コリント第一
コリント人への第一の手紙
コリント人への第一の手紙は、どういう目的で、誰が、いつ頃、どこで書いたのだろうか。時期としては紀元55年頃、第三次伝道旅行においてエペソ滞在中にパウロが書いたと推測いたします。
もう一つ前にコリント人へ宛て書かれた手紙があり(コリント第一5:9)、それは失われてしまい、これは実際は二番目の手紙であると言う説もあります。
口述筆記者はソステネ(コリント第一1:1)、書かれた目的はコリントの教会の信徒が抱える、たくさんの問題を正すためです。
コリントはアカイア州の州都として当時は繁栄し、東にケンクレアの港があり、貿易で栄えた、商業都市であり、偶像礼拝も盛んな地でした。アフロディーテ(ビーナス)を祭る神殿は有名であり、数世紀前の古代コリント時代には、神殿女娼が1,000人もいたそうです。
コリント教会が抱えていた問題
・党派心
・男女間の不道徳な行い
・信者同士の裁判沙汰
・偶像礼拝に伴う肉食、菜食の問題
・主の晩餐における教会の秩序
・賜物の乱用、復活を信じない人がいた
・エルサレムの貧しい聖徒らへの援助献金
パウロの第二次伝道旅行で、マケドニアの叫びの幻を見て、アジアからマケドニアへ渡ったのが紀元49年頃。
紀元50年頃パウロが不首尾に終わったアテネの宣教から、コリントへ渡り、宣教を始めた。ここには主の民が大勢いるとの幻による啓示があり(使徒行伝18:9~10)、1年半も腰を据えて宣教しました。コリントはユダヤ人、ローマ人、ギリシャ人が混在する、有力な教会でした。信徒も、マケドニアの教会に比べ、この世的にも豊かな人が多くいました。最初の宣教から、5年たち、第三次伝道旅行で、パウロはエペソに滞在中、コリント教会に何やらもめごとがあることを聞き、この愛と譴責に満ちたコリント第一の手紙を、紀元55年頃涙ながらに書いたのです(コリント第二2:4)。
アポロが、しばらくの間コリントに滞在し、宣教をしていたようです。 『ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。』(コリント第一3:4~7)
コリントにおいて、パウロが自らの手でバプテスマを受けさせたせたのは、数名です。『あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。もっとも、ステファナの家の人たち にも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。』(同1:13~16)
パウロが蒔いた福音の種を、アポロは水を注ぎコリント人の信仰を育てました。しかし、アポロはもしかすると、十分な福音理解には至っていなかったかも知れません。彼の影響で、党派心が起きた可能性があります。
『さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。』(使徒行伝18:24~26)
コリント教会はパウロの最初の宣教から5年たち、教会は成長していました。こんな有力な教会が、男女間の不道徳、党派心、偶像礼拝、肉食菜食の問題、異象を伴う聖霊の賜物の乱用、飲酒の影響等で混乱を呈していました。集会において教会の秩序がなくなり、サタンが色々な邪説まで持ち込み、復活を信じない信者まで出てきたのです。
教会は、現代においても、誰かが、正当な秩序を保ち、教理的にもケアして行かないと、いつの間にやら、この世の考え方と、邪説が入り込み、大変なことになってしまいかねません。この手紙はそのことを私達に教訓として教えているように私には思われます。キリストの復活、自分達の復活、天国、永遠の命、再臨、世の終わりを信じていない教会はないとは思いますが、世の中には、福音をただ道徳的な生き方が出来る教えとしかとらえないで、科学的でないと思われるような部分は、敢えて、神話的世界観での出来事として、天地創造や、アダムとエバから人類が創造されたことを含めて、寓話的にとらえ、文字通りには信じていない神学もあります。
この世の科学や医学、知的な研究による色々な学説の良いところは取り入れて行くべきだと考えています。しかし、聖書の言葉は神の言葉ですから、死者の復活、病気の癒しを含む様々な奇跡、天地創造、再臨、世の終わり、新天新地等、現代の私達には受け入れ難いところはあるかも知れませんが、そのまま実際に起こった、またこれから起きることとして、単純に信じて行く立場を取りましょう。
コリントの教会は問題の多い教会でしたが、同時に神に愛され、祝福され、信徒も増え、パウロの譴責を謙虚に受け止め、悔い改め、反省し、再び教会の秩序と一致を取り戻し、キリストにあって、お互い謙虚になり、尊敬しあい、党派心や仲たがいは解消し、兄弟愛に燃える素晴らしい教会になって行ったのです。
コリント人への手紙 第1章~第4章
パウロはコリントの信者が、救いの知識や神からの霊の賜物に欠けることなく、豊かにされていることをまず褒めています。いきなり、問題を持ち出し、𠮟りつけるのではなく、最初に褒めているのです。どんなに欠点があり、責められるところがあっても、必ずそれらの弱いところは、悔い改めと、イエスの贖罪によって、赦され、造り変えられ、『主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。』 (コリント第一1:8)と確信しているのです。
問題を指摘する前にまず褒めること。これが相手の心を開いていく秘訣です。どんなにひどい問題を抱えていて、それを譴責しなければならない場合でも、いきなり頭から𠮟りつけていては、相手は心を閉ざしてしまいます。将来、神の愛のうちに、聖霊によって育てられ、成長する可能性を、欠点の多い信者の中に、パウロは見ていたのです。ですから賜物の乱用があり、無秩序な礼拝が行われていることを知りながら、敢えて、たくさんの素晴らしい賜物が神から聖霊によって、キリストを通して注がれていることをまず褒めているのです。
1章~4章までは、党派心を起こすような人間は、この世の肉の価値観にまだ生きている、変えられていない人間であり、肉の知恵、この世の考え方を誇りにしていて、霊による神の知恵は理解できないと、厳しく譴責しています。
『「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。』(同1:12~13)
パウロはコリントの教会ではクリスポ、ガイオ、ステファナ家の人達以外に直接洗礼を授けた人々はいないと言っています。信仰は誰々先生にバプテスマを授けていただいたことを誇るのではなく、信仰の土台はイエス・キリスト以外に据えることは出来ないのです。『アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。』 (同3:5~7)
人間の肉の誇りや、知恵、学識を誇ったり、誰々先生に憧れ、その人間的な知力や、知識、雄弁な物腰に傾倒し、キリストからいただいた、単純な十字架の福音を、この世の党派心と言う肉の誇りで、台無しにしないようにしよう。
『ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。』(同2:22~27)
私達は党派を組み、この世の学識を誇るような者にいつからなったのでしょうか。現代において、私達の出席している教会の中を見回して見ましょう。知恵ある者、知識ある者は少なく、この世の学者もほとんどいないし、それほど富んでいる者もいない。教会は、この世的に見れば、今でも吹けば飛んでしまうような、弱い小さな集団です。それでも神の民なのです。『神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれ』たのです。
パウロは熟達した信者に対しては、"霊"によって、知恵を授けられたものとして、神の知恵、神の奥義を語ります。信者に、その成長を願って、固い食物を食べさせるのです。しかし、コリントの信者は、まだ信仰の段階としては乳飲み子であり、乳を飲ませ、柔らかい食物しか受け付けません。『兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。』(同3:1~3)
分派、党派心の原因はコリントの信者の中の一部の人々の心の中に生じた、傲りであり、高ぶりであったことをパウロは見抜いていたのです。『わたしがもう一度あなたがたのところへ行くようなことはないと見て、高ぶっている者がいるそうです。しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。そして、高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう。神の国は言葉ではなく力にあるのですから。あなたがたが望むのはどちらですか。わたしがあなたがたのところへ鞭を持って行くことですか、それとも、愛と柔和な心で行くことですか。』(同4:18~21)
たとえ、福音に接していたとしても、嫉妬心、妬み、競争心、党派心が生じることを肝に銘じておくべきです。教会の中に生じるこのような信者同士の仲たがいほど有害なものはありません。それは聖霊によって始めた業を、変えられていない肉の心が生き返り、高慢と言う罪のパン種によって膨らみ、やがて、お互いに仕え合い、謙虚に行動すると言う最も大事な愛の原則すら無視するようになるのです。信者の間に、争いと、いがみ合いが生じてしまう。教会と言えども、生身の人間の集団です。謙虚になり、御霊の導きを求めることをお互い同士が忘れ、我欲と、傲慢な心に従い、信徒の上に立ち、横柄な態度で、この世と同じような権力をふるうようになったら、それは正に、教会に破壊的な影響を与えます。そんなふうになってしまったら、救いの機関としての教会が、その使命を世の人々に対して果たせなくなります。大問題です。だからパウロはこのような強い調子で、一部の高ぶっている人達に対して警告したのです。
パウロは良い管理者として、彼らを導かなければなりません(同4:1~2)。
神に仕える身であり、使徒としての正当な権威をもっているパウロにとっては、一部の高慢に陥っている人々に、悪口を言われようが、批判されようが、アポロの方が立派だから、アポロ派につくと言われようが、彼らの肉的な価値観で裁かれようが、批判されようが、そんなことはどうでも良いことでした。『わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。』 (同4:3~5)
コリントの信者は、高ぶって、金持ちで、既に王様になった気分の人もいたのでしょう。しかしパウロは福音の宣教のために、この世の地位も、名誉も捨て、文字通り裸一貫で伝道に献身してきました。『わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。 』(同4:9~13)
5章 不道徳に対しての勧告
『現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。』(同5:1~2)
教会の道徳的標準と言うものがあります。
『しかし、わたしたちは、律法は正しく用いるならば良いものであることを知っています。すなわち、次のことを知って用いれば良いものです。律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、偽りを言う者、偽証する者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えられているのです。』(テモテ第一1:8~10)
『思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。』 (同6:9~10)
罪はどんな罪をもイエスの十字架の血潮と贖いによって赦されるのですが、赦された人間は、そのまま罪を、現行罪として犯し続けてはいけないのです。これはクリスチャンにとって、誤解してはいけない自明の理です。
クリスチャンになったとしても、心のうちには汚れた思い、利己心、憎しみ、嫉妬心、怒り等肉の思いがたくさんあり、イエスの功しにより、常に赦していただかねばなりません。信仰によって義認されること、これが救いの唯一の私達の立場です。聖霊に満たされながら、イエスによって、肉的な律法の守り方から解放され、自由の霊に支えられながら、律法に対して生まれつきの自分は死んで、表面的な文字に肉の努力のみで仕えるような仕え方を止めて、新しい復活の霊をいただき、その霊によって仕えて行くのです。
しかし、表面的ではありますが、律法は結果的には守らなければなりません。酒乱に陥ったり、姦淫したり、同性婚を正当化したり、殺人や、盗み、姦淫、嘘、悪口、憎しみ、貪欲等、明白な愛の方向性から外れるようなことをしてはいけません。そのようなことを行うものは、『決して神の国を受け継ぐことができません』と書いてあります。(テモテ第一6:10)
聖霊の力によって行動が改革され、今までの生き方が改められ、義の生活に入って行かなければならないのです。教会は義の標準を保ち、特に男女関係における、不倫、姦淫、淫らな行為(同性婚を含む)等を、容認することはあってはなりません。もし信者間にそのようなことがあれば、教会事務会の決議に基づき、譴責と懲戒が行なわれます。最終的には除籍と言う形をとって、当該信者の教会籍は取り除かれます。
もちろん罪を捨て、悔い改めた兄弟に対しては愛と赦しの手を差し伸べるべきです。『その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。』(コリント第二 2:6~8)
