2023/5/8(月)日記

2023年06月16日

第7日目 5月8日月曜日

昨夜はあまり良く眠れず、朝6時には目が覚めてしまった。一つの原因は、昨晩ちょうど夕方に雨が激しく降ったことにある。もし朝起きて、雨が降っていたらどうしようと心配をしてしまった。マンションから「あしびなー」のバス停まで、7~8分かかる。

そこで、目が覚めるとすぐカーテンを開けて、外を見た。雨は止んでいるが、空全体が曇っていて、西側の遠くの方から、怪しげな黒雲が近づきつつあるのが見えた。今雨が止んでいるうちに、急いで出達して、早いとこバス停まで行ってしまう方が良いと考えた。眠い目をこすりながら、短時間で準備を終え、KNさんのメールボックスにカギの入ったファイルを投函し、「あしびなー」のバス停まで歩いた。今にも降り出しそうであったが、雨はその時点では降ってはいなかった。

バス停近く、道路を隔ててすぐにあるローソンによって、コーヒーと弁当を買い、ローソンの出口から左の場所で少し腰掛けながら買った弁当を食べコーヒーを飲み、再びローソンの中に入って、ごみ箱にごみを捨て、「あしびなー」のバス停に戻った。

昨日調べておいたとおり、やはり空港行きのバスは、10時半にモールの近くの別の専用バス停のところでしか出ていない。そこに行って、他にも空港行きのバスがないか見た。そのとき、無情にも雨がそんなに激しくはないが降り出してきた。このモールより海岸の方にイイアスがあり、イイアスから空港行きのバスが出ており、こちらには来ないで、空港へ行ける広い通りを左折して走って行くのが見えた。そうだもしかすると空港路線は、ここより海岸近くのイイアスから出ているのではないかと勝手に想像し、バスが左折した広い道を超えて、イイアスに向かって歩いた。イイアスより一つ手前のバス停に、青年が大きなスーツケースを持って、バス待ちをしていた。朝7時20分頃だった。雨も激しくなってきたし、そこのバス停には屋根もついていてたので、そこで一休みした。バス待ちしている青年に「失礼ですが空港に行くのですか」と聞くと、「そうです」と言う。「今バスを待っているところです」と、スマホをチェックしていた。これは良かった。「この若い方について行けば空港に行けるな」と思い、一緒に行くにした。7時32分、待ちに待ったバスがやって来た(後でわかったことだが、このバスは空港行きではなく、途中モノレールの赤嶺駅に止まり、赤嶺駅からモノレールで空港に行けるのだった)。

しばらくバスに乗り15分くらいしたところで、運転手さんに「空港まではあとどのくらいですか?」と聞いたところ、運転手は驚いた様子で、「このバスは、空港には行きませんよ。途中、赤嶺で下りて、モノレールで行って下さい。」と言った。

赤嶺とバスの運転手は言ったのだが「ナカミネ」と私の耳が聞き違えた。「次ぎ赤嶺です」と放送があり、私は「ナカミネ」で下りると誤解しているから、そばに座っていた青年に、「ナカミネで下りるのか」と聞いたきいたところ「自分はこの赤嶺バス停で下ります」と言うので、一緒に降りた。何と後から、ナカミネと赤嶺の聞き違いだったのかと分かって納得。どうも自分の耳が最近遠くなっており、聞き間違えが多く、困っている。(老化は確実に始まっているのです)

赤嶺駅から、ゆいレールに乗車、今日は5月8日月曜日、連休も終わり大勢の客が乗っていて、混んでいた。スーツケースを持っている多くの人が乗っていた。那覇空港の駅は何と赤嶺駅から一駅だった。「何だ、こんなの位置関係だったのか」と拍子抜け。混んでいるモノレール内の私の隣に立っていたのは、一緒にバスで来た青年だった。「また会ったね」と声をかけた。この青年は本土の人で、たぶん関西のどこかの出身だ記憶している。やっとの思いで珍道中も終わり空港に着いた。まさに自分的には勘違いの連続の珍道中であった。

