2022/1/22(土)SDA八王子教会礼拝説教原稿

  今朝の礼拝説教にあたって、まずヨハネによる福音書7:2~6をお読みします。

 『ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。』(ヨハネ7:2~6)  

 7章のテーマの一つはイエスの時である。

 肉の世界に肉の価値観で物事を判断し、御霊の導きに頼らない人間にとって、この世は我が物であり、何をするのも、自己の考え通り出来る。肉の世界に生きているので、やりたいことを一々神に問うたりする必要はない。いつ何をするにも、思い付きで始めれば良い。何でも自由に始められるし、神に相談する必要はない。この世はこの世の人々の言うことを聞くのである。

 しかし、キリストを信じる者は、そのようであってはならないのではないか。

 霊の導きを求める人の人の行動は、祈りの内にまず神に相談する事から始めなければならない。イエスは常に父なる神のお考えを優先する立場をとった。

 イエスは人間となり、肉の姿をとられた神でったが、この地上においては、ただの人間としてお過ごしになった。人間イエスと、神であるイエスが実際に個人の中でどのように混ざり合っていたのかは、これは神秘であって説明することは出来ない。人性と神性の神秘的な融合と表現するしかない。

 人間としてのイエスは、神の時を尊重した。イエスの兄弟たちはイエスを信じてもいないのに、イエスの宣教計画すら、口出がましく、指示した。しかし、イエスは兄弟達にこう言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。』(ヨハネ7:6)  

 さて、この時、ユダヤの仮庵の祭りが近づいていた。仮庵の祭りとはどんなお祭りで、何を記念し、どんな過ごし方をするのであろうか。少し横道に逸れるかもしれないが、考えて見よう

 正月元旦はユダヤ歴では7月1日。

7月1日にラッパを吹き鳴らす祭りが始まります(レビ記23:24~25引用)。それから10日間の悔い改めの期間中、ユダヤ人は自己反省を行い、悔い改め、大贖罪日に備えます。ヨム・キプールと呼ばれる大贖罪日は、聖書暦第7月(ティシュリの月)の10日目に当たります。7月10日この最も聖なる日に、人々は24時間の断食を行い、悔い改め、たまりにたまった一年間の罪を清めて下さいと主に祈るのです。また、この日は一年に一回の聖所の清めの日であるのです。

 その時期は今の暦にあてはめると10月頃になります。つまり秋がユダヤ歴の正月であった。

 さらに、大贖罪日から5日後一年の初め、7月15日~7月21日の7日間仮庵の祭りが行われた。

 その意味は、昔イスラエル民族が、出エジプトをしてから、40年の間荒野を彷徨い、テント生活をした先祖の苦労をしのび、仮小屋に住むお祭りである。

 今でもイスラエルではこの時期になると、家の前に掘っ立て小屋のようなものを建て、お祭りの期間をそこで過ごす。時期が収穫の時でもあるので、秋の収穫を祝う意味もある。 

 仮庵の祭りが終わると、翌日の7月22日には律法歓喜祭(シムハット・トーラー)が盛大に行われる。一年間にわたってトーラー(モーセの五書)を毎週少しずつ読んでいき、朗読し終えた喜びと感謝を表す。この日、7月22日に申命記の最後の部分と創世記の最初の部分を同時に読む。また一年間律法の書を読んで行くのである。

 その日、人々はトーラーの巻物の周りを歓喜しながら一晩中踊り明かす。

 さて、そのユダヤ三大祭りについて少し説明する。ユダヤ三大祭とは

・ぺサハ過ぎ越しの祭り

・シャブオット7週の祭りーモーセが出エジプト後49日目にシナ 

 イ山で神から十戒を授かったことを記念《キリスト教ではペンテ 

 コステになる》

・スコット仮庵の祭り

神はイスラエルに、男子は年に三度、「主なる神の御前に出るようにお命じになりました。これは巡礼を伴う三大祭でした。今期の教課73ページ、77ページ(御国で祝う意味あり)参照

 その大事な仮庵の祭りに、イエスの兄弟たちは、イエスと共に行こうとしていたのである。ところがイエスは兄弟達と共に仮庵の祭りに行こうとはなさらなかった。

 兄弟達はイエスがガリラヤあたりを巡っておられるので、信じていたわけではないが、イエスが預言者的働きをするならば、仮庵の祭りを利用して、堂々と自分の立場を明らかにして、エルサレムで公に宣教するようにイエスに働きかけた。

