2019/10/12(土)日記

2019年10月12日

 

 2019/10/12(土)日記 

 安息日だと言うのにゲストハウスミルクでは午前4時に目が覚めてしまった。本来なら寝直すところだが、頭の上を車がひっきりなしに通過している音が聞こえ、もう寝直すのは無理だ。荷物をまとめ、祈り、少し聖書を読んで、出発することにした。

 すでに、夜は明けかかっており、スーツケースを引きながら、公民館らしき敷地に止めたレンタカー、ホンダフィットまで歩いた。そんなに距離はなく歩いて宿から2~3分ほどであった。

 駐車場に行きつくまでに2人くらいの、早朝の散歩をしていた人がいた。 

 今帰仁サンライズ今泊の住所をスマホのグーグルで調べ、その住所をカーナビに入力して、ゲストハウスミルクを、朝5時半頃に出立した。その頃はカーナビの取り扱いにも慣れ、スムースに入力することが出来た。

 昨日夕食で名護市内で、弟のNSさんに、ご馳走になり、その時、お姉さんKSさんが、今帰仁サンライズに居ることを教えてもらっていた。

 お姉さんのKSさんとは、私が32年前に、八王子に帰り、郵便局長になってからも、故小沢長治さんがお元気な時、何度か甲府集会所に行ったことがあり、その時にもお会いしている。

 その都度、甲府集会所でお世話になっていたので、どうしても会いたくなって私は、今朝ここで無理してでも、KSさんに会いに行かなければ、一生後悔すると思って、彼女に会いに行く決心をした。

 途中、太陽も昇り、あたりも明るくなってきたが、あまり朝は天気が良くはなかった。別に名護市内まで車で引き返さなくても、途中コンビニくらいはあるだろうと思いながら、運転していた。行き先は本部半島の最先端今帰仁です。朝早く、慣れない道をさらに北部へと運転して行った。ゲストハウスは基本的には素泊まりであり、寝るだけであるので、そろそろお腹が空いてきた。

 少し雨が降ってきたが、大した雨ではなかった。道の途中、見ればローソンがあるではないか。沖縄にはローソンとファミリ-マートが多数展開している。セブンイレブンも最近になって出店したようではあるが、まだ数は少ない。

 ローソンに入って、トイレを済ませ、弁当を買った。

 何と珍しい、ゴーヤチャンプルーの弁当があるではないか。早速それを購入し、レンジで温めてもらい、駐車場、車の中で食べた。美味しかった。

 さて、かなり運転した後、今帰仁の交差点を左に曲がると、今帰仁城址があり、その斜め向かいが、確かサンライズの入り口に続く路地ではなかったかと記憶している。

 カーナビが指示する通り、慎重に狭い道を、登って行くと、かなり行ったところに、サンライズがあった。サンライズはSDAの改革派?(もしかして改革派に所属はしていないかもしれない)、金城重博先生が始めた施設で、中には立派な礼拝所もあり、ここまでするにはかなりご苦労されただろうなと思った。原則に忠実な余り、現SDA教団には批判的な立場をとるようだ。100名くらいの信徒が集まっている。何故、KSさんがこちらにお世話になっているのかは聞き漏らした。たぶんKSさんの実家が近くの今帰仁村にあるせいだろう。

 金城重博先生は最初比嘉ドクターと共に八重岳の自給伝道組織を立ち上げ、しばらくは共にやっていたようだが、今は比嘉ドクターとは袂を分かち、こちらで別組織を立ち上げやっておられる。2人の間に何があったか私にはわからない。

 42年前に私が牧師インターンとして赴任した1年間働いた沖縄で、宜野湾の真栄原に教区があって、TH教区長のお世話になっていた頃、まだアドベンチスト・メディカルセンター(AMC)が那覇の泊にあって、そこでお二人に、別々にお会いしています。

 米国の自給伝道組織ユーチパイン帰りの金城重博先生が、沖縄で自給伝道組織を立ち上げるための集会を何回か開いており、私もそこに出席したことがあります(多分1回だけ?)。だいたい自給伝道組織が何たるか?訳も分からない私であった。金城重博先生のAMCにあるオフィスにお尋ねし、個人的に面会し、教団に属する身であるのに、自分も自給伝道組織に所属したいようなことを言ったことを覚えています。

 先生は確か、「木を切ったり、石を運んだり、開墾したり、肉体労働をするんだよ」と言うようなことを、体の弱そうな私に、メガネの奥底から懐疑の目を向けて、説明されたことを、42年前のことであるが 今でも鮮明に覚えています。

