ガラテヤ

 ガラテヤ人への手紙

 パウロ書簡の自己流解釈を、恥ずかしながら、浅学の身の私が、その書かれた年代を晩年の方から逆にたどってきました。

 やっと最後の書簡、ガラテヤ人への手紙までたどり着いた。この書簡は紀元49年頃、シリアのアンティオケで書かれ、パウロの書簡の最初に書かれたことが、多くの聖書学者の見解です。

 彼は小アジアのガラテヤ地方にある、ガラテヤ人の諸教会に宛て書いたのです。この手紙が書かれた目的、時代背景は以下の通りです。

 主イエスの兄弟ヤコブに代表される、ユダヤ人としての生活習慣を尊び、礼典律と道徳律共に守ることに熱心な、ユダヤ主義から抜け出せないユダヤ人クリスチャン達がいました。彼らは異邦人も割礼を受けるべきだと考え、清い食べ物と、汚れた食べ物を区別し、異邦人と一緒に食事をすることを忌み嫌っていました。そのような人々が、パウロが伝道の拠点としていた、シリアのアンティオケ教会にエルサレム在住の主イエスの兄弟ヤコブ のもとから下って来ました。

 その時、たまたまペテロがアンティオケ教会に来ていて、ペテロはそれまで異邦人と一緒に食事をしたり、分け隔てなく交際していましたが、何と、ユダヤ主義者達から批判されることを恐れて、ペテロは身を引いて行きました。その偽善の行為にバルナバまでが巻き込まれました。パウロは衆人の面前で、遠慮なく、大使徒であるペテロを批判しました(ガラテヤ2:14参照)。 

 もとよりパウロは使徒職を人間によって拝命したわけではなく、ダマスコ途上で、超自然現象のうちに、イエスが顕現され、イエスによって直接任命されたわけですから、ペテロがどんなに偉大な指導者であろうと、そんなことはおかまいなしでありました(ガラテヤ2:6参照)。

 ガラテヤ人への手紙の問題の論点は、割礼を施す習慣をユダヤ人達が守っており、そのような礼典律法を守ることが、救いに直結するのかということでした。異邦人まで割礼を施すとなれば、これは第一次エルサレム会議(紀元47年頃、早期説)で定めた、協約違反になることで、パウロには断じて受け入れられないことであったのです(使徒行伝15:1~29、ガラテヤ2:1~10参照)。

 ただここでの問題はその用語の難しさです。パウロがガラテヤ人への手紙で『律法の下にはいません。』(ガラテヤ5:18)と言うとき、それは割礼を含む礼典律のみならず、道徳律すなわち十戒も一緒に指しているという点です(ガラテヤ5:13~14、ローマ13:8~10参照)。『こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。』 (ガラテヤ3:24~25)

 今まで私が何度も書いてきたように、繰り返しになりますが、パウロのこの言葉『律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係』は、十戒によって、罪が指摘されたことによって、キリストのもとに救いを求めて連れてこられる状態のことです。『律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。』(ローマ3:20)の言葉の実現であります。養育掛用法の中で育てられた罪の自覚が、キリストの十字架のもとに来る大きな動機を与えます。それによってイエスと出会い、贖罪を味わい、罪赦されて、心底から救われ、新しく生まれ変り、復活の命を受け、イエスの聖霊によって満たされて生きるようになって行くのです。

 ところが、救われた人は、いつまでも養育掛用法のもとにはいません。罪が完全に赦され、神の前に義とされているのに、いつまでも養育掛用法の下にいて、罪の自覚に悩むのですか。もしそんな精神状態で、いつまでもいたら、それは不信仰です。赦されているのに、それを確信をもって受け取らず、自分の弱さばかり見て、クヨクヨしていたらそれは不信仰です。

 この点について、ヘブル人への手紙には何と書いてあるでしょうか。イエスはこの時代の終わり(今から2千年前の事)に、羊の血ではなく、ご自分の血を流され、十字架の血をもって天の至聖所に、聖所の後ろの部屋に、直接お入りになり、民のとりなしの為に、天において神の前に出てくださった。『......こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所(至聖所)にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、...信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこう...』(へブル10:19~22口語訳)。

 だから救いは完全であり、良心の咎めを取り去り、悔い改め、バプテスマ、按手、罪の告白などのキリスト教の初歩の教えを後にして、今や、良心はすすがれて、咎めはなくなり、救いの確信をもって神の御前に出られます。これがヘブル人への手紙のテーマです。

 『だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々のバプテスマについての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、.........』(ヘブル6:1,2新共同訳)

 『心はすすがれて良心のとがめを去り、』(ヘブル10:22口語訳)

 チク、チク針で刺すように養育掛は、良心と言う、とてつもない武器を持ち出して、私達の心を苛むのです。しかし、もうその場所にいるのはやめましょう。もう養育掛の下にいる必要はないのです。

 イエスの十字架の血潮を、真心から、自分の罪の贖いとして信じるなら、良心の咎めを捨て去り、神の前に平安を得て、はばかることなく、聖所(至聖所)に入って行くことが出来ます。つまり今、神の臨在を感じ、御霊に満たされて、神と共に歩み、信仰によって義とされた者として、罪のない者として、救いの確信をもって父なる神の御前に出ることが出来るのです。もう、罪の自覚にウジウジと悩んだりしていないのです。養育掛的律法の用法からは手を切るのです。むしろ御霊に満たされ、主を賛美しながら生きるのです。

 この養育掛の下にいないとは、道徳律を指していると主張したのは1888年SDA世界総会において、E・J・ワゴナーとA・T・ジョーンズであった。ホワイト夫人もこの聖書解釈を支持しました。このことによって律法主義に陥りかけていたSDAに、信仰による義の覚醒がもたさられたのです。残念なのは、この事件をきっかけに、世界総会は、ホワイト夫人を、オーストラリアに左遷したことです。しかしそれは、やがて、オーストラリアに健康改革のメッセージが浸透し、また、自然食品工場等の大きな発展となって、実を結んで行くことになりました。

 このガラテヤ人への手紙の律法の下にいないという言葉を、無律法主義と解釈し、キリスト者の自由を、神の前に何をしても良い、放縦な生活を承認する者ではないことは、ガラテヤ人への手紙自身が解説しています(同5:13~14、5:20~21参照)。

 『この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。』(同5:1~4)

 もともと、パウロは、自分自身が異邦人に向けた使徒であると自覚し、異邦人伝道がパウロの主な働きでした。『......ペテロが割礼の者(ユダヤ人)への福音をゆだねられているように、わたし(パウロ)には無割礼の者(異邦人)への福音がゆだねられていていることを認め、』(同2:7口語訳)

