ヨハネによる福音書9章
ヨハネによる福音書9章
生れつきの盲人の癒しについて、イエスはハッキリと明言なさった。彼が生まれつきの盲人であった原因は、先祖が罪を犯したのでもなく、父母が罪を犯したのでもなく、本人が罪を犯したのでもない。彼の盲目が、神によって癒され、神の業がその人に現れる為であった。
業病という仏教から来る言葉があります。前世の悪業 (あくごう) の報いでかかるとされた、治りにくい病気、難病のことを指します。 前世を信じないキリスト教には理解できない言葉です。たとえ仏教の世界観を肯定したとしても、本人にとって前世が何であったか、分かる訳がないではないか。良く考えて見よう。今の本人には何の関係もないのに、前世の悪のために、今の本人が難病にかかり辛い目に合うのだと教える、キリスト教から見れば、全く理不尽な途方もない、邪な考え方です。
また、因果は巡り、親の罪が子に報い、子の罪がまたその子に報いて行く、そんな考え方が、当時のユダヤ人達も含めて、この世界には依然としてあるようだ。そして病気が業病として受け継がれて行く。しかしそれは本人にとっては何の責任もないことで、実際に病に苦しんでいる人にとって、そんなことを言われれば、苦しみの上に、又苦しみを重ねることにもなり、耐え難いことであろう。
例えば、ALSと言う現代の恐ろしい難病があるが、もう故人になられた著名なある方(SI氏)は、この病を業病と受け取られているようだ。何と救いようのない世界観であろうか。
私達はこのヨハネによる福音書のイエスの言葉に救いを見出そうではないか。盲、聾、唖の障害、肢体の障害、難病、奇病等、総ては、本人のせいでもなく、父母のせいでもなく、先祖のせいでもない。もちろん前世のなせる業であるわけがない。輪廻転生は仏教の教えで、キリスト教の場合は、人の一生は個人の一回限りであって、何かに生まれ変わると言う思想は微塵もない。病気や障害等は、ただ神の救いの業、栄光の業がその人の上に現れる為です。これがキリスト教の考え方です。
『さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。 「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』(ヨハネ9:1~3)
福音は総ての人が救われるためにあります。たとえ、視覚障害者として生まれ、あるいは何か疾病や事故で、人生の途中から、様々な種類の障害者になったとしても、まだ希望があるのです。イエスを信じるならば、必ずその障害をきっかけに、人生で最も価値のあるもの、総ての人を救って余りある永遠の福音に至ることが出来ます。
『イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。』(ヨハネ9:6~7)
果たして、現在もこのようなことが起きるのだろうか?その可能性は否定しないが、現代において、生まれつき全盲の視覚障害者が、キリストの癒しによって、目が見えるようになったと言うことは聞いたことがない。
たまに、アメリカで行われている、キリストの名を語っている伝道集会で、癒しが行われたと言うことを耳にする。しかし、信仰による癒しを強調する団体が開催する、リバイバル集会で、生まれつきの盲人が、完全に癒され目が見えるようになったと言うようなことは一度も聞いたことがない。
せいぜい、車椅子や、杖をついて来場された方が、癒され、普通に歩いて帰って行くことが出来たと言うような現象を見るくらいです。これらの偽の癒しの集会(と思われる)をしている方々に言いたい。もし本当に神から出たことならば、死者を甦らせ、生まれつきの盲人の目を開けて見せて下さいと。
しかし、現代においても、不治の病が、神癒によって治る可能性は、決してゼロではない。偉大な信仰と霊の賜物、癒しの賜物が現れる時、必ずや、使徒行伝にあるような奇跡が行われる時が来ると考えます。でも、正直に言おう、癒しの奇跡はめったに起きることではない。それが現実です。不信仰かも知れないが、その現実から目をそらせることは出来ない。
