2022/11/23(水)日記
2022年11月23日水曜日 沖縄第二回目旅行第四日目
さて、4日目は良く眠れ、疲れもほとんど取れた。朝起きたのは7時半頃か。部屋は7階であったので、歓楽街である松山の町の騒音はほとんど聞こえてこなかったので快適であった。
もうだいぶ慣れてきていたので、いつものように、身支度を少し整え、1階の食堂に向かい、朝食券を所定の場所に置き、手をアルコール消毒、同時に検温、ビニール手袋をはめて、トレイにバイキングで好きなものを取り、いつものように朝食を済ませた。まだ2回目だからよいが、明日と明後日同じ食事だと少し飽きるかなと、内心思った。でも、全く同じと言うわけではなく、少しおかずは、変化を持たせているようだ。3連泊で同じ部屋が使え、お土産もスーツケースも、ビニールに入れてある着替えた衣類も、そのままに部屋においておけるのでとても楽だ。食後はしばらく部屋でゆっくりできた。祈ったり、簡単に聖書を読んだり、落ち着いて朝のディボーションを短い時間であるがすることが出来た。朝起きた時、窓を見ると雨が降っていた。今また外を見ると、少し小雨になったようだが、相変わらず雨は降り続いていた。午前10時少し前にKN先生からライン通話があった。「車にガソリンを入れて行くのでちょっと遅くなる。」と言うことであった。私は快く「いいですよ、ゆっくりで大丈夫ですよ。」と言っておいた、どうせ今日は一日雨だから、大した沖縄観光はできないと覚悟は決めていたのです。
午前10時を回り、取り敢えず、今日必要な手荷物だけ、中身が見えない厚めの小さなビニールの袋に入れて、野球帽を被ってフロントまで下りてきた。何名かの方がフロアの応接椅子に腰掛けていた。やはり外は雨なので何処へ行くのか決めかねているのだろう。大きい声でお話しなさっているので、私は1階の展示品や、贅沢な空間を使い玄関わきに整備されている、ホテルでは珍しいビジネスルームなどをフロントの受付の許可を取って、見学した。この部屋はとても贅沢だ。大きな横に長いテーブルに、快適な椅子が相対で3脚づつ、6脚ほど用意されており、本棚にはいくつかのビジネス関係の本と、インターネットの設備もあった。ノートPCを持ち込み、必要ならここで快適に一日中でも仕事をすることが出来る。もちろんほぼそんな人はいないだろう、宿泊客のほとんどは観光目的で来ているのだから。
ちなみにホテルの受付の電話はしょっちゅうかかってきて、フロントとお客様との会話の中で、このホテルは一泊素泊まりで、7,000円であることが分かった。私はYahooトラベルで往復の航空券込み合計4泊朝食付きでこのホテルを予約した。Yahooパックであるので個々の値段は良く分からなかったが、全国旅行支援利用で随分割り引かれているなと感じた。
さてそれにしても、KN先生が来るのが遅すぎる。午前10時半を過ぎたのにまだ現れない。玄関外を見ると、少雨ではあるが雨が降り続き、ロビーの椅子に座って、スマホを見たり、玄関から外へ出て外を見まわしたり、何度もしているうちに、やっと先生のヴィッツがホテルの玄関脇の道路にやって来て止まった。
ここでKN 先生がどういう人物であるか、少し書いておく。先生は今67歳、見た目は50歳くらい、若くて昔とあまり変わらない。現役の歯科医です。那覇市立O小学校のそばに、K医院を開業してから16年になる。その前に勤務医で5~6ヶ所11年余過ごされているので、歯科医としての経歴は合計で27~28年になる。超腕の良いベテランの歯科医です。余談になるが先生の話によると、歯科医の腕はかなり良い悪いの差があり、歯医者選びは十分注意が必要とのことです。
