ヨハネによる福音書15章
ヨハネによる福音書15章
ヨハネ15章には、イエスの語られた有名なぶどう栽培のたとえ話が出てきます。
『「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。』(ヨハネ15:1~2)
- 父なる神-農夫
- ぶどうの木-イエス
- ぶどうの枝-私達
- ぶどうの実-キリストに似た生き方 愛の行い 品性
のように当てはめて読んでみよう。
『わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。』(ヨハネ15:4~5)
ぶどうを私は栽培したことがないので、詳しいことは分からないが、美味しいぶどうの実を収穫するのは、素人には大変難しいことらしい。ぶどうはつる性植物なので、ほっておくと、木から枝がどんどん伸びてしまう。栽培農家にとって剪定は最も大事な作業です。冬の1~2月の寒い時期にやらないと、切ったところから樹液が出てしまい、木の為に良くないそうです。これは、真の農夫なる父なる神が、私達信仰者の枝を剪定なさるのだが、人生の最も寒い時期に、私達である枝を剪定されることを暗示しているように思われます。ちょっと枝にとっては辛い経験です。
ぶどうは、前年に木についた充実した芽から、新梢が伸び出してきます。新梢にはまた幾つかの芽がつく。そこにぶどうの実が出来ます。ぶどうの実はすべての枝になるのではない。前年に出た枝に芽が付き、そこに実が付くのです。
しかし、新梢に芽がたくさん付きすぎていると良い実はならないので、4~5の芽を残して、新梢のその先は剪定し、切って捨ててしまう。どの枝を切って、どの枝を伸ばすかというのは、ベテランのブドウ栽培者であっても結構悩むこともあるそうだ。
父なる神はベテランの農夫である。しかしどの枝を生かし実を結ばせるか、枝である私達のどこを剪定しようか、結構時間をかけてお考えになるのではないだろうか、これは非常に人間的なたとえであるが。人生の実を結ぶためには、キリストにつながることが大事だ。枝は木にしっかりと固定されてないといけない。木から離れては存続が出来ない。やがて枯れてしまうので、農夫によって切られて、捨てられ、火で焼かれて燃やされてしまう(滅びの暗喩である)。
しかし、枝がイエスと言う幹にしかっりとくっついているならば、樹液がまわってきて、やがて美味しい立派な実をたわわに付けることが出来る。要はイエスに毎日固く結ばれて生きて行くかどうかなのです。
『あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れた(義認)のですから、キリストに結ばれて(聖化)歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。』(コロサイ2:6~7)
もちろん、イエスの方でも私達がイエスを求めるより先に、主体的に、私達に関与してくださっているのです。イエスの方が先に私達を追い求め、追いかけてきています。『わたし(イエス)もその人につながっていれば、』のお約束は、私はそのように考えています。
『わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。』(詩篇139:7)
『「やみはわたしをおおい、わたしを囲む光は夜となれ」とわたしが言っても、あなたには、やみも暗くはなく、夜も昼のように輝きます。』(同139:11~12)
どんなマイナスな気持ちに私達がなろうが、私達がどこかに逃げて行こうが『あなたのみたまを離れ』ることは出来ないのです。神の愛は主体的優先的に、愚かな人間に対して流れてきています。しかし、神から逃げるのではなく、その愛に応えて行こうとする、自分達人間の側の姿勢が大事です。信仰の人間の側の神に対する積極的な求めと言うのは、私達に与えられている自分の霊の叫びであると私は思う。
『神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。』(ローマ8:15~16)
天から降り、『「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊』(ガラテヤ4:6)すなわちキリストの霊と、人が持っている『わたしたちの霊』は共に働き、協力し合わなければならないだろう。神の子供である『証し』は両方からされるのです。『わたしたちの霊』がもたらす自発的に自分が神を追い求めて行くこの能動的姿勢は、信仰者にとって大事な姿勢です。
『あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。』 (ヨハネ15:8) キリスト教信者が実を結ぶことが期待されている実はどんなものだろう。私達はどんなぶどうの実を人生にならせることが出来るだろうか。まさか、この世的な名誉や、栄達、富や、地位、権勢ではあるまい。聖霊が結実させて下さる実とは何か。『これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。』 (ガラテヤ5:22~23)とあります。 そして、その実を結ぶために、また父がご栄光を受けるために、何でもキリストの名によって求めなさい、何でもあなたがたに与えてあげようと言う祈りの約束が続くのです。
『あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。』(ヨハネ15:7~8)
『何でも願い』をせよと言っても、それは前章14章で述べたように、必ず制限があります。神の栄光にならないようなことはこの何でもの中には入っていないと考えるべきです。利己的なことや、人を貶めたり、嫉妬心や、自己の野望を満たすようなことは祈り求めてはいけないし、祈っても答えられない。このイエスの言葉はそのように考えるべきであろう。そして、イエスの言葉が私達の内にあり、イエスの言葉に素直に従い、イエスと言うぶどうの木にしっかりといつも結びついているなら、何でも祈り求めることはイエスの名において実現して行くお約束です。
さてここで少し横道にそれるかも知れないが、言葉と霊という問題について考えて見よう。
『わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。』(ヨハネ15:3)これはいったいどういう意味なのだろうか。何故この一節がここに挿入されているのだろうか。キリストの霊によってあなたがたは清められていると言う意味なのだろうか。イエスの言葉と霊は同じなのだろうか。イエスの言葉が、私達を清めるのだろうか。霊と言葉の関係は一体どうなっているのだろうか。
私は、これまで色々と、聖書の自己流解釈をやってきたが、聖書の世界は言葉の世界です。神の言葉であると信じて読んではいるが、基本的には文字の世界です。言うまでもなく、言葉を記録したのが文字です。イエスの生身の言葉を聞きたいとは思うが、それは今の地上ではかなわない。弟子達が記憶をたどって書いた文字としてしかイエスの言葉は残っていない。イエスは直接聖書を書くことはなさらなかった。御自身が神の言葉そのものであったから、わざわざ羊皮紙にペンで言葉を書くようなことはなさらなかったのだろう。言葉=文字ではないだろう。しかし文字を通してしか、イエスの事績をたどれないではないか。
イエスの生ける言葉を今聞こうとしてもそれは無理なことだ。文字に頼るしかない。聖書全体が神の言葉と信じてはいるが、旧約聖書39巻と新約聖書27巻、合わせて66巻からなる、その文字数は膨大なものです。この文字、このすごい量の言葉の羅列はいったい何の為にあるのであろうか。神が、人間にご自身を顕現された。神がイスラエルの歴史に関与されたこと、また、様々な犠牲制度の儀式、祭り、隠されていた贖罪の概念等を、預言者達は旧約聖書に記録した。その中にはもちろん、神の直接的な託宣も含まれている。