無事空港に着いたことをNKさんにライン通話した。その時がちょうど午前9時頃、あまりにも空港に早くついてしまったことを、驚き、「飛行機は何時ですか?」と聞くから、「12時10分」ですと答えた。「まだ3時間もあるじゃないですか」と言われた。その通りだが、雨に濡れるのが嫌だったので、この選択も仕方なかったかな、と今は思っている。

結局雨はたいしたことはなかった。少しは濡れたが、すぐ乾いてしまった。とにかく無事に空港に着いたのだから、総ては良しとしなければならない。KNさんに「今回の旅行は、本当にお世話になりました。」とお礼を言って、電話を切った。

まだ出発まで3時間もある。さてどのように時間を潰すか考えたが、結局空港内ビルの中を、ほぼくまなく歩いた。お土産屋で様々なものを売っているので、見るだけでも楽しかった。既にお土産は購入済みであり5月5日に小包で郵便局から郵送してある。 

また、機内で食べるために、下の階に行き、着いた日に行ったローソンでお弁当を買って来た。それにしても色々な土産があるものだ。ハブがお酒の中に浸かって大きな口を開けているとっても高いハブ酒、種類が多いシークヮーサージュース、一番気になったのは、御菓子御殿の紅いも生タルト、保冷パックに入っているが3日しか持たない。お土産としては最高であろうがちょっと日持ちしないかな、自分達で食べるには最高のお土産になる。

さてあっちに行ったり、こっちに行ったり、ベンチに座りスマホを見たり、やっと2時間が過ぎた。出発1時間前になったので、早めに自動預け機でスーツケースを預け(やり方は羽田と同じ)、その後手荷物検査を受けて、無事入場した。

中に入ってからは、那覇空港の駐機している飛行機の写真を撮ったり、トイレへ行ったりしながらゆっくり順番を待った。どうせ第4グループの私は最後の搭乗順になるのだし、もう席も決まっているわけだから、焦る必要も急ぐ必要もないので、じっくり搭乗待合室の椅子に座っていた。やがて最後の列も切れそうになったので、後ろに並び、もう慣れっこになったスマホのバーコードを搭乗最後のゲートにかざし、パッセンジャーボーディングブリッジを通り、機内に入った。

帰りは、主翼のそばではあるが、窓際に座れ、窓の外の景色を楽しむかことが出来た。おまけに隣は、空席だった。この方はせっかく格安航空券が手に入ったのに、途中でキャンセルしたのだろうか。 

那覇空港を離陸して、島影などを目で追いながら、つかの間楽しむことが出来たが、なんせ天気はあまり良くなく曇りがちであったので、機体はすぐに雲に包まれてしまい、後は雲を見ていても仕方がないので、外を眺めることは止め、弁当を食べたりして時間を過ごした。飛行機は何事もなく2時間ちょっと飛行を続け、着陸態勢に入り、外房の館山、内房の富津か、木更津の上空を通過、東京湾の上を通り、14時半頃羽田に着陸した。

何かもう見慣れた風景になってしまった。今回はJALを利用したが、半年前の沖縄旅行は全日空機で同じコ-スを帰って来たのだった。羽田でスーツケースを受け取って、外へ出て、何を利用して帰ろうか考えた。今回は時間も、精神的にも余裕があったので、リムジンバスの利用は止めて、来たときと同じコースを逆にたどった。

モノレール、山手線浜松町、新宿、乗り換えて、京王高尾山口行き、KK駅下車の順です。しかし今振り返れば、やはり帰りはリムジンの方が楽だ。特に乗り換えるたびに、ホームで、重いスーツケースを引きながら、エレベーターを探すのもかなり大変だ。エレベーターはホームの端などに設置されているので、そこまで行くのが疲れる。結局重いスーツケースを持ち上げ、階段を下りてしまうことも少なくなかった。リムジンだったら、八王子行きは本数が少ないので、多少待つことにはなっても、バスに乗ってしまえば八王子に着くまで、座って行けるし、道路が渋滞して時間がかかっても、自分の家に着くことが目的なのだから、遅れても何の問題もない。