 ユダヤ人から改宗し、クリスチャンになった、へブル語を話す人々(日常会話はアラム語)にとって、パウロが、指導する教義、信仰による義とか、割礼を含む礼典律法が廃止されたとかは、食物規定の廃止も含めて、たとえクリスチャンになったとしても、非常に抵抗感のある問題でありました。ユダヤ人には民族的に引き継いできた、強烈な伝統、習慣、文化があります(現在でも)。パウロは自分たちがユダヤ教徒であった時、大事にしていた、旧約聖書に基づく習慣、伝統を、次々と変更して行ってしまうので、彼らはあまり良い感じをパウロに対して持っていなかったはずです。

 ユダヤ人にとって人気のあった、強い影響力を持った、指導者は、パウロではなく、律法を守る事を強調したイエスの兄弟ヤコブでありました。ペテロが、エルサレムをを出て、異邦の地アンティオケにある教会を訪問していた時、そこでは当然のように、異邦人と一緒にペテロも食事をしていました。しかし、エルサレムにいる律法を強調する『...ヤコブのもとからある人々が来る......』(同2:12~14口語訳)と、異邦人との交際を彼らに批判されるのを恐れ、ペテロは次第に身を引いて、異邦人から離れて行き、一緒に食事をするのをやめてしまったのです。この事を、偽善だと言って、パウロは厳しく、教会員達の面前で、ペテロを糾弾しました。これらの記事、時代背景を見る時、使徒と言えども、様々な信仰に対する考え方があり、信仰のとらえ方には、ヤコブのように律法、信仰から産み出される結果の善なる行為を強調する者、パウロのように信仰による義を強調する者、様々な個性があったと考えられます。神は信仰に対する様々な考え方の差異を、ある程度はお許しになっていることがわかります。それには程度問題はあるでしょうが。

 このことは、拡大解釈をすれば、SDA信者同士の間すら、信仰のとらえ方、考え方に、色々な意見があり、相違があって良いと、私が思うようになってきた根拠です。

 もっと突っ込んで言うなら、教派間の聖書解釈の相違についてさえ、ある程度寛容にならなければならない。もちろん、程度問題はあります。

 『また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。』(ペテロ第二3:15,16口語訳)

  これは、聖書解釈がいかに、救いに直接かかわる大事なことであるかを教えてくれているペテロの言葉です。パウロの知恵に満ちた、神の恵みを表現している言葉を、どう解釈し、受け取って行くか。それは救いに対する重要問題です。ある人々は、パウロの恵みの言葉(神の言葉ではありますが)を曲解して、自分の身に滅びを招いてしまった、とすらペテロは言っているのです。パウロの説く、福音の言葉をどのように解釈して行くかは、救われるか、救われないかを左右するような、大事な聖書解釈のポイントです。ある意味、パウロの福音解釈は両刃の剣とも言えよう。律法は、(道徳律も含めて)廃止されたのだから、キリスト者は自由だ。聖霊に満たされて歩めばそれで良い。もうクリスチャンは恵によって救われるのだから、愛の行いをして行けばそれで良い、神の律法など守らなくても良い、そんなことをパウロは言っていないのです。パウロの恵みの言葉を受け入れ、神の前に義とされた者は、無律法主義に陥ってしまうのだろうか?

 パウロの言葉を良く読むと、むしろ救われたものは、『...キリストの律法の中...』(コリント第一9:21口語訳)にいるのだし、『愛の実践を伴う信仰こそ大切です。』 (ガラテヤ5:6)と書いています。信仰の結果として、神の前に、愛の行い、義の実を結ぶことが強調されています。どの手紙を見ても、必ず恵の言葉の後に、愛の行いを強調しています。自分を愛するように、隣人を愛することに、すべての律法が含まれているのです。

 『律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。』(同5:14口語訳)

 『わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが』(コリント第一9:21口語訳)と、『あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。』(ガラテヤ6:2口語訳)と言う言葉を、何故パウロは使ったのだろうか。(ちなみに、キリストの律法と言う言葉はパウロの書簡の中に、この2箇所しか出てこない)

 救われた者は、救いを受け入れた後には、神の律法の中にいると言えば何も問題が起きなかったはずです。神の名称の代わりに、キリストの名を出すことによって、愛を強調したかったのではないだろうか。もちろん、キリスト=神なのだから『...偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリスト... 』(テトス2:13新共同訳)、どちらでも結果的には同じだと思うが、ニュアンスの問題であろう。コリント第一の同じ個所で『...わたしは神の律法の外にあるのではなく、...』(コリント第一9:21口語訳)と表現しているので、単純に(神の律法の中)と受け取っても構わないと、私は思っています。パウロの頭の中では、今までユダヤ人が陥ってしまっていた、律法主義を避けるために、敢えて『...神の律法...』とは言わずに『キリストの律法』と使ったのだろう。

 繰り返しになりますが、パウロはクリスチャンはキリストの霊によって満たされて歩くとき、『...律法の下にはいない。』(ガラテヤ5:18口語訳)(ローマ6:14)と言っています。これはどのように解釈すべきだろうか。律法は廃され、無律法主義で歩みなさいという事なのであろうか?『...律法の下にはいない。』の本当の意味は何でしょうか?生まれつきの肉の力で、聖霊の臨在も、助けもなく、表面的に律法を、ただ人間的な努力によって守って行くような、守り方の下にはいないと解釈すべきです。キリストの霊の臨在と内住による、霊の満たしなくして、人間の力、肉の努力だけで、律法の文字面だけに拘って律法を守ろうとするとき、私達は、霊の下ではなく、律法の下にいることになります。

 また『.........律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。』(ローマ3:20口語訳)とパウロが言った、いわゆる、律法の養育掛用法の下にはいないとも解釈すべきです。 『......信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。』(ガラテヤ3:25口語訳)。ここでは、道徳律が罪の自覚を生じさせ、養育掛用法によってキリストの必要を感じさせ、罪の救いをもたらすキリストに連れて来ると解釈しています。しかし、もしかすると廃された、礼典律と言われている、様々な儀式律法も、人々をキリストに連れて来る、養育掛的働きをしていたのかも知れない。ここは意見が分かれるところであります。