 しかしイエスは『「わたしの時はまだ来ていない。』(ヨハネ7:6)と言って、兄弟たちの提案を退けられた。

 イエスは神の計画のうちに、やがては捕えられ、十字架につけられ殺されてしまうのであったが、まだその時ではなかった。『人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。』 (ヨハネ7:30)

 しかし、イエスの時、それは自らを贖罪の犠牲として、自らを犠牲の小羊として、人類の身代わりに捧げること、これこそ『イエスの時』(ヨハネ7:30)であった

 やがて十字架にかからなければならない神の時はやって来る、いつが神の時であるか、それは、この時点ではイエスにしか分からないことであった。

 最初、仮庵の祭りに行かないと言っていたイエスではあったが、しかし、イエスにとっての、この時点での神の時が来た。兄弟達が先に仮庵の祭りに出発した後、『人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。』(ヨハネ7:10)。

 何故イエスはこのように、身を隠すようにして、言わばお忍びでエルサレムに出かけられたのか。それはユダヤ人達がこの頃から既にイエスの命を狙っていたからだと考えられる。ユダヤ人達は、機会があれば、すぐにでもイエスを捕えて殺害しようと、狙っていたのである。

 さて、私達も神の時を知るべきではないか?自分の人生の設計図において、神の時を知ることは果たしてできるのだろうか?どうしたら、神の時を知ることが出来るだろう。明日我が身がどうなっているか分からないのに。

 『もし、死者が復活しないとしたら「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。思い違いをしてはいけない。「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」のです。』(コリント第一の手紙15:32~33)

 明日どうなるか分からないのだから飲み食いしよう。太く短く、肉の楽しみを思いっきり楽しんで、後は野となれ山となれ、どうせ明日生きているか分からないのだから、刹那的に生きてやれ。この世の命を生きれば、人生はそれで終わり。死んだ後の復活や、永遠の命など信じていない人は、せめて今生きているうちを、楽しく暮らそうと考える。これはこの世の人の生き方である。

 私達主を信じている者も、明日の自分がどうなっているか分からないことに変わりはない。明日交通事故で死んでいるかもしれない。神を信じていても信じていなくても誰にでも起こり得ることである。しかし、私達は明日はどうなるか分からないのだから、好きなだけ飲み、食いし、太く短く生きようとは思わない。

 自分の小ささ、塵灰に過ぎない卑小さを感じながら、それでも御霊を送って下さって、この世において、少しでも、神と人の為に生きることを神がお許しになるならば、真面目に生きて行こうと考える。

 『よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。』(ヤコブ4:13~15)

 私達は、今日これをしよう、あれもしようと計画を立てる時、主がお許しになるならば実行しようと考えるべきです。つまり、永遠の神の存在と、その神が自分の人生の時間に介入して来られるよう、神の手が関与する、待ちの時間を作るべきなのです。神のみ心が何なのか、考える、待つ時間が必要なのです。

 肉の考え肉の欲から出た思い付きを、神に相談もせず、パット実行してはならないのです。思い付きで行動していると、後になってやったことが、「時間と労力の無駄だったなあ」と思うようなことが多いのです。

 将来を見通すことが出来ない、有限な人間にとって、神の時を知る、自分の人生の中に神の計画を入れ込むことは、そうたやすいことではない。神の時はいつか、私達には中々分からない。

 ただ時の持つ性質上、忍耐して待つことが求められる。神の時を知るには待たなければならない。自分にとっての神の時は何か、教えて下さるように謙虚に祈り求めなければならない。

 自分の持っている生まれつきの肉の能力と判断力を駆使して、私達はすぐ痺れを切らして、先に行動に移してしまいがちだ。神の時を忍耐して待つことが出来ず、つい、前のめりになって、神の時ではないかと自分では勝手に思いながら、物事を実行して行くと、結構無駄な努力に終わり、後から振り返ると、今までの努力はいったい何だったのかなと言う結果に終わりかねない。

 神の時を待ちながら、ただ淡々と日々の日課をこなしていくのも、良いことだ。その時が来るまで、己の成長と、魂を神の言葉で養う日々を送りながら、それなりに日課をこなして行くのも意義のあることではある。

 モーセは80歳になって、神の召命の言葉を燃える芝の間に聞いた。この時がモーセにとって、神の時であった(出エジプト3:2~4参照)。モーセはエジプトの王となるはずだったのに、ミディアン地に逃れて、約40年、羊飼いをしながら、いったい何を考えていたのであろうか。

