2022/11/22(火)日記
2022年11月22日火曜日 沖縄第二回目旅行第三日目
目が覚めたのは、かなり遅かった。顔を洗い、ある程度身支度をして、ゲストハウスの共用ルーム(かなり大きめの部屋)にある時計を見て、時間を間違えているかと思ったほどだった。そこの脇のテーブルに何といつ置かれたのであろうか、八重岳ベーカリーから届いたパンと、地鶏の美味しいゆで卵が2つ、たくさんのカボチャの煮物、バナナ、ポテトサラダ、ヨーグルト、玄米ジュース、黒ゴマ豆乳と、とにかく食べきれない量の食品が置かれていた。かぼちゃの煮つけは2個ほど食べて、後は冷蔵庫にしまっておいた。オールブランがあったが、とても食べきれないので開封せず、そのまま置いておいた。きっと有効利用してくださるだろう。実はこのゲストハウスの宿泊代まで、NSさんが負担してくださっていた。重ね重ね甘えてしまい誠に申し訳ない限りです。
以上食べきれないほどの朝食を済ませ、バナナや飲み物等は持たせていただいて、スーツケースに荷物を詰め車で出発した。時間は既に午前11時はとっくに過ぎていた。11月22日火曜日の開始は大変遅くゆっくりしたものになってしまった。風呂場から、部屋のベッド周りから、洗面所まで全部一通り見回して、忘れ物がないかを確かめた上、ムーブに乗り出発した。もちろんNSさんには、電話をして、お礼を言った。彼はもう既に今帰仁方面で仕事をしていた。
さてムーブに乗ってわずか数十メートル走ったとき、向こうから別の車と人が来た。何とそれは比嘉ドクターの奥様、恵美子さんだった。40代と思われる息子さんが一緒にいて、私に紹介された。「今息子は、アメリカから1週間ほど帰ってきており、トラクターで、耕すお手伝いをしている。」と言われた。私は「施設の管理は大変ですね。」と答えた。「昨日警報装置のスイッチ切るのを忘れたので、気になって眠れなかったのではありませんか?」と聞かれるので、「部屋のドアを閉めると、全然聞こえなかったので、良く眠れましたよ。」と言っておいた。比嘉恵美子さんはとても若々しく元気に見えた。ご主人のドクター比嘉がこれら一連の施設のオーナーですが、脳梗塞でお倒れになり、お体が不自由になられてからは、実質奥様が取り仕切っておられる。
私は45年前、最初の沖縄に赴任した時、当時アメリカ病院と通称言われていた、那覇の泊にあった、アドベンチスト・メディカルセンター(AMC)に勤務しておられた比嘉ドクターのお世話になったことがある。当時、蟯虫に悩まされていた私に、駆除薬を下さった。これは今でも忘れられない思い出です。その後八重岳に金城重博先生と共に自給伝道組織を始められ、経緯は良く分からないが、最終的には金城重博先生は、八重岳から離れて、今帰仁城跡の向かいの丘の上に、サンライズ今帰仁を建設なさり今に至っている。
比嘉恵美子さんとは、本当に二言三言交わしただけで、失礼してしまった。もう少したくさん時間をかけてお話しし、できればドクター比嘉にもお会いしてくれば良かったと今は改めて思っている。
もう午前11時をとっくに回っているので、今日はどこか観光するにも、1ヶ所しか行けない。また午後4時に、北中城(きたなかぐすく)のライカムで、TH先生にお会いする約束になっている。本部半島から沖縄市近くのライカムまではかなり時間がかかる。
やはり今日は備瀬崎とフクギ並木の見学をしようと心に決め、カーナビに備瀬崎をセットしようかと操作したが、出来なかった。備瀬崎は美ら海水族館の近くであることを思い出し、美ら海水族館を行き先に指定するとセット出来た。
3年前の10月12日土曜日、備瀬崎に来て、フクギの並木を見たことがどうしても忘れられない。どうしても、もう一回、今度はゆっくり心行くまで散策したいと考え、そこに的を絞った。天気は晴れて、既に車のクーラーを付けても暑く感じるほどだ。昼12時過ぎに美ら海水族館のところまで来た。今日はそこが目的ではないので、さらに車を前に進めると、すぐに左手に、フクギ並木の案内看板が目についた。早速そこを左に曲がると懐かしい、備瀬崎へと続くフクギ並木が見えてきた。