 何れにせよ、律法には様々な用法があり、クリスチャンの行いのスタンダードを示す標準的用法もあります。別の言い方をすれば、愛の方向性を示す用法と言っても良い。行いによって救われるか、救われないか、という問題は抜きにして、(誰でも皆、信仰のみによって救われると私は信じていますが)、もう一つ、クリスチャンの行ないの標準を示す(あるいは愛の方向性を示す)、律法の用法もある事を認めなければならない。

 律法は愛の律法であり、ただ愛すれば良いのだと考える人達もいるが、どのように愛するか、神を愛し、人を愛す、愛し方について、十戒は明確に、愛の方向性を示している。パウロは律法が本来の機能を果たすうえでの、養育掛とは異なる、もう一つの用法、クリスチャンにとっての標準的用法とも言える言葉を以下の様に述べている。 『律法は正しく用いるならば良いものであることを知っています。...律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、...父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、...偽証をする者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えれらているのです。』(テモテ第一1:8~10新共同訳)

 割礼を著しい特徴とする礼典律、ユダヤの慣習、祝祭日、それに伴う儀礼的特別安息日、さらに食物、生活習慣、ナジル人の誓い、モーセが五書で与えた、幕屋と犠牲制度に関する細かい規まり、道徳律たる十戒を含めて、総てがひっくるめて律法と言う言葉で表現されています。まことに紛らわしく、このことが、心の定まらない人達によって、ガラテヤ人への手紙における『律法の下にはいない』と言うパウロの言葉を曲解して、律法はすべて廃されたと誤った解釈をする原因となつているのです。

 廃された礼典律法と、廃されていない道徳律たる律法、十戒をごちゃまぜにしてしまうことになり、無律法主義が生じることになってしまったのです。このように、聖書解釈の難しい問題が生じることがありますので、聖霊の導きを祈りつつ、真の解釈はどこにあるか良く考えながら、聖書は読んでいかねばなりません。


 1章

 福音に反することを宣べ伝える者がいたら、その人は呪われるが良い。そもそも福音は一つであります。パウロはユダヤ教に熱心であり、神の民を迫害していたが、キリストが直接、まばゆい光のうちに顕現なさり、啓示をいただき、福音を示されました。

 

 2章

 自分が宣べ伝えてきたことが、もし間違っていたらどうしよう。果たして、『自分は無駄に走っているのではないか、』(ガラテヤ2:2)と言うパウロの心の問いに、答える形で第一次エルサレム会議が招集された(紀元47年頃、49年説もあり)。すでにパウロがイエスとのダマスコ途上での出会い、回心してから十数年もたっていました。この当時でさえユダヤ人から改宗したクリスチャン達の中には、異邦人にも割礼を施すべきだと考えていた人が少なからずいたようです 。割礼問題に対する最終決着を第一次エルサレム会議で出しました(使徒行伝15:1~29参照)。ヤコブ(イエスの兄弟)・ペテロ・ヨハネの主だった弟子は『一致のしるしとして右手を差し出しました。』(ガラテヤ2:9)。

 その後、アンティオケ教会で起きた、ペテロの偽善な行いについて公然と非難をします。

 次に、ガラテヤ人への手紙のメインテーマにハッキリと切り込みます。

 『わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。』(ガラテヤ2:15~16)

 『わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。』(同2:21)

 『人間は生まれながら神の怒りを受けるべき者』(エぺソ2:3)であり、人間は本質的に、肉に売られており、生まれたまま肉の性質を持っている人間は、どんなに修行に励み、努力を重ねたとしても、神の聖なる律法の要求に達することはできず、不完全な自分の姿が自覚されるだけなのです。パウロは断言する。律法を守る事によっては誰も救われず、律法によっては罪の自覚が生じるのみなのだ。『律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。』(ローマ3:20)

 精神も含めて、生まれながらの人間は堕落しており、肉の性質を持っているので、そのままでは神の崇高な律法に従う事は出来ないのです。自分は神に従いたい、また律法にも忠実でありたいと思っても、そもそも私達は肉のもとに売られているのです。従って、もう一度買い取られる以外に救いはない。キリストの功しによって、買い取られるしかないのです。神はキリストの十字架という値で私達を買い取ったのです。そのことを受け入れ、自分の事として信じることによって、救いは自分のものになります(義認)。

 さらに、神の聖霊によって、もう一回生まれ変わる事が出来ます。肉体を持っているので、肉の性質は完全にはなくならないが、人間の内面が神の霊によって、新しく生まれ、さらに、聖霊の感化によって、やがて少しずつ変えられながら、不完全ではあるけれども、段々と神に従っていくことが出来るようになって行きます(聖化)。

 これらの過程、義認も聖化もすべて神の憐れみによるのです。基本的に神の憐れみによって神が私達を救ってくださるのです。全く私たちが行った義の業によるものではありません。たとえ何か正しい行いが私たちの側にあったとしても、それは救いの根拠にはなりません。パウロは 『自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。......。』(コリント第一4:4)と言っています。この聖句は神の前における、私達の基本的、救いの概念です。

 たとえ安息日を守ったとしても、その業によって救われるのではありません。

 隣人を助けるような善い行いをしたとしても、そのことが救いの根拠ではありません。

 義とされる根拠は私たちの行った正しい行いではなく、キリストがしてくださった義の行いを、自分のものとして受けるだけです。『......自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。』(ピリピ3:9)

 

 3章

 アブラハムも信仰によって義とされたのでした。アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされていたのです。信仰によって義とされた証しとして、割礼を受けたのです(ローマ4:11)。

 その信仰は不妊の妻サラと老人となり肉体が衰え、枯れてしまったアブラハム(創世記17:17)との間に、神の奇跡的な力によって子(イサク)が産まれることを信じたこと。やがて天の星のように数えきれないほど子孫が増え広がるとの約束を、ある晩アブラハムに神がお告げになり、その約束を信じることが、信仰による義であったのです(創世記15:5~6)。

 実はこの故事は、アブラハムの枯れた肉体の中に、神が復活の奇跡を行い、力を与え、夫婦の交わりによって、約束の子供を授けると言う、きわめて肉的なものであります。しかし、それはアブラハムにとって、神の力を体験する信仰の行為であったのです。何故アブラハム100歳、サラ90歳まで子が生まれなかったのか、それはイエスの復活の力を彼らに、身をもって体験させるためだったのです。アブラハムは復活の信仰を持って、神の前に義とされたのです。正に、復活の力を体験することによって、子が産まれたのです。

 さらに私達も何故老いて行くのでしょうか。罪の結果、毎日老化して行き、やがては心臓がいつかは止まり、死んで行くのでしょう。でも老化の過程はいったい何なのでしょう。何で、私達は若いときのような力がなくなり、肉体が衰えて行くのでしょう。その霊的な意味を考えたことがありますか?