また新約時代に入って、贖罪の本体としてのキリストが明らかにされる。12弟子達の目に映った神の子イエスの言葉と行動を、彼らは手紙、福音書、使徒言行録、黙示録等に記録した。それらは様々な会議を経て、真偽のほどが検討され、紀元4世紀頃、新約聖書として成立した。
人間の言葉と神の言葉は同じではない。しかし人間の言葉を介しながら神はご自分の存在を現わして来た。神の子イエスは、弟子達が書いた人間の文字を介して、行った事績と、教えを新約聖書の中に残された。文字によってしか記録はできない。現代はSDカードやビデオ、DVD、USB等様々な記録媒体があるが、そのような便利なものは当時はなかった。パピルスや羊皮紙に書かれた文字によって記録を残すしか他に方法はなかった。
私達日本人は言葉に余り重きを置かない傾向があります。情緒やその場の雰囲気、気持ちの方を大事にする国民です。確かに人間の言葉は頼りにならないことが多い。政治家の言葉など、信用が出来ない見本のようなものだ。
しかし言葉、それを記録した文字は大事なものではないか。文字を通して、霊的なものが伝えられてくる。 『文字は人を殺し、霊は人を生かす。』(コリント第二3:6口語訳)とあります。 確かに、文字は冷たく、人を罪に定め、死の働きをする面もあるかも知れない。『石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ』(同 3:7)と書いてある通りです。冷たい石に刻まれた律法(十戒)の文字は、私達の罪を指摘するばかりで、そこに贖罪がない。故に律法の実行によっては誰一人救われないし、神の前に義とせられないのです。律法は第7日目安息日遵守も含めて、神の義を要求するばかりで、それを行う力は与えてくれないのです。いわば鏡のようなもので、鏡を見れば自分の汚れた姿は見ることが出来るが、汚れを落とす力がないのです。律法によっては罪の自覚しか生じないのです。
『律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。』 (ガラテヤ2:16)
『律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。』(同3:11)
一方、霊の宿るところには力がある。キリストに結び付けられ、『霊の法則が、......あなたを解放』(ローマ8:2)する時は、喜びと自由があり、霊によって心が温められ、平安があります。私達が、不安と、行き詰まりと、恐れを感じている時、神の霊が臨んできて急に心が癒されることがあります。私は何度もそんな経験をしてきた。聖霊が来て下さるとき心の中に変化が起きてきます。喜びと平安、キリストによる精神的解放がもたらされます。『主の霊のおられるところに自由があります。』(コリント第二3:17) そこには、キリスト者の自由があります。『この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛(文字、律法)に二度とつながれてはなりません。』(ガラテヤ5:1)
しかしどうであろう、文字によらず霊はあり得るのだろうか。言い換えれば、言葉によらずに霊は注がれるのだろうか。聖書の言葉を神の言葉として受け取り、読み、考え、瞑想し、又、御霊の導きを求める時、言葉と霊は共に働いているように私には思われます。言葉なくして神の霊は降ってこない。又、聖霊なくしては神の言葉は理解できない。神の言葉を究めて行くとき、同時に霊は喜々として私達の内に宿ってくれるのです。『わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。』(ヨハネ15:3 )と言うのは、そういうことではないのか。何とも、表現できない実態に向かって、私は書いているのだが、私の言いたいことを理解していただけただろうか。つまり、神の霊、聖霊、イエスの言葉、神の言葉、聖書の言葉、文字は一体となって有機的に結びついていると私は言いたいのです。
つまり、聖霊を受けることは信仰の主体であり、実存的なイエスとの関係は、それによって天国へ入れることの確証であり、最も大事な事です。
しかしその聖霊は、出所を同じくする神の言葉、聖書の言葉、イエスの言葉と必ず一致するはずです。愛の方向性を定めた十戒や、神と人の為に、自分の命を捨てるような生き方を求めるイエスの戒めに矛盾するようなことがあってはならないのです。同じ神のところから、聖霊も御言葉である聖書も発出しているのですから、必ず一致するはずです。
とは言え、人間性は弱く、イエスのお言葉通り生きることは非常に困難です。下着を取るものに、上着まで取らせることはなかなか出来るものではありません(マタイ5:40参照)。1ミリオン(1,480㍍) 強いて行かせるものに、2ミリオン行ってやれるものではありません(同5:41)。敵を愛し迫害する者の為に祈れ(同5:44)るものではありません。『そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。』(コリント第一6:7)とも書いてあります。キリストに従い、その愛のみ言葉の御要求にこたえることは、容易なことではありません。ただただ、キリストに結び付いた自分が、御霊を内住させることによって、霊的に解放されて生きるしか方法はありません。
そもそもイエスは一人の人格(神格)としての神の言葉であるのです。『初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言(イエス)について。』 (ヨハネ第一1:1) 言葉があってこそ、霊があり、霊があってこそ、文字に記された言葉が活きてきます。それらは切り離すことが出来ないものなのです。
さらに、その霊の言葉は、御霊に満たされてくるとき、私達の近くにあり、今でも私達の口を通して語られる可能性もあると私は思う。『では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。』(ローマ10:8)真に御霊に満たされてくるとき、今でも神の言葉は私達の心、口、思想を通して語られる可能性があります。もちろんそれらのことは聖書の基準に照らして、真理から逸脱していないか吟味される必要は常にあります。私達がいくら御霊に満たされる時があるとは言え、私達の思いつくことがすべて神の言葉にはなり得ない。神の言葉が現代の私達に託されるとしたら、聖書の基準によって、良く良く吟味されなければならないだろう。
聖書の言葉から逸脱した思想や言葉は、闇の勢力が欺瞞によって、独自御解釈だと高慢な心で、悦になっている人に植え付けられるのです。こういうマイナス面が常にあることにも気を付けよう。
『父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』(ヨハネ15:9~13)
キリストの愛の内にとどまれ、何と美しい言葉であろう。ただ、ただ私もそうありたい、そうあり続けたい。それはキリストの喜びが弟子達や私達の内に回復するためです。その喜びとは何か。聖なる喜び、永遠の尽きることのない、内側から溢れ出てくるような喜び。聖霊に触れ、満たされ、人間存在そのものが神の霊によって包まれてしまうような喜びです。
そのためには、キリストの掟を守れ、その掟は、キリストが愛した愛し方であなたがたも愛し合うことだ。それは半端な愛し方ではない、キリストは神と人の為に命を捨てて愛し尽くされた。あなたがたも神の為、人の為、友の為に命を捨てる覚悟で愛せよ。実に重いイエスの言葉だ。
