ヨハネによる福音書16章

  ヨハネによる福音書16 章

 さて、私のヨハネによる福音書自己流解説も16章まできました。自分の霊性を確保するために続けてきたのが一番大きな理由です。今まで知らなかった、聖書の書かれた背景や、知識を得たことも私にとっては大きいことです。また、少しでも、私のつたない文章を読んでいただいた方々の、信仰のお役に立てば幸いです。

 『これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。』(ヨハネ16:1~3)

  ヨハネ16章は、ヨハネ15章の終わりのところから引き続き、迫害のことから始まっています。16章全体は何のために語られたのか。その全体のトーンは、イエスが十字架で明日死ぬことになり、一時的であるが、弟子達はイエスがいなくなるので、悲嘆に暮れることになる。今までイエスがあらゆる困難から弟子達を守ってきたが、これからは、本当の、艱難、苦難、迫害が、彼らに降りかかってくる。だから、弟子達に、周りの困難な状況を見るのではなくて、既に世に勝っているキリストを信仰によって見るように強調している。試練の多いこの世にあっても、心が折れることなく、支えられ、平安を与えられ、彼らの主イエスに対するゆるぎない信仰を持ち続けさせることがこの章の目的です。弟子達の意気が阻喪しないために、予めその心の準備をさせ、彼らに勇気を出させる目的で16章は書かれたのです。

 弟子達はキリストに従って行くと、やがてキリストが建てられるソロモン王国のような、この世の偉大な国の、右大臣、左大臣に列せられると期待していた。この世の幸せが手に入り、あらゆることにも恵まれ、平和な祝福された生活が出来ると思っていた。しかしそれは大きな間違いであった。これから弟子達を待ち構えているのは、福音の宣教に伴う苦難と迫害の連続なのです。もちろん、その使命の遂行にあたって、ペンテコステの日に聖霊降下があり、大きな救いの喜びと、霊の燃えるような力が与えられ、艱難、苦難、投獄、迫害を乗り越え、死をも恐れぬ信仰の勇者となって行くのですが。  

 弟子達の行き先を見越して、「アレ、キリストに従うとはこんなことではなかったはずだ」などと弟子達が思わないために、あらかじめキリストは、これから迎える迫害を予告なさった。これから迎える、厳しい困難が、彼らの信仰のつまづきにならないために、前もって、警告したのです。

 私達も信仰生活に入ると言うことは、この世的にも祝福され、平安な生涯が与えられ、良いことばかり続くのだと、最初は思う。もちろんそう言う面もあるだろう。私はこの世的、物質的祝福を否定しない。私達はこの世で生きて行かなければならないからだ。私達は神の御言葉を食べ、霊的な糧を栄養として、魂を養っていかねばならない。しかしそれだけでは生きてはいけない。この世で仕事をし、ある程度の収入を得て、実際の肉体を養うパンも食べて行かなければならないのです。自分の側でも、祈りつつ、委ねつつ、この世で働き、勤勉に努力をして行かなければならない。自らの手で働き、自分お稼いだお金で、この世のパンを購入し食して行かなければなりません。神は私達の切なる祈りにすべての面で確かに応えられ、糧を得るための仕事、健康等、信じる者に対してあらゆる不思議な道備えをして下さる。肉の必要も満たして下さる(マタイ6:33参照)。 また祈りつつ、御霊の助けをいただきながら、この世にあって勤勉に働くことも神がお命じになっているところです。『「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」と命じておいた。 ところが、聞くところによると、あなたがたのうちのある者は怠惰な生活を送り、働かないで、ただいたずらに動きまわっているとのことである。こうした人々に対しては、静かに働いて自分で得たパンを食べるように、主イエス・キリストによって命じまた勧める。』(テサロニケ第二3:10~12口語訳)

 しかし、私の経験を振り返れば、信仰の生涯は山あり谷ありであったのです。それは、私が他の人よりも利己心を多くもち、人間的にも愛がなく、性格的な欠陥があり、肉の欲をたくさん持ち、誠に罪深かったと言う面もあるだろう。人は千差万別、様々な性格があり、それぞれ、良い意味でも、悪い意味でも、持っているものが違う。生まれつき、健康で、愛に富み、同情心豊かで、良い性格をもった人がいるとすれば、それは恵まれた人であり、きっと人生に成功し、平安の内に信仰生涯を全うできるだろう。しかし、そんな人は稀であり、多くの場合人間は利己的であり、意地悪な性格を持ち、身体に弱いところがあり、何処かが歪んでいる者なのだ。神は人によって違うそれぞれの弱点を手入れなさり、もっと円満な人格を形成させる為に、それぞれの人に必要な、異なった試練をお与えになります。そのことを含めて、試練と迫害はこの信仰にはつきものです。