先生の医院では、審美歯科の看板を掲げているので、患者さんには沖縄でも富裕層が多い。職員はアルバイトを含めて4名(そのうち一人は産休)。給与の計算や歯科の事務等全部1人でこなしているので大変忙しい。そして先生は、もう20数年前に離婚し、その後再婚せず1人で家事をこなしている。と言っても、毎日忙しく、食事を自炊する時間はないので、ほぼ食事は外食です。もともと整理整頓が大好きな、綺麗好きな先生なので、3年前に購入し今住んでいる高級マンションのお掃除は大変だと思われる。経済的には恵まれているし、誰か良い再婚相手はいないかと、私は常々八王子で祈っているのだが、なかなか現れない。今回私はホテルに全泊となったので、先生のマンションには行かなかった。
先生は多忙な毎日を送っておられ、私の様な72歳の、年金生活者で、暇を持て余している老人の気まぐれな沖縄観光旅行に付き合うのは大変なことなのだ。先生にとってこの11月23日水曜日の勤労感謝の日と24日木曜日(歯科医院の定休日)の連休はとても貴重な休養の日であったと思う。
だから私は、今朝先生が来て下さったのが午前10時45分頃であったとき、「ああ申し訳ない、私のために貴重な休みを没にして、観光案内していただいて」と心から思う。おまけに今日は一日中雨降り。
ヴィッツの助手席に乗って、行先はすべて先生にお任せした。
さて、車は沖縄高速道路を通り、許田インターで下りて名護市内に入った。雨は降り止まず小雨になったりしながらも降り続いている。そんな訳で、名護城跡公園を車中観光することになった。公園は1月の末頃になれば3,000本もの桜が咲き、日本で一番早く桜まつりが開催される。海抜100㍍の頂上まで車で行けるので、ほぼ全体をドライブできる。沖縄の桜は、台湾や中国南部が原産のカンヒザクラ(寒緋桜)と呼ばれる種類で、例年1月末から2月頃に開花。ヒカンザクラ(緋寒桜)と呼ばれることもあり、花は直径1.3cmほどの楕円形で、濃いピンク色が特徴です。https://aumo.jp/articles/43055 名護城公園(なんぐすくこうえん)の天上展望台をリンク貼っておくのでクリックして見てください。天上展望台まで行ったときは雨がほとんど止んでいたので、車から降りて上って来た。屋根付きなので雨でも景色を見ることが出来た。インド人4~5人のグループがこんな天気なのに観光にやって来ていた。名護市内を一望できる穴場スポットだ。車で1分位行くと、喫茶店やお土産を買うことが出来るカフェ「Subaco」https://www.tabirai.net/sightseeing/column/0006187.aspx(リンク有)があり、そこの2階でコーヒーを飲み、ケーキを食べた。またご馳走になってしまった。随分そこでゆっくりして、写真などを撮った。若い従業員の方がいたので私と先生、2人で並んで撮ってもらった。もう時間は午後1時半近くになっていたので、そろそろお大家(うふやー)に行かなければならない。一昨日、NSさんとMさんのところに伺った際、水曜日の勤労感謝の日はMさんが大家に働きに行かれると聞いていたので、午後2時ごろNSさんも、大家で合流することになっていた。
KN先生も、NSさんと是非お会いしたいと言うので、NSさんにラインで電話したところ、浦添で水道工事の仕事をしているので、早く終われば行けるとのことであった。名護中央公園から大家までは20分くらいだった。
大家に着いたのは午後2時少し前。駐車場に車を止めたが、その時は強く雨が降っていた。少し雨が弱くなるのを見計らって車を降り、入り口の門をくぐった。そこに置き傘が用意されていたので早速傘を差した。ゴルフ場のカートみたいな乗り物で、上の方から谷底の大家の店に降りて行くのだが、今日はカートは動いていない。雨のためスリップしたりするから安全の為だろうか。したがって、Mさんは今日は来ていなかった。2人で少しガッカリした。でも、これはしょうがないことだ。