以下前章の繰り返しになる。
こう書いてくるとある方は思うかも知れない。そのような生き方を選択することは、余りにも重いことで、自分はそのように生きることは出来そうもない。何を隠そう、私も同じです。神の言葉のこの絶対的な価値観に立たされるとき、果たしてそんなことが出来るのだろうかと思って、足がすくんでしまう。
しかしこんなに大きな愛を、今すぐ実現しなさいと言うことではないと私は考える。愛には段階がある。愛には大きい愛もあれば、小さい愛もある。一日に一善、小さな親切を周りの人にしてあげることから始めよう。『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』とキリストが言われた時、『これ以上に』と言う言葉を使われた。これは、愛には色々な段階があることを示唆されていたのだと私は思う。
大きい愛、小さい愛、真実な愛、偽善的な愛、情熱的な愛、冷ややかな愛、利己的な愛、他者の利益のみを考えるアガペーと言われるの無償の愛。どの段階の愛であろうと、私は無いよりはましであり、愛は実行すべきだと思う。
私達は俗人であって、聖人ではない。あまり無理すると信仰の躓きが起きかねない。どだい肉の生まれ変わっていない部分をたくさん持っている人間が、神と人間の為に自分の命、命を構成している時間、自分の生活空間、多くの時間を費やしてきた趣味、この世の肉の生き甲斐、価値観等、それらを捨てることはそう簡単には出来ない。私達の肉の生き方は私たち自身を作り上げており、善であれ悪であれ、普通のことであり、肉の趣向に囚われた生き方を切り離すことは、キリストの慈愛に満ちた霊の助けをいただかなければほぼ不可能だろう。
良く自分を謙虚に振り返ってみよう。私達はその仕事も含めてほとんどの時間を自分の肉の維持のために捧げているではないか。また趣味や旅行等、様々なこの世にあって許されている、この世が提供する肉の楽しみも含めて、ただ肉を維持し、楽しませるために活動して生きているのです。ほぼすべての時間を自分と家族の為に費やしているではないか。
しかし、だからと言ってそのことは罪ではない、何故ならそのようにしなくては、この世で生きて行けないからです。現状は、肉にあることすら当然のこととし、生きることそのものが罪深い傾向にあることに気が付いてもいない私達です。
しかし、そんな私達が神と人の為に、自分を無にして、聖なる方向に舵を切って行けるとすれば、その力は自分にはない。ただキリストが私の中に、聖霊の内住によって、パラクレートス(助け主、救済のために呼び出されたもの)となってくださることによるしかない。これが『わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。』(ヨハネ15:5)の意味ではないだろうか。
肉の努力のみによって、私達が何もできないと言うことはない。キリストを離れ、肉の教育と訓練の力で、結構大きいことを成し遂げることが出来る。キリストを知らなくても、日本人は立派な文明を造り上げて来たではないか。宗教抜きに、大きな慈善活動をしている方々もいるではないか。
しかし、霊に属することは、肉の努力によっては如何ともしがたく、根本的に『わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。』と言われたイエスの言われた通りなのです。
『わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 』(ヨハネ15:14~15)
キリストは私達を僕と呼ばず、友と呼んで下さいます。そんなすごい名誉に浴せるのです。畏れ多いことです。天地を造られた、『偉大なる神』であるキリスト(テトス2:13)、人間となられた神キリストが、私達を友と呼んで下さる。これがいかにすごい言葉か、私はまだその意味を本当には理解できない。
私はキリストが友と呼ばれるほどの人間なのか?私はそのように呼ばれるにふさわしい者ではない。生まれ変わっていない利己的な性格を強く持ち、他者の利益のみを考える無償の愛を持っていない。しかも怠惰で、愚かで高慢な心がある人間なのです。さらに嫉妬心に富み、他人の成功をうらやみ、肉の欲をたくさん持ち、他人を自分のようには愛せない人間なのです。
そんな私をキリストは友と呼んでくれるのか。ああもったいない限りです。もし、私が友と呼ばれる資格もないのに友と呼んでいただけるなら、友らしく生きよう。『命じることを行うならば、あなたがたはわたし(イエス)の友』になれる。 何とか真の友になれるよう、御霊を求め、パラクレートス(助け主)の御臨在の内に、友らしくなれるよう、聖霊の実をつけるよう、信仰の精進をして行こう。
僕は(奴隷は)確かに主人の心の内を知らない。奴隷として主人の言われるままに、仕方なく、言いつけを実行するだけです。奴隷には自由がないから、いやいやながらも主人の言葉には従って行かなければならない。そこには自発的に仕える喜びはない。
しかし友は違う、友は、主人の心の内を知っている。主人が何を考え、どんな趣向があり、どんなルールのもとに動いているかが読めるのです。真の友はお互いに考えていることが分かります。キリストは私達に何を要求しているか、また聖霊によって、素晴らしい力と癒しをお与え下さる方であることを、友であるなら理解できます。もし友と呼んでいただけるならば、そのキリストの近くにいたい、キリストの御心に従って行きたいと思うのは当然です。友の気持ちに逆らって、友に悲しい思いをさせたくはない。
『互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」』(ヨハネ15:17)この言葉は動かすことが出来ないキリストの命令です。私がキリストの友であるなら、キリストがこのようにしなさいと言うこと、それはハッキリしています。神の為と人の為に、自分の時間と自分の命を削るような思いで生きて行くことです。しかしそれは自分の、生まれ持った肉の能力や、後天的に教育や訓練等で取得したスキルで奉仕するのではない、肉の力で働くのではないのです。キリストが聖霊によって心に住んで下さり自分のやることは、総てキリストが働いてやることにならなくてはならないのです。そこを勘違いしてはいけない。まず自分の持っている能力の全部を、キリストのもとに投げ出し、放棄し、サレンダー、つまり降参してしまわなければなりません。そういう意味での服従であり、それは委ねる、お任せすると言う意味です。
キリストを信じる者が受ける迫害と証しについて。
イエスは迫害された、同様に弟子達も迫害される。しかしパラクレートスが降る時、イエスについて証しをする。
弟子達は迫害の中にあって、力強くイエスについて証しをする。世は何故にイエスと弟子を憎むのか、それは彼らが世のものでないからです。もし彼らが世のものであるならば、世は自分の身内として喜んで歓迎し受け入れたであろう。しかし、弟子達は世に属してはいなかった。
滅ぶべき肉の世から、イエスが選び出し、イエスの語った言葉により清められ、聖霊が遣わされ、世から聖別されたのです。だから世は弟子達を憎むのです。肉の世にありながら、又肉を持ちながら私達はこの世で生きているが、実は肉にあって生きているが肉に従って生きているわけではない。『わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。』(ローマ8:12口語訳)
確かに私達も、この世の人と外見は全く変わっているわけではない。同じ様に肉体を持ち、この世の仕事をして、生活の資を稼ぎ、食べて、寝て、たまには遊び、この世で生活しています。しかし、違うところは、心の内に神の国が始まっていることです。