 イエスがおられる時は、弟子達に災厄が及ばないように、防壁となって、迫害や困難から防いでいた。しかし、もはやイエスはいなくなり、父のもとに帰る時が来た。この肉の世が与える困難から弟子達を守る者がいなくなります。『「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしている 』(ヨハネ16:4~5) 初めから、迫害や困難があることを弟子たちに話さなかったのは、イエスが今まで弟子達と共にいて、守って来たからだ。今やイエスは父のもとに帰ろうとしている。やがて迫害と困難が弟子達を襲うことを前もって言っておく場面になった。ユダヤ人達は、父なる神も、イエスも本当には知らず、実は真の神を愛しているのではない。イエスを信じる者を迫害し殺すことで、ユダヤ人達は自分達の神に奉仕していると思い込んでいます。ユダヤ人がイエスを迫害した最大の理由は、イエスが自分を神の子であると主張したことです。『「善い業のことで、(イエスを)石で打ち殺すのではない。神を冒瀆したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」』(ヨハネ10:33)。 創造者、全能の方、唯一絶対の神に人間がなるなど、ユダヤ人にとっては冒涜であり、許せないことだったのです。迫害は師であるイエスがお受けになったことであり、従って行く弟子達も避けることは出来ない。初めからこれらのことを言わなかったのは、イエスが一緒に生活してきたときは、イエスの力で迫害から弟子たちを守って来たから。今イエスは父なる神のところに帰ろうとしている。これから大きな試練と迫害が弟子達に襲い掛かる。その時意気消沈し、落胆しないため、あらかじめ迫害があることを警告しておくのだった。

 私達も信仰の持ちたての頃は、この信仰を維持し、続けて行くためには命を取られるほどの、試練や迫害があることを、最初から教えられていたわけではない。『初めからこれらのことを言わなかった』状況は私達も同じです。信仰に入りたては、この信仰に入れば総てが平安で、恵まれ、人生は上手く行く、誰でもそんな風に考える。しかし、実際はそうではないのです。試練と大きな困難が待っているのです。それは、バプテスマを受けて新生したとは言え、死に切れていない肉の私達が、やがて十字架上に、この世の欲情や欲望もろともに磔けられ、生きることは総てキリストとなるためなのです。

 

 私がいなくなろうとしているのに、『あなたがたはだれも、「どこへ行くのか」と尋ねない。』(ヨハネ16:5)あなたがたは私が期待している質問を、私に対してしようともしない。むしろあなたがたは私がいなくなることを嘆き悲しんでいる。しかし私は以前言っていたように、『わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。』(同14:18口語訳)。 むしろ私が父のもと、天に帰ることはあなたがたの益になる。そうなれば、『別に』(同14:16口語訳)、聖霊-助け主-パラクレートスをあなたがたに遣わす約束をしよう。 その方(パラクレートス)が父(神)のもとから、あなたがたのところに、私(イエス)を通して遣わされる時、すべての真理をあなたがたに教えてくれる。その方が来るとき、罪が何か、義が何か、裁きが何かを教えてくれる。

 罪...キリストを信じないことが罪だ。

 義...キリストが神の義を無垢の生涯を通して全うし、神のもとに帰り、義の生き方が何であるかを示したからだ。

 裁き...十字架でキリストが、世の総ての罪を負い、贖いを完成させたことによって、この世の君が裁かれ、神の愛と正義が実証された。十字架は、世の支配者、サタン自身の断罪であり、世と世に属するものがそこで一緒に処断され、サタンの依り代である肉そのものが滅びてしまったことを意味している(十字架釣り針説)。

 弟子達に言うべきこと、教えることはまだたくさんあるが、今は理解できない。 私達クリスチャンも、御霊が霊の眼を開いて下さらなければ、御言葉を学んでも真の意味を理解出来ない。神の言葉の奥義を理解できないのです。学べば学ぶほど理解していないことがまだたくさんあることが分かって来ます。しかし真理の御霊が降って来るとき、それは真理に導き、知恵を与え理解力を増し加えてくれます。

