ホームページ等からの重要事項ピックアップ Ⅰ
Ⅰ. これまで書いて来たホームページ等の中から、信仰にとって重要だと思われる部分をピックアップして掲載しておきます。前後の脈絡なく取り上げるので、理解できないところもあるでしょうが、敢えて自分の頭の整理のためにします。冒頭に整理のため番号をつけ、短い表題を付けておきました。元の文章は( )の中のホームページに記載されています。
①信じることが具現して行く法則(ヨハネによる福音書4章解説下段より)
神の奇跡、大いなる業、それが心の内側に起こる内的なものであろうと、実際に起こって来る、病の癒しを含めた、様々な事象であろうと、それらをもたらすメカニズムは一体どんなものであろうか?
信仰によって何かが起きて来る。それは、人間の頭の中で始まった、祈りの強い思念が、外に迸り出て、何らかの対象を具象化して行くのではないか。賜物としての聖霊の力が、イエスを通して、信仰のリアルさを求める人のうちに降り、その人の心の内にあって活性化される。
信仰のもたらすエネルギーが、毎日を生きる中で、いつの間にか実態となって、この世界に影響を与えて行くようになる。この原理は、イエスが話された、からし種の喩えの信仰の原理と、同じであろうと自分勝手に考え始めた。
『使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。』(ルカ17:5~6)
『イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」』(マタイ17:20)
これはイエスの誇張表現であって実際こんな現象が起きたことは、見た人もいないし、聞いたこともない。からし種は当時、最も小さい種だと考えられていた。そのような小さな信仰でも、本当に信じれば、大きな山も動き出して別の場所に移り、桑の木が抜け出して海に根を下ろしてしまうほどのことが起きるとの比喩であろう。さてここからどんな原則が読み取れるだろうか。
からし種一粒の信仰が、山をも動かして行く原則は、信仰の一般原則と言って良い。心の中で、信じ切ることは、神の無限のエネルギーに結び付くことを容易にする。そのことは、ある種の精神的解放をもたらす。
それは恵の霊による肉の古き自己からの解放です。律法に対して肉の自分が死に、罪にも死に、自己にも死に、あらゆる呪縛、複雑な人間世界の価値観から解放され、何か新しいことが、始まって来ることなのです。新しいエネルギー、イエスの復活の命の力が、自分の衰えた、弱い心と身体の中に、湧き出て来ます。
『わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている"霊"について言われた』 (ヨハネ7:38~39)と書かれている何かが起こって来るのです。
イエスの贖い、十字架の死、私達の罪を拭い去ってくれる血潮を信じ受け入れること。自分の罪の身代わり、贖罪の値としてイエスの十字架を受け入れ信じること自体が心の中で起こる聖霊による奇跡です。イエスを信じることそのものが神の業です。『イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。』 (ヨハネ6:29)イエスを神が遣わされた救い主として信じることが出来たら、それは神の業であり、信仰の基本的、根本的立ち位置です。そこから信仰が始まり、やがて御霊によって助けられ成長し、キリストに倣い、キリストに似たものになるように導かれて行くのです。
しかしイエスを救い主と信じているとは言っても、現実には、実際的な日常の生活や、ある場合には目的を持った行動において、落ち込んだり、失敗したりするのが人間です。この世を生きて行く過程で、突然の困難と障害に遭遇し、深刻な状況に陥ったりする自分達です。信仰者とは言え、人生の先が見えずに、途方に暮れることもあります。私自身がこの世において先の見えない状況に置かれたことは何度もあります。男性にとっては仕事の行き詰まりは人生の先が見えなくなる大きな要素でしょう。他にも経済的問題、体調の悪さや、病気や、対人関係の悩み等、様々な困難があります。
しかし、善いことも、悪いことも、普通のことも、すべての生活における事象と行動の中で、神は聖霊を通して、私達に臨在しておられるのです。万事を支配し益としてくださいます。そして、神を真剣に、自分の側でも精神を集中して、祈りのうちに求め続けて行くと、いつもではないが、 ある瞬間に、神の存在にハッキリと触れることが出来ます。それが、からし種一粒の信仰です。不可能を可能にする信仰が起動するダイナミックな原理は同じなのです。
聖霊に満たされ、父なる神と御子イエスに、親しく祈りのうちに、交わること。イエスの尊い御名により頼み、一生懸命に神のリアルさを求めて行くならば、神はその存在を顕わし、奇跡の業が、実際に、私達の心と体、取り巻く環境に起きて来ます。個人の精神的な変革が、他人の心や、環境、あらゆるものに結果として作用して来るのです。そのことは、地上的な距離に左右されません。物理学的に言えば、量子もつれ的な事が起こるのです。そのようなことを実存的体験として、これからも持てるように祈りの内に、励んで行きたいと思っています。
②律法を生まれつきの肉の努力や力で守れると思っていたらそれは大きな過ちである(ヨハネによる福音書5章解説 中段より)
十戒は、人類が守らなければならない、普遍の道徳律であり、これは変更することが出来ないと言うのが、SDAの立場です。もちろんこの本筋は認めつつも、私には大いに異論があります。
生まれつきの自己意志や、その後の教育や、自分の能力、人間が獲得した自己鍛錬で、十戒の文字面に拘り、それを日常生活の中で実行しようとしている人達が余りにも多いことが気になります。信仰に伴うあらゆる行動を、安息日遵守も含め、人間的な肉の努力によっているSDA信徒が多い。
実は私自身が若い頃そうだったので、そのことは痛いほど分かっているのです。
まず、私のホームページ、パウロ書簡の研究、ローマ書8章を参照してください。https://paurosyokann.webnode.jp(リンク有)、右上端≡印メニューから中頃までスクロール、ローマをクリックし8章を開けていただくと読めます。
そこで記述したように、パウロは律法を否定しているのではない。むしろ律法を人間の生まれつきの肉の力で実行しようとする愚かさを指摘している。このことをパウロは律法の下にいると言う表現で表わしている。肉の努力のみで、律法を守ることに汲々としている、救いの喜びのない人間の状態を、律法の下にいると言っているのです。もしSDAの教えがこのような人間を作り出すとすれば、これは大変なことで、もう一度福音の原点に戻って、SDA 信徒は自分の信仰のとらえ方を、真剣に反省しなければならない。自分は肉の努力で神を喜ばせようとしているのでしょうか、それとも恵みの内に、キリストの霊のもとにとどまって、霊によって生きようとしているのでしょうか。
パウロは律法を守るとか守らないとか言う前に、まず自分の生まれ変わっていない肉の総てを十字架で、キリストの肉と共に、処断してしまいなさいと言っています。(既に処断されていることを悟ると言う方が正確)
『従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。』 (ローマ8:1~4)
どうして私達の肉の性質そのものが、キリストの裂かれた、聖なる肉体と共に、十字架上で共に破壊され、既に処断されてしまうことになるのかは分からない。また同時に復活の命に与かり、既に新しい命に生きるようになっているのか、どうして、そのようなことになるのかは、信仰の神秘と言って説明するしかない(聖霊が目には見えないが上から降り、それらのことをなして下さる)。神の御言葉がそのようになったことを宣告し、私達はそのことを信仰によってしっかりとつかみ取り、既にあるこのような命の法則の中に自分を委ねることです。これは霊の法則であるからそのように信じて行くとき、そのようになって行くと言うことしかできない。
神に生きるため、自分の肉は、律法(十戒)に対しては、律法によって死んでしまった。『わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。』(ガラテヤ2:19)
もし、生まれ変わっていない肉の努力のみで、律法を守って救われるのだったら、キリストの十字架は、必要なくなる。『わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。』 (ガラテヤ2:21)
霊によって、生きる決心をしよう、律法で(あるいは自分で決めた何らかの自己規制的な規則で)縛られている、自分に気付き、『しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、"霊"に従う新しい生き方で仕え』(ローマ7:6)て行きましょう。
キリスト者の自由を持って、御霊によって歩もう。『キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。』(ガラテヤ5:24~25)
肉の努力的なものを全部一度十字架に付けてしまおう。律法の要求は、あまりにも完全であり、それは神の御品性を私達に求めているものであり、私達の肉を死なせてしまうしか方法はないのです。私達は律法から解放されています、もう私達を縛り付けている、この鉄のような鎖から、縄目が解き放たれて解放されているのです。
それは何故ですか、律法は神のご性質なので死ぬことは出来ません。ですから、私達の肉が律法の前で死んでしまうしかありません。むしろ私が死なせたのではなく、キリストがご自分の肉を破壊することによって、(既に)私達の肉も共に十字架につけられて処断され、私達を死なせてしまったからです。そして既にキリストと共に霊的に復活されたことにされているのです。肉の努力や訓練で自己を死なせることは甚だしい誤解です。『この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。』(ガラテヤ5:1)
何度も書いてきたが、聖書の教えの目的は、神と人に対する愛の実行です。究極的に突き詰めれば、神と人のために自分の時間を削り、時には命までも捨てる覚悟で生きて行きなさい、と言うことです。
誤解してはいけないのはこのようなことを肉の生まれ変わらない努力でしなさいと言うのではない。人間は皆自分のことしか考えていない利己的な存在なのです。神が働きかけて善い思いを与え、力を与えて下されなければ、自分の内に、肉の中には善なる力はない。
自分の生まれつきの肉とは何か、それはキリストによって変えられていない自分自身です。自己を防衛し、自分だけは良い思いをしたい、他の人を押しのけても生き残りたいと言う本能です。
ただ御霊によって、天からキリストの霊を祈りのうちにいただき、キリストと一体となり、常に心の中に霊のキリストをお宿ししながら、生きなさいと言うこと。キリストと一体となるしか、そのような生き方は出来ません。
律法の文字面を誤解したり、曲解したりして解釈し、人を裁かないないようにしよう。霊によって生きるとは、律法の下ではなく恵みの下にいることです。すなわちキリストの内に生きること、復活なさり、聖霊によって私達の心の中にリアルに生きておられるキリストの下に、生き続けることです。
田中清二は神に対して真摯に生きて行きたいのです。52年前にバプテスマを受け、私の霊は常に、神に対して生きたいと思ってきました。しかし私の肉がそれを妨げてきたのです。神に対して生きるため律法に対しては律法に死ぬしかないのです。霊の支配の下に肉をコントロールして生きて行く以外に方法はないのです。
律法を自分の生まれつきの、肉の力で守ろうとすることなどできないのです、そのことをまず認めましょう。『律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。』(ガラテヤ5:4)
アダムが罪を犯して以来、罪の性質は、生まれながらに、全人類に遺伝しており、私達は『生まれながらの怒りの子』(エペソ2:3口語訳)であり、律法に対しては、自分の肉を死なせてしまうしかありません。命をもたらすべき神の律法が、残念ながら私達の肉があまりにも弱いために死をもたらすことになるのです。『そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。』 (ローマ7:10)
