ヨハネによる福音書7章

   ヨハネによる福音書7章

 『ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」兄弟たちも、イエスを信じていなかったのです。そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。』(ヨハネ7:2~6)  

 7章のテーマの一つはイエスの時です。肉の世界に肉の価値観で物事を判断し、御霊の導きに頼らない人間にとって、この世は我が物であり、何をするのも、自己の考え通りすることが出来る。肉の世界に生きているので、やりたいことを一々神に問うたりする必要はない。いつ何をするにも、思い付きで始めれば良い。何でも自由に始められるし、神に相談する必要はない。肉の世は肉の人々の言うことを聞くのです。

 しかし霊の人の行動は、まず神に相談する事から始めなければならない。イエスは常に父なる神のお考えを優先する立場をとった。イエスは人間となり、肉の姿をとられたが、本質的に神であった。この地上においては、ただの人間としてお過ごしになった。人間としての立場を堅持なさり、自分からは何も行動せず、常に父なる神に相談し、神の時を待たれた。

 人間イエスと、神であるイエスが実際に個人の中でどのように混ざり合っていたのかは、これは神秘であって説明することは出来ない。人性と神性の神秘的な融合とでも表現するしかない。

 人間としてのイエスは、神の時を尊重した。イエスの兄弟たちはイエスを信じてもいないのに、イエスの宣教計画すら、口出がましく指示した。

  ユダヤの仮庵の祭りが近づいた。正月元旦はユダヤ歴では7月1日。それから10日後、7月10日にヨム・キプール大贖罪日がくる。次に迎えるのが一年の初め、7月15日~7月21日の7日間行われる仮庵の祭り(出エジプトをしてから、40年の間荒野を彷徨った先祖の苦労をしのび仮小屋に住む)です。秋の収穫を祝う意味もあります。仮庵の祭り翌日の7月22日には律法歓喜祭(シムハット・トーラー)が盛大に行われます。一年間にわたってトーラー(モーセの五書)を毎週少しずつ読んでいき、朗読し終えた喜びと感謝を表す。この日は、申命記の最後の部分と創世記の最初の部分を同時に読む。

 人々はトーラーの巻物の周りを、歓喜しながら踊り明かす。

 さて、そのユダヤ三大祭り(ぺサハ過ぎ越しの祭り、シャブオット7週の祭り、スコット仮庵の祭り)の一つである大事な仮庵の祭りに、イエスの兄弟たちは、エルサレムにイエスと共に行こうとしていたのです。ところがイエスは兄弟達と共に仮庵の祭りに行こうとはなさらなかった。

 神の時について

 神の時を待ちながら、ただ淡々と日々の日課をこなしていくのも、良いことだ。その時が来るまで、己の成長と、魂を神の言葉で養う日々を送りながら、それなりに日課をこなして行くのも意義のあることです。

 モーセは80歳になって、神の召命の言葉を燃える芝の間に聞くまで(出エジプト3:2~4参照)、羊飼いをしながらいったい何を考えていたのであろうか。モーセは若い時、自分の肉の力で、殺人まで犯して、イスラエル人々を救おうとしたが果たせなかった。ミディアンの地まで逃げ、チッポラと結婚し家庭を持ち、子供まで授かった。「私はこのまま羊飼いとして一生をを終わるのだろうか。もう自分は80歳の老人となった。」こんなふうにモーセは心の中で、独白していたのではないか、もちろんこれは私の想像です。

 日々の日課は私達の大望をも、いつしかしぼまさせてしまうほどの、重い年輪になって、私達をつぶしてしまうことになるのだろうか。日々過ぎ去る時は速く、諺にあるように、光陰矢の如く過ぎ去って行く。私も郵便局を退職してから8年がたとうとしている。このような著述活動は、在職中から始めていたので、もう足掛け約10年になる。  

 歳をとっても、その中で神の時を知り、神の宣教の業に参加させてもらえる方々もいます。私の価値観から言えば、羨ましい限りです。

 私と同じ年齢で、古き友人に、教派は異にすることとなったが、家族ごと、神の働きのために総ての時間を、インターネットを介した宣教活動に捧げているHY先生がいる。どんな立場であろうとイエスが宣べ伝えられているのだから、私はそれを応援する(ピリピ1:18参照)。