 「自分は若い時、自分の肉の力で、殺人までして、奴隷となってエジプト人に苦しめられているイスラエルの人達を救おうとしたが果たせなかった。ミディアンの地まで逃げ、チッポラと結婚し家庭を持ち、子供まで授かった。自分はこのまま羊飼いとして一生をを終わるのだろうか。もう自分は80歳の老人となった。」こんなふうにモーセは心の中で、独白していたのではないか、もちろんこれは私の想像である。

 日々の日課は私達の大望をも、いつしかしぼみさせてしまうほどの、重い年輪になって、私達をつぶしてしまうことになるのだろうか。日々過ぎ去る時は速く、諺にあるように、光陰矢の如く過ぎて行く。  

 歳をとっても、その中で神の時を知り、神の宣教の業に参加させてもらえる方々もいる。私の価値観から言えば、羨ましい限りである。

 私と同じ齢で、古き友人に、教派は異にすることとなったが、家族ごと、神の働きのために総てを時間を、インターネットを介した宣教活動に捧げているY先生がいる。どんな立場であろうとイエスが宣べ伝えられているのだから、私はそれを応援する。(ピリピ1:18参照)

 しかし、今のこの私に、いったい何の神の業が出来ようか。ふと考えてしまう。ああ神の時を知り、その時に適って、神に献身し行動出来たら、それはどんなに幸せなことだろう。

 私の若い頃、そのような神の用意して下さった時があったのに、そのことに気が付かず、神と人の為に、自分の命と、それを構成する時間を削り、自己犠牲の愛を実行することもできず、やたら肉の努力で、表面的な律法の文字面に拘泥し、36歳頃であったが、ひいては自分の人生すら、危うくしてしまうほどの危機に見舞われた私である。(ホームページアドレスhttps://ktanaka33014.wixsite.com/website リンク有 上記アドレスをWクリック 右上のブログをクリック 下にスクロール ②B信仰の軌跡 神の深い臨在を感じる時を読んで下さい。)

 神の時を生かすことが出来なかった。私の若い頃の生き方、悔いが残ることばかりであった。神の時を知らなかった私が、神の時を有効に使うことは出来なかったのである。

 しかし、今、どれほど自分の人生の時間を無駄に過ごしてきたかを、深く反省している。結局、郵便局長をやっていた、随分と長い期間、正確に言えば28年と9か月の間、世の中に仕え、時を浪費してしまったのだった。

 もちろん、私が37歳~65歳まで勤めていた、その間の、日々の仕事の繰り返しがすべて無駄であったと言われると、私の立つ瀬がない。

 その中で、真面目に働き、苦労してきた結果、今の生活がある訳だ。それは否定することは出来ないことだ。

 親しかった、もう既に故人となられたある牧師の紹介で、今の家内と再婚し、子供たちを育て、二人とも大学まで出すことが出来たのも、総て神様の愛と導きと見守りがあったからこそである。

 しかし、振り返れば、実にこの世にどっぷりとつかってしまった、長い局長時代を反省することが多い。

 今になって、何か少しでも、過ぎ去った、救霊に本来費やすべきだった過去の時を取り戻せるのではないかと思い、郵便局長定年後、自分の自由になった時間のうち、僅かではあるが、神にお返ししようと、聖書研究を始めた。

 私の郵便局長時代は、神に祈ることを忘れたわけではなかったが、ともすれば、この世の仕事に忙殺され、止せば良いのに、肉のこの世の栄達まで望むようになったこともある。局長会の理事をやったり、連絡会の部会長をやったり、心ならずも、虚飾と、宴楽と、嘘方便の世界に自分の力を使ってしまった。自分だけではない、役職をやることで、家内にも何かと、局長会の仕事を手伝わせたり、大きな迷惑をかけた。

 局長時代に、それなりに楽しいことはあったが、信仰の標準から見れば、まことに危うい限りの生活であった。

 しかし、言い訳になってしまうが、この世で、世の中の人達と競争しながら生きて行くと言うのは大変なことなのである。ある程度の責任ある地位に着き、世の中の価値観の中で、立派に職責を果たしていくことは、ある時は、自分の持っている能力の、全身全霊をを傾け、努力し、無我夢中でやらなければならないこともある。「イエス様こんな私をお赦しください」と心の中で祈りながらも、体力の限界まで頑張ってやるしかない時もあるのです。