ではパウロは律法は消滅したから、守る必要はないと言っているのでしょうか。実はそうではないのです。ここに、パウロのパラドックスがあるのです。聖書はよく読まなければ、誤解してしまいます。霊的に新生され、御霊に満たされたクリスチャンは、むしろキリストの律法の中にいるのです。『律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。』 (コリント第一9:21口語訳)
エペソ書にパウロの律法解釈が改めて記載されています(エペソ4:25~6:9参照)を是非一度読んで下さい。これがパウロの霊的な意味での5条~10条までの解釈であることが分かります。敢えてそのことが悟られないようにでしょうか、順序は見事にバラバラにされていますが。
その一連の記述の中で『「父と母を敬いなさい」』(エペソ6:2)と言う十戒の5条 が明確に引用されています。この言葉が引用されていると言うことは、エペソの4:25~6:9まで解説をしている時に、パウロの頭の中に十戒があったことは明らかです。人に対する第5条の戒めがあると言うことは、当然第6条から10条も生きていることになります。
さらにヘブル書の中に救いの安息、キリストの十字架の贖いによって罪を赦された者は、魂の安息に入っており、真の安息、救いの平安を得ることが出来る。そのような魂の救いの安息を持って真の意味で安息日を守ろうと勧められている。『こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息(救いの安息)にはいった者は、神がみわざをやめて休まれた(創造の記念日)ように、自分もわざを休んだからである。』 (ヘブル4:9~10口語訳)。新約聖書のここに、十戒の第4条が記されていると言うことは、神に対する義務を定めた1条~3条も含めて、生きていることになります。
③ユダヤの興味深い祭り(ヨハネによる福音書7章解説上段より)
ユダヤの仮庵の祭りが近づいた。正月元旦はユダヤ歴では7月1日。それから10日後、7月10日にヨム・キプール大贖罪日がくる。次に迎えるのが一年の初め、7月15日~7月21日の7日間行われる仮庵の祭り(出エジプトをしてから、40年の間荒野を彷徨った先祖の苦労をしのび仮小屋に住む)です。秋の収穫を祝う意味もあります。仮庵の祭り翌日の7月22日には律法歓喜祭(シムハット・トーラー)が盛大に行われます。一年間にわたってトーラー(モーセの五書)を毎週少しずつ読んでいき、朗読し終えた喜びと感謝を表す。この日は、申命記の最後の部分と創世記の最初の部分を同時に読みます。人々はトーラーの巻物の周りを、歓喜しながら踊り明かします。
さて、そのユダヤ三大祭り(ぺサハ過ぎ越しの祭り、シャブオット7週の祭り、スコット仮庵の祭り)の一つである大事な仮庵の祭りに、イエスの兄弟たちは、イエスと共に行こうとしていたのです。ところがイエスは兄弟達と共に仮庵の祭りに行こうとはなさらなかった。
神の時について
神の時を待ちながら、ただ淡々と日々の日課をこなしていくのも、良いことだ。その時が来るまで、己の成長と、魂を神の言葉で養う日々を送りながら、それなりに日課をこなして行くのも意義のあることです。
モーセは80歳になって、神の召命の言葉を燃える芝の間に聞くまで(出エジプト3:2~4参照)、羊飼いをしながら、いったい何を考えていたのであろうか。モーセは若い時、自分の肉の力で、殺人まで犯して、イスラエル人々を救おうとしたが果たせなかった。ミディアンの地まで逃げ、チッポラと結婚し家庭を持ち、子供まで授かった。「私はこのまま羊飼いとして一生をを終わるのだろうか。もう自分は80歳の老人となった。」こんなふうにモーセは心の中で、独白していたのではないか、もちろんこれは私の想像です。
日々の日課は私達の大望をも、いつしかしぼまさせてしまうほどの、重い年輪になって、私達をつぶしてしまうことになるのだろうか。日々過ぎ去る時は速く、諺にあるように、光陰矢の如く過ぎ去って行く。
歳をとっても、その中で神の時を知り、神の宣教の業に参加させてもらえる方々もいる。私の価値観から言えば、羨ましい限りです。
私と同じ年齢で、古き友人に、教派は異にすることとなったが、家族ごと、神の働きのために総てを時間を、インターネットを介した宣教活動に捧げているY先生がいる。どんな立場であろうとイエスが宣べ伝えられているのだから、私はそれを応援する。(ピリピ1:18参照)
しかし、今のこの私に、いったい何の神の業が出来ようか。ふと考えてしまう。ああ神の時を知り、その時に適って、神に献身し行動出来たら、それはどんなに幸せなことだろう。若い頃、そのような神の用意して下さった時があったのに、そのことに気が付かず、神と人の為に、自分の命と、それを構成する時間を削ることが出来なかった。やたら肉の努力で、表面的な律法の文字面に拘泥し、真の自己犠牲も愛もなかったので、36歳頃であったが、ひいては自分の人生すら、危うくしてしまうほどの危機にみまわれた私です。
神の時を生かすことが出来なかった。私の牧師時代の宣教、牧会も含めて、失敗だらけ、悔いが残ることばかりであった。神の時を知らなかった私が、神の時を有効に使うことは出来なかったのです。しかし、今、そのような経験の中で、何か少しでも、過ぎ去った、救霊に本来費やすべきだった過去の時を取り戻せるのではないかと思い、この世、正にこの世そのものの中で、28年9ヶ月を費やしてしまった郵便局長としての仕事を終え、定年後、自分の自由になった時間のうち、僅かではあるが、神にお返ししようと、聖書研究を始めた。
過去をどんなに悔やんでも、赦されることはあっても、取り戻すこと、もう一回その場所に行ってやり直すことは出来ない。タイムマシンは空想の世界でしかない。ですから今と言うこの時間を、これから神の時にして行く以外にないではないか。
私の郵便局長時代は、神に祈ることを忘れたわけではなかったが、ともすれば、この世の仕事に首まで、どっぷりつかり、肉の栄達まで望むようになり、局長会の理事をやったり、連絡会の部会長をやったり、心ならずも、虚飾と、宴楽と、嘘方便の世界に身を沈めてしまった。神に赦しを乞いながら、祈りながらではあるが、自分に与えられた、体力、能力をフルに働かせざるを得なかった。この世で、この世の肉の仕事、それもある程度の責任ある仕事を、立派にやり遂げると言うことは、自慢するわけではないが、全力で取り組まなければならない時もあった。生活の資を得るためには、大変な努力が必要なのです。
この世が求める、仕事と言う名の怪物に立ち向かい、神の戒めにかなわないことをかなりの数でこなしながら、後で悔い改めるような悪循環に陥り、心を病むギリギリのところまで、追い込まれる時もあった。
しかし、愛の神は、そんな泥沼の中で藻掻いていた私を見捨てず、お支え下さった。この世的に見れば、成功した郵便局長時代と言えるかもしれないが、実際は霊的には低迷した状態が続き、かろうじて毎週土曜日に教会に出ることによって(休んだりすることも多かったが)、自分の信仰の維持ができたのだと思う。もちろん自分自身の信仰の戦いの裏では、その時は霊の眼がぼやけていて、余りはっきり見えなかったけれども、神の愛の御手が、その時々にかなって働いていたのは間違いがない。約28年9ヶ月勤めてしまった局長時代に、それなりに楽しいことはあったが、信仰の標準から見れば、まことに危うい限りの生活を送っていたのであった。今から考えれば、この世にあって、危うく永遠の命を、失うところだったのかも知れない。
退職後、誠に自分勝手な、聖書の自己流解釈を始めて8年半たった。でもそのことを少しでも誇るようなことは出来ない。聖書研究のほとんどの動機は、自分の霊性を保つためだったようにも思われる。しかし、自分が今していることが、少しでも宣教に役立たないかと思い、ホームページを立ち上げ、書き終わったものから少しづつ掲載するようになった。
この意味不明と思われる、戯言の如く聞こえるかも知れないこの文章を、厭きずに読んで、神の存在を少しでも知り、心に訴えかける聖霊の声に耳を傾け、各自の神の時を知るようになって欲しい。こんな思いで聖書の自己流解説を書き続けているのです。
④『わたしのために命を失う者は、それを救う』(ルカ9:24)を座右の銘にしよう。(ヨハネ12章自己流解説 中段より)
命を構成する、時間や、労力や、自分の趣味や、財産や、生活空間ですら、神と人の為に差し出しなさいと言うことを意味する。もちろんそれは、無駄になることではない。永遠の命をキリストからいただくためであって、たとえ死ぬことになっても、決して無駄死にしろと言うことではない。むしろそのような生き方をする者を『わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」』(ヨハネ12:26) 『あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。 』(黙示録3:10)とある。神は特に神を愛するその人を守り、大切に取り扱って下さる。神の愛は総ての人に平等に注がれてはいるが、主に従い、主が実行したような、自己犠牲の生き方をする者を、神は特に守り、大事にして下さると言うお約束です。
『自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。』(ルカ9:24)この言葉の通り生きれば間違いがない。この言葉を私の座右の銘にしよう。
そかし、このような生き方をして行くと、この世では生きて行けないのではないか?本当に大丈夫なのだろうかと言う、誰でも感じるであろう一抹の不安があります。
『わたしのために命を失う者は、それを救うのである。』神と人の為、命を捨てるような生き方をすれば、却ってそれによって命を得ることになる、と言うイエスのお約束に信頼しよう。
この原則に生きて行く者には特別な神の守りがあるはずです。これは私の信仰です。人を愛し、神を愛する愛の原則に生きること。聖書を追求していくと、中途半端は許されない。神と人の為、自分の命を捨てる覚悟で取り組まねばならない。もちろん自分の力ではなく、ただただ御霊に委ねながら、上からの聖霊の愛の力を求めつつではあるが。
ここは十字架の信仰と共に、復活の信仰が必要なのです。自己に死んで、同時に新しい命に復活することが出来る。否、既にキリストと一体になり、キリストと共に十字架につけられて古い自己は死に、新しい命の中にキリストと共に霊的に復活してしまっているのです。キリストはそのことを既に御自身の身をもって実現しておられ、私達はそのキリストの為された業を、キリストと一体となって、追体験して行くだけです。
もちろん、こうは言うものの以下のことは考慮に入れておかねばならない。無償の愛と、自己犠牲の生き方をすることは、無防備な羊を、狼の群れの中に投げ込むような無謀なことかも知れない。お人好しは、たちまち悪人の餌食にされ、身ぐるみ剝がされれてしまう危険性もある。そのようなことを避けるには、祈りによって、清められた処世術のような、知恵も必要になって来る。「人を見たら泥棒と思え」と昔から諺に言うではないか。
私達はもはや信仰において幼子ではないので、あらゆる面で円熟した大人の考えを持つべきです。現在の社会は2,000年前の昔と違い、科学やテクノロジーは発達し、かなり複雑なのです。さらに昔より人の心が悪くなり、堕落の度合いは遥かに深く、大きくなっている。IT技術は発達し、生成AI、PC、スマホや、SNS、それらを悪用した詐欺や盗みなど、巧妙さは増すばかりです。
私が言いたいのは、まわりの環境が怖くて、信用できない人ばかりなので、善行が出来ないと言うことではない。世の中善い人ばかりではなくて、人を騙したり、傷つけたりすることに喜びを感じ、不正な手段でお金を得ているような悪い輩も多くいるので、上よりの神の守りと、同時に人間の知恵も、良い意味で働かせる必要があります。
神の特別な守りはあるものの、あらゆることに注意しよう。実際の生活には様々な一筋縄では行かないようなことも起きて来ます。詐欺師に騙されたことも、私は牧師時代、局長時代にも何度か経験しています。また何人かの詐欺師は私が経験したことより、もっと多くて深刻な被害を教会や、ある時は学校組織まで及ぼしました。彼らはキリストを信じたふりをし、堂々と人前で祈りを捧げることすらするのです。学歴詐称や経歴詐称など、彼らにとってはお手のものです。ああ恐ろしい世の中です。
⑤十字架は神の栄光が表わされる時、この世の支配者(サタン)が追放される時(ヨハネによる福音書12章自己流解説下段より)
天の父は、その御言葉を地上に下し、栄光を表わされた。『再び栄光を現』す時が迫っていた。イエスを苦しめることは父の御旨であった。十字架こそ、父が御心によって、その怒りを御子に下し、愛の御顔すら御子から隠される時であった。