このような俗なる世間の中にいて、時々は全く世の中に同化しているように見え、世の享楽にさらされ、たまには、世の流れに押し流されてキリストの姿がぼやけてしまうような私達すら、キリストは、聖なる者として、その福音の故に、私達を取り扱って下さいます。 『しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。』 (コロサイ1:22)。それが神の憐みであり、私達の希望です。傷だらけの、欠けの多いものでありながら、聖なる者、傷のない者として、キリストの義に覆われて、御前に立たせていただいているのです。何と有難いことではありませんか。救いの栄光、感謝と喜びが主の御名 に帰されますように。
『「僕は主人にまさりはしない」と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。』(ヨハネ15:20 )。『僕は主人にまさりはしない』は洗足の時、言ったイエスの言葉です。イエスは弟子の足を洗って互いに仕え合う模範を、示されました。僕は主人に優ることはないのに、主人であるイエスが、僕のようになって、被造物である僕(私達)に仕えたのです。そのことが分かり、わきまえながら、あなた方もお互いに僕として身を低くして仕え合いなさいの意味です(同13:14~17参照)。
師が迫害されたら弟子達も同様に迫害される。『僕は主人にまさりはしない』のです。キリストの僕になったから、世の苦しみや、迫害から逃れられるのだろうか。ここでははっきりそうではないと言っているのです。
『「人々は理由もなく、わたしを憎んだ」と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。』(ヨハネ15:25 )肉の世が肉であることを維持するために、善なるもの、聖なるもの、霊的なものを憎み迫害する。
神の国は歴史が始まってから絶え間なく襲われ続けてきたのです。『天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。』 (マタイ11:12)。神の霊のあるところが神の国であり、それは私達の心の中で既に始まっており、それらは、常に肉的なものによって、襲われ、侵害されてきた。実は私達の心の中で神の国は侵害され、襲われてきたのです。私達が肉的な興味を持ち、それに囚われ、肉の属することに自分の精神を集中し、人生の時間を浪費して行くとき、神の国は襲われているのです。そして今も私達の心の中で襲われ続けているのです。
闇の中にいる者は闇を楽しみ、その刹那的肉の喜びに囚われ、はまり込み、光の方に来ようとはしない。闇の方が気楽で住み心地が良いからです。しかし、そのような生き方をしていても、時々神の声はそれらの闇の中にいる人の心に届いているはずです。人をだましたり、暴力や、ギャンブル等、また神経を興奮させる様々な薬物や、酒による泥酔の中で、「このような生き方をしていてはダメになる、何とかまともな正直な生き方をしなければいけない」と時々、神は異邦人の良心の内にお語りになっているはずです。神を信じようと信じまいと誰でも良心を持っています。もし良心の声が全く聞こえなくなってしまったら、どんな悪をやっても何も感じなくなります。あの、座間の、9人猟奇殺人事件の白石死刑囚のように。https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/column/%E9%80%A3%E8%BC%89%EF%BC%9A%E5%BA%A7%E9%96%93%EF%BC%99%E4%BA%BA%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E8%A3%81%E5%88%A4/13685 (リンク有)
一かけらの良心もなくなってしまったとしたら、その人は、闇に支配され、悪魔に魂をとことん占領されてしまったことになります。たとえ神の存在を認めない人でも、世の中に善と悪が存在すると言うことは、認めなければならないだろう。闇は光を嫌う、何故なら、光に照らされると、闇がしてきた悪い業が明らかにされるからです。
『わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。』 (ヨハネ15:22~24)
キリストがその言葉を語らなかったなら彼らに罪はなかった。キリストの言葉は語られ、その言葉を聞いた人々には弁解の余地がない。キリストの言葉は人に救いをもたらすが、それを受け入れない人々には、また罪に定める働きもします。もしこの生命のメッセージを受け入れなければ、それがその人の裁きになるとキリストが言った通りです。
また、イエスは多くの癒しの奇跡を行い、死者すら生き返らせた。神の手が確かにイエスと共にあった。それはイエスが神から遣わされた神の子である確かな証拠であった。それなのに彼らはイエスを受け入れず、憎み通した。何故?彼らは自分たちの父(悪魔)の命じる通りを行っていたのです。
以下、裁きについての前章の説明をそのまま引用する。
御子は私達を裁くためにこの地上にやって来たのではありません、救うためにやってこられたのです。しかし、残念ながら、御子の救いの言葉を受け入れない者には、裁くものがあります。御言葉を受け入れない、それがその結果としての裁きであり、滅びであります。救いを受け入れない者にとって、十字架は自分の滅ぶべき姿そのものなのです。やがて神の刑罰を、身代わりの仲保者なくして、自分で受けることになると言うことなのです。
『わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。』(ヨハネ12:47~48)
『わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても』の解釈はちょっと難しいように思われる。これはイエスの言葉を全然無視して守らなくて良いと言っているのではないと私は思う。例えば、右の頬を打たれたら、左の頬を出せるだろうか。敵を愛し、迫害する者のために祈れるだろうか。下着を取る者に、上着をも取らせるだろうか。
これらのイエスの御言葉を実際私達は守っているのだろうか?たぶん守っていないに違いない。でもイエスは何とおしゃっているのだろうか。『わたしはその者を裁かない』。私はそのようにこの言葉を解釈している。
また、イエスは誰も行わなかった業をして、神の存在を多数の人々の前で証明なさったではないか。人々の罪ですら赦し、贖い、肉体の病すらたちどころに癒された。重い皮膚病の人を癒し、視覚障害者の眼を開け、死者すらよみがえらせた。このような大いなる業を見た者もまた弁解の余地がない。何故キリストを救い主として受け入れないのか。彼らは奇跡の業を目の当たりにしたではないか。
師であるイエスの言葉をこの世の人が聞いて、従っていたら、弟子達の語る言葉もこの世の人々が聞いて従うであろう。『わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。』(ヨハネ15:20) しかし事実はそのようにならなかった。世はキリストもキリストの語る言葉も弟子達が語る言葉も受け入れなかった。現在の日本も同じです。これだけキリスト教会が多くあり、聖書が巷に頒布されていても、世は基本的に、キリストの弟子である私達の勧めの言葉を受け入れない。何故なら、『十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなもの』(コリント第一1:18)だからです。
『世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。』(コリント第一 1:21~25 )
