ヨハネによる福音書20章
ヨハネによる福音書20章
ヨハネによる福音書20章の中心は、前章でも述べたようにイエスの復活であり、特にマグダラのマリアが、最初に復活されたイエスにお会いした場面であろう。イエスは復活後初めて会ったのは、母マリアでもなく、12弟子でもなかった(この時は11弟子だったが)。
何故イエスはマグダラのマリアを復活後最初に会う人物として 選ばれたのであろう。それには理由があります。深い罪の淵から救われた彼女は、誰よりもイエスをお慕いし、誰よりもイエスを愛していたからです。
『この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。』(ルカ7:47口語訳)と書いてある通り、マリアが犯してきた多くの罪は、イエスによって赦され、彼女は信仰の応答として、誰よりもイエスを愛したのです。
ここでマグダラのマリアとはどんな人物であったか探って見よう。まず、イエスが復活した日の2日前、イエスが十字架に磔にされ、葬られた、直後の場面に戻って考えてみよう。
『マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。』(マタイ27:61)
マタイ27:56にはイエスの十字架を遠くから見守っていた婦人たちが大勢いて、その中にはマグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子ら(ボアネルゲ雷の子と呼ばれたヤコブ、ヨハネ⦅マルコ3:17参照⦆)の母がいました。 小ヤコブ(イエスの兄弟ヤコブのこと)とヨセの母マリア(マルコ15:40、6:3参照)はイエスの母であり、ゼベダイの子らの母とは姉妹(ヨハネ19:25参照)でありました。ですからイエス、ヤコブ、ヨハネは従兄弟という事になります。(しかし、これには色々な説があり、確定は出来ません)。三人のマリアがイエスの処刑の場所にいたのです。さらに十字架から取り下ろされ、アリマタヤのヨセフにより、新しい墓にイエスのご遺体が葬られた後、母マリアとマグダラのマリアは、憔悴しきって、墓の近くに座っていたのです。何故二人のマリアはすぐ立ち去らなかったのか?これは愛情の深さを表していると思われる。私達も最も大切な人を失ってしまった時、その場所から立ち去り難い経験をするのではないでしょうか。
『マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。』(マタイ27:61)もう一人のマリアはイエスの母マリアであると私は解釈します。
この時の状況をよく考えて見ましょう。イエスは不当な裁きによって十字架にかけられ、『すべてが終った』(ヨハネ19:30口語訳)と言って、贖罪が成し遂げられました。全地が暗くなったり、地震が起きたり、死者の墓が開かれ、記念として死者が復活したり、様々な不思議なことが、その時に起こりました。
さらに、イエスは全人類の罪がイエス自身に負わされ、神から見捨てられたと感じ、『そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。』のです。『それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。』(マルコ15:34口語訳) 前章の繰り返しになりますが、イエスは耐えきれない程の苦しみを味わい、お身体の中で、血漿とリンパ液が分離し、心臓が破裂して死んでしまったと言われています。
十字架に手を釘づけされるのは、とっても痛いですが、致命傷ではありません。ある場合には死ぬまで何日もかかる場合もあるそうです。イエスが十字架に磔になったのは午前9時頃であり(マルコ15:25)、亡くなったのは午後3時頃でした(同15:34)。イエスが、あまりにも早く、死んでしまったので、本当に死んだか確かめるために、ローマ軍の兵士が脇腹を槍で刺して確かめたほどです。血漿から分離したリンパ液が水のようになって流れたと書かれています(ヨハネ19:34口語訳参照)。ローマ総督ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと、不審に思ったと書かれています(マルコ15:44口語訳参照)。裕福であり、議員もしていた、イエスの隠れた弟子であった、アリマタヤのヨセフが、勇気を出して、イエスの遺体の引き取りをピラトに願い出て、岩を掘って作ってあった、まだ未使用の墓に、綺麗な亜麻布にイエスの遺体を包み葬りました。墓の入り口は、大きな石を転がしておいて、塞いでおきました。(マタイ27:45~60参照)
『マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。』(マタイ27:61)のです。ローマ軍の兵士も、大勢の群衆も、もはや帰ってしまって誰もいません。皆が墓から去って行ってしまった後、辺りは急に静かになったことでしょう。日も傾き、夕方です。あのゴルゴダの丘での十字架の出来事、日中の喧騒はいったい何だったのでしょうか。大勢の群衆はもう解散し、今は嘘のように静まり返っています。イエスの葬られた墓辺りには、イエスの母マリアとマグダラのマリア以外には、誰もいません。日も沈みかけ、そろそろ安息日が始まろうとしています。
