2019/10/11(金)日記

2019年10月11日

 2019/10/11(金)日記

 ペンション南の楽園で6時少し前には目が覚めてしまった。

 もう眠れそうもないので、実際はもう少し眠っていたかったが、今日の計画を何も立てていなかったので、とにかくTH先生に会えば何か、そこからつながるような気がして、どうしたらよいか考えながら祈り、まずは荷物の整理をして出発の準備をした。

 朝早く7時過ぎに部屋を出て、散歩に行こうと思っていたら、御主人が起きてきたので、(昨日朝食は何時かと聞かれて、最初は8時半と言い、後から疲れているので9時頃にすると答えていた)「すいませんが、早く目が覚めてしまったので、早く朝食をしたい」と言ったら、御主人は「すぐには出来ない」と言われたので、私は「今から散歩に行くので、ゆっくり用意してください」と言い置き、室内履きから、自分の靴に、玄関で履き替え、散歩のため外に出た。

 もう朝日が出ており、外の空気はすがすがしく、しばらく、15分ほどであろうか歩いた。何の植物であるかわからなかったが、けっこう大掛かりな、栽培がおこなわれ、スプリンクラーからは、水がひっきりなく散布されていた。大型のビニールで造られた、温室のような、栽培施設があちこちにあった。(後でご主人から、電照菊と言う言葉もあったので、もしかすると電照菊栽培か)

 糸満は漁師の町であると聞いていたが、ここは海から少し離れた場所なので、農業も盛んにおこなわれ、豊かな土地なのだなと思った。

 散歩から帰ると、ほどなくして朝食が出来たので、食卓に着いた。サンマが焼かれて出てきたのを覚えているが、焼いたのではなくて、揚げてあったのかも知れない。ご飯のおかわりはしなかったが、全部きれいに出されたものは平らげた。K君と言う3から4歳のかわいい男の子がいて、奥さんも出てきた。ペンションを始めてから、確か16年と言っていた。

 「自分は42年前に沖縄にいて、その時は730の前の年だった。」と言ったら、その話題で話がすすみ、「本土からきて、左側交通から、いきなり右側交通になったものだから、癖が抜けず、左側を、無意識で走ってしまうことも何度かあり、対向車にすれば、正面から車が走って来てしまう結果になり、相手はずいぶん驚いていたようだ。」と笑い話になった。フェリーで本土から車を持ってきたのだが、ライトの方向が左を向いているので、右側を走ると、相手を照らすようになってしまうので、メーカーに行ったら、無料で、沖縄用に右向きのライトに付け替えてくれた。前に使っていたライトは、そのままもらって置き、翌年4月にフェリーで車と一緒に本土に帰る際、また無料で左向きのライトに付け替え、元に戻したことを覚えている。

 「浦添の真栄原に居た」と言ったら、それは「宜野湾の真栄原だ」と言われ、42年前の記憶も、あまりあてにならなくなったなと感じた。

 料金を払い、コクヨの簡易な領収書をもらい、快適なお部屋を用意していただいたお礼を言って、宿を出た。

 車、昨日オリックスレンタカーで借りたホンダフィットのトランクを開け、重いスーツケースを載っける。いよいよ出発である。エンジンをかけ、カーナビを操作する。

 実は宿の部屋にいる時、部屋から、8時頃、沖縄で今年3月まで教区長をやられていた、現在古座教会にいる、T先生に電話をしておいた。わたしが32年前に沖縄にいた時、T先生は宮古で、インターンをしており、話はしたことはなかったが、32年前に私が牧師をしていた時、多少面識はあった。突然の電話をお詫びし、当時のことを少し話、その時お世話になっていたTH先生にお会いしたいので、T先生に自分の携帯の電話番号を告げ、TH先生から自分の携帯に連絡してもらえば、個人情報的なことはクリアできると思いつき、そのように、T先生にお願いしたら、快く引き受けていただいた。午前8時過ぎくらいのことである。

 さてフィットに乗って、ふと思いついて、着信記録を見てみると、既に二度ほど着信履歴に、見知らぬ携帯番号の着信があったので、これはTH先生からだと思って、こちらから電話をしたところ、TH先生本人が出られ、驚いている様子であった。