さて下りの道を歩いて行くと、料亭のある建物群に着いた。7~8軒の琉球古民家が移築されて、お店等に使用されていた。お庭も、バオバオの木や、各種熱帯植物が植えられており、池には錦鯉が泳ぎ、高級料理店の雰囲気を醸し出していた。NSさんに今どこにいるか、電話したところ「浦添での仕事を終えて、名護に入ったところで、先に食事を始めていて下さい。」と言うので、注文し先に食べ始めることにした。https://ufuya.com/ (リンク有)動画右上のメニュー、動画ギャラリーところクリックすると建物の雰囲気が分かります。
KN先生は、沖縄そば以外にも色々頼んでくださって、特にパッションフルーツのジュースがとても香りが良くて美味しかった。私は35年前石垣島にいたとき、八重山教会の信者のUさんが、パッションフルーツを栽培しており、たくさんいただいたことがある。ちょうど鶏の卵のような形をした、表皮はキウィ―の様な黄土色であるが、中身は変な例えで申し訳ないが、ヒキガエルの卵にそっくりです。上の方を切って、スプーンで、すくうようにしていただく不思議な食べ物です。ここのジュースはかなりパッションフルーツが入っていて大変美味しかった。さらにジューシー(沖縄風炊き込みご飯)、パパイヤのお新香、麵は大盛りにして、ゆで卵もよけいに頼んでくださったので、お腹はいっぱいになった。そうこうするうちにNSさんが来て合流し、KN先生が私達と同じものを注文し、プチ同窓会の開催となった。NSさんは、浦添で水道工事をやって働いて来て、お腹も空いていたのだろう、大盛りの沖縄そばを美味しそうにすぐに食べてしまった。私も何とか少し時間はかかったが、出されたものは全部平らげた。KN先生が私の器に残った肉を、「食べないならいただきますよ」と言って、ペロリと食べてしまった。私は顔には出さなかったが、内心少し驚いた。
日本三育学院がまだ千葉県袖ケ浦市の楢葉の丘にあった頃(現在は千葉県夷隅郡大多喜町に移転https://www.saniku.ac.jp/リンク有)、当時はまるで西部劇に出てくるような、廊下を歩けば、ガタピシと音を立てる、手作りの、赤いトタン屋根の寄宿舎で、私は何年か学生生活を送っていた。私も、NS さんもKN先生も若かった頃です。ある年の部屋替え(半年に一回に部屋替えがある)今は立場が変わり、SOSTV日本支部長をやっておられた山本不二樹(ひでき)先生が、若いとき、カレッジホールと言う名の男子寄宿舎の寮長をやっていて、この仲良し3人組を同じ部屋にしてくれた。部屋の構成は寮長に決める権限が与えられていたのです。
その半年間は、いまだに思い出しても楽しく忘れられない。仲良し3人組の年齢は、私が24歳頃、NSさんが20歳頃、KN先生が19歳頃であろうか(1~2年の違いはご容赦ください)なんせ48年くらい前の記憶ですから。
私は模範的な先輩ではなく、いつも体が弱くて、農場での「労作教育」と称する農作業の帰り、キャンパスに戻る途中、ヘトヘトになった身体を、天文台のある丘の芝生に横になって、神に癒して下さいと祈ることを日課のようにしていた。
思い返せば、体力のないひ弱な身体を持っていた(今でもそうであるが)。私は、知・徳(霊)・体の教育を提唱する三育教育、特に労作教育の一環として、学校の敷地にある2~3ヘクタールの広大な農地で、農作業させられるのが辛かった。1年生で入学した当時、ほとんどの新入生は農業部に配属されるのが通例だった。私はとにかく土いじりなどしたことがない。小さい時から体が弱く「箸より重いものを持ったことがない」とよく例え話に使うが、まさにそのような人間だった。
当時農業部の責任者の竹上先生の指導の下、随分訓練をされた。しかし2年目からは配属替えを頼み、キャンパス部にしてもらった。キャンパス部は学内の植木の手入れや、植栽、芝刈りなどが主な仕事であった。名物先生の故清野郷司先生の下、とてもハードな薫陶を受けた。私が3年生になった時、こんな体力のない(そのころは少し体力がついていたのかも)私に清野先生は、キャンパス部の指導を任された。何故だ?