父なる神との隔絶、交わりが絶たれると言う最大の苦悶を御子が人類の代わりになって受けること、それが父が栄光を表わす時であった。そのことが贖罪の完成には必要であった。御子は人類の替わりに、滅び(第二の死)を経験しなけらばならなかった。
『今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。』 (ヨハネ12:31)
十字架は神の栄光が表わされる時、この世の支配者(サタン)が追放される時です。何故十字架はこの世が裁かれる時なのであろうか。
イエスはこの世のすべての罪と咎を十字架で負われた。イエスを死に至らせ、第二の死である滅びの死を、経験させることは神の御旨であった。この世の裁きのすべてはイエスの上に下されたのです。
イエスによってこの世の裁きは決定され、実行された。そして、すべての罪の結果はイエスの上に置かれた。イエスの死によって、この世の持つ神に裁かれる性質の正体が明らかになった。御子を葬り去るような結果をもたらすこの世は、その裁きとしての滅びが決定的になったのです。いつか終末が来て、神はこの世を滅ぼされます。その時、すべてのものは一度火で焼かれ、地球そのものが清められるのです。その時神は何と残酷な方なのかと批判されそうですが、罪とその結果の死が、如何に忌むべき残虐なものかを、イエスの十字架の死が物語ってくれています。このような肉の罪性がもたらす悲劇を、歴史上のどこかで清算し終わらせて、新世界を築くことは、愛の神が造られた、全き善き世界を回復するための過程なのです。
何故十字架はこの世の支配者(サタン)が追放される時なのであろうか。それは私達の身体を造っている肉と肉の性質を深く考えなければならない。この私達の命を構成する肉体とは何なのだろうか?悪なのか、それとも善なのか?肉とその欲望とはいったい何なのであろう。金銭欲、権勢欲、貪欲、美食、大食、虚栄心、嫉妬心、物欲、持ち物の誇り、名誉欲、情欲等様々な肉の欲望はどこから来るのだろう。
人間は肉体がなければ生きていけない、魂や霊だけでは存在できない。本来肉体は土から造られた。ヘブル語でアダマーは土を意味します。アダマーから造られたからアダムです。神が造られたものに悪いものは一つもなく、すべては善なるものです。創造の視点から見れば肉体は本来善なるものです。良いものが、堕罪によって、性質が変化してしまった。楽園から追放され、良いものが罪の誘惑にさらされる入り口になって行った。善悪を知る木の実を食べることによって、肉体は誘惑の入り口になって行ったのです。食欲、情欲、目から入って来る形の良い物の虜になる性癖が始まって来たのです。本来様々な欲はコントロールされている限り良いものです。食欲がなければ拒食症になるし、性欲が無ければ、人類が滅びます。ただそれが、神の道徳律から外れ、乱用され、行き過ぎると、罪の根源になって来ます。肉の欲が神の定めた正しい規則、律法に従ってコントロールされないため、肉と目の欲のままに、人は罪を犯すようになって行くのです。
肉体だけでなく、精神も堕落していることも注意しよう。人間の精神は善かと言えばそうでもない。精神は善なるものを求める傾向はあります。しかし、精神がもたらすものが、すべて善いものとは限らない。犯罪に誘うような知識欲、名誉欲、権勢欲、嫉妬心、貪欲等精神そのものも堕落したと言えます。知性も悪の知識を得る方向に傾いて行き、神の存在すら否定するようになったのです。進化論と言うまだ証明されていない理論によって、知性は神を否定する強力な論拠を得たと言えるだろう。私も青春時代には、進化論を正しい理論であると信じていた者です。その大きな知的ロジックは若いときには中々神を信じることが出来ないほどの、障壁となって、私の前に立ちはだかっていたのです。
トータルに、肉体と知・情・意を含めた精神も堕落したのです。体は堕落し罪への入り口になって来たのです。
イエスは何故、人間の罪深い遺伝の影響を受けた肉体をとって、処女マリアから生まれてきたのであろう。
『肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。』(ローマ8:3~4)
それはイエス御自身が人間となられ、罪深い遺伝的弱さを持った肉の様をとられ、肉にあって罪を破壊し、処断するためであった。イエスが肉体を十字架につけられた時、信仰の眼で捉えれば、根源的に、あるいは原理、原則として、イエスと一体となって、私達の肉体もイエスと共に十字架につけられたのです。何故そうなるのか。それはそのように聖書が主張しているからです。
『わたしは、キリストと共に十字架につけられています。』(ガラテヤ2:19)
『キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。』(同5:24)
『この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。
』(同6:14)
サタンはを人間の肉体を強力な誘惑の入口とした。だから、キリストは宣教を始めるにあたって、荒野で40日40夜断食をなさり、肉体の限界に臨まれたのです。サタンは人間の肉の性質の中に宿り、肉体を自分が宿る依り代、よりどころとしたのです。イエスが十字架で肉体を破壊された時、もはやサタンは自分の宿る場所、依り代を失ったのです(十字架釣り針説)。
モーセが青銅の蛇を竿に高く掲げてそれを仰ぎ見るようにイスラエルの人々に示した時、青銅の蛇を仰ぎ見た人は、身体から毒蛇の毒は去り、命が救われた(ヨハネ3:14、民数記21:9参照)。どう考えても蛇はサタンの象徴です。
何故イエスの十字架を象徴するこの故事が、蛇であらわされたのか。それは罪と罪の宿るところは堕落した肉であり、著しく肉体を介して、誘惑の力を発揮してきたからです。人間の肉の弱さと言う紛れもない事実があるからです。
私達の肉体は弱い。物欲、嫉妬心、名誉欲、金銭欲、不自然な情欲、異常な食欲、飲酒癖、ゲームにのめり込み、パチンコ、スロット、競馬、競輪、競艇等賭け事に溺れ、罪の誘惑に陥りやすい弱さを肉の根底にもっている。イエスはご自身の肉体を、十字架につけることによって、人類の代表として、罪を罪として処断したのです。そして私達もその弱い、誘惑に陥りやすいこの肉体の欲が、イエスと一体となり、信仰によって十字架に共につけられ、既に死んでしまったことを霊的に悟るべきです。
信仰の眼をもって見れば、全人類は第一のアダムにあって、アダムの腰の中にあって(ヘブル7:9~10、創世記14:18~20参照)アダムと一緒に罪を犯した者とされ、その結果、アダムと同じ様な罪を犯さなかった人にすら、死は支配するようになったのです(ローマ5:14参照)。
しかし、この罪の性質を受け継ぎ、死に定められた人間が、第二のアダムであるイエスによって、劇的な救いの原理の中に希望を見出すことが出来るようになった。今度は、復活したイエスに一体化することによって、第二のアダム(イエス)による恩恵と特権が、総て私達に注がれる。イエスが復活したとき、信仰の眼をもって見るならば、私達も霊的に新しい命に復活し、義の支配が始まったのです。イエスの復活の力によって支配され、永遠の命に、恵みと義に満たされながら、力をもって生きることが出来るようになったのです。『一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。』 (ローマ5:17)私達の遺伝的な肉の弱さをも含めて、イエスの十字架の肉の死で、私達の様々な肉欲も、既に共に滅ぼされ、既に破壊され、既に処断されたと、信仰によって捉えるべきです。ゆえにサタンは追放されたのです。十字架は実はサタンの滅びであったと考えられます。
『今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。』 (ヨハネ12:31)神によって最終的、根本的に滅ぼされるのは千年期の後、イエスの第三降臨後の話ではあるが、原理的にイエスの十字架で、罪の肉の様で肉が処断された時、サタンは追放されたのです。勝利はもたらされ、霊によって生きる者が、復活の次元に移行し、義に支配されつつ、永遠の命に至れることになったのです。イエスは復活し、勝利を宣言し、イエスを信じる者は、多少ではあるが、この世にあっても、イエスの復活の力の影響力を行使できる時代に既に入ったのです。復活後、イエスの義の支配は、この地球の隅々までに及ぶことになりました。復活後の各時代は、いつも新たな命が支配する時代でしたが、分けても今がその時であり、聖霊が豊かに降る、後の雨の時代に突入しているのです。
キリストが勝利された、復活の勝利のエネルギーはすべての人々に及ぶ。第一のアダムの罪が、たとえアダムと同じ様な罪を犯さなかった人にすら、すべての者に、死の支配を強制したように、第二のアダムであるイエスの復活の力の支配は、さらに優越して私達イエスを信じる者に及ぶ。今の堕落したこの地上においてすら、神の恵みは義の支配のもとに、喜びと賛美の内に生活することが出来るようにして下さいます。義の支配のもとに、永遠の命に至ることが出来ます。とは言うものの、肉の弱さに覆われている私達の中に、勝利のイエスの霊がお現われになるのは、ある程度の範囲においてだと思います。それが偽らざる現状です。もっと霊的に生きたい、もっと輝きたい、私は心の底からそう思います。しかし、私の肉の性質がその心の奥底の要求を阻んでいるのです。
『こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。』 (ローマ5:21) これこそサタンが追放されるの意味です。この霊の支配の内に私達は自分の肉の要求を屈服させ、霊の命じるままに行動、生活しなければなりません。そこは鋭い霊的な感覚を、祈りと御言葉によって毎日養って行く必要があります。もちろん私は理性を否定しません。ただ感覚に頼って直情的に行動せよと言うのではなく、ある場合には、論理的、理性的、自己の経験則に従って、祈りつつ、委ねつつ行動しなければならないでしょう。しかし主体は命ずる、あるいは支配し、律する聖霊なのです。この霊に逆らう時、私達の内にあって神の国は毎日のように、襲われ、浸食されているのです。『天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。』(マタイ11:12)
⑥キリストの律法-敵を愛せ-について(ヨハネによる福音書解説12章下段より)
私達に与えられた『敵を愛』せ、とのイエスの言葉(イエスの律法と言っても良い)は、中途半端な愛し方ではない。それは人間の努力や能力で出来る範囲を越えています。それは命懸けであり、正に人々のために命を捨てて行く生き方です。問題は私達もそのようにできるのだろうか。また、そのようにしなければ救われないのだろうか。ここで、ハタッと、信仰が行き詰まってしまいます。
人間には愛の限界があります。キリストの言葉(イエスの律法)を純粋に実行したいと思っても、否、思えば思うほど、実行不可能になり、ジレンマにすら陥ってしまう。そこに、人間の限界が見えてくるのです。弱い肉体を持っている私達の限界、罪の遺伝によって弱められてきた、本当に悲しい人間のさががあるのです。
『わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。』(ヨハネ12:47)と言う言葉は弱いものを救うイエスの哀れみの言葉ではないだろうか。
私達は誰も信仰の勇者にはなり得ない。総ての人間は、神の絶対的な御言葉の権威の前に立つとき、畏るべき、神の愛の言葉に打ち震えるばかりです。神の御言葉は『関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して』(ヘブル4:12)中途半端を許してくれない。徹底的に心の奥底まで追及して来るのです。でも慈愛に満ちたイエスは、イエスの言葉を受け入れるならば、たとえ弱さのゆえにそれを守れなくても、そのことを責めたり、裁いたりなさらない。たとえ、私達がイエスのご命令通り、敵を愛せなかったとしても。
⑦出エジプト記に見られる初子の死について(ヨハネ13章初段自己流解説より)
『真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれたので、ファラオと家臣、またすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった。』 (出エジプト記12:29~30)