 TH先生の奥様のお母様が103歳で健在であられ、横浜線-Y駅そばの介護施設にお入りになられているので、何ヶ月か前に、近くの八王子教会に、奥様、長男NH君と共に出席なさり、その時、たまたま私の礼拝説教であった。

 私のつたない説教を聞いていただいた。86歳と思えぬ、昔と変わらないお姿を拝見し、懐かしく、短い時間であったが、八王子教会で、お交わりが出来た。

 その時、「沖縄に行くかもしれません」と思わず口を出た言葉が、こんなに早く実現するとは、不思議なことである。

 TH先生から住所を聞いて、フィットのカーナビに入力しようとしたら、これがうまくいかない。駐車場を出て、少し行った所、安全と思われる、路地の左端に車を寄せて止め、30分近くも入力にかかってしまった。やがて慣れて、すぐ住所入力が出来るようになったが、慣れた頃は、もう、車を返すころだった。

 ホンダフィットのレンタカーは、5万キロ走っており、カーナビもかなり古く、現行でないところもあって、案内のとおり行くと、かえって迷ってしまったことが何度かあった。そんな時はスマホのグーグルマップの方が現行であり、役に立った。

 高速道路、沖縄道を久しぶりに走り、沖縄市出口で降り、一般道でTH先生のマンションの近くの交差点まで行った。

 ここで、古いカーナビが変な案内をするので、目的地からかなりハズレ、Uターンして、スマホのグーグルマップに切り替えたり、四苦八苦しながら、TH先生のマンションの横まで着いた。

 スマホで電話すると、TH先生から、ある目標物を言われたが、ちょっとわからなかった。

 マンションの建物の前にある、何とかと言う施設の名前を言うと、すぐTH先生の方で、お分かりになり、マンションから下に降りてこられた。マンションの駐車場に1台、無料で、空いていた場所にレンタカーを駐車できたので助かった。そこを案内され無事に車を止めることが出来た。レンタカーはぶつけたらいけないので、慣れていないこともあって駐車時、バックには大変気を使った。

 車を降りて、車の戸締り等を慎重に確認、TH先生の案内で、マンションのエレベーターに乗った。

 TH先生は86歳にもかかわらず、身軽で、足取りもしっかりしておられ、42年前とあまり変わらないお姿なので、非常に驚いた。まだ新しい、掃除が行き届いた綺麗なマンションであった。

 部屋に案内されて入ると、居間の端、ソファーの前に、水槽がおいてあり、小さな熱帯魚が泳いでいる。水槽はブクブク泡を立てていた。水も良く換えて掃除しているらしく、緑の水苔など全然生えてはいなかった。

 話は尽きず、父の回心後のことや、特に、認知症が進んで最後87歳で亡くなるまでの、3年半近くに及ぶ、認知症専門病院での闘病生活などを詳しく話した。そのうち奥様が帰られ(北中三育教会の執事の仕事で出かけていた、そう言えば、今日は金曜日、準備の日であった)まったく若い頃42年前のお姿であるので、そのように申し上げると、微笑んでおられた。

 ご挨拶だけと思っていたのが、おいしいリンゴと、柿をいただきながら、話し込んでしまい、思わぬ長居をしてしまい、申し訳なかった。

 話の中で分かったこと、娘さんのKHさんは障害があるので同居しているとのこと。今は障害者の授産施設で、何か働いていることを伺がった。双子のもう一人のお姉さんは結婚し、孫もいて、沖縄の方がお相手だったので、TH先生に、沖縄で親戚の方が出来たことになる。

 私が、長居をしたため、昼の12時はとっくに過ぎており、先生と奥様と一緒に、近くのイオンモール、ライカムに案内された。(車で出かけ、私は先生の車の後をついて行った。)

 10/11金曜日、ウィークデイと言うのに、駐車場は大変混んでおり、駐車スペースを見つけるのが大変であった。とても賑やかで、混雑しており、確か3階か4階の、てんぷら屋さんで、定職を注文、食べれない物はのけてもらい、その分何品か増やしてもらった。野菜中心のランチであった。(3人同じものを食べた。)一部白身魚の天ぷらが混ざっていた。

 娘さんのKHさんが14時には授産施設から帰るので、時間をとても気にしている、ご夫妻の様子であった。中々料理が出来た合図が来ないので、奥さんがわざわざ、受付のところまで行って、早く出して下さるように催促した。やっと料理が出来た合図があったので、3人で取りに行った。セルフサービスであった。