しかし、神の業が現れ、癒しの奇跡が行われるもう一つの方法があります。それは心の癒し、魂の救済です。ある方はそれは論理のすり替えであると言われるかも知れない。イエスの行われた癒しは本当の肉体の癒しであるべきで、現代には起こらないからと言って、そこをすり替えて、魂の救いに持って行くことはどうなんだろうか?こう言われると、私には返す言葉がない。しかしそのことを理解しつつ、尚、イエスの行われた外面の肉体の癒しの奇跡の奥底には、当時肉体を癒された人々に対して、さらに心の内面、奥底まで踏み込んだ、ドロドロした罪の癒しと、清めと、心の平安、魂の救いの奇跡があったような気がしてならない。
もし身体障害者や、難病、奇病に苦しむ方々、精神を病んでいる方々も含めて、その様々な欠けの多い現実がきっかけで、イエスに魂の救いを求めてやって来れたら、どんなにか幸せであろう。それはある意味、健常者で、物的にもすべてのことに豊かであるが、しかし、自己の力のみで幸福な人生を送れると信じ、神を受け入れずに、罪のうちに死んで滅びてしまう者より、余程幸せなことなのではないだろうか。永遠の命の観点から考えると、様々な苦難を通して、イエスを見出し、心の平安と、救いの喜びを味わい、さらに未来の命を得る方が幸せです。それが論理のすり替えと言われようと、私は心からそう思っています。
もちろん、私は現世の幸せを全く意味のないことだとは考えていない。神を知らぬ普通の人々が、神抜きに、ある程度現世で幸せに生きることが出来ているのも、目には見えないだろうが、天地を創造した愛の神が、信じる者や信じない者、総ての人を含めて普通に生活することをお許しになっていればこそです。神を知らないが、普通の人の普通に生きれる幸せをも神はお許しになり、目には見えないが支えて下さっているはずです。太陽の光は善人にも悪人にも普通の人にも平等に注がれています。太陽の光を神の愛と比喩的に考えれば、神の愛は総ての人に注がれて、神の御恩寵の中ですべての人は生きることを許されているのです。
しかしやがてその愛が、地上から取り去られる時が近づいています。その時はこの地上に何が起こるのでしょうか。一言でいうならば大きな災禍を伴う天変地異が起きて来ます。『そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。』 (マタイ24:21)
名古屋中村の百姓の子として生まれ、関白まで上り詰めた豊臣秀吉が詠んだ辞世の句があります。余りにも有名な句です。「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」 己の栄耀栄華を極めたとしても、結局人生は過ぎ去れば夢のように過ぎ去ってしまう、朝露が消えていくように消えてしまうのです。たとえ全世界の富を手中にすることが出来たとしても、永遠の命を失ってしまったら、それに何の意味があるだろうか。『人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。』(マタイ16:26) 『人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい。』(詩篇49:13) この世のことは総てが、過ぎ去って行くのです。
要は、信仰に入るか入らないか、イエスの十字架のかけがえのない愛を、受け入れ、信じるか信じないかの問題なのです。イエスが私達の咎と罪をすべて背負って、身代わりに死んでくれたので、自分の犯してきたすべての罪が赦され、やがてこの肉体が死んで眠りに就いた後、イエス来臨の時、よみがえることを信じて行こう。もう一度新しい命、今度は完全な、五体満足な栄光の身体が与えられ、二度目の真の人生を、永遠の命と尽きることのない幸せの中に生きれることを信じて行こう。もしこのことを信じることが出来るなら、この価値観に基づき、毎日の生活を送れるようになり、また現在遭遇している、色々な不幸のとらえ方が全然違ってくるのです。すべてが神の御栄光が現れるためであったと思えるようになってきます(原則は分かっていても、肉の弱い私達ですから、そう思えるほどに人生を達観出来るまではかなりの葛藤を乗り越えなければなりませんが)。
魂の救済を得ていることが、難病、奇病や身体障害の癒しよりも優先して来ます。今までの耐え難い疾病等の苦しみが、魂の救いを得るため、イエスのもとに来るための、神の許された、摂理の中にあったのかと、気付かされてくるのです。病気だけでなく、個々の人生で、辛酸を舐めるような、遭遇した様々な苦難ですら、自分を造り変え、神の栄光に与からせるためであったと理解されてくるのです。
