2022/11/25(金)日記
2022年11月25日金曜日 沖縄第二回目旅行第六日目
さて、朝目覚めると、何と午前8時半を過ぎていた。昨日かなり歩いたので、疲れが出てグッスリ眠ってしまった。ANA 0462便 那覇空港 11:20発 > 羽田空港 13:40着の予定があるので、午前10時にはホテルをチェックアウトしようと考えていた。これはテキパキとやらないと大変だぞと思い、顔を大急ぎで洗い、ホテル備え付けの大変着易かった、パジャマ兼用の部屋着を脱いで、すぐ着替え、帰り支度をして、食堂へ行った。思えば最初に宿泊した時は午前6時半に来た食堂だが、今日は最後の日、だいぶ慣れたとはいえ午前9時になってしまった。他にも数人、まだ食事をしている人もいた。慌てて最後のバイキングの食事をして、コーヒーを飲んで、部屋に戻った。とにかく忘れ物しないように荷造りをして、超軽くなったスーツケースを引き、フロントに行き、合計4日間お世話になったお礼を言った。那覇GRGホテルで検索すると出て来るが、口コミではかなり評判が良いホテルだ。私も滞在中、このホテルの従業員の接客態度の良さには100%満足している。良く訓練されている感じだ。カードキーを忘れずにフロントに返してホテルを出た。ちなみにカードキーは滞在中、外へ持ち歩く事が許されており、連泊中いちいちフロントに返却する手間もなく、快適に過ごせた。
天気は曇り、道路はところどころ濡れていて、時々小雨がパラつく程度。昨日は曇りで、雨が降るようなことはなかったが、今朝は小雨がパラついていた。帰る時は、KN先生が美栄橋駅に出るのではなく、道が広い県庁前の駅https://www.yui-rail.co.jp/routemap/kenchomae/(リンク有)からゆいレールに乗る方が良いと勧められていたので、そのようにした。ホテルを出て、少し歩くと、すぐに国道58号線の脇の広い歩道に出られた。スーツケースをゴロゴロと引きながら、久茂地交差点まで歩き、左に曲がると、すぐ県庁前の駅だ。ゆっくり歩いて15分ほどの距離だ。ゆいレールを自由に乗りこなすことが出来て、那覇バスターミナルの路線を把握できれば、別にレンタカーを借りなくても、沖縄旅行は十分できると感じた。今はグーグルで検索すれば、何でも案内してくれるのだから。
さて無事空港に着くと、時間はまだかなり余裕があったので、そんなに手続きに焦ることはなかった。3年前は人力によるスーツケースの預けも、今回は羽田空港と同様、自動化されていて、簡単に預けることが出来た。少し手順が羽田空港と違うような気がしたが、無事手荷物検査も通り抜け(ここでもジャンパーは脱ぐように言われた)、分からないことはドンドン係りの方に聞いて、無事搭乗手続きを済ませ、待合室で機内への案内を待った。出発時間の11時20分よりはかなり遅れて那覇空港を離陸した。曇っていたのと窓側の席より一つ内側の席だったので、あまり外の景色は見えなかった。
何か慣れてしまうと、飛行機の旅とは言っても案外暢気なもので、結局バスに乗るのと大して変わりはなくなるように感じた(前後の手続きなかなり時間はかかるが)。さて、那覇はあんなに曇っていたのに東京は快晴であった。途中木更津上空あたりを通り、アクアラインの空気取り入れ口として作った丸い建造物の上を通過、羽田空港に無事何事もトラブルなく飛行機は着陸した。
預けたスーツケースを受け取り、リムジンバスhttps://tokyo-haneda.com/access/bus/index.html(リンク有)は、乗り場4番、京王八王子行きは15時発だった。JR八王子駅を経由するのでこれで良いはずだ。まだ30分くらい時間があったので、ゆっくり落ち着いて、スイカで乗車券を買った。やっぱり何か食べたほうが良いかなと思い立ち、3年前のことを思い出し、自動販売レストランのところへ行った。ところがほとんどすべてが売り切れだった。自分が嫌いな物を買いたくはない。朝食はいっぱい食べてきたので、お腹もそんなに空いてなかった。買うのをやめて、念のためトイレによって、4番のバス停に戻り、バスが来るのを待った。バス停に係りの方がいて、乗車券を見せる。スーツケースをバスの下の収容スペースに入れるため、タグをつけて、スーツケースを預かってくれた。バスは予定通り午後3時に来たが、首都高がかなり混んでおり、八王子に着いたのは午後5時。今日は金曜日、安息日のサンセット礼拝は、中央高速、国立あたりで、まぶしい夕日を見ながらすることになった。もちろん他の乗客もいるので、ただ静かに黙祷で、祈りを神に捧げただけであった。八王子駅について、バスの下の荷物置き場からスーツケースを出してもらい、エレベーターを利用して2Fに上がり、懐かしく感じるセレオの入り口前を通り、南口へ出て、またエレベーターを使い下へ降り、ゴロゴロとスーツケースを引きながら、K町の丘の上にある自宅に帰り着いた。