 私は時間がないのではないか、と気を遣い、またお腹がかなり空いていたので、思わず早食いしてしまった。しかし時間が無いにしては、先生ご夫妻は、ゆっくり食べておられるので、驚いた。

 量はあったので、お腹はいっぱいになった。食べきれない天婦羅を一つ私に下さったので、もったいないので先生からいただいて食べた。奥さんも私に食べきれない分をくださると言ったが、お腹いっぱいを理由にお断りした。

 昔若い時、私が大食漢であったことを先生は覚えておられたようである。大食漢は私27歳頃の話だ。42年たち、今は69歳。当時と比べれば少食になりました。

 天気は、関東に台風19号が接近している余波だろうか、風もあり、そんなに暑くはなかった。しかし直射日光はかなりきつく、駐車場からモールまで歩くとき、奥様は日影を選んで歩いておられた。日焼けするのを避けたかったのであろう。

 食事も終わり、駐車場のところまで歩き、いつまでも元気でいてくださるよう、挨拶をして、それぞれの車に乗って別れた。

 マンションの歓談中、TH先生にお願いして、NSさんの携帯番号を教えてもらい、メモしてあった。TH先生が親切に携帯で直にNSさんに、お電話して下さり、岐阜で牧師をしている時、会って以来、34~35年ぶりに話をした。電話での彼の声は全く、若い頃と変わっていなかったので、今現在働いている八重岳に、夕方5時までには着く約束をした。

 まだ八重岳の住所はカーナビに入力していなかったので、ショッピングモールを出てから方向を見失ってしまい、ちょうど道も信号で渋滞し、TH先生の車がまだそばにいたので、ちょっと降りて、先生に道を聞いたところ、目の前にある信号を右に行っても、名護方向に行けると言われたので、右折した。先生たちは左折して、沖縄市の方に向かわれた。ここで本当のお別れとなった。先生が今度八王子に来たら(来年の春頃らしい)、何とか御馳走してあげようと思っている。できたら八王子の自宅にご案内するつもりだ。

 さて58号線に出て海岸通りを、名護に向かって北上するつもりであったが、カーナビに八重岳ベーカリー(NSさんが働いているところの敷地内にある)の住所を入力し、走って行くと、沖縄自動車道を案内したので、高速で行くこととした。考えてみれば、沖縄市から名護(八重岳がある)まではかなりまだ距離があるので、高速利用で正解だったと思った。長い間走った。やがて懐かしい名護の街が見えて来た。懐かしいと言っても、だいぶ変わってしまったので、なんとなく思い出す程度であるが。八重岳の住所は、NSさんとTH先生のマンションの部屋で話をしたとき、「八重岳べーカリーで検索すれば出てくるはずですよ」と言われていたので、スマホのグーグル検索で、八重岳ベーカリーと入力したら、住所も電話番号も出てきた。その住所を、TH先生から別れた後、ファミリーマートの駐車場へ入れて、ゆっくり慎重に入力した。そのころにはカーナビの使い方もだいぶわかってきて、朝のような苦心をすることなく、入力でき、カーナビの指し示すように、名護まで運転して来たわけであった。

 本当に便利な時代となった、スマホでもグーグルマップでも案内されるし、カーナビに住所さえ入力すればどこへでも行ける。また、目的地の名前さえわかれば、グーグルで検索すれば、ほとんど住所がわかる。

 時間は既に3時はとうに過ぎ、4時近くであったかもしれない。沖縄市(古座)から名護は、特に高速を降りた後、渋滞していたこともあって、かなり時間がかかった。今から思えば、名護の市内をゆっくり見物すればよかったとは思うが、その時にはそんな余裕はなく、58号線を名護市内に寄らずに左折し、八重岳ベーカリーへと向かった。

 八重岳ベーカリーへは、大変な山の狭い、坂の小道を奥深く進んで行ったところにある。カーナビがなかったら行きつくことが、困難だったと感じるほどである。八重岳にSDAの自給伝道組織があるとは聞いていたが、こんな大変なところであるとは思わなかった。今日が初めての訪問で、そう感じた。