 皆さんも、それぞれこの世の中で、生きて行くために、様々な苦労をしてこられたことでしょう。世の中で生きて行くのはどんなに大変なことであるか、分かっていただけると思う。

 退職後、誠に自分勝手な、聖書の自己流解釈を始めて、6年近くたった。

 自分が今していることが、少しでも同心の方々の聖書解釈、信仰の理解に役立たないかと思い、ホームページを立ち上げ、書き終わったものから少しづつ掲載して、やっと昨年、ヨハネによる福音書の自己流解説が書き終わった。

 学べば学ぶほど、自分は何も聖書のことを知らないで来た、聖書にはこんな意味があったのかと、誠に、浅学無知であることが示され、恥ずかしい限りです。

 是非ローマ書、ヨハネによる福音書、ヘブル書等の私の解釈が掲載されていますので、ホームページを読んでみて下さい。

 繰り返しになるが、教理については教わっても、肝心の信仰をどのように持って行くべきかは、体系的なことは中々誰も教えてくれないのである。私の書いて来た聖書解釈が、皆さんの信仰の理解に役立ったら、こんな幸せはありません。

https://paurosyokann.webnode.jp
入り方:上記アドレスをWクリック、右上端 ≡印メニューをクリック、下にスクロールすると一番下に掲載

 さてエルサレムでは、イエスがこの祭りに来るのであろうかとユダヤ人達が話し合っていた。『祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言っていた』(ヨハネ7:11)

 ユダヤ人達が、律法をうわべだけ、その文字面だけで解釈し、人をうわべだけで裁き、安息日遵守の律法、『七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをも(いかなる仕事も-新共同訳)してはならない。』(出エジプト20:10口語訳)の言葉を、病人を癒すことすらしてはいけないと理解していた。

 ファリサイ人や律法学者たちは、イエスは安息日に病人を癒す奇跡を行ったので神の律法をないがしろにしたので捕えて殺すべきだと考えた。イエスが人目を避けた理由は、このような人々の手にかからないように、この場面ではお忍びでエルサレムに上って行ったのである。

 イエスは7日間行われる仮庵の祭りも半ばが過ぎ、3日目か4日目に、神殿内で教え始められた。

 イエスは、男子の新生児に、生まれてから8日目に割礼を施すよう定めたモーセの律法を守るために、安息日にも割礼を実施していることを指摘した。(創世記17:12参照)

 であるならば、安息日に病人の全身を癒したからと言って、何が律法違反なのか。

 彼らは口では安息日を始めとする律法を守ると言いながら、イエスを殺そうとしていた。人に関する義務を定めた大事な戒め『殺してはならない。』(出エジプト20:13)と言う神の律法を犯していた。

 イエスは律法の真の意味を教えられた。律法を文字面で解釈せず、その真の意味を悟りなさいと教えたのである。特に山上の垂訓では、『殺すな。 』(マタイ5:21)は『兄弟に腹を立てる者』(同5:22)であり、『敵を愛』(同5:44)すことであり、『だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向け』ることである(同5:39)。他人の悪口を言い、馬鹿者、愚か者と罵る者は、地獄に投げ込まれるほどの罰を受ける(同5:22参照)。イエス独特のかなりな誇張表現が使われていることは、差し引いて受け取らなければばならないが、律法の精神、真の解釈をイエスは展開されたのである。

 『「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」』(ルカ10:25~26)、と律法(トーラー・モーセの五書)の専門家に逆に質問すると、彼は正しい答えを以下のように返した。

 彼は、「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」(ルカ10:27)と言うと、イエスは『「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」』(同10:28)と言われた。

 神の言葉をどのように解釈するか。その人の救いを左右する重要な問題である。それは今も変わらない。あなたは神の御言葉全体(律法はここでは直接的にはトーラー、すなわちモーセの五書を指すが、神の言葉全体と言っても良い。)を、あなたがどのように解釈するか。どのように読むかが問われている。

 人々は、30歳位まで、大工をしていたイエスが、学問もしたことがないのに聖書の言葉を良く知っているのに驚き、この人はどこでこれらのことを学んできたのだろうと不思議に思った。しかし、『聖書はわたし(イエス)について証しをするもの』であり(ヨハネ5:39)、父なる神が聖霊を預言者等に与え、イエスについて聖書を書かせたのである。

