ヨハネによる福音書13章
ヨハネによる福音書13章
ヨハネによる福音書13章の中心は、ヘブル語でפֶּסַח ペサハと言われる過ぎ越しの祭りの前の晩、イエスが弟子達と過ごされた、最後の晩餐です。
出エジプト記12:1~20
レビ記23:5~8
マタイ26:17~30
マルコ14:12~26
ルカ22:7~23
上記の聖書の個所をまず読んでいただきたい。
過ぎ越しの祭りが始まる前日の晩、すなわちニサンの月の14日、紀元31年4月5日木曜日(推定)の晩に、イエスは弟子達と最後の晩餐を共になさった。
レオナルド・ダ・ヴィンチの絵で有名な最後の晩餐は、ユダヤの過ぎ越しの祭りに食べる、特別な食事であった。日本的に言えばその礼儀作法は独特なものです。その原点は、イスラエル民族が奴隷として苦しめられていた、エジプトの国から、逃げ出す前日の晩の夕食です。除酵祭の別名があるようにエジプトからの出立の準備で急いでいて時間が無かった。パンを膨らませている暇はなく、酵母菌抜きで平べったく焼いたクラッカーのような、マッツアと呼ばれるパンを食べ、苦菜(エジプトで奴隷だった時の苦しみを表わす)を食べ、一歳の雄羊を丸ごと焼いて食べた。焼いた羊の肉は小家族の場合、隣の家族と分け合っても良く、但し残りがあった場合は、総て燃やしてしまわなければならなかった。それは必ず焼く料理であって、煮てはならなかった(イエスを象徴する羊の燔祭、焼き尽くす、すなわち全焼の燔祭を表す)。酵母抜きのパンは7日間食べ続けなければならなかった。さらに、ニサンの月の14日 の晩の食事は、食事の際、着物の腰帯を締め、靴を履き、杖を持ち、旅支度のような格好をして、急いで食べるのが習わしであった。またその晩は寝ないで、起きていなければならなかった。
『その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた。それゆえ、イスラエルの人々は代々にわたって、この夜、主のために寝ずの番をするのである。』 (出エジプト12:42)
羊はイエスの犠牲を表わし、それぞれの家の入り口の二本の柱と鴨居に塗られた血はイエスの血を表わしていた(日本の鳥居が赤いのもここから来ているとの俗説もあります)。
その晩、死の天使がエジプトに遣わされ、エジプト人の家では、初子は皆天使に打たれて死んでしまった。家畜の初子も同様に死んでしまった。
『真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれたので、ファラオと家臣、またすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった。』 (同12:29~30)その頃のエジプトの人口、世帯数は知る由もないが、全世帯で一人は死者を出したのであろうから、何十万何百万と言うような数の葬式が行われたことになる。エジプト中が大変な混乱と嘆きに包まれたであろうことは想像に難くない。
ところが、イスラエルの人々の、入り口の柱と鴨居に血が塗ってある家は死の天使が過ぎ越して行った。これはイエスの犠牲のとりなしを象徴しています。現代の私達にもイエスの血を自分達の身代わりの血の代価として信じるならば、罪が赦されて(ああ、それがどんな罪であっても)、滅びから免れることが出来るのです。滅亡から免れ、やがて永遠の命が与えられるのです。今、この儀式を霊的に理解すれば、小羊の血を、自分の心の鴨居に塗るものだけが安全です。それはただ一年に一回、ニサンの月の14日の晩に塗れば良いと言うわけにはいかない。毎日ゝ心の鴨居に、小羊の血(イエスの十字架の血)を塗り続けなければならない。その時、そうしている限り、私達は安全です。
どうして、エジプトの初子は人間も家畜も死ななければならなかったのか。それはイエスが父なる神によって定められ、救われた兄弟姉妹たちの長子(ローマ8:29)となられたからだ。イエスの贖いの死を信じない者、受け入れない者は、象徴として長子が取り去られたのです。とりなしの長子を拒む者は、『王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれた 』家族の中の初子が、象徴として取り去られたのです。エジプト人の嘆きは大きかった、大いなる恐れが彼らの中に起こった。次は自分たち全員が、イスラエルの神の大きな力によって殺されてしまうと彼らは思い、早くエジプトから去ってもらいたいと考えるに至った。