ここで、霊と肉の分離というどうしても無視はできないパウロの思想に触れておきましょう。パウロの霊が肉体を離れて、コリントの人々の霊と共に、そのような不道徳な行いをする人の肉を裁き、サタンに引き渡した。それは彼の霊が最後の審判の時、救われる為であったと言うのです。『わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。』(コリント第一5:4~5)
『肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡した 』の解釈は難しい聖句の一つですが、私は教会による除籍の懲戒措置であると解釈します。大変な姦淫の罪を、現実の世界の中で、事実として肉の欲望の趣くままに、現に実行している人に対して、厳罰で臨むことは、ある意味その肉を、サタンに引き渡し、悪の側に決定的に占有させることにもなるでしょう。しかし、一端そのような決定がなされたとしてもまだ希望があります。いつかは、大罪を犯した方の霊が目覚め、自分の肉が犯させた愚かな行いを、嘆き、聖霊が与えられる真の悲しみによって、悔い改め、もう一度教会と、イエス・キリストのもとに帰って来て、『主の日に彼の霊が救われる』のです。
さらに霊と肉の分離の思想はコロサイ人への手紙の中にもあります。
『わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます。』(コロサイ2:5)体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいることが出来るのでしょうか。それは肉体と霊は切り離すことが出来ないと考えている私達SDAにとって、解釈が困難な聖句の一つです。
パウロの霊が祈りの内に、コリントの人々の霊と一緒になって、不道徳の行いをした人の、肉の部分を責め、裁き、滅ぼし、十字架につけてしまった。悪魔と共にその悪の仕業が滅ばされた。彼が必ずやその肉の罪を悔い改めることになるだろう。やがてその人の霊が最後の審判の時、悔い改めて救われるためであったと、後になってわかるでしょうと、私は解釈しています。
コロサイ人への手紙の方も、パウロはコロサイの信者とは、肉体的には離れていたが、祈りの中で彼らの霊と共になって、彼らの信仰の健全な発展、秩序正しいキリストに対する固い信仰を、霊的に確信し、肉体は離れてはいても、霊では共にいるんだよ、と言いたかったのではないでしょうか。
何れにせよあまりスッキリとはしない解釈ではありますが、私達でも、何か問題があって、その方のために、来る日もゝ祈っていると、自分の霊が、遠く離れていても、その人の霊と一緒になって、あたかもその人のそばに居て、執り成しの祈りをしているような感覚になることもあるのではないでしょうか。
さて、十字架の贖いは、全てのことに優先します。私達は、キリストを受け入れた以上、もう古い、肉の罪のパン種のない者とされている(既に) のです。『現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として(既に)屠られたからです。』(コリント第一5:7)もう私達は、十字架の血潮によって清められ、救われ、神の御前に聖なる者、傷のない者として立たせていただいているのです(コロサイ1:22)。原理的に罪のない者、パン種の入っていない者として見なされているのです。毎日の信仰生活を聖なる方向を目指して進むよう、邪悪のパン種の入っていない、純粋なパンで過ぎ越しの祭りを祝おうではないかと比喩的に言っています。
前の手紙(この手紙は失われてしまった、本来のコリント第一の手紙であるべきもの)で淫らな者と交際するなと言っておいた(同5:9)が、これは同信の者の中で、そんな行いをする人がいたら、そのようにすべきであって、外部の未信者の人を指すのではありません。未信者は、複数の妻を持ったり、不倫、姦淫、同棲、他人の妻を横取りしたり、売春、買春、同性愛等を平気で行っている人達であって、それらの人々と交際するなと言ったら、あなた方は世の中から出て行かなければならない。しかし信仰の兄弟と呼ばれる人々の中にそのようなことをする人がいたら、交際も、挨拶も、食事も共にしてはいけないと言うことです。
6章
信者同士の争いをこの世の裁判にかけることについては否定されています。
『兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。』 (コリント第一6:6)
天国に行けば、聖徒は世を裁き、御使いすら裁くのに、あなたがたの中には、信仰の兄弟同士の争いを仲裁できるような、知恵のある者はいないのか。信仰の兄弟同士の争いを、未信者のこの世の裁判官の前に持ち出して裁いてもらうようなことがあってはならない。そもそも、肉のこの世の利益、不利益について、信者同士が争うこと自体が、あなた方の負けです。何故騙されていないのか、何故、取られるままにしておかないのか。イエスの模範に倣い、右の頬を打つ者には、左の頬を向けよ(マタイ5:39)。下着を奪うものには、上着まで与えよ(マタイ5:40)。1ミリオン(約1.5キロ)強いて行かせるものには、2ミリオン(約3キロ)行ってやれ(マタイ5:41)。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。汝の敵を愛せよ(マタイ5:46、 44)。これが私達の贖い主、イエスが私達に身をもって教えられた生き方です。
あなた方の中には、自ら不義を行い、信仰の兄弟の物を奪い取っている者がいます。このような行いをする者は神の国に入ることは出来ない。『思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。』 (同6:9~10)
クリスチャンになってから、これらの現行罪を行う者は神の国に入ることは出来ないと、パウロはハッキリ言っているのです。もちろん、信仰に入る前には、そのような行いをしていた人もいたことでしょう。イエスは義人を救いに来たのではなく、罪人を救いに来たのですから。過去の罪は、それが本当の殺人であろうが、強盗であろうが、姦淫であろうが、詐欺であろうが、真剣に悔い改め、神の前に告白し、十字架の血潮を、自分の罪のために流されたと信じるなら、清められ、赦され、全く罪を犯したことのない者として、神の前に立たせていただけます。しかし、その後の人生は、キリストに倣う生き方をしなければなりません。キリストと固く結びついて、聖霊によってキリストに心の中に住んでいただきながら、清い生涯を目指して歩んで行くのです(あくまでも、キリストの御霊に満たされ、キリストに固く結ばれ続けて)。
体は霊を入れる器であり、五体は神の道具であると言えます(コリント第一6:19、コリント第二4:7、ローマ6:13)。やがて復活をして、完璧な栄化された体をいただくのですが、地上においては、この肉体を、神が贖って下さた体として、大切に扱っていかなければいけません。