 イエスが聖書の本当の著者であると言っても、父と子と聖霊は一体なのだから、間違いではない。

 イエス自身が、自分の教えについて解説している。

  『 「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。』(ヨハネ7:16~18)

 『この方(父なる神)の御心を行おうとする者』はイエスの教えが神から出たものであることが分かるはずだ。イエスには『不義』がない。神の御心は何かを考えよ、それは愛であり、赦しの精神であり、人と神のために自分の命と時間を削って行く生き方である。何度も書いて来たので、ここでは繰り返さないが、律法の精神は隣人愛であり、また、神を唯一誠の方として『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛』(ルカ10:27)することである。

 その愛は究極的には神と人の為に、自分の時間と、命までも削って行くような生き方である。もちろん、そのような生き方は、自己の生まれつきの肉の力にはない。ただ御霊の導きにより、イエスを信じ、悔い改め、新生され、キリストの義の内に自分を見出して行くことによってのみ可能である。

 神殿内でイエスが大声で話されたことが二度にわたって書かれている。一度目は、イエスが天の父からこの世に派遣された事(7:29参照)、二度目は、渇いている人は誰でもイエスのもとに来て飲め、信じる者には聖霊が泉のように内側から流れ出す事(7:37~38参照)を大声で話された。

 イエスはベツレヘムで生まれ、ガリラヤのナザレで育ち、肉的には兄弟もそこにいる。しかしイエスは血族の関係のみで人間となっていたのではない。自分は天から来たのだ。父から遣わされてこの世に来たのだと、宣告された。

 イエスは、地球が造られる前、万物が造られる前から、永遠の昔から、父なる神と共にいたのだ。自分は天から来たのであって神の子である。神の子ではあるが神と等しいものである。父なる神があなた方のところに自分をお遣しになった、そのことを宣言なさった。 

 その時群衆は思った。もしかしたらこの人がメシアではないだろうか。たとえ、メシアが来てもこの人が行ったより多くの不思議な業や奇跡をするだろうか。神殿内で、堂々と、神の子の威厳を持って聖書を教えておられるのに、議員たちはこの人を捕えようとしない。もしかすると彼らはこの人がメシアであることを認めているのだろうか。(ヨハネ7:25~31参照)

 ファリサイ人や律法学者達はイエスを捕えようと下役どもを遣わしていたが、イエスはやがて自分が十字架の使命を果たしたら、父なる神のもとに帰ることを既に見通しておられた。父のもとに帰るので、あなたがたは私についてくることが出来ないと言われた。

 これを彼らは人間的に解釈し、バビロンの捕囚以来離散している(ディアスポラ)ユダヤ人達のところに行き、ギリシャ人達に教を宣べ伝えに行くのだろうかと考えた。イエスが人類の贖いを成し遂げた後、父なる神のもとに帰ろうとしている意味だったことを悟ることが出来なかった(ヨハネ7:32~36参照)。

 また、ファリサイ派の人達は、聖書の中にメシアはベツレヘムから生まれることを知っていたが(ミカ書5:1参照)、 イエスはベツレヘムで誕生後、ヘロデ大王の迫害を逃れ、エジプトに下り、大王の死後、ガリラヤのナザレに住んだことから、イエスの出身地は、ガリラヤと思い込んでいた。このことも彼らの目から隠されていたのである。

『よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」』(ヨハネ7:52 )

 さらに、イエスは仮庵の祭りの終わりの日(721日)に、二度目に大声で教えを宣べ伝えた、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内(その腹-口語訳)から生きた水が川となって流れ出るようになる。」』( ヨハネ7:37~38新共同訳)

 これは、渇いている者は値なく、ただで命の水を飲むように言われたイザヤ書の言葉の実現である。

 『 「さあ、かわいている者はみな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。』(イザヤ55:1口語訳)。これは福音そのものの言葉である、恵みの言葉である。ただで、無代価で、イエスの十字架の血潮を、己の罪の身代わりの犠牲として信じるだけで、赦され、愛され、天国へ入れていただけるのである。

 さらに、イエスを信じる者には、命を与える生きた水が泉となり、溢れるばかりに、その人の心の内から外に向かって、周りの人々にイエスの命を証しする為に流れ出す。これはイエスを信じる者に降る聖霊を表わしていた。

