2019/10/10(木)日記
2019/10/10(木)日記
いよいよ沖縄へ出発だ。この日のために、あらゆる準備をして来た。2か月も前に 航空券と宿を予約し、PCで予約した関連のあらゆる印刷を念のため済ませていた。印刷したものは忘れずに、荷物の中に入れておいた。やっと待ちに待った、実現の日が来た。
今日11時半に京王K駅から乗る予定。
4~5日前から、細かに必要なものを書きだし準備した。ここ3日前、7日月曜日になって、あわただしく、本格的に旅行準備をした。
昨日、着替えも妹から借りたスーツケースに詰め込み、用意万端です。
出発の朝となった。19号台風が12日土曜日、超大型の勢力を保ちながら、最初の予報では、東京湾に上陸すると言われていた。今日10日木曜日以外に、飛行機が順調に飛ぶ予定はなかった。
昨日、PCでANAの運行状況を確認すると、本日10日木曜日運行予定は正常、予定通りである。神に感謝すると共に安堵した。
10日の朝は、いつもの私の悪い癖が出て、朝食兼昼食の食事を、みそ汁にご飯をぶち込んで、急いでかき込んですませた。
お婆ちゃんに挨拶をして、家を出たのが12時になってしまった。搭乗時間は15時40分。その1時間前、14時40分に羽田へ着けば良い。まだ正味2時間40分ある。2時間40分あれば余裕をもって八王子から羽田につけるはずだ。
いよいよ京王K駅に向かい、ガラガラと重いスーツケースを引きながら歩き始めた。近くのGSの信号を渡り、京王K駅へと向かうところで、また何か持ってきたかどうかを気になってしまい、幅の狭い歩行者用道路の真ん中にスーツケースを置いて、チャックをあけて確認していると、高尾山から帰ってきたのか、これから行くのか、リュックを背負ったおやじに注意されてしまった。「どっちか横にどいてくれ」と言われたような気がする。狭い道の真中で、大きなスーツケースを置いて、荷物を確認しようとした私が悪かった。その場で反省。
すでに心のどこかで、あせっており、かなり、既に自分は、疲れているんだなと、自覚する。
注意してしていかないと、大事なものを落としたり、なくしたり、見落としたりしかねないので、確認だけは十分にやって行こうと、改めて自分に言い聞かせた。
さて京王K駅について、スイカで改札を通過。用心のため、トイレによった。すぐ各駅停車が来て乗り、KI駅で準特急、新宿行きに乗り換え。ありがたいことに両方の電車で座ることが出来た。2019/10/10木曜日平日の昼頃なので、一番空いている時間で、助かった。
新宿に着く、渋谷、品川方面に乗り換え、そこでも座ることが出来た。浜松町でモノレールに乗り換え、改札は一瞬迷ったが、出るのではなく、乗り換えと書いてあった方を通過して、無事スイカを通して通過する。ちょっと待ったが、快速のモノレール羽田第一、第二ターミナル行きに、意外にスムーズに乗れて感謝。ただ奥に乗っていた中国人のけっこう大きな荷物を持っている、ペアの乗客に、私の大きなスーツケースが電車内通路上にあり、邪魔になり、彼らが先に国際線第一ターミナルで降りられる時、もっと大胆に、席を移動し、自分のスーツケースも移動して、通路を開けてやればよかった。危うく彼らは降り損ねるところであった。大いに反省した。ドアが閉まるところ、男の方が、手でドアをストップしたので、再び完全に空き、残っていた女性の方も、一緒に国際線第一ターミナルで降りることが出来た。大いに反省。
第二ターミナルに着いたのが、14時頃。八王子自宅から、ちょうど2時間で着いた。14時40分までに着こうと思っていたので、40分早く、余裕である。
確実なので、行きはモノレールに限る。帰りはリムジンバスの方が楽だ。
羽田空港、国内線ターミナルに着いて、ひとまず安心し、少し緊張していたので、気分を楽にし、トイレへ行ったりして、空いている椅子に腰かけたりしながら、一休みする。
そうしながらも自動搭乗券受付機の場所と、スーツケースを預ける場所を確認しておく。また、土産が足りなくなることがわかっていたので、土産屋で、東京バナナのを3つほど買い足す。
15時40分の一時間前、14時40分少し前になったので、もうそろそろ頃合いだろうと思って、自動航空券発券機の前に立ち、2種類の番号を入力すると、意外に簡単に搭乗券の発券が出来た。次は荷物の預けであるが、これは驚いた。実はこれも自動になっており、全くやり方がわからないので、大きい荷物の方に並び、立っている案内の方に教えてもらい、(実際はその女の方がやってくださったのであるが)スーツケースを無事自動で預けることが出来た。