先生は朝のミ―ティングを、管理棟で10~15人ほどの学生の前でやり、取り敢えず皆と一緒に現場に行く。そして私に「田中さん今日のやることはこれとこれ、ここに木を植えて、そこの木を切って」どうのこうのと説明をして、皆で仕事を始める。そうしておいて、いつの間にか姿を消してしまうのです。私の下には、1~2年生の大学生が残る。それならまだ良い、半分くらいは高校生の男女がいるのです。その当時キャンパスには高校の男子寮と女子寮があり、大学と高校は同じキャンパス内にあったので、労作教育は、カレッジ生も短大生も看護学科の生徒も高校生も一緒だったのです。指導の先生がいなくなれば、彼らはサボルことしか考えていないのです。そして先生はいつの間にか帰って来て、怠けている彼らを怒らないで、監督している私を怒るのです。「何故仕事をさせないのか、怠けたままにさせているのか」と。清野先生には「ドンちゃん」と言う仇名があり、雷を落とすので有名でした。この当時は一度定年退職し、再雇用で働いておられ、昔よりもだいぶ穏やかになられたと言っても、私は何度先生に怒られたことか。そこで、私も心を鬼にして「お前たち何やっているんだー」と言うような言葉遣いになり、怒鳴り散らしながら、彼らに仕事をさせるように、豹変してしまったのです。このころ傷つけてしまったたくさんの若い方々がいると思うのですが、この場であやまっておきます「ごめんなさい」。あのような態度をとって、働かせたことは、決して私の本心ではなかったのです。あるとき清野先生が、個人的に私に言われた言葉をいまだに覚えています。「田中さん、あなたに覚えてもらいたいことは、人はどのようにしたら働いてくれるかと言うことです。あなたも卒業したら将来、人の上に立って指導して行かなければならない立場に立つことでしょうから。」
先生のおっしゃった通り、奇しくも35年前に私は八王子横山町郵便局長となり、管理職を28年と9ヶ月やって来た。定年で6年9ヶ月前に退職するまで、人を働かせるのに苦労してきたのです。人には様々な性格があり、罪に堕落した傾向を持つ人間は、仕事を怠ける傾向をたくさん持っている。もちろん中には勤勉な方もおり、採用されてから、いつも積極的に仕事に取り組み、ドンドン上を目指して進み、役職に登用され、最終的には局長になった優秀な部下をたくさん見てきた。しかし押しなべて言えることは、甘い顔ばかりしていては、人は、上司を甘く見るばかりで、中々思うように動いてくれない。もちろん怒ってばかり、怖いばかりではまた人は動いてくれない。理解し同情しその人の身の丈まで下りてやり、共に問題に取り組み、助言や指導してやることも大事だ。私は酒は飲まないが、多くの場合、職場が終わった後、酒を驕り、料理を食べさせ(高い料理など薄給の局長にはとても提供できないが)たまにはノミニュケーションを持つことも大事なのです。
そう言えば、清野先生も、何回かに1回は、食堂の建物の下にあった購買部でお菓子をいっぱい買ってきては、仕事の終わりに、もう今日はこれでおしまい、さあ休憩しようと言うことで、10~15名の学生達を、芝生に座らせ、お菓子を広げ、笑いながら歓談したものだ。こういうことをしないと人はついてこないのだ。私は、どうしたら人を働かせることが出来るかを学べ、と言われた先生の薫陶の言葉を生涯忘れることが出来ない。
さてさて、私はまったく模範にならない、だらしない先輩であった。朝6時半から寮のチャペルで礼拝があるのだが、ほとんど部屋で寝ていて、礼拝など出たことがない。体力がなくて疲れていて、朝起きれないのだ。それどころか、食堂で朝食を食べることも出来ず寝過ごし、KN先生に、パンを持ってきてくれと頼むこともしばしばであった。大家で沖縄そばを食べながらそんな話をして、今思い出しても恥ずかしく悪い先輩であった。