    それはイエスの復活の力を、日々衰えて行く体に感じる為だとしたらどうでしょうか。

 高齢になって、一日一日を、老いて行くことを嘆くのではなくて、復活のイエスに結び付くことによって、この死すべき体の中にも、復活の力が御霊によって宿り、もう、若い時のように自分の肉の力によって、自分の肉の能力によって生きることを止め、ただただ、イエスの復活の命の力に、全面的に頼って生きる為であったとしたら、歳とっても尚、生きゝとして生きて行けるとしたら、老いの人生も楽しくなるではありませんか。

 一日を始める時、「今日、こんなに弱った、老いた我が身でございますけど、聖霊によって、イエスの復活の命の力に満たしてください。」とイエスの御名によって祈るならば、その祈りを退けるような、父なる神ではありません。

 アブラハムはその信仰によって義と認められ、ついにはイサクの誕生がもたらされました。アブラハムだけでなく、主イエスを死者の中から、復活させる力のある方、万物を支配しておられる神を信じるならば、私達も義と認められるのです。『わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。 』(ローマ4:24)

 さらにアブラハムの子孫が、祝福され、天の星の数が数えられないように多くなることが示された夜、主はアブラハムに『あなたの子孫はこのようになる。』(創世記15:5)とお約束してくださいました。これは単にイスラエルの民族を指しているのではなく、パウロの解釈によれば、イエス・キリストのことを言っていたのです。

 『ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。』(ガラテヤ 3:16)

 信者はキリストのものになることによって、約束の相続人となり、霊的意味で、イスラエル民族になっているのです。もはや信仰によって、ユダヤ人、ギリシア人、ローマ人、男、女、奴隷、自由人の区別はありません。キリスト・イエスにあって、私達は皆一つ、祝福された神の家族、大民族なのです。『そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫(霊的に)であり、約束による相続人です。』(同3:28~29)

 

 4章

 ガラテヤ人への手紙で、諸霊のもとに縛られていたとする表現があります。たとえ相続人であっても、未成年のうちは、後見人の管理下に置かれているのです。この後見人とは、ときには律法(礼典律、道徳律を含む)であり、単なる文化的慣習であり、もしかすると諸霊とあるので、人間の考えだした哲学や、あるいは異なる霊による、宗教的影響かも知れません。

 『同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。』(ガラテヤ 4:3)

 『しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸 霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。』 (同 4:9~10)

 彼らが守っていた、諸々の霊による、宗教的習慣とは一体何だったのでしょうか。『いろいろな日、月、時節、年などを守っています。』とあるので、偶像教及びユダヤ教を含めた様々な記念日、宗教儀式ではなかったか、と私は推測します。

 旧約聖書の中には、代表的なものは過ぎ越しの祭りを始めとして、新月を祝ったり、ラッパの祭り、贖罪日、仮庵の祭り、ヨベルの年等々、色々な記念日、それに伴う祭り、特別安息日等が定められていました。幕屋の燔祭をささげる儀式、清めの儀式等数え挙げたらきりがありません。ガラテヤの人達はもともとは偶像教徒が多かったのでしょうから、偶像教がもとになった祝祭日や、習慣もあったのでしょう。それらを守ることによって、実際は頼りにはならないのですが、何らかの、日本的に言えば、神仏の加護があると考えていたのでしょう。

 実は私達日本人も、置かれた状況は当時の人々とさほど変わりはありません。夏祭り、秋祭り、お盆の入り、お盆の中日、お盆の明け、正月、松飾、松の内、七草がゆ、雛祭り、七五三に端午の節句、甘茶かけ(灌仏会)、ハーリー、クリスマス、ハローウィン等もう訳も分からなくなっている様々な、神道、仏教、キリスト教、地付きの宗教、その他に由来する、儀式や習慣を守っているではありませんか。

 同様の問題をコロサイ人への手紙で扱っているのでのこの部分を、改めて振り返って見たいと思います。

 『人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。』( コロサイ2:8)

 『規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。』( コロサイ2:14)

 『だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。』( コロサイ2:16~17)

 『「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。』( コロサイ2:21~23)


 私達は様々な規則、決まり、苦痛を伴ったり、一見知恵あるように見えるけれども、何の役にも立たないものに囲まれて暮らしています。 礼典律の祭りに付随した特別な安息日を守ったり(週の7日目安息日以外のユダヤの各種祭りに伴う特例安息日と解釈するが、他の意見もあるかも知れない)、食物の禁忌規定を魂の救いのために守ったりしている(健康のためには食べ物に注意はすべき。添加物等が多い現代では、昔以上に十分注意する必要がある。しかし、飲食物は救いの手段ではない。肉体を健全に維持するための物)。

 パウロはそれらをこの世から出た諸々の霊から発したもの、言い伝え、騙しごとに過ぎない人間の哲学等として、排除しています。偽りの謙遜、身勝手な礼拝、様々な苦行、天使礼拝、幻を見たことの自慢、手をつけるな、味わうな、触れるな、肉の割礼を含めて、そんなものはもう古い証書として十字架で廃されてしまったものだ。武装解除されてしまったものなんだ。そんな難行苦行を伴う様々な儀式形式、人間の考えだした一見知恵のあることに見えるような規則、それらは全て十字架で廃されてしまったものだと言っているのです。

 むしろ、自分の肉を十字架に磔てしまい、キリストと共に新しい復活の霊の命に生きなさい、新しく造り変えられた人として、キリストと共に生きなさいと言っているのです。

 あなたがたが受けたバプテスマはなんだったのですか。あの水の中に沈んだ時、もうあなたは死んだことにされ、水の中に葬られ、水から上がって来た時、新しい命に復活したんだ。それは十字架と復活を儀式として表現していたんだ。古き自分をキリスト共に十字架に毎日磔刑すること、今肉の私をキリストと共に磔よ。古き自分、ねたんだり、憎んだり、肉欲的な事にとらわれ、物の欲、目の欲に縛られている自分を十字架にキリストと共に葬りなさい。嘘、怒り、憤り、悪意、そしり、恥ずべき言葉、貪欲(偶像礼拝)みだらな行い、悪い欲望、不潔な行い、欲情、野望それらをすべて十字架に磔にしてしまいなさい。あなたがたはすでにキリストにあって死んでいるのです。『あなたがたは死んだのであって、.........』(コロサイ3:3)

