2022/11/21(月)日記
2022年11月21日月曜日 沖縄第二回目旅行第二日目
昨晩 ホテルの部屋でKN先生と深夜の12時過ぎまで話してしまい、初日からかなりハードなことになった。3年前の10月10日木曜日に沖縄に来て夜ご馳走になり、糸満のペンション「南の国の楽園」の部屋で、やはり12時近くまで話し込んでしまった夜のことを思い出す。
今から35年前、昭和62年5月の連休に石垣のSDA八重山教会から牧師職を辞して八王子に帰ってから、自分がどんな不思議な導きで、わずか1ヶ月半余りの後、昭和62年6月23日に、八王子横山町の郵便局長https://www.ekiten.jp/shop_3714400/(リンク有)に任官されることになったのかを、3年前のその時はほぼ一方的に、KN先生に話してしまった。沖縄から帰り短期間で郵便局長になれたのは私の信じる神の導きによる以外に考えられない出来事であった。そのことを信仰の証しとして話してしまった。翌日先生が歯科のお働きがあるにかかわらず、その時点でほぼ30年ぶりの再会であったことから、懐かしさのあまり時間を忘れてしまった私であった。
しかし今回の沖縄旅行はそれから3年1ヶ月と10日後の再会です。今度はKN先生の方がほぼ一方的に、自分の神学的境地を第一日目の夜お話し下さり、私は聞く側に回った。
昨晩は、実際に先生をホテルの玄関から送り出した後、浴槽にお湯をため、ゆっくりとくつろいで入浴し、寝たのは午前1時半頃だった。
今日11月21日月曜日朝は、神経が高ぶっていたのだろうか、慣れていないGRGホテルで余り熟睡できなかったせいもあり、朝早く目が覚めてしまった。そう言えばこのホテルは朝6時半からバイキングで朝食が用意されていることを思い出し、身支度を軽く整えて、半分寝呆けながらも、6時半ちょっと過ぎに1階の朝食会場に向かい朝食を摂った。こんなに朝早く来るのは私一人くらいだろうなと思っていたら、驚くなかれ、既に3~4名の方が来ておられトレーに好きなものを取っていた。まだ寝呆けていたので、気が付かなかったが、アルコール消毒する機械に手を伸ばすと同時に検温してくれて「あなたの体温は36.何度℃」ですと言ってくれる優れた機械であった。食堂はマスク必着、もちろんホテル館内全般も。
手の消毒後、備え付けの薄手のビニール手袋をはめ、食物をトングで取ることになっている。厳重な感染対策を取っている。これなら安心だ。まずトレーとお皿、椀、お茶碗、白米、みそ汁納豆、島豆腐、定番の食事をしてから、少しパンをオーブントースターで焼いて、バターとジャムを塗って食べ、コーヒーを飲んでかなり満腹になった。今日は一泊目の朝だが、これから北部へ向かい八重岳のゲストハウスで今晩は一泊する予定。取り敢えずこのホテルの利用は昨晩と今朝までとなる。しかし一日おいて、22(火)23(水)24(木)とこのGRGホテルに3連泊する予定なので、同じ朝食バイキングでは飽きるかも知れない。そんなことを考えながら、403号室に戻った。早く出るために、スーツケースにテキパキと荷物を入れ、午前8時ちょっと過ぎには、カードキーをフロントに返し、ホテルをチェックアウトした。
何でこんなに急いでいたかと言うと、沖縄のモノレールの奥武山公園駅の近くのニコニコレンタカーに午前9時までに予約したレンタカーを取りに行く計画であったからだ。ゆいレール美栄橋駅までスーツケースをゴロゴロと引いて歩く。これがけっこう大変であった。よく考えると県庁前の駅まで歩いたほうが、国道58号線沿いの歩道が広く、楽に歩けたのだった。久茂地橋のところから左に曲がれば、すぐ県庁前の駅に出られる。しかしこれらは後から分かったことで、今朝は不慣れな、川沿いの狭い道を、重いスーツケースを引きながらゴロゴロと音を立てて、美栄橋駅まで歩いてしまった。
モノレールは朝の出勤ラッシュのためかなり混んでいた。局長時代を含めて普段から、電車通勤したこともない私には、見るものすべてが新鮮に映った。特に今日は天気が良く、27℃~28℃この日はあったので、長袖シャツに、薄手ではあるが黒のジャンパーを着ている人は私しかおらず、ほとんどの沖縄の人達は半袖姿であった。11月21日月曜日の朝は、汗をかきながら、ゆいレールに乗車していたのです。車中で何人かの沖縄の女子高校生の姿を目にしたが、何かとても純朴で、素直な子たちのように感じた。何駅か過ぎてすぐ奥武山公園駅に着き、エレベーターを使って下へ下りて、公園と反対側の道をまた重いスーツケースを引きながら鏡原町にあるニコニコレンタカーhttps://niconico125.on.omisenomikata.jp/(リンク有)を取り扱っているゼネラルのGSを目指して歩いた。あらかじめグーグル地図で調べておいたので、まったく道順に心配はなく、ただこの道を真っ直ぐ行けば、左側にあることは頭に入っていた。しかし、歩くこと10分ぐらいだったか、中々左手にGS看板が見えてこない。ちょっと焦った気持ちになった時、道が少し左カーブしていて看板が目に入らなかったことが分かった。心配は杞憂に終わり、それからすぐGSに着いた。午前8時40分ぐらいだった。「やれやれ時間前に着いて良かった」と思った。もう暑くてしょうがないので、ジャンパーを脱いで小脇に抱えて、スーツケースを引いていた。
