ヨハネによる福音書8章
ヨハネによる福音書8章
人々は姦淫の場で捕らえられた、女をイエスの前に連れてきて、モーセの律法の実行を求めた。モーセの律法にはこのようなことをする人は死刑に処せられると定めていた(レビ記20:10参照)。
しかしこれは罠だった。もしイエスがこの女を死刑にすることを承認すれば、当時人を死刑にする権限はユダヤ人には与えられていなかったので、ローマ帝国からユダヤに派遣されていたユダヤ総督ピラトに訴えることが出来た。一方、もし無罪放免にするならイエスはモーセの律法を守っていないではないかと、糾弾することが出来た。
イエスは彼らの魂胆をすぐ見抜き、何やら文字を地面に黙って書いておられた。女は人々の真ん中に立たされていた。今で言う公開裁判のような体裁であったろう。人々があまりにしつこく迫るので、地面に文字を書くのを一時中断して、『「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 』(ヨハネ8:7)と言われ、周りにいる、女を中心にして、取り囲んでいる、人々の、一人ゝの前に、文字を書いて行った。
イエスは女を連れてきた人々、また、周りを取り囲んで、女に石を投げつけようとしている人々の人生、一人ゝが隠れて何をやって来たかを知っておられた。彼らは、白く塗られた墓のような存在であった(マタイ23:27~28参照)。表面は白く塗られ、義人を装っているが、中身は、死者の骨や腐った肉で、その行いは悪く、腐臭に満ちていた。
一人の前に行って、しゃがみ込み、指で地面に強盗と書くと、その強盗したことを隠していた人は驚いてその場から立ち去った。一人の人に人殺しであると書くと、過去殺人を犯したことがあり、そのことを隠していた人はスゴスゴとその場から立ち去った。そのようにしてイエスが、地面に指で文字を書くたびに、一人ゝが立ち去って行き、遂に真ん中にいた女と、イエスだけが残ることになった。
『イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕 』(ヨハネ8:10~11)
イエスは女を罰することはしない。イエスに赦せない罪は一つもなく、女の姦淫の罪はその場で赦された。ハレルヤ!
私達も心の中で、罪の形態は違うかもしれないが、多くの罪を犯してきている。しかしイエスに赦せない罪は一つもない。「罪なき者が、石をもて打て。」これは人を裁いてはいけないと言う私の座右の銘です。誰が人を裁くことが出来ようか、裁く私達も隠れて、大なり小なり同じようなことをしているのです。正に、聖書的に言えば私達は神の前に皆罪びとです。五十歩、百歩であり、目糞鼻糞を笑う状況です。
女の周りにいた人達の、それぞれ一人ゝの前に、しゃがみ込んで、わざわざご自分の聖なる指を汚れた地面につけて、砂埃の土に、その一人ゝの罪名を、尊い指で書かれていた主のお姿を思い浮かべて欲しい。諸王の王、主の主、天地を造られた方が、被造物の前にしゃがみ込んで、頭を低くされて、その聖なる指で罪名を書き続けられたのです。イエスの謙遜なお姿が、罪を指摘する場面ですら垣間見えるではないか。イエスの前に立っている一人ゝの人生を、イエスは瞬時に、総て知っておられた。見通しておられた。周りに例え何百人、何千人いようが、イエスはその一人一人の過ごしてきた過去の人生をご存知です。善いことも悪いことも、何も変わり映えしない普段のことも、すべてご存知なのです。今生きている私やあなたのことも、全部お見通しなのです。
女に石を投げようと立っていた人は、私自身と考えることもできよう。私の前に、イエスはしゃがみ込み、頭を垂れ、腰を低くして、聖なる指で、汚れた土埃りに触り、私の罪人であることを指摘して下さっているのです。それも毎日ゝ繰り返して、私の前に身を低くして、悔い改め、罪を捨てるように、今日も文字を書いておられるのです。もちろん贖いを前提としていることを忘れてはならない。自分の生涯の罪の総てが、イエスの前にはっきりとつまびらかにされているのです。しかも、イエスは上から目線で厳しく糾弾なさるのではない。自ら仕える者として謙虚に、身を低くなさってそのことをなさっているのです。実にこの罪人の私の為に、宇宙の創造者が、腰を低くされ、私の人生を贖って下さっているのです。何ともったいないことではないか。このように考える時、聖霊が心を柔らかくして、あなたの目から涙が溢れてこないだろうか。