 さて、16時だいぶ過ぎてはいたと思うが、八重岳ベーカリーに着いた。中ではまだ営業しており、何人かの女性の姿が目に付いた。駐車場に止めて、NSさんの携帯に電話すると、ごみの処分の為、軽トラックで下まで運んでおり、少し待ってて下さいと言われた。あたりは、夕方になり風も吹いていたので、半袖の軽装では寒く感じた。20分ほどたったであろうか、懐かしい、30数年ぶりに、NSさんに会えた。

 彼は軽トラックで登って来た。作業着を着ていたせいもあるとは思うが、私の記憶の中にあるNSさんとは全く別人のようで、「NS です。」って言われなければわからなかった。若いときはどちらかと言うと顔がふっくらとしていたが、今は、だいぶお痩せになり、すっかりおじいちゃん顔になり、肉体労働のせいか、手の指はそこら中に小さな傷があり、絆創膏を貼ったりしていた。顔は日に焼けて、茶色くなっていた。

 でも、歯並びは確かに特徴のあるNSさんだったし、声は昔とほとんど変わっていなかった。ゲストハウスがちょっと離れたところにあり、そこでゆっくり話そうということになり、軽自動車に後ろから、ついていくと、数百メーターではあったが、離れた場所に、ゲストハウス及び事務棟のような、(敷地内にチャペルもあった)立派な建物が立っていた。

 NS さんは、まだいくつかのやり残した仕事があり、身軽に屋上に上ったり、梯子を運んだりしながら、テキパキと、残った仕事をこなしていた。

 私は大きな立派な、部屋がいくつもあり、一度に12人宿泊できる、八重岳ゲストハウスの施設の中を、見て回った。真ん中の一番広いスペースが、どうやら談話が出来る、応接ルームのような感じだ。また奥に大きな窓があり、そこからの見晴らしがよく、沈む夕日を見ながら、ゆったりした椅子に座り、お祈りの時間を持った。

 NS さんの仕事も終わり、着替えてゲストハウスに来たので、部屋の真ん中にある、大きなテーブルの前に移動し、2人で椅子に腰かけ、サンセット礼拝をした。

私は約30数年ぶりでもあり、この施設の管理を任され、あまりにも重労働をしている彼を前に、祈っていると、不覚にも涙が出てきてしまった。

 いつも冷静な私にとって、このようなことはめったにないことなのだが。二人で祈り終わると、NS さんは、そんな私の姿を見て、祈り終わって立ち上がり数歩歩いて、「田中さん疲れていますかね」と私に言った。

 変わってしまった君の姿が、歳月の長さを感じさせた。神の恵みの内ではあるが、長い時間が経過した結果だと思い、思わず胸が熱くなる思いをした。でも、そんなことを、彼に言い出せるわけもなく、ただ、私は黙っていた。

 なんで人間は歳を取るのだろう。あっという間に人生は過ぎて行く。

 NS さんから見たら、私もまた、ほとんど髪の毛がない、ハゲの老人であり、変わり果てた姿に見えるのだろう。自分の姿は、鏡の前に立たなければ見えないので、人のことばかり、見て、その人に対して、変わった、歳を取った、老人顔になったと思っているが、NS さんも私を見てそのように思っているのかも知れない。

 自分が八王子の自宅で顔を洗うとき、たまにシゲシゲと自分の顔を見る時がある。いつもは忙しいのであまり自分の顔など洗顔中に見ることはほとんどないが、たまに、自分の顔を見ると、本当に歳を取ったなと感じる。死んだオヤジに最近そっくりになってきたので、あーあーと思う。

 ここのゲストハウスに泊まって行かないかと、NS さんに、誘われたが、名護の屋部にあるゲストハウスミルクに予約してしまったのでお断りした。

 名護の市内の方で、夕食をご馳走したいと言うので、彼の言葉に甘えることにした。

 NS さんは、純粋な信仰を持ち、甲府集会所(当時聖書研究会)で、44年前文書伝道をした。私が千葉にある日本三育学院カレッジ キリスト教学科を三年終了し、最終学年との合間に、1年間休学し、甲府集会所(当時聖書研究会) 学生宣教師の真似事みたいなことをした。その頃、関東教区長であった、渡辺恒義先生に依頼して実現した。教区長になる前、先生は学院で教鞭をとっておられた関係上、無理をお願いして甲府集会所で伝道活動を1年間経験させてもらったのです。