イエスの母マリアと、マグダラのマリアは、イエスが納められた墓の入り口の、大きな岩を見て、悲しみに暮れ、そちらを見つめながら、座っています。今日午後3時頃、十字架につけられ、イエスは亡くなってしまいました。何よりも、誰よりも救い主と期待していたイエスが死んでしまい、岩を土を掘って作ってあった墓の中に、遺体になって横たわっているのです。午後からの出来事にあまりにも疲れ、もう立ってることすらできません、ただただ座って、茫然と、墓を塞いでいる大きな岩を見つめている以外、二人のマリアには方法がありませんでした。
マグダラのマリアがどんな気持ちで、この墓を塞いでいる大きな岩を見つめていたか、考えて見よう。マグダラのマリアにとってイエスは自分の人生にとって全ての希望でした。イエスと出会う前は罪の女(ルカ7:37)でした。ルカ7章のこの罪の女がルカ8章のマグダラのマリアであると言う解釈をしたのは、ローマ法王グレゴリウス1世であったと言われています。 どんな罪があったかは聖書にはハッキリとは書いてはありません。でも7つの悪霊に憑りつかれており、イエスはその権威により、悪を犯させる原因となっている悪霊を追い出されました(ルカ8:2参照)。マグダラのマリアの罪は何だったか、多くの聖書解釈者たちによって、古の昔より議論されてきました。彼女に憑りついていた7つの悪霊を、7つの大罪と解釈する人もいました。傲慢・憤怒・嫉妬・怠惰・貪欲・大食・色欲です。
イエスが公生涯を始められた最初の頃、パリサイ人シモンの家をイエスが訪問した時、この町で罪の女と言われていた人が、イエスに泣きながら、後ろから近づいてきて、涙のしずくでイエスの足を濡らし、自分の長い髪の毛でそれをぬぐい、香油を持ってイエスの足を塗りました(ルカ7:37,38口語訳参照)。もしこの女がマグダラのマリアだとすると、イエスの宣教の最初に、香油を持ってイエスの足を塗った事になります。
パリサイ人シモンは、旅で汚れたイエスの足を洗う水を用意してくれませんでした。しかし、マグダラのマリアは涙でイエスの足を拭き、香油を足に塗って、自分の犯した多くの罪を後悔しながらイエスお迎えしたのです。『......この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。......』(ルカ7:47口語訳)一説にはマグダラのマリアは娼婦ではなかったかと言われています。パリサイ人が先に天国に入るのではなく取税人や遊女(娼婦)が先に天国に入る(マタイ21:31口語訳参照)との御言葉は本当の事でした。弟子のうち、レビ・マタイは取税人でした。(ルカ5:27参照)
また、イエスの親しい友の中にラザロ、マルタとマリアの3兄妹がいました。その中の妹マリアがマグダラのマリアであったという説もあります。(ヨハネ11:1~3参照)
もし同じ人物であったとすると、ヨハネ12章に出て来る、有名なナルドの香油を、過ぎ越しの祭り六日前に、イエスの葬りの準備として、イエスにふりかけたマリアは、マグダラのマリアとなります。マグダラのマリアは、イエスの宣教の最初にもパリサイ人シモンの家で香油を足に塗り、イエスがを十字架にかかる週、過ぎ越しの祭りの六日前に、ナルドの香油を頭に注ぎかけ(マタイ26:7参照)、葬りの準備をしたことになります。
ナルドの香油はおみなえし科の宿根草から作り、 ナルドの乾燥品は、 漢方の甘松香として、輸入されています。少しかび臭い匂いのするもので、ユダヤでは死者への手向けとして塗られたそうです。マグダラのマリアは、イエスの葬りの準備のためにそれを取って置いたと書かれています。(ヨハネ12:7参照)
そういえばイエスが亡くなった後も、香料を求めて、マグダラのマリアともう一人のマリアは、安息日が終わってから、土曜日の夜に、買いに行っています。(マルコ16:1,2参照)それを持って、週の初めの日の朝早く、まだ暗いうちに、イエスの身体に香油を塗ろうと墓へ向かって出かけたのです。
物語の時間をもう一度逆戻しにして、『マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。』(マタイ27:61)ところに帰って見ましょう。この時点でイエスは息を引き取ってから数時間しかたっていません。未だイエスは復活なさっていません。生前復活するとの預言は、イエス自身がされていましたが、それを聞いた弟子たちは、マリアも含めてまだ目が開かれていませんでしたので、そのことを悟ることはできませんでした。この時点においては、マグダラのマリアは、全ては失われたと思い込んでいました。大きな墓の入り口を塞いでいる岩を見て、マグダラのマリアは、多分途方に暮れ、涙を流し、茫然自失の状態であった事でしょう。イエスの母マリアと共に、遺体が安置されている方向に向かって、夕方、日の沈む前まで、しばらく座っていたのではないかと思います。