その頃のエジプトの人口、世帯数は知る由もないが、全世帯で一人は死者を出したのであろうから、何十、何百万と言うような数の葬式が行われたことになる。エジプト中が大変な混乱と嘆きに包まれたであろうことは想像に難くない。
ところが、イスラエルの人々の、入り口の柱と鴨居に羊の血が塗ってあった家は死の天使が過ぎ越して行った。これはイエスの犠牲のとりなしを象徴している。イエスの血を自分達の身代わりの血の代価として信じる人々には罪が赦されて、(ああ、それがどんな罪であっても)滅びから免れることが出来る。滅亡から免れ、やがて永遠の命が与えられるのです。
今、過ぎ越しの祭りの儀式を霊的に理解すれば、小羊の血を、自分の心の鴨居に塗るものだけが安全です。それはただ一年に一回、ニサンの月の14日の晩に塗れば良いと言うわけにはいかない。毎日ゝ心の鴨居に、小羊の血(イエスの十字架の血)を塗り続けなければならない。その時、そうしている限り、私達は安全です。
どうして、エジプトの初子は人間も家畜も死ななければならなかったのか。それはイエスが父なる神によって定められ、救われた兄弟姉妹たちの長子(ローマ8:29)となられたからです。イエスの贖いの死を信じない者、受け入れない者は、象徴として長子が取り去られたのです。
⑧調査審判についての私の理解(ヨハネ14章自己流解説初段より)
イエスは昇天後すぐ天の至聖所にお入りになった(新解釈)。天の至聖所において、最初はとりなしの段階から、時代が進み1844年からは、とりなしと同時に裁きの段階に移って来たとSDAは独特の解釈をしている。世の終わりの直前、再臨前調査審判の働きをイエスは始められたと解釈している。しつこく言うようだが、仲保の働きと同時進行で、調査審判の働きを開始なさったと教えている。また関連の教理の中で、十字架の贖罪で総てが終わったわけではなく、昇天後、天の至聖所にお入りになったイエスは、罪を取り除く(聖所の清め)お働きを始めたと教えている。ゆえにこの教えをさらに発展させて行くと、もちろん恵みによって、イエスと一体となることによってであるが、再臨前の信者から罪が地上においても清められて行くと教えている。
『神の裁きの時が来た』(ヨハネ黙示録14:7)。これはSDA教会が他の教派と最も教えが違う根本的なところです。このことのゆえに私達は誤解され、救いは十字架で終わっていないなどと教える異端の輩であると非難されてきた。しかし救いは十字架のイエスの犠牲で十分に終わっている。私達もそのように信じている。
私は、個人的解釈であるが、十字架こそ、私の裁きそのものの姿であり、最終的な結論であると信じている。十字架が十分な私の審判の姿であるならば、何故これ以上、神は私を裁かれるであろうか。パウロも言っている、『わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。』 (コリント第一4:3)と。またイエスも言っている、『また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子(イエス)に任せておられる。』(ヨハネ5:22)と。調査審判の教理は、私をより深く、十字架の影に、確信をもって、立たせていただくことになること以外の教えではないと私は考えています。
それは、聖所の教えで満ちているヘブル人への手紙の結論でもあります。キリストが昇天して神の宮にお帰りになった後、すぐに天の至聖所に入りになった(新解釈)。
『わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、(私達が)至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。 イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、………大祭司となられたのです。 』(ヘブル6:19~20) 魁となって入って下さったイエスに倣い、私達もまた、(霊的に)天の聖所の中で、キリストの肉体なる幕を通って、天の至聖所に入り、大祭司のとりなしの故に、父なる神の臨在の前に出ることが出来ます。バプテスマの水を象徴するような聖所に備えられた洗盤の水で洗い清められ、さらにイエスの血潮で洗われて、良心の咎めを捨て去り、確信をもって、はばかることなく、神の御前に近づいて行くことが出来るようになったのです。この贖いの天の至聖所で行われているキリストの事実(大祭司職の働き)こそ、私達の信仰を安定的に保つ為の、魂の錨のようなものです。
『この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。』(ヘブル10:10)こんなに穢れた、嘘、憎しみ、貪欲、利己心、怠惰、不誠実等、様々な肉の欲に囚われている私達が御前に、イエスの贖罪の行為によって『聖なる者とされた』のです。この信仰の事実を、御言葉は言っているのですから、そのままありのままに、受け入れ信じて行きましょう。
『それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所(至聖所)に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕(聖所と至聖所を分けていた幕)、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司(イエス)がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。』(同10:19~23)
さらに、考えて見よう、裁きは救いではないのか。不当な取り扱いを受け、獄に繋がれていた者にとって、正しい審判がなされることは、すなわち救われることと同じことだ。神は世のすべてをやがて裁かれるであろう。しかし、イエスによって贖われた者にとって、それは同時に救いでもあるはずだ。言い換えれば、裁きによって救いが確定されて行くのです。
⑨永遠の命がすでに始まっている(ヨハネ14章解説中段より)
聖書の言葉を神の言葉として信じ、真心からイエスの贖いを自分の罪の赦しとして受け入れて、天からの御霊を受けて新しく人生を始めた者にとって、永遠の命は既に始まっていると言い切って良いのではないか。確かに、まだ天国に行っているわけではなく、地上で肉の生活を送っている現実に変わりはない。しかし、時が来れば、やがて限りある人生の向こうに永遠の命が与えられ、新しい、溢れるばかりの神の愛と、聖霊の交わりの喜びが満ちた、清浄な世界に行くことが出来ます。もっと正確に言うと、私達は今、信仰によって、死から命に移っている。私達の心の内に、既に永遠の命が始まっているのです。それは、特に優れた、信仰の篤い信者だけに約束されたものではない。欠点が多く、自我に支配され、肉の能力に頼って生きているような者にすら(自分のことを言っている)、その信仰によって、永遠の命の始まりは約束されているのです。
『はっきり言っておくわたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。』(ヨハネ5:24)
今は限りある肉の命で、信者であろうと、未信者であろうと総ての人がこの地上を生きています。しかし、信じる者にとっては肉にありながらも、既に永遠の命が、キリストの霊を受けることによって始まっているのです。さらに、心底からキリストを受け入れ、祈りの内に聖霊に満たされたなら、自分が『死から命へと移っている』ことを、ある程度自覚できるはずです。それでなくては何のための信仰でしょうか。
私達の心の中に、魂の救いが与えられ、心に平安があり、御言葉の約束に対する信仰があるならば、『死から命へと移っている』のです。イエスが十字架で自分の罪の身代わりに死んで、さらに三日後に復活したことを信じるなら、目には見えないが、私達の心のうちに永遠の命が既に始まっているのです。この経験と喜びを他の人々に与えたい、これが私の生きがいです。
パウロはこう言いました。牢獄から逃れ出て、生きてピリピ人に再び会うのは、イエスに結ばれていると言うピリピ人達の誇りが、パウロのゆえに増し加わるためだと。『そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。』(ピリピ1:26)私も何のためにこれから生きるのか。それは、イエスに結ばれて生きている、兄弟姉妹たちの誇りが、より一層私の存在のゆえに増し加わって行くことです。僭越ながらそう思うのです(そのような私になっていないのは残念ながら私の不徳の致すところですが)。
イエス ・キリストに密着して生きていることこそ『聖霊の証印』であり、救いの『保証』と呼んでも良いものです。イエスの霊が自分に臨んでいる自覚はできるはずです。その時は霊の解放感が伴い、自由と、喜び、何とも言えない平安が心にもたらされます。『主の霊のおられるところに自由があります。』(コリント第二3:17)と書いてある通りです。一種の感覚的なものであるが、普通の五感に訴える感覚ではなくて、それを含みながら、もっと魂の奥深いところに感じられるハッキリしたものです。その霊が臨むとき、深い心の奥底から湧き出るような喜びが伴います。それはこの世が与える娯楽や、安逸な楽しみではなく、何がなくてもこの霊の喜びさえあれば何もいらないと言うような価値ある喜びです。
『この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。』(ローマ8:16)我が霊を、キリストが天から降す霊と共に解放してくださいと御名によって祈ります。『キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。』(ローマ8:2)
『あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。』(エペソ1:13)
『あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。』(同4:30)
『神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。』(ヨハネ第一5:13) ヨハネが私達に書簡を書いた目的は、既に私達の内に永遠の命が始まっていることを悟らせたかったからです。
『初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。』(同2:24~25) 私達が最初から聞いた、罪の赦しの福音の言葉に、いつもとどまり、御父と御子イエスの内にいつも結ばれ続けるならば、それがすなわち永遠の命であるとヨハネは結論付けています。
イエスが裁くと言われても何も恐れる必要はありません、十字架こそイエスが私達の身代わりになって、私達が受けるべき神の裁きを全面的に受けて下さったことなのです。それは唯一の救いの保証なのです。御子は私達を裁くためにこの地上にやって来たのではありません、救うためにやってこられたのです。しかし、残念ながら、御子の救いの言葉を受け入れない者には、裁くものがあります。御言葉を受け入れない、それがその結果としての裁きであり、滅びであります。御言葉の光を好まない者は、結果的に光よりも闇の方を好むようになり、闇と滅びを自分達のところに招いているのです。
『御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。』(ヨハネ3:18~19)
救いを受け入れない者にとって、十字架は自分の滅ぶべき姿そのものなのです。やがて神の刑罰を、身代わりの仲保者なくして、自分で受けることになると言うことなのです。闇を選択し、イエスと言う生命の光を拒んで、自分の力のみで生きれると考え、自分の人生に神と言う要素を入れない者は、やがて生涯を終わるときに闇の中に消え去って行くのです。どんなにこの世において、財産があり名誉があり、繁栄していたとしても、いつまでも人間は生き続けられるものではありません。人生を楽しんで、死んでしまえばもう何もないと考えて、そのように生きてきた報いを受けるのです。その信じてきた通り、その身になるのです。イエスを受け入れないで闇を選択すれば、もうそのことがその人の裁きなのです。
もし、たとえ幸せな人生が送れたとしても、この世の人生だけで総てが終了して、消え去って行くのであるならば、人生に何か意味があるのでしょうか?私はキリストの復活と十字架の贖いを信じています。この世の命が終わっても、イエス来臨の時には、総てが新たにされ、再創造されて、新世界が実現するのです。 一度は墓に葬られ、眠りについていたとしても、それで終わるわけではありません。この世の終わり、すなわちイエス再臨の時、私達も復活できるのです。イエスと同様に復活した栄光の体を父なる神より戴き、多くの同信の兄弟姉妹と共に、永遠に続く、新たなる次の生涯を始められることを心から信じています。そのことを信じなくては今の現実世界の生も、虚しくなり、生き甲斐を持って生きて行けなくなります。