 『その方(聖霊)はわたし(イエス)に栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、「その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる」と言ったのである。 』(同16:14~1) その方、すなわち真理の御霊はイエスに栄光を与える。真理の御霊はイエスのものを受けて、弟子達に与えるのです。何故なら父とイエスは最初から一つであり、父のものはすべてイエスのものであるから、それ『だから、わたしは、「その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる」と言ったのである。』ここに最初からイエスが神の御子であり、しかも神としての存在であることが示唆されている。

 その後、イエスと弟子達の間の謎かけのようようなやりとりが続く。しばらくするとイエスは弟子達の視界から消えてしまうが、しばらくするとまた会えるようになる。 『「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。』 (ヨハネ16:16~19)

 この意味は、十字架について、イエスは死ぬからしばらく会えなくなるが、3日後に復活してまた会えるようになると言うことです。

 もう一つの意味は、昇天して、イエスは神のところにお帰りになる、しかしペンンテコステの日、聖霊によってまた弟子達と力強く、明確に会うことになる。どうもこの二つの意味が、混ざり合っているように私には思われる。この世の人々は、十字架の死でイエスがいなくなり喜ぶ。弟子達は、イエスが死んで悲しむが、3日後に復活したので喜びに変わる。

 また、このことは女の出産の苦しみに似ている。子を産むために女は苦しむが、産まれれば、新しい命の誕生に、歓喜に包まれる。イエスは十字架の苦難で苦しむが、しかし復活し新しい命が与えられるので、その苦しみは喜びに変わる。『彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。』(イザヤ53:11口語訳) イエスは永遠の命に復活し、戻って来るので、弟子達もまた喜ぶことになる。その喜びは、これからは誰にも奪い取ることが出来ない永続的なものなのです。

 『その日には、あなたがたがわたしに問うことは、何もないであろう。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。』( ヨハネ16:23~24)『父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さる』の中心は聖霊降下を求めることにあるのを忘れないようにしよう。そうすれば他に付随したことは『なんでも』与えられるし、『あなたがたの喜びが満ちあふれる』経験を聖霊の充満のうちにすることになる。聖霊と聖霊の支配を求めて行くことが最も肝心なことです。

 その日がどの日を指すかは、意見が分かれるところであろう。2つの可能性がある。イエスが復活した日、弟子達はイエスに再びお会いして喜びに満たされた。もう一つは過ぎ越しの祭りから50日目の、五旬節、ペンテコステの日に、聖霊が弟子達の上に降り、彼らが御霊に満たされ、奇跡的な経験をしたその日です。(五旬節⦅ヘブル語シャヴオット⦆-過越しの祭から50日目にあたる大祭、「ペンテコステ」とはギリシャ語で「第50日」の意味 )

 キリストの名によって、何んでも願うなら、与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。総てが御霊の支配下に移り、霊的なものであろうが、物質的なものであろうが、あなたがたの願うとおりになる。   

 『しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。』(ルカ10:20口語訳)

 『わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。』(ローマ8:32)

 私達が御霊に満たされて、キリストの御名によって祈る時、繰返し何でも与えられると約束されている。しかし、自分の利己的な願い、野心を遂げるための祈り、他人を貶めること、呪い、嫉妬心から出たこと等は応えられない。この何でもには条件があり、神のご栄光の為になるならば、と言うことを忘れないようにしよう。

 神の御心に沿って思いを清め、倫理的な生活も含めて、自己犠牲的な神と人を愛する行動に時間を使い、また、深い祈りの中に、聖霊の臨在を求めて行くとき、身の回りに不思議な事が起こり始めます。『霊があなたがたに服従』して行くのです。日常の細かなことに、霊の介入を感じ、不思議な支配を体験し、御名に感謝と喜びを捧げることが出来ます。もちろんだからと言って、高慢になってはいけません。『むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」』と注意されています。天国に行けること、永遠の命が、恵によって与えられることが最大の喜びです。しかしこのイエスの言葉、『霊があなたがたに服従する』は、私にとって、毎日の生活の中に実存的に主の御手が感じられる瞬間であります。信仰が楽しくなり、喜びに満たされて行く経験です。『御使たちはすべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたものではないか。』(へブル1:14口語訳)私達キリストを信じる者は、すべて仕える霊の御奉仕を遠慮なく受けて良いのです。私達の喜びと、主にある確信が、増々加わるために。

 

