私の福音理解

 ただ神の憐みと、御霊の癒し、一日のすべてのやることを御手に委ねながら生きて行きたい。そのことをイエスの御名のゆえに祈り願って行こう。キリストに委ねつつ、御霊の支配下の中で、自分のこうしようと言う決心が必要だ。何かもう少し切り口を変えて復活したイエスの支配と勝利の霊と共に、力強く生きることが出来るような、聖書を基本とした表現を求めて、以下書いてみたい。今まで書いた文章の繰り返しが多く、読んでいてもまた同じことを言っていると思われる部分があるとは思うが。

 『もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられた(既に)のは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きること(既に)にもなると信じます。』(ローマ6:5~8)

 私達の古い肉の自分は、既にキリストの体に結ばれて、キリストの十字架と一緒に磔けられ、死んでしまっているのです。死んだ者は罪を犯すことも、肉の死んだ古い自分がジタバタして律法を守ることも出来ません。この意味で十字架で古い生まれつきの自己を葬った私達は、律法に対して、肉による守り方からは原理的に解放されているのです。罪からも解放されているのです。『死んだ者は、罪から解放されています。』(ローマ6:7)  『あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。(既に)』(ローマ7:4)

 そしてキリストが復活した時、私達も同時にキリストと共に実存的に既に復活しているのです(聖霊による新生、キリストの霊の内住、聖霊の満たし、聖霊の降下も、大きな意味で霊的に復活した経験に含まれると考えます)。

 『キリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれる』のです。肉の死に切れていない自分を見て嘆くより、むしろ復活した御霊の支配、更に優ったキリストの勝利の霊の力の支配を自己の中に感じ、信仰の喜びに満たされて生きるべきです。キリストと共に生きる実存的な毎日の過ごし方の中に、もっとキリストにあって喜び、力に満たされ、感謝と活き活きとした、復活の霊の力に満たされた生活感があって良いのです。

 既に新しい命が始まっているのです。『わたしたちも新しい命に生きるためなのです。』(ローマ6:4)新しい命が御霊によって始まったのです。キリストを信じる者はキリストの体に結ばれて、この新しい命の中に、霊が解放されて生きるべきなのです。この言葉が私を捕らえた。私が新しい命に生きているか? それがすべての問題なのです。そこに真の霊の自由があるのです。

 『しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪(第一のアダムの罪)によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物(第二のアダムの恵) とは、多くの人に豊かに注がれるのです。』(ローマ5:15) ここに『なおさら』というキーワードが使われているのに気が付く。第一のアダムと、第二のアダムはどちらが偉大なのだろうか。第一のアダムが犯した罪の業と、第二のアダムがした義と恵の業とは、どちらが偉大なのであろうか。一方は土から造られたものであり、一方は土から造られた肉体はもってはいたが(受肉)、無垢な方であり、さらに今や復活によって朽ちない栄光の身体を持っており、偏在性をも獲得し、どこにも存在しており、そもそも最初から神の子なのです。どちらの姿が優先して働くのか、言うまでもない。アダムにあって罪の支配の中にあった多くの者を、キリストは義の支配のもとに呼び起こし、義の支配の中に入れてしまう力があります。第一のアダムの罪と死の支配より、第二のアダム(キリスト)の義と恵みの支配の方が『なおさら』『豊かに』優先して私達に働くのです。

 『死んだ者は、罪から解放されています。』(ローマ6:7)

 『罪から解放され、義に仕えるようになりました。』(同:18)

 『かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。』(同:19) 

 『あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。』(同:22)

 キリストに結ばれ、共に十字架に付けられたと信じて、認めて行くならば、既に肉の自分は死んでしまって、罪から解放されているのです。何故なら死んだ者は、罪を犯すことも出来ません。古い肉の守り方で律法を守ることからも解放されています。律法は死者を縛ることは出来ないからです。

 『ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています(既に)。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり(既に)、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。』(ローマ7:4)

 『今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。』(ローマ7:6)

 しかし、神に仕えることから解放されたわけではありません。『その結果、文字に従う古い生き方ではなく、"霊"に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。』(ローマ7:6)"霊"によって、つまり、イエスに人格的に結ばれることによって、さらに石の冷たい文字に刻まれた死の務めを司る表面的な律法解釈ではなく、復活したイエスの命を全身に受けて、聖なるエネルギーに満たされて『"霊"に従う新しい生き方で仕えるように』、『新しい命に生きる』ようになって行くのです。

 『文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。 もし石に彫りつけた文字による死の務が』(コリント第二3:6~7口語訳)のパウロの言葉も同じ意味です。文字面にこだわった表面的な解釈を基にした、生まれ変わっていない人間の単なる努力、肉の力による律法遵守ではなし得なかった事が、霊の世界にはあって、そこにとどまるべきです。霊で始めたことを、肉で仕上げるようなことがあってはなりません。『あなたがたは、それほど物分かりが悪く、"霊"によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。』(ガラテヤ3:3)

 つまり聖霊により心底から新たにされて、キリストのような人格を宿して、本当の意味で、神と人を愛して、真の意味での愛の実践をして行くべきなのです。すなわち神と人に対して、自分の命と時間とを削って生きて行くのです。それはキリストが神と人の為に命を捨てられたからです。『イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。』(ヨハネ第一3:16)  また、神のためにも命を捨てるべきです。『自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたし(キリスト)のために命を失う者は、それを救うのである。』(ルカ9:24) キリストに似た人になること。キリストがなされたように生きること。キリストが私達の中に聖霊を通してお住まいになり、生きる力を与え神と人のために自分の命と時間、総ての生活空間、あらゆるこの世が提供する肉の娯楽、趣味や趣向を削って行くような生き方が、真の律法が求めていることなのです。

 霊が解放され、内的な心の自由を得たら、つまり新しい命の中に充満され、心の中がキリストの霊に満たされたら、真の自由の律法が心に実現して行きます。それは決して以下の神の御言葉と矛盾することではなく、表面上の律法の行いを無視することなく、クリスチャンとしての、道徳律の標準的用法とも言うべきスタンダードからは逸脱しないと私は考えています。

 『それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。』(ローマ3:31)

 『しかし、わたしたちは、律法は正しく用いるならば良いものであることを知っています。すなわち、次のことを知って用いれば良いものです。律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、偽りを言う者、偽証する者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えられているのです。』(テモテ第一1:8~10)

 『今述べたことは、祝福に満ちた神の栄光の福音に一致しており、』(テモテへの手紙一 1:11)

 

 キリストの十字架の贖いと、復活した霊の命の力、その歴史的事実に基づいて私達の信仰はあるのです。決して、パウロの思念が生み出したものではありません。例えパウロの思念だとしも、神の言葉に変わりはありませんが。何れにせよ、私達は既に第二のアダムになって下さった、キリストの支配の、それも偉大な義と贖いと栄光の支配の下にいるのです。それらのことが既に自分自身の中に実現していることを信じたいと思います。それらの霊の世界で起きていることを自分のものとして体験するためには、祈り求めたことは既に得たりと信じる信仰が必要です。かなえられたと信じて、天から復活の霊の息吹が吹き込まれ、キリストを通して聖霊の支配が自己の内に実現して行くのです。それが『新しい命に生きる(ローマ6:4)と言うことなのです。

 以上のような理由で、ローマ書8:1~2にあるように、既にキリストの御名の権威において、キリストに属する私達にも霊が解放されて生きれるようになったのです。『従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したから(既に)です。』

 第二のアダムの勝利と霊の支配を私達は受けて、もはや既に聖霊は上から降ると同時に私達の内から解放されています。それが信仰の法則であり、このような信仰の事実、原理、原則に基づき、霊により、復活したキリストにあって力強く、心も安らいで生きて行けるのです。自分の罪深さと弱さばかり見て、ウジウジしていてはいけない。もっと力強く、もっと活き活きとした、信仰生活の毎日を、勝利したキリストと共に、平安のうちに送らねばなりません。