その時、イエスが、自分にしてくれたたことを、マリアは走馬灯のように思い起こしていたかも知れません。自分が最初にイエスと出会った時、自分のしてきた事の後悔の涙で、イエスの足もとを濡らし、自分の髪の毛でイエスの濡れた足をぬぐった事。『そして、イエスは女に、あなたの罪は赦された」と言われた。......イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。』(ルカ7:48,50)
このように思いもかけず優しい、愛の言葉をかけて戴いたこと、そんなことを思い起こしていたのではないでしょうか。
それ以来マグダラのマリアはイエスと、12人の弟子たちが行くところにお供して旅しました。また、多くのイエスにつき従っていた婦人たちがいました。彼女たちは自分たちの持物を持ち寄って、イエスや弟子たちの身の回りの世話をしていたのです(ルカ8:1~3参照)。
ラザロ、マルタ、マリアの三兄妹のうちマリアがマグダラのマリアと同一人物であると言う説をとるならば、マグダラのマリアは、ある時はイエスの話に、夢中になって、イエスの膝元で何もしないで、聞き入ってしまったこともありました。お姉さんのマルタに、何故、妹は接待のお手伝いもしないのかと、これ見よがしに、自分とイエスの前で、嫌味を言われたこともあります(ルカ10:39,40参照)。そんな時ですら、イエスは優しくマリアを擁護し、『......「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」』(ルカ10:41,42)マリアの純粋な、救いを求める心を優しく弁護して下さったのです。
そんな様々な出来事が、あるいは墓を見つめるマグダラのマリアの脳裏に、思い出としてよみがえって来ていたかも知れません。
もしイエスの死で、キリスト教が終わってしまったら、今のように全世界にイエスの教えが宣教されることはなかったでしょう。主イエスが十字架にかかった3日後、週の初めの日の朝、天使が、地震と共に、この入り口を塞ぐ岩をごろりと転がし、墓の入り口が開き、復活したイエスが墓から出て来る事になるのです。
この金曜日の夕方、墓の方に向かって、座っていた、マグダラのマリアが何を考えていたか、実際の所は分かりません。しかし、イエスの死ですべてが終わってしまつたと思い、悲しみながら、イエスとの思い出を回想し、いったい今までの私の生きがい、イエスと過ごした時間、いったい何だったんだろう、私はこれからまた一人で生きて行かなければならないのだろうか。そんな風に、思っていたのではないでしょうか、もちろんこれは私の想像ではありますが。
失意と悲しみの内に、ただイエスが葬られた墓を眺めていただけのマリアに、3日後、イエス・キリストは復活し、一番最初に現れることになります。復活後、最初にお会いになった人間は、イエスの母マリアでもなく、12弟子でもなく、マグダラのマリアだったのです。ヨハネによる福音書20章には、その時の光景が、鮮やかに描写されています。
『マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。』 (ヨハネ20:11~17)
彼女は、最初、復活したイエスを園丁かと思って気が付きませんでした。しかし、聞き覚えのある声で、イエスが『「マリア」』と呼びかけると、イエスであることが即座に分かり、『「ラボニ(先生)」』と返事をしました。その時のマリアの気持ちを考えてください。人生最大の失望から、あの自分が愛したイエスが復活し、又生きて今お会いしている。私のすべての希望であった方が、今私の前にお立ちになっている。マリアは思わずひざまづき、イエスのお身体に触れ、足元に縋り付こうとしました。けれども未だイエスは天にお帰りになっていなかったので、『...「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。......。」』(ヨハネ20:17)とマリアに言い、そして復活したことを他の弟子達に伝えるようにお命じになりました。
マリアはイエスの復活なさったお姿にお目にかかり、自分の罪が赦されているばかりでなく、自分もやがて復活出来るし、天国でもう一度イエスに、お会いできる希望を持ったに違いないのです。
言い伝えでは、事実であるかどうかはわかりませんが、マグダラのマリアと、ラザロ、とマルタの3兄妹は、使徒行伝の時代を経て、やがてフランスのマルセイユの近くのサント・マリー・ド・ラ・メール にたどり着き、マグダラのマリアはそこで宣教をなし、多くの人々をキリストに導き、最後の生涯を、サント・ボームの洞窟を住みかとし、一生を忠実なイエスの僕としての生活を送ったと言われています。その遺体はフランスの北東部にある町メッスのサン・マキシマン教会に保存されており、最近になってその頭蓋骨から、最新のコンピューター技術で、どんな顔であったかが再現されています。しかし、マグダラのマリアの身体と言われるものが、一部の部分も含めて、全世界に5か所ほどにあるそうですから、あくまでも伝説だととらえるべきでしょう。