 要するに、形骸化した古い宗教儀式、人間の空しい哲学、規則、それらの無力な何の価値もない、諸々の霊力(偶像教を含む)に頼ることを止めて、キリストに結びつくことの大切さを強調しているのです。

 『あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。』(コロサイ2:6~7)

 『...あなたがたは、キリストと共に復活(霊的に)させられたのですから、上にあるものを求めなさい。.........』(コロサイ3:1)

 キリストにある愛、平和、喜び、満ちあふれるばかりの感謝、隣人愛の実行、キリストを心の内に住まわせ、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、神の豊かさのすべてにあずかることを求めて、新し生き方をしなさいとパウロは勧めているのです。『互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人(文明人)、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。』(コロサイ3:9~11)

 これこそ、ガラテヤ人への手紙でパウロが言っている、『キリストがあなたがたの内に形づくられる』(ガラテヤ4:19) ということなのです。キリストに聖霊によって常に結ばれて行くとき、私達の心の中には、キリストがお住まいになり、私達は段々キリストに似る者となって行くのです。

 繰り返しになりますが、律法の下にいたいと思っている人はどんな人か。形式的に、文字面に拘り、自分の力で、キリスト抜きに、生まれつきの、新生していない肉の努力で、神の義を全うできると思っている人です。キリストの恵みの下から離れ、自己の義を神の前に立てようと、思っている人です。『わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。』(フィリピ3:9)と反対の生き方をしている人です。そのような人は、ハガルに属し、シナイ山で戴いた、十戒を表面的に守っていると思い込み、民族の著しい印である割礼、さらに既に廃された、諸々の礼典律法の下にいる者です。その子イシマエルと共に、数々の戒律、規則、習慣によって義とされようとする、奴隷の子になっています(この節は、十戒を表面的に守って、自己の力で、キリスト抜きで義とされようと言う生き方と、様々な礼典律法の遵守と両方を指していると私は解釈する)。

 しかし、聖書は何と言っているか。『女奴隷とその子を追い出せ、』(ガラテヤ4:30) 神の約束を受け継ぐものではないと。神の約束、あなたとあなたの子孫に継がせると言われた、約束の子供は、サラから生まれたイサクであった。アブラハム100歳、不妊の妻サラ90歳、枯れてしまった身体なのに、アブラハムの神の約束を信じる信仰は弱らなかったのです。言わば肉の死んだ身体から、神の復活の力を信じて、約束の子供を授かったのです。そのような復活の信仰を持たせるために、神は100歳になるまで、アブラハムに子供を授けなかったのです。

 私達も神がキリストを死から、復活させられたと、信じるなら、その信仰によって救われます。心も復活の御霊を信じる信仰によって再生され、やがては肉体の復活にも与かれるのです。原則は同じなのです。信仰の子が約束の子であり、信じることによってのみ、信仰によって義とされます。恵みの下、イエス・キリストの下にいること、これが救いの根拠です。

 女の奴隷の子が、霊によって生まれた子を迫害しました。今でも、同じで、肉によるイスラエル、イエスを受け入れない肉の人達が、霊の人達、すなわちキリストを受け入れ霊的イスラエルになった者を迫害しています(見かけ上のクリスチャンが、霊的クリスチャンを迫害しているととることもできましょう)。

『要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。』(ガラテヤ4:31)

 

 5章

 霊に満たされて生きることを勧めている。

 『わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。』(ガラテヤ5:16~17)

 聖霊の導きの中に歩んで行こうと決断し、謙虚に、祈りつつ進んで行くとき、今までしていた、肉的な、趣味や娯楽が、急に色褪せてきて、もうやりたくなくなります。明確に悪ではないが、そのようなグレーゾーンのことに時間と、労力を使いたくないのです。ブレーキがかかり、自分のしたいと思うことが出来ません。『わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。』(同5:25)

 霊によって生きることの結果とは何か。肉に罪を犯す機会を提供することがなくなります(同5:13)。実によく考えれば、地上にある娯楽、携帯電話やTVやメディアを通して提供されるほとんどの物が、キリストから私達を離し、貴重な霊的交わりや隣人を愛する時間を奪っていることが分かります。私達の肉は肉の方を容易に好み、自分自身を欺く傾向があります。ですから、自分自身が持っている肉の傾向がどんなものか、反省し良く考えて見なければなりません。人によって弱さも誘惑も違うのです。ある人は甘いものに魅かれ、ある人は神の存在を認めないような科学的理論に夢中になり、ある人はスマホやゲームやポイント収集などに強い興味を持ち、多くの時間をそのことに費やしてしまいます。自分の弱い傾向が分かったら、私達はそのようなことに大部分の時間を取られないように、自分を訓練して行かなければなりません。

 『愛の実践を伴う信仰こそ大切です。』 (同5:6) 姦淫、泥酔、嘘、殺人、偶像礼拝、まじない、盗み等、道徳律に違反することは肉の働きであり、これらを公然と行う者、隠れて行う者は、ハッキリ神の国に入れないことは明白です(同5:21参照)。もちろんそのようなことを現行罪として、実際に行ってきた者であっても、イエスの十字架の犠牲と、とりなしを信じて、聖霊の導きの下で、真に悔い改めて行くなら、あらゆる種類の罪が赦されて、神の子供として受け入れられます。その可能性を否定するものではありません。ただキリストを受け入れたら、そのような現行罪の明白な悪からは遠ざかるべきです。

 霊によって歩むとは、愛の律法の中で歩むことです。律法は愛の方向性を示しています。善意、忠実、親切、平和、自制、柔和等、これらの徳を身に着けることを律法は禁じていません(同5:22~23)。霊によって生きるとは、結局、キリストの律法を完成させていく生き方です。だから、パウロが律法の下にはいないと言うとき、それは自分の力で、律法を守って行こうとする肉の努力の下にいないということです。自然に、気負うことなく、キリストの霊が、自分の心の内に住んで下さり、愛の行いをさせて下さいます。自分の心の源が、キリストに結ばれているならば、愛の行いは、キリストがさせて下さいます。

 しかし、偽善には十分注意しなければならない。無理をし、肉の自分の力が、再び自分の内に優先してくると、愛の行いが、偽善となってくる場合があります。愛を実践することに疲れ、善い行いは表面的になり、また変な律法主義にいつの間にかなってしまう。常に愛の力の源泉である、聖霊によって命を与えられるキリストに戻り、つながり、結ばれて、リフレシュしていかなければならないのです。