 私達の心の奥底から、霊が解放されていますか?実はそのことが問題なのです。キリストの霊は、私達の上に豊かに降り、私達が自分の内に持っている自分の霊と一緒になって、霊が解放されて、自由に力強く、清々しく生きることが出来るのです。もちろん悔い改めるべきハッキリした罪は悔い改めなければなりません(そこに誤魔化しがあってはなりません)。しかし、日常の生活の中で律法の文字面ばかりを眺めて、こまごまと、これは果たして罪になるのだろうかと、そんなことばかりを考えて生きていませんか?イエスとの人格的交わりこそ信仰の極地なのです。

 自分の力のみを信じて、自己中心に生きて行くこと。すなわち、クリスチャンにとってキリストから離れて生きることが最大の罪としたら、キリストに常に結びつき、キリストのもっと大きな愛の桝目の中に、自由、闊達に、霊が解放されて生きて良いのです。『神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。』(テトス3:6)聖霊は豊かに注がれているのです。神は吝嗇な方ではなく、とても気前の良い方なのです。それらを力強く主張しましょう。私達は受肉されたキリストにあって、同族の者として認められ、長子(キリスト)より末弟(私達)として御霊をいただく権利があるのです。私は末弟として(80億番目位のかなりお恥ずかしい末弟ですが)長子キリストに注がれた、油注ぎの霊を、こんな愚かな自分にも、僅かで良いですから、『自由の霊』を持って私を支え、さらに『癒し』や、『知恵と啓示』の賜物と一緒に、聖霊を注いでくださいと、イエス・キリストの御名によって祈っています。


 会衆の中で、石の板に刻まれた古い契約を朗読されるたびに、私達の心は自己努力による、キリストの霊から離れた救いと言う考え方に魅かれて行きます。モーセの顔覆いが私達の心を覆い、鈍い肉の理解力と努力で救いを何とかできると言う思いに、心が支配されて行くのです。

 自由の霊を持って支えられ、キリストすなわちマーシアッハ、油注がれた方が私達の肉の心から、(肉の)力・知恵・理解・努力と言う奴隷の軛を取り除き、モーセの顔覆いを取り除いて下さるのです。もはや主の霊に満たされながら、イエス・キリストと似た者に、栄光から栄光へと変えられて行くのです。『しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。 ここでいう主とは、"霊"のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。 』(コリント第二3:14~18)

『......信じる者は、永遠の命を得、また、...死から命へと移っている。』(ヨハネ5:24)この御言葉の約束のゆえに、もう、イエス・キリストにあって、永遠の命を得ているのだと、自分に言い聞かせましょう。ヨハネ第一の手紙に、大きなキーワードがあります。私達はイエスの体に結ばれて、十字架の死と復活の命をイエスと共にする信仰によって、既に永遠の命を、現世においてもいただいているのです。そのことを明確に意識し、悟るべきです。『神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。』(ヨハネ第一5:13)

 祈りの起点を、自分の側ではなくて、約束された側、イエスの視点に立って、聖霊が降ることを含め、その結果による各種の賜物もいただき、特に病の癒しの賜物を求め、それらの祈りは、既にかなえられたと、主張しましょう。『彼(イエス)が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであった』(イザヤ53:4)と書かれているではありませんか。これは私達に対するお約束の言葉です。イエスの十字架は、私達の罪と咎を負われ、その傷によって私達は多くの過去、また現在の負債を赦されました。しかし、その聖句の前には、病も痛みも負われたと書いてあるのです。罪も病も両方イエスは癒されたのです。また別の箇所には『主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやし、 』(詩編103:3)とも約束されています。

 

『しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。』(ルカ10:20口語訳)

 神の御心に沿って思いを清め、倫理的な生活も含めて、自己犠牲的な神と人を愛する行動に時間を使い、また、深い祈りの中に、聖霊の臨在を求めて行くとき、身の回りに不思議な事が起こり始めます。『霊があなたがたに服従』して行くのです。日常の細かなことに、霊の介入を感じ、不思議な支配を体験し、御名に感謝と喜びを捧げることが出来ます。もちろんだからと言って、高慢になってはいけません。『むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」』とイエスによって注意されています。天国に行けること、永遠の命が、恵によって与えられることが最も価値のある、喜ぶべきことなのです。しかしこのイエスの言葉、『霊があなたがたに服従する』は、私にとって、毎日の生活の中に実存的に主の御手が感じられる瞬間であります。信仰が楽しくなり、喜びに満たされて行く経験です。『御使たちはすべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたものではないか。』(へブル1:14口語訳)キリストを信じる者は、すべて仕える霊の御奉仕を遠慮なく受けて良いのです。主にある確信、私達のそばに神の御腕が差し伸べられている霊的感覚、それは増し加わる喜びの経験です。そして、御使たちも私達に奉仕できることを喜んでいるのではないかと私は考えます。

 『こうして、......恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。』 (ローマ5:21) 恵みによって、御霊の支配下の中で、力強い生き方が出来るのです。まったく違った、生き方が出来る可能性があります。私はこのような生涯をこれから歩みたいし、歩まなければならない。キリストが復活した時、このような恵みの支配が復活の霊によって始まったのです。この地上において新しい時代が到来したのです。霊の支配の管理下に私達も組み入れられ、勝利の活き活きとしたクリスチャン生活が歩めるようになったのです。キリストの復活の御霊が私達を支配するように、常に意識して、祈り求めて行こうではありませんか。

 こうは言っても私達は肉にあっては弱いものです。 しかし、神はキリストの義を私達の義とみなして下さっている(義認)ので、失敗してもいつでも再び立ち上がってやり直せます。常に神からの救いの義を身に纏って、落胆せずに、義と命の法則の中に、霊が解放されて進んで行くことが出来るのです。『キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、"霊"は義によって命となっています。』(ローマ8:10)この弱い肉の体は、どんなに鍛錬し、霊的な意味で修養をし、磨きをかけても、どうしても失敗したり、落胆したり、霊の欠乏を感じて疲れたり、睡眠不足になったり、疲労感に打ちのめされたり、つまらないことで怒ったり、注意散漫になったりするものです。また、病になり、そこから来る肉体の実際的な痛みに打ちひしがれ、気持ちが霊の方向に向かわないこともあるのです。それらの肉の弱さを感じながら、今は肉の弱さのゆえに死んでいたとしても、霊は義(義認)のゆえに生きているのです。そう信じて愚かな自分を見ず、キリストを仰ぎ見ながら、前を向いて進んで行く以外に道はありません。『地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ。』(イザヤ45:22口語訳)

 それどころか、もっと大きな素晴らしい約束が11節に続いています。キリストの霊が私達の内に宿り、私達がキリストの中にいつも信仰によってとどまるならば、キリストの霊は解放され、この衰えた、痛みがある、どんな人も何らか、ある程度損傷している、欠けの多い肉体(個人によって弱さの箇所は違いますが)も、キリストの霊が癒して下さるお約束があるのです。『もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。』(ローマ8:11)これは、神癒によって私達の欠けの多い肉体までが、癒される可能性を示唆している聖句です。『霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生か』す、これは癒しを意味していると私は解釈します。もちろん、フィジカルな肉体の癒しは、医学的な措置によっても可能だし、毎日の運動、ニュースタート健康法のような健康の原則の実行、 規則正しい生活、健康的な食生活によっても持たらされましょう。しかし霊による癒しはそれらを含みながら、それ以上の健康の効果をもたらすと私は信じております。何故ならそれらは私達の常識的な理解を超越した、奇跡の力を含んでいるからです。もちろん、癒しの奇跡は、現代においてめったに起きるものではないことは、私も経験上良く知っています。それでもこの御言葉により頼んで日常的に祈って行きたいのです。

