テサロニケ第一
テサロニケ人への第一の手紙
テサロニケ人への第一の手紙は、誰が、いつ、どこで、何のために書いたのでしょうか。パウロが、第二次伝道旅行で、ピリピ宣教で鞭打たれ、牢獄に入れられ、辱められたが(テサロニケ第一2:2)やがて、テサロニケに到着、『激しい苦闘の中で』(同2:2)福音を語ったのです。一ヶ月弱の短期間の間でしたがテサロニケで宣教をしました(使徒行伝17:2)。
その後、テサロニケを後にして、あまり成果を上げられなかったアテネ宣教を経て、コリントに到着。コリントには神の民が大勢いたので、一年半にわたって腰を据えて宣教に励んだのです。最初のコリント滞在中に、紀元50年頃テサロニケ人への第一の手紙、その数か月後にテサロニケ人への第二の手紙を書きました。さらにそれから7年後、紀元57年頃、 第三回目のコリント滞在中にローマ人への手紙を書いたわけですから、手紙を書き易い環境がコリントにはあったのでしょう。
アテネ滞在中に、短期間で移動してしまったテサロニケの人々のことが心配になり、様子を見てくる為にテモテを 派遣しました。この手紙を書く前の出来事です。手紙を書いた時は既にテモテはパウロのもとに、喜びの知らせをもって帰着していました(テサロニケ第一3:1~7参照)。
彼が心配したのは、テサロニケのイエスを信じないユダヤ人達が、ローマ当局の役人達に、イエスと言う別の王がいるなどと訴え、信仰に入りたてのヤソン達を迫害したからです。テサロニケの信者たちは、信仰に入った最初から、イエスを信じないユダヤ人達によって迫害されていました。テサロニケの町はマケドニア州では一番繁栄した貿易が盛んな町であり、エーゲ海に面した良港であり、交通の要衝でもありました。当時の人口は約20万人、パウロはテサロニケ人の信仰を賞賛し、第一の手紙はどこにも譴責の言葉を書いていない。これは本当に珍しいことです。
第一の手紙はの内容は、終わりの時代に生きている者として再臨に備え、聖なる生活をする事を主眼として書いています。数か月も経ずしてまた第二の手紙を書いたということは、書き足りなかったことがあって追加したのだと思います。
第二の手紙の追加の内容は再臨の前に、不法の者が現れ、神に反逆し、自分こそが神であると言い、偽りの奇跡と不思議な業で人を惑わし、偽りの教えを信じるようにさせるとのことです。さらに正しい教えを、これらの手紙や説教によって、固く守ることを命じています。怠惰な生活をしている人がいることを人づてに聞いたので、まじめに働いて、勤勉に過ごすように、落ち着いて仕事をするように勧告しています。
これらの二つの手紙(紀元50年頃)は、第一次伝道旅行中に訪れた、小アジアのガラテヤ人への手紙(シリアのアンティオケで執筆、紀元49年頃)を除けば、パウロが書いた、ヨーロッパに設立した教会へ宛てた最初の手紙です。この手紙から7年後に、ローマ人への手紙を書きますが、ローマ人への手紙に比べてテサロニケ人への手紙は、信仰による義を中心にした神学的内容にはあまり触れていません。ただ世の終わり再臨が切迫していること、迫害に耐えること、聖なる生活をおくること、結婚生活を大事にし、妻を尊敬すること、兄弟愛に燃えること、正しい教えを信じ続けること、やがて背教が起こること、怠惰な生活をしないこと等が中心に書かれています。
人間的な解釈になってしまうが、パウロの中で福音宣教の理解において、時間が経つほどに、救いの根幹に触れる、機微な理解が、進んで行ったのではないだろうか。もちろん、後にコロサイ人への手紙等で展開される、キリストの恵みの中で、聖霊のキリストに固く結びつけられて生きる(コロサイ2:6、3:1~11参照)そのような生き方の描写の萌芽は、テサロニケ人への第一の手紙の中にも見られます。
『神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きる(復活した主、聖霊の臨在)ようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。』(テサロニケ第一5:9~11)
神の御言葉を取り次ぐパウロの言葉であっても、暫時的に前進しているのではないだろうか。
例えば、聖なるものになりなさいと言われ 、すぐ聖なるものになれるなら、こんなに良いことはないのです。人間性は深く罪の中に関わっており、そんなに単純に物事がうまくいくわけではありません。 ローマ人への手紙7章8章をここで繰り返すことはしないが、罪の肉の間で、悶え苦しんでいる葛藤と、イエスが十字架で処断された肉の破壊を、自分自身に見て、霊の解放が与えられる様は、それを経験した者でなければわからないです。そのような経験を経て、福音理解が進んで行くのです。
テサロニケ第一の手紙1章
『ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。』(同1:5)
テサロニケの人々は、キリストを受け入れないユダヤ人達の激しい迫害の中で、パウロの語る言葉を神の言葉として受け入れ(同2:13)、神から力と、聖霊と強い確信を得ることが出来ました。 イエスが総ての人々の罪のために十字架にかかり、そのことを信じるなら救われ、やがて復活なさったイエスが、もう一度、天から地上にお降りになり、迎えに来て下さり、永遠の命を与えるために、自分達も復活させて戴けるのだという福音は、彼らに喜びと強い確信をもたらしたのです。
『マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。』(同1:7)テサロニケの人々 の信仰はパウロから褒められ、パウロは彼らの信仰について、『神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。』 (同1:8)と褒めている。さらに、『わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。』(同2:19)と最大限の言葉をもって讃えています。
2章