また、その晩焼いて料理した、傷のない一歳の雄の小羊の肉は、食べきれない場合は、焼き尽くす必要があった。それは、犠牲制度の中の、全焼の燔祭を表わしている。イスラエルでは朝、夕、常供の燔祭が捧げられていた。それは必ず焼き尽くさなけければならなかった(出エジプト29:38~42参照)。それはイエスがそのお身体を、全く人類のために捧げられ完全な犠牲となられること、100%救いは御子の身体の犠牲によって罪が贖われることを意味していた。御子の尊い犠牲によって、十字架の完全な救いはなされ、救いは完全に完成されたのです。もう何もそれに付け加えることはない。『「すべてが終った」』(ヨハネ19:30口語訳)のです。
しかし、救いは原理的に完了したと言っても、時間的な経過と歴史的事件の経過は終わったわけではない。まだ人類の歴史は続いているのです。歴史は動いており、未だ、神の裁きも決しておらず、再臨も世の終わりも来ていない。その意味では救いは完成されていない。しかし、原理的に贖いは、十字架上のイエスの犠牲によって完成されたのと言えます。その完成されたイエスの贖罪の業を土台として、後の経過する歴史における諸事件は、着々と神の大時計の針が時を刻む中で、進行して行くのです。
過ぎ越しの食事をする前に、イエスは食事の席から立ちあがり、上着を脱いで、たらいに水を汲んで、腰に手ぬぐいを巻き、弟子たち一人ゝの足を洗い始めた。このときのイエスの心境をヨハネはこう書き記しています。
『さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。』(ヨハネ13:1)イエスは、もう間もなく、本来の、真の犠牲の小羊として、自分自身を過ぎ越しの犠牲として捧げ、父なる神の御許に帰られなければならなかった。もう弟子達と一緒にいることは出来ないのだ。
神の道を悟るのに鈍いフィリポや、疑い深いトマスや、勇気と力に満ちているが、荒削りなペテロや、最愛の弟子ヨハネ達を暗闇が支配するこの世に残して去って行かなければならない。もう彼らの体に触れ、親しく話しかけて、指導することは出来なくなる。『世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。』のだった。
12人、24本もの弟子達の足を洗いながら、イエスはどんな気持ちでおられたのかさらに考えて見よう。神によって創造され、特にこの時代選ばれて天の父よりイエスに与えられた弟子達の足を触り、たらいに汲んだ水でその汚れを洗い落とし、濡れた足を手ぬぐいで拭きながら、親が子を慈しむように、惜別の思いを感じていたのではないだろうか。彼らを世に残していくが彼らは今後信仰を全うし、イエスの志を果たしてくれるだろうか。12弟子一人ゝの将来を、彼らの水に濡れた足を手ぬぐいで拭きながら、イエスは曇りのない聖なる目で見て、彼らの生涯を見通しておられたに違いない。
今から約11年前に父を認知症で亡くしたことを思い出す。平成25年10月26日、認知症専門病院である、八王子でも、かなり辺鄙な、八王子市上川町にある上川病院で父は亡くなった。約3年半この病院で療養生活を送った後のことだった。病院に入院してからは、本人は一度も家に帰りたいとは言わなかったし、私達もせっかく素晴らしい、なかなか入ることが出来ない認知症専門病院に入れたのだから、家に帰ってきて里心が付くのを約恐れて、父が入院してから一度も家に連れてくるようなことはしなかった。思えば残酷なようであるが、振り返ってみれば、入院の為、家の玄関を出た日が、決定的な父とのお別れの日であった。
とは言っても、母は毎週1回、自宅からバスで1時間もかかる上川病院に、父の見舞いに3年半通い通した。私達もできるだけ父を見舞うようには心がけていた。
私が忘れられない思い出は、父が入院する少し前に、最後に一緒に家の風呂に入った時のことである。もう今から10年位前のある一日のひと時の出来事。父は、段々認知症が進み、その頃危なくて一人では風呂も入れないような状況であった。いつもは、母は元気であったので、ほとんど母が一緒に、風呂に入って入浴の介護をしていた。でも、まだその頃は認知症と言っても、自分で自分の体を洗うことくらいはできた父であった。しかし浴槽に入ったり出たりするときは支えないと、倒れてしまうような状態だった。