さて、マグダラのマリアが、まだ復活したイエスに出会う前は、イエスの葬られている墓の入り口を塞いでいる、大きな岩を見ながら、全てを失ってしまったと思い込んで、失意のどん底にいました。
私達も、そんな時がないでしょうか。長い信仰生活の中で、いつも活きゝとした信仰を持ち続けられれば一番良い事なのですが、バプテスマを受け信者になったのに、イエスの御姿が、何か遠いものとして感じられてしまう時もあるのです。イエスの復活されたお姿が、墓の入り口を閉ざしていたような、人生の大きな岩にふさがれて、先が見えなくなってしまうこともあるのです。長い一生の間には、信仰が低迷してしまう時期もあるのです。
私達にとって、復活されたイエスを見えなくしているもの、墓の蓋である大きな岩は、比喩的に考えて行くとき、何でしょうか。キリストが復活し永遠の命への希望をもたらしました。『死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、』(コリント第一15:42)とある、この希望を、見えなくしているもの、遮ってしまうものは、私たちにとって何でしょう?
復活されたイエスキリストを見るのを妨げているものは何か、この大岩は何か。ある人にとっては、この世の生活上の思い煩いかも知れません。仕事や、収入や、子供の教育費等の事で、私達は度々思い煩うのです。この世で生活して行く上での、様々な心配事、この世の思い煩い、経済的な事、仕事の苦しみ、健康の問題、親子関係の軋轢、病気、趣味、娯楽、宴楽、泥酔、様々なことがわたしたちを、キリストを見させないように働いています。キリストから私達の心を離すものは何でも、この大きな墓の岩なのです。それがどんなものであれ、『まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。』(マタイ6:33口語訳)の約束の言葉に心をとめましょう。
世の快楽、様々な楽しみが、イエスと私達の間を隔てる大きな岩になっているのです。『この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。』(コリント第二4:4)もう、私達を取り巻いている、世の中の煩いを、すべて、心から取り除いて、純粋にイエスを瞑想し、聖霊の臨在を求め、イエスに霊的に満たしていただく、聖霊の満たしの中に憩う、そんな時間を自分なりに持とうじゃありませんか。
今心を静め、もう一度純粋な気持ちになってキリストを求めて行きましょう。イエスこそ私達の、全てなのです。『......このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。』(コリント第一2:30)
キリストに再びお会いしたい。もしキリストにお会いできなければ、この短い人生に何の意味があるでしょうか。いつかは人間は死ぬし、皆、誰でも最後の時は平等に訪れるのです(遅い、早いはありますが)。こればかりは富める者、貧しい者の差はありません。また、今キリストを受け入れ信じていないで、いつキリストをお迎えできると言うのでしょうか。
今日キリストの霊による臨在を信じ、キリストのリアルさを求めて行きましょう。この世にあっても、私を通して、キリストがお現われになり、神の御栄光を垣間見ることが出来るようにと祈り求めて行きましょう。
もちろんこのようには言っても、肉とこの世、世の楽しみを、すべてを否定するわけではありません。『......高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように、』(テモテ第一6:17口語訳)と書かれています。神のお許しになる範囲において、この世の肉的な事物も楽しんでも良いのです。結婚生活、仕事、ある程度の経済的に豊かな生活、旅行、 芸術を楽しむこと、様々な趣味、 人間的な交友関係、友情等を含めて、信仰の許されている範囲の中で、 肉の世に備えられているものを享受することは良いことであります。
そうは思いますが、今の人生を肯定しつつ、肉にありながらも(霊と肉は同時に私達の中に存在しているわけですから)(コリント第一15:49、ローマ8:9,10 参照)、キリストの中にキリストの霊を求めて、聖霊の内住と臨在を感じながら、今を生きてまいりましょう。
まずこの世で与えられた、生まれついたこの世の肉の命が、永遠の世界の入り口であることをしっかり認識しましょう。『つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。』(コリント第一15:44) まず肉に蒔かれて、霊の命が誕生するのです。父と母からまず産まれる、この肉の誕生がなくては、霊の誕生もないのです。別の言葉で言い換えれば、肉の命を受けたという事は、永遠の霊の命を受ける可能性としての機会が与えられたということです。これ故に人生は尊いのです。肉の命は霊の命への出発点なのです。肉の命がなければ何も始まらないのです。だから肉の命を大事にしなければなりません。ただ、霊の命に重点を置かないで、肉の命ばかりを楽しむことはやはり焦点がずれていると言わざるを得ません。