 比嘉ドクターも、その頃AMCで医師としてお働きで、その頃蟯虫に悩まされていた私が、先生に相談し、薬をいただいたこともあった。

 のろのろと慎重に、細い道を、登って来たが、やっと、今帰仁サンライズ今泊に着いた。坂になっている、建物がある少し手前に駐車した。あまりにもまだ早い、2019年10月12日土曜日午前7時15分頃のことです。いつの間にか天気は回復しており、山の上の、新鮮な朝の空気が、すがすがしい。あまりにも早く着いたので、しばし車の中にとどまり、さてどうするか、どのようにしてKSさんを呼び出してもらえるか、しばし考えた。とりあえず、車から外へ出て、あたりの様子を見ながら、歩いてみた。

 手前に何棟か居住棟のような建物があり、人影も見える。さらに坂を上に向かって進むと、メーン棟のような大きな建物があり、ガヤガヤと人の声が聞こえる。どうなっているのかなと、入り口近くに立って見ていると、一人の高齢の方が見えたので、「突然で朝早く申訳ありませんが、KSさんはこちらにいらしゃるでしょうか」と声をかけると、「KS さんですか、いますよ。今2階から呼んできますから、しばらくお待ちください。」と言って、気軽に呼んできてくれた。

 入口より招き入れられ、すぐ1階の食堂の大きなテーブルに座った。まだ何人か食事をしているお婆ちゃん達がいた。後でわかったが、KSさんはもう食事が済んで、2階に上がっていたらしい。

 KSさんが下りてきたので、「KSさん、田中です、お久しぶりです。」と声をかけると、丸い大きな目を、もっと大きくして、「田中さん、まあ、ここまで良くいらっしゃいました。」と応えてくれた。KSさんはあまり変わっていなく、最後に甲府集会所でお会いした時より28~29年、たっていると思われるが、多少それは歳を取ってはいたが、丸顔も、たたずまいも当時のままと言って良いほどであった。

 懐かしくて、胸の中が熱くなった。聞けば弟のNSさんよりも10歳も上、75歳になったということであった。甲府集会所で、お食事をいただいたり、大変お世話になったことに、改めてお礼を言った。私としては、名護の八重岳の、弟NSさんのところまで来て、姉さんのKSさんに会わないで帰ってしまえば、一生後悔すると思って、名護のゲストハウス、ミルクで朝早く、午前4時に目が覚めてしまい、こんなに早く(その時7時半頃)会いに来てしまったことを説明した。

 KSさんはサインズ購読を、継続しておられる方には、この山奥のサンライズから、まだ文書伝道に行かれているようであった。ただ彼女の実家は、今帰仁であり、彼女にすれば地元なのであろう。昨日のNSさんの話では、今帰仁の御実家は、弟さんが継いで、農業をしており、今は弟さんの息子さんも一緒にいるそうである。

 私が32年前に、石垣の八重山教会を1年牧した後、東京の八王子の実家に帰ったことを話すと、大変、私の父、母に世話になったと言って、懐かしがっていた。父は6年前に亡くなったが、母は、同居しており、健在であると伝えた。そんな話をしていると、突然彼女が、「八重山教会の信徒だった、Yさんがこちらにいますよ」と言うので、驚天動地、こちらが心の底から驚いてしまった。

 Yさんが、呼ばれて、降りてこられると、32年前の彼女の面影が、どこにも残っていないので、言われなければわからなかった。マスクを終始外さないので、余計そう思えた。

 Yさんは私が石垣島の八重山教会にいた当時、月に一度程度は教会に来てはいたが、あまり熱心な信者さんではなかった。庭に大きなパパイアの木があって、実がなっていた。沖縄では、取って、千切りにして、炒めて食べるそうである。そんな話をしてくれたYさんのことを私は思い出した。

 同信の方であるご主人が、お酒を飲むことの悩みがあり、当時いろいろ相談され、いつも暗い顔をしていたのを思い出す。しかしご主人も一緒にこの施設においでになり、御主人は残念ながら、ここで2年前にお亡くなりになったが、それまでは施設の中のバスの運転をしていたそうである。Yさんは寡黙な方であり、詳しいことは聞かなかったが、きっと、晩年御主人は、奥様と一緒にこの施設に来て、悔い改め、キリストを信じつつ、お亡くなりになったのであろう。

 今度は突然、Yさんが、「STさんが、沖縄に居る」と言い出した。

 STさんは、32年前、石垣島の八重山教会でベテランの執事として活躍していた。故あって、私が一人で牧師として暮らす破目になった時、ご自宅に、食事の為、私を何度も招待し、料理上手の奥様の手料理をご馳走してくれた。一番八重山教会でお世話になった方が、とっくに亡くなったと思っていたのに、何と生きていて、「首里の介護施設におられる」と、Yさんが言うのである。

 この旅行計画を2か月前に立てた時、一時は石垣島にも寄ってこようかと考えたこともあった。あまりにも費用が高くなるし、長日程になるので、途中でその計画は破棄した。その時、石垣の、もう一人の執事、YTさんが経営している、クマノミと言う名の熱帯魚屋さんがあったのを思い出し、グーグルで検索してみると、クマノミの電話番号がわかったので、2か月も前に、スマホの電話帳に登録しておいた。