 イエスはまだ十字架についておられなかったし、まだ天の父なる神のもとに贖罪の業を終えて、凱旋帰国していなかったので、父なる神から出て、イエスを通して、注がれるはずの著しい聖霊降下は、まだ誰にも起きてはいなかった。 聖霊、それは単にイエスを信じ、心を新しく造り変えるだけではない。使徒行伝を見ると聖霊は時として激しく、大きな働きをすることが分かる。ヨハネ3章のニコデモがイエスを訪問した場面を思い起こして欲しい。この時聖霊は風に例えられた。風は爽やかに静かに吹く時もあれば、激しく、大きな力を伴って吹く場合もある。

 私達が静かに自分を振り返って反省し、隠れた罪が示され、救い主イエスのもとに、跪き、悔い改めの祈りをするとき、聖霊は静かにそこにおられる。新生し、愛の行いが出来るようになって、私達の品性が造り変えられる時、静かに聖霊はそこにおられる。キリストは『わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」』(マタイ28:20)と言われた。 確かにイエスは聖霊によって、私達と共にいて下さるし、信じる者の心の中に住んで下さっている。

 しかし、それだけが聖霊の働きではない。使徒行伝の最初の何章かを読むと、聖霊は激しく、ある時には超自然現象まで伴って、熱心に祈り求める当時の人々に臨んだ。

 『「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」』(使徒行伝1:4~5)

 『あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」』(同1:8)

 『このかた(イエス)は、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。 』(ルカ3:16口語訳)

 私達のまだ知らない信仰の領域があることを謙虚に認める必要がある。この一つの中に聖霊のバプテスマと言われる、一つの現象がある。

 昔、使徒時代に人々が経験したような、脅威的、かつ圧倒的な、霊的現象を伴う、聖霊のバプテスマがある。ペンテコステの日に天から力が授けられた。弟子達一同が一つになって集まっていると、聖霊が形をとり、頭上に、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。(使徒行伝2:1~4参照)

 ただし、超常現象には常に危険性が伴うことを私は、注意をしておきたい。聖書の御言葉が規定するような領域を越えての超常現象は、これは認められない。すべての経験は御言葉によって検証されるべきである。ペンテコステ派等が主張する、異言を語ることが、聖霊のバプテスマを受けた証拠であると言う考え方には、私は否定的である。パウロは異言を語ることを承認しているが、異言は最も低い霊の賜物である。

 霊の賜物には色々なものがある。癒しの賜物、預言、知恵の言葉、知識の言葉、信仰(コリント第一の手紙12:4~11)、援助する者、管理する者、奇跡を行う等。このように各種ある霊の賜物の中で、最下位の位置づけになっているのが異言の賜物である。

 『しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。』(コリント第一の手紙14:19)。

 霊現象がすべて神から出たことだと考える生き方には懐疑的である。宗教に伴う、何らかの不思議な現象は、そのすべてを否定することは出来ないとは思う。元々宗教一般には、カリスマ的な力が、指導者に働くことがあるのではないか?

 シャーマンと言われるような強烈な個性を持った宗教的指導者が、ある種のエクスタシーの中で、トランス人格的な、恍惚状態になって、不思議な現象を起こすとしたら、それは異教の影響であって、キリスト教とは言えないのではないか。この点は要注意だ。

 もし教会の中に、何か不思議な霊現象が、これから後、世の終わりが近づくにつれて、起きて来るとすれば、神の業である、宣教のためであると考える。

 『あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」』(使徒行伝1:8)

 そのような霊現象が起きたから救われる、救われないと言うように考えてはならないだろう。

 私は、静かに御霊に満たされて、親切と穏やかな笑顔に満たされ、た、キリストのような香りを漂わせた人になりたいと常に思っているが、カリスマ性を備えた、信仰の勇者になりたいなどとは、露ほども思っていないし、なれるはずもない。そんな信仰の偉大な巨人には、もっと体力もタラントも豊富な、良い意味で大志を抱いた方々がなれば良い。少なくとも、私はそのような教祖的な人間にはなれないし、なりたいとも思わない。他人の気持ちや、思想まで支配的な影響を及ぼすような人間にはなりたくないのだ。

 しかし、聖霊のバプテスマと言われているような、激しい霊的経験を私は、生涯一度で良いからして見たいとは思っている。当時の使徒達が経験したような体験を出来たらしたいものだ。