https://www.tabikobo.com/tabi-pocket/japan/okinawa/article55714.html (リンク有)
今回は、3年前のように苦労せず、備瀬区公民館(備瀬区事務所)の前を通り、「フクギの里宣言記念碑」の前にある無料駐車場に駐車することが出来た。しかし、この時は最高に暑く、天気も良く、陽射しも強烈で少し疲れも出ていたのだろうか。ムーブの前の左フェンダーの下(いわゆるスカート部分)の場所を、歩道の縁石部分が高くなっていたのを見過ごし、わずかにこすって塗装に2~3センチほど傷をつけてしまった。へこむほどではなかったが、こすって塗料に傷がついたと言う方が正確。しかし私はこんなこともあろうかと思い、借りた時、パーフェクト保障、免責なく保証されるタイプの損害保険に入っていたので安心だった。
さて嫌なことは忘れて、せっかく着いた3年ぶりのフクギ並木をゆっくり味わいながら散策した。
フクギとは何か、リンク張っておくのでクリックして見てください。https://100.ajima.jp/nature/of-land-plant/trees/e141.html
大勢の観光客がこのフクギ並木を散策し、お土産屋さんもたくさんあり、それぞれ観光客でにぎわっていた。少し細い横道に入れば、並木のあちこちに昔ながらの赤瓦の民家があり(立入禁止の看板注意)、地元の人々の生活が垣間見える。畑を取り囲みハイビスカスが沢山咲いている場所もあった。ここを訪れると、沖縄の村って昔は皆こんな風だったのだなと感じられる。美ら海水族館からとても近い場所なので、是非立ち寄られることをお勧めする。フクギの並木は備瀬崎の先端まで続いているが、あえて、並木の路地を左に曲がり数十メートル、海岸の方に出て、遠くに灯台を見ながら、備瀬崎まで歩いた。陽射しは強烈で、汗が滲み出てきた。海岸はちょうど引き潮で、せっかくここまで来たのだからと、防波堤の堰堤道路から降りて海岸を波打ち際まで歩いて見る。サンゴが侵食されて出来た感じの岩があった。海の水は、透き通っていて、透明で、本当に綺麗だった。波は2~3キロ沖のサンゴ礁で砕けてしまうので、沖縄の海岸の特徴で水際はほとんど波がない。
思わず感慨に耽ってしまったが、備瀬崎はまだ先で、堰堤道路に戻り、さらに歩みを進めて行く。野球帽を被り、サングラスをして、薄い半袖ポロシャツ姿で、28℃くらいある中を、汗をかきながら歩いていた。2022年11月22日火曜日、この時期八王子では寒い時は12℃、暖かい日でも17~18℃、沖縄は10℃ほど暖かい。やはり沖縄は良いところだ。
しばらく歩くと備瀬崎に着いた。3年ぶりの備瀬崎です。引き潮だったのですぐに、磯に降りて、ゴツゴツしたサンゴからできた、波に浸食された、岩の上を滑らないように歩きながら、向こう側に回る。海水が入り込んでいる窪んで小さな池のようになったところがあり、そこに青い小さな熱帯魚が群れを成して泳いでいる。ルリスズメだ。他にも数種類の熱帯魚が泳いでいた。水族館に行けば誰でも見れるが、こうして自然のままに泳ぐ姿は最高です。3年前に同じ場所に来た時は、風が強く水面がチラチラして良く写真には撮れなかったが、今回は風もなく、水面が静かで、平らだったので、ハッキリ撮影出来た。
https://okinawatravel.jp/bisezaki (リンク有)
備瀬崎からの帰りは、車を止めてきた駐車場まで、フクギの並木の中をゆっくり歩いた。駐車場に着くと、もう午後2時近くになっていた。