パウロは自給伝道者として、自らの手で働きながら、テサロニケ伝道をしました。誰にも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、苦闘のうちに福音を語ったのでした。パウロは福音を宣べ伝える者として、福音によって生活する権利を当然持っていましたが、それを行使しませんでした。それは彼の誇りとすることであり、誰からも自由な立場でいる為でした(コリント第一9:14~19)。
『わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。』(テサロニケ第一 2:8)
聖霊がお互いの心の中に、生きゝと働かれる時 、不思議なことが起こります。自分の中に住んでいるキリストの霊が、大きな愛を呼び起こすのです。それは夢も希望もなく生きてきた、求道している相手の心に、天来の光が射し込み、同じイエスの霊が宿って来る時に起きて来ます。聖霊が与える感動です。相手のためには、福音どころか、自分の命さえも与えたいと思うほどに、霊が燃え盛って来るのです。
パウロは何度もテサロニケの人達に再び会いに行こうと企てましたが、サタンに妨げられ、実現しませんでした。
3章
テモテを使者として、既にアテネ宣教の時点で、テサロニケへ派遣しました(テサロニケ第一3:1)。そしてコリントに滞在中に、テモテが戻ってきて、テサロニケの兄弟たちが、健全な信仰を、迫害の中でも持ち続け、パウロ達に会いたいと望んでいることを聞き、喜びに満たされました。その喜びのうちに第一の手紙を、紀元50年頃コリントで書いたのです。
『それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました。あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今わたしたちは生きていると言えるからです。わたしたちは神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか。』 (同3:7~9)さらに、イエス再臨の時、テサロニケの人々が神の前に、非の打ちどころがないものにしてくださるようにパウロは祈っています。
4章
神の御心はテサロニケの人々が、聖なる者になることです。具体的には、妻を愛し、尊敬して生活すること。情欲に溺れず、このようなことで兄弟を傷つけたりしないこと。兄弟愛を実行し、なお一層励むように。間もなく世は終わり、主は再臨なさり、信じて眠りについた人々がまず最初に復活し、生きている私達は、終わりのラッパの響きと共に、肉体が一瞬にして、栄化し、天国まで引き上げられる希望を持っているのです(残念ながら2,000年たった現在でもまだ世は終わっていませんが)。しかし、当時も今もすぐ世が終わると信じることは正統的なキリスト教の信じ方です。
これらの希望をもってお互いを励ますように(テサロニケ第一4:16~18)。
5章
主の日は盗人が来るように、突然やって来る、決してそれから逃れることは出来ません。しかし聖なる者として準備しているテサロニケの信者にとっては、突然と言うことではないのです。ただ主が来るのが遅いと思って、信仰がおろそかになり、霊的眠りについてはいけない。イエスがいつ来ても良いように、いつも目を覚まし、身を慎んでいるべきです。
また、私達が最後の眠りにつく時が、個人的にはその人の再臨を迎える時と考えれば、誰にでも再臨は突然にやってくることです。私達は実存的な意味の再臨を考えましょう。死ねば無意識になり、深い眠りと同じで、何十年たとうが、何百年たとうが本人にとっては一瞬にしか感じません。死ぬかなと思った次の瞬間は、栄光の体をもらって、墓から復活させていただき、イエスが天からおいでになる場面を迎えることになります。この意味で私たちは毎日再臨を迎える準備をすべきです。何故なら誰でもいつかは死ぬし、その時が突然来るか、何年か後になるか分からないからです。
『眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。』(テサロニケ第一 5:7~8)
さらに、昼も夜も、いつもイエスを心に宿しながら、主と共に生きるように勧めています(同5:10)。ここには後に、ローマ人への手紙や(ローマ6:4~8)、コロサイ人への手紙(コロサイ3:1~11)で展開する、霊の内住するキリストと共にいつも生きる思想が、垣間見られるような気がします。
自分自身がキリストと霊的な意味で共に十字架につけられ、肉の古い自分が霊的な意味で死んで、キリストが復活した時、共に自分も新しい生命に霊的によみがえさせられたんだと言うことがコロサイやローマ人への手紙の主要なテーマです。そのような霊的経験の帰結として、いつもキリストを意識し、キリストと共に生きることが出来るようになるのです。
最後に様々な奨励をもって、テサロニケの人々の信仰が、増々聖なるもの、非の打ちどころのないものに、神がしてくださるようにと書いています。以下列記します。
・教役者を尊敬しなさい。
・怠け者を戒めなさい。
・気落ちしているものを励ます。
・弱い者達を助けるのです。
・忍耐強く総ての人に接しなさい。
・悪をもって悪に報いず、いつも善を行う。
・いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しなさい。
・"霊"の火を消さない。
・預言を重んじなさい。
・総てのことを吟味して、良いものを取り入れるべき。
・あらゆる悪いことから遠ざかりなさい。
・神があなたがたを全く聖なる者としてくれるように。
・霊、魂、肉体の全部が健全であるように。
・イエス来臨の時には、非の打ちどころのないものと神がしてくださるように。
・パウロのためにも祈ってください。
・すべての兄弟たちに、挨拶しなさい。(聖なる口づけによって‐文化的な習慣)
・総ての兄弟に、この手紙を読み聞かせることを強く命じます。
・主イエスの恵みが、テサロニケの人々と共にあるように。
(テサロニケ第一5:12~28)