 そんな経験をしなくても、イエスの贖いによって救われ、聖霊によって新生され、キリストの静かな霊に満たされた生き方があり、周囲の人々に、キリストの香りを漂よわせるような生き方が最も大事なことだ。

 一方、繰り返しになるが、使徒行伝に書かれてれているような、激しい聖霊降下に伴う霊現象を生きているうちに、主が許されるならば、経験して見たいと言う思いは私の心の中に常にある。

 しかし、あまりにも、そのようなことを求め過ぎると、信仰がやたら変な方向に向かってしまう可能性もある。要は神学的にも、人間的な常識の中にあっても、円熟したクリスチャンとして、バランスの取れた考え方をして行かなければならない。私は信仰の世界に入って、約51年、もはや幼子でもなく、子供でもなく、霊的には大人になったのだから、大人の考え方をして行こう。

 ただ考慮しなければならないのは、今の時代がどんな時代なのか。そこには冷静な判断力が求められる。世の終わりと、新天新地の出現、イエスが天から超自然的に再臨なさる直前、この世が終わる前に、非常に激しく、後の雨と言われるような、霊的リバイバルが起きるはずである。あちこちで昔の使徒時代のような、奇跡が行われ、神の御言葉を信じ、聖書の原則に忠実な残りの民に、信仰の復興が起きてくることが期待される。

 しかし、悪の勢力もまた同じように活発になり、しるしと不思議を行い、人の前で、火を降らせることすらする(黙示録13:13参照)。できれば選民をも惑わそうと画策するはずである。

 奇跡、病いの癒し、様々な起きうるだろう。不思議な現象だけでは、それが神から出たものか、悪の勢力から出たものかは分からない。両陣営において、華々しい活発な信仰の出来事が起きてくる。これからは、世界の宗教界の出来事を、注視しつつ、何が真理であるか、そうでないかを、御言葉に基づき、個人ゝが判断して行かなければならないだろう。

 今や、新型コロナウィルス、オミクロン株が、世界を席巻している。働き方もテレワークとなったり、お家時間をどのように過ごすか、コロナ第6波は、何人感染者が増えるか?ある学者は、日本においても110万人が感染する時期が来ると予想している。もはやコロナ前のような生活は出来ないと言われている。これも終わりの時の兆候の一つではなかろうか。

 昔、スペイン風邪で、多くの人が死んだと言われているが、コロナも同じようになるのであろうか。それとも、オミクロン株の出現は、コロナが弱毒化し、インフルエンザのようになって終息して行く兆候だろうか。世界は再び、成長と安定に向かって行くのだろうか?私には分からない。ただこのような災難が早く過ぎ去るように祈るばかりである。

 聖書の預言によれば、未だかつてなかったような、自然界の大変動、大災害が世界に起きて、それが世の終わりの兆であり、それから、イエス・キリストの再臨があり、先に信じて眠りに就いた者に、永遠の命への復活があり、生きてイエスを迎える人々は、イエス来臨の輝きにより、一瞬の内に、不死の栄光の身体が与えられ、新天新地の中で、もはや死もなく悲しみもなく、永遠に、神とイエスと共に生きることが出来ると教えられている。

 私達の希望、イエスの再臨が近づいている。神の時、その時が最終的に近づいている。

誰かがイエスの生まれ変わりだと言って、この世界に来るのではなく、世の終わりと、新天新地の出現、諸王の王、主の主としてイエスが天から超自然的に再臨なさる時、正にその時、神の時を待ち望んでいる私達に、空極的な意味で神の時が訪れる。

これは、作り話や、世迷い事ではなくて、聖書のすべての言葉を、嘘偽りのない神の言葉として信じている者なら、誰しも待ち望んでいる時なのである。

 さらに私達にとって誰しも必ず訪れる神の時がある。

 先日、妹の嫁ぎ先の舅、すなわち妹にとって義理の父である、YSさんがお亡くなりになった。享年97歳のお別れに、先週の土曜日1月15日の午後に母と君子と私で、相模原にある葬儀場に行って来た。YSさんは、イエスを信じてはいなかったが、中々の人格者であり、多少お酒が好きであったが、真面目に、ある大きな病院の厨房で料理を作る仕事を定年まで勤め上げた。その間、小さいながらアパートまで建て、家族を愛し、子供や孫を愛してきた、実直で、地域から信頼され、頼りにされた人であった。 

