テサロニケ第二

 テサロニケ人への第二の手紙

 1章

 あらゆる苦難と迫害の中で、イエスを受け入れ、忍耐し神の教会の模範になっているテサロニケの教会の信徒を、パウロは誇りに思っていました。神の判定が正しいという証拠であるとも言っています。 迫害と苦難の中で神はテサロニケの人々を信頼できるという判断をして下さっています。この世の悪の勢力、信者を迫害する者達は、やがてイエスが来臨なさるとき、裁かれ、滅ぼされのです。しかし、信仰を忍耐して守っている信者には、天国の報いが与えられるのです。因果応報はどんな宗教にもあります。仏教然り、キリスト教然り。しかしキリスト教には、罪の赦しがあります、その点は決して忘れないようにしましょう。

 『また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます。主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう 』(テサロニケ第二1:7~9)

 永遠の価値観、天国へ入れる希望に比べたら、地上の幸、不幸はいったいどんな価値があるのでしょう。イエスに対する信仰を貫き通し、地上では迫害され、命すら取られてしまった多くのクリスチャン達がいます。特に初代の教会は迫害が激しく、多くの人々が、ただ約束の永遠の命の報いを信じて、殉教死して行きました。もし、イエスの再臨と、世の終わり、朽ちることのない命への復活がなかったら、彼らは何のために十字架の罪の贖いを信じて、殉教したのでしょうか。イエスを信じると言う信仰告白をして、この世のその時々の権力者の不法の裁定を、ものともせず耐え忍び、喜んで、多くの信者達が、たった一度の、たった一つのこの世の命すら差し出してきたのです。もしここにある約束が事実でないとしたら、多くの聖徒らの死はいったい何のためだったのでしょうか。

 『かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。それは、あなたがたがわたしたちのもたらした証しを信じたからです。』 (テサロニケ第二1:10)

 信じる者にとって、イエスのなされた、身代わりの十字架による罪の赦しと、来世の永遠の命への復活は、すべてに優先し、価値のあるものです。総ては神からの恵みであり、また、神から受ける栄誉なのです。『それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです。』(同 1:12)

 

 2章

 第一の手紙から、数か月後にパウロは第二の手紙を書いた。それは当然、書き足りなかったことを彼が補うためであったと考えられます。第一の手紙になくて、第二の手紙にあるもの、それは教会の中に起こって来ると思われる将来の背教に対する警告です。

 再臨がすでに来てしまったと触れ回るものが出てくるはずだが、そのような教えに惑わされてはならない(同2:2)。また、異なった教えを持ち出し、傲慢になり、神殿(紀元70年破壊されなくなっている-教会を指す)に座し、自分は神であると宣言する者が出現する(同2:4)。

 これは自分を神の子キリストの代理者と呼び、教会組織の頂点に君臨し、聖書にない教えを(マリア昇天説、偶像礼拝-イエスの像・たくさんの聖人の像等を拝む、法王無謬説等々)導入した、ローマ法王教の台頭を預言したものです。しかし、御言葉を曲げてしまう不法の者の最後は、キリストの来臨の輝きによって滅ぼされしまうのです(同2:8)。

 偽りの教えを流布する者達は、あらゆる不義、不思議な業、奇跡を行い、できれば聖なる民をも惑わそうとするので、テサロニケの人々は、神の言葉、説教、これらの手紙で正しく教えられ、健全な信仰を固く保たなければならない(テサロニケ第二2:15)。

 

 3章

 御言葉が速やかに宣教され、悪人どもから逃れられるようにパウロ達のためにも祈ってくれるように(テサロニケ第二 3:1~2)命じている。

 パウロの命令を、テサロニケ人々は、現に実行しており、これからも、引き続き実行してくれるであろうことを、望み、信じています。 『どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。』(同3:5)

 これほど神の御旨を行って、迫害に耐え、信仰の王道を、兄弟愛に燃えながら真っ直ぐに、歩んでいたテサロニケの人達にも、一つだけ注意を促したいことがパウロにはあった。パウロはその権利があったのに、信者の献金によって生活するようなことはしなかった。自分の手で、夜も昼も働き続け、額に汗してパンを食べ、勤勉に生活することを通して、テサロニケの人々に、クリスチャンとしての生き方の模範を示してきたのだった。それなのに信者の中に、怠惰に陥り、少しも働こうとはせずに、余計なことを行い、いたずらに動き回っている者がいると言う噂を耳にした。そのような人々に対して、自分で働き汗して得た金銭で、食べ物を買って、勤勉に生活するように厳しく勧告している。『実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。』(同3:10)

 これは穿った見方になるかも知れないが、再臨のイエスが、間もなくおいでになり、この世が終わり、復活させられ、永遠の命が与えられることを信じたテサロニケの人達の中に、現世を軽んじる人々が出てきた為ではないかと私は想像します。

 例えば明日再臨が来て、今の世界が終わると思えば、果たして、この世の肉の糧を得る為の、世の仕事に集中できるだろうか。明日すべてが終わるとすれば、仕事も手につかず、ただただイエスの来臨を、祈って待ち望む方が良いと言う、心情になる人もいたのではないか。これは何もテサロニケの信者の一部の人々に見られた兆候ではなく、現に今信じている私達にも当てはまる生き方の警告ではないかと私は思う。

 21世紀が始まり、既に2024年になった現在、この世の学者ですら、人口問題、食糧問題、地球温暖化、環境問題等が悪化する中で、終末論的学説を主張する方々も出てきた。第6の絶滅期に既に入ったのではないかと言う説を唱える学者もいるくらいである。そんな今の時代にあって、再臨、すなわち世の終わりは確かに近い。2,000年前、パウロが自分の生きている時代に主が再臨なさると考えていた以上に、切迫している。『あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。』(マタイ10:23) 再臨が明日来るとしたら、なかなかこの世の仕事に身が入らなくなるのではないか。

 再臨の現実的な感覚を持ちつつ、私達は、この世の生活を放棄せず、働き、自分の手で得た収入をもって、生活をすることが求められています。勤勉に働きこの世の生活を立派に送り、仕事に励むことが求められているのです。

 『そして、あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位を保ち、まただれの世話にもならずに、生活できるであろう。』(テサロニケ第一 4:11~12口語訳)つまり霊的には、明日キリストが来ても良いように切迫して準備をするが、肉的、この世的には、この世の仕事を立派にこなし、収入を得て、人に頼らず自立して生活しなければならないのです。要するにこの辺の考え方では大人になっていかなければならない。この世も、来たるべき世も、両方の生活を考え、対応していかなければならない。霊的必要と、肉的必要の中でバランスがとれた信仰を持ちなさいと言うことです。

 もちろん比重を考えれば、心の中心はイエスをお迎えする霊的準備に重点を置かなければならないのは、明々白々の真理です。

 これらの勧告を聞かない人があれば、交際をしないで、彼が恥じ入り、自覚するように仕向けるべきですが、敵とは思わず兄弟として接して、警告しなさい(テサロニケ第二 3:15)。

 神は平和の神であり、時々の為政者の意向や、体制に関係なく、基本的に平和が保たれ、私達の信仰が平安のうちに守られていくことを望んでおられます(同3:16)。

 最後に、口述筆記していたパウロが、自筆で以下のように、祈りを込めて書いています。

 『わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように。』(同3:18) 

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