 Yさんが、STさんのいる首里の介護施設の住所も電話番号も知らないので、そこで閃いた。そうだ、YTさんのお店、クマノミに電話すれば分かるかも知れない。

 Yさんとの話の中で、何とあの元気であった、当時漁師をしておられ、私をマグロの漁に、浮き漁礁まで、日帰りで、自分の漁船に乗せ、連れて行ってくれたこともある、YTさんの御主人のHTさんがご病気で亡くなられ、今45から47歳になっていると思われる当時長男で中学生だった息子さんが、漁師を継いでおられることを聞いた。

 サンライズの食堂でテーブルに座りお話をしていたお2人には失礼かと思ったが、STさんの居場所を聞かずにはおられず、その場でスマホで、石垣のクマノミのYTさんに電話してみた。

 「もしもし、YTさん。誰だかわかる?田中ですよ、」「田中先生!」

32年ぶりの電話である、YTさんも驚いたに違いない。電話から聞こえてくる声は、あの懐かしい、私が覚えている、YTさんの声そのものである、しわがれてもなく、若い声でそのままである。(ちょっと低音になったか)

 お互いの元気を確認し、Yさんから、御主人のHTさんが亡くなっていたことを聞いていたので、「残念だったね」と言った。ついぶしつけに、癌ですかと聞いてしまったら、癌ではないと言う。ではどんな病気か聞いたら、黙ってしまわれたので、これはちょっと失礼かなと思い、他の話題に切り換えた。

 「息子さんが中学生だったけど、何か今立派になって、お父さんの跡を継いで漁師をやっているんだって。」と私。続けて、「今、サンライズ今泊のYさんに、お会いし、STさんが、首里の介護施設に入居していることを聞いたので、石垣で大変お世話になっていたSTさんに、どうしてもお会いしたいので、住所、教えて下さい。」とお願いした。少しの間、住所を探しているようだったが、「今すぐわからないので、分かったら、すぐ連絡します。」との返事であった。お互いの電話番号を知らせ合い、メモして電話を切った。

 KSさんが気を利かして、豆乳を一杯コップに下さったので、美味しくいただいた。

 積もる話もあったが、あまり長居は出来ない。朝の食事の片づけ中であった。いつまでも元気でいるように、励まし、その場を失礼し、また車に乗り、今度は沖縄三育中学校にいる八王子から行っている、SS君に会いに行った。

 例の如く、カーナビに行き先を入力、出発。10キロ弱で着いた。着いてみると、42年前に河下先生が校長をやっていたころ、沖縄三育中には一度来ているが、そのころの記憶はあいまいであり、今の校舎と同じであったかは、わからない。

 車を駐車場に止め、SS君に渡すお菓子をトートバックに入れ、他に身の回りの物を持って外へ出た。そんなにカンカン照りでもなく、穏やかな、暖かい、静かな、安息日の朝、9時頃の校庭内であった。

 どこからか、沖縄三育の中学生達がコワイヤーの練習している歌声が聞こえる、まことに、のどかな、学校風景である。もう朝食もとうに終わり、遠くからのぞける食堂にはだれ一人もいない。

 数分歩いてみたが誰も歩いていない。静かな学校であった。SS君に会ったときに聞いたのだが、1年生から3年生まで50人ほどの生徒、先生は10人ほどか、こじんまりした寄宿制の、男女共学の学校です。

 生徒らが使う、よくある学校の、横にやたら長い水飲み場で、朝から歯を磨いていないので、ゆっくり歯を磨かしてもらい、口がすがすがしくなった。

 暫くの間、ぶらぶらと歩いていると。斜め横の方から、建物を出た、女性の先生らしき人が歩いてきたので声をかけ、事情を話し、「八王子から来ているSS君に、渡したいものがあるので。」と言うと、「SS君は今、コワイヤーで、2階の教室で練習していますので、呼んできてあげましょう。」と気軽に言ってくれた。「八王子教会で親しくしているので、田中と言ってくれれば分かります。」とその先生に言った。

 すると、ほどなくSS君が下に降りてきたので、「八王子で言っておいたように、本当に三育中学校にまで来てしまった。」とSS君に言って、持ってきたお菓子を渡して別れた。

 どこに行くか色々考えた末、まだ9時半前であったので、名護教会の礼拝に出ようと決心した。だが、名護教会に行く前に、また少し今来た方向に戻るような形になるが、備瀬崎に寄ることにして、例の如く、グーグルで備瀬崎を探し、カーナビに住所を入力、備瀬崎に向かって出発した。

 かなり戻るようなことになったが、備瀬崎の懐かしい福木の並木を見ることが出来感謝であった。カーナビが古いのか、備瀬崎にほぼ到着したとき、ずいぶんと、狭い道に迷い込み、福木の並木の車一台ほどしかギリギリ走れない、超狭い道に迷い込んでしまった。レンタルした車を、植物に接触したりして傷つけやしないかと、ヒヤヒヤだった。1回は、サイドミラー、左側が、ちょっと何かに触れたらしく、自動でパタッと内側に、折りたたんでしまったほどであった。