 愛の行いは賞賛されて良いものですが、注意は必要です。ただ肉の力、表面的な生まれつきの能力を駆使して、キリストから離れて、律法を守ろうとする行為は、律法主義であって、キリストの恵みの代わりに自分の義を立てていることになりかねません。このような信仰状態が、律法の下にいることだとパウロは言っていると私は解釈します。

 5章の1~12節は、割礼を念頭に、ハッキリと礼典律法を否定しています。アブラハムから始まり、モーセが律法の中で定めた、民族の印、割礼を実行することによって、神の民となり救われるという考えに決別を告げています。割礼は単に、肉に傷をつけることであって、何の意味もない。男性器の前の包皮を切ってしまうことに、いったい何の意味があるだろうか。

 旧約時代においては、そのことによってユダヤ民族の純血を守り、他民族と契りを結ばず、宗教的独自性を維持するための方法の一つでありました。イスラエルの周囲の他民族は、カナンのバアル崇拝に代表されるような偶像崇拝に耽っており、そこでは自分の子供すら生贄としてバアルに捧げたと言われています。当時の社会環境において、純粋にイスラエルの神に仕えるには、決して他の民族と雑婚してはならなかったのです。他宗教の女性と結婚することにより、偶像礼拝や、まじない、死者に問うことをする口寄せ、占い、巫女等による宗教的売春、人身御供等に関わることになって、真の神に対する背教という重大な結果につながるからでありました。

 割礼の効果は、ユダヤ民族の血統を、現代まで残す役割を、今でも果たしていると言えよう。その役割は、まだ持続しており、人類の歴史上もっとも古い民族であるユダヤ民族が、アブラハムの末裔として約4,000年続いているのも、それだけが理由ではないかも知れないが、割礼は一定の効果があったのだろう。

 しかし、新約聖書の時代になって、割礼は、宗教的には全く意味を持たない、無益なものとなってしまった。今や、民族的イスラエルが、ただ肉の血族的なアブラハムの子孫という理由によって、救われることはないのです。キリストが全人類の身代わりに死ぬことによって、救いは、地球上の全民族、万民に対して、平等に開かれました。キリストを受け入れ、新生した者、霊的に新しく造り変えられた者こそ、真の霊的イスラエルであり、真の神の民なのです。

 『キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、』(ガラテヤ5:6)

 『わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。』(同5:9)

 わずかなパン種、すなわち割礼を施すという礼典律法の行いが、全体を膨らませ、全部をだめにしてしまうのです。割礼を行って義とされようとする者は、儀礼典を含む律法全部を守る義務があります(同5:3)。ユダヤの律法は、割礼どころか、衣食住を全般的に縛りつけていました。神殿で捧げる燔祭の儀式、清め、洗い等の細かな規定、祭りそれに伴う特別安息日、新月、贖罪日等、挙げたらきりがなく、律法は600程あると言われています。それらを全部守って生活することなど、実は不可能なのです。

 『ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。』(同5:2)このような割礼を中心にした律法についてガラテヤ人への手紙で、パウロは強く否定しています。

 道徳律は廃されていませんし、善いものであるから例外だと思ってはいませんか?

 実は道徳律も、その人の受け取り方、理解の仕方では、礼典律の下にあってがんじがらめになっていたイスラエルの人々と同じような働きをしてしまう恐れがあります。道徳律も、宗教的戒律は戒律であり、善い行いを規定していることは間違いありませんが、自分の生まれつきの肉の力や、後天的に取得した自分の能力で、それを守って行こうとするとき、律法の下にいることになり、古代のイスラエル人が経験したような、がんじがらめの状況に人を追いやる可能性があります。

 また、道徳律を強調し過ぎると、良心の咎めが常に付きまとい、行き過ぎた罪の自覚の中で、ウジウジといつまでも自分の犯した現在や過去の罪に囚われてしまいます。精神的に解放されず、道徳律の罪の自覚を起こさせる養育掛り用法の下に、看視され、閉じ込められてしまうのです。救いの喜び、霊の解放を味わうことのない宗教体験の中にとどまり続けさせることになることもあるのです。

 キリストの贖罪から離れ、生きたキリストの霊を受けることもせず行われる律法遵守は(それが道徳律であっても)、その人の身体から、キリストの輝き出る光すら取り去り、表面的な、偽善に満ちた、心底から変えられていない、人格を形成して行くことになります。

 道徳律は善いものです。今のユダヤ人、現代のユダヤ人を考えて見ましょう。彼らにもモーセの十戒は与えられているのです。保守的ユダヤ人は、今でも真面目に、その単に肉の努力によって、道徳的に生きようと宗教的努力をしているのです。しかしユダヤ人はキリストを神として認めず、キリスト抜きで、宗教的情熱に駆られて生きているのです。彼らが道徳律をどんなに一生懸命守っても、キリスト抜きになされる肉の義に何の価値があるでしょうか。天国に入るには100%の義が必要です、それにはキリストの罪なき生涯を100%上から被せていただく以外にないではありませんか。

 私達もキリストの霊を受け、新生し、復活の御霊の経験なく、新しく造り変えられる経験なく、キリスト抜きで、道徳律を守っているなら同じことです。それは律法の下にいるのであって、恵みの下にはいません。キリストを信じる者からは、生ける水が、腹から、泉が湧き出るように、溢れ出すと言われているではありませんか(ヨハネ4:14、7:38参照)。このことは真に御霊に満たされた人から、キリストの復活の霊が、溢れ出すことを言っているのです(私はまだそのようにはなっていませんが、反省)。このようなことを経験しないで何が律法の遵守でしょうか(律法遵守そのものを否定しているのではないので、その点誤解ないように、ただ内側から造り変えられ、キリストの恵みの下にいることでしか、律法の要求は満たせないのだと言っています)。この点を良くゝ反省し、原点、救いの原点に帰らねばなりません。

 イエスの十字架の血潮により頼み、贖罪の原点に、毎日ゝ立ち返って、『わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。』(コリント第二4:16) 文字通り、キリストを毎日体験し、日々新たにされて歩んで行きましょう。御霊に従って生きるようになったのだから、御霊によって進もうではないか(ガラテヤ5:25参照)。常にその救いの原点に立ち返ることが必要です。キリストと一体となり、復活のイエスの命を受け取って、永遠の命の中に今招き入れられ、御霊を受けて、キリストと共に歩むことこそ重要なのです。

 