慰めの御言葉が、聖霊の感化によって、心に響いてきます。父は誰をも裁かない、裁きは総て御子に任せられている(ヨハネ5:22参照)。御子を信じる者は裁かれない、信じない者は、既に裁かれている(同3:18参照)。御子を信じる者は裁かれることなく、永遠の命を既に得ている(同3:36,5:24参照)。
『あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。』(ヨハネ8:15~16)私達はイエスの十字架の血潮によって立てられた、赦しの契約を、心から受け入れ信じる時、もはや『裁かれることなく、死から命へと移っている。』(同5:24)これがヨハネが言いたいことなのです。御子を持つ者は永遠の命がすでにその人の内で始まっている。『神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。 』(ヨハネ第一5:13)
『初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。』(ヨハネ第一2:24~25)
もちろん今後この女は悔い改めて、現行罪としての姦淫罪を犯すような生活はしてはならなかった。
だいたい、姦淫の罪と言うのはおおっぴらにやることではない、恥ずかしい罪の性質上隠れてやるものです。しかし、この女が姦淫の現場で捕まえられたのを考えると、どうもこれは私の想像であるが、女は罠にはまったのではないかと思います。律法学者とファリサイ派の人達は、たぶんおとり捜査みたいに、一人の男をこの身持ちの悪い女に接近させ、ある場所を指定し、女を呼び出し、いよいよ行為に及ぼうとした時、現場にズカズカと踏み入り、女をとっ捕まえたのだと想像します。もし私の想像通りだとすると、罪を犯した女も悪いは悪いが、策略を巡らし、イエスを訴える口実を得るため、わざわざこのようなことをしてまで、姦淫の現場の女を捕えるため巧妙な仕掛けをした、黒幕が一番悪い奴だと思われます。もちろんこれはすべて私の想像です。このようなことをしなければ、早々姦淫の現行犯で女が捕まえられるわけがないと思うのは、少々穿ったものの見方をし過ぎかも知れません。また、モーセの律法では、男も女も平等に、この場面では罪に問われるのに、男はどこへ行ったのか。これも策略があった証拠ではないだろうか。
女を取り囲んでいた人々の罪をい言い当てることが出来るのは、イエスが神であるからです。イエスは、今にも石を投げて、罪の女を打とうとしている、周りにいる個人ゝの罪を書くことによって、御自分の神性を証明されたのです。
この物語は姦淫の女を赦したイエスの大きな愛が深く印象に残るが、実は物事の本質は、この8章の後半に取り上げられる論点にあります。それはイエスを神として認めよ、その神性を信じなくては、ユダヤ人達は救われない、罪のうちに死ぬことになる、そういう意図をもってヨハネは書いたのです。イエスの神性が、女の周りにいる、人々の罪を見通したことを、8章のテーマの序章として、取り上げたのです。ヨハネによる福音書8章の後半はイエスが神である、永遠の存在であると言うイエス自身の決定的な主張がキーワードです。イエスを人間と思っているユダヤ人と、どんなに話し合っても、話が噛み合わないのは8章を読んで行くとわかります。
8章の後半の論争を見てみよう。まずイエスの神性を認め、信じなくては救われないと言う法則があります。イエスはただの人間ではなかった。ただの預言者でもなく、偉大なラビ、教師でも、指導者でもない。一部そのような役割はあったでしょう。しかし、イエスは永遠の存在であり神なのです。そのことを認め信じることによって、救いが始まって行くのです。
まだこの時点ではハッキリとは十字架の贖罪を示されてはいないが、贖いの為、イエスは『世の罪を取り除く神の小羊』(ヨハネ1:29)としてこの世にお出でになった。父なる神と同質の神であり、しかも同時に完璧な人間となられたイエスがこの世に来られた目的は、罪の身代わりになって、私達全人類の罪を引き受け身代わりに死ぬこと だったのです。
父なる神が、最も愛すべき存在であられた、その独り子を地上に送り、現世において御子に、肉の存在から生じる、あらゆる苦難(労働、飢え、不眠、不信、裏切り、責め苦、苦闘の祈り等)を経験させ、最後には十字架の贖罪の死によって私達を罪から救い出し、贖って下さった。
『神の和解を受けなさい。』(コリント第二5:20)とパウロは勧めています。そのことが真理であり、真理は私達を自由にする。もしこのことを信ぜず、イエスが神であることを信じないならば、救われない。これは救いの法則です。