 恵によって霊的に十字架に磔けられ、古き自分が死んだと言っても、良く考えてみれば、肉体を持って相変わらず、この世の肉の生活を毎日続けているわけです。この厳しい現実には変わりはありません。だから、御霊に満たされたとは言っても、油断はできません。肉の命はすぐよみがえって来て、私達を御霊が導くとは違った肉的な方向へと誘惑するのです。ここは身体を打ち叩いて服従させるような、強い鍛錬と訓練が必要になって来ます。『すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない。』(コリント第一9:27)

 恵の中にありながらも、明白な現行罪の誘惑に、自分の生き方を曲げるようなことはしない決心が大事です。如何に私達が霊肉共に堕落し、どうしようもない利己的な、肉の人生を、享受するような生活を止むを得ず、内心の自覚の中で毎日送っているとは言え、明白な現行罪的な罪を犯してはなりません。 それは神の恵みからも外れることです。日本の法律にも、神の法律にも明白に違反するような、社会的にも非難されるような犯罪を犯せば、大きな禍根となって私達の人生そのものが破綻して行きます。例えダビデのようにウリヤの妻と不倫を犯し、邪魔であった夫ウリヤを、策略を持って戦地で死に追いやった大罪(サムエル記下12:9~10)を、預言者ナタンに指摘され、結果的には真摯に悔い改め、神に赦されたとしても、そのようなことはしないに越したことはないのです。

 明白な犯罪的行為に誘惑されるとき、自己の意思を神に従わせるような、強い選択の能力も必要でしょう。英語でobeyは自分の意思を従わせる意味での服従ですが、surrenderは神の御意志に何もかもお委ねし、自分の意思も含めて降参してしまうと言う意味での服従です。聖書は神に自己を明け渡し、サレンダー(降参)し、すべてを御手にお委ねするような意味での服従を言っているのだと思います。

 『肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。』(ローマ8:13)

 聖霊によって、肉の欲求を絶つ、コントロールすることはどうしても必要になって来ます。何故なら私達は、弱い肉体を持っており、腹が減れば肉の食物を食べなければなりませんし、眠くなれば眠ってしまいます。働けば疲れるのです。この肉の様々な欲求は、欲情や欲望もろともに十字架につけてしまいましょう。さら私達は意味のない娯楽や安逸を好む性質があります。野球やその他のスポーツ観戦とその応援に、身も心も、大切な人生の時間も大量に費やしている人々もいます。良く考えて見れば、どのチームが勝とうと、どの選手が活躍しようと、自分の人生には何の関わりもないことです。私達の心の中には、肉を喜ばせる様々なこの世が提供する快楽を楽しみたいと言う欲望があります。自分の中には、変えられていない、世の楽しみにすぐに同調してしまう心があります。様々な肉の偶像(アイドル)に引き寄せられ、ファンとしての興奮に一時を忘れてしまうのです。その偶像と一体となった興奮が、一時的な肉の喜びと力を鼓舞する一面は否定できませんが、それらは過ぎ去れば幻のように空しい、一時であったことに気が付きます。『キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。』(ガラテヤ5:24)

 さらに進んで、この世の総ての物を十字架に磔けてしまったのです。『しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。』(ガラテヤ6:14)

 『肉を欲情や欲望もろとも十字架につけ』、『世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけ』られているのです。つまり、自分の今までの生まれもった肉の生き方のすべてを、キリストと共に葬り去らなければなりません。

 『「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。』(テモテ第二2:11)のです。

 自分が生き甲斐を感じてきたこの世の趣味、趣向、TV、映画、ゲーム、スポーツ観戦、レジャー、旅行、自分の生きる空間、飲食物、仕事、財産、あらゆる日々のルーティン等、この世における全てを一度イエスに明け渡すように言われているのです。これは一朝一夕で出来るようなことではありません。長い清めの過程が必要になってきます。しかしここで、今まで苦労を重ねて見出し、身につけて来た良い習慣まで放棄しなさいと言っているのではありません。どう考えても健康に良く、聖書の原則にも矛盾しない生き方はそのまま続けて行きましょう。

 

 『神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。』(ローマ8:14~16)

 『「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。』(ローマ10:13)

 『地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ。』(イザヤ書45:22口語訳)

 救いは私達が考えるよりもっともっと大きく、神の恵みは溢れるばかりに人々に注がれているのではないでしょうか。主の名、YHWHは救いである(へブル語ヨシュア、ギリシャ語イエス―スの意味)を心から呼び求める者は、その名の偉大さのゆえに、誰でも救われる、例外なく救われるのです。ただ私の救いとなってくださいと思念を込めて、イエスの十字架を仰ぎ望むだけで良いのです。

更に詳しく解説すると以下のようになります。(イエスという名前の意味は、なんですか。 | 聖書入門.com  より)

イエスという名前は、ヨセフとマリアが考えたものではなく、天使から告げられたものです。イエスは、ヘブル語やアラム語では、「イェシュア」と言います。イェシュアという言葉は、「ヤ」と「ヤシャア」の合成語です。「ヤ」はヤハウェという神の御名の短縮形であり、「ヤシャア」は救うという動詞です。つまり、イェシュアは、「ヤハウェは救う」という意味になります。イェシュアというヘブル名がギリシア語に翻訳されると、「イェスース」となります。それを英語に翻訳すると、「ジーザス」となります。

つまり、イェシュア=イェスース=ジーザスです。日本語の「イエス」は、ギリシア語の「イェスース」の音訳です。


 『モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。』(民数記21:9口語訳)モーセが竿の上に掲げた青銅の蛇を見上げた者は、毒蛇にかまれた毒が即座に癒され、皆救われたのです。イエスの十字架を仰ぎ望むだけで、そうすれば救われるのです。地の上に、被造物を救うために、ご自分の命を捨てられた神など、他にはいません。『神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。』このお約束の言葉に信頼しましょう。

 『ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。』(ヨハネ3:14~19口語訳)

 『あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。』(ローマ8:15)

 私達の心に宿っている、御子の霊が、私達の口から出て、祈りの叫びをあげます。『「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊』(ガラテヤ4:6)によって叫ぶのです。叫ぶのですからそれは心の底から出た、絶叫とも言える、悶えながら出る強烈な求めの言葉です。それは、ある場合には、心の中で叫ぶ叫び、魂の慟哭でありましょう。外には聞こえてこないかも知れません。それでも心の奥底までご存知の神は聞いてくださるのです。『あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」(親しく、尊敬している、慈父)と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。』(ガラテヤ4:6)

 この御子の霊をいただかなくては私達は真に霊的に生きて行けません。信仰の最も大事な始まり、起点です。同時にこの霊は、信仰をいつも導いておられ、現在をも支えてくれています。

 私達はこの霊(イエスの霊)によって天の父なる神を求めて行くのです。そして私達の霊とイエスの霊は共に私達が神の子供であることを、証ししてくれます。私達は既に神の子供なのです。子供は神の栄光と共に、イエスの苦難をも相続をすることになります。信仰のゆえに受ける苦難や迫害は、私達が神の子供として、イエスから相続するものの中に含まれています。この世にある肉から生じる、困難・疾病・老化・経済的問題・対人関係の不和・激しい気候変動・災害・事故・死別・肉親との別れ・一人で生きて行くことの侘しさ・精神的不安定等も、祈りの内に耐えて行くことの中に含まれていると考えます。この世で生活している以上、仏教で教える「生老病死」の四苦はキリスト者にとっても耐えなければならない苦しみなのです。

 厳しい、生きて行く上の様々な苦しみがありますが、私達がすべてのことに恵まれ、健やかで幸せに生きて行くことが、愛の神の御心であることは間違いありません。『愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。』(ヨハネ第三2) しかし、人類が始まって以来、多くの罪が繰り返され、塵が積もるようにたまって、自然界も、霊的な世界も既にかなり損傷してしまっているのです。私達は地上にあっては、劣悪な環境の中で、この弱い体が贖われるのを、もだえ苦しみながら待ち望んでいるのも現実なのです。