 しかし、今のこの私に、いったい何の神の業が出来ようか、ふと考えてしまう。ああ神の時を知り、その時に適って、神に献身し行動出来たら、それはどんなに幸せなことだろう。若い頃、そのような神の用意して下さった時があったのに、そのことに気が付かず、神と人の為に、自分の命と、それを構成する時間を削ることが出来なかった。やたら肉の努力で、表面的な律法の文字面に拘泥し、真の自己犠牲も愛もなかったし、利己的で他人を思いやらず、肉の世の歓楽を捨てきれない愚かな生活をしていたので、36歳頃であったが、ひいては自分の人生すら、危うくしてしまうほどの危機にみまわれた私であった。

 神の時を生かすことが出来なかった。私の牧師時代の宣教、牧会も含めて、失敗だらけ、悔いが残ることばかりであった。神の時を知らなかった私が、救霊に本来費やすべきだった過去の時を取り戻せるのではないかと思い、郵便局長定年後、自分の自由になった時間のうち、僅かではあるが、神にお返ししようと、本格的に聖書研究を始めた。

 私の郵便局長時代は、神に祈ることを忘れたわけではなかったが、ともすれば、この世の仕事に首まで、どっぷりつかり、肉の栄達まで望むようになり、局長会の理事をやったり、連絡会の部会長をやったり、心ならずも、虚飾と、宴楽と、嘘方便の世界に身を沈めてしまった。神に赦しを乞いながら、祈りながらではあるが、自分に与えられた、体力、能力を仕事のためにフルに働かせざるを得なかった。この世で、この世の肉の仕事、それもある程度の責任ある仕事を立派にやり遂げると言うことは、(自慢するわけではない)、全力で取り組まなければならない時もあった。生活の資を得るためには、大変な努力が必要なのです。

 この世が求める、仕事と言う名の怪物に立ち向かい、神の戒めにかなわないことをかなりの数でこなしながら、後で悔い改めるような悪循環に陥り、心を病むギリギリのところまで追い込まれたこともあった。そんな中でも、誠に神の恵みと憐みによって、しばしば、心の平安が保たれ、仕事上の大きな危機から救われる経験を何度もさせていただいた。

 愛の神は、そんな泥沼の霊的状態中でも私を見捨てずお支え下さった。この世的に見れば、成功した郵便局長時代と言えるかも知れないが、実際は霊的には低迷した状態が続き、かろうじて毎週土曜日に教会に出ることによって(休んだりすることも多かったが)、自分の信仰の維持ができたのだと思う。もちろん自分自身の信仰の闘いの裏では、その時は霊の眼がぼやけていて余りはっきり見えなかったけれども、神の愛の御手が、その時々にかなって働いていたのは間違いがない。

 約28年9ヶ月勤めてしまった局長時代に、それなりに楽しいことはあったが、信仰の標準から見れば、まことに危うい限りの生活を送っていたのです。今から考えれば、この世にあって、危うく永遠の命を、失うところだったのかも知れない。退職後、誠に自分勝手な、聖書の自己流解釈を始めて、約8年たった。でもそのことを少しでも誇るようなことは出来ない。聖書研究のほとんどの動機は、自分の霊性を保つためだったようにも思われる。しかし、自分が今していることが、少しでも宣教に役立たないかと思い、ホームページを立ち上げ、書き終わったものから少しづつ掲載している。

 この意味不明と思われる、戯言の如く聞こえるかも知れないこの文章を、厭きずに読んで神の存在を少しでも知り、心に訴えかける聖霊の声に耳を傾け、各自の神の時を知るようになって欲しい。こんな思いで聖書の自己流解説を書き続けています。  

 

 さてエルサレムでは、イエスがこの祭りに来るのであろうかとユダヤ人達が話し合っていた。『祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言っていた』(ヨハネ7:11)

 ユダヤ人達が、律法をうわべだけ、その文字面だけで解釈し、人をうわべだけで裁き、安息日遵守の律法、『七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをも(いかなる仕事も-新共同訳)してはならない。』(出エジプト20:10口語訳)の言葉を、病人を癒すことすらしてはいけないと理解していた。イエスは安息日に病人を癒す奇跡を行ったので神の律法をないがしろにしたので捕えて殺すべきだと考えた。イエスが人目を避けた理由は、このような人々の手にかからないように、この場面ではお忍びでエルサレムに上って行った。

 イエスは仮庵の祭りも半ばが過ぎ、3日目か4日目に、神殿内で教え始められた。イエスは、男子の新生児に、生まれてから8日目に割礼を施すよう定めたモーセの律法を守るために、安息日にも割礼を実施していることを指摘した(創世記17:12参照)。であるならば、安息日に病人の全身を癒したからと言って、何が律法違反なのか。