あとは搭乗時間が来るまで、椅子に座ったり、お土産屋を見たりして過ごした。ここで土産を買った気がする。あまりギリギリだと嫌なので、手荷物持ち込みのセキュリティー検査を受ける。財布、水(ペットボトル)デジカメは別に取り出して、別皿でX線を通した。いよいよ搭乗、飛行機の座席、窓口側の人は、沖縄出らしい中年の、恰幅の良いおばさん。斜め前は外人。沖縄まで一時間位になった時、どうしても尿意を催おし、トイレへ行った。エアで吹き飛ばされた尿は、どこに行ってしまうのだろう。そのまま空中拡散か?たぶんそうだろう。
機内サービス、リンゴジュース2杯飲んだ気がする。あまり腹が減ったので、夕食まで持たないと困る。持ってきたちっこいミカン5個くらいあったっか?あとプルーンと、干しブドウ持ってきていたので食べる。口の中から、ミカンの房がつぶれて、右斜め前の外人の方に飛んで、何かほんのちょっとかかったみたい。ソーリーとも何にも言わず、申し訳なかった。彼も気に留めた様子もなかったので良かった。大いに反省。
何が起きるかわからない、注意しよう。無事過ぎ去って良かった。那覇空港に予定どおり、18時20分に到着。メールをラインに飛ばす。
以下の通り。
15:35 田中 清二 今無事477便 搭乗しました。
18:21 田中 清二 今無事着陸しました。
18:34 KN 今でぐちにいます
中々出口で荷物が出てこなかったのと、トイレに行って来たりしたので、随分時間がかかってしまった。空港を出たのは夜7時過ぎだったのを、記憶している。どうしても出口にKNさんの姿が、見えないので、止むを得ずラインで電話した。すると何と斜め前の、スマホで話しながら、マスクをしている御仁が KNさんであった。
歯医者のマスクしていたので全然わからなかった。斜め後ろ、マスクの隙間から、横顔を垣間見て、 KNさんだとわかった。
お互いに前を通っても分からず、30年ぶりの再会は、大笑いで始まることになった。
沖縄は私にとって32年ぶり、郵便局長28年9か月間勤め上げ、定年で退職してから3年半で合計32年。昭和62年5月連休の時、石垣から帰り、今昭和に直せば94年。94-62=32 32年ぶりである。しかし局長になって早々、多分2年ぐらいの間にSDA八王子教会の地下で、奥さんと、赤ちゃんと、 KNさんと会って短く話をしたことがある。その時彼は「田中さん、喜びがありますか」と言っていたのを、明確に覚えている。
KNさんは頭はふさふさで、少しは太ったみたいであるが、全く歳を取っておらず、30年前の姿そのものであった。声も全く若くて、30年前の彼の声そのものであり、とても驚いてしまった。駐車場に行く際、重いスーツケースは、よせばよいのに、彼が運んでくれた。(この時、右膝を痛めていたのに)
連絡通路の階が違っていて、一段駐車場階を間違えてしまい、行ったり来たりしてしまったが、原因がわかり彼の車、ベンツSUVの高級車に行き着いた。
スーツケースを乗せ、助手席に座り、那覇空港を出た。思いのほか時間がかかり、空港を出たのは7時半頃になってしまった。外はすっかり暮れて、暗闇であった。とにかく腹が減っているので食事をしようと言うことになったが、彼が毎月一度くらい行くという、高級なレストランに着くまで、道も渋滞しており、午後8時くらいになってしまった。
「本当に来ちゃいましたよと」私は何度も口にした。暗かったので、どのような道を通ったか、わからないが、モノレールの下を通過していたのを覚えている。ほどなく、高級レストランに着いた。予約してあり、交通渋滞のためにちょっと遅れそうだったので、KNさんは車内から、スマホで店に連絡していた。
夕食は、白身のお魚を揚げて、様々なスパイスで味付けた、香りの良いものであった。私は、八王子横山町郵便局の局長をやっていて、苦労した話に、熱がこもってしまい、料理を全部平らげることが出来なかった。ほとんど自分が、しゃべってしまった。 KNさんは、主に聞き役であった。私がいかに28年9か月の間この世に仕え、この世の仕事に苦労してきたかをとめどもなくしゃべってしまった。
石垣から帰って八王子の自宅に着いたのが、昭和62年5月の連休であった。今から32年前の話。その後、神の特別な導きと、人との出会いによって、1ヶ月後の昭和62年6月23日には郵便局長になっていた。
最初は全く仕事がわからず苦労したが、やがて部会長、理事までやって、最後の数年間は、すべての役職をおりて、平の郵便局長に戻った。
特に最後の4年間、つまり平成24年から平成28年までは、とても苦労をした。