 この弱い脆い肉体をもって生きて行くこと自体が、試練と苦難の繰り返しの毎日と言われなくもないのです。救われ御霊の初穂をいただき、神の栄光の一部に与かった私達も肉の苦しみに喘いでいます。私達ばかりではなく、神の造られた自然界、動植物、被造物全体が、いつか神の栄光の自由に与かれるように、苦しみ悶えています。私達もこの衰え行く、欠けの多い体が贖われ、栄光の自由に導かれることを希望をもって待ち望んでいます。まだ見ていないから、待ち望むのです。死ぬべき身体を持っている肉と同時に、永遠の命の始まりの兆しがある霊の中で、この地上の幕屋の中で喘ぎながら、身体が贖われることを切に待ち望んでいるのです。特に色々な病で苦しんでいる方々、また、生まれつき、あるいは事故等によって、肢体に障害をお持ちの方々は、キリストの来臨と共に新天新地が出現し、この欠けの多い肉体の苦しみからの解放されることを、切実に待ち望んでいるのです。

 今現在様々な理由でホスピスにおられて、治療しておられる方々がいます。ただ安らかな眠りの訪れ、人生の最後を迎えている方々にとっては、死の苦しみに喘いでいる肉の幕屋を脱ぎ捨て、新たなる栄光の体を上から神によって着せていただく瞬間を待ち望むことが唯一の希望なのです。世の終わり、イエスの再臨の時には、主を信じる総ての者が復活し、自由な完全な朽ちることのない栄光の体が、皆平等に与えられるのですから。たとえ今健康であって人生を享受していたとしても、いつかは肉の寿命の最後を迎え、皆墓に入らねばなりません。イエスによって復活の新しい命をいただき、栄光の体によみがえることこそが、誰にとっても最終的な希望なのです。こうは言うものの、誰でも死に至るまでの過程に待ち構えている痛み、苦しみは、避けて通りたい、これは人情です。

 人生の様々な場面で、肉の人間が痛みや苦しみを感じているのをイエスはご存知です。どんなときにも、 イザヤ53章4節『彼が担ったのはわたしたちの病彼が負ったのはわたしたちの痛みであった 』の約束の御言葉を、イエスが実現してくださるよう、信じ求めて行きましょう。


 聖霊も弱い私達を、とりなし助けてくださいます。私達はどう祈って良いか分かりませんが、祈りの言葉すら与えて、神の御旨にかなった方向に、真理と知恵と啓示の霊を与えて導いてくださいます。私達の周りの総ての環境に働きかけて、万事を益になるように取り運んでくださるのです。

『神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。』(ローマ8:28)

 万事とは良いことも悪いことも、普通のことも含めて、全てが私達の益(物的な祝福、霊的な祝福の両方を含む)となるように共に作用します。最終的に全面的にキリストに心が占領され、品性がキリストのようになって行くのです。これが私達にとって最高の益なのです。 

 『神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。 神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。』(ローマ8:29~30) 

 さらに神の贖罪の計画は偉大であり、神は救いに予知なさった人を、御子の姿に似せて再創造される計画をお持ちで、その故に、御子を人間の同族の中で、長子(人類の長子)にしたのです。神でありながら御子は人間の属性を帯びています。  救われた私達は以上のような意味で、御子と同族の弟分になるのです。末弟として要求できる(その総ては御子によるお陰なのですから謙虚でなければなりませんが)権利が私達にあります。その権利の中で最大の要求できるものは、聖霊降下とそれに伴う霊の賜物、ギフトを求め戴くことです。そのギフトの中で最大のものは愛です(コリント第二13:1~13)。また癒しの賜物や、預言の賜物、使徒、教師、力あるわざ、管理、知恵と啓示の霊、異言、異言を解く賜物等、様々な賜物があります。それらは私達にとって、生活の具体的な助けとなり、信徒全体への奉仕として用いられます。霊の賜物は私達の地上の生活における幸せと直結していることも多いので、遠慮なく求めて行くべきです。私は特に癒しの賜物を求め続けています。もしこの賜物が与えられたら、どれだけ多くの人が助かり、喜ばれることでしょう。肉体の救いの喜びと、魂の救いの喜びと両方が私達には必要だとは思いませんか?『愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ健康であるようにと祈っています。』(ヨハネ第三1:2)

 

 私達が自由意思で神を選び取ったから救われた、確かに、人間の方から見れば、そう言えなくもありません。しかし、実は神は『天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びにな』(エペソ1:4) ったのです。天地創造の前に予め知っておられた者たちを、予め定められ、この世から選び出し、召し出したのです。召命した者達を、悔い改めさせ、恵の義で覆って下さり、私達は救われたのです。そしてさらに聖霊をお送りになり、この世においても既に、天国で戴ける栄光の一部すら、お与えになっているのです。

 『神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子(人類の長子)となられるためです。 神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになった(既に)のです。』(ローマ8:29~30)

 私達に、その独り子の命さえお与えになった方は、万物を惜しまずに与えて下さいます。もはや罪に定められることはなく、私達を訴えることは誰にも出来ません。何故なら神が私達の味方なのですから。

 私達の為に御子キリストは十字架に磔られ、身代わりに死んでくださったばかりでなく、むしろ今や復活し、神の右に座し、天の聖所でとりなしの仲介をしておられます。そして聖霊を遣わし、聖霊と言う形でイエスその方が地上に偏在し、私達のそばに、私達の心の中にまで入り込んで住み、世の終わりまで共にいてくださいます。ですからどんな艱難苦難も、死すら私達は乗り越えることが出来るのです。

 『「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」 』(ローマ8:36)肉の私達は総てを十字架につけて、葬むられ、死に定められているようです。しかしそれは、新しい命、復活のイエスの命に、常に満たされて生きる為です。

『しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。』(ローマ8:37)

 この肉の人生はキリストの死にあやかる為、まるで屠られるための羊のように、この世に対しては一日中死に定められている。しかし、それはこの世にあっても復活の命に与かるためです。キリストとその復活した霊の支配に思いを馳せ、私達のうちに働く勝利を賜う神の恵みと憐みに信頼して進みましょう。肉とこの世に対しては死に定められていますが、言葉を裏返せば、実は信仰によって既にキリストに結び付けられて、キリストと共に復活した命に同時に与かり『すべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めてい 』るのです(既に)。キリストと一体になると言うことは、肉の死に与かる一面と、復活を共に今経験する面があり、むしろ『死』に意識を集中するのではなく『復活』、キリストにある新しい命に、常に意識を集中すべきなのです。なぜなら、信仰によって既にキリストと共に古い自分は十字架につけられて死に、キリストと共に復活したことになっているからです。

 

 さらにここからガラテヤ書の信仰についての要点を、書きます。

 『けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。』(ガラテヤ2:16)

 自分が神の律法をどんなに守る努力をして、善良な行いをしたとしても、そのことによって私達は救われません。救いはただキリストの義、罪のないキリストの無垢な生涯を自分の愚かな罪だらけ生涯の上に覆い被せていただくだけです。ただ十字架を自分の罪の身代わりの死であったことを受け入れ信じるだけです。信仰によって神の前に義と認められるのです。100%シミもなく、傷もなく、一度も罪を犯したことのない者として、キリストの義のゆえにみなされ、神の前に受け入れられるのです。『しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。』(コロサイ1:22)

 しかし、それだけ(義認)では、まだ信仰の真理の半分です。あと半分は、キリストに結び付いて、キリストと一体となって、聖霊と共に歩むこと(聖化)が、クリスチャン生活の生涯が終わるまで続きます。『あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。』(コロサイ2:6~7)

 聖化を考えて行くとき、一番心に引っかかるのは、ある時には弱くすぐ挫けてしまうし、ある場合には必要以上に強すぎる意思を持った肉の塊のような私自身がいつも存在することです。果たして肉の努力や修行で聖化されるのでしょうか?律法に対峙して、根本的な自己認識を再確認しなければならない。