八王子にいて、毎日同じ生活のリズムで、年金生活を送っている私にとって、1日はほぼ単調であり、ある意味刺激のない繰り返しの生活です。それも幸せな生活かも知れないが、この備瀬崎とフクギ並木の散策は、私にとって、人生のかけがいない時間の2時間余でした。それは何物にも替えがたい時間です。こうして書くことによって、そこにもう一度戻 れる、このところを読み直す度に、昨日のように思い出し、貴重な生命の溢れる時間となっています。
人間は記憶を失ったら人間でなくなると言うのは言い過ぎかも知れないが、現在の、その瞬間、今そのものは、アッいう間に過去になってしまう。1秒前も10分前も10年前も過去は過去、そこに戻ることは記憶の中でしかできない。そして、その記憶づくりのために旅があるのだと私は思う。経験した鮮やかな光景にいつも記憶の中で戻ってこれるのだ。記憶や写真の中で、またこうして書いている旅行記の中で。私はこの備瀬崎での光景を繰り返し、八王子での単調な日常生活の中で、思い起こしている。大袈裟だが、日々の行動の力の源泉、心の癒しを感じている。この沖縄旅行記を書きながら、私の心はまだこのフクギの並木を散策しているのです。
左に海を見て、さらに左手遠方に伊江島のたっちゅうが見える。右手にフクギの並木があり、海岸の堰堤道路を、正面遠くの白い灯台を望み見ながら、数百㍍先の備瀬崎に向かって歩いていました。私のPCの待ち受け画面 となっている3年前撮影した写真が、正にこの場所であり、今またそこを歩いていました。
さて駐車場まで帰ってくるともう午後2時を少し過ぎていた。ここで車にクーラーをかけながら、昨日NSさんに「道の駅許田」の「えびす店」で買って頂いた揚饅頭をいただいた。サーターアンダギーとビスケットの中間くらいのもので、空腹だったせいかとても美味しくいただいた。それに、ゲストハウスで食べきれずに持ってきた、バナナ等もいただいた。あまりゆっくりしていると、沖縄北中城村にあるライカムまで間に合わない。午後4時に約束しているので、それからすぐ出発した。
昨日通った沖縄自動車道、許田インターから入り、沖縄南インターで下りて、しばらくするとライカムに着いた。カーナビが案内してくれるので迷わず到着できた。TH先生にライン通話すると駐車場の位置を聞かれたので、Eと答え、そこに立っていることを伝えて電話を切った。すると間もなく先生が軽自動車に乗って来られた。3年前はご自宅のマンションに伺ったことを思い出した。ご自宅からライカムまでは、車で5~10分くらいの距離です。お互いに車を降りて、挨拶を交わした。東京から持ってきた、コージのマドレーヌを渡すと、先生からも、パイや多良間島のランクA『特等』の最高級黒糖等たくさんのお土産をいただき、かえって申し訳なかった。
ライカムはこの間来た3年前は昼時だったので大変混んでいたが、今回は午後4時を少し過ぎたくらいのところなのでそんなに混んではいなかった。館内の店舗の案内表示板は、タッチパネルの大きな物であった。色々触って店を検索したが、「昼食は食べたのか」と聞かれたので、「らしきものは食べましたがまだです。」と言うと、3年前に来た時に案内された同じ店、天ぷら屋さんに入ることになった。そして3年前と同じメニューの野菜天ぷら定食をいただいた。TH先生はお腹が減っていなかったので、食事は召し上がらず、お茶だけ飲んでおられた。
先生はお元気で89歳になるのに車は運転するし、身のこなしも軽く、足取りもしっかりしていて、昔と変わらない。さらに、頭脳明晰であり少しも衰えを感じさせない。
私27歳の時、当時沖縄で教区長をしておられた先生の下で牧師1年目のインターンをした。よくこんな、当時生意気な、荒削りの若造を、耐え忍んで訓練してくださったものだと今更ながら感謝している。その頃、沖縄教区は、宜野湾市真栄原にあり、そこに先生もご家族で住んでおられた記憶がある。奥様が今日は風邪をひいて熱があり、来れなくてお会いできず残念でした。長男NHさんが(60歳)日の出町に住んでいて、八王子教会に時々来られるので、来られた時は私は必ず声をかけるようにしている。下に双子の(58歳)のお嬢さんがおられ、妹のMさんは沖縄の方と結婚なさり、先生には孫も出来た。さらに姉のKHさんは、障害があるので、近くの授産施設に通いながら同居している。今日KHさんは、1週間に1回の施設のショートステイの日で不在であると言うことであった。