これでヨハネによる福音書15章の自己流解釈は終わるが、聖書、特にパウロが言わんとする霊と肉と言う人間理解について考えて見たい。飛躍の多い文章になって、読みにくいとは思うが、さらに以下に、 書き連ねておこう。
罪とは現行罪も含まれるだろうが、もっと根本的な問題であろうと思われます。それは根本的には霊と肉の葛藤の問題に起因すると思われます。まず霊と肉の関係を追及しておく。
聖霊をいただいて生きていると自分では思いながら、実は肉的なことを求め、霊の名によって、肉の業を行い、肉の業に加担していたなどと言うことが、私の信仰生涯の中で多々あった。はっきりとした罪とはならないが、この世で生活をして行く上では肉的なことがとても多い。真の肉と霊の区別をする(判断をする)と言うことは、中々容易ではない。私達は肉体をもってこの世で生活しています。霊だけで生活することは出来ない。私達の個人の生活の中にあっては、霊と肉はことごとく有機的に、結び付いています。自分達の持っている弱い(あるいは強い)肉の身体と、自分の置かれた社会的環境も複雑に絡み合っています。
肉体の命が死ぬとき、私達の中にある霊は神の息になり、神に戻ってしまう。その状態は無意識です。死は眠りと同じ様な状態であり、私達の霊そのものがふわふわと存在するようなことは決してない。世の終わりとなってキリストが天から再臨なさるとき、復活が起きます。もう一度神は私達の身体を土の材料から復元なさります。神が息を吹きかけると私達はもはや朽ちることのない栄光の身体に再生され、新しい命をいただき、質の異なった、罪のない、喜びに満ちた二度目の人生を送ることが出来ます。これが私達SDAのクリスチャンが持っている希望です。もしこのことが、私達が信じた通りであり、事実だとすれば、この世の一生はひと時の仮の姿に過ぎない。
私は73歳になったが、本当に人のこの世での一生は余りにも短く過ぎてしまうものだなと、つくづく感じる。ついこの間までは私も青年であった。その思い出は私の感覚としては、ついこの間のことです。日本三育学院キリスト教学科で学んでいた頃、あの時、学友達と寮の中で、冗談言って笑い合っていたことを、懐かしく昨日のことのように思い出す。あの頃の、20代前半の青年達はどうしているのだろうか。既に老い、白髪になり、容貌も変わり、会っても分からないのではないか。風の便りに聞けば、その頃にお会いしたうちの私と同年代の4~5名の方々が、もう永眠してしまったそうだ。ボケかまし合いながら、笑い合った友がもういないのは、何と寂しいことでしょう。
そればかりか、時々自分の顔を鏡で見て驚く。この皺が寄った、老人顔をした人は誰だろう?まさしく今の自分の姿なのです。一生がこんなに短く、あっという間に、夢のように終わって良いわけがない。最初から神はこのように短い人生を人間にお与えになったわけではないのです。罪の結果このように、人生は短縮されてしまったが、やがてすべてが回復される時が来ます。永遠の幸せな、真理を探究できる時間が用意されているのに違いない。私は、そのように信じ、そのように望み、そのような愛をいただいて、真実に生きて行きたい。『このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。』(コリンント第一13:13)
人間の存在を肉と霊によって説明している、聖書の考え方に再び立ち戻って考えて行こう。私達は肉体をもって生きていていることは自明の理です。しかし、聖書によれば、肉にあって生きているが、肉に従って生きているのではない。『肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。』(ローマ8:13)肉は霊を宿す器です。肉と言う入れ物がなければが、生きて行くことは出来ない。霊だけでは存在できない。しかし、肉の要求に屈し、肉の欲望を中心に生きてはならないのです。肉にありながらも行動の中心は霊の命令に従い、霊の支配下の中にいる必要があります。
『肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、"霊"は義によって命となっています。』(ヨハネ8:8~10) イエスを信じ、イエスが心に聖霊によって住み続ける限り、私達はどんな状態でも、聖霊により、イエスの恵みによって義とされており、神の子供であるのです。神の霊が私達の内に宿っているかぎり、肉にあって生きてはいますが、実は肉ではなく霊の支配下にいます。肉と霊は同時に存在しているが、肉は霊のコントロールの下に置かれることがベストです。
キリストが心の内におられるならば、体は罪によって死んでいても、"霊"は義によって命となっているのです。"霊"は義によって命となるは、
1⃣聖霊が私達の心に宿ることにより、神の正義が命をもたらし、自分の内実も限界はあるだろうが神の義の生き方に変えられて行くのだと解釈します。
2⃣また神の義が信仰によって、まるで洋服を着るように、スッポリと私達に着せられて、"霊"は義によって命となると解釈することもできるでしょう。
繰返して強調しておきます。やがては朽ち果てるこの肉体を持って生きている私達ですが、キリストの霊が私達の内に宿っている限り、肉に従って生きているのではなく、肉にありながら、霊の支配下に入っているのです。もちろん、こうは言っても、現実は厳しく、相変わらず、肉の様々な欲求は起きてくるのです。しかしそれらを霊の支配下のもとに『絶つ』(ローマ8:13新共同訳)、『殺す』(同8:13口語訳)ならば、つまり霊のコントロールのもとに置くならば、真に生きることが出来るのです。イエス・キリストを信じ聖霊に感化された者は、たとえ肉の弱さにあり、あえぎながら歩いている者であっても、基本的、根本的にキリストのものであり、神の子の支配下のもとに移されているのです。『神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。』(同8:14) ここにパウロの救われた魂に対する、大きな視野を感じます。私達はこのような大きな心、宗教的寛容さを持たなければいけないのです。救いに対して、自分の持っている教理的な狭い見方に限定されないことです。
あの人は救われる、救われないなどと言ってはならないのです。私達は『神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。』と言われているのに、自分の聖書解釈と他の人々が違う解釈をしていると言う、ただそれだけの理由で、「あの人は救われない」、逆にまた、「あの人は救われる」などと言ってはならないのです。キリストは総ての人の身代わりになって十字架につき、信仰によって義とし、復活させることがお出来になるのです。神に対する他人の信仰の持ち様を誰が推測し、判断することが出来ようか。そのようなことを言う人達は、自分を神の立場に置くことをしているのです。そのことについては以下のように書かれています。
『信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。』 (ローマ10:6~7)