すると自宅より一つ手前の路地で、ヘルパーの仕事から帰って来た家内とパッタリ会った。「遠くからゴロゴロと音がするので、お父さんかと思ったら、やっぱりそうだった。」と笑いながら言われた。家内がいてくれたから、2023年1月に満97歳になるお婆ちゃんを残して、沖縄に行けたのは間違いないことなので、感謝している。
さて午後5時20分頃家に着いて、お婆ちゃんと家内の君子に、土産話を1日目から6日目まで一通り全部話したら、午後7時近くになってしまった。お土産も誰に配るか手配して、夕食は久しぶりに、君子が温かな、なめ茸入りの日本蕎麦を作ってくれた。沖縄にもホテルにもないものなので、美味しくいただいた。着いたらKN先生に連絡することになっていたが、土産話に夢中になって遅れてしまった(帰る途中や、那覇空港、羽田空港ではメールしていた)。スマホを見ると着信があったので、慌てて先生に無事着いたことを連絡した。
君子がお風呂を掃除して、新しく湯を沸かしてくれていたので、疲れてはいたが、夕食後軽く入ってすぐ寝てしまった。
後述
お婆ちゃんが、「タルガヨー」があまりに美味しいと言うので、何日かしてNSさんに、追加で送ってもらうよう頼んだところ、後日送っていただき、感謝であった。
NSさんとKN先生にたくさんご馳走になったり、お世話になったりした。特にNSさんには、日雇いのお仕事の中で、私の為にあらゆるご負担をして下さったこと、申し訳ない限りです。後日郵便局のふるさと小包のカタログ、3~4冊を八王子南局から持ってきて、比較検討し、最高ランクのリンゴを選んでお二人に送ったところ、大変感謝された。また余談であるが、NSさんは腰を痛めていたので、私がやっている腰痛防止体操の動画を、八王子からラインで送ったところ、早速実行して下さり、「良くなった」と言って喜んでおられた。私の信じる、何でもお出来になる神に、癒して下さるように、これからもNSさんの為に祈り続けたいと思っています(腰が痛い方、動画送りますので、良かったらtanaka33014@yahoo.co.jpまでご連絡下さい)。
付録
最初に沖縄に着いた晩、3年ぶりの再会なのでホテルの部屋で色々な話をし、夜中の12時過ぎまで話し込んでしまったことは前述の通りです。
ここに、その時の話の通りではないが、私とKN先生の聖書理解について、神学的な内容を記述しておきます。かなり長文ですし、難しい内容ですので、もしよろしければお読み下さい。
まず、KN先生の考え方の概略を私なりの理解の中で以下書きます。
天地創造の神は、私達を創造し、イエスの十字架の贖いによってまた再創造してくれます。その絶大なお力の中にあって、信仰者は信仰によって義とされるだけではなく、神に再創造されることによって新しい生を生きることが出来ます。自分の中にあるすべてを神に捧げ、献身して行くとき、聖霊を通して神は個人の中に現れ、住んで下さいます。救いの確証は、組織的なもの(教会)ではなく、個人と神との関係によって決まります。実存的な神との関係こそ、キリスト教信仰の本質であって、御霊と共に毎日を生きることが、真の礼拝です。
その神に、自分の持てるありったけの真心で個としてダイレクトに心も魂も全て、文字通り一寸の保留も無く開いて応答した(=信仰)ら、なんとあの全宇宙の神がご自身を現し、しかもこの私達の中に入って住んでくださった(=救い)のです。
文字、言葉、律法、教義、規定、教会組織、安息日(第7日目が正しいでしょうが)等はそれぞれの役割があることは認めるが、信仰の本質ではない。
神の真心の愛に真心で応えて行く愛によって働く信仰、神はそれを歓び嘉せられる。真実と真心から毎日を霊的礼拝行為として過ごしていくことこそ重要なことです。たとえ何曜日に礼拝しようと、礼拝の形、時間、捧げものの形、枝葉末節な細かな規定等にこだわるような、神は小さなお方ではない。
信仰による義は御霊によって生かされる天的な出来事であると同時に、クリスチャンにとってリアルな新しい生です。御霊によって始まった新たな生、御霊によって生ける御父と生ける御子イエスの御心を仰ぎつつ共に交わりつつ全うされるものです。命と救いは生ける御子イエスにあります。
さて、以下に私の聖書理解を、自分のホームページ、ヨハネによる福音書15章の自己流解釈から引用する形で述べておこう。かなり長くなるが、よろしければお読み下さい。