 ミラーは、後で見たら何ともなっていなかったのでほっとした。

 車の中だけで、窓越しに見たわけだが、名物の福木の並木がこんなに路地裏、田舎道に長く続いていたとは知らなかったので、怪我の功名ともいえる経験をした。

 もしまた来る機会があったら、この狭い道を歩いて、福木の並木をゆっくり堪能したいものだ。今度はそうしよう。今回はそこまで時間の余裕がなかったし、その時は思いつきもしなかった。残念です。

 駐車場はどこか探しながら、本来歩きで楽しむ福木並木の超狭い道路を、一台の車の幅しかない小道を、無理して歩くようなスピードで進んで行った。途中何人か、見学の歩行者をひっかけないように(向こうでよけてくれたが)やり過ごしたりしているうちに、親切な地元の若い主婦が、歩いていたので、「駐車場どこか、教えてください」と言うと親切に教えてくれた。まあ、今から考えるとちょっとした冒険だった。

 振り返って書いている今となっては、これも良い沖縄の思い出です。お姉さんは駐車場は無料だと言っていたが、入り口に近づくと、有料であった。長居するつもりはなかったので、駐車場の方向にまっすぐ行かず、右に曲がり、どこか適当な、駐車スペースはないか、探していると、すぐ近くのある民家の庭に、確か200円ではなかったかと記憶しているが有料駐車場があつた。

 大きい貯金箱のような四角の缶が、出入り口の脇の木に設置してあり、無人であった。そこの駐車場に駐車して、備瀬崎の見学に車を降りた。帰りには200円を入れて、車を出した。

 備瀬崎に、私が初めて訪れたのは、42年前に27歳の時、インターン1年目、TH先生の下で働いていた時のことであった。沖縄本島では、ここが一番美しかったことを覚えている。備瀬崎で泳いだことを覚えている。

 ここは生きた、熱帯魚が泳いでいるのを真近で、見ることが出来る穴場なのだ。

 もちろん福木の並木も一見の価値がある。最初に連れてこられたのは確か、TH先生であった。先生から、この福木からは黄色の染料が取れるのだと説明を受けたことを記憶している。

 1年間沖縄にいて、そのあと富山教会に赴任したわけだが、そのことはまた書く時があるかも知れない。最初の沖縄に着いた翌年、730(右側通行から左側通行へ変わっ月)があったっけ。段々思い出した。

 本土に一度帰り、その次、備瀬崎に来たときは、思い出すとちょっと複雑な罪の意識を禁じ得ない。富山教会から、名古屋教会に転勤し、そこで結婚し 、7年程の短い結婚生活の後に、32年前に既に別れてしまった最初の妻と、新婚旅行で備瀬崎に訪れていたのだ。最初の沖縄は42年前だから、その2~3年後に、新婚旅行でまたここを訪れていたのだ。

 その時は、かなり長い時間備瀬崎にいて、レンタカーはホンダのシティだった。

 海パンに着替え、面とひれ、シュノーケルを着け(本土から持ってきた愛用のもの)、かなり沖まで泳いで行ったのを覚えている。備瀬崎の浅瀬で、うにの、大きな殻を拾って、しばらく宝物のように箱にしまっていたが、いつか割れてしまったので捨ててしまった。

 そんなことも今になって、書いているうちに鮮明に思い出した。人間の脳と言うのは不思議なもので、糸を手繰るように、次から次へと記憶がよみがえってくる。

 新婚旅行中の、甘酸っぱい思い出、いや、今となっては、ほろ苦い思い出と言うべきか。胸が苦しくなる。新婚の、新妻の姿を思い出した。どうしてこんなふうになってしまったのだろう。今さら嘆いてもしょうがない。彼女と離婚して、失ったものは余りにも大きく、それを取り戻すことはもう出来ない。

 40年の歳月を逆転することは出来ないが、若い時の、備瀬崎の駐車場から、海に向かって、立っている、新妻の姿を思い出すと、(一人で沖まで泳いで行った私に向かって手を振っていた)今でも涙がかすかに、滲んでくるようだ。相手も含めて、変わってしまったのである。どうして?