変わった癖のある職員ばかりが、どういうわけか、八王子横山町郵便局に集まってしまい、局の正常運行には苦労をした。良かったことと言えば、営業に積極的な方々が多かったので、局の成績はアップし、保険部門で、25年度の最高優績局として、東京支社より、表彰された。
しかし、癖のある課長が、2年毎に、2人続き、合計4年、課長の世話が大変だった。課長と職員の間が、うまくいかず、喧嘩状態のこともあった。また、非違行為や、事務ミスを起こすような職員が、他局から転勤してきて、それらの人のお世話を焼くことにも忙殺された。この時期問題が次々起きて、その解決のため、神にどんなに祈ったことだろうか。今でも、思い出したくもない話を、食事中、ズットしゃべってしまった。聞いていたKNさんも大変だっただろう。まあ、30年ぶりに会ったのだから、多少のことは、勘弁してください。
「時間も8時半を過ぎてしまったのでレンタカーは明日借りることにする。」とKNさんに言ったら、オリックスレンタカー安次嶺店(後からわかる)に電話してくれて、まだ営業しているのを確認した。それで、今晩借りることになった。レストランを出て(お言葉に甘え、ご馳走になってしまった、今回だけでなく沖縄に居る間ズット)すぐレンタカー屋さんに回った。
着いて、窓口担当者の男の人に、軽自動車が良いと言ったが、今軽自動車はないので、軽自動車と同じ値段で良いから、と言うことで、本田フィットを借りた。
免許証を出すと、簡単に借りられサインして、2日間借りた。返すのは、明後日土曜日の10時迄で良いと言われた。
カーナビにオリックスレンタカー安次嶺店の住所を打ち込めば、この場所まで着くことが出来ると言われた。少し車の操作方法を聞いて教わり、出発した。
本当はKNさんとは、ここでお別れしたかった。翌日は歯科医院の仕事があるし、引っ越しで、かなりお疲れではないかと思ったからです。(案の定、その心配は当っていたのであるが、後で分かったこと)
KNさんは今晩予約している糸満にある、「ペンション南の楽園まで案内するから、自分の車の後ろから、付いて来て下さい。」と言うので、またここでも言葉に甘えてしまった。お互いに30年ぶりの再会とあって、すぐには別れ難いものだったのかも知れない。
KNさんのベンツのSUVの後についていく。20分ほど走ると、かなり田舎の雰囲気になって、道路左側に「ペンション南の楽園」の看板が見え、駐車場に2台を適当に止めた。
ペンションの前には畑があり、まだ青い、小さなモンキーバナナの形をした、島バナナがなっていた。すぐベンツのSUVのトランクを開けて荷物を下ろしたが、暗闇の中、 KN さんにちょっと待ってもらって、スーツケースを車のルームライトを頼りに開けて、前から用意していた、お土産、クッキーと、羽田で買い足した、東京バナナをお渡しした。 KN さんはとても恐縮しているようだった。
私のスーツケースをペンション玄関までKNさんが運んでくれた。
兎にも角にも沖縄について、夕食を腹いっぱい御馳走になり、静かな思ったより素晴らしい、田舎の、島バナナがなっている前にある静かなたたずまいの、糸満にあるペンションに泊れることになって良かった。
2階の、広い部屋に案内され、ゆっくりすることが出来た。9時半近くになっていたと思う。ペンションの主人は、PCの口コミの評判通り、非常に良い親切な方で、私が音に弱いと前もって電話してあったので、静かな一番良い部屋を用意してくださっていた。ご主人は下の階のTVの前でVRのゲームを楽しんでいた。
ペンションの2階のベッドが2つもある一番良い部屋で午後11時まで会話をしてしまった。自分のことばかり夢中で話してしまい、彼がかなり疲れていることに気が付かなかった。もっと早めに気が付けばよかったと、日記をつけている今になって反省している。ペンションの部屋の中の2つのベッドに、お互い腰掛けながら会話をした。結局その晩は自分が一番辛い思いをした、石垣島での経験を、半ば一方的にKNさんに話をしてしまった。沖縄は32年ぶりですが、KNさんとは途中八王子教会の地下で会っているので、30年ぶりくらいか。
石垣島での経験は以下の如くです。
自分のホームページの方が、その時の状況が良く書かれています。
https://ktanaka33014.wixsite.com/website(リンク有)右端上ブログクリック 下へ下がって、②B信仰の軌跡-「神の深い臨在を感じる時」より転載。
私が沖縄の石垣島にいたとき、私としては人生最大の試練に苦しんでいました。それは、自己中心の、愛のない、自己を犠牲にする事ができない、自分の生き方が総て招いたことでした。言わば、自分の罪の結果が招いたことであり、誰にも相談することもできず、ただ悩んでいました。