 ユダヤ人達は口では安息日を始めとする律法を守ると言いながら、イエスを殺そうとしていた。人に関する義務を定めた大事な戒め『殺してはならない。』(出エジプト20:13)と言う神の律法を犯していた。

 イエスは律法の真の意味を教えられた。律法を文字面で解釈せず、その真の意味を悟りなさいと教えたのです。特に山上の垂訓では、『殺すな 』(マタイ5:21)は『兄弟に腹を立て』(同5:22)てはいけないの意味です。

 『殺すな 』は積極的に『敵を愛』(同5:44)すことであり、『だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向け』ることです(同5:39)。

 さらに、他人の悪口を言い、馬鹿者、愚か者と罵る者は、地獄に投げ込まれるほどの罰を受けなければなりません(同5:22参照)。これらのことは、イエス独特のかなりな誇張表現が使われていることは、差し引いて受け取らなければならないでしょうが、律法の精神、真の解釈をイエスは展開されたのです。

 『「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」』(ルカ10:25~26)、と律法(トーラー・モーセの五書)の専門家に逆に質問すると、彼は正しい答えを以下のように返した。

 彼は、「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」(ルカ10:27)と言うと、イエスは『「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」』(同10:28)と言われた。

 神の言葉をどのように解釈するか。その人の救いを左右する重要な問題です。それは今も変わらない。神の言葉全体(律法はここでは直接的にはトーラー、すなわちモーセの五書を指すが、神の言葉全体と言っても良い)を、あなたがどのように解釈するか、どのように読むかが問われています。

 人々は、30歳位まで、大工をしていたイエスが、学問もしたことがないのに聖書の言葉を良く知っているのに驚き、この人はどこでこれらのことを学んできたのだろうと不思議に思った。しかし、『聖書はわたし(イエス)について証しをするもの』であり(ヨハネ5:39)、父なる神が聖霊を預言者等に与え、イエスについて聖書を書かせたのです。

 イエスが聖書の本当の著者であると言っても、父と子と聖霊は一体なのだから、間違いではない。イエス自身が、自分の教えについて解説している。『「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。』(ヨハネ7:16~18)

 『この方(父なる神)の御心を行おうとする者』はイエスの教えが神から出たものであることが分かるはずだ。イエスには『不義』がない。神の御心は何かを考えよう。不義は神の嫌うところで、決して御心ではない。神の御心、それは愛であり、赦しの精神であり、人と神のために自分の命と時間を削って行く生き方です。何度も書いて来たので、ここでは繰り返さないが、律法の精神は隣人愛であり、また、神を唯一誠の方として『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛』(ルカ10:27)することです。

 その愛は究極的には神と人の為に、自分の時間と、命までも削って行くような生き方です。もちろん、そのような生き方は、自己の生まれつきの肉の力にはない。ただ御霊の導きにより、イエスを信じ、悔い改め、新生され、キリストの義の内に自分を見出して行くことによってのみ可能なのです。

 

 さて、神殿内でイエスが大声で話されたことが二度にわたって書かれています。一度目は、自分が天の父からこの世に派遣された事、二度目は信じる者には聖霊が泉のように内側から流れ出す事を大声で話された。

 イエスはベツレヘムで生まれ、ガリラヤのナザレで育ち、肉的には兄弟もそこにいる。しかしイエスは血族の関係のみで人間となっていたのではない。自分は天から来たのだ。父から遣わされてこの世に来たのだと、大声で宣告された(それどころか、イエスは神そのものなのです、三位一体)。

 イエスは、46億年前の地球が造られる前(仮に科学の計算が正しいとして)から、138億年前の宇宙、2兆の銀河、万物が造られる前から、永遠の昔から、父なる神と共にいたのです。イエスは天から来た神の子です。神の子ですが、同時に神と等しいものです。父なる神がイエスを人間の世界にお遣しになった、そのことをイエスは大声で宣言なさった。 

 その時群衆は以下のように思った。

 もしかしたらこの人がメシアではないだろうか。たとえ、メシアが来てもこの人が行ったより多くの不思議な業や奇跡をするだろうか。神殿内で、堂々と、神の子の威厳を持って聖書を教えておられるのに、議員たちはこの人を捕えようとしない。もしかすると彼らはこの人がメシアであることを認めているのだろうか(ヨハネ7:25~31参照)。