3年前にもご馳走になり、また今日も同じところでまたご馳走になるとは、そんなつもりではなかったので、本当に申し訳ない気持ちだ。お料理が美味しかったので、遠慮なくいただいてしまった。
それから色々な話をした。その頃と言っても45年前の話であるが、私は先生の教会に属しているKMさんが経営する浦添のアパートを借り、1年間、沖縄生活を満喫していた。その頃のことを思い出すと懐かしい。先生の教会で青年会で活躍していたETさんが、名護のシャロームで働いており、昨日再会してきたことを話すと、先生は初耳らしく大変驚いていた。ETさんは半年ほど前に奥さんを亡くされたが、それにめげずに元気で働いていた。
若かった私はインターンで教団組織のことは何も知らなかった。ちょうど金城重博先生が、米国の自給伝道組織ユーチパインで学んで沖縄に帰り、アドベンチスト・メディカルセンター(AMC)でカウンセラーのような仕事をしながら、沖縄にも自給伝道組織を立ち上げようとしていた。その集会に私も1回だけ出たことがある。TH先生は教区長のお立場から、私に「どんな集会ですか?」と聞いたことがある。私は駆け出しで、組織の何たるかも分からない青二才であったので、金城重博先生のオフィスに面会を申し込み、SDAの教団に属する身でありながら、自給伝道に私も加わりたい旨相談すると、金城先生は、メガネを光らせながら、身体が弱く貧弱な私の顔を覗き込むようにして「田中さん、自給伝道と言うのはね、未開地を開拓して、重い石を持ったり、木を切り倒したりしながら働くんですよ」とまるで子供を諭すような口調で言われた。45年たつがはっきり覚えている。あれから45年組織は立ち上がり立派なゲストハウスもチャペルも出来上がり当時AMCに勤務しておられた、ドクター比嘉もその運動に加わり、最初は比嘉先生と金城重博先生とでスタートした八重岳の自給伝道組織であった。
ある時もう引退したTH先生が沖縄で牧師をしておられたとき、金城重博先生の考え方を見抜いて、「何で教団に批判的な意見を持つ金城重博先生を、組織の中に置かれているのですか。」と教区長のTH先生に言われたそうだ。
比嘉ドクターは自給組織と言ってもAMCのドクターの立場から、やはりこの世の勉強は必要であり、AMCとタイアップしながら若者の訓練をしたり、資格を取ったり、ゲストハウスを作ったり、八重岳ベーカリーを作ったり、ある程度経営的なこともお考えになっていたようだ。
ところが金城重博先生は、そういうものはいらない、ただ純粋に信仰を守って行こう、田舎に逃げよ、この世は堕落しているのでその罪の影響は大きい、罪の影響を受けないために預言者ホワイト夫人のメッセージ通り生きようと言うような考えであった。結局2人は袂を分かつことになり、ドクター比嘉は八重岳に残り、金城重博先生は、教団からは距離を置いて、今帰仁にサンライズを組織、結構大きな施設、集会所また老人ホーム的なものまで作って今日に至っている。サンライズ今帰仁https://www.sunriseministry.com/(リンク有)は、子供を入れて100名ほどの集まりらしい。余談であるが、NSさんに金城重博先生のグループは何派に属するか聞いたところ、今帰仁サンライズ派ではないかと冗談ぽく言っていた。