霊肉共に健康であることが神の御心なのです。体を含めて、キリストは私達を、贖って下さったのです。本来祈りと、キリストに結ばれることにより、新生され、霊的に高められ、キリストと一体となり、キリストに捧げ、キリストのために働かなければならないこの体を、娼婦に捧げ、淫らな行いをして、娼婦と一体となって良いはずがありません。このような不道徳の罪は、自分の体に対して犯してしまう罪なのです。『あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。』( 同6:19~20)
7章
独身 ・結婚・ 離婚 ・再婚の問題
社会生活をするうえでどうしても出てくるのが、結婚、離婚、再婚の問題であり、これらの件に関して、すべてのパウロの勧告を解くカギは、信仰を続ける上で、プラスになるか、マイナスになるかの価値判断です。これらの問題については信仰を維持することを最優先で考えなさいと言うことなのです。できれば心底から、ズーット純粋にイエスを信じ続けるためには、一人でいるのが一番良いとパウロは基本的に考えています。イエスの御霊と共に、献身して生涯を過ごす、それも結婚もせず、結婚に伴うこの世の苦労、世の煩いに深入りせず、ただ純粋に、福音のため生きること。このような生き方がパウロの理想とするところです。
結婚すれば、それなりの収入が必要になり、子育てや、それに伴い多額の教育費もかかります。日本においては、今の時代に、最低でも大学、出来るならば、その上の大学院と、子供に教育を受けさせてやることは親の義務ではないでしょうか。社会である程度の良い生活を、子供にさせてやるためにも、親としての責任があります。当然、その結果、社会のシステムに深入りすることになります。何もいらない、ただ聖書を読み、祈りに熱心になり、イエスを信じ求めて行けば良いなどと、言ってばかりはおられません。結婚すれば扶養の義務や様々な責任を果たさなければならなくなり、もはや仙人のような生活は出来ないのです。社会で立派にやって行くこともクリスチャンとしての証しだとは思いますが、要するに結婚を契機に、大変な重荷を負って生活していかなければならないのは事実であります。パウロは出来たらそのような重荷を避けて生活し、純粋に信仰に生きさせたいとの思いで、独身生活を勧めているのです。
しかし、人には器と言うものがあり、結婚したい人は結婚するようにも言っています。結婚することは、罪ではありません。断じてそうではありません。結婚は正しく運用されるならば、神が定めた祝福された制度です。その基本的な認識は共有いたしましょう。『わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。』(コリント第一7:7 )
信仰第一が貫けるなら、結婚生活をしてはいけないという決まりはありません。離婚もそうです、未信者の夫が(あるいは妻が)信仰を理由に去るならば、去るままにしておきなさい。しかし、信仰上の理由、もしくは死別による再婚は、信仰ある者同士に限る。信仰第一であるという観点からして、この原則は守らなければならないでしょう。
お互いがキリストを信じているのに離婚し、再婚することはどうも認めていないようです、文脈からそのように読み取れます。『――既に別れてしまったのなら、再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい。――また、夫は妻を離縁してはいけない。』 (同7:11 )
それでは最初のスタートは、お互い夫も妻も熱心にキリストを信仰していたが、何らかの理由で、片方の配偶者が、棄教して教会から去ってしまった場合、もう一方の変わらず信仰を持ち続けている人は、離婚し、再婚することが(もちろん信者と)許されるでしょうか?このことについては何も書かれていませんので、ハッキリしたことは申し上げられませんが、原理的に考えれば、この場合はOKだと、私は個人的には思っています。
8章、10章
偶像礼拝と肉食について。
そもそもパウロは肉を食べてはいけないとは、自分の書簡のどこにも書いてはいない。『肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。』(ロ-マ14:21) 『望ましい』とは言っているが、肉を食べてはいけないとは言っていない。肉を食べるのも、野菜を食べるのもその人が決めた通りにすれば良いし、食物と救いは基本的には関係がない(ローマ14:1~3、14~16参照)。ぶどう酒も飲まないことに越したことはない。
肉体を健康的に養い、維持するためには、できる限り健康的なものを食さなければならないことは、自然の法則の一部です。信仰に入った者は、できる限り長生きして、神のご奉仕のために、健康を維持して、時間を神の御用のために、献げる必要があります。飲食物はその一部です。健康の維持のためには、他にも以下のような要素を取り入れることです。
新鮮な空気、清浄な水、適度な運動、レクレーションを含む休養、節制、適度な日光浴、神に対する信頼、心の健康(鬱病等の、精神疾患のケア)、その他様々な健康のための原則の実行です。酒は飲み放題、肉は食べ放題、肉食はどんどん進めて行こう、と考えるのはパウロの言っている本来の趣旨から外れます。健康のためには、ビーガンの選択もあり得ると私は考えています。
8章と10章で取り上げられている問題は、健康上の問題よりは、偶像に捧げられた肉を食べることが、偶像礼拝の罪になるかどうかの問題です。偶像礼拝を考えるとき、偶像なるものが、真の神に対比して存在するのかと言う、本質的な問題があります。実は牛や、蛇等の動物や、彫刻された女神やそれに類するもの、森羅万象における礼拝の対象物は、全て被造物であり、その中に神性もないし、神霊も存在できないし、物体であり、神として拝む対象ではないのです。『そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。』(コリント第一8:4~7)
罪と言うのはある意味心の持ち方の問題でもあります。
偶像に捧げられた肉を、偶像を拝む気持ちで食べれば、これは偶像礼拝の罪になるし、真の知識を持っていて、良心の強い人はそのようなことは一切ないのだと達観し、単なる肉として食べれば、何ということでもないのです。ただし多勢いる信者の全員がこのような知識を持っているのではないので、今までの習慣上、肉を食することが偶像の神に繋がることと思う人もいるので、そういう人は偶像に捧げられた肉を食べるべきではないでしょう。知識のある人が平気で、偶像の宮で肉を食べているのを見て、信仰の弱い人が誘惑されて、偶像礼拝の意味を込めて肉を食べるようになる危険性があります。そのような弱い良心を持っている人が、周りにいる場合、細心の注意を払わなければなりません。弱い人を偶像崇拝の危険に誘うような状況では、肉は食べてはならないのです。何を食べるのも自由ですが、もし誰かがその肉は偶像に捧げた肉ですと言ったなら、弱い人のために食べない方が良いのです。
