いたなどと突然言い出したのでしょうか?それは、コリントの教会の中で、多くの賜物を伴う霊現象が、信仰の確証として、もてはやされていたという、特異な状況にあったからです。天使を見たり、幻を見たりしたことをあたかも信仰の確証のように誇る人々、あたかもそれが神から与えられた権威の印のように考えている人々にパウロはこう言いたかったのです。「私は幻の内に天国へ上って、天使たちの言葉を聞いたのだぞ。私が持っている使徒としての権威を誰も蔑ろにしてはいけない」と。

     天使礼拝に溺れたり、幻を見たことを、他の信者に比べて自分の信仰が優れている証しだと思ったりしていたコリントの信者がいたのです(コロサイ2:18)。たぶんこれらは、異教を信じていた頃の悪習慣が、教会に入って来ていたものと考えられます。偶像教の教えを信じる人々には、シャーマニズム的な境地の中で、悪霊の導きによって、その仕える種々の神々から、幻を見せられたり、託宣があるような宗教現象を、優れた証だと思っていたのです。それらの宗教的習慣が教会にも影響を及ぼしていたことは充分考えられます。

     確かに宗教経験の中には、キリスト教も含めて超常現象が伴うこともあるでしょう、私はそれを否定しません。しかし、それが信仰の根拠となり得るのでしょうか。そういう超常現象を私は以下のように考えています。

     パウロはある時祈りの中で不思議な経験をした。彼は祈りの内に、第三の天(第一の天→大気圏、第二の天→宇宙、第三の天→次元の異なる天) にまで引き上げられ、御使いの声を聞いたのです。肉体を離れてか、肉体があるままに、脳中の幻の中で昇って行ったのか判別できませんが、パウロの霊は天国にまで昇って、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を聞いたのです(コリント第二12:1~6参照)。 こんな経験を私もしたいものです。

     私は、昔、千葉の袖ケ浦、楢葉にあったSDA日本三育学院のキリスト教学科で学んでいたが、ある時、誰もいないセミナー教室で、一人で聖書を勉強していた。しばし、本から目を離し、天にいる復活のイエス・キリストを瞑想し、天に思いを馳せていると、不思議な経験をした。突然、心の思いが、しばし地上から離れ、キリストと共に、自分も霊的によみがえっているような感覚にとらわれた。意識を、天に向け、キリスト共に自分も霊的に復活しているのだという感覚を持った。思わず心の中で「アー......。」と言ってしまった程の経験であった。正直に言って、それは、数秒の出来事で長くは続かなかったのですが。

     弟子たちから執事として任命されたステパノは、その殉教の時、天が開けて『......「ああ、...人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。』(使徒行伝7:56口語訳)

     私達が今、地上にいながら、霊の眼をもって、第三の天を想像することは可能だと考えます。現代においては、パウロのように、幻の内に第三の天に昇るような、現象は起こらない。否、絶対起こらないとは言えない、それは神のなさることだから。しかし、私の霊が既にキリスト共に次元の異なる天に、霊的に引き上げられていると想像するだけで楽しく、幻は見なかったとしても、それは個人にとっては、キリストの霊に触れさせていただく、貴重な時間です。

     でもこんなことを書きながらもヨハネ第一の手紙の2:24~25の聖句が私の心の中に浮かんで来ました。それは、宗教経験の中に、あまり異象など求めずに、もっと地道に信仰の道を確実に歩みなさい、と言っているようにも読める御言葉です。信仰の根拠を異常現象等に置かず、静かに、淡々と救いの約束を自分のものとしておきなさいと言うことなのです。

     『初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。 初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。』(ヨハネ第一2:24~25新共同訳)御言葉にとどまり、いつもキリストと御父の内にいること、すなわちそれが永遠の命です。個人の救いにとってそのことが最も大事なことなのです。


     さて、パウロは肉体に弱さを持っていました。こんなに大きな字で書いています(ガラテヤ6:11)と言っているところから類推して、目が悪かったのではという説があります。まだ、救い主を知らず、若い時の宗教的情熱に任せて、パリサイ人としてユダヤ教に精進し、クリスチャンを迫害しに行ったダマスコ途上で、イエスの臨在の光に打たれ、一時的に目が見えなくなった事件で、目を傷めたと言うことでしょうか。

     何れにせよ、肉体のどこか悪かったので、このことについて3度も癒しを主に祈ったのです。『すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。』(コリント第二12:9)パウロには人にはないような、知恵と知識が与えられ、さらにはこの地上に居ながら、幻の内に天に昇ってしまうなどの、優れた経験が与えられたので、高慢になり、思い上がって、ルシファーが陥ったような罪を犯さないように、いつも謙虚でいるために、あえてパウロの肉体の病を主は癒されなかったのです。

     『自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。』(同12:5~7)


     13章

     キリストがパウロを通して語っていると言う自覚がパウロ自身にあったに違いありません。ですからパウロの言うことを、キリストの権威として認めない人々に対して、厳しく譴責する必要があったのです。