GSに着くと、GSのスタンドの人が、ニコニコレンタカーを兼務で営業していたので、朝から電話に出たり、レンタカーの事務をしたり、一人でなかなか忙しそうであった。免許証、ニコニコレンタカーの予約アプリを見せ、必要書類にサインをして、操作方法を簡単に教えてもらい、すぐ出庫となった。借りた車は軽のムーブ、外観上はどこも傷がなく綺麗な車であったが、実は大変な代物であったことが後で発覚する。
だいぶ時間がたってから思い出すままにこの旅行記を書いているが、今考えて見ると、旅行先で、グーグルの案内はあるから何とかはなるものの、予約とお支払いは八王子の地で、PCで完了しているとは言え、見ず知らずの不案内の土地に行って、レンタカーを借りて実際に乗り回すまでは中々冒険であった(過ぎ去れば楽しい思い出の一つです)。
さてカーナビを名護にある道の駅「許田」にセットし、車を進めて行くと、まだ沖縄自動車道に入る前、たぶん浦添位のところだと思うが、今朝は天気が良く、沖縄の太陽がガンガンと照り付けてきて、長袖のシャツでは大汗をかき始めた。「よりによって、よせばよいのに、虚栄を張って、バレンチノの厚手のカラー長袖シャツなど着て来るからこのようなことになったのだぞ」と心の中の小さい声が私を責め始める。
ファミリーマートがあったのでそこによって、ペットボトルの大容量の水を買い、普通のサイズのペットボトルに移しながら飲むことにした。一昨日と、昨日の晩遅くまで起きていたことで、この真夏のような暑さの中(ちなみに八王子はこの時期寒い時は日中12℃)、既にかなり体力を消耗していた。途中高速道路で眠くなってはいけないと、ファミマ―でホットコーヒーも買った。やり方は本土と同じで、機械で自分で入れるタイプ。支払いはレジでしたが、小銭を出すのもめんどくさいので、スイカで払った。
スマホを見て見ると、TH先生からラインメールが入っており、今日会えるのを楽しみにしているとのこと。少し焦る。何故なら先生にお会いするのは、沖縄市近くのライカムで、明日22日(火)の午後4時からの予定であったから。先生も今年89歳になる、お元気であるが勘違いしたらしい。明日22日(火)の午後4時からの予定であることをすぐメールする。しばらく時間を置いた後に、TH先生から、了解した旨電話が来た。
車をファミマ―の駐車場に止め、以上のようなことをしていると、ますます太陽はきつくなり、大汗をかき始めた。これでは溜まらんと思い、スーツケースを取り出し、所定のところに取り出しやすく収めておいた、最も薄い半袖ポロシャツを取り出して、恥ずかし気もなくその場で上半身裸になり着替えた。そう言えば「旅の恥はかき捨て」の諺もある。そんなことをしているうちに、ファミマ―の駐車場前で、ドンドン時間がたって行ってしまった。実はこのファミマ―に着く前に、八重岳に住んでいる、これから会うNSさんに、案外早く「許田」に着くけるかもと電話したばかりであった。この分ではかなり予定より遅れそうである(実際そうなってしまったのだが、NSさん御免なさい)。
さてムーブの軽自動車の話に戻るが、沖縄高速入り口に向かって運転しているとき(用意周到に八王子から持ってきたETCカードを装着済み)、走行距離計を見て驚く、最初は桁違いだと思って、何度も見返してしまったのだが、何とこのムーブは11万キロ走っていたのだ。外観はとても綺麗で、小さな傷もなく良く手入れされていたが、八重岳に着くころから、ミッションの方で、エンジンかけたてに、ガリガリ異音を立て始めた。走っているとすぐ音はしなくなるのだが、走り始めに鳴る。専門家でないからわからないが、たぶんデフレンシャルギアが少しおかしくなっているのではないか?故障しないで返せればそれで良いので、何とか持ってくれと、祈りながら帰すまでの2日間運転した。途中エンコすることなく無事に返せて良かった。ちなみにこの車ネットで借りた時、ちょっとお高いが、パーフェクト保障(免責無し)を付けおいた。このことも幸いであった(後述)。