八重岳の広い土地を買ったり、建物を建てるにはやはりそれなりのお金がかかった。沖縄のどこの教会かは忘れてしまったが、ある信者さんは、自分の持っている土地を売って、八重岳の為に献金なさったりした。八重岳の自給伝道組織の名義は、今はドクター比嘉になっているが、そのような2つの勢力の挟間で、権利をめぐる訴訟まであったと伺った。人間のサガであろうか。始めは良い動機で始まった組織づくりであったのに、そのようなゴタゴタがあったのは、今回、TH先生から初めて伺った。ドクター比嘉は、自分の財産の中から、信者さん達に返金をしたりしたらしいと言うことも聞いた。
沖縄旅行記とはかなり目的が逸脱してしまうが、少しここから何故このような混乱が、SDA教会の中に起こって来るか、私の神学的理解を大ざっぱに書く。
セブンスデー・アドベンチスト(SDA)-第7日目安息日遵守・再臨待望信徒の意味-は信仰のみによって救われる、①信仰による義、②聖書のみ、③万民祭司、ルター以来の最も根本的なプロテスタントの原則を心から信じている。人間は善い行いや、律法を守ることによって救われるのではない。ただ自分が罪深い人間であることを認め、神の前に真摯に悔い改めることによって救われる。
イエス・キリストの十字架は自分の罪の為に死んでくださった身代わりの死であると信じることが信仰の根本です。十字架で流された、血潮を自分の罪の赦し、贖いとして信じるならば父なる神の前に、一度も罪を犯したことのない者として認められ、救われるのです。これを信仰による義、【義認】と言う。
しかし救いの持つ、神の目的はそれだけではない。罪を犯したことが赦されたならば、今度は罪そのものを捨てなければならない。いつまでも罪は犯し続けてはならない。必ず清めの過程を人間はたどるようになる。もちろん修行や、難行苦行等自分の力で清められることはできない。聖霊の力、神の助けによるのであるのは言うまでもない。これを、御霊による【聖化】と言う。聖化の過程において、人間の側の努力が全く必要ないかと言うと、ここは微妙な議論があります。
問題は罪の定義で、十分考えないといけない。罪と言うのは律法違反です。律法と言うのは聖書全体を指すのであって、深く考えればイエスの言葉に背くことは全部罪です。しかし、具体的にはモーセが書いた出エジプト記にある、神が直接書いた十戒を指す。これを守るように人間は聖霊によって変えられて行くとSDAは教えている。
しかし、ここからが重要だが、単に罪と言うのは表面的な十戒の条文を守れば良いと言うような浅薄なことではなく、人間の利己的な生き方総てが罪なのです。神と人の為に自分の時間、生活空間、趣味、肉的な生き方等すべてを犠牲にしなければならないことにやがて気が付く。心の奥底まで利己心を十字架に付けて、無くして行かなければならないのです。人間の行い、思うことやることはほとんど自己防衛の為であり、自分の為であることを認めよう。
イエスと共に古い自己はすべて、十字架に磔にして、霊が解放されて生きて行かなければ、とても律法など全うできないことに、やがて人生のたくさんの試練を経て、分かって行くのです。さて以上のような人間理解の上で話を進めます。
SDAの中には昔から清めを強調し律法遵守を強調し、人間の意志の力を強調するグループが存在する。彼らは極端であり、聖と俗を区別する。それが、サンライズの人達のグループの生き方であり、彼らは現在のSDA教会は世と妥協して、原則を見失い、食物についても、この世的になり、安息日もはっきりしない守り方をしていると批判する。たぶん、山本不二樹先生が日本支部長をやっておられたSOSTVhttps://sostv.jp/(リンク有)もこの考え方でしょう。これらのグループはSDA 右派と言っても良い。
しかしSDAの中には左派的な考えを持つ信者もいる。イエスを信じる信仰によって義とされるのだから、人間はただ信仰によって生きれば良い。十戒は守れる時だけ守れば良い、要は愛の生活をすることが大事だ、律法の精神は愛だからですと彼らは考える。