 ファリサイ派の人達はイエスを捕えようと下役どもを遣わしていたが、イエスはやがて自分が十字架の使命を果たしたら、父なる神のもとに帰ることを既に見通しておられた。父のもとに帰るので、あなたがたは私についてくることが出来ないと言われた。

 これを彼らは人間的に解釈し、バビロンの捕囚以来離散している(ディアスポラ)ユダヤ人達のところに行き、ギリシャ人達に教を宣べ伝えに行くのだろうかと考えた。イエスが人類の贖いを成し遂げた後、父なる神のもとに帰ろうとしている意味だったことを悟ることが出来なかった(ヨハネ7:32~36参照)。

 また、ファリサイ派の人達は、聖書の中にメシアはベツレヘムから生まれることを知っていたが(ミカ書5:1参照)、 イエスはベツレヘムで誕生後、ヘロデ大王の迫害を逃れ、エジプトに下り、大王の死後、ガリラヤのナザレに住んだことから、イエスの出身地は、ガリラヤと思い込んでいた。このことも彼らがイエスをメシアとして認識できない 一因となっていた。

『よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」』(ヨハネ7:52 )

 さらに、イエスは仮庵祭の終わりの日に、二度目に大声で教えを宣べ伝えた、『「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内(その腹-口語訳)から生きた水が川となって流れ出るようになる。」』( ヨハネ7:37~38新共同訳)

 これは、渇いている者は値なく、ただで命の水を飲むように言われたイザヤ書の言葉の実現です。

 『「さあ、かわいている者はみな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。』(イザヤ55:1口語訳)。

 イエスを信じる者には、命を与える生きた水が泉となり、溢れるばかりに、その人の心の内から外に向かって、周りの人々にイエスの命を証しする為に流れ出す。これはイエスを信じる者に降る聖霊を表わしています。私もこのように、恵によって、私自身から聖霊が周りの人々に向かって、溢れるばかりに流れ出す経験をしたいものです。それにはまず、自分が変えられ、聖霊のバプテスマを受け、聖霊に満たされる経験をしなくてはなりません。

 イエスはまだ十字架についておられなかったし、まだ天の父なる神のもとに贖罪の業を終えて、凱旋帰国していなかったので、父なる神から出て、イエスを通して、注がれるはずの聖霊はまだ誰にも降っていませんでした。

 聖霊、それは単にイエスを信じ、心を新しく造り変えるだけではない。使徒行伝を見ると聖霊は時として激しく、大きな働きをすることが分かる。ヨハネ3章のニコデモがイエスを訪問した場面を思い起こして欲しい。この時聖霊は風に喩えられた。風は爽やかに静かに吹く時もあれば、激しく、大きな力を伴って吹く場合もある。

 聖霊が静かに吹く時がある。私達が静かに自分を振り返って反省し、隠れた罪が示され、救い主イエスのもとに、跪き、悔い改めの祈りをするとき、聖霊は静かにそこにおられる。新生し、愛の行いが出来るようになって、私達の品性が造り変えられる時、静かに聖霊はそこにおられる。キリストは『わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」』(マタイ28:20)と言われた。 確かにイエスは聖霊によって、私達と共にいて下さるし、信じる者の心の中に住んで下さっています。しかし、それだけが聖霊の働きではない。聖霊が大きな力を伴って吹く時がある。使徒行伝の最初の何章かを読むと、聖霊は激しく、ある時には超自然現象まで伴って、熱心に祈り求める当時の人々に臨んだのです。 

 『「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」』(使徒行伝1:4~5) 

 『あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」』(同1:8) 

 『このかた(イエス)は、聖霊ととによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。 』(ルカ3:16口語訳)

 私達のまだ知らない信仰の領域があることを謙虚に認める必要があります。その中のひとつが聖霊のバプテスマと言われる現象です。昔、使徒時代に人々が経験したような、脅威的、かつ圧倒的な、霊的現象を伴う、聖霊のバプテスマがあります。ペンテコステの日に天から力が授けられた聖霊降下と言われる特異な宗教現象です。弟子達一同が一つになって集まっていると、聖霊が形をとり、頭上に、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった(使徒行伝2:1~4参照)。 

 ただし、超常現象には常に危険が伴うことを私は、注意をしておきたい。聖書の御言葉が規定するような領域を越えての超常現象は、これは認められない。異教の降神術に伴うような心霊現象は悪霊のなせる業であって、このようなものに近づいてはならない。すべての経験は御言葉によって検証されるべきです。