 『「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたと言ってしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。』(ヨハネ16:25~27) もうイエスはたとえで話すことをやめ、ハッキリ弟子達に次のように言った。 自分は父のもとから来て、父のもとに帰る。聖霊が降下するその日、何でも私(イエス)の名によって願うことになる。もはや、その時は、私は弟子達の為に、父との間に入って、執り成してあげようとは言わない。父御自身が弟子達を愛しておられるからです。

 たとえを用いず、直にお話しくださったので、あなたが神のもとから遣わされたことを信じます。あなたは神の子であり、何でも知っておられ、誰もあなたに尋ねる必要はありません。今わかりましたと弟子達が言うと、イエスは『「今ようやく、信じるようになったのか。』(ヨハネ16: 31)と言われた。やっとわかったか。随分時間がかかったけど、ようやく信じるようになったか。ここには半ば呆れかえっているイエスの姿があります。

 しかし私達も同じではないだろうか。何度もゝイエスから、辛い経験と言う鞭によって、大なり小なり、人生の失敗を通して教えられているのに、一向に賢く悟る者になれない。主の恵みを経験し、何度祈りに応えていただいただろうか。何度神の奇跡を見て来ただろうか。それだのに、いざ何か困難、苦難が起きると、すぐにうろたえ、「神はどこにおられるのか」と、嘆き、ウロウロし、途方に暮れ、信仰がどっかに行ってしまうのです。そう、何度繰り返したら、失望、落胆から解放されるのだろう。『今ようやく、信じるようになったのか。』とイエスは私達に言われているのです。何度繰り返したら、本当に、何にも動揺することなく、常に主に信頼して歩めるようになれるのだろうか。絶対的信頼の境地に早く達したいものだ。

 『だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。』( ヨハネ16:32)。

 苦難がすぐそこまで来ている。あなたがたは私を捨てて、逃げ去る。あの裏切り者のユダは既に、祭司長やファリサイ派の人達に私を引き渡す手引きをする為に、この過ぎ越しの晩餐の席から出て行ったではないか。この食事の席で、このようにあなたがたと話をしているが、もう敵はそこまでやって来ているのだ。

 自分の家から一度出てキリストに従った私達も、弟子たちのようにキリストを捨てて自分の家に、すなわちこの世に帰ってしまう恐れがあります。自分の家は、居心地の良い、悔い改めや新生など求められない、慣れ親しんだところです。

 仏教的に言えば在家か、出家か?どこで信仰を持ちましょうか。私達は12弟子達のように、皆が福音宣教の為に、家を離れて献身することはできません。変な言い方ですが出家し、一度世から離れ、宣教師や牧師となり、世に使命を伝えるために働かれている方は、特別なタラントを与えられた一部の人です。

 家から出ず、家の中にありながら、信仰を全うすることがほとんどのクリスチャンに期待されていることです。しかし、慣れ親しんだ家の中で信仰を持つことは、この世の中に染まってしまう心配があります。在家信仰はこの世と同化してしまって良いわけではないのです。塩は、物と混ざりあって味を良くしますが、塩の本来の塩気が失われたら、何の役にも立たなくなって、道端に捨てられてしまいます。

 これらのことをイエスが前もって話したのは、これから来る厳しい苦難の訪れの中で、弟子達がうろたえず、イエスをいつも信じることによって心に平安を得るためでした。

 イエスが十字架にかかると言う、最大の苦難の中でも、弟子達皆が平安を得て欲しい。今後、イエスを信じ従って来た人々は、この世においても、信仰を全うする過程で様々な苦難を経験することになる。しかしそのような苦難の中にあっても、『勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」』(ヨハネ16:33)とイエスは言われているのです。

 イエスは既に十字架と復活を通して世に勝っている。神は時間を超越しており、神の立場から見れば総ての出来事は完了しているのです。贖罪はこれから必ず成し遂げられるし、死に勝利して、復活することは確かなことなのです。この時点で、『勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」』のです。既に勝利することを見通しておられるのです。

 たとえ、今私達の生きている、この世の状況、私達を取り囲んでいる状況が、困難で、力なく落ち込み、こんな弱い私達が一体何が出来るだろうかと心の中で思っていたとしても、イエスは私達に、『勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。』と言われている。 十字架と復活と言う、この『「成し遂げられた」』(ヨハネ19:30)偉大な神の力、歴史的事実に基づき、今主にあって『勇気を出』すことが私達に求められているのです。

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