この世の肉の男女関係は、道を外れれば大きな罪へと堕落する危険性もありますが、100歳のアブラハムと90歳のサラからイサクが産まれたように、正常な夫婦の交わりと、その結果の子供の誕生は、神の祝福であり、総ての人々にとって、出産そのものが奇跡なのです。
アブラハムの場合は、特に高齢の死んだような体からイサクが誕生したわけですから、これは単なる子供の、誕生ではなくキリストの復活の力を信仰により体験したことを意味しています。
キリストの十字架の贖いによって、又墓から復活した、復活のキリストに、今心の中で出会う事によって、イエスと私達を隔てている墓の岩の蓋が取り去られます。この世的には、全てを失ってしまい絶望のどん底にいる人が、今、いるかも知れません。岩の外で眺めていた二人のマリアがそうでした。その時は、彼女らは悲嘆にくれ、総ての希望を失いかけていました。しかし、やがてイエスと彼女達を隔てている墓の入り口を塞いでいる大岩は取り除かれるのです。人生味わったこともないほどの失望が、復活されたイエスにお会いした時、一瞬のうちに、大いなる希望に変わって行くのです。
復活されたキリストを、やがて天からお出でになるキリストを、霊的な心を持って想像し、その方を真剣に、信仰の眼をもって見続けて行きましょう。望みえないのに望む、それこそ信仰なのです。しかし根拠のない信仰では意味がありません。イエスが復活したからには、私達もどんな環境にあろうとも、復活を確信し、望むことが出来ます。大いなる信仰の眼を与えて下さいと、神とイエスに祈ろうではありませんか。
しかし、もっと根本的なことが私達の霊的な目を曇らせているのではないでしょうか。それは私達が持っている肉の生まれつきの性質なのです。何かうまく行けば驕り高ぶり、少しでも贅沢したい、楽をしたいと考え、自分のためにはどんな労苦もいとわずやるが、人の為にはあまり積極的に行動できない、すぐ面倒臭くなってしまう。こんな私達の性質が、イエスを見えなくしているのかも知れません。
腹が減れば美味しいものを食べたいと思い、また、たまには旅行でも行って、パットお金を使ってみたい、こんな欲は誰でも持っています。しかし『......肉と血とは神の国を継ぐことができない......』(コリント第一15:50)とあります。うまく表現できませんが、イエスを見えなくしている何かとは、どうもこの辺にありそうです。私達の生まれつきの肉の性質そのものが、イエスを純粋に見て生きる事を妨げているのです。
ではどうしたらいつも十字架にかけられたイエスを、また復活なさったイエスを、希望をもって見続けられるでしょうか。それは十字架と復活の経験を個人的に、霊の体験として行くことにより、私達の生まれつきの性質を、聖霊によって変えていただく以外にはありません。
何度も申し上げてきましたが、自分の古い肉が既に、イエスのお身体と共に、十字架で砕かれ、処断されてしまったことを認め、信じることです。ここにいつもイエスにあることができる秘訣があります。そして、主と共に霊的に復活したと信じて、復活の御霊の支配、力の満たし、内住のイエスを意識して生きることです。
『つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。』 (ローマ8:3~4)。
話を本来の道筋に戻しましょう。イエスが復活されて、最初に会って、希望と喜びとを与えたのはマグダラのマリアでした。イエスは弟子達をもちろん愛されていましたが、マグダラのマリアを特別に愛されていました。マリアもイエスと再会したときに、感激に震え、大きな喜びに満たされました。その後の彼女の生涯は、伝説の部分はあるとは言うものの、 いつもキリストに結び付けられ、宣教と献身の日々を最後まで貫き通しました。
イエスの復活のいきさつについて、ヨハネ20章に、事細かな描写があります。これは繊細なヨハネの性格を良く表している書き方です。良く考えて見れば、誰が走って先にイエスの墓に着いたのか、誰がイエスの墓に最初に入ったかはどうでも良いことなのですが、その辺の順番と事情をヨハネは性格上省略することができませんでした。
日曜日の朝、最初にマグダラのマリアが香油を塗りに、まだ暗いうちにイエスの墓に行ったところ、遺体がないので途方に暮れ、まず急いで、走ってぺテロとヨハネのところに伝えに行ったとあります(ヨハネ20:1~2参照)。マグダラのマリアから知らせを受けたペテロとヨハネは、墓まで走って行きます。イエスの遺体がないとマリアから報告を受けたからです。ペテロよりもヨハネの方が若いし身軽だったので、ヨハネの方が先に墓に着きましたが墓には入りませんでした。ヨハネの慎重さがここにも表れています。しかしのぞいて見ると、確かにイエスの遺体はマリアが言った通り見当たらず、遺体を包んであった亜麻布が置いてありました。後からペテロが息を切らせながら到着し、すぐ積極的に墓の中に入り(ここにもペテロの性格が表れていると思います)、調べて見ると遺体を包んであった亜麻布が置いてあり、そこから少し離れたところに、頭を覆っていた布が無造作に丸めて置いてあったのです。