人生最大のピンチに立たされ、もう、神の前にへりくだり、悔い改め、ただ神の憐れみと導きを乞うしか方法がなかったのです。
昭和62年2月のある晩、10時頃、2月とは言え南国ですので、わりに暖かい夜、緯度の関係でしょうか、東京で見るよりは大きな満月が煌々と照らす、石垣島の野球場の入り口に立って祈っていた時の事です。
夜ですので、野球場は閉まっており、入り口にはチェーンがしてあり中には入れません。満月の照らす明るい光に全体が浮かび、神の臨在を醸し出すような雰囲気であった。そこは目には見えないが、聖霊の神が臨在していて、神にまるで手を伸ばせば触れられるような一時であった。確かに神の存在を私は近くに感じていた。
その時は全く分からなかった、将来が見えなかった。神に何とか道を備えてくださるように一生懸命お祈りした。「.........新しい職業と家族を備えてください。あなたにできないことは何もありません、.........石ころからでも神はアブラハムの子孫をおつくりになることが出来るのだと聖書に書いてあります。」『.........神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。』(マタイ2:9)「私には今何もないけど、この悔い崩れた心のいけにえを受け入れてください。」『神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。』(詩編51:17口語訳)「神はわが祈りを今聞き入れてくださった、神は必ず備えてくださる。」という確信をもってその場を退くことが出来ました。と
祈った時は何も見えていませんでした。しかし、その場で神の臨在を確かに感じ、自分の将来に対する不安は取り去られ、目に見えない神の祝福を、信仰の手によって、ガッチリとつかんだ、夜のひと時だったのです。
忘れもしません、昭和62年5月の連休の時に石垣島から帰って余り時を置かず、T建設がある郵便局の建て替え工事をしていた時、T建設の常務をやっていた私の叔父が、たまたま、そこのF郵便局長と親しくなった。局長と叔父の雑談の中で、「八王子横山町郵便局の局長が6月で定年退職するが、今回郵政の方針で、民間から採用することになった、誰か適当な人を知らないか。」と言われた。叔父は私の父とは双子の兄弟であり、私の家の隣に住んでいて、石垣島から帰って来た私を心配していたので、渡りに舟とばかりに、「甥が沖縄からか帰ってきているので、是非お願いしたい。」と言った。それから話がトントン拍子に進み、その当時理事をやっていた、実力者のO局長を紹介され、私と叔父が一緒にO局長へ挨拶に行ったところ、何とO局長は内村鑑三が創立したキリスト教、無教会派の信者だった。
私とは信仰が同じ、キリスト教というわけで、話しも合い、私をとっても気に入ってくれた。
その時の東京郵政局の人事部長が、郵便局に外部の色々な経験をしてきた者を入れて、郵便局をバラエティに富んだものにしようと考えて、外部の人を局長に採用するようになったことを後で知り、本当に神の導きを感じた(そのような施策はその年の1年限りのことであったことを、後になり人伝に聞いた)。
5月に石垣島から帰り、6月23日には郵便局長になっていた。今から32年前、昭和62年(1987年)にあったことである。ただ神の憐れみ以外にない。
もちろん、その後も様々な困難、大小の紆余曲折はあったわけではあるが、その時はわからなかったけれど、今振り返って見れば、あの石垣島で、あの神に触れたような体験の中に、その後の、総ての人生が、祈りの答えとして含まれていたような気がしてならない。『これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。』(ヨハネ16:33口語訳)
このような話を中心に話していたら、午後11時も過ぎてしまい、彼は明日、歯科医師としての仕事があるので、日曜日10/13の朝、曙のゲストハウスいぱりちょでーに迎えに来てくれることを約束し、ひとまず分かれることにした。
明日金曜日11日と明後日土曜日12日はレンタカーで北部中心に回る予定。KNさんの経営するK医院は(金)(土)診療日であるから、会うことは無理なので、そのような計画を立てた。
引っ越し後で疲れているだろうから、話し込まずに早く帰してあげればよかったなと、今さらながら反省している。彼が帰ってから、すぐシャワーを浴びて、眠りについた。12時ちょっと過ぎくらいか。疲れていたので、思いのほかよく眠れた。しかし、翌朝6時少し前には目が覚めてしまった。