 オミクロンが流行っている時でもあるので、葬儀は家族葬、本当に家族だけでやると言うので、私達は参列しないことになった。でも、まさか何もしなと言うわけにもいかず、母とも相談し、ご霊前を持って、ある葬儀場の安置室に、お別れに行って来た。その時の話...........................。

 ある意味、私達にとって、真の神の時とは、自分の命が尽きる時と言えなくもない。

 パウロは言っている、『わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。 実はその方がはるかに望ましい』(フィリピ1:21~23)

 毎日の眠りに就くその時は、誰も恐怖は覚えない。次の日の朝には目覚めると言う確信があるからだ。最後の眠りも、たぶんそれと変わらないかなと私は思う。安らかに眠りに就いて、次に目が覚める時は、復活の朝になっている。気がつくと、イエスキリストが私達のそばに立っておられる。空から千々万々の天使を率いて、この地上に帰ってこられる、光り輝くイエスのお姿にお目にかかれる時だ。

 イエスと共に新しい人生、新しい時代、新しい世界を始められのだ。 最後の眠りを迎えてから、眠っている期間が何年、何十年たっていようと、死は深い眠りと同じで、無意識であるから、自分とっては一瞬のこととしか感じられない。

 だから私達は自分がもう死ぬのかなと、思って意識が遠のいた、次の瞬間には、永遠の命を得てイエスの前に立っているのだと言うことになるはずだ。このことを、揺るぎのない確信を持ち、私達の最大の希望にして行こうではありませんか。

 ヨハネ7章に戻ろう。イエスは神の子としての権威を持って話したので、イエスを捕縛するために遣わされた下役どもは、イエスを捕えずにファリサイ派の人々のところに、手ぶらで帰って来た。『下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。 』(ヨハネ7:46) ファリサイ派の人達は、あなた方も騙されているのかと、手下どもを叱責した。

 律法学者たちやファリサイ派の人達が、イエスがメシアでないとした根拠は、やはり律法(聖書)であった。メシアは、ガリラヤのナザレからは出ない、ベツレヘムから出ると彼らは預言から学んでいた。

 ヨハネ3章に出て来た、ニコデモがこの章の最後に登場してくる。彼はイエスによる教えを密かに夜聞きに行き、心の中ではイエスの弟子になっていたと思われる。

 律法には相手の言い分を聞いてから何事も判断しなければならないと教えられていると、ファリサイ派の人達のお得意とする律法を用い、イエスの弁護をした。ニコデモは直接イエスから救いと、霊の生まれ変わりについて話を聞いていたので、イエスがメシアであることを既に信じるようになっていた。

 結局イエスを信じ、公に言い表したサンヒドリン議会の議員は、十 字架の直後にはニコデモと、イエスの葬りの際、登場するアリマタヤのヨセフの二人だけであった(ヨハネ19:38~39参照)。

 この世の富と、権力、高い地位を持っている人間が、イエスを受け入れ信じることは、相当謙虚にならなければ、難しいことである。あの有名なイエスから離れ去って行った、富める青年は、やはり議員の一人であった。(ルカ18:24参照)

 無代価で提供される福音、誰でも、どんな人間であっても、ただ信じるだけで、その罪が赦され、贖われ、神の前に義とされる。この招待に、不信心な者を義とされる信仰(ローマ4:5~8参照)を持って、神の前に、罪を犯したことのない者としてみなされ、義とされ、立たせていただける者は誰か。

 私の約51年の信仰生活を振り返ると、多くの有望な若い兄弟達が、救いに招待され、一時は神の民に加えられ、救いの喜びを共にしたこともあった。

 しかし、いつの間にか、世の快楽や、生活や仕事の思い煩い、この世の人々との肉のお付き合い等々の為に、いつしか、イエスと教会から離れて行った方々が多かった。寂しい限りである。

 何が彼らをイエスから遠ざけたのであろう。個人ゝの事情は様々であり、一概に一つの理由で決めつける訳にはいくまい。ある者は、教会に来ている欠点の多い人達を見て失望し、ある者は自分の行いに躓き、ある者は教会の教理に疑問を抱いたかも知れない。さらに、ある者は、喫煙や、飲酒が教会から足が遠のく原因になったかも知れない。

 でも過去どんなことがあろうと、ただただイエスによりすがり、イエスに再び帰り、イエスによって救って下さいと、心を翻して歩もうではないか。

 『そこでイエスは人々にむかって言われた、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。』(ルカ13:24)

『彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。』(エゼキエル33:11)  

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