⑩祈りが聞かれると言うことはどういうことなのか(ヨハネ14章自己流解説中段より)
私達の願いは単独では、父なる神に届かないかもしれないが、天の至聖所で、キリストがご自身の十字架で流された犠牲の血をもって、私達の祈りを清めて下さり、私達の嘆願の助成をして下さいます。私達の汚れた願いが、御前に清められ、神の前に良き香りとして、昇って行くのです。イエスの名によって、父なる神のもとに届きます。私達の祈りが聞かれたと言うことは、イエスがもう一度私達の為に血を流して、神の前に『仲介者』(テモテ第一2:5)、『弁護者』(ヨハネ第一2:1)、連帯保証人として、執り成して下さった結果なのだ、と私は祈りの実現をそのように解釈しています。
⑪キリスト教の目的はキリストに似たものとなること(ヨハネ14章中段より)
私は物質的祝福を否定しない。私達は、霊的な生活、御言葉を戴くだけでは生きていけないのです。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(マタイ4:4)と教えられているが、生きていくためには、肉のパンも、霊のパンも両方食べなければならない。
しかし聖書が教える、私達の信仰が目指す方向性は、物質の祝福より、もっと大事な根本的な生き方です。それはたとえ物質的に恵まれなくても、イエスに似た生き方をしなさいと言うことです。キリスト教はキリストに近づき、キリストが歩んだように歩み、自分がキリストに似て行くこと、その愛の行いの実践において、成長して行くことを目的としています。
ただ恵みによってありのままに、神の前に義と認められ救われれば良いと言うことではない。もっとも、そのことは信仰のどの段階であろうと適用されるべきであり、最も大事なことです。私達が最後の息を引き取る時ですら、まったくふつつかな僕であり、御前にただ恵みによって義とされるしかない。しかし、信仰の歩みを前に進めなければならない私達にとって、義認は常にされつつも、さらにこの世で、イエスに似た生き方をすると言う目的をもって進んで行かねばならないのは、聖書が教えているもう一つの明確なメッセージです。
『さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。 』(ヨハネ第一2:28)
『死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。 』(テモテ第二2:8口語訳)
キリストにとどまり続けること、復活したイエス・キリストを心の中でいつも意識し思い続けること。 さらに、キリストに似たものになること、これがキリスト教の目的です。『御子に似た者となる』(ヨハネ第一3:2)。『この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。』(同4:17)と書いてある通りです。
⑫祈りの内に、今日の一日の中で、その瞬間ゝを神に触れていただこう。(ヨハネ14章中段より)
私達の口を大きく開けて(詩篇81:10口語訳参照)、何でもキリストの名よってまず祈ろうではないか。その時、神の存在、キリストの贖い、聖霊の存在が、個人ゝの心に啓き示されてきます。天から来る力、影響力、人格的な何か(聖霊)によって霊の眼が開けてきて、私達の心が、神の霊によって満たされ、信仰がハッキリしてきます。誠にこのありふれた日常生活の中に、神が触れて下さると言う確固した、現実的体験へと進んで行くのです。まず、今日の一日を、そのあらゆる瞬間において、神に触れていただこうではないか。その積み重ねが一生であり、生きた真の人生になるのだから。
⑬私にとっての『かの日』とはいつか? (ヨハネによる福音書14章自己流解説中段より)
『かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。』(ヨハネ14:20)
かの日にはイエスが父におり、私達の中にもイエスがいることがわかる。かの日はいつか?その日は直接的にはペンテコステの日です。聖霊が、炎のような、また、舌のような形になって、弟子達に降った日です。しかし、そればかりではないと私は考えます。
聖霊が私達個人の内に臨み、教え、満たして下さる日があります。誰でも私の『かの日』を持つことができるのです。イエスが共にいて下さったのだと言うような経験をする日が私にとっての『かの日』なのです。
真理の御霊はイエスが形を変えて存在していることであり、イエスが世を離れ、父の御元に居て、今は目に見えなくても、まるでこの世にあってもイエスを見ているように思える日があります。私のそばに居て下さり、イエスに触れるようにして生きることができます。『別に助け主』(ヨハネ14:16口語訳)として、聖霊を通していつでも私達のそばに居てくれることを、感じられる日が私にとっての『かの日』です。そして、今日という正にこの日が、わたしにとって特別な『かの日』になるように願って止みません。
⑭宇宙的視野にたって、自由意思と救いを以下のように考察する(ヨハネ14章下段より)
宇宙的視野に立って俯瞰すれば、父なる神は自らの統治において、自由の選択を与えた中で、ご自身の愛を信頼するかどうかを問うておられる(天使たちも含めて)。
ヘビ(サタンの象徴)とその部下の堕落した悪天使達によって誘惑され、神から背いてしまった、被造物人間を、どうしても救おうと神は考えていた。もう一度自分のもとに引き寄せ、救い、被造物が一度は失ってしまった永遠の命を、全人類を対象に回復させたいと考えていた(人間的な言い方であるが)。そのためにはどうしたらよいか。神自らが犠牲となって、その罰である死と滅びをご自分で引き受ける以外に救いの方法はない。神は神の統治の原則を変える訳にはいかない。
神を信じることもしないし、その存在を認めもしない人間がほとんどであるほど、人間性は神から遠く離れてしまった。この世では自分しかいないし、自分は正しい人間で、罪の贖いなどは必要ない。神なしに、自分の力だけで生きれると思い込んでいるほどに人間は堕落してしまった。自分が失われていることを気が付かないで生きているほどに、現代人は神から離れてしまった。
人類を救うためにどうしたら良いのか。神自らその不信仰の結果である罪をお引き受けになるしか救う方法がない。ところが、神は絶対者であり、死ぬことはできない。だから神と同等な神の子イエスを地上に遣わし、乙女マリアから産まれさせ、受肉して人間となり、十字架で人間の身代わりに死ぬことにさせた。子なる神イエスと父なる神YHWHは、位階は違うものの、本質的に同質の神であるから、神自らが懲らしめを受けたと考えて、差し支えない。子なる神イエス は人間となり(受肉)、自己を犠牲にして、すべての失われた魂をを回復するために、十字架にかかられた。
であるならば、私達、イエスの救いにあずかった者も、この自己犠牲による救いと言う、神の宇宙の救いの法則の中に組み込まれるべきではないのか?神の贖いの歴史の中の1ページとして、自分の人生の1ページを刻んで行くべきではないのか。
神が失ったものを取り戻すため、神自らが犠牲になり、自分で自分の下すべき罰を受け、人類を贖い、買い取り、再び永遠の命に生きれるようにして下さった。そのような神の贖いの歴史が人類の歴史だと考えることが出来る。神ご自身の自己犠牲の愛の証明の為、歴史はあるし動いている。
イエスの生涯、贖いは最大の神の愛の現れであると理解しているが、宇宙的な視野でみると、聖書の物語はもしかすると、神の自己犠牲劇場のほんの一部を垣間見ているだけなのかも知れない。私達が近い将来、永遠の神の愛の世界に入れられて、この贖いの不思議、人類を創造され、さらに救われた神の真の意図に接する時、もっと大きな神の知恵の深淵を学ばせていただけると思うのだ。堕落しなかった天使達も垣間見たいと思っている贖いの神秘は、私達にとってさらに意義深いものとなって、神の永遠の愛を、御国において、極めて行くものになるはずだ。そのときは、肉の創造、堕落、人類の増加と繁栄、贖い、霊による新生、聖化、栄化等、神の深い知恵を改めて知ることになるだろう。人間が造られた空極の目的とは何か?自存している意識ある存在しての人間を造ること。そしてそのような人間が、自発的な神との深い交わりの喜びを永遠に経験するためではなかったかなと思う。そしてそのような存在が何億人も新生されて、神との交わりの中に喜ぶ姿を見ること。
かなり思考を深めてきたが、改めてヨハネの言葉に帰り、信仰生活の最も大事な、基本に触れておこう。
『わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。』(ヨハネ15:4~5) 枝がイエスと言う幹にしかっりとくっついているならば、樹液がまわってきて、やがて美味しい立派な実を、たわわに付けることが出来る。要はイエスに、毎日固く結ばれて生きて行くかどうかです。
『あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れた(義認)のですから、キリストに結ばれて(聖化)歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。』(コロサイ2:6~7)
もちろん、イエスの方でも私達がイエスを求めるより先に、主体的に、私達に関与してくださっています。イエスの方が先に私達を追い求め、追いかけてきています。『わたし(イエス)もその人につながっていれば、』のお約束は、私はそのように考えます。
『わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。』(詩篇139:7)
『「やみはわたしをおおい、わたしを囲む光は夜となれ」とわたしが言っても、あなたには、やみも暗くはなく、夜も昼のように輝きます。』(同139:11~12)
どんなマイナスな気持ちに私達がなろうが、私達がヨナのようにタルシシかどこかに逃げて行こうが『あなたのみたまを離れ』ることは出来ないのです。神の愛は主体的優先的に、愚かな人間に対して流れてきています。しかし、神から逃げるのではなく、その愛に応えて行こうとする、自分達人間の側の姿勢が大事です。信仰の人間の側の神に対する積極的な求めと言うのは、私達に与えられている自分の霊の叫びであると私は思う。『神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。』(ローマ8:15~16) 天から降り、『「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊』(ガラテヤ4:6)すなわちキリストの霊と、人が持っている『わたしたちの霊』は共に一つになり、協力し合って働きます。神の子供である『証し』は両方からされるのです。
『わたしたちの霊』がもたらす自発的に自分が神を追い求めて行くこの能動的かつ積極的姿勢は、信仰者にとって大事な姿勢であると考えます。
⑯言葉と霊の関係(ヨハネ15章自己流解説中段より)
『わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。』(ヨハネ15:3)これはいったいどういう意味なのだろうか。何故この一節がここに挿入されているのだろうか。キリストの霊によってあなたがたは清められていると言う意味なのだろうか。イエスの言葉と霊は同じなのだろうか。イエスの言葉が、私達を清めるのだろうか。霊と言葉の関係は一体どうなっているのだろうか。それとも、罪の性質はあっても、キリストの言葉を聞き、受け入れ、信じ、贖われることによって、過去の罪は完全に清算され、赦され、清くなってるという意味だろうか。
私は、これまで色々と、聖書の自己流解釈をやってきたが、聖書の世界は言葉の世界です。神の言葉であると信じて読んではいるが、基本的には文字の世界です。言葉を記録したのが文字です。イエスの生身の言葉を聞きたいとは思うが、それは今の地上ではかなわない。
弟子達が記憶をたどって書いた文字としてしかイエスの言葉は残っていない。イエスは直接聖書を書くことはなさらなかった。イエス御自身が神の言葉そのものであったから、わざわざ羊皮紙にペンで言葉を書くようなことはなさらなかったのだろう。言葉=文字ではないだろう。しかし文字を通してしか、イエスの事績をたどれないではないか。