私達は自分の強い良心を標準にするのではなく、弱い人の良心を思いやるべきなのです。当時は市場に、偶像に捧げた肉も、普通の食肉も、一緒にになって流通していたようです。ですからパウロは以下のように勧告します。
『市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです。あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。』(同10:25~27) SDAで菜食の原則を自分の健康のために選択し実行して行くことは、誠に立派で、素晴らしいことです。しかし、このようなパウロの勧告が与えられていることを覚えましょう。これも同じ聖書の言葉なのですから、寛容な心をもっと持ちたいものです。
9章
ここで取り上げられている問題は、パウロは使徒としての自分が持っている権利を行使しなかった、つまり福音宣教に携わった者は、福音によって生活することを神によって、様々な例えで指示されているが、パウロは献金によって生活せずに、自分が働くことにより自給伝道をしてきた。パウロは自らその手で働きながら、生活の資を稼ぎ、無代価で福音を提供してきた。これはパウロの誇りであり、この意味でパウロは誰からも自由な者です。
福音のためにパウロはどんなことでもする。 『律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。』(コリント第一9:21口語訳)律法を持たない人に宣教するため、律法を持たない人のように行動した。逆に律法の下にある人には、律法の下にあって行動するように振る舞った。弱い人には弱い人のように、強い人には強い人のように行動してきた。それぞれの中から、幾人かでもキリストの贖いの下に連れ出し、救うためであった。
パウロは総てに対して自由であると言っても、放縦ではなかった。 何物にも縛られないキリスト者の自由を、その素晴らしい自由の機会を、『肉に罪を犯させる機会とせず』(ガラテヤ5:13)、かえって主のために身を献げ、命すら投げ出した。彼は最後は首を切られて殉教した。その自由を、自分の肉の身体を打ち叩いて、神のために服従させて行ったのです。私達も、パウロに倣って、人に福音を伝えておいて、自分が失格者ならないために、肉の変えられていない弱い身体を、打ち叩いて服従させるのです。オリンッピク競技者が、賞を得るために肉体を打ち叩き、訓練しています。そのように私達も信仰の戦いを戦って行きなさいとパウロは勧めています。彼らは、この世の名誉、オリーブの葉で作った朽ちる冠を得るために、普段から節制し、身体を鍛え、訓練し、様々な規則を守りながら、各種の競技で優勝を目指すのです。私達も朽ちない冠を得るために、霊的に自分を鍛錬し、霊的規則を守り(聖霊の内住の力によって)、目標を目指して進んで行こうではありませんか。『愛の実践を伴う信仰こそ大切です。』(ガラテヤ5:6)と書いてあるではありませんか。
11章 礼拝の秩序、当時の慣習について
キリスト教徒は当時のギリシャ・ローマ文明の影響をかなり色濃く受けている。奴隷制度を新約聖書自体の中で、積極的に改革するようなコメントは見当たらないのもその一つです。聖書には普遍的な真理もあり、時代的、文化的な背景のもとに語られ適用されている、その当時にしかあてはまらない、特殊的、時代的真理もあります。
慣習
・女は礼拝時被り物をするべき(コリント第一11:5)。
・女は教会では静かにして、男の上に立たず、教える立場にはなれない(テモテ第一2:12)。
・女は教会では黙っていなさい(コリント第一14:34)。
・女は子を産むことによって救われる(テモテ第一2:15)。
・金や、真珠や高価な着物を身に着けてはならない(テモテ 第一2:9)。
・男は怒らず、争わず、清い手を上げて、どこででも祈るべき(テモテ第一2:8)。
・男は女の頭(コリント第一11:3)。
・男は髪を長く伸ばすな(同11:14)。
礼拝の秩序
・異言は多くて2~3人、解き明かす人がいる時のみ、教会で 語られるべきだ。
・主の晩餐は、貧しい人々が集まるまで待って始めよ。
・各自勝手に食べてしまうようなことではいけない。
・先に裕福な人が来て、パンを裂き、食事をし、葡萄酒を飲んで、酔っているような人がいる状態は 良くない。
・空腹な人は、教会に来る前に、家で食事を済ませて来るべきだ。
・祝福である主の晩餐が、裁きを招かないためにも、各自よく 心の準備をして、出席すべきだ。
『だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために。その他のことについては、わたしがそちらに行ったときに決めましょう。』(コリント第一11:28~34)
集会が祝福でなく、主の裁きを招くことになり、その結果として、弱い者や病人がたくさん出たり、多くの者が死んだ 結果になったのは残念なことです。礼拝の秩序と言うことがいかに大事な事か思い知らされます。我先に食べてしまうような無秩序な教会の中での飲み食いが、こんな残念な結果になって表れたのです。さらにコリントの教会には、党派心、みだらな男女関係、嫉妬、高慢、復活を信じない人達、兄弟同士の裁判沙汰、それもこの世の法廷に持ち出すありさま等、様々な問題があったのです。『裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。』だからこそ、罪の種類は違うかもしれませんが、私達も主の前に真剣になって、心に示されたことに対して悔い改めて行かなければなりません。様々な困難、不幸は主の懲らしめだと、前向きに受け止めて行くこと。それらの災いを取り去っていただき、どこが自分達が悪かったかを反省し、悔い改めの機会とするのです。
これらはコリントの教会だけに起きていた問題ではなく、実に現代に生きる私達の問題なのです。聖書をそのように読んで行くことが大事な事です。そうでなくては私達が変えられることが出来ません。主はすべての教訓を通して私達を教えておられるのです。
12章、14章 賜物の乱用に注意
キリストの身体である教会が成長するために、様々な霊の賜物がすべての人に与えられています。生まれつきの才能、後天的に学習等で取得した能力や技術も賜物の一つと考えれば、誰でも賜物を持っていることになります。もちろん超自然的な特異な神が下さるカリスマ的なものもあると思います。
『一人一人に"霊"の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には"霊"によって知恵の言葉、ある人には同じ"霊"によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ"霊"によって信仰、ある人にはこの唯一の"霊"によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。』(コリント第一の手紙12:7~10)