母がたまたま不在の時に、私がたった一回であったが、父と共に風呂に入った。我が家は二世帯住宅であり、台所も、風呂もトイレもそれぞれに、1階と2階にあり、1階が父母、2階が私達夫婦と生活は完全に別れていた。
1階の風呂に入るのも久しぶりであったが、私は父の背中を洗い場で洗ってやった。その時、父は私の背中も洗ってやろうと言うので、「いいよ自分で洗うから」とのどまで出かかった言葉を飲み込んで、父に自分の背中を洗ってもらった。思えばそれが父との最後の親密な交わりであった。父は愛おしそうに私の背中を丁寧に洗ってくれた。なんだか思い出すと切なくなって今でも涙が滲んでくる。10年以上もたつのに、その時の背中の皮膚感覚は今でも鮮やかによみがえって来る。
イエスが弟子達の足を洗った時、こんな心境ではなかったかと、私は類推します。12人の足を洗いながら、彼らの行く末を思い、やがて、次の日にはお別れしなければならない(実際には復活し、まだ会う機会はあったが)。そして、最後まで彼らを慈しみ、愛し通されたのだった。
食事をする前にイエスはたらいに水を汲み、12弟子のひとりゝの足を洗うと言う不思議な行為をなさった。普通足を洗うのは僕(奴隷)がすることで主人がすることではない。イエスは手ぬぐいを腰に巻き12人の足を洗い、手ぬぐいで濡れた足を拭ったわけです。弟子達もまた、過ぎ越しの晩、自分達の足を洗ってくれた、主の優しい手の感触を、いつまでも覚えていたのではないだろうか。あの晩主は私の足を、やさしく手で洗ってくれた、その感触の記憶は生涯忘れることなく続いたことであろう。
私達も想像の中で、その洗足の場にその場にいて、自分の足をイエスが洗ってくれたと、思ってて見よう。主の手は、どんな感触を持って私達の足に触れたのだろうか。今2,000年前にその場にいることは実際にはできません。でも、キリストに触れ、キリストから触れられると言う、経験を今この時に、個人の信仰生活の中で、日々していることが大事なのではないだろうか。私やあなたは、毎日の平凡な信仰生活の中で、実存的にイエスに触り、関わりを持っているだろうか?キリストは私やあなたにとって、『よく見て、手で触れたもの』になっているだろうか?
『初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――』(ヨハネ第一1:1~2)
足を洗うのは、良く考えて見ると大変な作業である。何せ、人数も多いし、弟子達の足は、当時はサンダル履きで、汚れているので、何回も水を換えなければならなかっただろう。
ペテロのところに来ると、ペテロは師であるイエスが自分の汚れた足などを洗うのは、大変不自然で、畏れ多いことなので、『わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。』(ヨハネ13:8)。そこで、ペテロは『「主よ、足だけでなく、手も頭も。」』(同3:9)洗って下さいと言った。
しかしバプテスマで、一度全身を洗っているので、全身は清いのだから、足だけ洗えば良いのであった。
一度バプテスマを受けて、献身し、全身を洗い清められ、クリスチャン生活をスタートしても、私達はこの穢れた肉の世で生活して行かねばならない。この世の穢れは私達が人生の道を歩いて行くうちに様々な汚れとなって、私達の心の中に入って来ます。罪の汚れが、気が付かないうちに、この世の人々と交わり、生活し、仕事等をして行く中で入って来ます。いつの間にか、信仰のひたむきな純粋さが失われ、世俗に染まって行くのです。時々は足を洗い合って、この世の汚れを落とすことが必要になって来ます。
イエスは小バプテスマと言われる洗足の儀式をお定めになったと解釈できます。主であるイエスが、弟子の足を洗ったからには、私達もまた、その模範に従って足を洗い合うべきです。
『主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。』(ヨハネ13:14~15)
洗足のもう一つの意味はお互いに仕え合うことです。イエスは上に立つ者は、身を低くして仕え合うようにと、身をもって模範をお示しになった。
『僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。』(ヨハネ13:16) 弟子は師以上になることは出来ない。そのことを常にわきまえ知って、『このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。』(同13:17)。