私達は霊に従い、霊を第一にしながら生きるべきだが、肉を否定したり、無視することもしてはならない。肉のすべてを否定すれば禁欲主義となり、キリスト教本来の教えではなくなる。そこが難しいところです。私達は肉の健康も、肉体から出る正常な欲求も大事にして、出来るだけ長生きして、神と人間のために、それぞれの得意分野において、働き方は違うかもしれないが働いて行かなければならない。そのためには肉体と精神の健康管理に努める必要があります。適度な運動をして、健康的な生活をすること。健康的な食物を食べ、日光、新鮮な空気、清涼な水、信仰心、精神的な安らぎ、十分な睡眠と、レクレーションを含む休養を取ること等、与えられた肉の身体を大事に養って行こう。さらに、各自、考え方では幼子のようではなく、十分成熟した大人になったのだから、バランスの取れたものの見方をして行こう。この世が提供する良いものは取り入れて行こう。巷の様々な健康法を織りまぜながら、この世の肉体を、ベストの状態に保って行かねばならないのです。しかし肉は器であって、そこに入るものはイエスの霊であることを忘れないようにしよう。
『わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。』(コリント第二4:7)
『わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。』(同4:10)
肉は霊に従わせ、霊の支配下に置かねばならない。肉体が始めから持っている、生命維持の為の欲求がある。これらは、何ともしがたく、私達が活きている限り続くものです。肉の生活と、霊の生活とを、同時に経験している私達にとって、必ず両方があり、肉と霊の兼ね合いの中で、人生は進んで行くものです。ただし、肉の方に偏り過ぎて行くと、正常な状態から離れ罪の原因となって行きます。しかし霊によって、肉の様々な欲望は肉の置かれる場所に正しく置かれ、コントロールされるならば、肉にあることは罪ではない。 『神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。』(ローマ8:9)
古代オリンピックに出る競技者はすべてにおいて節制し、肉体を打ち叩いて、鍛錬した(コリント第一9:24~27参照)。彼らは朽ちてしまうオリーブの葉で作った冠を得る為、そうしたが、私達は朽ちない冠を主からいただくために、あらゆることに節制し、放縦と、肉の欲を避け、霊の支配下に自分の肉の欲望をコントロールするのです。霊の生活を心がけている私達も、自分のこの弱い肉体を打ち叩いて、服従させて行くのです。もちろんただの肉の努力ではなく、祈りつつ恵によって。
『わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。』(ガラテヤ2:19)
肉を霊の下にコントロールし、修正して行くだけでは十分ではありません。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければならないのです。私達の肉的なもの全て、生まれつきの能力や、才能、感性、体力等も含めて、実は一度イエスの身体と共に、十字架に付けて行かなければならないのです。
善悪のことを言っているのではありません。肉が善であろうと悪であろうと、そのようなことを言っているのではありません。霊から離れた肉は、役に立たないのです。役に立たないどころか、もし肉で神の働きをするなら弊害となってしまいます。それは時間がたてば分かります。肉の努力でなされた神の業らしきものはやがて廃れてしまうものなのです。
例えば、その時は見栄え良く神の教会や施設を建て、多くの信者が集まり、神の業が発展しているように見えても、肉の業によるのであれば、やがて御霊は取り去られ、総てが空しく消え去ってしまいます。御霊の感動もなく、生きたキリストとの出会いもなく、表面的な、上面だけを信仰し、自分は神に受け入れられ、律法を守っていると勘違いしている少数の信者の集まりに教会は落ちぶれて行くのです。信者が段々と減って行き、たぶん経済的に困難になり、教会や施設の維持すらできなくなることでしょう。しかし、神は憐れみと愛の方です。悔い改めて、自分達の内的な欠乏を深く感じ、キリストの霊と再び出会うならば、必ずもう一度霊的な信者の集まり(教会)となって、この世にあって光り輝くものとなって行くでしょう。
肉で律法の要求に応えようとしている人は、不可能なことを試みているのです。律法そのものは善なるものであり、聖なるものであり、霊的なものです。それは神のご性質ですから、変えることも、動かすこともできません。しかし守ろうと思っても、そもそも守ろうとしている本人が、肉のもとに生き、肉に支配され、肉のもとに売られているのです。肉によって律法の要求を満たすことは不可能なのです。『神の律法に従っていないからです。従いえないのです。』(ローマ8:7)
私の肉は十字架につけられて死んでしまった。そう、霊が私達を支配するために、一度ならず何度でも私達は、自分のまだ死に切れていない肉的な部分を十字架に磔けて行かねばならないのです。『キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。』(ガラテヤ5:24)
しかし、こうは言っても、現実には死んでしまったはずの私の肉がまだあります。私自身は肉にあって、肉において、まだ生きています。『生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。』(ガラテヤ2:20)パウロは、自分の肉的な部分は信仰によって生きていると表現している。私の肉のすべてが十字架でキリストと共に磔になり死んでしまったのに、何故まだ肉の命、肉の欲望が生き返り、生きているのか。 この個所私は、以前から、気になっていた表現でした。
『肉によって生きているのは......信仰によるものです。』何故、肉によっていまだ生きることが信仰によるのか。それは肉をもって、肉の中でしか生きれない仕方のない人間の現実があるからです。肉の欲、自己の変えられていない肉の能力、欲望を十字架につけても、根本的に生きることそのものが、現実の自分たちの生の中で、食べ、飲み、行動し、肉の体を動かすと言う土の器の中に拘束されているからです。
霊の働きも、霊だけでは行動することが出来ません。人間の健全な肉を通してでなければ、霊も行動に移せないではありませんか。健康な身体と行動力、善なる意思と精神がなくては、どのようにキリストの道を伝道し、世の人々の為に命を捨てるような思いで愛の行動をして行けると言うのでしょうか?つまり霊そのものも肉体を必要としているのです。肉を通して霊の業もまた現れて行くのです。
堕落して罪の入り口になってきた肉の誘惑を伴う弱い肉体。しかし堕落前には善であった身体(栄光に包まれていた)。身体そのものは神が創造したのです。アダムは最初から霊で存在していたわけではありません。霊は神の息であり、土から造られた身体に息が吹き込まれて、アダムは生きたものとなったのです。堕落前においてはアダムの身体も含めて、すべては完全なものであり、善なる物でした。
つまり、元々人間の肉と霊(身体と精神?)は一体化してしか存在できないと言うのが、聖書の立場なのです。霊魂だけが救われたり、霊だけが救われて天国へ行くような教えは、根本を理解するなら聖書的ではないことが分かります。
私は、(許される聖書解釈の範囲内であると願うが)現在まだ、肉にあり、肉において生きるのを、神は憐みによって許されているのだと解釈します。『あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。』 (ガラテヤ4:6)。御子キリストの霊、すなわち「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を私達は受けているが、その霊の支配下にありながら、肉にあって生きていることを神は許されているのです。