 キリスト教の中のペンテコステ派等が主張する、異言を語ることが、聖霊のバプテスマを受けた証拠であると言う考え方に、私は否定的です。パウロは異言を語ることを承認しているが、異言は最も低い霊の賜物です。霊の賜物には色々なものがあり、癒しの賜物、預言、知恵の言葉、知識の言葉、信仰(コリント第一の手紙12:4~11参照)、援助する者、管理する者、奇跡を行う等、人間の本来持っている能力を含め、天来のカリスマ的なものや様々なものがあります。このような各種ある霊の賜物の中で、最下位の位置づけになっているのが異言の賜物です。『しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。』(コリント第一の手紙14:19)。

 霊現象がすべて神から出たことだと考える生き方には懐疑的です。宗教に伴う、何らかの不思議な現象は、そのすべてを否定することは出来ないとは思います。元々宗教一般には、カリスマ的な力が、指導者に働くことがあるのではないか? シャーマンと言われるような強烈な個性を持った宗教的指導者が、ある種のエクスタシーの中で、トランス人格的な、恍惚状態になって、不思議な現象を起こすとしたら、それは異教の影響であって、キリスト教とは言えないのではないか?この点は要注意です。

 もし教会の中に、何か不思議な霊現象が、これから後、世の終わりが近づくにつれて起きて来るとすれば、神の業である宣教のためであると考えます。『あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」』(使徒行伝1:8)そのような霊現象が起きたから救われる、救われないと言うように考えてはならないだろう。賜物は他人や教会を助け、益するために与えられるものであって、救いのためではないことを肝に銘じるべきだ。賜物が降下した者の魂の救いのために与えられるとしたら、大変な間違いだ。賜物がない者は救われないことになってしまう。そうではなくて、賜物は教会や他の信者に対する奉仕のために与えられるものです。


 私は、静かに御霊に満たされて、親切と穏やかな笑顔に満たされた、キリストのような香りを漂わせた人になりたいと常に思っているが、カリスマ性を備えた信仰の勇者になりたいなどとは、露ほども思っていないし、なれるはずもない。そんな信仰の偉大な巨人には、もっと体力もタラントも豊富な、良い意味で大志を抱いた方々がなれば良い。少なくとも、私はそのような教祖的な人間にはなれないし、なりたいとも思わない。

 他人の気持ちや、思想まで支配的な影響を及ぼすような人間にはなりたくない。しかし、聖霊のバプテスマと言われているような、激しい霊的経験を私は、生涯一度で良いからして見たいとは思っています。当時の使徒達が経験したような体験を出来たらしたいのです。

 そんな経験をしなくても、イエスの贖いによって救われ、聖霊によって新生され、キリストの静かな霊に満たされた生き方があり、周囲の人々に、キリストの香りを漂よわせるような生き方が私にはふさわしい。

 一方、繰り返しになりますが、使徒行伝に書かれてれているような、激しい聖霊降下に伴う霊現象を生きているうちに、主が許されるならば、経験して見たいと言う思いは私の心の中に常にあります。しかし、あまりにも、そのようなことを求め過ぎると、信仰がやたら変な方向に向かってしまう可能性もあります。要は神学的にも、人間的な常識の中にあっても、円熟したクリスチャンとして、バランスの取れた考え方をして行かなければならない。私は信仰の世界に入って、約53年、もはや幼子でもなく、子供でもなく、霊的には大人になったのだから、大人の考え方をして行こう。

 ただ考慮しなければならないのは、今の時代がどんな時代なのか。そこには冷静な判断力が求められます。世の終わりと、新天新地の出現、イエスが天から超自然的に再臨なさる直前、この世が終わる前に、非常に激しく、後の雨と言われるような、霊的リバイバルが起きるはずです。あちこちで昔の使徒時代のような、奇跡が行われ、神の御言葉を信じ、聖書の原則に忠実な残りの民に、信仰の復興が起きてくることが期待されます。ただ悪の勢力もまた同じように活発になり、しるしと不思議を行い、人の前で、火を降らせることすらします(黙示録13:13参照)。できれば選民をも惑わそうと画策するはずです。奇跡、病いの癒し、様々な起きうるだろう不思議な現象だけでは、それが神から出たものか、悪の勢力から出たものかは分からない。現代のこの時代、両陣営において、華々しい活発な信仰の出来事が起きてくるのです。これからは、世界の宗教界の出来事を注視しつつ、何が真理であるか、そうでないかを、不思議な事象によらず、聖書の御言葉に基づき、個人ゝが判断して行かなければならないだろう。

 新型コロナウィルスが、世界を席巻してきた。下火になったかと思えば、またオミクロンの派生型が次々と発生し、油断できない。これも終わりの時の兆候の一つか。昔、スペイン風邪で、多くの人が死んだと言われているが、コロナも同じように人類を痛めつけた。今の傾向から推測すれば、コロナの派生型が繰り返し起きる中で弱毒化し、普通の風邪の菌のようになって、終息するのだろう。世界は再び、成長と安定に向かって行くのだろうか?それとも、もっと深刻な大災害が襲って来るのだろうか?