さて、いよいよ沖縄自動車道に入った、軽自動車は快調に走ってくれている、ただやはり軽であるので、100キロにはならないように、だいたい80キロ程度で安全運転に努めた。既に道の駅「許田」の駐車場に着いたNSさんから連絡が来たが、もう少し時間がかかることを伝えた。待たせて申し訳ない。名護近くになり、高速が終わり一般道、国道58号線に入るとすぐ、海の見えるところの右側に「許田」があつた。https://okinawa-repeat.com/kanko-nago-michinoeki-kyoda/(リンク有)名護に向かって58号線進行方向左側の海側の駐車場にハザードランプを点けて待っているとNSさんは言っていたので、左側の駐車場に入る。そしてゆっくり進んでいくと、何か一台の車の中に麦わら帽子風なものを被ったNSさんらしき人の姿を見た。ところが、どういうわけか、たぶん駐車場が、ほぼ満車状態になっていたせいで、そこを通り過ぎてしまって、そこからまた駐車場を出てしまった。NSさんが止めていた左側駐車場には、許田の道の駅本体はなく、左の駐車場上に横断できる歩道橋がつけられていて、道の駅そのものは、右側の道路を隔てた、山側に設置されていた。私自身は結局、かなり名護に向かい直進することになり、センターラインに構造物があって、Uターンするわけにもいかず、国道58号線をかなり直進した数久田の交差点まで行ってUターンして戻り、道の駅そのものの売り場前の駐車場に車を止めて、NSさんを待つことになった。
ラインでかなり話をして、時間のかかったことをお詫びした。私の駐車している許田の売り場の前まで、海側の駐車場から車を回して来て下さった。彼はホンダのフィットに乗っていたが、どうもどなたかから貰った車と言っていたような気がする。何れにせよ、麦わらではなかったが、つば広の帽子、ガーデニングハットを被ったNSさんが、車を降りてこちらを歩いて来た。懐かしい3年ぶりの再会です。彼は3年前よりは心なしか歳を取ったように見えた。すっかりお爺ちゃん顔です。もちろん私も鏡で見れば、頭はかなり禿げて、大変な爺さん顔になっている。人のことは見えても、自分のことは見えないのは、世の常です。外観のことを言うのは止めよう、要は人間は中身が大事だ。彼ほど無私で、愛の行いの人を私は見たことがない。彼はSDA日本三育学院時代の若い頃からそうでした。
沖縄旅行記の第一回目でも書いたが、私は学生時代に、1年間休学し、学生宣教師のマネゴトをしたことがありました。半年以上に渡って、SDA甲府集会所(当時聖書研究会)の近くの6畳一間、裸電球1個、共同トイレ、共同炊事場、風呂無し、家賃5,000円と言う大変な安アパートで、彼と2人で生活をした。彼はサインズや、ベッドタイムストリーズ、E・Gホワイトの著書等、SDAの印刷会社である福音社が発行する書籍を販売して生活する文書伝道者として、生計を立てていた。後から奇しくも神の導きで沖縄からやって来た、お姉さんのKSさんも、集会所の責任者をしていた渡部愛子さんと共に、文書伝道をしていた。KSさんは当時集会所の責任者であった渡部愛子さんが病気で亡くなられた後も、甲府に残った。10年間程甲府の文書伝道と、集会所の責任者をしておられたが、今は、今帰仁サンライズの方にお世話になり、そこで余生を送っておられる。KSさんは78歳、NSさんは68歳、かく言う私は72歳です。皆歳をとった。でも3人共まだまだ元気です。NSさんが私にとって、大切な友人であることはこれからも変わりがない。彼とはしばらく連絡が途絶えていたが、3年前の沖縄旅行から旧交が復活し、感謝です。
NSさんは北海道の帯広で6年間農業をしていたこともある。良く奥さんがついて行ったと感心する。彼の奥さんは、沖縄出身で、旧姓KKさんです。3女1男に恵まれた。北海道での子育ては大変だったろう。NSさんはそれから、沖縄に帰り、既に引退した儀部牧師のお父さんが経営する名護の造園会社で10年働き、その後八重岳の自給伝道組織の施設の管理を10年ほどやっている。生活はどうしているかと言うと、1週間に1回は八重岳の管理に使うが、後は長い間造園業をやっていた人間関係で、様々な仕事の依頼があり、何でもできる能力があるので、日当をもらいながら元気で働いている。
さて、道の駅で昼食しようと考え、見てみたが軽食のような物しかなかった。私はそれで一向構わないのだが、彼が「名護市内に行って、ちゃんとしたものを食べよう」と言うので名護に向かう予定を立てた。私はGRGホテルのバイキングで、朝食をいっぱい食べて来たので、そんなにお腹は減ってはいなかった。
昨晩ホテルチェックインの時に、フロントでもらった、全国旅行支援施策の地域振興券3枚を、お土産購入に使えないかと、道の駅のいくつかある売店を回ってみて見ると、青い、丸いステッカーが貼ってあり、使える対象の店であることが分かった。そこでお土産屋の中に入り、あれこれ何が良いか探していたら、月並みであるが、「ちんすうこう」の適当な値段のあるものを、NSさんが探してくれたので、それを購入した。全国旅行支援の影響で、店の中は観光客で大変混んでいた。
結局20~30分ほど道の駅で過ごしてしまった。彼は気を遣って私の為に、道の駅で売っている、油で揚げたお菓子を買ってきて下さった(明日の午後2時頃、備瀬崎の駐車場で美味しくいただくことになる)。