 6章

  • 罪に陥った兄弟を見かけたら、柔和な態度で、愛を持って勧告し、 自分も誘惑に陥らないよう注意すること(同 6:1)。
  • キリストの律法は、愛であるので、互いに人生の重荷を担い、助け、助けられしていくこと(同6:2)。
  • 自分がひとかどの者などと思ってはならない、他人と比べて見れば、自分が誇れるようなことはないことが分かります。 自分を吟味して、 自己に対してだけ、正当に自己評価すべきです(同6:3~4)。
  • 互いに重荷を負い合う精神は良いが、それが他人任せ、他人頼みになってはいけない。各自が、それぞれ自分の責任 で自分の人生の重荷を基本的には負っていかねばならないのです(同6:5)。その場合でも、神に祈り、キリストに霊的に頼り、人生の重荷をキリストその方に負っていただくことによってです。『すべて重荷を負うて苦労してい る者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休 ませてあげよう。』(マタイ11:28口語訳)
  • 御言葉を教える方とは、たぶん長老や使徒たちを指していると思うが、この世的には収入がなく貧しい方々なので、 教えてもらう人々は、聖なる方々の奉仕を物的に支えるように言われています (同6:6)。
  • 善いことをすれば神から善い報いがあり、悪いことをすれば悪い報いがあります。因果応報は基本原則であります。救いは無償 で、神の恵み、ただ恩寵によって与えられます。しかし、ここでは信仰の一般原則を述べています。神は侮られるよう な方ではなく、善いことをとすれば善い報いがあるので、善行をし続けるように、特に信仰の兄弟に対してそうす るように強く勧められています(同6:8~10)。
  • パウロは目が悪かったと言う説があります。こんなに大きな字で書いているとあるのがその理由です。この部分だけ、口述筆記ではなく、自ら の手で書いたのでしょう(同6:11)。

 ヤコブのもとから派遣された、律法主義的ユダヤ人クリスチャン達は、何故、割礼を異邦人の改宗者たち、ガラテヤの諸教会員に受けさせようとしていたのでしょうか。それは彼らの不信仰のせいなのです。結局彼らは多くのユダヤ人、すなわち、未だキリストを受け入れず、宗教的伝統に凝り固まっている大多数のユダヤ人達から受ける迫害を恐れていたのです。

 クリスチャンになったら割礼など無用です。そのようなことに類する諸々の礼典律法は廃されましたから、もう守る必要はありませんと、パウロは大胆に宣教していました。

 ユダヤ教のみを熱心に信じているユダヤ人にとっては、割礼こそが神の御言葉の実践であり、救いの印、民族の誇りであるわけですから、それを廃するようなことを教えるキリスト教は許せない、徹底的に迫害してやろうと言うことだったのです。ユダヤ民族のアイデンティティーは、神から選ばれた民族、選民意識です。それを具象的に表していたのが、割礼だったのですから、頭からそのことを否定されるようなキリスト教の教えは、ユダヤ人からしてみれば、大異端です。

 エルサレムに住んでいる、改宗したクリスチャンのユダヤ人の中に、迫害を恐れ、異邦人にまで割礼を施させようとした一派がいたのは明らかです。これは信仰による行いではなく、迫害を逃れたいばかりの不信仰による行いだったのです(ガラテヤ6:12)。

 実は、割礼を受けている者自身が律法を守っていないのです。肉の傷を自身につけることによる、霊的価値などあり得ないのです。心の内側に、霊による割礼を受けてない者が、うわべだけの肉の割礼を受けたところでそれがなんの役に立ちましょうか。痛みが薄れればもとに、普通の身体に戻ってしまうのです。肉の努力や力で神の聖なる霊的な律法を守れるとでも思っているのでしょうか。『わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。』(ローマ7:14) 肉の割礼を受けている者自身が、実は神の律法を守っていないのです。霊のことを肉で仕上げようとする者が、道徳律を含めた律法を守るなど、不可能なことだったのです。

 それでも自分は守っている、守っていると主張するなら、その結果、おぞましい偽善と、表面的な律法遵守と言う、律法主義が生じるのです。そこにはイエスから来る愛もなければ、真の相手に対する同情心もなく、自己犠牲の精神もありません。あるのは、愛の形だけを表面的に取り繕うというような偽善的な行いだけです。

 律法を守るという言葉がふさわしいか分かりませんが、真に律法、道徳律を守ることは、イエスの御言葉の実行に他なりません。それは、ただ御霊によって造り変えられた者がキリストと一体となることによってのみ実現できることなのです。肉の生まれつきの力に頼るのではなく、自分の肉をキリストの処断された肉と共に、十字架上で、磔にしてしまうのです。キリストと共に、自分自身の肉も破壊され、心底から聖霊によって新たにされ、自分の肉の五体は、霊を入れる器として、再び生かされていく生き方なのです。

 肉なくして霊は存在できません。

 肉そのものは神の器として用いられるのです。キリスト教はいわゆる禁欲主義とは違います。肉は肉のあるべき位置に置かれるならば、それは善い物なのです。しかし霊の支配から外れ、肉そのものが人生の楽しみの目的となり、存在意義となることには注意が必要です。それは神の御旨に適うことではありません。肉の欲、目の欲、名誉欲、権勢欲、金銭欲、貪欲、憎悪、 怨恨、嫉妬心、高慢、淫乱、好色、宴楽、美食、放蕩、遊興、泥酔、酒乱、薬物中毒、喫煙、賭博、自己信頼(偶像礼拝)等の罪の根源が肉の中にはあることを自覚いたしましょう。

 『神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実 』(ガラテヤ4:6) 。「アッバ、父よ」と叫ぶキリストの霊と、自分の霊が、共に協力し、共に証しすること。ここに勝利の秘訣があります。『わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。』 (同6:18)自分達の霊が、イエスによって恵まれる、「アッバ、父よ」と呼ばせていただくキリストの霊と共にいることが出来る、それだけで最高の祝福であり、幸せなのです。

 そして、さらに私の霊と、キリストの霊が共に協力し、共に証しして下さるとき、愛の行いとしてのキリストの律法が成就されていくのです。それは友のために命を捨てるほどに愛しなさいというキリストが言われた、究極的な意味での愛の律法であります(ヨハネ15:13)。また、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』(マタイ22:37)と言う神に対する真実な愛が求められています。父なる神と、御子イエスを信じていると言う公の告白の為には、この世の命も捨てるほどの神への全身全霊をかけた信仰の言い表しが求められているのです。『自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。』(ルカ9:24)と書いてある通りなのです。