 『律法に対しては律法によって死んだ』(ガラテヤ2:19)とはどういう意味か?肉の力や努力では神の律法を守り、要求通り心底から、神と人の為に、生きて行くことはできない。律法は霊的なものであり(ローマ7:14参照)、私達は遺伝的にも、自分自身の自由意思による選択的行動においても、罪の汚れに染まっており、律法の要求する、心の動機に至るまでの霊的な完璧さなど最初から持ち合わせていない。肉によって律法を実行するなど最初から無理なのに、自分が持っている良心や、理性に適う神の掟は、肉の判断力にあっても魅力的であり、自分の力で守れると幸せがいただけるとつい、勘違いして、肉の力でやって見ようと努力してしまう。ところが心の中は罪に売られたままなので、沸々と、変えられていない情念が湧き上がり、嘘をつき、人を羨み、嫉妬し、憎み、不自然な情欲に身を任せ、却って、神の律法‐本来善いものなのに‐が私達の罪を醜悪なものにしてしまうのです。

 肉の生まれ変わっていない性格の中で、律法を実行することなど最初から不可能なことだったのです。神の律法の原則とは何か。それは、神と人の為に自分の命を捨て、自分の命を削って生きなさい、と言うことです。自分の命を捨てると言うことは、時間も空間も自分の所有物も神と人の為に捨てる、削って行くことに他なりません。この世の楽しみも、自分の時間も生活空間も趣味も娯楽も捨てられますか。それは中々困難な事です。律法に対しては律法に死んで行くしかありません。それは自己をキリストと共に十字架に付けることです。いや、正確に言えば、キリストに結びつけられて、既に古い自己は十字架に共に桀けられて、死んだことにされているのを認識することです。そして、既にキリストに結ばれて、霊的に復活の経験の中に入れられていることを同時に認識することです。繰り返しになりますが、キリストの体に結ばれて既に霊的に復活している自分を認識し、内側から霊が解放され、内的、外的な奴隷の軛から解放され、自由になっていることを自覚することです。 

 善い行いをすると言っても、誰も自己を誇ったり、肉の規則や、一見知恵あるもののように見える肉の精神修養等をやり遂げたと言って満足する必要はありません。私達が為すことは、私達の自己の力ではなく、キリストが心の中に住んで力を与え、キリストがして下さるのですから、そこには自己の誇りは一切ありません。ただ誉と、栄光を主に帰するのみです。『わたしを強くして下さるかた(キリスト)によって、何事でもすることができる。』(ピリピ4:13口語訳) この言葉を心の中で繰り返して見ましょう。天から超自然的な力を得、私達は強められます。だから総ての善い行いは、それが実行できたとしても、イエスの御名によって感謝と栄光を神に帰するのみです。『神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。』(エペソ2:10)自分が出来たと思った良い業すら、神が前もって用意してくださっていたのです。

 

 そもそも律法とは何か?それは神の言葉であり、私達の行いを規制するものであり、義の標準であり、永遠の聖なる神の御性質でもあります。律法は善いものであり、霊的なものであり、聖なる永遠のものです。しかし、律法によらねば本来の罪の性質を知ることは出来ません。律法は神の為と人の為、自分の邪な生まれつきの肉の性質を切り刻み、キリストと共に十字架に付けて行くことを求めて来ます。

 律法がなければ罪の自覚もないので、罪は表面化せず死んでいます。ところが、律法が来ると、罪は目覚め始め、より醜悪なものになって来ます。肉の肉なる性質がハッキリして来るのです。例えば、『「むさぼるな」』と言われる前は貪りなるものがあったとしても、そんなに表面化はしていません。しかし、神の言葉に接し、貪りを止めようと思えば思う程、貪りたくなるのが、罪の罪たる所以です。『「むさぼるな」』、『「むさぼるな」』と言われれば言われるほど、貪りたくなるのです。利己的になり、どうにもしようがなくなります。『たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。』(ローマ7:7~8)

 『罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。』(同7:11)。

 それでは律法は罪なのでしょうか。実はそうではなくて『律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。』(同7:12) 《パウロが律法(十戒、道徳律)が廃されていないと考えていることが確かなのは、こう言う言い方からも推測されます。》

 鏡を見れば汚れた姿が分かるように、律法は私達の真の姿を映してくれる鏡なのです。肉が肉の性質を現すために、律法はその役割を果たすのです。律法は罪を指摘しますが、私達に助けは与えてくれません。力がないのです。むしろ『罪の力は律法で』(コリント第一15:56)あり、罪は律法によってその正体が暴かれ、増々、質の悪い腐臭を放ってきます。

 『実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。』(ローマ7:13) 神の律法は善いものであるから、自分の力によって安易に実行できると勘違いしてしまうのです。キリスト抜きでなされる律法遵守の努力は、必ず破綻して行きます。それは人間が肉の下に売られ、遺伝的な弱さの中で、根本的に罪の誘惑の中に抵抗できない弱さを抱えているからです。

 キリストによる救いが現れるために、神はすべての人を罪の中に閉じ込められたのです。それはすべての人をキリストによって恵の下に導き出し救うためでした。『神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。』(ローマ11:32)キリストにあって赦され、キリストにあって造り変えられ、キリストその方が、その人の中から、解放された霊として出てこられるのです。キリストと共に生きるとは、常にキリストの霊が私達の中に入り、住み、外に溢れ出て行くことなのです。繰り返しになりますが、キリストにあって、私達は既に霊的意味で、共に復活させていただいているのです。

 キリストと一体になる経験、それは十字架と復活を実存的に体験して行くことです。この世は十字架に磔られ、私もこの世に対して十字架上でキリストと共に既に死んでしまったのです。肉の生まれ変わっていない古い私が、その欲情や欲望もろともに、キリストと共に既に十字架で死んでしまったことを認め、そのように信じ、自らに言い聞かせ、そのことが事実となって行くのです。キリストと共に死ねば、キリストと共に既に復活の命に生きていることを信じます。古い命がキリストと共に十字架につけられたと同時に、新しい命は、霊が解放され、キリストと共に霊的に復活させられ、既に始まっているのです。

 繰り返しになりますが、もう一度書きます。十字架の信仰と共に、復活の信仰が必要なのです。自己に死んで、同時に新しい命に復活することが出来る。否、既にキリストと一体になり、古い自己は死に、新しい命の中にキリストと共に霊的復活状態にあるのです。キリストはそのことを既に御自身の身をもって実現しておられ、私達はそのキリストの為された業を、キリストと一体となって、追体験して行くだけです。

 『わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。』(ローマ6:8)

 『「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。』(テモテ第二2:11)

 『わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。(既に)キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。』(ガラテヤ2:19~20)

 『神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死』んだ。神に対して生きるとはどういうことか。それは天地創造の絶対者である神、その神の前に、神を意識し、その御心を行い、人生の目的を神そのものに向けて生きて行く覚悟です。神を視野に入れないヒューマニスティックな考え方、人間同士の助け合い、社会的な相互依存による人間の生存も肉の世界においては大事な事ではあるでしょう。どんな形でも人間は生きて生活して行かなければならないのですから。人間の価値観による肉の助け合いが、兄弟愛を育むなら、それも神の受け入れられることだとは思います。災害や疾病、貧困、地域紛争によって生命の危機に瀕している人々を助けることは、信仰を抜きにした政治的、社会的活動であっても、神の受け入れられることだとは思います。

 でも、そのような助け合いを含む現実の人間の営みを大切にしながら、私はむしろ、肉から離れ、霊的に生きる決心をすると言うことを選びます(私の現在の立場と能力ではそうせざるを得ないのが正直なところです)。神は霊的な方ですから、私達も霊と誠をもって仕えて行かねばなりません。それには律法を肉の力で守るのではなく、律法に対して自己の肉の死を宣告する以外に私の選択肢はないのです。