ある時、農作業の帰りの夕方、夕食を食べに食堂に向かっていた時のこと。わずかな距離であるが、農場から、食堂まで走ろうと言うことになり、何人かで突然かけ始めた。若者が良くやる衝動的な気まぐれな運動です。私は武蔵境にある都立武蔵高校に通っていた際、電車通学を八王子からしていた。その頃、短期間だが、陸上部に所属していたことがあった。それでダッシュは速く、先頭を走った。ところが途中で息切れてしまい、後から来たKN先生に追い抜かれてしまった。その時KNさんが、「田中さん、私は陸上の練習だけはしたことがないので、どういう練習するのか教えて下さい。」と言うので、「インターバル走法と言って、グランドで半周くらいを猛然とダッシュして走り、後の半周はダラダラとゆっくり走り、また出発地点に来たら猛然とダッシュする。それを繰り返すんだよ。」と言った。話をしていたら、そのことは48年もたつのに、KN先生も良く覚えていた。
時間のたつのも忘れ、記憶の中で青年時代に戻ってしまった3人の思い出話は尽きず、いつまでも続き、あたりは薄暗くなり始め、見回せばあれだけいた大勢の客もほとんどいなくなり、私達3人組の他には、後1組が残るのみとなった。
様々な話をしたが、私が知らなかった、エピソードがあった。KNさん、NSさん、もう一人体操が得意だった、すでに引退したHM先生が、3人で夏休みの学生文書伝道のアルバイトで、伊豆にいた時、地名は忘れてしまったが、近くの島に遠泳に出かけたことがあったそうだ。すぐ近くに見えた小島であるが、3人で泳いで見ると、かなり距離があり、本土の海は沖へ出ると夏とは言え海水が冷たい。泳いでいる最中に、船が横切ったりすると波が立ち大変で、KN先生は泳ぎが得意であったので島まで何の問題もなく泳げたが、HM先生は、途中で疲れてしまって、ギブアップして危なかったと言うのだ。そんな無鉄砲なことをするのが、若気の至りと言うことか。しかし、そんなことになる前に泳ぎだしの時、NSさんが岸に泳いで帰り、大きな流木(孟宗竹?)持ってきて、泳いできて、最終的にそれにつかまり、命拾いしたと言う話だった。NSさんは命の恩人なのだ、特にここにはいないがHM先生にとって。NSさんは謙虚に、「自分は泳ぎがそんなに得意でないので、そのようにしたのだよ。」と言っていた。
話は尽きなかったが、そろそろ帰ろうと言うことになって、たくさんの写真をこの大家で撮影しながら帰途についた。KN先生は学院で別かれてから50年ぶりくらいでNSさんにあったと感慨にふけっていた。でも、実際にはKN先生のお父様、沖縄の文書伝道者では伝説的に有名なKNさんの葬儀に、NSさんは出て、10年くらい前に葬儀場でKN先生には会っているとのことだった。KN先生は、父親の葬儀のことであれこれ気を配り、忙しかったのであろう、覚えていないようだった。NSさんは、卒業後、北海道帯広で6年間農業に従事、その後沖縄に帰り、名護のすでに引退した儀部先生のお父様が経営しておられた造園会社で10年働いた。そして、今の八重岳のゲストハウス等の施設の管理をしてもらえないかと言う、ドクター比嘉の依頼に応えて、八重岳に住むようになって10数年たった。那覇に住んで歯科医をやっているKN先生とは、同じ沖縄と言っても生活圏が違い、会う機会がなかった。
私が沖縄に来たことがきっかけで、お互いの旧交が温められて、本当に良かったと思っている。KN先生も直接私に「田中さん、このような設定をしてくれて有難う。本当に楽しかった。」と言ってくれた。
KN先生は若かった当時とほとんど、変わらない姿だ(それなりにSDA的な食物を食べ、健康的な生活、運動もしている。もともとSDAの家庭に生まれ、沖縄三育中学校、千葉楢葉の高校、カレッジを卒業、米国のアンドリュース神学校まで留学した秀才)。
私とNSさんはそれなりに歳をとった。NSさんは、日頃、かなり肉体労働をしているので、元気は元気だが、すっかりお爺ちゃん顔になり、私は頭がすっかり禿げてきて、後ろから見ればまるで坊主だ。
名残惜しかったが、ここで本当にNSさんとの今回の旅の別れとなった。大家の下の方にも入り口があったことを今回初めて知った。料理を食べた棟から、いくらも歩かないうちに、下の方の入り口があり、そこにフィットをNSさんは止めており、私達はまだ小高い上の方の駐車場までかなり歩いて行かなければならないので、そこでお別れした。別れ際にNSさんが、どこで購入してきたのだろう、沖縄のミカン、たぶん沖縄の人でも食べたことがない人もいる、「タルガヨー」と言う名の珍しいミカンを下さった。ネットに入った、かなりたくさんのミカンを、KN先生と私に下さった。また、KN先生は3人分、かなりの値段になってしまったと思う食事を、ここでもご馳走してくれた。