 もう10時過ぎてしまっただろうか?歩き始めると、今朝はもう時間もないし、感慨にふけっている暇もなかったので、まず福木の並木の入り口向かい、広い方の、終点になっているところから、2~3分逆にコースをたどりながら歩いた。

 適当なところで、見当を着けて、右へ曲がり、海岸へ出た。立派にコンクリートで護岸工事がされた堰堤を歩いて行く。左下の海岸を見れば、ちょうど引き潮で、サンゴの大きい岩や、砂浜に透きとおった海の水が、波立つこともなく、穏やかに、寄せてきている。

 遠くには、白い灯台が見え、サンゴ礁のリーフに、白波が砕けている。

 波打ち際は、ほとんど大した波もない。沖縄独特の海岸風景である。

 備瀬崎の先端の方に向かって海岸線を堤防の上を、右に向かって歩いて行く。後ろ左手向こうには海洋博記念公園、今の美ら海水族館の建物が小さく見える。しばらく歩くといよいよ懐かしの備瀬崎に着いた。何らここは42年前、40年前と変わってはいない。懐かしいやらなにやら、不思議な感情が心にわいてきた。

絶景である。ちょうど引き潮であったので、履いている運動靴が滑らないよう、海水に濡れないように、細心の注意をしながら、海岸に降りて見た。ゴツゴツした、波に侵食されたサンゴでできた岩の上を、波打ち際まで歩いて行った。

 波打ち際と言っても、沖縄の海は、沖のサンゴ礁のリーフのところで、外洋の波は砕け散ってしまうので、波はほとんどない。

 中国人の旅行客が数名、腰まで海水につかり、シュノーケル付きの面で、泳いでいる熱帯魚を見ていた。岩の向こう側まで歩くと、浅瀬があり、そこにブルーの熱帯魚が何匹か泳いでいるのが、海面からであるが見えた。感動の瞬間であった。

 しかしその日の朝を思いだして欲しい。2019年10月12日土曜日、台風19号が、関東地方を直撃し、千曲川、那珂川等が氾濫し、90名以上が死亡し、大変な被害をもたらしていた日であった。私はその時何も知らず(ニュースで少しずつ後から知ることになるが)のんびりと熱帯魚を、鑑賞していたのです。

 沖縄でも、その日は風が強く、海面が、さざ波が立つので、海の上からいかに、海面に顔を近づけても、さざ波のせいで。チラチラとしてしまい、熱帯魚の魚影は見えるものの、ハッキリとした姿は見ることが出来なかった。写真に撮ってあるので(デジカメ)後で見てみるが、ハッキリとは映ってない。

 さあもう良かろう。備瀬崎見物は、切り上げて、車に乗り名護教会に海岸線通りを通って向かう。30分ほど走ったところで、頃合いを見はからい、車を横の広いどこかの駐車場コンビニだったかな、止めた。

 スマホのグーグル検索で、SDA名護教会と検索し、カーナビに入力すると、意外にもナビは近くを教えるので驚いた。SDA名護教会は4年ほど前に、名護市街から、名護市宇茂佐に移転新築したのだったのを後から知った。

 カーナビ案内通りに、うまくやれればすぐ、到着できたはずだが、ナビが「目的地です、案内を終了します。」とアナウンスしても教会を見つけることが出来ず苦労した。実は目の前に教会があたのであるが、視線を妨げるような、ちょっと小高い丘の上にあったのでわからなかった。

 教会だから十字架の尖塔が立っていると、つい、八王子教会をイメージしてしまった。(十字架の尖塔は名護教会にはなかった)建物が斜面の上の方にあったので、つい見落としてしまった。

 三度ほどその前を行ったり来たりしてしまって、急いでいるのに、大変時間をロスしてしまった。11時半過ぎになってやっと、名護教会駐車場に着いた。

 その頃は、備瀬崎でも、そうであったが、晴れ渡り、直射日光が厳しく、風はあるのに暑く感じた。

 さて4年ほど前に新築された名護教会玄関を入ると、すぐに受付のお婆ちゃんが普通の大学ノート、縦罫線を何本か引いたところに、名前と住所欄があり、横一行使って、自分の名前住所を記入し、備考欄らしきところに八王子教会員であることを書いた。

 礼拝室に入る前に、トイレにより、身なりを整えた。

 さてチャペルに入ると、何と金城健祐先生の礼拝説教であった。彼は理事長までやった、沖縄の星であったが、そんな出世する前、沖縄から、彼が豊橋教会に赴任した時、私が岐阜にいて、少し話したこともあり、知らない仲ではなかった。

 金城健祐先生はずいぶんと、歳をとり、83歳?になったと言っていた。頭は、薄くなり、しかも真っ白であり、説教で発する言葉も何か発音が今一つ聞き取りずらかった。礼拝後、真ん中の通路を通って、入り口のドアの方に歩いてこられた時、後方の座席に座っていた、私に気付き、驚きの目をしていた。すぐ私の顔を思い出したのであろう、お互いのを顔を見て、久しぶりですと、お互いに声を掛け合った。ところで説教はナアマンの癒しのお話で、良いお話であったが、何十年か前に聞いたことがあったかも知れない。

 礼拝後、金城健祐先生と少し話をすることが出来たが、何か今日は三育中学校の方で三育小との、合唱か何かの打ち合わせがあるとかで急いでいるらしく、すぐお出かけになった。

 短いお話の中でも、老人ホーム、株式会社シャローム名護の設立に、中心となって尽力なさり、社会福祉法人でないので、SDAの信者をだれでも入れることが出来ると言っていた。彼は現在シャローム名護の代表取締役をしている。