㏍駅に着いたのが17時半を少し過ぎていた。ゴロゴロとスーツケースを引きながら15分ほど歩き我が家に着いた。すると、家の前の道路を、なんと逆の東の方から、お婆ちゃんと家内が歩いて来るではないか。ちょうど家の前で、まるで申し合わせたようにバッタリと会ってしまった。「ただいま」って挨拶すると、「お帰りなさい、無事で帰って来られて良かったです」との返事が返って来た。今日月曜日家内は、ヘルパーの仕事が16時から17時まで近所であるが、たまたま、お婆ちゃんが一人で坂を下ったところにあるセイムスに買い物に行ったので迎えに行き、2人で坂を上って来たところだった。私の母は来年で満98歳になる。元気でしっかりしているとは言え、最近は脚がめっきり衰えて来た。そんな母を残して、私が安心して、沖縄に今回行くことが出来たのも一緒に住んでいる、再婚して30年以上になる、私にとっては出来過ぎの家内のお陰です。歳をとれば誰でも言えることだが、配偶者の助けは有り難く、自分の手足のように補助してくれる存在になって来るのです。聖書には『夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。』(エペソ5:28)と書かれている。この言葉通りには到底なっていない自分を恥じ入るばかりだが、妻を怒ったり、憎んだりしたら、それは自分の体を怒ったり、憎んだりしていることと同じことなのだ。

さて、お婆ちゃん、家内、私と一緒に家に入り、居間ですぐにお土産話をして、夕食を早めに食べた。その晩はビーフシチューだった。日本蕎麦を食べたかったが、既にできていると言うので、それを食べて、すぐに風呂に入って、早めに床に就いた。


今回の旅行を振り返って思ったこと。NSさんも、KN先生も沖縄で元気で仕事をしておられたのを見て安心した。沖縄で、それぞれ、職種も違うが、健康にも恵まれ、一生懸命忙しく働いていた。沖縄では沖縄なりの生活があり、毎日の生活をこなしている。当たり前であるが、皆遊んではおれない立場なのだ。

特にNSさんは、本職は造園業だが、「何でも屋さん」のように、声がかかればそれが名護であろうと、南部の方面であろうと、仕事の種類を問わず、2トン車のトラックに乗って働いていた。また奥様は癌を患っているので、八重岳のお家で、家の周りに自生している薬草を採取し、玄米食1日1食で暮らしている。夕食にはお腹が空けば果物くらいは食べるとは言っていたが。それが良いか、どうか私には分からない。医者には毎月行き、検査しているそうで、今は大きくなっていないので、経過を観察中だが、私は思い切って手術して、取ってしまった方が良いような気がする。もちろん、神の癒しがあることは、私も信じているが。

KNさんは、毎日歯科医として尊いお働きがあり(個人経営の歯科医院)医院は順調で、自由診療で治療する患者さんも多く、沖縄でも富裕層の方々が、大勢治療に訪れているようだ。そういう意味では、経済的には問題なく、健康で、昔と変わらない若さを保ち続けている。

KNさんの高級マンションの部屋は、さながら小さなスポーツジムだ。特に週に2日あるお休みの日には、朝からルーティンとして、筋トレ、柔軟、自転車こぎ、シックスパッド等を多用し、もう約3年半以上に渡って続けている。腕の筋肉は私の2倍の太さもある。ただ一つだけ危惧していることは、KNさんが、もう離婚して20年以上もたつのに独身を続けていることだ。今年68歳になる。私は5歳上で73歳。いつまでも歯科医として現状を維持して働くことが出来るかと私は心配している。SDAの家庭に育ち、健康的な食事にも気を付け、たばこ、酒、賭け事等この世で言う娯楽など何一つやらない。品行方正、超真面目な生き方をしている。きっと将来、どこかでスペシャルな高級老人ホームにでも入る計画は持っているに違いない。もちろん誰でも歳は取って行くのであり、そういう生き方も悪くはない。しかし出来たら私は、適当な方と再婚し、KNさんの生き方を深く理解してくれるパートナと楽しく、余生を過ごして欲しいと願っている。これはいつも私の祈りの課題であり、そのように祈り続けている。