さて名護に向かい、彼のホンダフィットの後について行くと、間もなく大きな商業施設の中にある、和食のレストランに着いた。私の記憶に間違いなければ3年前、2019年10月11日金曜日夜に連れてこられて、夕食をご馳走になった同じレストランであった。ただ今回はちょうど昼の12時頃着いたため、ランチの客で混んでいて、5~6人待合スペースで待っていた。自分達の名前を記入し、順番を待っているとやがて席に案内され、メニューで注文することになった。私は彼の性格とまた、実際の経済状態を知っているので、和食で、野菜の天ぷら中心のメニューのランチの定食を頼んだ。2人とも同じ物を注文し美味しくいただいた。また彼にご馳走になってしまい申し訳ない限りです。
昼食後、取り敢えず八重岳にある彼の家に行くことにした。名護からは20~30分くらいで、八重岳に着いた。八重岳のほぼ頂上に彼の家があるが、八重岳の標高は450メートルほど、車で登り甲斐がある。八重岳にはSDAの自給伝道組織が開拓し作った施設がいくつもある。その代表的なものが「八重岳ベーカリー」だ。一切の添加物等は使わず、全粒粉で10種類ほどのパンを焼き、クッキーも作っている。
さらにゲストハウスや、チャペルもある。ゲストハウスは一度に12名まで宿泊出来て、広い応接室等の共用スペースが設けられている立派な建物だ。数十人のSDAの自給伝道グループが、30年くらい前に土地を買い、このような施設を建設し、今も管理運営しておられることは凄いことだと思う。やはり信仰の力なのだろう。
八重岳の登りの狭い道を、フィットが先頭に、私のレンタカー 軽のムーブが後ろから続けて登って行った。八重岳ベーカリーに着く少し手前、ベーカリーから車で走れば、1分~2分のところに、Mさんの自宅があるので、NSさんの家に着く前に、Mさんの家に最初に寄ることにした。本道から左の狭い道を少し入ったところにMさんの自宅があった。小さいながらも2階建てのちゃんとした家だった。自然界の中で、沖縄のそれも八重岳の頂上近く、空気は綺麗だし、熱帯の植物に囲まれ、物音ひとつしない環境で暮らすのは最高だと思われる。沖縄そばの名店、大家(うふやー)で、谷底の低いところにあるため、ゴルフカートの様な乗り物が数台お店のある下まで自動運行しており、その運行管理をMさんがアルバイトでしていて、3年前に大家に行ったとき、45年ぶりにそこで再会したことを思い出した。
また、47年前の三育学院時代に、彼は隣接する袖ケ浦の三育フーズの工場でしばらく働いており、その後英文科でも勉強していた。男子学生の寮であるカレッジホールに度々遊びに来ていて、私とも親しくしていた。第一回目の沖縄旅行の再会から3年たって、彼の自宅に訪問できるとは思っていなかっただけに嬉しい。
Mさん家の庭に車を止めて、「Mさん久しぶりです、田中です。」と言うと、最初はキョトンとしていたようだったが、すぐ思い出されたようで、また旧交を温めることが出来た。
当時、千葉県袖ケ浦町の楢葉にあったキャンパス、日本三育学院・カレッジ・キリスト教学科で、Mさんの奥様になられた、旧姓KTさんとも私はご一緒だった。奥様に45年ぶりにお会いしたかった。ところが奥様は半年前に亡くなられたと言う。NSさんは私に何も言わなかったので、もうそれはビックリであった。何か脚の方が腫れる病気で、医者にもかかっていたが、発病してから3か月余り自宅で急にお亡くなりになったそうだ。朝、気が付いて、起こしに行ったときは、こと切れていた。まだ背中は温かかったとお聞きした。Mさんの落胆、失望ぶりは激しく、今も奥様のことばかり考えて過ごしているそうだ。私としても、生きて彼女に久しぶりに会えることを楽しみにしていたのに残念でしょうがない。子供も産まれなかったので、これから本当に一人になってしまったと嘆いておられた。いつもあんなに元気で快活であったMさんが、元気をなくしているところを見ると、同情を禁じ得ない。
私に「子供はいるのか」と聞かれた。「今は2人の子供(長男、長女)を育て終わり結婚させ、2人とも別に独立し家庭を持ち、孫も3人できた。別れた家内の方はもう1人の子(次男)を引き取り、そちらも結婚し孫も出来ている。」と私が言うと、大変羨ましがれた。Mさんに私が離婚した理由を説明するのも、おこがましく思われたので、「一言でいうと自分の愛情不足であった、今でも神の前に悔い改めております。」と言っておいた。「大したお土産ではないが、八王子名物都饅頭です。賞味期限が今日までですので、すぐ冷凍保存して、電子レンジで温めて食べてください。」と言って渡した。
KN先生とまた、大家で食事をすることになっているので、Mさんの勤務日を聞いた。Mさんが、「大家に勤務するのは23日水曜日(勤労感謝の日)」と言ったので、明後日にKN先生と、昼食に大家に伺うことにした。その時、NSさんが、「自分も長い間KNさんに会っていないので、大家に伺っていいですか」と聞くので、私は「KN先生には連絡しておくので大丈夫ですよ」と言っておいた。