私達は誰もイエスのように完璧に生きることは出来ない。弟子は弟子であって、師以上になることは出来ない。しかし師に出来るだけ近づくことは出来る。不完全であっても、イエスに近づく霊的な努力(結果として肉の訓練も含まれては来る)をしよう。自分の残された短い生涯、たとえ数%しかイエスの模範に習うことが出来なかったとしても、『このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。』の御言葉を胸に刻み、進んで行こう。
しかし皆が清いわけではなかった。弟子達の中にはイスカリオテのユダがいて、彼はイエスを裏切ろうとの考えを持っていた。そのことを思いつかせたのはサタンであった。
さて過ぎ越しの食事が始まった、パンとぶどう酒による簡単な食事だったようだ。パンはイースト菌で膨らませていない、平べったい、固めのパンであった。何故なら過ぎ越しの晩は、翌日出エジプトする準備で忙しく、パンを膨らませる時間はなかったからです。小麦粉をこねて、平らにし、そのまま焼いて食べた。当時はきっと全粒粉を使っていたであろうから、かなり固いパンであったはずです。それを食べ良いように、何かの汁に浸して食べたのであろう。最後の晩餐において、葡萄酒も振る舞われ、盃を回し飲みしたようなイメージがあるが、実際はどうだったのであろうか。私としては、回し飲みは衛生上問題があるので、それぞれの席の前に盃が用意されていた方がベストだと思うのです。
またパン種は罪の象徴でもあった。
『イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。』(マタイ16:6)
『 いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。』(コリント第一5:7~8)
パンはイエスの肉体、葡萄酒はイエスの血を表わしています(コリント第一11:23~29参照)。SDA教会では、このことを記念して、礼拝説教の後、まず洗足式、続いて葡萄ジュースと種入れぬパン(クラッカー状の物)による聖餐式が3ヶ月に1回行われています。キリスト教会各派によって、様々な儀式、様式によって、聖餐式は行われているが、SDA教会では禁酒、禁煙を貫くため葡萄酒は用いません。しかし、最後の晩餐で実際には葡萄酒が使われていたのかも知れない。自分達のドグマを強調するために、歴史上の事実まで歪めようとは私は思はない。しかし、禁酒、禁煙を貫くことは、健康上の大事な意味があります。屁理屈に聞こえてしまうかもしれないが、主イエスも、この時最後の晩餐で葡萄酒を召し上がった後、神の国でで私達と再会するまで、葡萄の実から造られたものを一切飲まないと宣言しています(ルカ22:18参照)。
この間、古き私の友人が、「自分はぶどうジュースを飲むときいつも個人的に聖餐式をしている。自分の罪の贖いの為に十字架で流されたイエスの血を象徴していると思って飲んでいる」と言っておりました。その深い信仰の理解に私は驚いてしまいました。
ユダが裏切ることは最初からイエスはわかっていた。『イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。』(ヨハネ13:26~27)
キリストの肉を表わす、一切れのパンを受け取ると、何とユダの心の中にサタンが侵入してきたと言うから、正反対のことがユダの心に起きてしまった。
私達も聖なるキリストの身体を象徴するパンをいただく時には、謙虚に自分を反省し、そのパンをいただくにふさわしい謙虚な心の状況でなければならない。聖餐をいただく儀式が、却って自分の為にならないことがあることをを暗に、ほのめかしているような事象です。だからふさわし心の状況でないと、却って自分の身の為にならないのです(コリント第一11:27~29参照)。
『ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。』(ヨハネ13:30)。出て行った先は、真っ暗な闇夜であった。これはユダの心の中を象徴している言葉です。ユダの心の中は真っ暗であった。