イエスの生ける言葉を今聞こうとしてもそれは無理なことだ。文字に頼るしかない。聖書全体が神の言葉と信じてはいるが、旧約聖書39巻と新約聖書27巻、合わせて66巻からなる、その文字数は膨大なものです。この文字、このすごい量の言葉の羅列はいったい何の為にあるのであろうか。
神が、人間にご自身を顕現された。神がイスラエルの歴史に関与されたこと、また、様々な犠牲制度の儀式、祭り、隠されていた贖罪の概念等を、神の霊感を受けた預言者達は旧約聖書に記録した。その中にはもちろん、神の直接的な託宣も含まれている。しかし、一般的には、逐語霊感の立場はとらず、記述者の思想そのものが霊感を受けて、聖書は書かれたと解釈されている。
また新約時代に入って、贖罪の本体としてのキリストが明らかにされる。12弟子達の目に映った神の子イエスの言葉と行動を、彼らは、新約聖書として記録した。また、自分達の宣教の記録や、聖霊の感化の内に、数々の奨励、贖罪の理解、善行に励むこと等を手紙にして残した。人間の言葉と神の言葉は同じではない。しかし人間の言葉を介しながら神はご自分の存在を現わして来た。
神の子イエスは、弟子達が書いた人間の文字を介して、行った事績と、教えを新約聖書の中に記録された。文字によってしか記録はできない。現代は、US B、CD、DVD 、レコード、紙の出版物等様々な記録媒体があるが、そのような便利なものは当時はなかった。パピルスや羊皮紙に書かれた文字によって記録を残すしか他に方法はなかった。
私達日本人は言葉に余り重きを置かない傾向があります。情緒やその場の雰囲気、気持ちの方を大事にしています。確かに人間の言葉は頼りにならないことが多い。政治家の言葉など、信用が出来ない見本のようなものだ。しかし言葉、それを記録した文字は大事なものではないか。文字を通して、霊的な物が伝えられてくるのです。
『文字は人を殺し、霊は人を生かす。』(コリント第二3:6口語訳)とあります。 確かに、文字は冷たく、人を罪に定め、死の働きをする面もあるかも知れない。『石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ』(同 3:7)と書いてあるとおりです。冷たい石に刻まれた律法(十戒)の文字は、私達の罪を指摘するばかりで、そこに贖罪がない。故に律法の実行によっては誰一人救われないし、神の前に義とせられない。律法は私たちを写す鏡です。鏡は汚れを指摘するが、汚れを落とすことはできない。心の汚れを落とし新たに造り変えるのは、『霊は人を生かす。』 と言われている、聖霊の働きによるしかありません。
『律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。』 (ガラテヤ2:16)
『律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。』(同3:11)
霊の宿るところには力がある。キリストに結び付けられ、『霊の法則が、......あなたを解放』(ローマ8:2)する時は、喜びと自由があり、霊によって心が温められ、何とも言えないような平安があります。
私達が、不安と、行き詰まりと、恐れを感じている時、神の霊が臨んできて、急に心が癒されます。私は何度もそんな経験をしてきた。聖霊が臨んで下さるとき心の中に変化が起きて来ます。喜びと平安、キリストによるある種の精神的解放感がもたらされます。
『主の霊のおられるところに自由があります。』(コリント第二3:17)
そこには、キリスト者の自由がある。『この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。』(ガラテヤ5:1) しかし、この自由は何でもやって良いと言う自由 ではない。罪を犯せば罪に囚われ、罪の奴隷です。結局自由ではない。肉と欲望の奴隷です。この自由 は、御霊の満たしの中にあって、罪を犯さない中にある真の自由 です。
さて、文字によらず霊はあり得るのだろうか。言い換えれば、言葉によらずに霊は注がれるのだろうか。聖書の言葉を神の言葉として受け取り、読み、考え、瞑想し、又、御霊の導きを求める時、言葉と霊は共に働いているように私には思われる。言葉なくして神の霊は降ってこない。又、聖霊なくしては神の言葉は理解できない。神の言葉を究めて行くとき、同時に霊は喜々として私達の内に宿ってくれる。
『わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。』(ヨハネ15:3 )と言うのは、そういうことではないのか。何とも、表現できない実態に向かって、私は書いているのだが、私の言いたいことを理解していただけただろうか。キリストが発せられた言葉とは、ただの人間の言葉は違い、神の言葉であり、権威が伴い、創造力があり、キリストの人格(神格)そのものであるから、私達を贖う力がある。それはキリストがなされた贖罪と復活 の行為が基本的に含まれているので、私達を罪から清め、新たなる生き方をさせる力がある。例えばヨハネ11:25~26の御言葉を繰り返し心の中で念じて見よう。『「わたし(イエス)は復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 』この言葉は命の力を伴って私達の心の奥底までに迫って来るのです。その実態は永遠の命です。
神の霊、聖霊、イエスの言葉、神の言葉、聖書の言葉、文字は一体となって、イエスの贖罪と霊的な復活の力を帯ながら、有機的に結びついていると私は言いたいのです。
そもそもイエスは一人の人格(神格)としての神の言葉です。『初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言(イエス)について。』 (ヨハネ第一1:1)。
言葉があってこそ、霊があり、霊があってこそ、文字に記された言葉が活きてきます。それらは切り離すことが出来ないものなのです。そして、言葉を通して、聖霊が降り、イエスの命そのものが、創造の力を伴う言葉となって溢れ出て来るのです。
そして、その霊の言葉は、御霊に満たされてくるとき、私達の近くにあり、今でも私達の口を通して語られる可能性もあります。『では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。』(ローマ10:8)真に御霊に満たされてくるとき、今でも神の言葉は私達の心、口、思想を通して語られる可能性があるのです。この個所は信仰の持つダイナミックな一面を表していると理解できます。神の言葉は聖書に限定されるべきではありません。こう書くと、何か私が大変教理から逸脱してしまいそうなことを言い出したかに聞こえるかも知れません。しかし、私が言いたいのは信仰のダイナミズム、つまり御霊に満たされてくるとき、今でも神の言葉が私たちの思想や言葉を通して、躍動し、発出される可能性があると言うことです。もちろんそれらのことは聖書の基準に照らして、真理から逸脱していないか吟味される必要は常にありますが。
⑰キリストの掟を守れとはどういう意味なのだろうか(ヨハネによる福音書解説15章上段より)
『父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』(ヨハネ15:9~13)
キリストの愛の内にとどまれ、何と美しい言葉であろう。ただ、ただ私もそうありたい、そうあり続けたい。
そのためには、キリストの掟を守れ、その掟は、キリストが愛した愛し方であなたがたも愛し合うことだ。それは半端な愛し方ではない、キリストは人の為に命を捨てて愛し尽くされた。あなたがたも友のために命を捨てる覚悟で愛せよ。実に重いイエスの言葉だ。
こう書いてくるとある方は思うかも知れない。そのような生き方を選択することは、余りにも重いことで、自分はそのように生きることは出来そうもない。私も同じです。神の言葉のこの絶対的な価値観に立たされるとき、果たしてそんなことが出来るのだろうかと思って、足がすくんでしまう。
しかしこんなに大きな愛を、今すぐ実現しなさいと言うことではないと私は考える。『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』愛には段階があるのです。無償の大きな愛もあれば、少しは利己的な小さな愛もあるのです。一日に一善、小さな親切を周りの人にしてあげることから始めよう。
イエスも言っているではないか。友のため命を捨てるのは最大の愛であると。そのようなことが私達の力でできるなどと考えない方が良い。それは私(イエス)が愛したようにと前書きにあるように、イエスと結びつき、イエスと似た者となり、イエスと一体化し、イエスのお力を自分に宿していただかねば、そのような偉大な愛には、有限な私達にはたどり着くことは出来ない。
とは言え、たとえ自己防衛に根差した、利己心から出たような、どんなに小さな愛の行いであっても、実行しよう。しないよりはした方が余程良い。偽善的、利己的な匂いする自分を分っていて、小さな愛の行いをするなら、それで良いではないか。100%には善の行いにならなくても良いのだと私は思う。
私達は俗人であって、聖人ではない。あまり無理すると信仰のつまづきが起きかねない。どだい肉の生まれ変わっていない部分をたくさん持っている人間が、そうやすやすと、聖霊が助けてくれるとは言え、友のために自分の命、命を構成している時間、自分の生活空間、趣味、この世の肉の生き甲斐、価値観等、それらを捨てることが出来ようか。
自分を謙虚に振り返ってみよう。私達は仕事、遊びも含めてほとんどの時間を自分の肉の維持のために捧げているではないか。趣味や旅行、美食、スポーツ、レジャー等々、この世にあって許されている、この世が提供する肉の楽しみを享受している。それらは、ただ己が肉を維持し、楽しませるためであるのに、何の疑問もなく、当然の権利として、毎日を送っている。自分が稼いだお金を使い、肉の活動をして生きているのだ。こうしてほぼすべての時間を自分の為に費やしているではないか。
だからと言ってそのことは罪ではない、何故ならそのようにしなくては、この世で生きて行けないからだ。肉にあることを当然のこととし、肉の保存を求めて生きているこの競争社会において、生きることそのものが罪深い傾向にあることに気がついてもいない私達であることを認めることから始めよう。
しかし、そんな私達が神と人の為に、自分を無我にして、聖なる方向に舵を切って行けるとすれば、その力は自分にはない。ただキリストが私達の中に、聖霊の内住によって、パラクレートス(助け主、救済のために、傍らに呼び出されたもの)となってくださることによるしかない。これが『わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。』(ヨハネ15:5)の意味ではないだろうか。
⑱キリストは私達がキリストの言うことを実行するなら、私達を友と呼ばれる(ヨハネによる福音書自己流解説15章中段より)
『わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 』(ヨハネ15:14~15)
キリストは私達を僕と呼ばず、友と呼んで下さいます。そんなすごい名誉に浴せるのです。畏れ多いことです。天地を造られた、『偉大なる神』であるキリスト(テトス2:13)、人間となられた神キリストが、私達を友と呼んで下さる。これがいかにすごい言葉か、私はまだその意味を本当には理解できない。
私はキリストが友と呼ばれるほどの人間なのか?私はそのように呼ばれるにふさわしい者ではない。生まれ変わっていない利己的な性格を強く持ち、しかも怠惰で、愚かで高慢な心がある人間なのです。さらに嫉妬心に富み、他人の成功をうらやみ、肉の欲をたくさん持ち、他人を自分のようには愛せない人間なのです。
そんな私をキリストは友と呼んでくれるのか。ああもったいない限りです。もし、私が友と呼ばれる資格もないのに友と呼んでいただけるなら、友らしく生きよう。何とか真の友になれるよう、御霊を求め、パラクレートス(助け主)の御臨在の内に、友らしくなれるよう、聖霊の実をつけるよう、信仰の精進をして行こう。『わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。』
僕は(奴隷は)確かに主人の心の内を知らない。奴隷として主人の言われるままに、仕方なく、言いつけを実行するだけです。奴隷には自由がないから、いやいやながらも主人の言葉には従って行かなければならない。そこには自発的に仕える喜びはない。