 

ここからは、今回の旅行で考えさせられた、私の救いに関する神学的理解を書くので、興味がある方はお読みください。

SDAの信仰を考えるとき、一般の福音派の教会と違い、どうしても神の律法‐十戒を福音とどのように調和させて行くか、考えざるを得ない。神の律法は聖なるもの、善なるものであるのに、なぜ善なるものが私達を罪と死に定めるのか?それは私達が根本的に、生まれつき肉に付ける者であって、罪の性質を持ったまま、肉の努力や能力では神の律法に従うことは不可能だからです。

イエスの十字架の贖いによって、罪赦され、罪なき者としてみなしていただく、これが義認であり、救いです。イエスの義の生涯を象徴する、罪なき義の衣をいわば着せられて、神の前に、一度も罪を犯したことのない者として、受け入れられるのです。

そして、大事な事は、イエスと共に、イエスの肉が十字架で砕かれたとき、自分の生まれ変わっていない肉(あらゆる欲望、自己顕示欲、金銭欲、物欲、情欲、憎悪、嫉妬心、利己心、怠惰、社会的地位、名誉、誇り、高慢、学識、賭け事、酒宴、宴楽、泥酔、etc)がイエスと共に死に、砕かれてしまったことを認め、新しい生に、聖霊の降下を受けて、生きて行くことです。

律法の要求は霊によって歩むことによってしか満たすことはできません。もはや肉によって、自分の努力や才能、学習等によって得た能力によって生きることを放棄してしまおう(各人の能力、賜物は新生された後に、また神の御用の為に使われる可能性はありますが)。一度総てを十字架に付けてしまわなければなりません。

SDAの信徒の中に、真の生まれ変わりを経験せずに、自分の肉の力、能力、我欲に頼って行動し、あたかも表面的に神の義を実行し、十戒の文字面だけを表面的に守って、神に受け入れられていると、勘違いしている人達もいるのです。偽の表面的な敬虔さの中に安住している人がいるのです。私もかつてはその一人でした。

そういう人に私は尋ねたい。律法の精神は愛であり、それは神と人の両方の為に、命を捨てるほどの深さを持って、愛の実行をすることです(もちろん聖霊によって心に住んでいただかねば自分ではできないですが)。私もあなたも、困っている隣人の為に、自分の命を捨ててまで助けに行けますか?今信じていると公言しているクリスチャン信仰の為、迫害が起きた時、その公の言い表しの為に、神の為、命をも捨てられますか。

信仰は愛が一番大事だとある方々は言う。その通りだと思う。しかしその愛は、中途半端な愛ではないのです。究極的には、神と人の為に、自分の命を削り、ある時には自分の命を捨てる事すら求められるのです(そのような時が来ないように私は願っていますが)。

『神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。』(ローマ8:14)

『「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。』(ローマ10:13)

教会の教理や聖書の神の言葉に対する理解に、人それぞれに微妙なズレあったとしても、それは魂の救いや、イエス・キリストを信じる信仰の一致を妨げるようなものではないのです。

『ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。』(ピリピ3:16)神の愛と赦し、慈愛と寛容、その深さは私達が考えているよりも大きいのです。その人が持っている、キリストに対する信仰の確信、たとえそれが第三者から見て、少しおかしな点があったとしても、その確信はやがて救いに至る尊いものです。