『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」』(ヨハネ8:24)。罪を犯す者は罪の奴隷だからです。
『わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。』(同8:43)と言う言葉がイエスの口から出て来た。イエスの言葉を信じない隠された本当の理由は、イエスに敵対するユダヤ人達の父は、悪魔であり、彼らの父の欲望を満たしたいと思っているからです。真理をよりどころとせず、最初から人殺しであり、偽り者である、悪魔の本性によって支配されているから、ユダヤ人達は真理を語るイエスを根本的に受け入れることが出来なかったのです。
アブラハムは信仰によって、今のこの日を見て喜んだ。イエスは言われた。『「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」』(ヨハネ8:58) アブラハムの生まれる前から私は存在する。イエスは『「わたしはある。わたしはあるという者だ。」』(出エジプト3:14)を引用し、自分は神であることを宣言なさった。これはイエスを単なる人間として考えていたユダヤ人達にとって、普通の人間が、畏れ多くも自分を神とすることであり、神を冒涜することであった。彼らは石を投げて、イエスを殺そうとしたが、イエスは身をお隠しになりその場から立ち去った。まだ神の時が来ていなかったからです。
8章後半のユダヤ人達と交わした会話の、行き違いを私なりにまとめると以下のようになります。
①イエス-わたしは光だ。 ユダヤ人達-あなたは自分のことを証し
している。以下イエス㋑、ユダヤ人達㋴と表記。
㋑たとい自分を証ししても間違いではない。父なる神と私は一つ
であり、私は父から派遣され、父の言うことをあなたがたに伝え、
父のもとへ帰る。
②㋑私の行くところにあなたがたは来ることが出来ない。
㋴彼は自殺でもするのだろうか。 ㋴あなたはいったいどなたで
すか。
③表面的にイエスを信じた人たちに対して、㋑イエスの言葉にとど
まり続けるならばあなたがたは本当の弟子になれる。真理があな
たがたを自由にする。
㋴私達はアブラハムの子孫であって奴隷ではありません。㋑罪を
犯すものは罪の奴隷であって、真の意味での、聖霊によって自由に
されていなければ、自由はない。
④㋴私達の父はアブラハムです。
㋑アブラハムの子孫ならアブラハムの業をせよ。あなたがたはわ
たしを殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。
⑤㋑私は父なる神のもとで見たことを話している。
しかしあなたがたの父は悪魔である。悪魔は最初から人殺しであ
り、真理をよりどころにしていない。その本性から偽り者であり、
偽りの父である。あなたがたはその父から聞いたことを行ってい
る。
㋑真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。
⑥㋴あなたは悪霊に取りつかれている。㋑わたしは悪霊に取りつか
れてはいない。㋑わたしは天の父を重んじているのに、あなたがた
はわたしを重んじない。
⑦㋑私の言葉を守るなら、その人のうちに永遠の命が始まり、たとえ
死んでも復活して生きることが出来る。生きていて私を信じる者
は決して死ぬことはない(ヨハネ8:51,11:25~26参
照)。
㋴あなたが悪霊に取りつかれていることがはっきりした。アブラ
ハムは死んだし、預言者たちも死んだ。あなたを信じるならば死ぬ
ことはないと言う、そんなことを言っているあなたは、いったい自
分を何者だと思っているのか。
⑧㋑私の父はあなたがたが『我々の神』だと言っている方であり、私
はその方を知っておりその方の言うことをすべて守っている。
⑨㋑父アブラハムは、今の私の日を見ることを望み、信仰によって私
の日を見て喜んだ。㋴あなたは50歳にもならないのに、アブラハ
ムを見たのか。
⑩㋑アブラハムの生まれる前から、私は父なる神と共に存在し続け
ていたのだ。
⑪㋴彼らは石を投げつけようとしたが㋑イエスは身を隠されて、神
殿の境内から出て行かれた。
まだ、十字架にかかる場面ではなかった。まだ神の時が来ていなか
った。
イエスがご自分の神性を強調すればするほど、頑迷なユダヤ人達は、人間が神になどなれるはずがないと、思い込んで行った。確かに己を神とすることは、大変な傲慢なことであり、モーセの律法を文字通り表面的に解釈すれば、死刑に値する罪であろう。しかし彼らは間違っていた。イエスは、人類史上唯一の本当に人となった神だったのです。