この世にあって、肉体的に不遇であった者、健常者、健康で一生を過ごせた者も、最後は皆土に返って行きます。この意味で人生は平等なのです。『お前は顔に汗を流してパンを得る 土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」』(創世記3:19) ただ、肉体のハンディーを背負い、苦しみの内に生きて来たか、美味しいものを食べて、贅沢の限りを尽くして、この世的には幸せに生きてこられたか、その差だけです。苦しみと、幸せの差は確かに大きい。その意味で人生に差があることは認めなければなるまい。そんな感想をお持ちの方々に、金持ちと貧しいラザロの喩え話は大きな慰めになるだろう。
『「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。』(ルカ16:19~23)
人間の寿命は、たかだか80歳~100歳くらいに過ぎない。繰り返しになるが、幸せな者も不遇な者も、皆この喩え話のように墓場に行くのです。
ですから永遠の命を受けられる価値観から人生を考える事が大事になるのです。永遠の観点から見れば、この世での人間の一生など一瞬にしかすぎないのです。
『現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。』( ローマ8:18)
人生あまりにも短い。私も今年74歳になろうとしている。何年か前、現役時代にお世話になった先輩OB局長が79歳の若さで逝ってしまった。友人、知人の中から、チラホラそんな寂しい話を聞くのも稀ではない年齢、70後半から80歳台に私も近づいて来た。
自分の人生振り返れば、辛い事、苦しい事の方が多かった。もちろん、子供が生まれたり、順調に育って、大学を卒業し、就職し、幸福な結婚生活をし、仕事も順調で、孫も与えられ、この世的には、楽しいこともいっぱいあった。
しかし、良く考えて見れば、この短い人生の一齣を過ごしている現実に違いはない。人間皆そうです。肉の楽しみに溺れ、毎日を刹那的に生き、何か面白いことはないかと探し回って、一日を終える人もいれば、高尚な趣味や、芸術等に没頭する人もいる。あるいは、美食を追求し、旅行三昧に明け暮れ、気が付いたときは足腰も弱り、いつかどこにも行けなくなり、自分の心臓が止まる番が巡って来る。毎日が矢のように過ぎて行き、肉の楽しみ、快楽を与える物に気をとられているうち、いつしか、最期の眠りがその人を襲い、人生は儚く終了してしまう。1回限りの、その人にしか与えられていない、貴重な人生の時間が、そこで止まってしまうのです。
だからこそ、それがどんなきっかけでも、イエスのもとに来るようになれば、それで良いではないか。裕福で健康な人は、それがいつまでも続くものではないことに気が付いて、イエスのもとに来れば良い。今苦難の内にある人は、その苦難からの救いを求めて、イエスのもとに来ればよい。その苦難は、色々とあるだろう。経済的な窮乏、対人関係の行き詰まり、難病、奇病、様々な疾病、先天的、後天的な障害であるかも知れない。ヨハネ9章にある、生まれつき盲人で、しかも通りすがりの人に物乞いをしていた人に似た人生かも知れない。あるいは今ALSにかかり、車椅子で生活し、何もできず24時間介護のお世話になり、やっと命を繋いでいる人かも知れない。しかし、どんな艱難苦難に遭遇している人であっても、人間として生きている以上まだ望みがあるのです。決して早まって自殺したり、自ら命を断つようなことをしてはいけない。
ただ、イエスの十字架、罪を贖い、赦して下さっている、そのお姿を見つめよう。又、三日後に墓から復活し、私達にも同様に復活の命を与えることが出来る、イエスの復活の力を信じよう。健常者も身体障害者も難病者も、富んでいる者も、貧しい者も、総ての人を救い得る永遠の福音があります。人生は捨てたものではない、まだ希望があります。善き神の存在を信じよう。その神が、キリストにあって、この小さな、塵灰に等しき私達を憐れんでくださっているのです。
聖書の中に、このような私達は、虫のような存在だと表現されています。『虫けらのようなヤコブよ イスラエルの人々よ、(私達のこと)』(イザヤ41:14)。 私達は、ひと時表れて、やがてすぐに消えゆく存在なのです。 『人生はため息のように消えうせます。』(詩篇90:9)とモーセは詩篇の中で詠っています(120歳まで生きたモーセが言っているのです)。過ぎ去ればどんな人の人生も、ため息を一呼吸した如くに短く感じられるのです。 こんな私達を神は哀れに思っていてくださっています。本を質せば土の塊から造られた私達ですから。