世の中には たくさんの宗教があり、宗教の中には、超常現象が伴う場合があります。キリスト教も例外ではなく、聖霊の賜物をいただくとき、霊現象が伴うこともあるようです。
『皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。』(同14:23)
聖霊の賜物には種々の働きがあり、全体の奉仕のために使われます。しかし異言は最下位の賜物であり、パウロは教会の秩序が乱されないという条件のもとに、多くても2~3人(コリント第一14:27)、それも異言を解き明かす者がいる限りにおいて、教会の中で異言が語られることを認めています(解釈者は1人限定)。異言を含め霊の賜物の乱用がコリントの教会にあったのではないかと私は推測します。霊現象を経験することが、何か人よりも、自分の信仰が優れているとか、徳を高めてくれるとかいうことではないのです。霊現象を信仰の根拠とするような風潮がコリント教会にはあったに違いありません。『自分は預言する者であるとか、霊の人であると思っている者がいれば、わたしがここに書いてきたことは主の命令であると認めなさい。』(同14:37)
もし今、現代の教会の中で、誰かが、自分は霊の人で、預言者ですと言い張る人がいたらどうでしょう。そんな経験をしたことがないので、分かりませんが、まず最初に思うことは、「エー、本当に預言者なんですか?本人がそう思っているだけではないですか?」と疑ってしまいます。
私は幻を見た、私は預言者だ、私は異言を語れる、そんな人が、何人も当時のコリントの教会にいたとすれば、パウロの使徒としての権威を疑い、パウロに対抗したグループを作っていたことも考えられます。そのような人々に、パウロはもっとたくさんの、また大きな霊現象を自分は経験しているのだと言って、使徒としての権威を示したかったのでしょう。当時の信仰に伴い起きてきたコリント教会の霊現象、それは多分に、異教の影響を受けていたのではないでしょうか。
霊現象は自分の信仰の励ましにはなるでしょうけれども、信仰の根拠にはなりません。また自分の品性を作り上げるためにも、役には立ちません。信仰の根拠は、ただ御言葉であり、イエスの十字架であり、復活であり、それらを基にして、自分の救いを、神のなされた約束に置くことです。それ以外の信仰の根拠はありません。
さらに、キリスト教の霊の賜物とは、単なる霊現象ではなく、それがあらわす範囲は広く、繰り返し強調しておきますが、人間の生まれつきの才能、学習によって後天的に修得 した能力、資格等も含めて考えるべきです。例えば教師、あるいは管理する力を持つ者等を含めて賜物と考えるべきです。その役割は、霊の賜物を受けた個人の徳を高めるのではなく、イエスの体なる教会を造り上げるため、全体の益となる為なのです。
パウロは何故コリント教会の霊現象を否定しなかったのでしょうか?党派心や、不道徳、偶像礼拝、高慢、この世の富を得たことによる傲慢、色々な罪がコリント教会にはありました。異言を語ったり、天使や、幻を見たことを自慢し、自分の信仰は他人よりも優れていると思っていた人達もいたのです。それに対してパウロは超常現象については誰にも経験できないほどの経験をしていると言ったのです。自分は第三の天に昇って、御使いの声を聞いたこともあるし、異言に関しては誰よりも異言を多く語ることが出来る(同14:18)と主張しています。つまり信仰の根拠を、不思議な霊現象に置くなら、私はあなたがたに負けないほどの不思議な経験をしているんだよ。私の使徒の権威をそんなことで疑うべきではないと、パウロは言いたかったのです。
また人間は弱いもので異言を含めた霊現象が、未熟な人々の信仰経験の中で、キリストに結ばれる助けになるとパウロは考えていたので、闇雲に、異言等の霊現象を否定する立場をとらなかったのでしょう。
『神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。』(同12:28~30)
私達はクリスチャンになったとしても、様々な個性をもっています。生まれた環境も違い、健康に優れた人もいれば、健康を害した人、生まれつきひ弱な人もいます。国籍や、人種の違いによっても、物の考え方や捉え方は違います。賜物とはある意味、個人の生まれ持った力や才能も含まれると思います。むろん、超自然的に神から与えられる預言や、癒しの奇跡を行うことなど、天来の賜物もあるにはあるでしょうが。『賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。』(同12:4~6) 賜物にはたくさんの種類があって良いのです。
それは、単なる能力、または超自然に与えられる賜物以上のことを意味しているのではないでしょうか。それは神から与えられた私達の人生そのものを指していると考えるのは、余りにも飛躍し過ぎでしょうか。賜物がそれぞれ違うように、同じ日本人であっても私達の人生もそれぞれ違うのです。生まれた年代も教育も性別も、家庭環境も違うのです。神から与えられた、先天的な能力を持った人もいるし、また教育等によって訓練され、後天的に能力を開発できた人もいるのです。総ての人が今まで生きてきた人生を、そのまま、あるがままに感謝して、神からの賜物として受け止めることが、一番幸せなことではないでしょうか。他を羨んだり、また自分と他を比較して卑下したりすることはやめましょう。誰も他の人に代わることはできないし、一人一人の顔が違うように、賜物も、人生も一人一人違うのです。それぞれの人生は、たとえそれがどんな人生であっても、それぞれが神の前に尊いものなのです。人生そのものが賜物だと考えたいのです。それら個々の集合体として、80億の全人類が存在しているのです。
多数の中には、惨めで辛い人生を遺伝的に、環境的に受けて、障害等を持って生きている人もいることは、重々承知の上でこう書いています。先天的な障害、事故、怪我、不治の病等、確かに神が存在するなら何故このようなことが起きるのか、理不尽なことが世の中にはいっぱいあります。ALSで進行する病と闘っている人もいれば、生まれつきの肢体障害者や脳性麻痺者もいるのです。でもそうかと言って自分たちの持っているどうにもならない状況を、恨み、神を呪ってどうなるでしょう。どうにもならない閉ざされた環境、ダウン症のような染色体異常、精神を病んでしまっているような人々、不公平な政治、社会、行き届かない福祉制度の在り方等々 を呪って何になるでしょうか。自分達の置かれたそれぞれの立場で、神に頼り、イエスに救いを求め、前向きに生きて行く以外の選択肢はないではありませんか。
自分の人生を取るに足りないものとは考えないで下さい。どんな人の人生であっても、何らかの意味があり、どんな形であれ神に、自分を献げて生きて行きましょう。あなたの賜物は小さいし、特殊なものではないかも知れない。また人生も、既に半ばが過ぎて、先がそれほどないかも知れない。でも神が私達に下さった、この小さな、私もあなたも含む、一人ゝの人生を、精一杯、イエスにあって、感謝して進んで行きましょう。それ以外の積極的な選択肢はないのですから。