私達も、罪にそそのかされ、犯そうか犯すまいか迷う時があります。いきなり、まっしぐらに、重大犯罪に走るものではない。心の中には神の与えられた、自然の律法-良心と言うものがあり(神を知らぬ人であっても)、やっぱり、それなりに、悪いことはすべきではない、どうしようか思い悩むものです。思い切ってやってしまおうか、それとも踏みとどまるべきか、迷うものです。そのことを考え、迷いながらいると、ある時点で心が悪の方に傾き、ではヤッテシマエとなります。心の中の、ねたみとか、憎しみとか、貪欲心等も罪は罪です。しかし、行いに現れる実際の現行罪は、法治国家の日本においても軽重はありますが、ハッキリした犯罪です。この心の中で犯す罪と、実際に犯す罪の大小は認識しておかねばなりません。もちろん、どちらも悔い改めなければなりませんが。一方、神の律法は内心の自由をも取り締まります。キリスト教的価値観から言えば、『わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。』(ヨハネ第一3:14)の御言葉が行動の基準です。
たとえばお金を盗んでしまうとか、人を殺めてしまうとか、決定的な行動に出てしまうことが実際の社会生活において、毎日起きています。そこには、人の心を占領してしまう、誘惑者(悪霊)があらゆる環境で働いていることがあることを認めよう。罪に誘うような環境に身をを置かない注意力が必要です。悪の霊の勢力が、心に働きかけ、支配してしまうことがあるからです。諺にもあるではありませんか、「君子危うきに近寄らず」と。
心の中で思うだけに罪はとどめるべきです。現行罪になれば大罪になります。どちらも罪は罪ですから、真剣になって悔い改めなければなりません。御言葉にも心の底から新たにされてとエペソ書にあります。『心の底から新たにされて、』(エペソ4:23)
しかし、心の中で思っているだけの罪と、実際に行ってしまう罪とは、大変な差異があります。実際にやってしまえば、この世的にも刑法と言う大きなペナルティーが待っています。ただ、この世の法律は内心の自由と言って、心の中の罪を取り締まることはできません。
どのようにしたらこのような誘惑に勝つことが出来るだろうか。私達の心の背後で、蠢いているのは、サタンを始めとする悪の諸霊なのです。ですから、人間はなかなか自己の力でそれらの誘惑に打ち勝ち、正しい道を選択ことが出来ない。悪のボーダーラインのギリギリのところで、逡巡していると、得体の知れない暗黒の力が自分の心の中に侵入してきて、肉的な方向に強引に傾けさせてしまうのです。結局、御霊を求め、聖霊の感化の内に、いつもキリストの教えを心に宿し、祈りの内に、あらゆる種類の誘惑が自分の心の中に起きてこないように、天来の力を求め、祈り続けながら、聖霊に満たされて行く以外に誘惑に抵抗することは出来ないと私は思う。
未信者で、意志の強い人はこう考えるかも知れない。「そんなことはない。自分を律して、何が何でも外に表れるような罪は犯さないと言う強力な自己意志を持てば、必ず教育や自己鍛錬のお陰で勝利できる。」確かにそんな人も稀にはいるかも知れない。それらの訓練は、罪からの防壁として多少は役に立つかも知れない。『からだの訓練は少しは益するところがある』(テモテ第一4:8口語訳)。
しかし、私の経験から言えるが、人間性の堕落はそんなに甘いものではない。キリストの福音によって、新生し、全く変えられなければ、私達は誘惑に陥りやすく、すぐ奈落の底まで落ちて行く可能性を誰でも持っているのです。義の道を、イエスと言う導き手なしに、真っ直ぐに突き進むのはとても困難なことです。本質的に人間性は、安易な道、楽な方を選び、肉的な喜びに弱く、堕落しやすいのです。心の奥底にいつもイエスの贖罪の深い満たしと、さらに再創造における聖霊による愛の力をいただくことによって、誘惑を退けることが出来るのです。
私は身近で起きたある悲劇を知っている。私が小さい頃、私の親戚の中で本当にあった話だ。ある男性(母の親戚筋にあたり、しかもその方自身は養子で、血の繋がりはない)が若気の至りで、ある女性と同棲していたが、その相手の女性が農協に勤めており、公金に手を出して、それがバレて、自殺してしまったのです。男性を養うために、お金に手を出したのか、そんな細かいことは、当時小学生だった私に分かる訳もない。男性が悪いのか、悪いことをした女性が悪いのか、60年以上前のことであり、時効と言えば時効です。しかし同棲していた女性が自殺してしまった事実は消しようもない。平凡で平穏な生活を、変わらぬ日常の中で送っているようであっても、けっこう私達の身近で、様々な悲劇が起きているのです。突然、いつ災厄が降りかかるか分からないのです。私達は、神の守りがなかったら、大変壊れやすい、脆い存在であることを認識しよう 。