 聖書の預言によれば、未だかつてなかったような、自然界の大変動、大災害が世界に起きて、それが世の終わりの兆であり、それから、イエス・キリストの再臨があり、先に信じて眠りに就いた者に、永遠の命への復活があり、生きてイエスを迎える人々は、イエス来臨の輝きにより、一瞬の内に、不死の栄光の身体が与えられ、新天新地の中で、もはや死もなく悲しみもなく、永遠に、神とイエスと共に生きることが実現して行くはずです。

 私達の希望、イエスの再臨が近づいているのです。誰かがイエスの生まれ変わりだと言って、この世界に来るのではなく、世の終わりと、新天新地の出現、諸王の王、主の主としてイエスが天から超自然的に再臨なさることを待ち望んでいます。これは、作り話や、世迷い事ではなくて、聖書のすべての言葉を、嘘偽りのない神の言葉として信じている者なら、誰しも待ち望んでいることなのです。 

 

 ヨハネ7章に戻ろう。イエスは神の子としての権威を持って話したので、イエスを捕縛するために遣わされた下役どもは、イエスを捕えずにファリサイ派の人々のところに、手ぶらで帰って来た。ファリサイ派の人達は、あなた方も騙されているのかと、手下どもを叱責した。律法学者たちやファリサイ派の人達が、イエスがメシヤでないとした根拠は、やはり律法(聖書)であった。メシアは、ガリラヤのナザレからは出ない、ベツレヘムから出ると彼らは預言から学んでいた。

 ヨハネ3章に出て来た、ニコデモがこの7章の最後に登場してくる。彼はイエスによる教えを密かに夜聞きに来て、心の中ではイエスの弟子になっていたと思われる。律法には相手の言い分を聞いてから何事も判断しなければならないと教えられていると、ファリサイ派の人達のお得意とする律法を用い、イエスの弁護をした。ニコデモは直接イエスから救いと、霊の生まれ変わりについて話を聞いていたので、イエスがメシヤであることを既に信じるようになっていたに違いない。結局イエスを信じたサンヒドリン議会の議員は、この時点では、ニコデモと、イエスの葬りの際、登場するアリマタヤのヨセフの二人だけであった(ヨハネ19:38~39参照)。

 この世の富と、権力、高い地位を持っている人間が、イエスを受け入れ信じることは、相当謙虚にならなければ、難しいことです。あの有名なイエスから離れ去って行った、富める青年は、やはり議員の一人でした(ルカ18:24参照)。

 無代価で提供される福音、誰でも、どんな人間であっても、ただ信じるだけで、その罪が赦され、贖われ、神の前に義とされる。この招待に、不信心な者を義とされる信仰(ローマ4:5~8参照)を持って、神の前に、罪を犯したことのない者としてみなされ、義とされ、立たせていただける者は誰か。

 私の約53年の信仰生活を振り返ると、多くの有望な若い兄弟達が、救いに招待され、一時は神の民に加えられ、救いの喜びを共にした時期もあった。しかし、世の快楽や、生活や仕事の思い煩い、この世の人々との肉のお付き合い等々の為に、いつの間にか、イエスと教会から離れて行った方々が多かった。寂しい限りです。何が彼らをイエスから遠ざけたのであろう。個人ゝの事情は様々であり、一概に一つの理由で決めつける訳にはいかないだろう。ある者は、教会に来ている欠点の多い人達を見て失望し、ある者は飲酒や、ギャンブル、現行罪としての律法違反等、自分の行いに躓き、ある者は教会の教理に疑問を抱いたのかも知れない。でも過去どんなことがあろうと、ただただイエスによりすがり、イエスに再び帰り、イエスによって救って下さいと、神を求める方向に心を翻して歩もうではないか。

 『そこでイエスは人々にむかって言われた、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。』(ルカ13:24)

『彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。』(エゼキエル33:11)  

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