個人の考え方を言えば、私自身は、若い頃はかなり右派的な考えであり、表面の行いにこだわって生きてきた。しかし、歳をとるにつれ、また大きな人生の試練、教会の牧師を辞し、離婚、郵便局長としての再出発、再婚、子育て等を通して、自分が利己的であり、他者の利益のみを考える無償の愛を持っていない、力のない人間であることを深く知り、自己の肉の力に頼る愚かさを悟った。
退職後も聖書研究に時間を割き、特にローマ書、へブル書、ヨハネによる福音書等を研究し続けることにより、結局人間は御霊を受けて、根本的に十字架で砕かれ再生し、真の命、聖霊の命をいただく以外に生き方はないことを示された。キリストと共に復活の命の力に満たされて生きて行かなければ、どうにもならない弱い自分であることを自覚したのです。キリストの霊の解放がなければ、もともとあった肉の努力で律法など守れないのです。そもそも肉の存在自体が利己的であり、自己防衛的であり、イエスのお力と愛の源泉的な聖霊の満たしなければ、すべてが腐敗していて、何事も出来ないのです。律法を守ると言うと何か表面的な義を強調しているように聞こえてしまうかも知れませんが、結局神の為に命を捨て、人の為にも自分の時間、生活空間、肉の趣向を捨てられるのかを問われているのです。言葉を変えて言えば、イエスが十字架についたとき、自分の肉も共に十字架についたと認識することです。さらにイエスが復活した時、自分も御霊によって新しい命に復活したと信じて、上よりの霊の解放を求めるのです。「アバ父よ」と叫びながら、天からのイエスの御霊を求めて、生きて行く以外に方法はないのです。
さて神学的な考証はこのくらいにして、沖縄旅行記に戻ろう。
1時間位、ライカムでTH先生とお話して別れた。たくさんのお菓子や黒糖等をいただき、有難うございました。先生と別れ際、NSさんにもらった、ヨーグルトやバナナがまだあったので、「私はホテルに帰れば、たくさん食事をすることが出来るので、腐らせてしまってももったいないから。」と言って、無理に先生に持って行っていただいた。受け取っていただいたので本当に良かった。
さあ、ライカムから松山の那覇GRGホテルに帰らなければならない。カーナビに設定して運転していたが、北中城村からはカーナビは国道330号を通り那覇に行くよう案内する。国道330号は夕方5時頃から大変混み、那覇の松山まで2時間もかかってしまった。やっとホテルに着くともう午後7時だった。午後8時には車を奥武山のニコニコレンタカー鏡原町店に返さねばならない。この時点では楽勝だと思っていた。今日から3泊GRGホテルに泊まるので、余計な荷物は車の中にはおいておけない。荷物をしまって、スーツケースを車の外へ置き、車は一度ホテルの脇にある駐車場に入れた。車止めの板が上がってしまい、有料になるかと思って、駐車位置を指定するため出てきていたホテルの方に聞いたら、フロントでコインを渡すので、無料で利用出来るとのことだった。
一昨日は403号室だったが、今晩からの3連泊は、706号室になった。また、一昨日の晩泊ったことをフロントに言うと、簡単にチェックインすることが出来た。そこで、カードキー、朝食券3枚と、地域振興券9枚、「ステーキハウス88ジュニア松山店」の食事サービス券3枚(使わなかったが)をまとめてもらった。7階の706号室にスーツケース等を置いて、早くしないと間に合わなくなるので、駐車場から車を出し、少し行った道路の脇に再度車を止めた。そこでニコニコレンタカー鏡原町店をカーナビに設定しようとした。時間は午後7時15分頃だっただろうか。今まで天気に恵まれ、暑いほどであったのに、ここで雨が降り出した。夜で、繁華街と言っても初めての町。方向感覚があまりない、雨が降ると視界も悪くなる。実はカーナビの使い方は、一回目の沖縄旅行記にも書いたが、私は苦手で、特に今回のカーナビは「あいうえお」で目的地を入力していた。そこに落とし穴があった。まずレンタカー営業所の近くの駅、奥武山は正しくは「おうのやま」と発音する。どう考えても「おくむやま」であろう。念の為ホテルのフロントで聞いた発音は、「おおのやま」と理解していた。入力しても出てこない。沖縄の地名の呼び方は独特のものがあり、私はそのことを忘れていた。