さて『今や、人の子は栄光を受けた。』とイエスはユダが闇夜に出て行った時宣言した。ユダが裏切りの決心をして、外へ出て行った時、十字架にかかることが決定し、人の子は、既に栄光を受けたと言える。『さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。』(ヨハネ13:31~32) ユダが裏切りのために外へ出て行った時、人の子は栄光を受け、神もイエスによって栄光を受けた。また、神は人の子にすぐ栄光を授けてくれる。
神にとっての時間は、総て既に完了していると言う見方が出来ます。事件が起きる前から神は結果はご存知で、すべての事はその時点で完了していると考えることが出来ます。十字架にかかる前から、予見され、その復活、又昇天に至るまで御計画の中にあった。ここに神の時間と私達の時間との相違があります。神の眼から見ればユダが裏切りのため出て行った時に、既に決定的なことはなされ、人の子は結果として十字架の贖罪を成し遂げたと言う栄光を受けたのであり、神もまた十字架、復活、その後の昇天を通して、人の子に栄光をすぐにでもお与えになるのです。
『「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。』(ヨハネ13:33)。 あなたがたは私の行くところ(父の御元)に今は行くことが出来ないが、後で来ることになる。
すると、ペテロは、キリストがどこに行こうと、ついて行こうと固く思っていたので、今イエスのもとに従ってまいります。命など欲しいと思ってはいません、あなたが死ねと言うなら死ぬ覚悟ですと信仰の表明をした。ペテロは本気でそう思っていたに違いない。しかしイエスはペテロの弱さをご存知であった。鶏が鳴く前に、3度イエスを知らないと、否定するだろうと預言なさった(ヨハネ13:38参照)。
ああ人間の肉の決心の何と危ういことであろう。肉の人間は霊の道を選び取るのに、肉の力で決断し、選び取ろうとする。しかしそれは、愚かにも長続きしない。そんな、自負心から出た自信過剰な、自己満足的な決断は、如何にその時点では正直で嘘がなく、本当に心からイエスに従って行く決心であったとしても、長続きしないのです。それは肉の生まれ変わっていない自己の決心で、誘惑が来れば、すぐひっくり返ってしまう決心なのです。
バプテスマを受けて、これからはイエスに従い、清い生活をしようとして決心しても、私達はその後の信仰生涯において、何度も失敗し、ひっくり返って来たではありませんか。その都度イエスの十字架の贖罪のもとに帰っては、立ち直らせていただいた私達なのです。
肉にある、肉の世の自分の決心は、やがて、多くの試練を経て、霊の決心に変わって行かなければならない。ではどうしたら良いのであろう。どうしたら肉の自己意志による決心が、霊による決心に変わって行くだろう。それはキリストに深く結びつくこと以外には考えられない。
コロサイ人への手紙にその秘訣が書いてあります。
『あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。』 (コロサイ2:6~7)
『肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。』 (同2:18~19)
私達はキリストを受け入れ、その贖いの犠牲によって、御前にどのような罪でも赦され、信仰によって義とされ、父なる神の前に、一度も罪を犯したことのない者、聖なる、汚れのない者として、立たしていただいているのです。だから、キリストに固く結ばれて歩みなさい。これからは、常に十字架の影に立ちながら、上よりの復活の御霊を下してくださるように切に懇願して歩みましょう。聖霊の内住とその支配に身を委ねつつ、キリストに固く結び付き、キリストと共に歩み、思うこと、為すこと、話すこと、一切をキリストの名によってやって行きましょう。
『そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。』(コロサイ 3:17)