 本土からも受け入れも可能と言うことであり、将来はお世話になるかも知れない?いつのこと?私はまだ69歳。

 金城健祐先生とお別れした後、名護教会の沖縄そばを、昼食に戴いた。Tさんと言う、古いしっかりとした、名護教会の主のようなお婆ちゃんが、私の話の相手をしてくださり、感謝であり、一人寂しく食事をするようなことはなかった。

 Tさんは、立川のSDA教団事務所に娘が勤めておられ、八王子教会の長老、Aさんを知っていた。首里に行かねばならないので、あまりゆっくりできない。

 沖縄そばをいただきながら、故 新垣三郎先生が健在で、昔の古い建物の名護教会の時、行ったことがある。新垣先生の名護の借家に泊まったことがある。そのころ沖縄教区事務所は、宜野湾の真栄原にあった。等々、昔話は尽きることがなかった。

 私は首里に行かねばならないので、早々にお暇して、念のためトイレへよって、挨拶して、名護教会を後にした。

 既に午前中、多分10時くらいには、石垣のYTさんから、私のスマホにショートメールが入っており、首里の赤田にある、Gと言う、STさんの入居している、介護施設の住所が判明していた。

 名護教会の駐車場で、車の窓を開け、社内の熱気を逃しながら(その時沖縄の陽射しはかなり強かった)もう手慣れたものとなったカーナビに向かい、住所を簡単に入力、出発した。

 58号線を通り、沖縄道の入り口までは、渋滞していた。首里まで時間はかなりかかった。

 名護教会を出たのが13時半前、首里に着いたのが15時半過ぎである。

 良く考えてみれば、今朝目が覚めたのは、安息日だと言うのに、午前4時頃だ。北部、本部半島を行ったり来たり、実際はかなり疲れており、高速で首里に向かって運転している途中、眠くなってしまった。コンビニはいくらでも途中あったので、眠気覚ましのガムでも買って、噛んでおけば良かった。今になって思うことだが、その時は思い至らず、自分で自分のほっぺたを、手のひらで、ピタピタ叩き、眠気を覚ましながら何とか運転した。

 さて首里で降りると、カーナビが案内する通り運転し、赤田信号の近く、老人ホームの前について、車のハザードを点灯させ止めた。2車線ではあったが、非常に交通量が激しい道路で、良く後続の車にぶつけられなかったなと、今思えばヒヤヒヤであった。老人ホームの前を通り過ぎたが、この施設は急坂の、斜面の途中に建設されており、どうしても降り口がわからない。そういえば、首里は坂道の多いところであることを思い出した。

 仕方がないので、2車線道路を少し下りながら、次の降りれそうな路地を探して、思い切って左折し細い下り急坂の道を降り始めた。でも施設は遠ざかるばかりで、施設の方には向かっていない道路であった。止むを得ず、降り切ったところで。十字路みたいな角を利用して車を方向転換、また登って、元の2車線道路に戻って、左折、大回りをして、さっき通過したばかりの、赤田の交差点に戻った。

 交差点から、すぐそばに下へ降りる入り口的路地があるのを思い出し、赤田の交差点左折後、すぐにその下へ向かっていく路地に向かって左折、急坂を降りて行くと、やっと施設の駐車場が見えてきて、そこに無事車を止めた。かなり苦労した15分ほどの時間であった。

 介護施設Gの玄関を入ると、すぐ男性職員がいたので、事情を説明し、STさんを呼んできていただいた。ちょっとぎこちない歩き方であったが、STさんが歩いてやってきた。「STさん、石垣でお世話になった、田中ですよ、お元気でしたか」と言うと、わかってくれたようだった。32年ぶりに会ったSTさんは、当時八重山教会で執事をしており、そのころの年齢は67歳で、某生命保険を一度退職後、まだ嘱託で、現役で働いておられた。私も石垣に居た1年間の間に、保険に加入してあげたこともあった。

 御歳99歳になり、本人もこんなに長生きするとは思っていなかったらしい。

私もとっくに亡くなられたと思っていたので、生きて元気なSTさんを見て、本当に感激した。

 裸眼で何でも見え、言葉もしっかり、声も大きく、頭もはっきりしており、少しも衰えていない。2人お子さんがおられたが、一人は海上自衛隊に入り、上の地位までなられたようだ。もう一人弟さんの方は、亡くなられたと知った。奥様はお料理上手で、そのころ故あって一人になってしまった私を、度々家庭に招き手料理をご馳走して下さった。しかし残念ながら5年ほど前にお亡くなりになったそうだ。

 どのような過程を経て、石垣から首里のこの介護施設に入居なさったかは、聞き漏らした。でも今神様から与えられている人生は、神様を証しする為だと考え、介護施設に入っている方々に、イエス様のことを語っているそうです。