イエスによって贖い、罪から買い戻し、永遠の命を付与しようと、世の始めから、堕罪前から、愛の神が救いの計画を立てておられたことに、気が付いて行きましょう。永遠の命をキリストにあって私達に賜うのは、父なる神の最初から意図するところであり、御心であるのです。
キリストにあって、肉体の障害を見事に乗り越えて、人生を送っておられる一人の有名な人を以下に、例として書いておきます。 群馬県勢多郡東村に生まれた星野富弘さんは、中学校で体育の先生をやっておられましたが、24歳の時、クラブ活動の指導中、事故で、マットに頭から落ち、頸髄損傷し、首から下を動かせなくなりました。病院で何度も手術を受け、2年ほどたち、やっと自分で呼吸できるほどに回復しましたが、首から下は動かすことが出来ませんでした。大学で学んでいた時、寮の先輩で、牧師になった方がいて、その方の影響で聖書を読むようになりました。病床で受洗し、キリスト信者になってから、口で多くの花の絵を描き、詩や、エッセイを書いておられます。また星野富弘美術館には、今まで700万人以上が来場し、多くの人に感動を与えておられます。
『野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。 』(マタイ6:28~30)の聖書の言葉に心を打たれ、病室に飾ってある花を見た時、神の造られた花の美しさに改めて感動し、手足は動かせないので、口で絵筆を持ち、花の絵を描き、そこに短い詩を書くようになったのです。
「からだには傷をうけ、たしかに不自由ですが、心はいつまでも不自由ではないのです。不自由と不幸は、むすびつきやすい性質をもっていますが、まったく、べつのものだったのです。」 星野富弘自伝『かぎりなくやさしい花々』より。
『見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」』(ヨハネ9:39~41)
見える人が見えないようになり、見えない人が見えるようになる。イエスによって癒された盲人は、イエスを受け入れ、神を信じ、その魂の救いを得た。肉体の目が癒されただけではなく、心眼が聖霊の力によって開かれ、真の救いを見ることが出来るようになった。
しかし目が見えていると思っているファリサイ派の人達は、霊的には盲人のままであり、ついに心眼が開くことなく、イエスが提供した救いを、受け取ることが出来なかった。彼らは、自分達は律法の教師であるし、霊的事物も総て見えていると思い込んでいた。そこに罪があった。実際に何も見えない状態だったら彼らに罪はなかったであろう。
神の御言葉に接したことのない日本人が、罪に対して無関心であり、罪であるものを罪と知らずに楽しんでいる。しかし聖書を学び、霊の眼が啓けると、罪がどんなにひどいものであるかがわかって来ます。聖霊の感化によって心の真の状態が見えてこないと、罪を罪として評価できないのです。今まで自分が肉の欲によって行って来たことは、神の前に恥ずかしい限りの乱行であり、利己的な楽しみであったこと等が分かって来ると、それらを忌み嫌うようになります。
ファリサイ人や律法学者達は真理を理解しているし、霊的な事物は見えていると言い張り、律法に対する自分達の解釈(表面的な、文字面に拘った、生まれつきの肉の努力による行いによる救い)が正しいと信じ、真理そのものの方であるイエスを否定していた。霊的事物が見えてないのに、見える、だから自分達の方が正しいと、主張していた。彼らは大変な心の盲人であったのです。
聖霊によって、自分の卑小さ、罪深さ、醜さを悟り、イエスの贖いの必要性を感じ、誰がこのような醜い己を救って下さるのかを切実な思いで願うようになる。『わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。』(ローマ7:24)とパウロと共に神に叫ぶのです。イエスの十字架と復活の霊的意味が分かり、悔い改めて、福音を自分の為であったと、信じるようになれた時、聖霊によって心の眼が開かれ、霊の世界が見えるようになります。
私達の心の眼をイエスの御霊によって、開いていただきなさい。これがヨハネによる福音書9章の真のメッセージです。単に肉体の盲目が、イエスの奇跡によって癒されただけの物語ではないのです。