先に到着していたヨハネも、後からようやく、何となくおっかなびっくりのような感じもしますが、墓の中に入ってきて、そこの状況を確認します。確かに何処を探してもイエスの遺体はありませんでした。イエスが生前あれほど何度も、十字架についた後復活することを弟子達に預言していたにもかかわらず、彼等の眼はこの時点では曇っていて、イエスの復活を理解することができませんでした。
『イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。』 (ヨハネ20:9~10)
さて時間がたち、日曜日の夕方になりました。弟子達がユダヤ人達を恐れて、戸には鍵をかけ、家に集まっていると、突然イエスが、どこともなく入ってこられました。既に栄光のお身体でしたので、壁や、物質的な空間にとらわれることなく、バット現れたようです。
余りのことに11弟子達は唖然として、もしかするとこのイエスは亡霊ではないかと思う人もいました。それを防ぐためにイエスは自分の手の平の傷や、槍で刺された脇腹をお見せになりました。誰だって、鍵が締まっていてドアも開かないのに、突然イエスが部屋にいきなり、バッと現れたら驚くに違いありません。イエスは栄光の身体ではあるが、ちゃんとした身体を持っていることを弟子達に証明しようとして、焼き魚をその場で召し上がられたとあります。
『イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。』(ルカ24:36~43)
イエスはお腹が空いていたから魚を食べられたのでしょうか。決してそうではありません。復活の証明のために焼き魚を一切れ食べられたのです。自分が亡霊でないことを証明なさったのです。
また脱線し、横道に逸れたくはありませんが、信仰を理由でビーガンの選択をしている方々、私は完全菜食の生き方を決して否定はしません。菜食主義を貫き通すことは個人の自由であり、健康のためにはけっこうなことだとは思います。しかし、もし今やっている完全菜食の生き方が、健康の原則の為ではなく、信仰上の理由であるとしたら、イエスは魚を食べられたことを良く記憶に留めて下さい。もちろん、ルカのこの場面では、牛肉や羊の肉をイエスは食べた訳ではありません。要するに動物性食品を摂取するか、しないかは救いには関係ないと言うことを私は言いたいのです。もちろん、肉体の寿命には大いに関係ありますが。
『そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 』(ヨハネ20:20~23)
弟子達は非常に喜びました、それはどんな喜びであったか簡単には想像できません。もうすべてを失ったと思っていたのに、生き返ってまた自分達に所に戻って来て下さったイエスが目の前に立っておられるのです。しかも今度は神の子として、栄化された永遠に死ぬことのない肉体を持って、自分達のところに帰って来て下さったのです。
私達もこのイエスに従って行けば、必ずそのような身体と命を新たにいただけるはずです。人間の命は死で終わることではない。しばらくの間は眠り、深い眠りと同じで無意識状態になる、その時肉体は土に帰り、霊はこれを授けた神の息に帰る。『ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。』 (伝道の書12:7口語訳)しかし、キリストがこの地上に再臨なさるとき、もう一度神の息を吹き入れて下さると、私達は栄光の身体をいただき、必ず永遠の命が与えられて復活します。復活されたイエスに弟子達がお会いしたとき、弟子達がどこまでこのことを理解できたかは分かりません。あるいはそのように悟ることができるのはもっと後のことであったかも知れません。何れにせよ、この再会を弟子達は非常に喜んだのでした。
イエスは引き続き不思議なことをなさいました。彼らにご自分の息を吹きかけて、聖霊を受けるようにお命じになりました。『彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。』(ヨハネ20:22) 聖霊の特別な降下は、実際には過ぎ越しの祭りより50日目のペンテコステ(五旬節)の日まで待たなければなりませんでしたが、イエスは弟子達にやがて聖霊のバプテスマを授けることを、ご自分の息を吹きかけることで予表なさったのです。