このようにありながら、肉を持ちながら、肉は霊の支配下のもとに、コントロールされて、私達は生きて行くしかないのです。このような生き方は、すべてキリストがなされた贖罪の業に土台を置きます。十字架の上で、キリストがその肉体を裂かれた時、私達の肉体も共に一緒になって処断されることこそが最も大事な肉の処遇です。『肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。』(ローマ8:3~4)
肉とはパウロが何を指して言っているかを把握するために、さらにパウロが言っている個所を挙げて見よう。
私は律法によって私の肉は死んでしまったと言っている(『わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。』 ガラテヤ 2:19)。肉の思いは神に従いえないとも言っている(ローマ 8:7参照)。霊で始めたことを肉で仕上げようと言うのかとも言っている(ガラテヤ3:3参照)。
弱っている兄弟のために人生の重荷(肉の重荷?)を負ってあげることがキリストの律法を全うすることであるとも言っている(ガラテヤ6:2参照)。
十字架につけられて、この世は私に対して死に、私もこの世に対して、死んでしまったとも言っている(ガラテヤ6:14参照)。
キリストがあなたがたの心の中に聖霊として住んでいるならば、あなたがたは、キリストの支配下にいるのであって、肉にあって歩いてはいるが、肉に従って生きているのではない。『神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。 』とも言っている(ローマ8:9~14参照)。
最近私が、毎朝のディボーション(神との交わり)の度に瞑想する課題があります。私が今思っている救いに関する概念です。心情と言った方が正確かも知れない。理解されてもされなくてもそのことを以下に書き連ねておこう。
まずアッバ父よと叫ぶ御子の霊を受けるよう祈ろう。『この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。』 (ローマ8:15)『あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。』 (ガラテヤ4:6)
その霊はすでに来ています。キリストの霊を持たなければキリストのものではない(ローマ8:9参照)。ここが始まりです。主を信じる総ての人は、キリストの十字架と復活を、個人的に自分のものとして体験する事により、キリストのものとなり、キリストが心の中に住んでいます。『キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。』(コロサイ3:11)と書いてある通りです。アッバ父よと叫ぶ御子の霊を、さらに上より求めて行こう。これが信仰の土台です。ヤコブも言う『「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ』る(ヤコブ4:5)と。私達にはキリストの霊が宿っており、自分の霊とキリストの霊が共に協力して、世人に、神の証をするように召されています。(ローマ8:15~16参照)
イエスの名はヘブル語でヨシュアיְהוֹשֻׁעַ (イェホーシュア)・イェシュアיֵשׁוּעַ (イェーシュア)、原語での意味は、ヤーウェは救いの意味。ギリシャ語のイエスースからきている(Ίησοῦς)。
キリストの名はヘブル語でメシアמָשִׁיחַ、原語の意味は、 油(聖霊)注がれた者である。メシア-救世主との意味をもつ。ギリシャ語のクリストースからきている(Χριστός)。
私には、イエスつまりヤーウェは救いであるとキリストつまり油(聖霊)注がれた者の姓名の中に、総ての救いの要素が凝縮されているように思われる。『わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。』(使徒行伝4:12口語訳)。天下のだれにも与えられていないこの名前によって祈る時、霊的な祝福の豊かさを、この世においても味わうことができます。必要なら天が開けて、物質的なものも備えて下さるはずです。『どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。』 (ローマ8:32口語訳)と書かれています。
①イエスース...ヤーウェは救いである。この神の救いの奥義によって私達は皆救われ、罪赦されて行くのです。
②クリストース...油注がれた者。罪赦された者は変えられていく、何によってか。油(聖霊)注がれた方によって、私達にも聖霊が注がれて行くことによってです。聖霊は父なる神から出て、キリストと呼ばれる受膏者を通して私達に注がれるのです。
①②の中に総ての救いの要素が凝縮されているように感じられる。その約束のゆえに、イエス・キリストの御名によって、聖霊とその霊の与えて下さる賜物を呼び求めよう。聖霊に満たされ、水によるバプテスマだけではなく、聖霊のバプテスマを乞い祈り求めて行こう。聖霊が降る時、聖霊から与えられる種々の賜物が与えられる約束が聖書の中にあります。信じるか信じないかは各自の自由であるが、私はその約束を信じる。賜物には、個人の生まれつきの能力や、才能もある。また預言や異言、病気を癒す賜物等、奇跡的に天から付与されるものもある。
その人が神とキリストとを信じているかどうかに関わらず、人には生まれつきの能力が与えられています。それは、遺伝(運動神経や、音楽、芸術、数学等の能力)と、その能力を育てる環境によります。また、特別な例として、神が特定の人物に特定の能力を授けられる(例えば、出エジプト記31:1-6のべツァルエルのように)こともあります。それらは個人の中で複合的に絡み合っていることでしょう。
また、霊的な賜物は、人が自分の罪の赦しのためにキリストを信じたときに、聖霊によってすべての信者に与えられるものです(ローマ12:3,6)。その瞬間に、聖霊は新しい信者に、ご自身の望まれる霊的賜物を与えられるのです(Iコリント12:11)。ローマ12:3-8には、次のような霊的賜物があげられています。預言、奉仕(一般的な意味での)、教えること、勧めをすること、分け与えること、指導すること、慈善を行うこと。I コリント12:8-11には、知恵のことば、知識のことば、信仰(カリスマ的偉大な信仰)、奇蹟を行う力、預言、霊を見分ける力、異言(自分の学んだことのない言語で話す能力)そして異言を解き明かす力があげられています。さらに、エペソ4:10-12に、神がご自身の教会に使徒、預言者、伝道者、牧師また教師を与えられたことが書かれています。
私は特に『知恵と啓示との霊』(エペソ1:17)を求める。それは、自分を含めて、救いにかかわる重要なことだからです。もし異なった霊によって、間違った聖書解釈をするなら、自分の救いばかりか、私の文書を読んだ他の人々の救いまでも危うくするおそれがあります。ここは是非とも真理の御霊、聖霊の油によって、導いていただきたい。誰から教えられることではなく、聖霊の油が真理を直接教える約束です。『しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油(聖霊)がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。 』(ヨハネ第一2:27)
また、賜物の中で私が特に神に求めるのは癒しの賜物(コリント第一12:9参照)です。この賜物が与えられれば、自分の健康だけでなく、他の人々の健康のために役に立ちます。しかしそれは神が自由にお与えになる賜物(コリント第一12:11参照)であって、皆が持っているわけではない。『皆が奇跡を行う者であろうか。皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。』(コリント第一12:29~30)。