Mさんの家を後にして、車はまた登り始め、1~2分行ったところに、懐かしの「八重岳ベーカリー」があった。その前を右折し、尾根伝いに、2~3分車で走るとゲストハウス等の施設がある。その途中、道の左側にNSさんの家がある。横に細長い建物で、真ん中で区切って、2世帯で使っていた。広い庭の片隅に私の自動車を止め、車を降り、玄関に向かうと懐かしい、旧姓KK奥様が出てこられた。NSさんより4歳年上、私と同じ年72歳であることを後で知った。
彼女は私が27歳の時最初に沖縄三育小学校教会、大謝名集会所にインターンとして派遣されたとき、当時那覇の泊にあった通称アメリカ病院(今は西原に移転した沖縄アドベンチスト・メディカルセンター略称AMC)で看護助手として働いておられた。当時からしっかりとした感じの人だった。
その当時お父様は雑貨屋さん、お母様は玄米弁当や、玄米ジュースを作り、島の色々な小売店に卸しておられた。玄米ジュースは、当時ガラスの牛乳瓶に詰めて販売しておられた。お店に伺ったとき、冷やした玄米ジュースをご馳走になった。始めて飲んだ味は、冷たくて、ショウガが効いていて、ほんのり甘く、とても美味しくて、その時の味は今でも忘れられない。
お父様、お母様もお歳を取られ、沖縄三育中学校の近くに建設された、株式会社・シャローム名護の施設に入られたと聞いていた。今回45年ぶりに、奥様のお父様お母様にお会いできるのを楽しみにしていた。また奥様のKSさん自身もシャローム名護にお勤めだと聞いていた。ところが、NSさんは寡黙で、何も言って下さらなかったので、わからなかったのですが、奥様に直に聞いたところ、何と昨年の11月頃、ご両親はお亡くなりになり、KSさんも、シャローム名護をお辞めになり、今は家にいるとのことでした。私にとってはMさんの奥様に続き、わかったことなので二重のショックでした。お父様、お母様に生きているときにお会いしたかったです。
奥様は全然やはり若い頃からの容貌は変わっており、言われなければわからない、眉毛にも白いものが目立ち始めた、健康そうなお婆ちゃんでした。ただ玄関でお話ししていた時、ある瞬間笑った口元が、私が覚えている若かりし日のKKさんの笑ったときの、口元にそっくりだったので「ああやはり懐かしい、KKさんだ」と心の中で思つた。
さて次は、株式会社沖縄三育ライフ・有料老人ホーム シャローム名護に行く予定だ。ところが、ここで思わぬ、お手伝いの要請がNSさんに緊急に入る。近くで車が脱輪し、ロープで引っ張り上げて欲しいと言うのだ。私は時間が押しているので一刻も早く出発したかったが、そういうことだったらしょうがない。ここは正に、NSさんの出番だと、すぐ覚悟を決め、快く、「行ってきて下さい。」と彼に言い、NSさんの家の前の庭に止めたムーブの中で待つことにした。約20分くらいしただろうか、やっと彼の乗ったフィットが帰って来た。車は脱輪から脱出できて良かった。道が狭いので、この山奥では良くあるそうだ。この件を通してもNSさんは、頼まれれば決して嫌とは言わない、頼りになる男であり、謙虚で、フットワークの良い、優しい人なのです。困った時のNSさん頼みと言うことです。
NSさんが帰って来てくれたので、さていよいよ、私の借りてきた軽のムーブでシャローム名護にでかけることになった。NSさんが乗っているフィットで行くか、私が乗っているムーブで行くか迷ったが、せっかく借りた車があるのだし、明日には乗っても乗らなくても返さなければならないので、乗らなければもったいないと思ってムーブで行くことにした。
ところが、このころから、ムーブから始動時に異音がするようになってきた。乗って走りだしてしまえば、すぐ異音もおさまるのだが、私としては「返すまで壊れないでくれよ」と、心の中で祈りながら運転するしかなかった。軽が11万キロも走れば、どこかはおかしくなるのは仕方がないことです。たぶん、デフレンシャルギアのところから発する異音だと思うが、素人の私には良くわからない。でも祈りに応えられて、私も優しく大切に乗ったが、明日返す時まで順調に動いてくれた。レンタカーに贅沢は言わない、それでいいのだ。
15分ほどでSDA沖縄三育中学校のそばに建てられた、住宅型有料老人ホーム、シャローム名護に着いた。 https://www.shalom-nago.com/ (リンク有)
まだできてから5年のきれいな施設であった。収容人数は確か30名ほどです。この施設での最大の再会は、私が45年前に、西原三育小学校教会と大謝名集会所の牧師インターンとして赴任した時、青年会で活躍しておられた、ETさんです。彼はこの施設で最近働き始めたようだ。NSさんから前もって聞いていたので、早速呼んでもらった。お仕事中なので、あまり長話はできなかったが、懐かしい、ザアカイのように背は低いが、元気で活動的な、ほぼ昔のまま変わらない姿で彼がやって来た。一度わたしが岐阜教会にいた時、沖縄からわざわざ訪ねて来てくれたので、38年ぶり位の再会です。ETさんは、眉毛に白いものが目立つぐらいで、ほとんど当時と変わらない姿であった。熱い握手を交わした後、少しだけ昔の思い出話をした。岐阜教会に会いに来てくれたこと、昔、姑さんとの関係が悪化して、家出した信者のKMさんを、住んでいるところを探し出し、一緒に訪問したが留守だったこと等を話した。他愛もない話だが彼は覚えていてくれた。