さて許田インターから沖縄高速に乗り、車の中で、しばし楽しかった大家のひと時を振り返って話などをしていた。運転している先生を見ながら、また、私は3年前のことを鮮やかに思い出していた。3年前の10月13日日曜日、先生にご馳走になった同じ大家の帰り、沖縄高速道路の伊芸SAで、先生は眠くなってしまい1時間もそこで寝てしまったことを昨日のように思い出した。3年前には、今住んでいるマンションの、実家からの引っ越しが、私が訪問する1週間前にあり、たまたま私が1泊を先生のマンションの部屋ですることになってしまい、その準備やらで、3~4時間位しか寝ていなかったことを後で知った。大変なご苦労を3年前にかけていたのだ。
そのことを伊芸の標識を見て話すと、何と「今も同じく眠くなってしまった」と言うのです。これはいけない、伊芸によって少し寝てもらうことになった。伊芸パーキングで車を止め、車から降りて私はお店で買い物、先生は車から降りもせず、シートを横に倒して寝てしまった。3年前にはここで紅芋のお菓子をお土産に買ったことを思い出した。今回はここで「海ブドウ」をお土産に4パック買った。レジ脇に置いてあったので、生ものであったが、何とかなると思って買ってしまった。地域振興券が使えたので、躊躇しないで買えたのかなと思う。あちこち見ているうちに20分位たっただろうか、お店の出口から外へ出て車の方を見ると、先生が仮眠から目を覚ましたらしく、ヴィッツのライトが点いて、点滅したので、車に戻った。何か3年前のデジャブを見ているような気がした。
さて高速を首里の手前で下りた車は、昨日私が国道330号線で経験したような渋滞に巻き込まれるようなこともなく(たぶん通った道が違うのだろう)、順調に走った。途中、首里の近くに10年ほど前に完成した、小さいけれど大変綺麗に整備された「金城ダム」https://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=2905(リンク有)により、小雨が降っていたが、少し車を降りて、夜景を楽しんだ。
午後7時半ごろ松山のGRGホテルまで帰って来た。明日また会うのであるが、何か別れ難く、ホテルのフロントの女性の方に頼んで、玄関の無料で止められる駐車スペースに車を止めて(まだ雨は降り続いていた)、706号室に寄って頂いた。残念ながら1日雨の中、車中からの名護城跡公園の観光や、NSさんと私と先生と3人のプチ同窓会を大家で持てて大変楽しく有意義に過ごせたこと等、今日楽しかった思い出を振り返り、 歓談のひと時を持った。
私はホテルの部屋の椅子に腰かけ、先生はベッドの上でリラックスして腰を掛けておられた。そのうち疲れたのか、上半身は起こしていたが、ベッドで横になってしまった。私は、NSさんから昨日八重岳ゲストハウスで戴いた、飲み物を部屋の備え付けの冷蔵庫に冷やしていたのを思い出し、一つはゴマ豆乳を先生に、玄米ジュースを私が飲んだ。冷えていてとても美味しかった。【黒糖げんまい 200ml渡具知食品】 八王子に帰って来てググると、楽天で同じ物を売っているのを発見。しかし、送料が高いので、こちらで飲むのは少し贅沢かな。玄米ジュースの作り方は知っているが、実際に作ってみるとなかなか手間がかかり大変です。以前家で作ったが、家内は一回で懲りてしまった。
先生が飲んだ【黒ゴマ豆乳 きな粉入り(キッコーマン)】はネットでリーズナブルな値段で販売されている。
さすがNSさん、健康的なものを良く知っているな。
さて先生とはあまり遅くならないように、お祈りして別れた。お祈りの中で、どうか明日は今日よりも雨を降らさず、観光が出来るように祈った。すると明日24日はそのようになったので不思議だ。部屋を出て駐車場まで、見送った。まだ雨は降り続けていた。その後風呂に入り、やはりバスタブにお湯をためゆっくりくつろいで、すぐTVも観ないで寝てしまった(11月23日水曜日夜は、ワールドカップ ドイツ戦があったのに)。