 肉をキリストと共に十字架につけて死んだら、次はキリストと共に復活の命に霊的に生きて行くのです。神の律法を生まれつきの肉の力で守って救われるような考え方から離別してしまいましょう。『なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。』(ローマ8:7) そんなことを繰り返していれば、ただの肉の力によって神の御言葉を実行できると錯覚し、知らずゝ外側ばかりを取り繕うような表面的で偽善な律法主義に陥り、イエスの恵も無駄になってしまいます。 

 こうは言うものの、人間存在は複雑です。社会的組織的責任を肉の責任において果たすこともある時には必要です。私達が天の国に属し、霊的存在であると同時に、社会的 存在であることも認めましょう。社会、国家、市や、町の組織(ある場合には教会組織ですら)その中に生きている限り、それらを運営して行く肉の責任から逃れることは出来ません。生きている以上肉の必要があり、そこから多少の要求があり逃れることは出来ません。

 もう一度パウロの世界観に戻りましょう。究極的に言えば、神はイエスの犠牲の十字架によって、私達を恵の下に永続的に置いて下さり、もはや『(肉の守り方による)律法から解放』(ローマ7:6)してくださったのです。そして文字によらず霊によって神に仕えて行くのです。『文字に従う古い生き方ではなく、"霊"に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。』(同7:6)(霊によって神に仕えることからは、解放されていないので、その辺は誤解しないようにいたしましょう。)

 冷たい石の板に書かれた十戒は私達を死に定めることをするばかりです。 『文字は殺しますが、霊は生かします。ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ』(コリント第二3:6~7)とあります。

 文字は文字面の表面の、偽善的な肉の努力のみの実行に終始しがちです。イエスその方から来る自由の霊や、そこから生じる霊の喜び、真の栄光の自由は与えてくれません。それらは総てキリストが上から霊を降すことによってもたらされます。繰り返しになりますが、律法は鏡の役割を果たします。鏡に汚れた姿が映りますが、鏡そのものは汚れを落とす力は持ち合わせていません。

 律法は善いことをやるように招いてはくれますが、それを真に心の底から喜んで実行できるような力は与えてくれないのです。文字によって神に仕えるとは何か?どういう意味か?それは、律法の文字面、肉の表面的な解釈を下地にして、自分の肉の努力によって律法を実行して行く生き方です。そこにはキリストが心におられないので、霊の解放も、自由も、救われた喜びもありません。

 そして今や父なる神は聖霊をキリストを通してお送りくださることによって、私達を真に生きる者にしてくださいました。律法の定めによって、生きる者は律法によって生きるのです。『律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。』(ガラテヤ3:12) 律法に縛られ、生まれつきの自分の古き肉の努力、その定めを守って生きているのです。信仰を下地にしていないのです。表面的に守れたと勘違いして、神の前に自分の行いを誇るのです。それは行いによる救いであって、信仰を基にしていません。

 神の律法は善いものです。私達の生まれつきの人間がとても魅力的に感じる、至極当然な倫理的な生き方です。それはあまりにも魅力的なので、すぐ自分の力で守れると思い込んでしまうのです。表面的な行動においては守れるように一見思われるかも知れません。しかしむしろ神の律法は心のあり様を問い糺しているのです。自分の力で敵を愛せるはずがないではありませんか?イエスの言葉は律法の精神そのものです。

 繰り返しになりますが、キリスト抜きでなされる表面的な律法遵守の努力は、必ず破綻して行きます。それは人間が肉の下に売られ、遺伝的な弱さの中で、根本的に罪の誘惑の中に抵抗できない弱さを抱えているからです。自分の力で神の律法を守れるはずがないではありませんか?

 私達は第一のアダムにあって、トータル的に堕落しているのです。 私達は神の恵により、イエスの功しによってのみ義とされ、救われ、自由の霊を受け、聖霊が溢れるばかりに自分から流れ出すように変えられて行くのです。第二のアダムであるイエスの支配と恵に与かることによって、霊が解放されます。神の憐みと御恩寵により、イエスの霊が、自分を通して、自由に、闊達に愛の実践をして行くのです。総ては霊の支配下においてなされることなのです。


 別の言い方で表現すれば、私達はキリストに嫁いでいるのです。私達は律法と結婚してはなりません。キリストと結婚すべきです。もし律法と結婚していたら、古い自己の力による肉の守り方から離縁し、キリストのもとへ嫁がなければなりません。

 『それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方(イエス)のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。』(ローマ7:1~4)

 日本の民法と違って、イスラエルの神の律法規定では、結婚していた夫婦のどちらかが死なないと再婚は罪になります。姦淫罪になるのです。聖書の結婚規定はそうなっています。信者同士の再婚は、以前のどちらかの配偶者が死ぬ場合にしか原則的に聖書は認めていません。例外はあると思います。例えば、どちらかが信仰を放棄して未信者になった場合とか、最初から未信者と結婚していて、強烈に信仰を持つことに反対されたとか、どちらかが不義や密通をしてしまったとか、片方の配偶者の死以外離婚し、再婚が許される条件はあるとは思います(コリント第一7章参照)。自分自身も元の配偶者が結果的に信仰から離れ(それだけが離婚の原因ではないですが)、篤い信仰を持っている今の配偶者と出会い、再婚した経験がありますので、結婚制度について死別以外の例外規定は必ずあると思っています。

 総ては信仰によって判断すべきことがこの制度の根底にあります。ですから再婚は主にある者に限るとパウロは言っているのです。この考え方に沿えば、信者が妻であり、結婚していた未信者の夫が、信仰に反対し、離婚した場合、残された信者の妻は別の信者の男性と結婚しても良いことになります。また最初の出発は両方信者であった夫と妻が、後にどちらかが信仰を放棄し、離婚した場合、残された信者は、別の信者を見つけて結婚しも良いことになります。総てのことは信仰によって判断すべきだと考えます。

 さて、律法と先に一度、生まれ変わらない肉の力で結婚してしまった私達は、律法が死ぬか、私達が死ぬかどちらか条件が合わないとキリストに嫁ぐことが出来ません。律法は神の言葉であり、神の御性質でもあるので死ぬことは出来ません。生まれ変わっていなかった私達が死ぬしか方法はないのです。私達の肉が死んでキリストと共に十字架に付けられ、キリストに嫁ぎ、キリストと一体となるのです。それが律法から解放されると言う意味です。『しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、"霊"に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。』(ローマ7:6)

 『律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。』(ガラテヤ3:10)

 『キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。』(同3:13)

 もはや私達はキリストの霊にとどまることによって、肉の力による律法遵守からも解放され、律法を守らなかったことによって生じる、呪いからも解放されています。呪いもすべてキリストが木に架けられることによって、取り除いてくださいました。律法を守らない者には死の呪いが降りかかるからです。

 一切の呪い、失敗、欠点、恥辱、誤解、過去の罪の咎め等から解放されて、アッバ父よと叫ぶ御子の霊を受けて、私達は既に神の子となったのです。アッバ父よと叫ぶ御子の霊を受けていることが、私達が既に神の子となっている、信仰の事実なのです。律法の呪いによる恐れや死、罪責感等、それら総てから解放されて、キリストの霊を体いっぱいに受けて、感謝と喜びの信仰生活を送りましょう。

 『あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。』(ガラテヤ4:6) なんと素晴らしい御言葉ではありませんか。イエスの霊によって「アッバ、父よ」と呼ばわる時、私達は既に神の子となっているのです。

 ですからもう、奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。私達はキリストにあって自由になったのですから。しかしその自由を、罪を犯させる機会とはせずに、愛によって互いに仕えるようにしなければなりません。『この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。』(ガラテヤ5:13~14) つまり自由になったと言っても、『"霊"に従う新しい生き方で仕えるように』と書かれているように、神と人に、霊の力をもって仕えることから解放されたわけではないのです。ここを勘違いしてはいけません。自由への召しは、より深く神に仕え、人に奉仕するための(もちろん総ての為すことは、己の力によってではなく、聖霊に委ねることによってではありますが)召しだったのです。