しかし、一緒に青年会で活躍し、泳ぎが得意だった普天間出身のYさんが、海でシュノーケル中に事故で亡くなったことを、どのくらい前に起きたことか彼に聞いたとき、即答はしてくれなかった。たぶん20年以上前の話なので、すぐには答えられなかったのだろう。持ってきた八王子名物の都饅頭は、今日までの賞味期限であったので、株式会社 沖縄三育ライフ代表取締役 金城健祐先生に渡す分を取っておいて、後はすべてETさんに渡して、ご老人に食べていただくことにした。今日はどなたかの誕生日会が開かれており、集会室の方から讃美歌を大勢で歌っている声がした。そこで食べてもらえればちょうど良い。まだ4包みほどあったので十分行き渡るはずだ。
さて、この施設の責任者金城健祐先生(株式会社だから「社長」)は今日はお休みと聞き、NSさんに頼んでご自宅まで案内してもらった。十分ほど下がって行った、山からはだいぶ離れた住宅街に、金城先生の立派なガッシリした造りの、2階建てコンクリート住宅があった。「やっぱり、SDAの総理までした方の住宅は違うなー」と、この世的な変な感想を持ってしまった。あばら家に住もうが、どんなところに住もうが、信者はそこが神を礼拝する場所であり、天国であるのだ。
金城先生とは私が岐阜にいるとき、豊橋教会に赴任してこられ、当時中部関西教区と呼ばれていた、一緒の教区で、会議等でお会いすることも良くあり、親しくさせていただいていた。その後、北海道に赴任なさり、SDA 教団責任者、総理までなされた(総理とはあまりにも大それた呼び方なので、一般的には理事長のこと)。プレジデントの訳である。
NSさんが玄関で呼びかけたが、お昼寝をされていたので、だいぶ時間がたってから、玄関が開き、部屋に通された。何とお元気ではあるがもう85歳になられたそうです。
第一回目の沖縄旅行記でも書いたが、その時は名護教会でナアマンの説教をしておられ、久しぶりに拝聴することが出来た。ですから3年ぶりの再会です。頭脳も明晰で少しの衰えも感じさせない。
しかし奥様が大腿骨骨折をなさり、それも時間をおいて両脚を骨折してしまい、今は良くなり、介添えが必要であるが歩けるまでに回復なさった。奥様の介護をお一人でしておられる。奥様は普段はデイサービスに通っている。教会の礼拝にはご夫婦で出席なさっているとのことであった。そういう事情なので、老人ホームの方の社長業は、いつも午前中で終わり、家に帰り、奥様がデイサービスからお帰りになった後は、家で介護なさっている。老人ホームの施設の修理や、色々なことでNSさんには大変お世話になっていると、再三言っておられた。社長と呼んでいるのは、シャローム名護は老人ホームには珍しく、株式会社の組織であり、社会福祉法人と違い、公の援助を受けていない。それゆえ、誰でも、どの地方からも自由に入居できる。もちろん本土からも。
「もう自分が働けるのも、後数年だろう。身体の方が持たない。」と言っておられた。さて帰る際に玄関先で、交代で記念写真を撮影した。八王子教会のN長老と親しいらしく、「彼によろしく」と言っていた。「写真をN長老に見せておきます」と言っておいた。
さて金城健祐先生の家を後にして、次はどこに行こうかと考えて、そうだまだNSさんのお姉さんKSさんに会っていないではないかと思い出した。もう一度八重岳に帰ることにした。KSさんは、第一回目の旅行記で詳しく書いたが、長い間文書伝道者としてご活躍なさり、甲府集会所の責任者を10年ほど勤めた。沖縄に帰って後、今は縁あって、実家の近くの、サンライズ今帰仁の施設で暮らしている。今日は、そこから八重岳に来て、シークヮーサーの果汁絞りのお手伝いに来ているとのことであった。
車で八重岳のゲストハウス並びのチャペルの横の建物のところに行く。懐かしい3年ぶりのKSさんが、大きな丸い目で私を迎えて下さった。シークヮーサーの果汁絞りの為、ここに朝からお手伝いに来ていて、前掛けをしていた。元気そうなお姿であった。ところが、私に「八王子に住んでいらっしゃるのですか」と、何度も聞くので、その都度「そうです」と答えていた。2~3分たつとまた同じことを聞くので、(私はNSさんから前もって、お姉さんに、認知症の症状が出てきたことを聞いていた)何度聞かれても、嫌な顔一つせずに「八王子に住んでいますよ」と答えておいた。
NSさんとは10歳上であるKSさんは、確か78歳です。「そうか、認知症がもう始まってしまったのか、3年前お会いした時は、全くそんな症状はなく、普通であったのに」と思った。