     『このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。』(テサロニケ第一2:13)

     神の言葉が、人(パウロや他の12弟子達)を通して語られると言うことは、よく考えて見ればものすごいことです。私達は神に触れたと自分で思えるようなことは生涯に何回くらいあるでしょうか。パウロには常に神に触れているという自覚があり、パウロの書いた手紙は事実として神の言葉だったのです。

     歴史的には300年以上かかって4世紀末、第三次カルタゴ会議(AD397年)にパウロの手紙を含めて現在の27巻の新約聖書が正典として成立しました。

     自分が持っている神の言葉を語ることが出来ると言う権威に対して、それを認めないグループがいるとしたら、パウロは彼らに対して強く出る覚悟をしていたのです。『キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方です。キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが(これは人間的な表現‐実際には、神の強さの中で選択した出来事)、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。』(コリント第二13:3~4)自分の内にイエスが宿っておられ、イエスのメッセンジャーになっているのです。神の言葉を宿したパウロと同じようなレベルではないですが、少なくとも私達の中にも、イエスが住んでおられるはずです。聖霊を通して、イエスが私達の内におられることを、自覚し、悟ることが重要なのです。そして、時には、神の言葉が聖霊に満たされた私達を通して、語られる可能性があります。もちろんすべての経験は、聖書の標準に照らして、吟味されるべきですが。

    『信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが......。』(同13:5)

     目に見えない第三位格の聖霊の神、言葉を変えて言えば、目に見えない形でのイエスの霊が、聖書の御言葉と一緒になって、私達の歴史や、個々の人生、個人の心の動機に至るまで、影響を及ぼし、実際に関与していることを考慮して行かなければ、キリスト教信仰は理解できない。私達の内におられるキリストを自覚し、理解し、祈りにうちに、霊的覚醒をもって、毎日を生きて行くことが重要です。ある意味それは、信仰生活の中心と言っても良い。男にも女にも、小さき者にも、大きな者にも、平等に、心に宿り、住み、その偉大な知恵と権能をもって、聖書の言葉を通して、教え導いて下さることが出来るイエスの現臨する、霊の確かさの中で、祝福の内に人生を歩んで行こう。

     『静まって、わたしこそ神であることを知れ。......』(詩篇46:10口語訳)

     静かな心で、全く世俗から離れて、天を仰ぎ、父なる神から出て、キリストを通して注がれる聖霊を求め『...イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。......』(使徒行伝2:33新共同訳)、聖霊のバプテスマを注がれることを心から願い、聖霊の内住と、臨在をいただく時間、心に静かに聖霊が語りかける小さな声に耳を澄ます事、聖霊に満たされる事、ただそれだけを求める事、その事が人生において一番大事な時間ではないだろうか。

     第2のアダムとなったイエスの霊が私達を導き、霊の支配の下に置かれます。私達の日常の空間、物質第一主義の世俗を打ち破り、天からその支配を明確に関与させる時があります。地上においても、キリストの臨在が感じられ、その義と命の支配が顕れるのです。『......キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。』(コロサイ3:11新共同訳)神の霊を求め、イエスの救いを瞑想し、今イエスの愛を心に宿し、イエスのお力で隣人を愛して行くこと。自分の肉的な努力ではなく、ただイエスによって強められ、生きる事は全てキリストになり、キリストの内に生き、行動し、キリストを仰ぎ見ながら生きる時間。キリストの臨在と、内住を意識し、何を為すにも、キリストが全てとなって行きます。こんな生き方をして行こう。こんな時間が私にとって至福の時間です。

     しかし、一方で確かにこの世の生活を能率的に生きて行くためには、やることがたくさんあり、理性を働かして肉の判断力を使い、立派にこの世を生きて行くことも必要でしょう。でもその場合も神を第一として優先していかなければなりません。

     再臨の時は、この世にある物、何もかも、肉的、物質的な物は全部燃えて滅びてしまいます。残るのはただキリストとの交わり、贖罪、復活、永遠の命だけ。ここに自分の精神も、時間も、心も、魂も集中して行こう。滅ぶべきこの世と、世が提供する肉の快楽を求めて、気が付いた時には、人生の多くの時間を、無駄に過ごしてしまったとならない為に。

     パウロの書簡の中で、完全なものになりなさいと言う表現があります。ギリシャ語のテレイオスの訳語です。これは、繕う、修繕する(コリント第二13:11)、十分に成長する、あるいは成熟している(コロサイ1:28)、と訳されるべき言葉であり、その方が正しい理解であると思われます。コリントの信者たちは、欠点だらけであり、いわゆる、完全と言う言葉には、かなり程遠い人たちであったのですから。

     最後に互いに仲良く過ごし、挨拶をかわすように命じ、三位一体の神の祝祷をもって、この譴責と慰めに満ちた手紙を終わっています。『聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。』(同 13:12~13)

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