永遠の命を与えられるその時が来るまで、その時がいつになるか、多分、私達の心臓の鼓動が止まる時だとは思いますが、その時まで、イエスを信じて、感謝と賛美を捧げながら、かけがえのない、他のどんな人にも同じ歩みは出来ない、私の人生、あなたの人生を、主が許されている範囲の中で進んで参りましょう。
13章 愛の章
12章、14章の異言に対する勧告の間に、コリント人への第一の手紙の中で最も有名な愛の章が挿入されています。幼いヨチヨチ歩きの信仰を捨て、イエス・キリストに、やがて目と目を合わせてまみえることになります。完全な愛の方にお会いする前には、私達も信仰の大人として、この地上にあってもさらに成長して行きます。小さな限界のある賜物(それらは現実生活の中で役に立つものもあるでしょう)に心を占領されるべきではありません。もっと価値ある大きな賜物を求めて行きましょう。
完全に知られているように、完全に知ることになる時が迫っています。今は、預言も異言も、知識も知恵もどんな賜物も一部分のものでしかないのです。それらは廃れて行くものです。どんな賜物であっても、愛がなくては何にもなりません。神が下さる最も大きな賜物それは愛です。信仰、希望、愛が最後まで残ります。そのうち、最も偉大なものは愛です。私達はやがて、愛そのもののお方にお目にかかるのです。
『愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。』(コリント第一13:4~9)
15章
復活を信じない信者に対して 。
復活を信じない信者が、コリント教会にはいたようだ。これは驚くべきことで、復活の重要さと、意味をこの章でパウロは再確認しています。
まず福音のなかで最も大事なことは何だろう。それは私達の罪を贖うために、十字架でイエスが身代わりとなって死んでくださったことです。どんな罪をも、イエスの贖罪の犠牲を信じる時、神の前に信仰によって義と認められ、一度も罪を犯したこともない、聖なる者として立たせていただけます(コロサイ1:22、3:12参照)。そのことを揺ぎ無く、どんな自分がマイナスの精神状態にあろうと、固く信じて行きましょう。信じて行くとき、義認は信仰の事実となるのです。神の愛はあまりにも大きく、そのなされる業は不思議なのです。
次に三日後にイエスは復活したことです。イエスの復活を信じるならば、やがてキリストの再臨なさる時、終わりのラッパの響きと共に、墓の中にいる者は、新しい栄化された体が与えられ、私達も復活することができます。また、生きて主をお迎えできる幸運な人々は、死を経験することなく一瞬にして、栄化された身体に変えられます。イエスの復活こそ、聖書が真実であることの確証なのです。
神の存在、天地創造、アダムとエバから始まる人類の創造、自然界や動植物の創造、堕罪、十字架による贖罪、再臨、世の終わり、新天新地の到来、永遠の命、これらはイエスの復活と言う事実によって、今まで語られたことが事実であり、これから将来起こることも間違いないこととして確証されたのです。
復活には霊的意味もあり、復活を信じたクリスチャンは、イエス共に、霊的に新しい命によみがえった者として、力強く、復活なさったイエスの義の力によって、地上においても生きて行くことが出来るようになります。イエスの復活を信じた時、私達は霊的には自分の内的な復活を経験して行くのです。むしろ、この復活のイエスの霊的支配による現実の生活における勝利経験の方が、クリスチャンにとってより重要ではないかと最近私は感じています。
『キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。』(ローマ6:4)今の自分が、復活の信仰をもった時、新しくイエスの復活の命を霊的に受けて力強く生きて行けます。
『かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。』(ローマ6:13)
そうです 、霊的にはキリストが復活したとき、私達もキリストにあって、キリストと共に、復活させられ、既に復活の命が、この世にありながら私達の内に始まっているのです。復活のイエスの義の支配力は、信じる者にとって、とても偉大なものです。
第二のアダムとしてのイエスの支配力は、第一のアダムにある罪と死の支配を受けた全人類に対して、変えられていない肉の力からの解放をもたらします。イエスの義と愛の力は遥かに優って、この世にあってすら信者を強めることが出来るのです。
『一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。』(ローマ5:17)
『このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。』 (ローマ6:11)
ですからパウロは、イエスが復活しなければ、私達の信仰は空しくなるし、私達は今なお、弱いままで、罪の中にいることになってしまうと言っているのです。
『そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされる(霊的にも実際の死からの復活も)ことになるのです。』(コリント第一15:17~22)
16章
この章を読むと当時の様々な状況が、目に浮かぶように浮かび上がってくる。パウロは紀元50年頃、第二次伝道旅行でアテネのアレオパゴス評議所で宣教し、思うような宣教の成果が得られず、次にコリントにたどり着きました。ここでは1年半の長きにわたって宣教し、その初穂がステファナの一家であり、パウロ自らがバプテスマを施しました。コリントには大勢の神の民がおり、教会は順調に成長しているかと思えたが、途中、雄弁家アポロがコリントで伝道することが、仇になったのか、私はパウロにつく、私はアポロにつくなどと、党派心が起きて、仲たがいをするようになってしまった。最初のコリント伝道から5年間で、このような事態が生じたと考えられます。
パウロは第三次伝道旅行で、アジアのエペソでかなりの時間を費やした。2年ほどツラノの講堂で、毎日のように福音を論じ、アジア中の人が、救いの言葉を聞くようになった(使徒行伝19:10参照)。 エペソ滞在中に、コリント教会の中に不道徳と、争いがあることを、複数の人から聞いたパウロは、紀元55年頃エペソで、涙ながらにこの譴責と愛に満ちたコリント人への第一の手紙を書いたのです。たぶんテモテにこの手紙を持たせて(コリント第一16:10)コリントの教会に届けました。