 スマホを見て、私自身の家族、孫の写真を出して、見てもらった。最後にお祈りをお互いして別れた。とっても良いお祈りをしてくださった。私も彼のために祈った。いつまでも元気で長生きできるようにと。お別れに、「次は天国でまた、お会いしましょうね」と言われ、心にグッと、来てしまった。STさんと祈っていて、何か涙が出てきてしまった。

 会話の最後の方で、「ところで、あなた様のお名前はなんていう名前でしたっけ。」と真面目に聞くので、「田中です、田中清二です。」と答えた。その時やはり何と言っても99歳なんだなと思った。できたら、私何か、紙に、自分の名前くらい書いて、置いて来れば良かったと、今更ながら、気が付いた。

 とにかく本人が分かっていようといまいと、石垣で一番お世話になった方であるので、生きて元気な姿でお会いでき、当時どんなににお世話になったか、本人の前でお礼を言うことが出来て良かった。

 介護施設を出て、駐車場に車をそのままにして、グーグルマップを見ながら、首里城まで歩こうと思って、20分ほど、歩きまわったが。操作が悪かったのか、赤田の交差点あたりを、見当違いの方向に、ぐるぐる回ってしまったのと、既に時間は午後4時半近くになっていたので、首里城はあきらめ、駐車場に戻った。今日の宿泊先である、曙にある、ゲストハウスいちゃりばちょでーに向かった。後でKNさんに教えてもらったが、方言で、一度会ったら兄弟と言う意味であることを知った。(また首里城はこの後、同じ月の10/31日未明の火災で焼失したので、やはり見ておけばよかったと悔やまれる。)

 ゲストハウスいちゃりばちょでーの住所を入力をして、カーナビの案内通り運転する。途中ゲストハウスに、夜9時到着の当初の予定を早め夕方6時ごろ着くと電話し伝えた。ゲストハウスいちゃりばちょでーの近くまで来たとき、ふと見ると懐かしい、すき家の牛丼があったので、ゲストハウス着く前に、すき家の牛丼に、車停めて、チーズ牛丼を注文して食べた。お腹がとても空いていたので、美味しかった。すき家のすぐそばにゲストハウスいちゃりばちょでーはあったが、とにかく道路に面してはいるが、あまり大きな看板はなく、わかりずらいところだった。

 最初中国人らしい、受付のお兄さんと会ったが、そうこうしているうちに岡山出身の、親切なゲストハウスに住み込んでいる、管理人の、Kさん(後でわかる)が来て、取り敢えずの駐車スペースに車を止め、2階の結構広い部屋に案内された。音に弱いとメールをしておいたので、特別に取り扱っていただいたのだった。この点に関しては、翌日部屋を後にするとき、良くお礼を言っておいた。

 PC予約で先にカードで支払いは済んでいたので、Kさんは、部屋に案内される前に、1階で領収書を書いてすぐくれた。部屋の説明、鍵の返す説明、玄関ドアの開け閉めの説明、ちょっと複雑であったが、聞いて、その通り迷わずできた。

 疲れているので夜は早く寝たかったので、少し落ち着いてから、あまり部屋に長居せず、車をレンタカー会社に返しに行こうとして、必要な荷物だけを持って、カーナビにレンタカー会社の住所を入力して、出発した。

 オリックスレンタカー安次富店の住所が書いてあるパンフレットが車の中にあることは分かっていた。記憶していた運転席ドアの内側のサイドポケットにあると勘違いしていた。実際には後部座席に置いてあった。少しだけ焦った。かなり自分でも疲れているとわかる。

 それはそうだ、今日は大変な強行軍で、朝4時から起きているのだった。

 途中近くのガソリンスタンドでガソリン満タンにした。帰りはモノレールの駅から曙まで歩こうと考えて、何日か歩いていないのでそう考えたのが少し甘かったか。スタンドの店員に聞いても、はっきりした近くのモノレールの駅は分からなかった。「県庁前が近いよ」と言われたが?

 このGS前の、道の名前を聞いたが、それも分からなかった、「名前ないんじゃない」という情けない返事だった。

 ガソリン入れ終わり、とりあえずどんどん進んで行くと、泊大橋を渡ったようだった。そして、オリックスレンタカーに着いて車を返した。午後7時半くらいか。

 曙のゲストハウスまで歩いて帰るので、近くの小禄のモノレール駅までの道順を教えてもらった。近くに大きなイオンモールがある駅だった。結構な距離があった。どうも夜になって天候がいまいちで、雨は降っていなかったが、雲が出て、風が強く吹いていた。

 その頃、2019年10月12日土曜日と言えば、関東地方に台風19号が上陸し、死者90名以上を出す、千曲川、那珂川を始め数十の河川が氾濫する、大災害が起きていたのである。私はそんなこととは露知らず、呑気に。モノレール駅を目指して歩いていたのである。