 誠に、生活もめちゃくちゃな25歳の若者であり、思い出すのも恥ずかしく、闇雲にやっていた、伝道とはおこがましい1年間であった。

 神は召された者と共に働いて、万事を益として下さることを我々は知っているとローマ書8:28にあるが、NS さんがあるとき、甲府集会所にやって来て、6畳一間、裸電球1個、共同炊事、共同トイレ風呂なしと言う超安アパートの一人住まいをしていた、私の部屋で、寝起きを共にするようになった。彼は文書伝道に出かけ、私は学生宣教師の働きをしていた。

 その後、今帰仁に住んでおられたお姉さんのKSさんが、まるで弟のNS さんを追いかけるように甲府においでになった。

 甲府集会所の責任者で文書伝道をしておられた、渡部愛子さんは、千葉袖ケ浦の三育食品で働いていたが、ある時一念発起して文書伝道者になられた。会津の出身の渡部愛子さんと沖縄、今帰仁出身のKSさんは、甲府集会所となっている、普通の民家で生活を共にすることになった。当時都留市に住んでおられた、古い信者である水越さんの、元の家が教団に献げられたことにより、甲府市上飯田の水越さんの家だったところが、集会所として使われ、渡部愛子さん、KSさんの住まいともなっていたのです。

 その前年には確か故清野郷司先生の御長男恵さんのお嫁さんになられた(残念ながらお亡くなりになったと聞くが)鉢村さんも、渡部愛子さんと寝起きを共にして、文書伝道に励んでおられた。

 渡部愛子さんは当時から胃が悪いとおしゃっていたが、何年か後に、胃癌であることがわかり、東京衛生病院に入院し、その後会津の御親戚のところにお帰りになり、お亡くなりになった。私が甲府集会所のご奉仕を終えて、何年かたった頃の話です。

 当初は荻窪、天沼にあるSDA東京衛生病院(TSH)で治療をしていて、私の父母は見舞いに行ったが、私は薄情者であり、イエスの愛がなかった、今でも後悔しているが、甲府にいた時、お食事のお世話をしてくれたり、ある時はお風呂をいただいたりして、とてもお世話になった、渡部愛子さんを見舞うことをしなかった。渡部さんごめんなさい(霊魂不滅は信じていない、しかし神の前にそのことをお詫びしたい)イエス様ごめんなさい、今は祈るばかりです。

 渡部愛子さんは自然食と玄米食に傾倒しており、既に亡くなった父から、「玄米信仰ではないか」などと陰口を叩かれるほどであった。でも私は1年間玄米をほぼ毎日夕食にはご馳走になって、(ほとんど昼食も、彼女が握った玄米おにぎりで)健康にはその当時大変恵まれた。

 愛子さんがお亡くなりになった後、KSさんは、最初来た時から数えれば、13~14年の間、甲府集会所の責任を持ち、頑張っておられた。甲府の長老、小沢長治さんがまだご健在の頃、懐かしい思い出です。しかし、KSさんはある時、ふっと、沖縄に帰られてしまった。

 KSさんの弟のNSさんは、その後、北海道で何年か文書伝道と農業をやられた。

 北海道に行った時は、那覇の泊にあった、アドベンチストメディカルセンターで看護助手をしておられたKKさんとすでに結婚しており、4人の子供さんがおられ、良く奥様が北海道について行かれたなと感心した。会話の中で、初めて知った。NSさんは3人の女の子もすでに嫁がせ、孫もいるそうだ。男の子一人はまだ独身だそうだ。北海道にいた期間は、5~6年くらいではないだろうか。

 その後、沖縄に帰り、牧師の儀部先生(今は既に引退)のお父さんが造園業をしていたので、そこで14年間働き、儀部先生のお父さんがお亡くなりになったのを契機に、八重岳の比嘉ドクターの下、八重岳ゲストハウスの管理のお仕事を10年続け、今に至っている。

 比嘉ドクターが脳梗塞でお倒れになった後は、ほとんど八重岳の施設運営と管理を任されているようです。

 夕食をする為、NSさんの車の後について、夕方、八重岳を下る際、八重岳ベーカリーの前を通った。土曜日休業で、金曜日夕方のサンセットはとっくに過ぎてしまって営業は終了していた。