さてここで少し横道にそれるかも知れないが、言葉と霊という問題について考えて見よう。
『わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。』(ヨハネ15:3)これはいったいどういう意味なのだろうか。何故この一節がここに挿入されているのだろうか。キリストの霊によってあなたがたは清められていると言う意味なのだろうか。イエスの言葉と霊は同じなのだろうか。イエスの言葉が、私達を清めるのだろうか。霊と言葉の関係は一体どうなっているのだろうか。私は、これまで色々と、聖書の自己流解釈をやってきたが、聖書の世界は言葉の世界です。神の言葉であると信じて読んではいるが、基本的には文字の世界です。言うまでもなく、言葉を記録したのが文字です。イエスの生身の言葉を聞きたいとは思うが、それは今の地上ではかなわない。弟子達が記憶をたどって書いた文字としてしかイエスの言葉は残っていない。イエスは直接聖書を書くことはなさらなかった。御自身が神の言葉そのものであったから、わざわざ羊皮紙にペンで言葉を書くようなことはなさらなかったのだろう。言葉=文字ではないだろう。しかし文字を通してしか、イエスの事績をたどれないではないか。
イエスの生ける言葉を今聞こうとしてもそれは無理なことだ。文字に頼るしかない。聖書全体が神の言葉と信じてはいるが、旧約聖書39巻と新約聖書27巻、合わせて66巻からなる、その文字数は膨大なものです。この文字、このすごい量の言葉の羅列はいったい何の為にあるのであろうか。神が、人間にご自身を顕現された。神がイスラエルの歴史に関与されたこと、また、様々な犠牲制度の儀式、祭り、隠されていた贖罪の概念等を、預言者達は旧約聖書に記録した。その中にはもちろん、神の直接的な託宣も含まれている。
また新約時代に入って、贖罪の本体としてのキリストが明らかにされる。12弟子達の目に映った神の子イエスの言葉と行動を、彼らは、新約聖書として記録した。人間の言葉と神の言葉は同じではない。しかし人間の言葉を介しながら神はご自分の存在を現わして来た。神の子イエスは、弟子達が書いた人間の文字を介して、行った事績と、教えを新約聖書の中に記録された。文字によってしか記録はできない。現代はSDカードやビデオ、DVD、USB等様々な記録媒体があるが、そのような便利なものは当時はなかった。パピルスや羊皮紙に書かれた文字によって記録を残すしか他に方法はなかった。
私達日本人は言葉に余り重きを置かない傾向があります。情緒やその場の雰囲気、気持ちの方を大事にする国民です。確かに人間の言葉は頼りにならないことが多い。政治家の言葉など、信用が出来ない見本のようなものだ。
しかし言葉、それを記録した文字は大事なものではないか。文字を通して、霊的なものが伝えられてくる。 『文字は人を殺し、霊は人を生かす。』(コリント第二3:6口語訳)とあります。 確かに、文字は冷たく、人を罪に定め、死の働きをする面もあるかも知れない。『石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ』(同 3:7)と書いてある通りです。冷たい石に刻まれた律法(十戒)の文字は、私達の罪を指摘するばかりで、そこに贖罪がない。故に律法の実行によっては誰一人救われないし、神の前に義とせられないのです。律法は第7日目安息日遵守も含めて、神の義を要求するばかりで、それを行う力は与えてくれないのです。いわば鏡のようなもので、鏡を見れば自分の汚れた姿は見ることが出来るが、汚れを落とす力がないのです。律法によっては罪の自覚しか生じないのです。
『律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。』 (ガラテヤ2:16)
『律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。』(同3:11)
一方、霊の宿るところには力がある。キリストに結び付けられ、『霊の法則が、......あなたを解放』(ローマ8:2)する時は、喜びと自由があり、霊によって心が温められ、平安があります。私達が、不安と、行き詰まりと、恐れを感じている時、神の霊が臨んできて急に心が癒されることがあります。私は何度もそんな経験をしてきた。聖霊が来て下さるとき心の中に変化が起きてきます。喜びと平安、キリストによる精神的解放感がもたらされます。『主の霊のおられるところに自由があります。』(コリント第二3:17) そこには、キリスト者の自由があります。『この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。』(ガラテヤ5:1)