 もちろん、八王子の家のことは心配であり、家内にはメールを入れたり、電話をしたりはしていた。関東のSDA教会は、この日の礼拝を教会に出ることはやめて、家庭礼拝をすることにしたそうである。19号は大変な雨台風であり、箱根で雨量1000ミリを超えて新記録が出たそうである。そんなことは後で、本土に帰ってから知ったこと。 

 モノレールも無事に乗れ(5分~10分間隔くらいで運転されていた)、牧志で降り、泊港を取り敢えず目指して歩き始めた。かなり歩いた後、何となく変な予感がしたので、ある空いている、クリーニング店だったと思うが、聞いてみると「反対の方向ですよ」と言われ、少し慌てた。海に向かってでなく内陸に向かって歩いていたのである。実はスマホの電池が後5パーセントになり、グーグルマップが使えなくなってしまったのだった。

 後はしょうがない。勘と、道路標識で歩く以外にしょうがない。安里の交差点に出て、浦添方面に歩いてしまったようなので、これは違うなとまた戻り、泊の方向を、あまりあてにならないお婆さんに聞き、どんどん歩いたが、曙は泊港よりかなり名護寄りであることわかっていたので、その点を頭に入れて、北寄りに歩いた。結局58号線に出てしまい。後はどこかで左折して、曙を目指すかだけだった。方行的には間違っていないのだが、ここで徒歩でゲストハウスいちゃりばちょでーに帰るのをあきらめた。

 58号線でタクシーを拾って乗った。「曙2丁目に行ってください。」と言うと、運転手はナビの地図を見て運転を始めた、58号線から、狭い路地に左折して入り、近道をし、曙4丁目に間もなく出た。 

 私が、記憶違いをして、ゲストハウスのそばに、牛丼の吉野家があったと言うと、運転手さん、指を振り上げ、「分かった、すき家でしょう、任してください」と言った。間もなくすき家の前に着き、先ほど食事をしたところなので、そこからはすぐ近くがゲストハウスだ。

 すき家の前で降ろしてもらった。かなり近くには来ていたのだった。

 運転手さんは面白い人で、私が「牧志から歩いてきた。」と言うとかなり距離があるので、驚いていた。

 私が「東京の八王子から来た。」と言うと「八王子と沖縄は近いさ。」と冗談を言う。話をしていてその理由がわかってきた。彼は東京府中で、タクシー会社で働いていたこともあり、京王線を知っていた。また高尾山に行ったこともあるらしかった。私が八王子出身で、良く高尾山にも京王線を利用して登っていることも話した。

 今から思うと、何か、総て神の導きを感じる旅であった。台風19号が八王子の家に被害を与えないように、どれほど祈ったことか。祈りが答えられ何も被害はなかった。八王子では、JR高尾の駅の近くの、国道20号で、浅川が溢れ、少し冠水があったみたいだ。

 木曜日10日に沖縄に来たが、その時は飛行機は正常に飛んでいた。もし2日早く、ずれて、台風が来ていたら、私は沖縄に来れないところだった。

 また、帰りは15日火曜日だったので、台風はとっくに過ぎ去り、飛行機は正常運航していて、無事に帰ることが出来た。2か月前に航空券も、ゲストハウス、ペンションすべてPCで予約してあったので、これは本当に神の導き以外に考えられない。

 この日程に、台風がぶつからないように、ずいぶん祈ってきた。

 すべて神の導きにより、大過なく無事に、予定通り、いやそれ以上に色々な人に会うことが出来た。無事に、無事故で帰って来ることも出来た。すべて御名に栄光と感謝を帰します。

 さて、やっとの思いでゲストハウスいちゃりばちょでーの部屋にたどり着いたのは、もう夜9時を過ぎたころだろうか。如何にせよ、疲れたので、部屋にある大きなWベッドに、そのまま横になっているうちにウトウトしてしまった。しかしその間中、隣の共用リビングで、中国人の一人の青年が、大きな声で、遠慮なく、携帯電話を、もちろん、中国語でしゃべっている。自分の部屋で電話すればいいのに。たぶん部屋が狭くて、共用のリビングルームの方が、大きなテーブルがあって、椅子も何脚か備え付けてあり、持ち込んだり、自分で料理したり、食事もできるようになっているので、広くて快適なのだろう。電話しやすいのだろうか。

 壁は薄く、声が筒抜けなので、これは困ったぞ、彼はいつまで話し続けるのだろうかと思っていたら、電話が終わり、自分の部屋に帰りホッとした。そうだ、シャワーを浴びて寝てしまおうと思い、リビングを通って、シャワールームに行き、ドアを開けると、なんとその青年が使用中であった。「ごめんなさい」と謝って、すぐドアを閉めた。また部屋に帰り30分ほどTVを見たりした後(台風19号の被害が気になっていた)、やっと空いた、シャワールームに入り、シャワーを浴びて部屋に戻って寝た。疲れていたので、先ほどのウトウト眠りには関係なく、すぐ眠りに就いた。

     

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