私達の先祖アダムも、神によって塵で造られていた身体に、神が息を吹きかけられて、命が宿り生きたものとなりました。私達は、父母から産まれた時、肉の命が始まり、オギャアと泣いたとたん息をし始めます。それは肉の命の始まりですが、霊の命はいつ始まったのでしょう?バプテスマを受けた時か、イエスを個人的に知った時か、真剣に自分の罪を悔い改め、聖霊による新生を祈りの内に請い求めた時か、いつ霊の命が始まったのでしょうか。それは私には分かりません。前章で述べた通りです。
しかし、ここでイエスは新たに改めて、聖霊を受けるように私達にも言われているのです。ただここにいた、弟子達を対象にしただけではなく、私達をも聖霊を受けるように招待されていると考えます。
聖霊のバプテスマを受ける時、何が起こって来るのか、たぶん、力が与えられ、宣教が躍進し、聖霊の賜物も非常に活発的な働きをし始めるのではないかと推測します。私はもしそのようなことが起きるならば、自分が生きているうちに、そのような光景を是非見てみたいものだと思い、種々の霊の賜物を求め、イエスの御名によって期待を込めて日々祈っています。聖霊が降るとき、多くの人々が世が終わる前にイエスを信じ受け入れるように、私達に伝道の力が与えられ、イエスを大胆に証しすることができるようになるはずです。
『あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。』 (使徒行伝4:29~31)
『だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 』(ヨハネ20:23)
「人間に罪を赦す権威が与えられるでしょうか?」と言う問題がここにあります。如何に、弟子達の上に聖霊が降って来たとしても、果たしてここで言われているように『だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。』そんなことがあって良いのでしょうか。
カトリック教会が主張するように、ペテロが初代ローマ法王で、罪を赦す権威をイエスから委任され、各時代のローマ法王に継承され、ひいては神父達にもその権威が委任されているのでしょうか。
ここで、まずルターが唱えた、信仰のみ、聖書のみ、万民祭司と言うプロテスタントの三大原則を確認してみよう。
①私達の救いは信仰のみによるのであって、決して善行によるのではない。
②私達の信仰の規範は聖書のみによるのであって、様々な言い伝えや、教会がこしらえた教義、伝承は信仰の基準とはならない。
③私達の心が直接個人ゝとして、神に向かい合い、救いの確信を得るのであって、イエス以外の人間の祭司によるとりなしは必要ない。
特に三点目の万民祭司の教えは、
『神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。』 (テモテ第一2:5)
とあるように、イエスの仲保以外に人間と神の間に立って執り成す権限は人には(たとえそれが神父や牧師であっても)与えられていないことを明確にしている。
『この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。』(使徒行伝4:12口語訳)とあるとおりです。
たとえパウロやペテロがどんなに偉大な使徒であろうが、パウロの名によって救われるのでもなければ(コリント第一1:13参照)ペテロが戴いた天国のカギによって開けていただくのでもない(マタイ16:18~19参照)。
イエスが本質的に神と私達の間に立って執り成す仲保者であって、私達は、私達の上に立つ、汚れた人間の祭司はいらないのです。
『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。』(ペテロ第一2:9口語訳)私達一人ゝ、すべての人が【万民祭司】であって、キリストによって直接神に行き、救いを求め、救われる。告解室に入って人間である神父に罪の告白などする必要はない。イエスが直に聞いていて下さいます。
では何故 『だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 』(ヨハネ20:23)とイエスは11弟子に向かって言われたのか。
私の個人的な解釈であるが、私達も、御霊を受け第三者の為、知人、友人、妻、子供、肉親、求道者等の救いの為に祈ることがあります。その執り成しの祈りはイエスによって清められ、天の父なる神のもとに届くのではないか。ある意味その祈りは、個人の救いにおいて、神と協力して、救済の補助になっているのではないか。
救いは神の前に個人が一人ゝの存在として、責任を持ち、自己に与えられた自由意思によって選び取るのです。罪人を赦し、神との間の和解を執り成すものはイエス以外にいない。
そのことを十分踏まえつつ、私達は先に召された者として、人々の救いの為に、御霊を下さるよう、それらの方々の心が変えられ、悔い改め、イエスを受け入れ、新生していかれるように祈ることができます。この場合、ある意味祭司としての役割のようなことをしていると言えないだろうか。これが私のこのヨハネ20:23の御言葉の解釈です。