その後、まだ「八重岳ベーカリー」が開いていたので黒パンを買いに寄った。
https://yaedake.com/ (リンク有)
車をベーカリーの駐車場に置かしていただいた。NSさんが家から段ボール箱を持って来てくれたので、買った何種類かの黒パンを箱に入れた。もう午後4時半を過ぎているが、急いでいけば、麓の本部郵便局まで5時までに着いて、郵便小包で今日中に出すことが出来る。するとベーカリーの女性店員で親切な方が、「明日の朝、一番で郵便局に私が持って行って出して来てあげますよ。」と言われたのでお言葉に甘えることにした。「ゆうパックラベルにこちらで写し書きするので、取り敢えずお届け先をこのメモ用紙に書いてください」と言われるので、私が書いている隙に、NSさんが黒パン代金と郵送料を払ってしまった。
それはまずいことなので、何度も「そんなことをしないように」と彼に言ったが、結局彼が全部出して下さった。本当に心から申し訳ないと思い、後日東京に帰ってから、こちらの八王子から、郵便局のふるさと小包を利用して、リンゴを送らせていただいた。さらにお姉さんのKSさんがいつの間にか、絞りたてのシークヮーサーの果汁が入った大き目のペットボトルを3本、レジ袋に入れて持ってきてくださった。遠慮なく貴重なものをいただいてしまったが、かなり重い。「これを持って帰るのは大変だぞ。」と内心思った。そのときフット閃いた。また八重岳べーカリーの中に入り、「黒パンと一緒にこのジュースも送っていただけませんか。」と頼んだところ、快く引き受けてくださった。
ここで車をフィットに乗り換え、今帰仁のサンライズの施設にKSさんを送り、その帰りに近くの今帰仁城跡を観光することとなった。NSさんが運転するフィットの後部座席に乗っているKSさんに、自分の長男の家族や、長女の家族、孫たちのスマホ写真を見せたところ、「可愛いい、可愛いい」と言われて大変喜ばれた。
今帰仁のサンライズの施設の前でKSさんを降ろし、ここでお別れになった。そして、向かいの丘の上にある「今帰仁(なきじん)城跡」に向かった。
もう間に合わないと思っていたが、5時近くになってはいたが、ギリギリ見学することが出来た。入場料もNSさんが出して下さり、申し訳ない限りです。
今帰仁城は13世紀ごろ築城され、今は石垣のみが当時の面影を残している。
https://www.odnsym.com/isan/nakijin.html (リンク有)
沖縄北部、本部半島の先端にある、昔だったら、人も寄り付かないような場所に、良くこんな大きな石垣を築いたものだと感心する。
NSさんに案内されるまま、昔の石畳を歩き、修復されて綺麗になっている石垣を見学、先端の見晴らしの良いところから、向こうの丘を見る。すぐ下は深い谷になり、向こう側に同じような丘陵が見え、さらにその先はもう海です。その丘陵にNSさんの実家があり、昔2万坪の土地をそこに持っていたそうだ。しかし、今はほとんど売ってしまって、2千坪になってしまった。弟さんが後を継いで農業をしておられた。今はその弟さんもなくなり、甥っ子さんが後を継いでいるそうだ。NSさんが小さい頃、城郭の下にある抜け穴に入り、カンテラを照らして中を歩き、遊んだそうです。今帰仁城跡に来るのは約50年ぶりと言うから、地元の彼にとっても懐かしい場所ではあった。
夕闇が迫っていた。沖縄は1時間位日没が東京より遅い。この時期、東京ではサンセットは4時32分頃、沖縄は5時38分頃だ。でも来たのが遅かったのでそろそろ暗くなりかけていた。帰りの道、門のところを出たところに、入場券を確認する受付の建物があり、そこでは少しお土産等も売っていた。そこにNSさんの同級生が勤務しており、懐かし再会だったのだろう、入場する時も、彼は何分かそこに立ち寄り、旧友と話をしていた。
さて帰りに同じ所を通った時、NSさんの同級生が、私達の為にお土産をくださった。砂糖になる前の、サトウキビを煮詰めた汁であった。「さーたーゆー」今帰仁城跡とラベルに書いてある。手作り感がプンプンしている、小型のペットボトルの容器に入った珍しい物です。NSさんと私にくださったのに、「自分は何度も食べたことがあるので」と言って、彼は帰りに私に2つともくれてしまった。これも私は遠慮なくいただいてしまった(なんて厚かましい自分かと今になって反省しています)。いったいどうやって食べるかわからないので、後からラベルを見て見ると、料理に入れても良い、はちみつ塗るようにパンに塗って食べても良いそうだ。かなり甘いシロップの様なものです。