 自分を愛するようにあなたの隣人を愛すこと、そして神を全身全霊で愛して行くこと。イエスの言葉はそのように命じています。これが律法の総てです。命懸けで神を愛し人を愛すること、これが総ての律法の要約なのです。『イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者(律法の書、預言者の書のこと、すなわち聖書全体 )は、この二つの掟に基づいている。」』(マタイ22:37~40)

 さて奴隷の軛とは何か。何が私達の内で律法となって私達を縛り付けているのか?まずユダヤの時代に遡れば、種々の儀式や羊等の供え物規定、犠牲制度全般、それに伴う各種祭り、祭りに伴う特別安息日、ナジル人等の誓に伴う不思議な習慣、新月の祭り、らい病に対する対処の仕方、菜食を含む食物規定、目には目をで有名な民法規定、異邦人との結婚禁止、聖所の運営に伴う様々な規定、割礼の儀式等々、これら総称を礼典律と呼びます。これらの中には今でも教訓として実行した方が良い、衛生的、健康的なものも含まれています。しかし、戒めとしては廃されていると考えるべきです。例えばクリスチャンになったからと言って、割礼を受ける義務は一切ありません。

 また、何を食べても良いのです。食料の種類によって、天国に入ることは左右されません。何を食べるのも飲むのも基本的には自由です。しかし健康上の理由で(禁忌の戒めとしてではなく)、神の定めた食事にふさわしいものを食することは、推奨されて良いでしょう。

 総ての飲食物は自由に飲んだり食べたりすることが出来ます。しかし、ここでハッキリ注意すべきことがあります。アルコールを飲めば、肝臓を傷めます。少量のアルコールでも細胞を傷つけ、癌のリスクを高めることは、ランセットの学術論文で証明されています。アルコールは脳神経に働き頭も正常な判断力を失わせます。飲酒運転で、どれだけ多くの方が死傷し不幸になっているか考えて見ましょう。

参照‐しかしながら Lancet(ランセット)という世界最高峰の医学ジャーナルに発表された論文は「アルコールを摂取しないひとが最も長生き(健康被害が少ない)かもしれない」という結果でした(2018 年、下図(PRESIDENT ONLINE より))。2024/02/28

 辛い物を過剰に食べれば胃壁を痛めます。食物規定には縛られませんが、健康の原則は実行しなければ、それなりのマイナスの結果を伴います。総て のことは許されているが総てのことが私達の益になるわけではありません。『すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。』(コリント第一10:23) ここに知恵が必要になって来ます。医学的知恵や知識、知見、添加物の害、野菜を摂らず肉ばかり食べて、心臓病になるリスク等、あらゆることを考えて気を付けて行かなければならない。この世の知恵と、また神から来る霊の知恵と、両方必要なのです。健康で長生きして、この世を楽しみ、またこの世において神と人に対して長く奉仕して行くのは神の良しとすることなのです。それは、さらに将来待っている永遠に続く来生へと引き継がれる生き方なのです。

 次に私達を縛り付けているのは道徳律、十戒です。これは廃されることはありません、パウロの言葉を綿密に研究すればハッキリしています。ただ、キリストから離れて、自分の肉の努力でそれを守れると浅はかに勘違いし、生まれつきの肉の力で守る努力をして行きますと、とんでもない重い奴隷の軛となって私達を閉じ込めます。 また善良な、良心的な方は、罪の自覚を生じさせる律法の養育掛り用法の下にとどまり続け、霊が解放されず、いつまでも罪の意識に苛まれ、ジメジメ、イジイジした精神状態に閉じ込められている状態になる危険もあります。過去の大きな罪をトラウマとして持ち続け、心の負担に耐え切れず、精神に異常をきたすことすらあるのです。どこかで解放されなければ私達は真の意味で自由にはなれません。

 心が余り捉われになっていると異常をきたす例としては戦争の後遺症があります。確かに戦地へ行って、人を殺したり殺されたりすることは重大な精神的苦痛となって、心を破壊する原因になります。PTSDによるフラッシュバックからの救いは、個人にとって大問題です。根本的にはイエスの贖いを信じ、新しい命をいただき、霊が解放されて行く以外に解決策はないと私は思っています。

 道徳律と結婚するのではなく、一度ならず何度でも、既にキリストに結ばれて自分の肉が死んでしまったと自覚する時、同時に律法から解放されて、既に復活のキリストと結婚していることを悟って行きます。既に十字架につけられてキリストと共に死んだことにされているのは、あくまでも自分であって律法ではありません。

 さらに、同時にキリストにあって、キリストと共に既に復活させられているのです(霊的意味で)。霊によって新生した私達が、キリストに総てを委ね任せることによって、律法は真の意味で全うされて行きます。すなわち神の信仰の土台、大原則、神と人の為に、自分の命を削り生きて行くことが、キリストに結ばれることによって、霊の支配の中で、無理なく出来るようになると私は思います。総ては私達を完成させるための霊の働きであって、究極的には、律法と福音は一つなのです。もちろんどちらを強調するかによって生き方は随分違ってきますが。

 ゲッセマネの園の祈りのように、神の御旨を果たす為には常に肉の葛藤はつきものであるとは思います。イエスもこの世で肉の姿を取られていた時には、忍耐と苦渋の連続でもあったのです。『キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。』(へブル5:7~8) 十字架の苦しみがあり、復活の勝利と喜びがあります。十字架と復活もまた真理の表と裏なのです。もちろんどちらを強調するかによって生き方は随分違ってきますが。

 さて、さらに私はもう一歩踏み込んで考えて(考え過ぎかも知れませんが)、私自身の何か肉の傾向にある考え方そのものの中に、もう一つの、奴隷の軛があると思っています。私は何に縛られ、何に囚われているのでしょう。それは人によって様々ですが、私が私自身を縛り付けている、肉の思念の何かなのです。それはキッと自分では中々そのことに気が付かない何かです。自分の性格の中にベッタリと貼り付いている何かです。ある人は高級車に乗りたいと言うこだわり、ある人はセンスの良い服装をしたいと言うこだわり、この世であらゆることを物的に恵まれて生きて行きたいと言う望み(それが決して悪いこととは思えませんが)。様々なこだわりが、様々な肉の思いと一緒になって、私達の心と体に絡みついています。TV、映画、漫画、読書、スポーツ観戦、趣味、趣向、旅行、観光、 レジャー、日々のルーティンや運動、健康の原則の実行等それ自体は良いもので、決して悪いものではなくても、第三者から見たら奇異に思えるものもあるでしょう。それら有用なものを含めて、何かの肉的な思念が私達を、霊的な価値観から見れば、実にくだらない目に見えない縄目として、縛りつけているのではないでしょうか。それは、日常の義でも不義でもなく、私達の生活や性格に染みついている灰色の何かなのです。

 私はそれらの、自己の内にある変えられていない生まれつきの性格にベッタリと貼り付いた思念と言う、気がついてもいない奴隷の軛から解放されたいと思っているのです。『この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。』(ガラテヤ5:1)

 しかし、こうは言っても、自分が決めて実行している、健康の良いと思われる食品類の摂取や、定期的な運動だったり、日々のルーティン等、生涯にわたって獲得して来た良い習慣まで放棄せよと言っているのではありません。ただ良いものであっても、そのことにあまりに夢中になり、集中し過ぎることもあるので、それらに縛られるな、心まで占領されて、囚われるなと言いたいのです。なくてはならないものは多くはありません。究極的には一つだけです。それはイエスのそばに座り、霊に満たされ、御言葉を謙虚な気持ちで拝聴することなのです。『しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。』(ルカ10:42)

 私達は総てのことから基本的に自由でいなければなりません。あらゆる自分の決めごとを実行することと、同時にそれに囚われず、キリストにある自由に心を保つこととは、平行に進めて行かなければならないと思っています。