しかし友は違う、友は、主人の心の内を知っている。『父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたから』主人が何を考え、どんな趣向があり、どんなルールのもとに動いているかが分かるのです。真の友はお互いに考えていることが分かる。キリストは私達に何を要求しているか、また聖霊によって、素晴らしい力と癒しをお与え下さる方であることを、友であるなら理解できます。もし友と呼んでいただけるならば、そのキリストの近くにいたい、キリストの御心に従って行きたいと思うのは当然です。友の気持ちに逆らって、友に悲しい思いをさせたくはない。
『互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」』(ヨハネ15:17)この言葉は動かすことが出来ないキリストの命令です。『わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。』私達の内に住んで下さる、聖霊のキリストが力を与え、愛の行いをさせて下さるでしょう。
⑲第二のアダムであるキリストの義の力の支配は、第一のアダムの罪と肉の支配に優先する。(ヨハネによる福音書15章解説下段より)
どちらの姿が優先して行くのか、言うまでもない。アダムにあって罪の支配の中にあった者を、キリストは義の支配のもとに呼び起こし、義の支配に入れてしまう力がある。第一のアダムの罪と死の支配より、第二のアダム(キリスト)の恵みと義の支配の方が『なおさら』優先して私達に働くのです。すべての人が信じるならと言う条件付きではあるが、キリストにあって無罪とみなされる。さらに同時に復活のキリストにあって、その霊の支配の中に優先して組み入れられる。第一のアダムの支配より、第二のアダム(キリスト)による支配の方が、復活の事実に基づき、より勝っている。これはイエスの復活の勝利の霊の支配の問題なのです。当然、キリストとの人格的関りの中で私共に支配の効果がもたらされる。キリストの体に結ばれて既に霊的に復活している自分を見出し、上からの聖霊の降下と心の内側から自分の霊が解放され、内なる霊のキリストと共に生きることが出来るのです。既に復活の霊の支配の下にいることを認めねばなりません。その霊の臨在は、私達の内なる心に何とも言えぬ喜びと平安をもたらします。だからこそ、その喜びと平安が失われないように、互いに祈り合おうではありませんか。
『こうして、......恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。』 (ローマ5:21)
恵みによって、御霊の支配下の中で、このような生き方が出来ます。まったく違った、生き方が出来る可能性があります。私はこのような生涯をこれから歩みたいし、歩まなければならない。
義の支配が回復されると言うことは、私達が正しい、善い生き方をすることも含まれますが、それだけではない。さらに、キリストにある命の支配が回復されるのです。肉の努力によって義とされようと言う律法の下にいることから解放され、恵の下にいるキリスト者の自由を享受し、 霊が解放され、キリストの命が私達から溢れ出すのです。行いによって義とされようとする強迫観念から解放され、自由に自発的に、自然に愛の生活が出来るようになるまでに変えられて行くと言うことなのです。
この世にあって、私達の内にキリストの命の支配が始まり、この世にありながらキリストの命が、私達の腹から生ける水となって、流れ出すのです。
『わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。 』(ヨハネ7:38~39口語訳)
繰り返しになりますが、イエスの命が私たち自身から溢れ出す経験をすることが出来るようになって行きます。私達から、キリストの命の御霊が、泉となり、命の水となって、他の人々に向かって流れ出すのです。『わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」』(同4:14) の御言葉が実現して行きます。こんな祝福をこの世にあって経験したい、この経験こそ人生最大の価値であり、心の中に地上天国が実現して行くことなのです。
⑳私にとって善行とは何であろうか(ヨハネによる福音書解説18章上段より)
イエスは何とか弟子達と共に祈り、人間的な同情心を求めようとして、ペテロ達三人がいる所に、三度も戻ってこられたが(ヨハネ18:44,45参照)彼らは、眠気を我慢することができず寝入ってしまった。イエスは血の汗を流すほどに苦悶して祈られた。イエスは何を苦しんでおられたのか。翌日十字架にかかる苦しみが、前もってイエスに臨んできたのです。救いを産み出すため、前触れの、例えれば陣痛のような苦しみが、彼を襲い始めていたのです。
全人類の積もり、積もった罪の重荷が、御子の肩に負わされようとしていた。罪人に下されるべき神の刑罰が、イエスに一気に負わされ、罪を今まで一度も犯したことのないイエスの無垢な心に、罪の重荷、苦しさが心を圧し潰すような罪責感まで伴いのしかかってきた。
思わずイエスは『「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。 』(ルカ22:42)と、父なる神に願った。しかしそれではイエスがこの世に神の御子として、救い主として、『世の罪を取り除く神の小羊』(ヨハネ1:29)としてやって来た意味がなくなる。だからその後に、『しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」 』(ルカ22:42)とのイエスの祈りが続いた。
このイエスの祈りから学ぶべき教訓があります。一度はイエスは余りの苦しみに、その自分の負うべき杯を取り去っていただくように願った。しかし自分の思いではなく、御心が行われるようにと願った。神の御旨に自分を従わせ、生き方を合わせて行くことは、時に大きな葛藤が起きるのです。人間である以上、肉の生身の自分が、そこで曝け出されてしまう。言わば本音(弱音)が出てしまうのです。罪のない聖なる肉にあるイエスですら霊の道に生きようとした時そのような葛藤を経験したとすれば、より汚れた堕落した肉を持った私達が、霊の道を選択したいと思うとき、なおさら大きな葛藤を覚えるのではないでしょうか。
私は人助けの為に祈り、実際の奉仕をしようとしても、私の内の自己愛に満たされたこの肉の身体を優先しようとする自己防衛本能が、聖霊の感化によって与えられる善なる思いに逆らうことがしばしば起きてきます。時々自分の心が病気になってしまったかと思うことすらあります。この世の人は私のそのような精神的葛藤を理解できないでしょう。
それはこういう精神状態です。他人に善いことをすればする程、自分の心の奥底では、真の愛の動機からそのことをしたのではないと、自分自身の良心が、心の内側から私自身を責めるのです。
「もっと違うやり方がなかったのか。お前はあの人を表面的には助けていたかも知れないが、本当に自分の総てを投げ打ってやろうとはしていなかったな。結局お前は自分が可愛くて、人の為に自分を投げ出すようなことは出来ないのだ。どっかでお前はここまでと言うラインを心の中で引いて、ラインの内側に自分の安全を確保しているのだ。」
自分の心の中に湧き上がって来る、このような小さな声に、私は苛まれるのです。
私は、そのような私の心に向かって言う。『行いをもって誠実に愛し合おう。これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、』(ヨハネ第一3:18~21)と書いてある。
神は私達の心よりも大いなる方で、たとえ私達が心に責められるようなことがあったとしても、神の赦しの愛の内に、魂の平安をイエスの御名の故に与えて下さい(ヨハネ16:23,33口語訳参照)。このように祈るとき、私を内側から苛む声も収まって行きます。
『僕は主人にまさりはしない』(ヨハネ15:20)弟子は師に似たようなことができればそれで良いのだと、私は自分自身に言い聞かせます。どう考えても、人間あらゆることにおいて100%を目指すことは出来ないのではないか。これはそうあってはならないのだろうが、偽らざる自分の気持ちです。
㉑自分の欠点に失望、落胆しても、神は私達が神のもとに帰り、悔い改め、霊的にも肉的にも新たにされて生きることを望んでおられる。(ヨハネ18章自己流解釈最終段より)
私達も霊的には、主を十字架に付けた群衆の中の一人ではなかったかと考えることは行き過ぎだろうか。 『しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。』 (ルカ23:21)。 「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んだ中のその一人が私達なのだ。しかし、私達がそのことを認め、悔い改めるならば、ペテロを赦しと、慈愛の心で、見つめられた、主のあの優しい眼差しを持って私達をもう一度迎え入れてくれるだろう。自分の欠点に失望、落胆しても、決してユダのように自暴自棄となって自らの命を絶つようなことをしてはいけない。
この十字架の物語が示していることは、主の十字架を無駄にしてはいけないと言うことだ。私達が自分の内に何の希望もない時ですら、御霊の導きを求め、主の犠牲の有効性を信じるならば、必ず救われる。生きて、前へ進んで行くことができる。霊的にも身体的(肉のからだ)にも私達は死んではいけないのです。翻って生きるように神は呼び掛けておられる。
『彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。』(エゼキエル33:11)
㉒ヨハネが最も強調したかったのは、今共におられるキリストではないか。(ヨハネによる福音書自己流解釈19章初段より)
ヨハネが何より重視したのが、今共におられるキリストではなかったかと私は考える。十字架は大事であり、イエスの犠牲なくば、私達の信仰そのものが成り立たない。神の前に誰も救われない。神の前に罪赦された者として、しみもなく、傷もなく、聖なる者として、義認され立つこともできない。
『しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。 』(コロサイ1:22)
神は御子によって、100%の義を、私達に着せて下さいます。今や私達は義とされ、罪も皺も、傷もない者として、良心の咎めすら捨てて、御前に立つことができます。この大きな御愛こそキリスト教の中心であり土台です。このことはどんなに強調しても、強調し過ぎることはありません。
御子を犠牲にされたと言うことは、三位一体の教理の立場から言えば、神ご自身が私達の贖いの為に自己を犠牲として下さったと言うことなのです。被造物の為に命を投げ出す神など、他にいるだろうか。この愛の犠牲を真心から信じ疑ってはなりません。自分の罪深さに、ともすれば目を奪われがちになる私達ですが、救いは神の約束であり、御子の命を懸けた、完全な救いの業です。信仰によってただ有難く受け取り、御名を賛美する以外にありません。
しかし、現実の人間は、十字架に目をとめながらも、実際には厳しいこの世の生活を生きて行かなければならないのです。そこに必要なのは、今共にいて下さり、私達の祈りを聞き、目には見えないが私達の傍らに立って、すべてを支配し、教え導き、時には奇跡を行い、聖霊(パラクレートス-助け主)によって支えて下さる、生きたキリストです。今そばにおられるキリストが私達の、この世での厳しい生活に、より必要なのです。
そういった観点からヨハネによる福音書を見ると、弟子達が復活なさったイエスに出会い、そこで感動し、後にペンテコステの聖霊降下を受けて、リアルなキリストの存在に触れ、生きたキリストを体験したことをヨハネは書きたかったのではないかと思う。
目には見えないけれども、共にいて下さるキリスト、インマヌエル(-ヘブル語-神我らと共にいます)になって下さったキリストを体験し、彼等の信仰は生きゝとしたものになって行った。復活し、聖霊と言う形で臨在して下さるキリストに、いつもお会いしていることが彼等の信仰の確信であった。
この世の生活は余りにも煩わしいことが多く、やらなければならないことばかりに囲まれている私達です。食べたり、飲んだり、仕事をしたり、掃除、洗濯、買い物等、様々な日常の雑用の中で、人生はアッという間に過ぎて去ってしまうのです。ただでさえ短い人生なのに、酒に溺れ、どうでもいい趣味や娯楽、レジャー等に熱中し、さらに人生の時間を短くして良いのだろうか?