 「ああしまった、家内が黒パン好きなので今から、開けられないですよね」と、NSさんに言ったら「後から郵便で送ってあげますよ、パンは重いから、その方がいいですよ。ただ、無添加ですので、すぐカビが生え、固くなるので冷凍庫に保存して、蒸して食べてください」と言われた。

 それから2週間ほどたってから、10/26土曜日の朝、黒パンがクッキーと共に大量にダンボール1箱に詰められ、冷凍便で八王子の自宅に届いた。その夜さっそく一部を美味しく蒸していただき、後はお婆ちゃんの、1階の冷蔵庫を借り、パンは全部冷凍保存した。

 その日(10/26土曜日)の夜八時半ごろ電話したがNSさんは出なかった。間もなく9時過ぎ頃、向こうから電話があり、お礼をNSさんに言っておいた。パンんは大小15から16個、高価な土産になってしまったので、かえって申し訳なかったと思っている。電話でお礼を言ったら、「いやいやと」あくまでも謙虚な、昔から、変わらぬ、奉仕と愛の人であるNSさんの声であった。

 NSさんの純粋な信仰は、青年時代から変わらない。

 八重岳を下り、名護市内を目指して走ったが、かなり車が渋滞していて、時間が思っていた以上にかかった。店に着いたのは午後7時をかなり過ぎていた。

 和食の店に案内され、白身魚の、和定食をご馳走になった。何か、デザートも注文してくれた。あまり経済的に豊かでもないのに、大変恐縮している。

 夕食も終わり、名護の屋部にあるゲストハウスミルクまで、土地勘があるので案内してくれると言うので、また後ろについて運転して行った。NSさんから、明日安息日は浦添教会に出るので、そちらにどうかとお誘いを受けたが、名護の三育中学校に八王子から行っている男の子がいるので、そちらを訪問する予定があるのでと、お断りした。

 ゲストハウスミルクは、道路に面したの目立つところにあった。ここで、「くれぐれも無理せずお働き下さいよ」と挨拶して、NSさんと別れた。今度会えるのはいつになることであろうか。それを思うと、何となく切ない思いが湧いてくる。

 ゲストハウスミルクの女主人は、とても親切な方で、着くと、すぐ出てきて、ちょっと離れた、村の公民館の敷地内にある駐車場に案内してくれた。歩いて2~3分の近くであった。そこに車を止めて、よく鍵を閉めライトが消してあるか確認し、ゲストハウスミルクに入った。

 色々と施設の利用の仕方を聞いた。非常に親切な女主人は、36歳の時、一念発起して、猛勉強し、看護士の資格を取ったそうだ。今はもう63歳になるので引退しているが、1日2時間しか寝ないで勉強したこともあり、だいぶそこで、目を悪くしてしまったらしい。

 こちらも結構ハイテンションであったので、なぜ沖縄に来たか、どこまで何を話したか、あまり覚えていないが、初対面の方に、いろいろなことをしゃべってしまった。

 コンクリート造りではあるが、普通の民家のような感じの、ゲストハウスであり、私に割り当てられた、部屋そのものは広い部屋で、心地良いベッドであったので、そのことに関しては、大変満足した。料金先払いと言うので、宿代を払った。領収書は女主人の名刺の裏に書いた、簡易なものだった。沖縄の田舎らしいと思った。

 蚊がいるかもしれないと、気を遣ってくれて、ベープ(たぶん新品)を持ってきてくれた。せっかくなので30分ほど使用した。その時は分からなかったが、料金先払いをしておけば、ゲストハウスは基本素泊まりなので、いつでも、朝何時でも、出立することが出来るというわけだ。

 道路の脇なので、頭の上を自働車が夜中、通過しており、眠れないことを心配していたが、TH先生、次はNSさんと、しゃべりっぱなしだったので、それとかなりの強行軍の運転だったのが加わって、相当疲れており、シャワーを浴びてすぐ寝てしまった。(バスマットがなかったのには驚き、後で、八王子に帰ってから、私のPCに口コミ投稿欄が来たので、親切な女主人をほめてあげるとともに、バスマットがあればもっと良いと投稿しておいた)

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