 さあ、これらの軛から脱却して、自由になったら、この自由を用いて、何をしましょうか。罪を犯すべきでしょうか?そうではないことは明らかです。『では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。』(ローマ6:1~2)既に罪に対して死んだ(キリストと共に桀刑されてしまった)と言うことは、同時に復活のイエスと共に甦らされて、既に新しい霊の命、甦りの命に生きていることを意味します。もう罪の中に生きれないのは明らかです。

 『兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。』(ガラテヤ5:13~14)

 上辺ばかりを取り繕うような表面的な古い肉の守り方による律法遵守から解放され、キリストにあって自由になり、私達の内に霊が解放されて、活き活きと生きれることは素晴らしいことです。さらに加えて、もう罪の自覚をもたらす、律法の養育掛り用法の下にクヨクヨと罪の自覚に苛まれながらいることもありません。今日からは新生されたキリストの霊をいただき、清々しく生きることが出来るのです。しかしそれは『愛によって互いに仕え』合う為なのです。

 霊によって癒され、神と人の為に愛の行為をすると言っても、逆説的に、人助け、他人を愛することは、結構この世的な肉の助けを求められることが多いのです。もちろん霊の御奉仕、救いに関する御言葉や信仰体験を分かち合うことこそが、最高の霊のパンの分かち合いであり、永遠の命の泉の水を酌み交わす喜びなのです。究極的にはそのことの為に召されていると思います。そのことは重々承知しているし、魂の救いの為にこの世の肉の交わりはあると思います。肉の助け合い、ご奉仕は、さらに一段階上の、失われた魂に対して、霊の糧を供給するチャンスにならなければ、結局は虚しい結果に終わりかねません。

 しかし、私自身を含め周りに生きているほとんどの人達は皆肉の世界に生きています。日毎の肉のパンを食べ、そのために働き、まず肉の命を維持するために必死なのです。そのために毎日を忙しく奔走しています。ですから困って助けを必要としている内容は、ほぼ99%は肉の助けです。ガラテヤ書には、『互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。』(ガラテヤ6:2)と書いてあります。この人生の肉の重荷、互いに担い合うことが、キリストの愛の律法を全うすることなのです。愛の行いが例え肉の必要を補い合うことに終始することに結果なってしまったとしても、イエスはそれらのことも受容してくださるはずです。もちろんだからと言って、一方的に第三者の助けに依存するばかりではいけません。その後の節には『めいめいが、自分の重荷を担うべきです。』(ガラテヤ6:5)とも書いてあります。ですから他人に迷惑をかけず生きて行くこと、自立すること、自助努力することも必要です。個人個人が第三者の助けに依頼せず、自律的に生きるようになり、それも単なる自立ではなく、自分の能力や力には少しも頼らず、何をするにも全面的にイエスに頼って、信仰の力で生きて行けることが、総ての人が目指さなければならない理想です。しかし、こうはならないことは百も承知で書いています。人間性の愚かさは、まるで固い岩のように、頑固に自分の力のみで生きようと足掻きながら、恵の福音を理解しないのです。信じようとしないのです。聖霊の感化と助けがなければ、信じることが出来ないのです。理性は神の存在を理解する手助けにはなりますが、信仰はある時点で人間の論理を飛躍するのです。霊のことは霊によってしか極めて行くことが出来ません。

 人間は生まれながらの肉に、何かを訓練して行かなければ、裸のままでは生きて行けません。この世がそれを許さないのです。肉による教育や、躾け、生きて行くための技術の習得、高度な知識の獲得、職業訓練、高学歴、音楽や芸術の素養、医学的知識等を得るため人生のかなりの時間を使います。お金を稼ぎ、教養人としての自分を高め、実際の生活の中で、この世の中でも恵まれ、霊肉共に豊かな生活をし、家族と自分を養い、また他の人々を助けるために、それらのこと(肉の修養)は必要な事です。パウロもテント作りにおいては習熟した職人でした。ペテロは優秀な漁師でした。

 しかし、これらのことだけで人生が送れるのでしょうか?良く考えて見なければいけません。それらの今列挙した、私達の獲得したスキルは鎧のように私達を覆っています。人生のどこかでそれらの鎧を一度脱ぎ捨て、神の前に己の裸をありのままに晒すべきです。純粋に霊の必要を感じ、それを求めて行きましょう。まず一番大事な事は私達の魂を、その善悪、普通の事を含めて、神の前に祈りの内に注ぎだし、心の最も奥深いところで感じている、霊の渇望を、天からの油(聖霊)で満たしてもらうことです。

 肉の重荷をたがいに負い合うことは大事な愛の行為ですが、それだけで満足はできません。むしろ、先に言いましたように、霊の分かち合いこそ一番大事な愛の行為です。そのことについては、前の節、ガラテヤ6:1に、『兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、""に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。』と書かれています。霊に導かれている人は、何らかの理由で、過ちに陥った人を、穏やかに諭しながら、正しい道に立ち帰らせるように、勧告することが義務としてあります。もちろん自分が同じような過ちに陥らないように注意すべきです。しかし私はこの節を、もっと大きく理解して、霊的助けの奉仕を促していることだと受け取っています。ガラテヤ6:2が人生の肉の重荷を互いに担うことで、キリストの律法を全うし、6:1は霊の奉仕を他者に対してすることを求めているのだと解釈しています。

 何れにせよ、霊によって変えられた、罪を犯す機会とはしない、自由な、人と神を愛して行く生き方は『霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。』(ガラテヤ5:22~23)の御言葉の実践として、私達の内に実現して行きます。これらのことを、自分の肉の努力ではなく、ただ勝利を与えて下さる、復活のキリストが、私達と共におられて、させて下さるのです。無理なく私達の品性として、キリストの香りを、全身から放てるようになるのです。

 『しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。』(ローマ8:37)

 『なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。』(エペソ2:10)善い業すら神が前もって用意してくださるのです。そしてキリストにあって実行できる力も与えて下さるのですから、私達の内に誇るべきものは何一つありません。 

 私達の中にある肉の傾向が発する様々な不自然な欲情(性的なもの、物欲、名誉欲、財産欲等)や、この世に残っている未練、世の価値観から知らないうちに影響を受け心を支配している野心的な欲望、我欲、自己主張、他人を見下し己を高めたい心等、総てを十字架につけてしまったのです。『キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。』(ガラテヤ5:24)

 私達は、この世にありながら、この世のすべてを基本的には捨てる覚悟でいなければなりません。この世で生きている以上、この世はなくなりません(再臨までは)。実際にはこの世でこの世の肉の仕事をして、お金を稼ぎ、食べたり飲んだりしなければ生きて行けません。しかし根本的な覚悟、立ち位置は、霊的なもの、目に見えないもの、神の愛、イエスの救い、上にあるもの、永遠の命を目指しているのであり、この世ではありません。この立ち位置を毎日しっかり確認して行かないと私達はこの世に飲み込まれてしまう危険があります。『しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。』(ガラテヤ6:14)

 最後に私達は毎日を、真の意味で聖霊に満たされて生きる決心をしましょう。御霊によって始めたこの信仰が、時がたち、この世的に恵まれ、財が増し加わって来て、肉の繁栄と、安逸に目を奪われ、霊的なことが疎かになるようなことがあってはならないのです。『わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。』(ガラテヤ5:25) 何故なら、私達は既にキリストと一体となり十字架につけられ死んだ者とされており、同時にキリストが復活されたとき、キリストに結ばれて、既に霊的には復活させられた者となっているのです。復活の霊に満たされて生きて行くことこそ、神が私達に期待されていることなのです。

 単に肉の繁栄に惑わされてはなりません。霊の土台の上に建てられた上での肉の繁栄は、楽しむことを神は現世においてある程度許されてはいますが、常に霊の立ち位置に自覚的に戻って歩まなければなりません。


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