さて、エペソでの宣教は、アルテミス神殿をめぐる、大騒乱を招き、この騒動が収まってから(使徒行伝20:1)、2年と3ヶ月以上に及んだエペソを離れ、パウロはトロアスから船出し、マケドニアへ渡り、陸路、ピリピへ着きました。そこでテトスに会い、第一の手紙を読んだコリントの人々が罪を悔い改め、パウロを慕っているという、大変うれしい便りをテトスから聞くことが出来ました。紀元56年頃パウロはピリピでコリント第二の手紙を書き(推測です)、自分が神によって任命された使徒の権威をもっていることを、あらゆる面で強調しました。テトスに折り返し第二の手紙を持たせて、エルサレムの貧しい聖徒に対する援助献金の依頼を込めて、コリント教会に、数人の弟子たちと共に、先に派遣したのです。
その後、パウロはコリントに着くと、コリント人への第一の手紙16章に書いてある通り(コリント第一16:5~6参照)ある程度の期間コリントに滞在し、教会運営に励んだのです。
コリントはアカイア州の州都であり、ケンクレア港の貿易で栄えた、豊かな商業都市です。従って、信者の中にもかなり裕福な人達がいました。エルサレムの貧しい聖徒に対する援助献金も、ピリピ教会をはじめ貧しいマケドニアの緒教会に比べ、多くの額をパウロは期待していたに違いないのです。16章でも、週の初めの日にエルサレムへの援助献金を生活費とは別に取り分けておくようにわざわざ言及しています(同16:2参照)。
この三回目のコリント滞在中、紀元57年頃パウロは、ローマ人への手紙を書いたと推測されます。この後、パウロはエルサレムの貧しい聖徒に対する援助献金を届けにエルサレムを目指して上って行くことになります。しかし、16章を読むと、どうも最初のパウロの計画では、自分は直接エルサレムには上らず、エルサレム教会に対する援助献金は使者に持たせて届ける予定でした(コリント第一16:3~4参照)。パウロ自身はコリントから すぐローマに渡り、ローマ教会で信徒たちとじっくり親交を深め、パウロの理解するキリストの福音の教えを十分伝え、その後イスパニア宣教に行くつもりでした。
実際にはパウロ自身がエルサレムへ上り、エルサレムで捕らわれの身になり、紆余曲折を経て、囚人の身分で、皇帝から公平な裁判を受けるために、ローマに着くことになるのでした。ローマ到着は最後のコリント滞在より数えて、5年後の紀元62年頃です。
コリント教会からは、初穂のステァナの一家やその他数名の兄弟たちが、エペソ滞在中のパウロの下に、宣教の手助けのために来ていて、パウロは非常に助かっていました(同16:17参照)。
パウロはコリントの教会の人々のことが、最も気にかかり、心配していたのではないか。パウロは第一、第二、第三次伝道旅行で、数々の教会を設立していきました。エペソ、ピリピ、テサロニケ等があり、それぞれ、彼が書簡をそれらの教会に宛て書いた手紙が新約聖書になって残っています。ガラテヤ教会の人々などは、律法主義に陥ってかなり危うい信仰の状況にあったようです。エペソやテサロニケ教会のように非常に、信仰が健全で、褒められている例もあります。
コリント人への第一の手紙、第二の手紙は合計29章に及ぶ長文の書簡です。これはいかにパウロが多くの祈りと力をコリント教会のために費やし、心配してきたかを物語っています。その量はパウロの書簡の実に4分の1を占めているのです。
一般的な例えだが、賢い立派な子供は親の自慢であり、もちろん愛していますが、親は出来の悪い子供ほど、心配で、いつも気にかかり、人間的な言い方であるが、さらに余計に愛するのです。パウロのコリントの人々に対する気持ちは、どうもそのような気持ちではなかったでしょうか。『わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙(コリント第一)を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。』(コリント第二2:4)
神学的な重要さや、啓蒙に関して言えば、ガラテヤ人への手紙やローマ人への手紙には遠く及ばないと思うが、しかし、コリントへ宛た二つの手紙は、教会とはどんなものか、また、信仰に入ったとは言え、人間は色々な過ちを犯す可能性がある実に愚かな者であることを教えてくれています。また、教会の秩序、運営等に関して、この手紙は、私達に様々な教訓を与えてくれます。
最後に、コリント教会の仲たがいの一因、党派心をもたらしたと考えられるアポロが、譴責目的で書かれた第一の手紙執筆中(紀元55年頃)のパウロと共にエペソにいた事実には驚く(コリント第一の手紙16:12参照)。この時、アポロは既に、コリント教会からエペソへ帰って来ていたということです。
また余談になるがプリスキラとアクラもこの時点ではパウロと共にエペソに滞在していた(同16:19)。彼らはパウロがエルサレムに向けて出発してから、もといたローマに帰ったようです。
雄弁家アポロを主にある兄弟としてパウロは尊敬し愛していたと考えられます。パウロの心の広さと、愛情深さを感じられる一節です。 『兄弟アポロについては、兄弟たちと一緒にあなたがたのところに行くようにと、しきりに勧めたのですが、彼は今行く意志は全くありません。良い機会が来れば、行くことでしょう。』(同16:12)
パウロはアポロに、コリント教会では、今まで色々なごたごたがあったのだろうが、もう一度コリントの兄弟達に、会って親交を深めたらどうかと勧めたが、アポロは、何か心のわだかまりがあって、コリントに行くことは全く考えていないようでした(心ならずも党派心を生じさせた後悔があったのでしょうか)。 同じ信仰に歩みながらも、しかし人間は感情の動物です。何かの人間的な事件、行き違いの中で、必ずしも心がしっくりいかなくなり、信仰を同じくしていても、お互い同士の中で疎遠になってしまうこともあります。
私の52年間の信仰生活の中でも、何度かそのようなことを経験しています。性格にもよるだろうが、福音のためとは言え、何らかの失敗、争い、人間的な施策や、考え方の違い、あるいは組織の中の止むを得ぬ行政的措置等によって、私達の繊細な心の奥の方に、気が付かないうち、あるいは自覚的に、深い傷が出来てしまうこともあるのです。信仰の兄弟同士であっても、あの人とはあまり会いたくないなどの軋轢が生じてしまう。何と人間は小さく、弱く、脆い、存在であろうか(これは田中清二、自分のことを言っています)。そうであってはいけないと思いながら、つい、どことなく他人行儀で、よそよそしく振る舞うようなことになってしまう者なのです。しかし、イエスはこんなに弱い、小さな取るに足りない土の器を赦し、清め、受け入れて下さっているのです。このイエスにしっかり結び付くことによって、やがて、時間はかかっても、心のわだかまりは、それがどんなものであっても、取り去られ、お互いに手を取り合って、信仰の兄弟として励まし合える時が来ると信じています。「過去、色々あったけど、あなたも私もイエスにあって、一つになろうよ」と、お互い言い合える日が来るようになると確信します。
『人の心を見抜く方は、"霊"の思いが何であるかを知っておられます。"霊"は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。』(ローマ8:27~28 )