安息日遵守に対する多少の理解のズレ、新生、聖霊によって歩むことの大切さ、何が罪であるかの理解、肉とは何か、霊によって生きるとは何か、永遠の命の実態は何か、本当に我らの復活はあるのか、世の終わりはあるのか、これらの諸問題について、個人によって多少意見が違っているのです。KNさんと旅行中に話したことを思い出します。罪とは何か、肉とは何か、突き詰めて行くとこのような大きな問題に行きあたるのです。

人はドグマ(教義)によって救われるのでないし、神の前に尊いのは、愛によって働く信仰だけなのです。『愛の実践を伴う信仰こそ大切です。』(ガラテヤ5:6口語訳)

イエス・キリストにあって、新しく造られることが、最も大事な事なのです。『大切なのは、新しく創造されることです。』(ガラテヤ6:15参照)

『律法についての論議を避けなさい。』(テトス3:9)とも言われています。要するに、私達が何を目指し、何をモットーにして生きて行くかが問題なのです。『「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。』(コリント第一10:23)

キリストの贖罪を心から信じるとき、赦していただけない罪や過去の失敗はありません。神に真の悔いの心を持って祈るとき、十字架で流された血潮のお約束のゆえに、すべての罪は赦されるのです。そしてこれからは、イエスの霊と共に生きて、愛の生き方を、イエスのお力によって、自己の外側に表して行くことです。

最後にコリント第二の手紙の自己流解釈を引用しておきます。(私のホームページhttps://paurosyokann.webnode.jp アドレスをクリック、右上端 ≡印メニューをクリック、下にスクロール  コリント第二 最下段参照)

目に見えない第三位格の聖霊の神、言葉を変えて言えば、目に見えない形でのイエスの霊が、聖書の御言葉と一緒になって、私達の歴史や、個々の人生、個人の心の動機に至るまで、影響を及ぼし、実際に関与していることを考慮して行かなければ、キリスト教信仰は理解できない。あなたがたの内におられるキリストを自覚し、理解し、祈りにうちに、霊的覚醒をもって、毎日を生きて行くことが重要です。ある意味それは、信仰生活の中心と言っても良い。男にも女にも、小さき者にも、大きな者にも、平等に、心に宿り、住み、その偉大な知識と権能をもって、聖書の言葉を通して、教え導いて下さることが出来るイエスの現臨する、霊の確かさの中で、祝福の内に人生を歩んで行こう。

 『静まって、わたしこそ神であることを知れ。......』(詩篇46:10口語訳)

静かな心で、全く世俗から離れて、天を仰ぎ、父なる神から出て、キリストを通して注がれる聖霊を求め『...イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。......』(使徒行伝2:33新共同訳)、聖霊のバプテスマを注がれることを心から願い、聖霊の内住と、臨在をいただく時間、心に静かに聖霊が語りかける小さな声に耳を澄ます事、聖霊に満たされる事、ただそれだけを求める事、その事が人生において一番大事な時間ではないだろうか。

第2のアダムとなったイエスの霊が、私達の日常の空間、物質第一主義の世俗を打ち破り、天からその支配を明確に関与させる時があります。地上においても、キリストの臨在が感じられ、その義と命の支配が顕れるのです。『......キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。』(コロサイ3:11新共同訳)神の霊を求め、イエスの救いを瞑想し、今イエスの愛を心に宿し、イエスのお力で隣人を愛して行くこと。自分の肉的な努力ではなく、ただイエスによって強められ、生きる事は全てキリストになり、キリストの内に生き、行動し、キリストを仰ぎ見ながら生きる時間。キリストの臨在と、内住を意識し、何を為すにも、キリストが全てとなって行きます。こんな生き方をして行こう。こんな時間が私にとって至福の時間です。

再臨の時は、この世にある物、何もかも、肉的、物質的な物は全部燃えて滅びてしまいます。残るのはただキリストとの交わり、贖罪、復活、永遠の命だけ。ここに自分の精神も、時間も、心も、魂も集中して行こう。滅ぶべきこの世と、世が提供する肉の快楽を求めて、気が付いた時には、人生の多くの時間を、無駄に過ごしてしまったとならない為に。

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