 要するに、見えない神の為にも、見える人間の為にも、究極的には自分の肉の命を捨てるところまで、信仰の精進をしなさいと言うことなのです。信仰によって義(義認)とされながら、さらに信仰の高みを目指して進むように誰でも招かれているのです。キリスト教信仰は中途半端を許さないのです。しかし、勘違いしてはならないのは、そのような、自分の命を捨てられるような信仰の力は、私達の肉の自分にはないのです。もしそのような信仰が持てるとしたら、それは、キリストが私達に与えて下さった聖霊の励ましによります。私達の心の内に御霊を通して宿ってくださるキリストが、私達を励まし、神の御心を行えるように、変えてくださるのです(神の御心とは、ここでは友のために命を捨てるほどの愛の実践であり、心を尽くし、精神を尽くして神を第一に敬っていくと言う意味です)。

 単に自分の肉の誇りを自慢したり、ユダヤ人から迫害されたくないために肉の割礼を異邦人にも強制させるような人々は、神の真の律法を守ってはいませんでした。最初から守れるはずもないのです。彼らの肉の誇りはどこから来るのか。ガラテヤの異邦人までが、割礼を受けるよう強要するような、彼らユダヤ民族としての誇りとは何でしょうか?ただ外面的に、男性器の前の皮を切り取り、傷をつけることによって、肉のイスラエル民族に異邦人も加わらせ、連なさせたと言うことを誇るだけではないでしょうか。そんなことは何の価値もないことで、新しく造られることこそ重要なのです。『割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。』(ガラテヤ6:15)

 霊的イスラエルこそ真の神のイスラエルなのです(同6:16)。 そのような方々は教派を越えて、存在していると私は確信しています。キリストを信じ、十字架の贖罪を受け入れ、新しく霊によって、内側から創造されることが一番大切なことです。誇りとするものは、ただ十字架、十字架のみ、その他の誇りなどあってはならないのです。

 割礼とガラテヤ人への手紙で言っているが、世に属する誇りは、実はすべて、割礼と同様に、肉の誇ってはならない物に含まれているのではないでしょうか。この世の財産、レベルの高い暮らし、美食、行楽、過剰な趣味、持ち物、高級車、立派な住まい、血筋や家系、職業、名誉、学識、学位等を誇ること。それらは、生活する上で便利で必要なものもあるでしょう。しかし総てこの世のことであり、人間最後はこれらとお別れして、何も持たずに墓の中に入って行くのです。最後には誰でも何も持たず、地位も名誉も捨てて、神の前に立たなければならないのです。

 パウロはこの世と、そしてそれが与えるすべての誇りは、十字架につけてしまった。もうパウロはこの世に対しても死んでしまったのです。衣食あればそれで足れり(テモテ第一5:8)。パウロは福音を宣べ伝えればこの世のことは、もうどうでも良いのでした。それらは『ふん土』(ピリピ3:8口語訳)なのです。

 イエスの十字架にかかり、『世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。』(ガラテヤ6:14)

 パウロには、『イエスの焼き印』(同6:17)が聖霊によって押されているのです。ローマ時代、焼き印は奴隷の持ち主が罰として奴隷に押したと言われています。特に一度逃亡したことのある逃亡奴隷は、捕まえて、二度と逃げないように、罰として焼き印を額に押したそうです。盗みの罪を犯した奴隷にも焼き印を押していたと言われています。パウロは主人イエスの奴隷として、消すことが出来ないイエスの焼き印を、霊的に身に受けていると表現しているのです。

 よく私達の仲間同士でも、信仰を持ったとか、信仰を捨てたとか言うような言い方をします。しかし、信仰とは持ったり、置いたり、捨てたりすることが出来るような安易なものなのでしょうか。つけ外しができる、身を飾るアクセサリーのようなものなのでしょうか。本来キリストに出会い、心の底から、その贖いの業に感動し、心が造り変えられ、聖霊によって新生された者には、そのような表現はふさわしくない。信仰は命懸けでやるものであり、生きることそのものであり、自分の人生から切り離すことは出来ないものです。

 私は新生経験は一回だけのものではなく、日毎の経験だと思います。『わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。』(コリント第二 4:16)とある通りです。

 信仰の目指すところは、心の奥底でキリストと出会い、その十字架の贖いと、復活を霊的に体験し、地上にありながら永遠の命の一端を味わった者に加えてもらうことです。その時は、もはや聖霊の証印(エペソ1:13)が押されたのであり、キリストなしには、1日も半日も1時間も生きていけないのです。『わたしにとって、生きるとはキリスト』(ピリピ1:21)なのです。パウロと同様に『イエスの焼き印』(ガラテヤ6:17)を押されて行きましょう。

 『わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。』(同6:18)と、この教訓と示唆に富んだ手紙は終わっています。

 ガラテヤ人への手紙を読むとき、改めて、自分の信仰が律法主義に傾きかけていないか、反省する機会となります。自分の心を謙虚にさせられ、信仰の高慢と言うような種類の罪に、自分が気が付きもせず、陥っていないだろうか、考えさせられます。

 十戒そのものを何とか自分の肉の力で守って、努力して良かった。これで、自分は少し救いに近づいたと思ってはいませんか?自分のすべての宗教行為の中に、それが祈り、慈善行為、人に親切にすること、教会の何らかの役職をこなすこと、毎日の瞑想や聖書研究等の実践、それらの様々な宗教的行いが、自分の救いの根拠になってはいませんか?そういう宗教的行為の積み重ねは、人間を熟達させるためには尊いものですが、救いの根拠ではありません。ガラテヤ人への手紙は信仰の原点に立ち帰らせ、自己を見つめ直させ、改めて自分の心の持ち方を反省させます。

 『けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。』 (ガラテヤ2:16)

 上記の聖句を心底から自分に言い聞かせましょう。救いは信仰によるのみです。イエスのなされた贖いの業、すなわち十字架でなされた犠牲を、自分達の罪の身代わりと信じればよい。イエスの血潮を、自分達の為に流されたものであることとして、信じ受け入れればよい。ただそれだけで、何の行いも、宗教的蓄積もなく、そのまま、あるがままに、あらゆる罪が赦され、父なる神の前に一度も罪を犯したことのない者として、受け入れられます(コロサイ1:22、3:12参照)。そこがいつも信仰の原点であり、いつも舞い戻る場所であります。そこが常に、私達の神の前における立ち位置なのです。『自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。......。』(コリント第一4:4)とパウロは言っています。

 神の前に義とされるのは、ただこの一点、キリストの義を自分の義として受け入れるだけです。ただそれだけです。ガラテヤ人への手紙を読むたびに、この原点に、繰り返し立ち帰ることが、いかに、キリスト教信仰にとって大事であるかを思い知らされます。

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