これらのことに早く気がつき、人生のプライオリティー(優先順位)を早く発見し、『あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。』(ルカ10:41~42)と言われた、主の価値観に、私達も自分の価値観を合わせて行こう。
必要なことはただ一つ-今イエスの御前に膝まづき、生きた神の御言葉を聞き、生きたキリストを体験して行くことです。
㉓イエスは何故茨の冠を被られたか。(ヨハネ19章解説上段より)
ローマ兵達は茨で冠を編んで、イエスに被せ、その上から葦の棒で何度も頭をたたいた(マルコ15:19参照)。茨のとげは、イエスの額をひどく傷つけ、血が滴り落ちた。
旧約聖書にはアダムの罪によって地は呪われ、茨とアザミが生じたとあります。(創世記3:17~18参照)
茨は呪いの象徴です。イエスは地が呪われた象徴としての茨を身にまとわれた。茨の冠を頭に被り、呪いを引き受けられた。『............「木にかけられた者は皆呪われている」...』 (ガラテヤ3:13)
茨とアザミはただ雑草としてチクチク私達を刺すばかりではない。これは人生の中で出会う、あらゆる不都合なことの象徴です。私達の人生が祝福されたものとなり、あらゆる呪いから解放されるために、呪いの象徴である茨をイエスは王冠の代わりに被られたのです。
私達の人生の呪いとは何か、それは人によってそれぞれ異なるでしょう。人生でトラウマとなるような数々の失敗、どうしても脳裏から去らず気になること、強迫観念、自分の固執する性格、金銭問題、悪い断ち切れない交友関係、様々な悪習慣、飲酒、違法な薬物、タバコ、賭け事、パチンコ、スロット、競輪、競馬、競艇、麻雀、その他の離れることが出来ない遊興等(スマホ中毒、ネットサーフィン、ゲーム等を含む)が呪いとなって、私達の人生を暗く、無益で、やるせないものにしています。私達は自由であるようだが、実はこれらのものの奴隷になっているのです。
それがどんなものでも、あらゆる呪いを主は茨の冠で引き受けられ、救いを信じる者に精神の解放を与えて下さいます。自分の意志を固く持って、それらのものを克服することは大事です。それは行動を変える基本中の基本です。しかし、試しに、「イエスの被った、呪いの象徴である茨の冠の血によって、この人生でトラウマとなるような数々の失敗、どうしても脳裏から去らず気になること、強迫観念、悪習慣etc.よ、私の身体から出て行け。」とキリストの名によって命じてみよう。私の経験から言って、御霊が働いて下さり、驚くべきことが精神の中に起こって来ます、キリストは今も生きているのです。
㉔キリストの苦しみの足りないところを、私の肉体を持って補っているの意味は(ヨハネ19章解説上段より)
『キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。 』(コロサイ1:24)。
十字架の苦しみの足りないところなどあろうか。十字架の苦しみは、救いに十分な代価であり、私達が何かを為すことによって、それに加えるような不遜なことが出来ようか。神学的にはそうかも知れない。信仰は、イエスのなされた贖いの業を受けるだけで十分なはずです。しかし実際には主の為に、ある者は苦しめられ、迫害され、宣教の重荷を負い、時には窮乏する生活すらして行かねばならない。
生きると言うこと自体も決して生易しいことではなく、生活の苦しみが伴って来ます。この世で生き抜くと言うのは大変なことなのです。若い頃は、ただ信仰があれば、何でもうまく行くと、安易に考えていた私です。しかしこのように今73歳になって振り返って見ると、「人生は決して甘いものではなかったなあ」と思う、これは自分の半生を振り返って見た私の正直な感想です。この世で仕事をして、収入を得、家庭を営み、子供を育てて行くことは大変なことなのです。私自身、色々な困難や、試練にぶつかって来ました。経済的な苦労をしたり、病気になったり、体調がすぐれなかったり、破局してしまった最初の結婚生活で、様々な家庭的な愛の実行が出来なかったり(再婚し二度目の妻の為には、少しは変わったかも知れない、痛い目に遭って人間誰でも学習して行くものです)、親族の死に遭遇したり、必要な物がなかったり等、たくさんの苦難があった。生きて行くことは大変なことだな、とつくづく思うのです。
パウロの言う『キリストの苦しみのなお足りないところを、......補っている。』って何だろう。それは、直接的には福音宣教の為に苦労を背負うと言うことだとは思う。しかし、私は、これは生きることそのものではないかと最近になって考え始めた。生きるって何だろう。人には言えないような、自分の過去の失敗、事件、しがらみを背負いながら皆必死になって生きているのです。クリスチャンもそうであるが、このことは、信仰を持っていない一般の方々にも言えることだと私は思う。肉の、肉だけの人生に、さらに深刻な重い肉の苦しみ(経済的な困窮、夫婦の不仲、親子の軋轢、仕事の重荷、病気の苦しみ、心の中にある恨み、憎しみ、嫉妬、さらに、将来の生活への不安、様々な事故・災害、老いることへの不安等)が覆っているのです。出来たらそういう方々の上にも肉の重荷だけではなく、キリストにある愛、魂の救い、霊の平安が少しでも訪れるように願ってやまない。キリストの苦しみのなお足りないところを自らの肉体で補うこと。それは、この現世を生きることそのものではないか。それが辛くても、何があろうと、この世での私の分を果たすまで、主が、「もういいよ」と言われるまでは、何としても生き抜かねばならない。もちろん恵みによって許されるならば。
㉕イエスは何故両の手の平に釘を打ち込まれたか(ヨハネ19章解説上段より)
『トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。』 (ヨハネ20:25~28)
『見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。』(イザヤ49:16口語訳)と書いてあります。 神は掌(たなごころ)に私達の名を刻んで覚えておいでになり、決して忘れることはない(女が自分の産んだ乳飲み子を忘れることがないように)。
今はやってないが、昔私は一日のやるべきことを、赤のボールペンで手の平に書いていた。スマホもない50年ほど前の学生時代のことです。今だったらスマホのメモ帳アプリを出して、簡単に記録できるのだろうが、当時はそんなものはなかった。やるべきことを忘れないために、そんなことをしていたことを今思い出した。しかし、一日の中で、何度か手を洗っているうちに書いた文字は消えてしまいます。
イエスは何故両の手の平に釘を打たれたのか。それは私達の名前を忘れずに手の平に刻むためであったとしたら、人間的な解釈をし過ぎであろうか。疑い深いトマスが、イエスの手の平に釘跡を見、脇腹に手を差し入れた時(実際そうしたかは分からないが)『「わが主よ、わが神よ」。』(ヨハネ20:28口語訳)と言ってイエスを拝した(イエスを神と呼んでいることにも注意)。
イエスの手の平の傷跡は、神の国が回復された後にも、贖いの記念として、永遠に残されると言われている。イエスの釘打たれた手の平の傷口に、私やあなたの名前が永遠に刻み込まれていると深読みしたら、救いは今よりもっとゝ近くに、確実に感じられないだろうか。
㉖イエスを信じる者の老後について(ヨハネによる福音書19章解説中段より)
ヨハネが、イエスから特別に愛された弟子であって、イエスの母マリアをイエス死後自分の家に引き取り、最後まで老後のお世話をした事実を受け止めよう。イエスは優しく自分を地上に産んでくれた母に対して、その老後のことまで十字架上でお考えになっていた、配慮に満ちた方であった。
このことから、さらに推測されるのは、私達の老後もキリストに頼って行くならば、何の心配もないと言うことです。父なる神と共に天地を創造なされ、人となった神が、母の老後を心配なさったのです。そのような地上の生活に配慮のある方が、イエスを心から信じ、頼り切っている私達の老後の心配をなさらないはずがあろうか。
だからと言って人間的な計画を立てるなと言うわけではない。誰でも歳はとって行くし、身体が自由に動かなくなる時が来るのだから、何歳くらいになったら、どこの老人ホームに入ろうかくらいは考えておいたほうが良いだろう。私が言いたいのは、神は人間が立てる計画以上のことを、信じて頼っている者に用意して下さると言うことです。