しかしどうであろう、文字によらず霊はあり得るのだろうか。言い換えれば、言葉によらずに霊は注がれるのだろうか。聖書の言葉を神の言葉として受け取り、読み、考え、瞑想し、又、御霊の導きを求める時、言葉と霊は共に働いているように私には思われます。言葉なくして神の霊は降ってこない。又、聖霊なくしては神の言葉は理解できない。神の言葉を究めて行くとき、同時に霊は喜々として私達の内に宿ってくれるのです。『わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。』(ヨハネ15:3 )と言うのは、そういうことではないのか。何とも、表現できない実態に向かって、私は書いているのだが、私の言いたいことを理解していただけただろうか。つまり、神の霊、聖霊、イエスの言葉、神の言葉、聖書の言葉、文字は一体となって有機的に結びついていると私は言いたいのです。
聖霊を受けることは信仰の主体であり、実存的なイエスとの関係は、それによって天国へ入れることの確証であります。御霊によって新生され、聖霊の神に日ごとに深く触れ、古い自己を日々十字架に付け、肉の古い自己の殻から脱却し、御霊が自分から溢れるばかりに流れ出す経験をして行くことが、最も大事な事です。
しかしその聖霊は、出所を同じくする神の言葉、聖書の言葉、イエスの言葉と必ず一致するはずです。愛の方向性を定めた十戒や、神や人の為に、自分の命を捨てるような生き方を求めるイエスの戒めに矛盾するようなことがあってはならないのです。同じ神のところから、聖霊も御言葉である聖書も発出しているのですから、必ず一致するはずです。
とは言え、人間性は弱く、イエスのお言葉通り生きることは非常に困難です。下着を取るものに、上着まで取らせることはなかなか出来るものではありません(マタイ5:40参照)。1ミリオン(1,480㍍) 強いて行かせるものに、2ミリオン行ってやれるものではありません(同5:41)。敵を愛し迫害する者の為に祈れ(同5:44)るものではありません。『そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。』(コリント第一6:7)とも書いてあります。キリストに従い、その愛のみ言葉の御要求にこたえることは、容易なことではありません。ただただ、自分が、キリストの御霊を内住させることによって、霊的に解放されて生きるしか方法はありません。
そもそもイエスは一人の人格(神格)としての神の言葉であるのです。『初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言(イエス)について。』 (ヨハネ第一1:1) 言葉があってこそ、霊があり、霊があってこそ、文字に記された言葉が活きてきます。それらは切り離すことが出来ないものなのです。
さらに、その霊の言葉は、御霊に満たされてくるとき、私達の近くにあり、今でも私達の口を通して語られる可能性もあると私は思う。『では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。』(ローマ10:8)真に御霊に満たされてくるとき、今でも神の言葉は私達の心、口、思想を通して語られる可能性があります。もちろんそれらのことは聖書の基準に照らして、真理から逸脱していないか吟味される必要は常にあります。私達がいくら御霊に満たされる時があるとは言え、私達の思いつくことがすべて神の言葉にはなり得ない。神の言葉が現代の私達に託されるとしたら、聖書の基準によって、よくよく吟味されなければならないだろう。聖書の言葉から逸脱した思想や言葉を、闇の勢力が欺瞞によって、人の心に植え付ける危険があります。
『父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』(ヨハネ15:9~13)
キリストの愛の内にとどまれ、何と美しい言葉であろう。ただ、ただ私もそうありたい、そうあり続けたい。それはキリストの喜びが弟子達や私達の内に回復するためです。その喜びとは何か。聖なる喜び、永遠の尽きることのない、内側から溢れ出てくるような喜び。聖霊に触れ、満たされ、人間存在そのものが神の霊によって包まれてしまうような喜びです。
そのためには、キリストの掟を守れ、その掟は、キリストが愛した愛し方であなたがたも愛し合うことだ。それは半端な愛し方ではない、キリストは神と人の為に命を捨てて愛し尽くされた。あなたがたも神の為、人の為、友の為に命を捨てる覚悟で愛せよ。実に重いイエスの言葉だ。