しかし、どんなにとりなしの祈りをしても、応えられるとは限らない。祈ってあげた相手、個人の選択の意志を曲げることはできない。選択の環境を整えることはできるが、個人の自由として、神を拒む自由は常に与えられている。どんなにとりなしの祈りをしても、総ての人が救われるわけではない。
自由意思と神の側の選びとは矛盾する考えではないと私は思っているが、神の側で選んでいただかなければ、私達は一人たりとも神のもとに行くことはできない。こちら側人間として選び取るよりも先に、神の側で、天地を造られる前から、私達を選んでおられるのです。
『神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。 神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。』 (ローマ8:29~30)
『天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。』(エペソ1:4)
疑い深いトマスについては、19章の解説の方で触れたので省略するが、『「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」』(ヨハネ20:29)と言われたイエスの言葉について少し考えて見よう。
私達はこの目でイエス・キリストを見たことはない。2,000年前に戻れるものは誰もいないのだから、現代ではイエス見たものは一人もいない。では何故イエスの歴史的存在と、その方をを神の子として信じているのか。それはイエスを見た弟子達が書いた記録である聖書を通してです。そこに書かれているイエスが教えた種々の言葉、行われた様々な事象から、そのことは事実であると信じて、信仰しているのです。
また、聖霊による感化が私達の心眼を開かせ、聖書を生ける神の御言葉、真理として受け入れることが出来た。聖霊によらなければ、如何に聖書の文字面を読んでも、イエスを救い主と受け入れる結果にはならなかっただろう。
さらに祈りの中で、不思議な、神の実在を感じたり、イエスの贖いが個人的な経験の中で啓示されたような、信仰体験と言うべきものをクリスチャンなら誰でも、幾つかは持っているだろう。個人的な体験は個人の信仰を神存在への確信へ導く大切なものであるが、それらの霊的体験は、信仰の基準になるような絶対的なものではない。あくまでも信仰の基準は聖書です。しかし、各自の霊的体験はイエスを信じるきっかけになっていることも事実です。
このように実際の肉眼ではイエスを見たことはないものの、御言葉を通し、霊的体験を通して、聖霊の臨在に触れています。この教えが、真の神の教えであることに心が導かれ、キリストを今実際に見ているように、行動し信仰しているのです。そして、キリストは日常生活の中で、目には見えないが、聖霊と言う形で私達に触れて下さっています。自分が霊的に覚醒して行くとき、感覚が研ぎ澄まされ、今、あらゆる瞬間を通して、顕在するキリストに触れることができるのです。
『見ないのに信じる人は、幸いである。』と言われているが、実際は様々なことを通して、心の中でイエスを見せていただいているのです。
『ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。』 (ピリピ3:16口語訳)
『各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。』 (ローマ14:5口語訳)
今日も祈りの中で、あるいは日常生活の中で、イエスを見て生きていると言う、このような個人的な証しを誰も否定することが出来ない。また、信仰の世界ではそれを否定してはいけない。それぞれ達し得た確信にとどまっているべきであるの意味であると思う(もちろん、独善的になってはいけないが)。
『だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。』(ヘブル10:35口語訳)
信仰とは、もともと主観的な世界なのです。信仰とは個人の心の中で起こっている、不思議な現象であり、信仰心のない人には全く分からないものなのです。私にとって、イエスは存在し、聖霊を通して、今イエスが私の心の中に住んでいると言う主観的な見方を、誰も否定することは出来ない。それこそが、永遠の命へと続いて行く、しっかりとした、揺らぎのない根拠なのです。
『このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。 』(ヨハネ20:30~31)
聖書を学問的に研究し、知識を増すのも悪いことではない。しかし聖書を読んでも、キリストを神の子、私達の救い主と信じ、約束された永遠の命を得なければ、何の為に聖書を学ぶか分からない。諺に「論語読みの論語知らず」とあるが、そのような者にならないようにしよう。
聖書を神の言葉と単純に受け入れ、イエスの贖いを信じる人の方が、自ら知識のあることを誇り、神よりも己を高くしている者より、神の前に尊い。