次に私が願うのは、『こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。』 (ローマ5:21)の境地に達することです。
この聖句はローマ人の手紙の中でも見落としがちな言葉ですが、実は最も重要な聖句の一つです。『こうして』の意味するところが大事です。こうしては、今まで説明してきたようにの意味です。こうしての内容を私流に解釈して以下に書きます。
アダムにあってすべの人は、罪人と生まれつきされていることを認めよう。
⑴人間は生まれつきの罪はない、まったく与えられた自由意思で、個人の責任で罪を犯すから罪人となる。その意味で罪の原因は、環境でもなく、遺伝でもない。一人の本来正しい、自由人として生まれた人間が、自らの意思で、自己責任で罪を選び取り、実行するから罪人となる。
⑵しかし、本当に人間は環境や、生まれもった個人の遺伝的弱さに影響されないのであろうか。例えば、貧しい者がその貧しさのゆえに、盗みを働く可能性はある。性の欲望に遺伝的に激しく憑りつかれた人間が特異的にいて、性犯罪を犯すのではないか。第一のアダムにあって様々な罪の性質を生まれつき受け継いでいるから、自由意思を誤用して行き、結果的に罪を犯し、罪人となって行くのではないか。
⑴と⑵は、いまだに議論が絶えないところがあります。神学的立場を大きく左右する問題です。私は後者の立場に最近は魅かれています。私達全員が、アダム以来罪を犯し続けたゆえの遺伝的な罪の傾向を性格として受け継ぎ、人間は大なり小なり『生れながらの怒りの子』(エペソ2:3口語訳)であり、罪の支配下の中に生活しているのです。第一のアダムと共に数えられ、生まれながらに罪人なのです。
しかし、第二のアダムであるキリストには罪がなかった。『その口には偽りがなかった』(イザヤ53:9口語訳)とあります。無垢であるキリストが罪のない生涯をお送りになって、第二のアダムとなってくださった。第一のアダムは罪の支配に服した型であり、キリストは人類のもう一方の型である第二のアダムとして地上にやって来た。第二のアダムは恵と義の支配の型です。第一のアダムがやってしまった総ての失敗を克服し、罪とその結果である死に勝利した。そして、イエスを信じ受け入れ、イエスの支配下に入る人々は、イエスの行ったすべての生涯、良い業の特典がその上に被せられます。
『しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。』(ローマ5:15) ここに『なおさら』というキーワードが使われているのに気が付く。第一のアダムと、第二のアダムはどちらが偉大なのだろうか。第一のアダムがした罪の業と、第二のアダムがした恵と義の業とどちらが偉大なのであろうか。一方は土から造られたものであり、一方は土から造られた肉体はもってはいたが(受肉)今や復活によって、朽ちない栄光の身体を持っており、そもそも最初から神の子なのです。どちらの姿が優先して行くのか、言うまでもない。アダムにあって罪の支配の中にあったものを、キリストは義の支配のもとに呼び起こし、義の支配に入れてしまう力があります。第一のアダムの罪と死の支配より、第二のアダムの義と恵みの支配の方が『なおさら』優先して私達に働くのです。
『こうして、......恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。』 (ローマ5:21) 恵みによって、御霊の支配下の中で、このような生き方が出来るのです。まったく違った、生き方が出来る可能性があります。私はこのような生涯をこれから歩みたいし、歩まなければならない。キリストが復活した時、このような恵みの支配が復活の霊によって始まったのです。この地上において新しい時代が到来したのです。霊の支配の管理下に私達も組み入れられ、勝利の活き活きとしたクリスチャン生活が歩めるようになったのです。キリストの復活の御霊が私達を支配するように、常に意識して、祈り求めて行こうではありませんか。
キリストにある命の支配が回復されるということ。この世にあって、私達の内にキリストの命の支配が始まり、この世にありながらキリストの命が、私達の腹から生ける水となって、流れ出すのです。『わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。 』(ヨハネ7:38~39口語訳) イエスの命が、私たち自身から溢れ出す経験をすることが出来るようになります。私達から、キリストの命の御霊が、泉となり、命の水となって、他の人々に向かって流れ出すのです。『わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」』(同4:14) の御言葉が実現して行く。こんな祝福が他にあろうか。
最後に私が常に求めるのは、生きて行く力です。単純です。イザヤ書40章~41章に書かれている通り我が身に起これ。
『弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。』(イザヤ40:29口語訳)。
『恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。』(同41:10口語訳)。この言葉の約束の、日常生活における実現です。
私は弱いときにこそ強い(コリント第二12:10参照)、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇ろう(同12:9参照)、とパウロは言いました。パウロの手紙は力強いが、会ってみると、その話はつまらなく、とパウロ自身が書いている場所もありますので、パウロは肉体的にも威風堂々とはしていなかったようです(コリント第二10:10参照)。
田中清二は文字通り、母の胎から1ヶ月早く産まれ(未熟児)、小学校時代は、いつも体弱く、骨皮筋ェ門と呼ばれていた。2024年1月に満98歳なった母。いつまでも元気でいて欲しいと願っている。母から以前聞いたところ、産まれた時の私の体重は800gだったそうです。すでに故人となった私の叔母が、自分の指でいつも私の全身をさすったり、揉んだりして育てたそうだ。それでないと私が冷たく固くなってしまうから。
小学校 低学年の時は、学校の校庭に集合して行われていた朝礼で、貧血を起こし、気持ち悪くて立っていられなくなり、先生に抱えられて保健室に運び込まれた経験をしたこともある。思い起こせばとてもひ弱な私であった。小学校3~4年の時、体重が25キロしかなかった。今の今まで生きてこれたのが不思議なくらいの人間です。小学校5年生の時だったか、荻窪にあるSDA東京衛生病院に慢性気管支炎で1ヶ月ほど入院した。高校時代に陸上部に入り、運動したことで少しは身体が鍛えられた。
私が21歳の時に、事情がありだいぶ遅れて日本三育学院カレッジキリスト教学科に入学した。当時、全寮制のこの学校は千葉の内房線の楢葉駅から少し離れた丘の上にあった(現在は夷隅郡大多喜町に移転)。キリスト教学科で学んでいた時に、同じキャンパスに併設されていた全寮制高校の生徒によってつけられた仇名は「虚弱体質」であったと聞く。農業部や園芸部で働きながら、常に疲れていた。「疲れた」と言うのが私の口癖であった。こんな私を生かして下さった神の恵みに感謝したい。
しかし、今求めるのは日常生活における神の力です。上からの力を受けて、力強い生き方をしたい。話は単純なのです。肉体的にも精神的にも、力強く生きたいのです。そして神は、恵みによって必ずそのようにして下さると確信しています。73歳で(2024/4/5現在)既に誰が見ても老人であり、少しヨボヨボとし始めてはいるが。