では、ニコニコの営業所がある、かがみはらまち(鏡原町)で入力しても出てこない。実はこれは「きょうはらちょう」が正しい読み方であることが後でわかった。そしてカーナビをいじくりまわすうちに、まったく変になってしまい、どうにもならなくなってしまった。もう午後7時半を回り刻々と時間が無くなって行く。どうしても午後8時までに返さねばならないのだ。そこで、昨日契約の時にもらった書類を思い出し、掲載されている緊急の番号に電話をかけると、これがコールセンターに繋がり、例の機械音で、1番だ、次は2番を押せと言うタイプだった。気持ちも焦っているし、こんな番号は役に立たんと思い電話を切った。そうだ、スマホにニコニコレンタカーのアプリがあり、鏡原町の営業所の連絡先が載っていたのを思い出し、やっとスマホで鏡原町店に電話することが出来た。若い女性が出たので、恥ずかしながらカーナビが使えなくなってしまった事情を話すと、スマホのグーグル地図で来てくれと言う。そうだ、その手があった、焦っていて、そのことに思い至らなかった。そこで営業所の住所を聞き、しばらく待たされて、那覇市鏡原町34−48と教えていただいた。かがみはらと読んでいたが、その時初めて「きょうはらちょう」と読むことが分かった。実は私は昔、岐阜に住んでいたことがあり、そこに各務原「かがみはら」と言う昔飛行場があった地名があり、そんなことが影響したのか、鏡原町を「かがみはら」とばかり発音すると思い込み、「きょうはら」と読むとは思い至らなかった。スマホのグーグルマップに入力すると、案内が始まり、既に、その時7時50分になっていたが、午後8時ちょうどにニコニコレンタカー那覇鏡原町店に着くことが出来た。今となっては笑い話であるが、その時はビビった。ガソリンスタンドもやっている営業所だったので、そこで満タンにして車を無事返した。もちろん、左フロントフェンダー下、いわゆるスカート部分に少し縁石で傷をつけたことも正直に申告したが、係りの方は、この車は「パーフェクト保障が付いているので一切追加料金は戴きません」と言って下さったので、ホッとした。
昨日の朝と逆の方向で、ゆいレール、奥武山公園駅まで歩き、美栄橋駅で降り、GRGホテルに向かった。
しかし、スマホのグーグル地図を念のため起動して、ホテルに向かって歩いておいて良かった。美栄橋駅から松山のGRGホテルまでは、必ず国道58号線を横切るはずなのに、大きな広い道が見当たらない。どうやら反対の山側に向かって歩き始めていたらしい。疲れのせいかもしれない。何か夜だと余計に方向感覚が狂ってしまう。でもグーグルの案内ですぐ気が付き、また元の美栄橋駅に戻って、ホテルの方角に向かって歩き出すことが出来た。30分ほど前に雨は止んでいたのだが、こうして、マゴマゴしているうちに、また雨が降り出し、今度はドシャ降りになった。ホテルまで200㍍くらいと言うところまで来た時、激しく降り始めた。その勢いは強く、ビルの雨が当たらない場所に避難、しばらく止むのを待った。一時ものすごい勢い、バケツをひっくり返したような勢いで降るので、これは困った、どっかコンビニで傘でも買って帰ろうかと思い、あたりを見渡したが、残念ながら近くにコンビニは見当たらなかった。こんな時、念のため着てきたジャンパーが役に立った。ビルのひさしで雨宿りしていたが、それでも雨しぶきがかかって来る。それで、ジャンパーを脱いで頭から被ったので、それほど濡れずに済んだ。30分以上雨宿りしていたら、急に雨が止んで、この時だと思って、走って行って那覇GRGホテルにやっと着いた。その晩はもう何もする気もなく、例の如くバスタブに湯をため、ゆっくり身体を湯に沈めて、リラックスさせ、すぐに寝た。