さて車でようやく帰途に就いたが、どこかで夕食を食べようと言うことになって、色々探したが、適当なところが見つからなかった。その理由は、「せっかく沖縄に来たから、ゴーヤチャンプルを食べたい」と私が言ったのが原因であった。着いた昨晩はKN先生からステーキをご馳走になっているので、もう肉はいらないと思っていた。ところが、この辺は焼き肉屋はたくさんあり、また別の高級和食料理店はあっても、ゴーヤチャンプルを食べさせてくれる大衆食堂がないのだ。夜は、午後7時20分くらいになっていた。日が長い沖縄と言っても今日は11月21日だ。日もとっぷりと暮れ、辺りは真っ暗です。本部半島の港、渡久地(とぐち)港近くに来た時、珍しい、ラーメンと書いた赤ちょうちんが目に入った。「何でもいいや、そこにしよう」と私が言うので、早速彼はUターンして、その店先にフィットを止めた。
その店に入ろうとすると、長いテーブルが入り口をふさぐ形で横に置いてあり、メニューだけがテーブルの上にあり、テーブルの向こう側に女性の店員が立っており、寿司とラーメンの持ち帰り専門の店だった。寿司を食べる気にはなれずラーメンにした。持ち帰り用の発泡スチロールの様などんぶりに入れられ、スープがこぼれないように、ラップで上面が覆ってあるラーメンを、レジ袋に出来るだけ傾けないように入れて、車まで持ち帰った。すぐ横にある渡久地港の岸壁のそばまで車で移動し、岸壁の堰堤に腰を掛けて、2人でラーメンを食べた。午後7時半を過ぎて、闇夜に浮かぶ漁船を見ながら、食べるラーメンの味は、中々美味で、それなりにおつなものであった。さすが沖縄、薄手の長袖ジャンパーでちょうど良く、寒いとは感じなかった。今となっては忘れ得ぬ思い出です。https://www.okinawan-pearls.go.jp/?act=detail&si=1519(リンク有)
既に真っ暗になった道を本部の渡久地港より、15分くらいで八重岳ベーカリーに帰って来た。八重岳ベーカリーの前の駐車場に止めたムーブに乗るため、私は彼の運転するフィットから降りた。そして再び彼の先導するフィットの後について、2~3分狭い道を走ると、今晩泊まる「八重岳ゲストハウス」に着いた。3年前来た時中に入って施設は見ていたので、ほぼどんなところかは分かっていたが、彼は親切にも一度車を降りて、施設の中を案内してくれた。今日使う部屋、ベッド、お風呂の場所、照明の電気のスイッチの位置等々、教えてくれた。説明が終わり彼はフィットに乗って家へ帰った。私は、玄関のアプローチからムーブが少し離れていたので、もっとゲストハウスの玄関入り口の近い場所に止め直した。今日の客は私一人です。
「八重岳ゲストハウス」
https://www.airbnb.jp/rooms/14826053?source_impression_id=p3_1672568668_3hRsN0THx%2FKXYG0E (リンク有)リンク内【すべての写真を表示】をクリックして下さるとほぼ全体が見れます。
音もなく静かな施設、けっこう大きな施設に私一人貸し切り、何と贅沢な事だろう。彼は別れ際、「朝食は八重岳ベーカリーのパンを持ってきてくれるので、それを食べて下さい」と言っていた。大変お世話になったことのお礼を言い、そこで彼とのお別れになった(実は明後日の23日水曜日、沖縄そばの名店・大家ウブヤーでまた会うことになる)。
NSさんは、八重岳ゲストハウスや、その周辺の施設の管理を約10年前に、所有者の比嘉ドクターから任され、1週間に1回のペースで、施設の手入れ修理等の仕事をしている。しかしそれだけでは食べていけないので、10年ほど名護で造園業の会社で働いていた時の人間関係があり、各方面から仕事を依頼され、あちこちに行っている。今はどの業種でも人手不足で、彼に仕事を手伝ってくれるように、しょっちゅう彼の携帯に電話がかかって来る。何事も嫌な顔一つせず、奉仕の精神で働き、何でも出来る彼は、多くの人に信頼され頼りにされているのだ。明日も仕事で朝から予定がある。明朝、出発前に、私がお礼の電話をした時には、既に今帰仁方面で仕事をしておられた。
さてNSさんからの説明も終わり、ここでお別れし、広いゲストハウスに一人、取り残され状態になった。既に時間は夜の8時半近く、寝るまでにやることがいっぱいあって、寂しいとは全然感じなかった。日中は汗をかく程暖かであったが、北部の夜はこの時期になると、那覇市内とは違い冷える。八重岳は海抜450㍍あるので、寒さを感じた。おまけに、夜になってゲストハウス近辺は、多少風が吹いた。持ってきた薄手の長袖ジャンパーを、半袖の上に渡久地港で着ていたが、それでちょうど良い位だった。
バスタブにお湯をたっぷり入れて、ゆっくりくつろいで風呂に入った。誰に文句を言われることもない、大きな施設に貸し切りの1泊です。一人の贅沢な時間を過ごしました。しかし、どこかで4~5分おきに、ピピと小さな電子音が鳴るのが気になった。ベッドのある部屋の扉を閉めると何も聞こえなくなったので、気にしないでグッスリ寝ることが出来た。
昨晩寝たのは午前1時半頃、今朝は午前6時前には目が覚め、6時半からはホテルで朝食、やっぱりかなり疲れていたのだ。その晩は静かなこともあり、翌朝目覚めたのはかなり遅かった。